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『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(3、増補版)――小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

三、小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

林房雄の「浪曼主義のために」を論じた昭和11年の短文で、「彼のカンだけは、非常に実際的であり、いつも間違ひなく的の真中に当たっている」と評価した評論家の小林秀雄は、上海事変が勃発した昭和7(1932)に書いた評論「現代文学の不安」では、「多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書き、芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していました。

一方、『若き日の詩人たちの肖像』でも「不意に、芥川龍之介の遺書である『或旧友へ送る手記』のことを思い出して勃然たる怒りを感じた」と書かれています。しかし、モデルの一人で作家の中村真一郎は、堀田が「日本文学の壊滅状態のなかで」、「特に芥川と宇野浩二を熱心に読んでいた」ことを記しています(『芥川龍之介』)。この長編小説では芥川の遺児で・俳優、演出家でもあった比呂志との交友も描かれていることを考慮するならば、一見、自殺した芥川が厳しく批判されているかのようにも見える先の文章には、尊敬していた作家が自殺したことへの無念の思いが込められていると思えます。

さらに、島崎藤村が長編小説『春』では明治の『文学界』の同人たちとの交友をとおして、自殺に至るまでの透谷の歩みを詳しく描いていたことを考慮すると、若き詩人たちとの交友が描かれているこの長編小説で芥川にも言及していることには、長編小説『春』の記述を踏まえつつ、芥川の自殺を残念に思った堀田善衞がこの問題を真剣に考察していたことが強く感じられるのです。

『若き日の詩人たちの肖像』には北村透谷や島崎藤村についての言及はありませんが、司馬遼太郎や宮崎駿との鼎談で堀田は、「『この国』という言葉遣いは私は島崎藤村から学んだのですけど、藤村に一度だけ会ったことがある。あの人は、戦争をしている日本のことを『この国は、この国は』と言うんだ」と語っていました(『時代の風音』)。この発言からは法律や差別などの問題にも留意しながら『罪と罰』を深く研究した上で『破戒』を著わしていた藤村への敬意が感じられます。

さらに藤村は「祭政一致」を求めて、「神祇官」を設けて廃仏毀釈運動を行った「復古神道」を信じた自分の父親の悲劇的な死を『夜明け前』で描いていましたが、受験のために上京した主人公が翌日に2・26事件と遭遇するところから始まりまる『若き日の詩人たちの肖像』の終わり近くで堀田は、登場人物に「国粋攘夷思想」を唱えた復古神道をこう批判させています。

「復古神道はキリスト教にある、愛の思想ね、キリストの愛による救済、神の子であるキリストの犠牲による救済という思想が、この肝心なものがすっぽり抜けているんだ。汝、殺すなかれ、が、ね」。

 一方、真珠湾攻撃の翌年の昭和17年に『英雄と祭典 ドストエフスキイ論』を発行した堀場正夫は、「序にかへて」の冒頭で、日中戦争の発端となった盧溝橋事件を賛美して、「今では隔世の感があるのだが、昭和十二年七月のあの歴史的な日を迎へる直前の低調な散文的平和時代は、青年にとつて実に忌むべき悪夢時代であつた」と書き、その後で『罪と罰』から受けた印象と2・26事件をこう結び付けてこう記していました。

すなわち、その前夜にポルフィーリイとの激しい議論でラスコーリニコフが、ナポレオンのような「非凡人」は「「たしかに肉体でなくて青銅で出来てゐるに違ひない」と絶叫するに至るあの異様に緊張した場面」を読んでいたと記した堀場は、事件の朝について「白雪におほはれた東京の街は、ただならぬ緊張の中におかれたのである」と書き、「近代の長い夜はこの日から少しづつ白みそめたといつたら間違ひであらうか」と続けていました。

このような記述からは『英雄と祭典』が小林秀雄のドストエフスキー論から強い影響を受けていると思われます。なぜならば小林秀雄は、小林多喜二が拷問で獄死した翌年、「天皇機関説」事件で「立憲主義」が崩壊する前年の昭和9年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、ラスコーリニコフについて「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と記していました。

そして、太平洋戦争が始まる前年の9月にヒトラーの『我が闘争』の書評を「朝日新聞」に書いた小林秀雄は、『文學界』の10月号に掲載された鼎談「英雄を語る」では、ナポレオンを「英雄」としたばかりでなくヒトラーも「小英雄」と呼び、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語り、「暴力の無い所に英雄は無いよ」と続けていたのです(『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』、183頁)

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社

さらに、「殺すなかれ」という理念を説いていたムィシキンについても「スイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」と解釈した小林は、罪の意識のなかったラスコーリニコフと結び付けつつ、ムィシキンをも「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」と見なして、「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と『白痴』の結末について記していたのです。

テキストの記述からも大きく逸脱した小林のこのような解釈は、真珠湾攻撃のⅠ年後に彼が日本文学報国会評論随筆部会常任理事に就任していることに留意するならば、昭和6年の満州事件以降、戦争の拡大の危険性が増していた当時の状況を踏まえて政府や軍部に忖度したものだったと言えるでしょう。

 一方、真珠湾攻撃の話題の後で、「学校へも行かず、外出もせず、課された鈍痛は我慢をすることにし」、部屋にとじこもってドストエフスキーの『白痴』を読み続けた若者が、ムィシキンを外国からロシアに「入った」」、「天使のような」人物と読み解いていることは、小林秀雄の『白痴』解釈に対する厳しい批判が秘められていると思われるのです。(「堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって」参照)。

(2019年4月26日、改訂)

 

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(2)――「海ゆかば」の精神と主人公

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(2、加筆版)――「海ゆかば」の精神と主人公

二、「海ゆかば」の精神と主人公

『若き日の詩人たちの肖像』では真珠湾攻撃についての感想の前に二・二六事件が起きた昭和11年に『英雄と詩人 文藝評論集』を出版し、その翌年には自殺した北村透谷を顕彰する「透谷会」を、「日本浪曼派」の同人たちとともに設立していた保田與重郎の原稿の校正をしていた時の主人公の失敗がこう記されていました。

「原稿に〝精神性“とあるものが、ゲラでは〝精神病〃となって出て来た。若者は、この保田という人の、言語を拷問(ごうもん)にかけたような、しかもこれこそが上方風で、純正な日本文なのだ、といわぬばかりな日本語が、どうにも我慢がならなかった。(……)あげく、ぐっと我慢をして、”精神病〟のままでゲラをおろした。翌月、保田与重郎は編輯部へ怒鳴り込んで来た。若者は、当然編輯の人に怒鳴りつけられた。が、平気だった。」

若き日の詩人たちの肖像 下 (集英社文庫)(集英社文庫)

この記述からは「教育勅語」に記された古い「忠孝」の理念の厳しい批判をしていた北村透谷を「日本ロマン派」に取り込むような動きをする一方で、『戴冠詩人の御一人者』(1938)、『後鳥羽院-日本文學の源流と傳統』(1939)などを相次いで発表し、小林秀雄と並ぶような人気を若者たちから得ていた保田與重郎に対する激しい反発が感じられます。

しかも、「若者が、自分の身について家からうけたと自信している日本的教養にてらしてみても、我慢がならなかった」と書いていた堀田は、「保田与重郎が芭蕉についての論を書いてみせたとき、若者は、そのへんに捩(ね)じ曲がった形而上学の展開を面白いと思い、独特な才があるとは思いながらも、心底では何を大袈裟なことを言いやがると、思っていた」とも記しています。

実は、『若き日の詩人たちの肖像』でも記されているように高岡市の伏木港で江戸時代から廻船問屋を営んでいた彼の生家は、「もともと吉野の出で、南朝の壊滅後に、仕方がなくて皇子の一人をかかえ、よんどころなく北陸に逃れ」たという歴史があり、芭蕉が旅をした際には懇意の廻船問屋に世話になっていたのです。

一方、保田は太平洋戦争の勃発後に著した『萬葉集の精神-その成立と大伴家持』(1942)では、武門の出であった大伴家持の悲劇的な生涯を論じていましたが、越中守に任ぜられたときに家持は高岡でも多くの歌を詠んでいました。

長歌・短歌など合計473首が『万葉集』に収められている大伴家持には長歌「賀陸奥国出金詔書歌」があり、そのなかの国民歌謡として有名な「海行かば」は、「海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草の生す屍となって、大君のお足元にこそ死のう。後ろを振り返ることはしない」という意味の歌詞で、天皇への忠誠を歌っていたのです。

それゆえ、橋川文三が書いているように、「保田の説くことがらの究極的様相を感じとり、古事記をいだいてただ南海のジャングルに腐らんした屍となることを熱望」するような若者も出ていました。

『若き日の詩人たちの肖像』の終わり近くでは、傘をさして樹陰のベンチにいた主人公が、競技場からは「吹奏楽をともなった男女の大合唱による、荘厳な『海行かば』」が流れてくるのを聴く場面をとおして、「カミカゼ」の名で「死」を美化するようになる当時の傾向が詳しく描かれています。

しばらくして競技場の入口あたりから出て来た行進が学生たちのものであり、「これが出陣学徒壮行大会であったこと」に主人公が気付いたと記した作者は、「行進して行く学生たちは、いずれもみな唇を噛み、顔面蒼白に、緊張をしている、と見えた。法文系は一切廃止されてしまい、全部が全部、丙種不合格までが一斉に十二月一日に入営することになったのである。男の眼に泪が溢れてくる」と描き、こう続けています。

「お召しだのなんだのという美辞麗句を弄して駆り出して、いったい日本をどうしようというのだ、という、どこへもぶっつけようのない怒りがこみあげて来る。」

学徒出陣

出陣学徒壮行会(1943年10月21日、出典は「ウィキペディア」)

 盛大な「学徒出陣式」に遭遇した主人公の感想からは、「死」を美化する傾向のあった「日本浪曼派」に対する堀田の厳しい視線が感じられるのです。

(2019年4月28日、加筆し写真を追加)

 

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

はじめに、『若き日の詩人たちの肖像』の時代の「祝典的な時空」

自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』では大学受験のために上京した翌日に「昭和維新」を目指した将校たちによる昭和11(1936)年の二・二六事件に遭遇した主人公が「赤紙」で召集されるまでの重く暗い日々が若い詩人たちとの交友をとおして克明に描かれています。

しかし、この時期には「祝典的な時空」という華やかな側面もありました。すなわち、「天皇機関説」事件が起きた昭和10年には神武天皇の即位を記念する「祝典準備委員会」が発足し、前著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機』でふれたように、それから5年後の昭和15年には、「内務省神社局」が「神祇院」に昇格して、「皇紀(神武天皇即位紀元)2600年」の祝典が盛大に催されたのです。

(出典は「「ウィキペディア」)

皇紀の末尾数字を取ってゼロ戦と名付けられた戦闘機などによる真珠湾攻撃の大戦果などを踏まえて、「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と見なした堀場正夫は、昭和17年に出版したドストエフスキー論に『英雄と祭典』という題名つけましたが、それはこの著がそのような祝典的な雰囲気の中で著わされていたことをも物語っているでしょう。

評論家の橋川文三は『日本浪曼派批判序説』で保田與重郎と小林秀雄とが、「戦争のイデオローグとしてもっともユニークな存在で」(太字は原文では傍点)あり、「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」ことに注意を促し、「私が『耽美的パトリオティズム』と名づけたものの精神構造と、政治との関係が改めてとわれねばならない」と記しています。

それゆえ、ここではまず『若き日の詩人たちの肖像』の複雑な構造に迫る前に主人公の視線をとおしてこの時代の雰囲気を概観することで、この長編小説における「耽美的パトリオティズム」の批判の一端に迫りたいと思います(本稿では、敬称と注を略した)。

日本浪曼派批判序説 (講談社文芸文庫)(書影は「アマゾン」より)

一、真珠湾の二つの光景

長編小説『若き日の詩人たちの肖像』では、昭和16年12月に行われた真珠湾攻撃の成果を知った主人公が「ひそかにこういう大計画を練り、それを緻密に遂行し、かくてどんな戦争の歴史にもない大戦果をあげた人たちは、まことに、信じかねるほどの、神のようにも偉いものに見えた」と感じたと書かれています。

しかし、それに続いて「それは掛値なしにその通りであったが、そこに、特殊潜航艇による特別攻撃というものが、ともなっていた」ことについては、「腹にこたえる鈍痛を感じていた」と記した作者は、軍神に祭られても「親御さんたちゃ、切ないぞいね」という一緒に住むお婆さんの言葉も記しているのです。

しかも、年が明けて1月になり主人公の仲間の詩人たちのなかからも次々と入営し、召集されるものが出てきたことを記した著者は、「非常に多くの文学者や評論家たちが、息せき切ってそれ(引用者註――戦争)を所有しようと努力していることもなんとも不思議であった」という主人公の思いを記していますが、この批判は文芸評論家の小林秀雄にも向けられていると思えます。

なぜならば、「文藝春秋社で、宣戦の御詔勅捧読の放送を拝聴した」時に、「僕等は皆頭を垂れ、直立してゐた。眼頭は熱し、心は静かであつた。畏多い事ながら、僕は拝聴してゐて、比類のない美しさを感じた。やはり僕等には、日本国民であるといふ自信が一番大きく強いのだ 」と「三つの放送」で書いた小林は、元旦の新聞に掲載された真珠湾攻撃の航空写真を見た印象を「戦争と平和」というエッセーでこう記していたからです。

「空は美しく晴れ、眼の下には広々と海が輝いていた。漁船が行く、藍色の海の面に白い水脈を曵いて。さうだ、漁船の代りに魚雷が走れば、あれは雷跡だ、といふ事になるのだ。海水は同じ様に運動し、同じ様に美しく見えるであらう。さういふふとした思ひ付きが、まるで藍色の僕の頭に眞つ白な水脈を曵く様に鮮やかに浮かんだ。真珠湾に輝いていたのもあの同じ太陽なのだし、あの同じ冷たい青い塩辛い水が、魚雷の命中により、嘗て物理学者が子細に観察したそのままの波紋を作つて拡がつたのだ。そしてさういふ光景は、爆撃機上の勇士達の眼にも美しいと映らなかつた筈はあるまい。いや、雑念邪念を拭い去つた彼等の心には、あるが儘の光や海の姿は、沁み付く様に美しく映つたに違ひない。」

そして、「冩眞は、次第に本当の意味を僕に打ち明ける様に見えた。何もかもはつきりしているのではないか」と書いた小林は、トルストイの『戦争と平和』にも言及しながら、「戰は好戰派といふ様な人間が居るから起こるのではない。人生がもともと戰だから起こるのである」と結んでいたのです。

 ここには写真には写っていない特殊潜航艇に乗り込んで特攻した乗組員の心理も考察している『若き日の詩人たちの肖像』の主人公の視点と、海の底に沈んだ特殊潜航艇のことには触れずに航空写真を見ながら「爆撃機上の勇士達」の気分で戦争を描いた小林との違いが明確に出ていると思えます。(続く)

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(2、加筆版)――「海ゆかば」の精神と主人公

(3、増補版)小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

(4)「昭和維新」の考察と「明治百年記念式典」

(5)『方丈記』の再発見と「死の美学」の克服

(6)「臨時召集令状」と「万世一系の国体」の実体

          (2019年4月21日、改訂。6月14日、リンク先を追加)

堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって

二〇一八年が生誕百周年に当たっていた堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』(一九六八年)は、大学受験のために上京した翌日に二・二六事件に遭遇した主人公が、「赤紙」によって召集されるまでの暗く重い日々を若き詩人たちとの交友をとおして克明に描き出している。

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

注目したいのはその第一部のエピグラフには「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた」(米川正夫訳)という言葉で始まるドストエフスキーの『白夜』の文章が置かれていることである。

第一部の終わり近くではラジオから流れてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説から「異様な衝撃」と「明らかにある種の脅迫」を感じた主人公は、続いて流れてきた「フランスのただの流行歌(シャンソン)」に「異様な感銘」を受け、「異様なことに、いますぐ何かをしなければならぬ」と思って背広を着て外に出る(引用は集英社文庫より、巻数は上下で、頁数は漢数字で示す)。

そして、「空には秋の星々がガンガンガラガラに輝いていた」のを見て、「若者は、星を見上げて、つい近頃に読んだある小説の書き出しのところを思い出しながら、坂を下りて行った」と書き、『白夜』の冒頭の文章を引用した堀田は、「小説は、二十七歳のときのドストエフスキーが書いたものの、その書き出しのところであった」と説明している(上・一一五~一一七)。

こうして、「いますぐ何かをしなければならぬ」と考えた主人公は、かなり習熟していたドイツ語を捨てて、開戦直前に法学部政治学科から当時は敵性言語とされたフランス語を学んで仏文科に転科している。このことについてフランス文学者の鹿島茂は、当時は「それだけが唯一の抵抗」ということだっただろうと書いている(『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』集英社新書)。『白夜』のエピソードは主人公の生涯の転機となる決断とも深くかかわっていたのである。

ドストエフスキーは『白夜』を書いた後で、オーストリア帝国の要請によるハンガリー出兵の前に起きたペトラシェフスキー事件で逮捕されていた。そのことに注目するならば、ここで堀田が主人公の呼び方を「少年」から「若者」に変えているのは、危険な文書の所持で逮捕され、召集令状で戦場へと駆り出されることになる主人公の運命をも示唆していると思える。

実際、『若き日の詩人たちの肖像』では「物品のように」「どさりと淀橋署の留置場へ放り込まれ」、そこで一三日間拘留されたあとで若者に「皇国史観」を説教した人物について、「『罪と罰』に出て来る素晴らしく頭がよくて、読んでいる当方までが頭がよくなるように思われるあの検事のことがちらと頭をかすめた」と記されているのである(上・一七〇)。

この長編小説に登場する「詩人たち」のモデルの一人である作家の福永武彦を父に持つ池澤夏樹は、「プロレタリア文学の人たちもつぶされて」しまった後の時代は、他の作家の小説ではほとんど描かれていないのに対して、「慶応仏文科」や「荒地」、「マチネ・ポエティク」などさまざまなグループの詩人たちの「たくさんの仲間が捕まり、拷問され、殺される」ことが頻繁に起きていたこの時代のことを『若き日の詩人たちの肖像』が描いていることの意義を指摘している。

注目したいのは、この長編小説の中頃で「詩人兼小説家の人」である堀辰雄をモデルとした「成宗の先生」が住んでいる「その家の書斎にも灯がついている」のを見た後で、再び『白夜』の冒頭の句を「口のなかでとなえて」みた若者が、『白夜』の主人公とムィシキンとの精神的な連続性に注意を促していることである。

すなわち、「こういう文章こそ若くなければ書けなかったものだったろう、と気付いた。二十七歳のドストエフスキーは、カラマーゾフでもラスコルニコフでもまだまだなかったのだ」と最初は感じた若者は、その後で「けれども、この文章ならば、あるときのムイシュキン公爵の口から出て、それを若者が自分の耳で直接公爵から聞くとしても、そう不思議でも不自然でもないだろう……」と続けているのである(上・三一一~三一二)。

さらに、「成宗の先生」と出会って立ち話をしていた際に、特高刑事の目つきから「殺意に燃えたラゴージンの眼」を思い出して、「ほとんどうわの空」で「謎」のような言葉を語っていた(下・八三)。

「ランボオとドストエフスキーは同じですね。ランボオは出て行き、ドストエフスキーは入って来る。同じですね」。

この記述だけではその意味は分からないが、堀田が戦争の時代に急いで書き上げた卒論で、「ランボオとドストエフスキー作『白痴』の主人公ムイシュキン公爵とを並べてこの世に於ける聖なるもの」を考察していたことに注目するならば、この言葉が主人公の全存在にも関わるような重みをもっていることは確かだろう。

その後で堀田は主人公の若者にとってのムィシキンの意味を、部屋に閉じこもって『白痴』を読みつづけた若者の感想をとおして明らかにしている。長編小説『白痴』に対する作者の強い愛着も示されているので、少し長くなるが引用しておきたい(下・九三~一〇一)。

「学校へも行かず、外出もせず、課された鈍痛は我慢をすることにし、若者はとじこもって本を読みつづけた。ドストエフスキーの『白痴』は、何度読んでも、大きな渦巻きのなかへ頭から巻き込むようにして若者を巻き込み、ときには、その大渦巻きの、回転する水の壁が見えるように思い、エドガー・ポオの大渦巻き(メイルストローム)さえが垣間見えるかと思うことさえあった。とりわけて、その冒頭が若者の思考や感情の全体を占めていた。/――なるほど! 絶対の不可能を可能にするには、こうすればいいのか!/と」。

そして、「その冒頭の三頁ほどを、毎日毎日読みかえした。古本屋で買った英訳と、白柳君に借りた仏訳の双方があったので、米川正夫訳と三冊の本を対照しながら読み返してみていた」と書いた堀田は『白痴』冒頭の記述を引用している(表記は現代の表記に改めた)。

「十一月下旬のこと、珍しく暖かいとある朝の九時頃、ペテルブルグ・ワルシャワ鉄道の一列車は、全速力を出してペテルブルグに近づきつつあった。空気は湿って霧深く、夜は辛うじて明け放れたように思われた。汽車の窓からは右も左も十歩の外は一物も見分けることが出来なかった。旅客の中には多少外国帰りの人もあったが、それよりも寧ろ余り遠からぬ所から乗って来た小商人(こあきんど)連の多い三等車が一番こんでいた。こんな場合の常として、誰も彼も疲れ切って、一晩の中に重くなった目をどんよりさせ、体のしんまで凍(こご)えきっていた。どの顔もどの顔も霧の色にまぎれて蒼黒く見える」。

この文章について、「あのロシアの平べったい平原の、ところどころに森や林や広大な水たまりなどのあるところを、汽車がひた走りに走って行く、その走り方のリズムのようなものが、この文章に乗って来ていることが、じかに肌に感じられる」と記した堀田は、ドストエフスキーが主人公のムィシキンをこう描写していることに注意を促している。

「とある三等の窓近く、夜明け頃から二人の旅客が、膝と膝を突き合わせて、腰掛けていた。どちらも若い人で、どちらも身軽げなおごらぬ扮装(いでたち)。どちらもかなり特徴のある顔形をしていて、どちらも互に話でも始めたい様子であった(……)向いの席の相客は、思いもかけなかったらしい湿っぽい露西亜の十一月の夜のきびしさを、顫(ふる)える背に押しこたえねばならなかったのである」。

この後で、「天使のような人物を、ロシアという現実のなかへ、人間の劇のなかへつれ込むのに、汽車という、当時としての新奇なものに乗せた、あるいは乗せなければなかった、そこに、ある痛切な、人間の悲惨と滑稽がすでに読みとられるのである」と書いた堀田は、「この不自由で限りのある人間の世界というものについての、刺すような悲しみが若者に取りついていた」と続けている。

ことに、「たとえ小説の中でも羽根をつけて飛んで来るわけには行かないから、天使は、(……)外国、すなわち外界から汽車にでも乗せて入って来ざるをえないのだ」(傍点は著者)という文章は、堀田がこの長編小説を正確に読み解いていることを物語っているだろう。なぜならば、スイスでの治療をほぼ終えたムィシキン公爵が混沌としている祖国に帰国する決意をしたのは、母方の親戚の莫大な遺産を相続したとの知らせに接したためだったからである。

ドストエフスキーは小説の冒頭で思いがけず莫大な遺産を相続したムィシキンとロゴージンの共通点を描くとともに、その財産をロシアの困窮した人々の救済のために用いようとした主人公と、その大金で愛する女性を所有しようとしたロゴージンとの友情と対立をとおして、彼らの悲劇にいたる帝政ロシアの社会問題を浮き彫りにしていた。

そして、「小説を読み通して行って、その終末にいたって、天使はやはり人間の世界には住みつけないで、ふたたび外国の、外界であるスイスの癲狂院へもどらざるをえないのである」と記した堀田は、「白痴、というと何やら聞えはいいかもしれないが、天使は、人間としてはやはりバカであり阿呆でなければ、不可能、なのであった」と続けた後で、若者が「成宗の先生」に語った「謎」のような言葉の意味をこう説明していた。

「左様――ムイシュキン公爵は汽車に乗って入って来たが、ランボオは、詩から、その自由のある筈の詩の世界を捨てて出て行ってしまい、おまけに生まれのヨーロッパからさえも出て行ってしまった、というのが、若者が成宗の先生に言ったことの、その真意であった」。

実は、二〇〇七年に上梓した拙著 『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』でも、「昭和初期」の時代を描いた『若き日の詩人たちの肖像』と『白夜』との比較を行っていた。だが、ムィシキンが「外界」から「入って」来たことに傍点をつけて注意を促しているこの文章が、「天皇機関説」事件で「立憲主義」が崩壊する前年の一九三四年の『白痴』論で、「ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」という解釈をした小林秀雄を強く念頭に置いて書かれていた可能性に気付いたのは、『黒澤明で「白痴」を読み解く』を書いていた時のことであった(同書、一八九頁)。

『黒澤明で「白痴」を読み解く』大

「しかしなんにしてもド氏の小説は面白い、面白くてやり切れなかった。とりわけて、ド氏が小説というものの枠やルールを無視して勝手至極なことをやらかしてくれるところが面白かった」と書いた堀田は、「『白痴』はその終末で若者に泪を流させた」と続けて、結末の異常性を強調した小林秀雄とは正反対の解釈を記していたのである。

ド ストエフスキー作品との関連で興味深いのは、堀田がその直後に「これも二度目か三度目のくりかえしにかかった『悪霊』の方は、ところどころ爆笑させられるようなシーンがあって面白かった」と書き、出産の手助けを求められたキリーロフが「僕はお産をすることが下手でね」と語る場面を紹介していることである(下・一〇一)。

『白痴』論から『悪霊』論への移行は唐突のようにも感じられるが、若者がスタヴローギンについて「天使ムィシキン公爵の逆の極みである、絶世の怪物、悪魔である」と規定していることに留意するならば、この文章も一九三七年の『悪霊』論で「スタヴロオギンは、ムイシュキンに非常によく似てゐる、と言つたら不注意な読者は訝るかも知れないが、二人は同じ作者の精神の沙漠を歩く双生児だ」と書いていた小林を強く意識していることが感じられる。

堀田が記した『悪霊』論はこれが最初ではなく、日米安全保障条約の改定に反対する世論が盛り上がり、大規模なデモが行われていた時期を背景にした長編小説『審判』(一九六三年)でも、出産を迎えた被爆者の女子学生との関連でより詳しく記されていた。

しかもこの長編小説では原爆パイロットをモデルとした人物が重要な役割を演じているが、一九六二年には原爆の非人道性を知って自分を犯罪者と見なすようになり、精神病院に収容されたイーザリー少佐の往復書簡の翻訳が『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(篠原正瑛訳、筑摩書房)と題されて発行されていた。

ヒロシマわが罪と罰―原爆パイロットの苦悩の手紙 (ちくま文庫)(書影は「アマゾン」より)

そのことを考慮するならば、『悪霊』にも言及していた長編小説『審判』には、湯川秀樹博士との対談では原爆を産み出した「技術」の問題を「道義心」の視点から厳しく批判しながら、その後は核問題について沈黙し、「ヒットラーと悪魔」では『悪霊』にも言及しながら戦時中に書いた『我が闘争』の書評を引用していた小林秀雄の科学観や歴史観への強い批判が込められていたと思われる。

一方、『若き日の詩人たちの肖像』の第四部では兵隊検査の終わった主人公の呼び方が「男」となり、『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の話に凝っていたアリョーシャというあだ名の若者が「惟道(かんながら)の道」を説くようになり、アッツ島玉砕の報道が入った時には軍神たちを侮辱したとして妻を激しく殴りつけたことが描かれている。

召集令状が来たことを知らせる実家からの電報が届いて「警察で殺されるよりも、軍隊の方がまだまし」と感じた主人公の男は、『白夜』の文章についてこう記している(下・三八九)。

「郵便局からの帰りに空を仰いでみると、冬近い空にはお星様ががらがらに輝いていたが、そういう星空を見るといつも思い出す、二十七歳のときのドストエフスキーの文章のことも、別段に感動を誘うということもなかった」。

この長編小説は出兵前に故郷に帰って北の海を見た男の厳しい感慨で結ばれている。「鉛色の北の海には、男がこれまでに耳にしたありとあらゆる音楽の交響を高鳴らせてどうどうと寄せて来ていた。それだけで、充分であった」。

  *   *   *

私的なことになるが、大学に入ってからドストエフスキーの初期作品の重要性だけでなく、日露の近代化の比較というテーマを研究することの必要性を強く感じたのは、堀田善衞のこの作品と出会ったことが大きな一因となっていた。

この作品を論じたフランス文学者の鹿島も「自分と全く違うものを学ぶということは、比較が可能になるということです」と書き、「比較を進めることによって、逆に、自分とは何かが分かってくる。あるいは、自分たちと比較することによって、他者が分かってくる」と指摘している。

この作品では「戦争に至る大変暗い時代」が如実に書かれていると指摘した池澤も、同じ『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』(集英社新書)に収められた論考で「この作品は、自分のものの考え方、思想を支えてくれる大きな柱となっています」と続けている。

近著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(成文社)では、『若き日の詩人たちの肖像』については、「復古神道」との関連で少しだけ触れた。昨今の日本はますます昭和初期の暗い時代に似てきているので、その厳しい時代を生き抜いた若者を主人公とした堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』を本格的に考察する著作を書きたいと思っている。(本稿では敬称は略した)。

(『ドストエーフスキイ広場』第28号、2019年、121~127頁、12月6日、一部削除)

ドストエーフスキイの会、第50回総会と251回例会(報告者:高橋誠一郎)のご案内

第50回総会と251回例会のご案内を「ドストエーフスキイの会」のホームページより転載します。

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第50回総会と251回例会のご案内

   下記の要領で総会と例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

 日 時2019518日(土)午後1時30分~5時

場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車徒歩7分)   ℡:03-3402-7854 

総会:午後130分から40分程度、終わり次第に例会

議題:活動・会計報告、運営体制、活動計画、予算案など

例会報告者:高橋誠一郎氏

題 目: 堀田善衛のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に

      *会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:高橋誠一郎(たかはし せいいちろう

東海大学教授を経て、現在は桜美林大学非常勤講師。世界文学会、日本比較文学会、日本ロシア文学会などの会員。研究テーマ:日露の近代化と文学作品の比較。著書に『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』、『黒澤明と小林秀雄』など。近著に『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(会員と例会出席者には送料無料、税抜きで頒布、申し込みは→info@seibunsha.net)。

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社 

 

第251回例会報告要旨

堀田善衞のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に

堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』は、大学受験のために上京した翌日に「昭和維新」を目指した将校たちによる二・二六事件に遭遇した主人公が、「赤紙」によって召集されるまでの暗く重い日々を若き詩人たちとの交友をとおして克明に描き出しています。

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

その第一部の題辞ではペトラシェフスキー事件で逮捕されてシベリア流刑になるドストエフスキーが書いた『白夜』冒頭の文章が引用されています。しかも、この長編小説で堀田は『白夜』ばかりでなく、『罪と罰』や『白痴』、『悪霊』などについての考察をも行っているのです(『ドストエーフスキイ広場』第28号、「堀田善衞の『白痴』観」参照)。

前回の例会で福井勝也氏はアニメ映画の世界的巨匠である宮崎駿氏の言葉を引用しながら、「堀田は日本では珍しい世界文学者のタイプであって、これから評価が高まる作家」と位置付け、「白夜について」(1970)も堀田が自覚的に自分は『白夜』の主人公さながらにフラニョール(遊歩者)であることを表明し、ドストエフスキーのフェリエトニスト的側面に関心を持っていたらしいと指摘しました。

これらの指摘に私も全面的に賛成です。なぜらば、『若き日の詩人たちの肖像』で戦争末期の「学徒動員」を厳しく批判しつつ、「鴨長明がルポルタージュをしていたような事態が刻々に近づきつつあるように予感される。『方丈記』は実にリアリズムの極を行く、壮烈なルポルタージュであった」と記した堀田は、『方丈記私記』で鴨長明について「心よりもからだの方が先に身を起こし、足の方から歩き出してしまう行動人」と規定しているように、『白夜』への関心は『方丈記』につながっているからです。

さらに、私は堀辰雄の小説『風立ちぬ』や『菜穂子』などを組み込んだ宮崎駿監督のアニメ映画《風立ちぬ》には、同時代を描いた堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』からの強い影響がみられると考えています。このアニメではナチス・ドイツの秘密警察についても描かれていることも、ゲッベルス宣伝相の暴力的な演説の後に『白夜』冒頭の文章が対置されているこの長編小説の構造と深く関わっているでしょう。

この映画で描かれている関東大震災の直後に発生した火事の広がりの圧倒的な描写も、『方丈記私記』で描かれている東京大空襲後の烈風による「合流火災」の記述から影響を受けていると思えます。

それとともに注目したいのは、『罪と罰』の人物体系を深く研究して『破戒』を書いた島崎藤村が、長編小説『春』で自殺に至る北村透谷の苦悩や考察を詳しく描いていたのと同じように、『若き日の詩人たちの肖像』では芥川龍之介の自殺についての考察が、慶応仏文グループの芥川比呂志との交友などをとおして何度も行われていることです。

さらに、この長編小説では「マチネ・ポエティクス」のグループの詩人たちとの交友も描かれていますが、堀田はその一員であった福永武彦や中村真一郎の三人で、核実験場とされた島から飛来する怪獣を描いた映画《モスラ》(1961)の原作を書いています。

このことに留意するならば、アメリカ人の原爆パイロットをモデルとした『零から数えて』(1960)と『審判』(1963)の二つの長編小説が『若き日の詩人たちの肖像』(1968)と密接なつながりを持っていることは明らかでしょう。

すなわち、『若き日の詩人たちの肖像』は過去を振り返るだけでなく、現在を凝視し未来を見つめるような視点も有しているのです。

ただ、序章と四つの部からなるこの長編小説では詩人だけでなく演劇のグループや、多くの作家も実名で描かれるなど複雑な構造をしています。それゆえ、今回の発表では筋や人物体系だけでなく、「題辞」という手法にも注目しながらテキストを忠実に読み込むことにより、主人公が成宗の先生(堀辰雄)に語る「ランボオは出て行き、ドストエフスキーは入って来る。同じですね」という謎のような言葉の意味に迫りたいと思います。

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例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

(2019年4月13日、4月27日、書影とリンク先を追加)

堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって(『ドストエーフスキイ広場』第28号より転載)

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

(2)「海ゆかば」の精神と主人公

(3)小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

 

書評〔飛躍を恐れぬ闊達な「推論」の妙──「立憲主義」の孤塁を維持していく様相〕を読む

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社  

 拙著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(成文社)の書評が『図書新聞』4/13日号に掲載された。→http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/ … 

 評者は『溶解する文学研究 島崎藤村と〈学問史〉』(翰林書房、2016)などの著書がある日本近代文学研究者の中山弘明・徳島文理大学教授で、〈学問史〉という新視点から島崎藤村を照射する三部作の筆者だけに、島崎藤村についての深い造詣に支えられた若干辛口の真摯な書評であった。

 以下、その内容を簡単に紹介するとともに、出版を急いだために書き足りなかったことをこの機会に補記しておきたい。

     *   *   *

 まず、「積年の諌題、『罪と罰』が太い糸となっていることは事実だが、それといわば対極の徳富蘇峰の歴史観への注視が、横糸になっている点にも目を引く」という指摘は、著者の問題意識と危機意識を正確に射ている。

 また、次のような記述もなぜ今、『罪と罰』論が書かれねばならなかったについての説明ともなっていると感じた。

 〔この魯庵が捉えた「良心」観から、通説の通り、透谷と愛山・蘇峰の著名な「人生相渉論争」を俎上にのせると同時に、著者はユーゴーの『レ・ミゼラブル』の受容へと展開し、蘇峰の「忠孝」観念と、「教育勅語」の問題性を浮かび上がらせ〕、〔自由を奪われた「帝政ロシア」における「ウヴァーロフ通達」と「勅語」が共振し、その背後に現代の教育改悪をすかし見る手法を取る〕。

 明治の『文學界』や樋口一葉にも言及しつつ、〔木下尚江が、透谷の『罪と罰』受容を継承しながら、暗黒の明治社会を象徴する、大逆事件を現代に呼び戻す役割を果たし、いわゆる「立憲主義」の孤塁を維持していく様相が辿られていくわけである〕との指摘や、『罪と罰』と『破戒』の比較について、「はっとさせられる言及も多い」との評価に励まされた。

 ただ、『夜明け前』論に関連しては辛口の批判もあった。たとえば、昭和初期の日本浪漫派による透谷や藤村の顕彰に言及しながら、「『夜明け前』が書かれたのが抑圧と転向の時代であり、その一方で昭和維新が浮上していた事実はどこに消えてしまったのだろうか」という疑問は、痛切に胸に響いた。

 昭和初期には「透谷のリバイバルが現象として起こって」おり、「亀井勝一郎や中河與一ら日本浪漫派の人々は透谷や藤村を盛んに顕彰してやまなかった」ことについての考察の欠如などの指摘も、問題作「東方の門」などについての検討を省いていた拙著の構成の弱点を抉っている。

 それは〔同時代の小林秀雄の「『我が闘争』書評」への批判を通じて、『罪と罰』解釈の現代性と「立憲主義」の危機を唱える〕のはよいし、「貴重である」が、「小林批判と寺田透や、堀田善衞の意義を簡潔に繋げていくのは、やはり違和感がある」との感想とも深く関わる。

 実は、当初の構想では第6章では若き堀田善衞をも捉えていた日本浪漫派の審美的な「死の美学」についても、『若き日の詩人たちの肖像』の分析をとおして言及しようと考えていた。

 しかし、自伝的なこの長編小説の分析を進める中で、昭和初期を描いたこの作品が昭和60年代の日本の考察とも深く結びついていることに気付いて、構想の規模が大きくなり出版の時期も遅くなることから今回の拙著からは省いた。

 小林秀雄のランボオ訳の問題にふれつつ、〔堀田善衞が戦時中に書いた卒論で「ランボオとドストエフスキー作『白痴』の主人公ムイシュキン公爵とを並べてこの世に於ける聖なるもの」を論じていたことを考慮するならば、これらの記述は昭和三五年に発表された小林秀雄のエッセー「良心」や彼のドストエフスキー論を強く意識していた〕と思われると記していたので、ある程度は伝わったのではないかと考えていたからである。

 自分では説明したつもりでもやはり書き足りずに読者には伝わらなかったようなので、なるべく早くに『若き日の詩人たちの肖像』論を著すように努力したい。

 今回は司馬遼太郎に関しては「神国思想」の一貫した批判者という側面を強調したが、それでも司馬遼太郎の死後の1996年に勃発したいわゆる「司馬史観論争」に端を発すると思われる批判もあった。これについては、反論もあるので別な機会に論じることにしたい。

 なお、『ドストエーフスキイ広場』第28号に、拙稿「堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって」が掲載されているので、発行され次第、HPにもアップする。

 著者の問題意識に寄り添い、かつ専門的な知識を踏まえた知的刺激に富む書評と出版から2ヶ月足らずで出逢えたことは幸いであった。この場を借りて感謝の意を表したい。

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 追記:5月18日に行われる例会で〔堀田善衞のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に〕という題目で発表することになりました。 リンク先を示しておきます。→第50回総会と251回例会(報告者:高橋誠一郎)のご案内

     (2019年4月8日、9日、加筆)

 

小林秀雄の文学論と「維新」の危険性――次作にむけて

序 新著を書き終えて

ブルガリア・ドストエフスキー協会の主催による国際シンポジウム(2018年10月23日から26日)の企画の打ち合わせや発表の準備のために、発行を急いでいた拙著の脱稿は大幅に遅れたが、ようやく上梓することができた。

ここでは拙著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(成文社)執筆までの私の小林秀雄についての考察の歩みを振り返り、次作の方向性を確認しておきたい。

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社  

一、「評論の神様」小林秀雄への懐疑

敗戦後間もない1946年の座談会「コメディ・リテレール」ではトルストイ研究者の本多秋五などから戦時中の言動を厳しく追及された文芸評論家の小林秀雄(1902~1983)は、「僕のような気まぐれ者は、戦争中支那なぞをうろつき廻り、仕事なぞろくにしなかったが、ドストイエフスキイの仕事だけはずっと考えていた」と語っていた。

これに対して作家の坂口安吾は1947年に著した「教祖の文学 ――小林秀雄論」で、「思うに、小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ」としながらも、小林が「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったと厳しく批判した(『坂口安吾全集 5』、筑摩書房、1998年、239~243頁)。

しかし、1948年には「『罪と罰』についてⅡ」を『創元』に掲載し、黒澤明監督の映画《白痴》が公開された翌年の1952年から2年間にわたって「『白痴』についてⅡ」を連載した小林は、徐々に評論家としての復権を果たし、「評論の神様」と賛美されるようになる。

1949年生まれの私は、このような時期に青春を過ごし、「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論からは私も一時期、強い影響を受けた。しかし、原作の文章と比較しながら小林秀雄の評論を再読した際には、「異様な迫力をもった文体」で記されてはいるが、そこでなされているのは研究ではなく新たな「創作」ではないかと感じるようになった。

それゆえ、フランス文学者の鹿島茂氏は作家の丸谷才一が1980年に「小林秀雄の文章を出題するな」というエッセイを発表して、芥川龍之介の『少年』と『様々なる意匠』の2つの文章を並べて出題した「北海道大学の入試問題をこてんぱんにやっつけたときには、よくぞ言ってくれたと快哉を叫んだものである」と書いているが、私も同じような感慨を強く抱いた。

二、方法の模索

文壇だけでなく学問の世界にも強く根をはっていた小林秀雄のドストエフスキー論と正面から対峙するには、膨大な研究書や関連書がある小林秀雄を批判しうる有効な手法を模索せねばならず、予想以上の時間が掛かった。

ようやくその糸口を見つけたと思えたのは、小林秀雄の『白痴』論とはまったく異なったムィシキン像が示されている黒澤映画《白痴》をとおして長編小説『白痴』を具体的に分析した拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』を2011年に出版した後のことであった。

すなわち、『罪と罰』と『白痴』の連続性を強調するために小林秀雄は、「来るべき『白痴』はこの憂愁の一段と兇暴な純化であつた。ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」と書いていた。しかし、シベリアから帰還したことになると、判断力がつく前に妾にされていたナスターシヤの心理や行動を理解する上で欠かせない、ムィシキンのスイスの村での体験――マリーのエピソードやムィシキンが衝撃を受けたギロチンによる死刑の場面もなくなってしまうのである。

「『白痴』についてⅠ」の第三章で、小林は「ムイシュキンの正体といふものは読むに従つていよいよ無気味に思はれて来るのである」と書き、簡単な筋の紹介を行ってから「殆ど小説のプロットとは言ひ難い」と断じている〔87~88〕。しかしそれは、それはスイスでのエピソードが省かれているばかりでなく、筋の紹介に際しても重要な登場人物が意図的に省略されているために、ムィシキンの言動の「謎」だけが浮かび上がっているからだと思われる。

一方、黒澤明は復員兵の亀田(ムィシキン)が死刑の悪夢を見て絶叫するという場面を1951年に公開した映画《白痴》の冒頭で描くことで、長編小説『白痴』のテーマを明確に示していたのである。

福島第一原発事故後の2014年に出版した『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』では、長編小説『白痴』に対する彼らの解釈の違いばかりでなく、「第5福竜丸」事件の後で映画《生きものの記録》を撮った黒澤明監督と、終戦直後には原爆の問題を鋭く湯川秀樹に問い詰めていながら、その後は沈黙した小林との核エネルギー観の違いにも注意を払うことで、彼らの文明観の違いをも浮き彫りにした。

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三、「維新」という幻想――夏目漱石の維新観と『夜明け前』

ただ、黒澤明は評論家ではなく、映像をとおして自分の考えを反映する映画監督であった。そのために、黒澤明の映画をとおして小林秀雄のドストエフスキー論を批判をするという方法では小林秀雄の問題点を指摘することはできても、言論活動である小林秀雄の評論をきちんと批判すること上ではあまり有効ではなかった。

一方、2010年にはアメリカの圧力によって「開国」を迫られた幕府に対して、「むしろ旗」を掲げて「尊王攘夷」というイデオロギーを叫んでいた幕末の人々を美しく描いたNHKの大河ドラマ《龍馬伝》が放映され、2015年には小田村四郎・日本会議副会長の曽祖父で吉田松陰の妹・文の再婚相手である小田村伊之助(楫取素彦・かとりもとひこ)をクローズアップした大河ドラマ《花燃ゆ》が放映された。

さらに、「明治維新」150年が近づくにつれて「日本会議」系の政治家や知識人が「明治維新」の意義を強調するようになった。そのことを夏目漱石の親族にあたる半藤一利は、漱石の「維新」観をとおしてきびしく批判していたが、それは間接的には小林秀雄の歴史認識をも批判するものであった。

→ 半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」 – 東洋経済オンライン

それゆえ、私は拙著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』では、『罪と罰』を邦訳した内田魯庵や、明治時代に『罪と罰』のすぐれた評論「『罪と罰』の殺人罪を書いた北村透谷、そして、『罪と罰』の筋や人物体系を詳しく研究することで長編小説『破戒』を書き上げた島崎藤村などをとおして、小林秀雄のドストエフスキー観の問題点を明らかにしようとした。

その第一の理由は彼らの読みが深いためだが、さらに、「明治維新」が強調される現代の政治や社会の状況が、「神祇官」が設置された明治初期の藩閥政府による独裁政治や、「大東亜戦争」に突入する暗い昭和初期と似てきているからである。明治政府の宗教政策や文化政策の問題点を正確に把握していた北村透谷や島崎藤村などの視点と手法で『罪と罰』を詳しく読み解くことは、「古代復帰」を夢見て、武力による「維新」を強行した日本の近代化の問題点と現政権の危険性をも明らかにすることにもつながると考えた。

拙著では小林秀雄の『罪と罰』論が本格的に考察されるのはようやく第6章にいたってからなので、迂遠な感じもするのではないかとの危惧もあったが、献本した方々からの反応は予想以上によかった。それは、幕末から明治初期に至る激動の時代に生き、平田篤胤没後の門人となって「古代復帰の夢想」を実現しようと奔走しながら夢に破れて狂死した自分の父を主人公のモデルにした島崎藤村の大作『夜明け前』を最初に考察したことがよかったのではないかと思える。

実は、『夜明け前』の主人公の青山半蔵が「明治維新後」には「過ぐる年月の間の種々(さまざま)な苦い経験は彼一個の失敗にとどまらないように見えて来た。いかなる維新も幻想を伴うものであるのか、物を極端に持って行くことは維新の附き物であるのか(後略)」と考えるようになっていたとも島崎藤村は記していたのである(『夜明け前』第2部第13章第4節)。

そして、明治の賛美者とされることの多い作家の司馬遼太郎も、幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となったと指摘し、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と続けていた(太字は引用者、『竜馬がゆく』文春文庫)。

https://twitter.com/stakaha5/status/907828420704395266

こうして、島崎藤村の作品に対する小林秀雄の評論をも参照することにより、「天皇機関説」事件によって明治に日本が獲得した「立憲主義」が崩壊する一方で、「弱肉強食」を是とするドイツのヒトラー政権との同盟が強化されていた昭和初期に評論家としてデビューした小林秀雄のドストエフスキー論には、幕末の「尊王攘夷」運動にも通じるような強いナショナリズムが秘められていることを明らかにできたのではないかと考えている。

そして、それは「政教一致」政策を行うことでキリスト教の弾圧を行ったばかりでなく、仏教に対する「廃仏毀釈」運動を行っていた「明治維新」を高く評価している現在の政権の危険性をも示唆通じるだろう。

https://twitter.com/stakaha5/status/816241410017882112

四、堀田善衞の小林秀雄観

ただ、小林秀雄が戦後に評論家として復活する時期の言論活動についての考察まで含めると発行の時期が大幅に遅れるので今回は省いた。

「評論の神様」として復権することになる小林秀雄の評論の詳しい検証は、稿を改めてドストエフスキーの『白夜』だけでなく、『罪と罰』や『白痴』にも言及しながら、昭和初期の日本を詳しく描いた堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』の考察などをとおして行うことにしたい。

なぜならば、堀田は明治の文学者たちの骨太の文学観を踏まえて、「昭和維新」を掲げた2・26事件を考察することにより、戦後の「明治維新」の称賛の危険性をも鋭く示唆していたからである。

最後に、拙著で考察した小林秀雄の文学解釈の特徴と危険性を箇条書きにしておく。

1,作品の人物体系や構造を軽視し、自分の主観でテキストを解釈する。

2,自分の主張にあわないテキストは「排除」し、それに対する批判は「無視」する。

3,不都合な記述は「改竄」、あるいは「隠蔽」する。

これらの小林秀雄の評論の手法の特徴は、現代の日本で横行している文学作品の主観的な解釈や歴史修正主義だけでなく、「公文書」の改竄や隠蔽とも深くかかわっていると思われる。

https://twitter.com/stakaha5/status/1100621472278536193

(2019年3月11日改訂。2022年2月12日改訂、13日改題)

鹿島茂著『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』を読む(未完)

ドーダの人、小林秀雄(朝日新聞出版)

一、「教祖」から「評論の神様」へ

敗戦後間もない1946年の座談会「コメディ・リテレール」ではトルストイ研究者の本多秋五などから文芸評論家の小林秀雄(1902~1983)は戦時中の言動を厳しく追及された。

小林とは親しかった作家の坂口安吾もその翌年に発表した「教祖の文学――小林秀雄論」で、小林を「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったときびしく批判していた。

ISBN4-903174-09-3_xl

しかし、座談会での追及に対して「僕のような気まぐれ者は、戦争中支那なぞをうろつき廻り、仕事なぞろくにしなかったが、ドストイエフスキイの仕事だけはずっと考えていた」と語っていた小林は1948年には「『罪と罰』についてⅡ」を『創元』に掲載し、そして黒澤明監督の映画《白痴》が公開された翌年の1952年から2年間にわたって「『白痴』についてⅡ」を連載した。

こうして、戦後にドストエフスキー論の執筆を再開した小林秀雄は、「団塊の世代」に属する鹿島茂氏が青春を送った「1960年・70年代までは、小林神話がいまだ健在で、大学の入学試験にはかならずと言っていいほど彼の文章が出題」されるようになっていたのである(13頁)。1980年には小林秀雄信者の教員が、「最も晦渋な(というよりも意味不明な)『様々なる意匠』」が出題して、「信者でもない一般の高校生・予備校生に『神様の大切なお言葉を解読せよ』と迫っていた」。

それゆえ、小林秀雄と同じフランス文学者の鹿島氏は、作家の丸谷才一が1980年に「小林秀雄の文章を出題するな」というエッセイを発表して、芥川龍之介の『少年』と『様々なる意匠』の2つの文章を並べて出題した「北海道大学の入試問題をこてんぱんにやっつけたときには、よくぞ言ってくれたと快哉を叫んだものである」と続けた。

この意味で注目したいのは、鹿島氏が1987年に、ドストエフスキーを魅了したユゴーの大作『レ・ミゼラブル』を当時の木版画を掲載することで当時の社会情勢をも示しつつ、分かり易く詳しく解説した『「レ・ミゼラブル」百六景』(文藝春秋)を出版していたことである。

「レ・ミゼラブル」百六景

その鹿島氏が2016年に出版した本書『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』(以下『ドーダの人、小林秀雄』と略す)をこれから少しずつ考察することにしたい。

(2019年3月3日、書影を追加。3月10日改訂、2022年2月13日改題)

ドストエーフスキイの会、第250回例会(報告者:福井勝也氏)のご案内

第250例会のご案内を「ニュースレター」(No.151)より転載します。

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第250回例会のご案内

    下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

日 時2019年3月16日(土)午後2時~5時

場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車徒歩7分) 和室

                         ℡:03-3402-7854

報告者:福井勝也 氏

題 目: 堀田善衞のドストエフスキー、未来からの挨拶(Back to the Future

          *会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:福井勝也 (ふくい・かつや)

1954年東京都出身。1978年「ドストエーフスキイの会」入会、運営編集委員。

「全作品を読む会」世話人。「読書会著莪」会員(小森陽一講師)。「日本ドストエフスキー協会(DSJ)」研究会員。著書:ドストエフスキーとポストモダン』(2001)、『日本近代文学の<終焉>とドストエフスキー』(2008)主要論考対象:ドストエフスキー、ベルクソン(前田英樹氏に師事)、小林秀雄、大岡昇平、三島由紀夫、安岡章太郎など

*   *   * 

第250回例会報告要旨

堀田善衞のドストエフスキー、未来からの挨拶(Back to the Future

 廻り合わせから、次回例会でお話をすることになった。会発足50周年(2019.2.12)を経て最初の、そして30年続いた「平成」最後の例会ということになる。だからといって特別な内容ではないが、自分なりの感慨も重なって発表を引き受けさせて頂いた。

今回論じようと思うのは、作家堀田善衞(1918~98年、大正7~平成10年)の文学、そのドストエフスキー文学との関連である。当方はこの4年程、多摩の読書会で堀田の主要作品を仲間と読み合って来た。ちなみに、2014~15年には『上海にて』(1959)『方丈記私記』(1971)『定家明月記私抄 (正・続)』(1986-88)、2016年には『若き日の詩人たちの肖像 (上・下)』(1968)、2017年には『ゴヤ(第1~4部)』(1974-77)、2018年には『ミシェル 城館の人(第1~3部)』(1991-94)というざっとそんな順であったと思う。そして昨年の堀田生誕100年・没後20年という記念の年を経て、今年の初めに、最初に読んだ『上海にて』に戻るかのように南京事件を扱った長編小説『時間』(1955)を読み始めている。

この多摩の読書会とのお付き合いは、かれこれ四半世紀余になる。講師は当会でもご講演頂いた近代文学研究者の小森陽一氏であるが、小規模な市民サークルで月一度の読書会にずっと参加させてもらって来た。その対象作品は、その時々の選択によるが、漱石から村上春樹までかなりの数になる。

そしてこの4年程は堀田作品を読み合って来た。はじめに断っておけば、当方は堀田善衞のそれ程良い読者ではないかもしれない。しかしここ数年間仲間と読んで来て、作家としてのスケールという点で、われらがドストエフスキーの系譜に連なる文学者であると確信するようになった。その点で、堀田は日本では珍しい世界文学者のタイプであって、これから評価が高まる作家だと感じる。その傍証になるかは不明だが、アニメーション作家の世界的巨匠、宮崎駿氏が堀田文学の愛読者であるということがある。氏は、そのwebサイト(堀田善衞「時代と人間」)の連載欄でこんな風に語っている。

この連載では、堀田氏の考え方たとえば「歴史は直線的に進むのではなく、多層的に存在している」というようなことを、既にあるもの、既に完成したものとして書き、それによって堀田氏を説明するというスタンスをとってきました。しかし、第8回のスペインの項でもわかる通り、堀田氏も最初から、そうした思想へと到達していたわけではありません。戦後、本格的に小説執筆を初め、そこにおいて、いかに自分の体験を消化(昇華)していくかという挑戦の果てに、自分なりの思想を掴み取ったのです。そしてその思想も年齢や時代を経るごとに、深化し、さまざまな側面を見せるようになります。

片や、最近号の「読書会通信」で当方は次の様に書いた。「これらの堀田の生涯をかけた文学作品を貫く「キイワード」を二つだけあげろと言われたら、当方今回の前置きで触れた、「天皇(制)」と「中国」と答えたいと思う。確かに『ゴヤ』のスペイ

ンが、『ミシェル』のフランスもあるわけだが、堀田にアジアからヨーロッパに向かわせる起点になったのは中国の「上海・南京」であり、そのさらに前提となった東京大空襲下で堀田が偶然に見かけた「昭和天皇」とそれを取り巻く戦火で家を焼かれた「日本民衆」の姿であった。」(「通信」No.172、web版もご参照ください。)

堀田文学の全体像を理解するためには、当方の「キイワード」ではおそらく<内向き>に過ぎるだろう。しかしこの間自分が堀田に絡めて、ドストエフスキーを再考するきっかけになったのが堀田の「天皇(制)」と「中国」であった。「通信(連載欄)」の「前書き」にも書いたが、「平成」が終わろうとしている時代の狭間にあって、現在日本人が直面する課題が、この「キイワード」と深く関係してくると思う。今回の発表は、堀田文学の視点から見た「ドストエフスキーと現代」であればとも思っている。

そして多摩の読書会(「著莪」)で考えたことを、その都度話題にして「感想」を書かせてもらって来たのが、われらが読書会「全作品を読む会」ということになる。今回例会でお話しする内容も、その辺からのもので「読書会」の成果だと考えている。

例えば、『若き日の詩人たちの肖像』(1968)の中で語られるドストエフスキー作品への言及、とりわけ当方が関心を抱いた「愛国者」に変貌してゆく一人の「若き詩人」が「アリョーシャ」と愛称されたこと。『ゴヤ』の描くスペイン戦争(対ナポレオン)での民衆をキリストに擬えて語る『五月の三日』の(宗教)絵画評。スペインとロシアをヨーロッパの西と東の「辺境」として語る堀田の地政学的知見。ミッシェル(モンテーニュ)の生きた宗教戦争の時代をドストエフスキーの言葉から見返す歴史的視線。さらに、作品に注目する契機にもなった堀田論考の、安岡章太郎の『果てもない道中記』(1995)に関連して読んだ「大菩薩峠とその周辺」(1959)の机龍之介論。これは日中戦争の時代まで書き継がれた中里介山作『大菩薩峠』(1913~1941)を、ドストエフスキーの作品(『罪と罰』『白痴』他)に言及し、その日本人の罪障観を天皇(制)の問題まで含めて論じようとした問題作だ。

さらには、宮崎氏指摘の堀田の「歴史を重層的なものとして見る見方」、さらにその視線を支えていると考えられる「時間論」「過去と現在が眼前にあって、未来が背後にあるもの」「未来からの挨拶」、今回新たな興味を抱かされたことなどもある‥‥。

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前回の「傍聴記」と「事務局便り」は、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

『若き日の詩人たちの肖像』の重要性――『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』(集英社)を読んで

(「立憲主義」が崩壊した暗い昭和初期を描いた自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』など堀田作品の魅力と意義がさまざまな視点から分かり易く記されている。(書影はアマゾンより)

作家・堀田善衞(一九一八~一九九八)の生誕100周年、没後20年に当たっていた昨年、『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』が集英社から刊行された。

この本の帯には「お前の映画は何に影響されたかと言われたら、堀田善衞とこたえるしかありません」という執筆者の一人・宮崎駿監督の言葉が載っている。その言葉は共著者たちの堀田善衛への思いをも代弁しているだろう。

むろん、様々な分野の第一線で活躍する創作者たちの視点で記されている堀田善衞の人柄や作品への評価は一様ではない。たとえば、「ベ平連」の活動で堀田善衞と出会っていたノンフィクション作家の吉岡忍氏は、朝鮮戦争が勃発する緊迫した時期を描いて芥川賞を受賞した堀田の『広場の孤独』や妻子を殺された中国人の知識人を主人公として南京虐殺を描いた『時間』、『インドで考えたこと』など堀田善衞とアジアとの関りを中心に記している。

一方、堀田善衞が大作『ゴヤ』を書く時期にスペインでその資料収集や調査などに立ち会っていた美術史学者の大髙保二郎氏は、ゴヤの「戦争の惨禍」との出会いの意味など、堀田のスペイン時代を実証的に語っている。

そして宮崎駿氏は戦乱期の日本や大災害についての考察が記された『方丈記私記』から受けた強い印象についても触れつつ、その映像化への思いも記している。実は、その激しい揺れが観客席にまで伝わってくるような衝撃を受けた映画《風立ちぬ》における関東大震災の映像を見た後では、宮崎監督が『方丈記私記』の描写を思い浮かべながらこのシーンを描いたのではないかと感じた。

なぜならばその後では、高台に停車した列車から脱出した二郎と菜穂子の眼をとおして観客は、大地震の直後に発生した火事が風に乗って瞬く間に広がり、東京が一面の火の海と化す光景を見ることになるからである。しかも、菜穂子を実家に連れて行こうと歩き出した二郎の歩みとともに逃げ惑う民衆の姿がアニメ映画とは思えない克明さで描かれている。

私的なことになるが、大学に入ってからドストエフスキーの初期作品の重要性だけでなく、日露の近代化の比較というテーマを研究することの必要性を強く感じたのは、昭和初期の暗い時代を描いた堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』と出会ったことが大きな一因となっていた。

その意味でことに興味を持ったのが、作家の池澤夏樹氏とフランス文学者の鹿島茂氏がともにこの長編小説の面白さと重要性を指摘していたことであった。たとえば、この長編小説に登場する「詩人たち」のモデルの一人である作家の福永武彦を父に持つ池澤夏樹氏は、この小説が「文字通りの自伝ではなく」、「時代相を明らかにするために登場人物をつくっただろう」とし指摘している。そして、「書き方に工夫もあれば、フィクションと言うか、仕掛けもある」、この作品が「自分のものの考え方、思想を支えてくれる大きな柱となっています」と続けている。

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

フランス文学者の鹿島氏も、「自伝小説『若き日の詩人たちの肖像』を読むのが堀田善衞という文学者を理解する近道です」とし、この作品の題名がジェイムズ・ジョイスの『若い芸術家の肖像』からとられてはいるが、「それをちょっと変えて、『詩人たち』という複数形にしてある」ことに注意を促している。

そしてここでは本来、接点のないはずの慶応仏文グループと「荒地」グループが描かれていることを指摘し、「自分と全く違うものを学ぶということは、比較が可能になるということです」と書き、「比較を進めることによって、逆に、自分とは何かが分かってくる。あるいは、自分たちと比較することによって、他者が分かってくる」と書いている。

鹿島氏は「『若き日の詩人たちの肖像』を書いたことによって、あらためて、なぜ自分はフランス文学をあの時期に選んだのかということを考え」、それが「ヨーロッパ的なものを見据えてみよう」という思いにつながったのだろうと書いているがそれは確実だろう。

昭和初期の暗い時代を題材に自伝的な形で長編小説を描いたことが、「評伝文学の傑作」である『ゴヤ』や「最大の作品」である『ミシュレ 城館の人』にもつながったのだと思える。

さらに、池澤氏は『方丈記私記』や『定家明月記私抄』にも言及しているが、『若き日の詩人たちの肖像』の記述によれば、これらの作品の価値を見出したのが徴兵される間近の頃であることに留意するならば、この自伝的な長編小説の重要性が分かるだろう。

憲法学者の小林節氏によれば、安倍首相が尊敬する岸元首相たちにとって「日本がもっとも素晴らしかった時期は、国家が一丸となった、終戦までの一〇年ほど」、すなわち「ファシズム」の時代であった(『「憲法改正」の真実』集英社新書)。

その時代への回帰を目指す「日本会議」に支援された安倍政権による「立憲主義」の崩壊を食い止めるためにも、題辞で引用されている『白夜』ばかりでなく、『罪と罰』や『白痴』、さらには『悪霊』ついての考察も記されているこの長編小説の現代的な意義について、ドストエフスキー研究者の視点からいずれきちんと読み解きたいと考えている。

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本書に関連した文章を引用しておく。

堀田善衞『時代と人間』

「乱世について述べたい。……この二十世紀の末も大乱世一つだろうと私は思っている。」(堀田善衞)

「堀田さんは海原に屹立している巌のような方だった。潮に流されて自分の位置が判らなくなった時、ぼくは何度も堀田さんにたすけられた」(宮崎駿) 

堀田善衞『若き日の詩人たちの肖像』

「ヨーロッパで戦争」が始まると「東京の街々では、喫茶店や映画館で、また直接の街頭でさえ、官憲によって“学生狩り”というものが行われ」、「一晩か二晩留置所に放り込み、脅かしておいて放り出す。そういう無法が法の名において」行われるようになった。  https://twitter.com/stakaha5/status/930086230250831872

(2019年2月22日、加筆、2024/03/13、ツイートを追加)