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黒澤明監督が関東大震災で見たもの――朝鮮人虐殺から映画《生きものの記録》へ

1923年9月の関東大震災での朝鮮人虐殺を巡り、日本政府は百年後の6月15日の参院法務委員会で社民党の福島瑞穂党首の質問に対して、「当時の内務省が朝鮮人に関する流言を事実とみなし、取り締まりを求めた公文書を保管していることを認めた。」(共同通信社)

警察を所管していた内務省警保局が震災直後の9月3日、全国の地方長官に宛てて打った電報で「(朝鮮人が)爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり」などと認定した上で「厳密なる取り締まりを加えられたし」と記載されている。

(2023年6月18日加筆)

1923年9月1日に起きた関東大震災の犠牲者を追悼する大法要が都立横網町公園の慰霊堂で昨日営まれ、公園内では朝鮮人犠牲者追悼式も開かれた。しかし、「日本会議」代表委員の石原慎太郎氏でさえも、元都知事の際には寄せていた朝鮮人犠牲者への追悼文を小池都知事は3年連続で見送った。

この背景には1965年の「日韓請求権協定」問題のこじれなどから日韓政府が激しく対立することになったため安倍政権の経済政策を担って、原発の輸出などを推進してきた創生「日本」の副会長の世耕経産相が、雑誌などで「嫌韓」を煽るようになっていることがあるだろう。

しかし、元・文部科学事務次官の前川喜平氏が昨日の「東京新聞」で書いているように、震災後には「人々の心の中に巣くう偏見や差別意識が、不安や恐怖に突き動かされ、極めて残忍かつ醜悪な暴力として顕在化し」、「朝鮮人が放火した」「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「不逞朝鮮人が日本人を襲う」などの流言飛語を信じた「自警団」などによって朝鮮人が次々と虐殺されていた。

https://twitter.com/yunoki_m/status/1168158075133415426

今となっては信じがたいような大事件だが、これについては当時19歳で千駄ヶ谷に住んでいた演出家の千田是也が、その時に間違えられて危うく殺されそうになったことを証言し、「異常時の群集心理で、あるいは私も加害者になっていたかもしれない」と思い、「自戒を込めて」芸名を、「千駄(センダ)ヶ谷のKorean(コレヤ)」にした」と語っていた(毎日新聞社・編『決定版昭和史 昭和前史・関東大震災』所収)。

さらに、中学2年生時に被災した黒澤明監督も自伝『蝦蟇の油』(岩波書店)で、「関東大震災は、私にとって、恐ろしい体験であったが、また、貴重な経験でもあった。/ それは、私に、自然の力と同時に、異様な人間の心について教えてくれた」と記していた。

宮崎駿監督の映画《風立ちぬ》では朝鮮人虐殺のシーンなどは描かれていないが、座っている座席も地震で揺れているような錯覚に陥るほどの圧倒的な迫力で大地震とその直後に発生した火事が風に乗って瞬く間に広がり、東京が一面の火の海と化す光景が描かれている。

黒澤はその時「ああ、これがこの世の終わりか」とも思ったが、真に恐ろしい事態は大都会が闇に蔽われた時に訪れた。

「下町の火事の火が消え、どの家にも手持ちの蠟燭がなくなり、夜が文字通りの闇の世界になると、その闇に脅えた人達は、恐ろしいデマゴーグの俘虜になり、まさに暗闇の鉄砲、向こう見ずな行動に出る。/ 経験の無い人には、人間にとって真の闇というものが、どれほど恐ろしいか、想像もつくまいが、その恐怖は人間の正気を奪う。/どっちを見ても何も見えない頼りなさは、人間を心の底からうろたえさせるのだ。/ 文字通り、疑心暗鬼を生ずる状態にさせるのだ。/ 関東大震災の時に起った、朝鮮人虐殺事件は、この闇に脅えた人間を巧みに利用したデマゴーグの仕業である。」

実際、この時黒澤は「髭を生やした男が、あっちだ、いやこっちだと指差して走る後を、大人の集団が血相を変えて、雪崩のように右往左往する」のを自分の眼で見、朝鮮人を追いかけて殺そうとする人々が、日本人をも「朝鮮人」として暴行を加えようとした現場にも、立ち会っていた。

たとえば、「焼け出された親類を捜しに上野へ行った時、父が、ただ長い髭を生やしているからというだけで、朝鮮人だろうと棒を持った人達に取り囲まれた」が、父が「馬鹿者ッ!!」 と大喝一声すると、「取り巻いた連中は、コソコソ散っていった」。

それゆえ後年、黒澤明監督は娘の和子に「日本人は、付和雷同する民族だ、関東大震災や二度の世界大戦も知っているけど、恐怖にかられた人間は、常軌を逸した行動に走る」と指摘し、「この情報社会になってからは、日常の中にそういう現象が起こるようになった。これは、本当に恐ろしいことだよ」と語ったのである。

そして、前川氏も「韓国に対し殊更に強圧的な言辞をあからさまに吐く政治家たち」や「これでもかと嫌韓を煽るテレビのバラエティー」などに注意を促して、同じようなことは、「百年近く経った今日でも起こりかねないことだ」と指摘している。

一方、関東大震災の時に兄の丙午から「怖いものに眼をつぶるから怖いんだ。よく見れば、怖いものなんかあるものか」と教えられた黒澤明は、「第五福竜丸」事件の後では放射能の被曝を主題とした映画《生きものの記録》を公開した。

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(東宝製作・配給、1955年、「ウィキペディア」)。

映画《生きものの記録》が英語で《I Live In Fear (私は恐怖の中で生きている)と訳されていることもあり、いまだにこの主人公の老人・喜一は「恐怖」から逃げだそうとしたと誤解されることが多い。

しかし、むしろ彼は放射能の問題を直視しており、「あんなものにムザムザ殺されてたまるか、と思うとるからこそ、この様に慌てとるのです」と語り、「ところが、臆病者は、慄え上がって、ただただ眼をつぶっとる」と批判していたのである。

その意味でこの老人・喜一は自然の豊かさや厳しさを本能的に深く知っていた映画《デルス・ウザーラ》の主人公の先行者的な人物であったといえるだろう。(拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社)。

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小池百合子・都知事は、朝鮮人犠牲者への追悼文を見送ることで、朝鮮人虐殺の問題から都民の目を逸らさせ、「風化」させることを狙っているようだが、「日本の『負の歴史』に真摯に向き合おうとしなければ、忌まわしい過去は繰り返される」ことになるだろう。

前川氏が結んでいるように「九月一日は単なる防災の日ではない。大量虐殺という人災を繰り返さないための誓いの日でなければならないのだ。」

 「ラピュタ」2――宮崎アニメの解釈と「特攻」の美化(隠された「満州国」のテーマ)

 『天空の城ラピュタ』の二年前に公開された『風の谷のナウシカ』(1984)における『罪と罰』のテーマについてはすでに何度かふれてきましたが、このアニメには「満州国」のテーマも秘められていました。

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(《風の谷のナウシカ》、図版は「Facebook」より)。

 すなわち、「風の谷」を侵略した大国の皇女は自分たちに従えば「王道楽土」を約束すると語るのですが、それはかつて日本が「満州国」を建国した際に理想を謳った「五族協和」や「八紘一宇」と同じようなスローガンの一つだったのです

 雑誌『日本浪曼派』の主催者・保田與重郎も「満州国の理念」を、「フランス共和国、ソヴエート連邦以降初めての、別箇に新しい果敢な文明理論とその世界観の表現」と、「『満州国皇帝旗に捧ぐる曲』について」で讃えていました(橋川文三『日本浪曼派批判序説』講談社文芸文庫、34頁)。

日本浪曼派批判序説 (講談社文芸文庫)(書影は「アマゾン」より)

 それゆえ、このようなスローガンに惹かれて日本だけでなく、植民地だった朝鮮からも多くの人々がそこに移住しましたが、実態は理想とはかけ離れたものでした。彼らに与えられた土地は満州に住んでいた人々が安く買いたたかれて手放した土地であり、そこでは軍が深く関わっていたアヘンも横行するようになっていたのです(姜尚中、玄武岩著『興亡の世界史 大日本・満州帝国の遺産』 講談社学術文庫、2016年参照)。

興亡の世界史 大日本・満州帝国の遺産 (講談社学術文庫)

 評論家の橋川文三が指摘したように、「満州国建国前後の、挫折・失望・頽廃(たいはい)の状況こそ、『昭和の青春像の原型』であり、この『デスパレートな心情』こそ、『深い夢を宿した強い政治』への渇望の燃料」となっていました。

 橋川は保田與重郎とともに小林秀雄が、「戦争のイデオローグとしてもっともユニークな存在で」あり、「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」ことに注意を促していますが、「立憲主義」が崩壊する一年前に小林秀雄が原作における人物体系などには注意を払わずに行った『罪と罰』の解釈にもナチズム的な暴力主義への傾倒が秘められています(拙著、第6章参照)。

 さらに小林秀雄は真珠湾の攻撃を「空は美しく晴れ、眼の下には広々と海が輝いていた。漁船が行く、藍色の海の面に白い水脈を曵いて。さうだ、漁船の代りに魚雷が走れば、あれは雷跡だ、といふ事になるのだ。」と美しく描き出しました(小林秀雄「戦争と平和」)。 しかし、作家の堀田善衞が指摘しているようにこの真珠湾攻撃には「特殊潜航艇による特別攻撃」がともなっており、この攻撃に参加した若者たちは暗い海の藻屑となって全員が亡くなり、「軍神」として奉られていたのです。

 しかし、アニメ『天空の城ラピュタ』が放映される数日前には靖国神社や自衛隊で人間魚雷「回天」のキューピーちゃん人形が販売されていたことが話題になっていました。司馬遼太郎とも対話を行っていた元第十八震洋特攻隊隊長で作家・島尾敏雄氏の作品を読んでいたこともあり、そんな「不謹慎」なことはありえないだろうと考えていたのですが、実際に2009年12月までは販売されていたようで、その写真を見て愕然としました。

 さらに、「#あなたが作りそうなジブリ作品のタイトル」というハッシュタグには、「・回天の城ラピュタ ・指揮官の動く城 ・海自の恩返し ・人形立ちぬ ・艦これ姫の物語 ・前線の豚 ・写真の墓 ・戦艦戦記」などの軍隊系の題名が挙げられ、特殊潜航艇「回天」もその題名に取り入れられていたのです。

 一方、東大から経産省などをへて衆議院議員になった丸山穂高氏が、北方領土での言動が激しい顰蹙を買ったにもかかわらず、むしろ前科を誇るかのようにツイッターのプロフィール欄に「憲政史上初の衆院糾弾決議も!」と書きこんでいることに気づきました。

 しかも、8月31日のツイートでは竹島への攻撃を扇動したことがS 氏に批判されると、広島と長崎の悲劇について「過ちは繰返しませぬから」と言うべきは原爆を投下して非戦闘員を含めた非道なる大量虐殺を行った米軍かと。理解されていないのはどちらですかね?まさに敗戦国の末路かと。」と揶揄していました。しかし、「貴方の返信を多くのみなさん知って貰いたいので返信を公開して良いですか?」とS 氏から問いただされると直ちに自分のツイートを削除したようです。

 これらの投稿からは彼が核戦争の悲惨さについて考えたこともないだろうということが分かりますが、それは「#バルス祭り」などを提案しているツイッターの書き手にも通じているでしょう。そのことはアニメ『千と千尋の神隠し』が放映された後でこの映画の主題歌に関連して、宮崎監督の深い平和観について次のようなツイートをした際にも感じました。

 「安倍首相の復古的な歴史観を批判した宮崎駿監督の映画は民話的な構想に深い哲学的な考察を含んでおり世界中で愛されています。たとえば、ウクライナの女性歌手Nataliya Gudziyも、『千と千尋』の主題歌を通して原爆と原発事故とのかかわりついて深い説得力のある言葉で語っています。」。

ウクライナ美女が 千と千尋~ 主題歌を熱唱 Nataliya Gudziy … – YouTube

 このツイートに対しては多くのリツイートと「いいね」が寄せられましたが、そればかりでなくネトウヨと思われる人からの執拗な反論がありました。粘り強く反論すると不意にブロックされたばかりでなく、相手やその支持者たちの多くのいやがらせのツイートも完全に消されていたのです。

 そのような経緯から安倍首相が「核兵器禁止条約」の批准に反対し、原爆反対の書名集めも政治活動と見なすようになるなかで、宮崎駿監督の映画をも敵視するような若者や大人が増え始めていると感じました。

 少し大げさなようですが、亡びの呪文である「バルス」がツイッターのトレンドに入るような状況からは日本の言語文化が危機に瀕しており、情緒的な短い文章で感情的に煽ることには長けていても、自分の考えをきちんと論理的に相手に伝える能力が低下しているのではないかとさえ思えます。

 それはアニメの理解だけでなく、日本の学校における文学の教育にも深く関わっています。

『天空の城ラピュタ』の理解と主観的な文学解釈(1、改訂版)テーマの継承と発展――『風の谷のナウシカ』から『天空の城ラピュタ』へ

はじめに

「『天空の城ラピュタ』の理解と主観的な文学解釈」の考察が思いがけず長くなったので第一章を大幅に改訂して、題名と副題も「テーマの継承と発展――『風の谷のナウシカ』から『天空の城ラピュタ』へ」と変更し、最後に論考の〔目次〕を添付しました。

   *   *   *

8月30日に久しぶりにジブリのアニメ『天空の城ラピュタ』(1986)をテレビで観ました。これまでにも何回か見ているはずなのですが、主人公のパズーとシータと周りの個性的な登場人物たちの触れ合いをとおして文明論的な大きなテーマが軽快で雄大に描かれていました。『風の谷のナウシカ』で重要な役を担っていたキツネリスも出て来て、ロボットとの交流が描かれていました。

天空の城ラピュタ [DVD] (「アマゾン」より)

また、『風の谷のナウシカ』(1984)と『罪と罰』のテーマとの係わりについては何回が記しましたが、ここでも主人公たちとムスカ大佐との係わりをとおして「科学と自然」や「非凡人と凡人」のテーマがいっそう深く掘り下げられていることを改めて感じました。

圧倒的な存在感のある「腐海の森」は描かれていませんが、その代わりに徐々に姿を現してくるのが「生命の樹」のテーマです。また、軍隊と空の海賊との戦いのシーンや空賊たちの描写からは、後の『紅の豚』に通じる要素が強く感じられました。

しかし、『天空の城ラピュタ』を見終わった後でツイッターの投稿記事を調べたところ、宮崎駿監督の意図とは正反対と思われる記述があり唖然としました。たとえば、破滅の呪文である「バルス」という言葉を用いて、「いよいよ、#令和最初のバルス祭り」などの記述があったのです。

「ポピュラー文化を分析することで、日本人の核意識と戦争観の変化を考察」した拙著『ゴジラの哀しみ』(2016)を書く際にも、1954年の映画『ゴジラ』の感想を中心にツイッターでの記述も調べて、核武装などを支持するような記述とも出会ってはいたのですが、 今回のハッシュタグなどには首をかしげてしまいました。

 しばらく考えこみましたが、このような感想には「評論の神様」と奉られた評論家・小林秀雄の文学作品や映画の解釈からの影響があり、その根底には「作者と作品との関係をどうとらえるか」という大きな問題が横たわっているだろうと思うようになりました。

この問題は日本のポピュラー文化だけでなく、ロシア文学の研究などにも深く関わるので、少し時間をかけて文学研究者の視点から考えて見たいと思います。結論を記すのではなく、考えながら書いていきますので、多少、話が前後する場合や内容が一部重複する箇所も出て来ると思いますが、ご了解下さい。

   *   *   *

『天空の城ラピュタ』の理解と主観的な文学解釈」の「目次」

(2)宮崎アニメの解釈と「特攻」の美化――隠された「満州国」のテーマ

(3、閑話休題)――丸山穂高氏のツイッターの手法と比較という方法の意義

(4,追加版)「満州国」のテーマの深化――『風の谷のナウシカ』から『風立ちぬ』へ

(5)ムスカ大佐の人気と古代の理想化――『日本浪曼派』の流行と「超人の思想」

(6)「腐海の森」から「生命の樹」へ――「科学と自然」と「非凡人と凡人」の関係の考察

スレッドの「目次」(2)について

ツイッターのスレッドが増えてきて見にくくなってきたために、「目次」を作成しました。

前回は「目次」のスレッド(1)―― 〔司馬遼太郎の国家観〕、〔『罪と罰』を読み解く〕、〔新聞『日本』から右派メディア新聞『日本』(二代目)へ〕、〔手塚治虫の『罪と罰』観と『アドルフに告ぐ』〕、〔『アドルフに告ぐ』と3つのオリンピック〕、〔満州国の負の遺産と安倍政権〕(Ⅰ)、 〔満州国の負の遺産と安倍政権〕(Ⅱ) ――を掲載しました。

今回は「目次」のスレッド(2)――〔堀田善衞と『日本浪曼派』〕、〔司馬遼太郎の沖縄観と現代の沖縄〕、〔小林秀雄の歴史観と「日本会議」〕、〔参議院選挙と「緊急事態条項」の危険性〕、〔安倍内閣と「日本会議〕(ママ)、〔安倍政権とヒトラー政権〕、〔『#新聞記者』〕、〔株価とアベノミクスの詐欺性〕――を掲載します。

また、参議院選挙の前に急いで掲載した〔参議院選挙と「緊急事態条項」の危険性〕のページも〔安倍内閣と「日本会議〕の前に挿入しました。

   *   *   *

〔堀田善衞と『日本浪曼派』〕↓

https://twitter.com/stakaha5/status/1119222465232642049

「昭和維新」をスローガンに皇道派の陸軍若手将校たちが二・二六事件を起こす前夜に上京した若き堀田善衞の視点で、「耽美的パトリオティズム」が流行した時代と文学を考察する。

   *   *

〔司馬遼太郎の沖縄観と現代の沖縄〕↓

https://twitter.com/stakaha5/status/1100632728024707072

「(沖縄戦)について物を考えるとき…中略…自分が生きていることが罪であるような物憂さが襲ってくる」((司馬遼太郎『沖縄・先島への道』)

   *   *

〔小林秀雄の歴史観と「日本会議」〕↓

https://twitter.com/stakaha5/status/1130663946749325312

評論家の橋川文三は『日本浪曼派批判序説』で保田與重郎と小林秀雄とが、「戦争のイデオローグとしてもっともユニークな存在で」あり、「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」ことに注意を促していた。

   *   *

参議院選挙と「緊急事態条項」の危険性

今回の参議院選挙では「年金問題」が焦点の一つとなっているが、ここでは「緊急事態条項」関連の連続ツイートを再掲することによって、問題点を整理した。

   *   *

〔安倍内閣と「日本会議〕↓

https://twitter.com/stakaha5/status/1080361123822501889

改憲施行を「早期」とし、(1)自衛隊の明記(2)緊急事態対応(4)教育充実を掲げた自民党の「憲法改正」案は、いずれも戦前の日本への価値観への回帰を目指す「日本会議」の意向に沿っているように見える。

   *   *

〔安倍政権とヒトラー政権〕

https://twitter.com/stakaha5/status/909917695327342593

「神話的な歴史観」を持つ安倍政権は、「王道楽土」と同じような美辞麗句を並べて国民の眼を逸らしつつ、 ヒトラー政権と同じような #緊急事態条項 を盛り込んだ「改憲」を目指す姿勢を明確にしている。

   *   *

〔『#新聞記者』〕 ↓

https://twitter.com/stakaha5/status/1146243384392081408

この映画は権力による情報の「操作」と「隠蔽」の問題に鋭く切り込むことで、安倍政権の危険性を浮き彫りにすることに成功している。

   *   *

〔株価とアベノミクスの詐欺性〕↓

https://twitter.com/stakaha5/status/1091582848375545856

経済に関して私は素人ですが、ドストエフスキーは『罪と罰』で、いかさま弁護士ルージンのトリクルダウン理論に似た経済理論を厳しく批判していました。

 

スレッドの「目次」(1)について

ツイッターのスレッドが増えてきて見にくくなってきたために、「目次」を作成してアップしました。

 まだ、未作成の項目も多くありますが、黒澤明監督や劇作家・井上ひさし氏などの映画や作品についてのツイートもなるべく早くにまとめて、スレッドを立ち上げるようにしたいと考えています

容量が大きくなりすぎたようでスムーズに移行しない場合は、「目次」〔満州国の負の遺産と安倍政権〕のような形でキーワード検索するとスレッドの冒頭に入れるようです。

  *  *

 スレッドの項目は下記の通りです。

「目次」(1): 〔司馬遼太郎の国家観〕、〔『罪と罰』を読み解く〕、〔新聞『日本』から右派メディア新聞『日本』(二代目)へ〕、〔手塚治虫の『罪と罰』観と『アドルフに告ぐ』〕、〔『アドルフに告ぐ』と3つのオリンピック〕、〔満州国の負の遺産と安倍政権〕(Ⅰ)、〔満州国の負の遺産と安倍政権〕(Ⅱ)、 

「目次」(2): 〔堀田善衞と『日本浪曼派』〕、〔司馬遼太郎の沖縄観と現代の沖縄〕、〔小林秀雄の歴史観と「日本会議」〕、〔安倍内閣と「日本会議〕(ママ)、〔安倍政権とヒトラー政権〕、〔『#新聞記者』〕、〔株価とアベノミクスの詐欺性〕

なお、「目次」(2)には、参議院選挙の前に急いで掲載した〔参議院選挙と「緊急事態条項」の危険性〕のページも〔安倍内閣と「日本会議〕の前に挿入しました。

   *   *   *

〔司馬遼太郎の国家観〕へのスレッドへは、下記のツイートから入れます。(以下、同じ)↓

https://twitter.com/stakaha5/status/1165998425814364160

「人間は法のもとに平等」であり、「それが明治の精神であるべき」だと考えていた人間は、「のちの国権的政府によって、はるか彼方に押しやられてしまった」(「竜馬像の変遷」)。

   *   *

〔『罪と罰』を読み解く〕のスレッドへは、↓

https://twitter.com/stakaha5/status/1087718612624764929

「立憲主義」が崩壊する過程を考察することで、徳富蘇峰の英雄観を受け継いだ小林秀雄の『罪と罰』論の危険性を明らかにした。

   *   *

〔手塚治虫の『罪と罰』観と『アドルフに告ぐ』〕のスレッドへは↓

https://twitter.com/stakaha5/status/1143502216826802176

マンガ『罪と罰』で司法取調官ポルフィーリイは危険な「天才」の例として「非凡民族の理論」を掲げたヒトラーも挙げています。この作品は手塚治虫の『アドルフに告ぐ』にも直結しているのです。

   *   *

 〔『アドルフに告ぐ』と3つのオリンピック〕↓

https://twitter.com/stakaha5/status/1164210142918787075

ベルリン・オリンピックが行われた1936年に次期オリンピックが東京に決まった。 2・26事件の後で日本は11月に「日独防共協定」を結び戦争は拡大、1940年のオリンピックは幻となった。 2020年は…。

   *   *

〔満州国の負の遺産と安倍政権〕(Ⅰ)↓

https://twitter.com/stakaha5/status/1162220365206081536

岸元首相が高官として、クーデタで権力を握った朴正煕大統領が満州国の元軍人として深く関わっていた満州国は、「五族協和」や「八紘一宇」の美しいスローガンとは正反対の国家だった。

   *   *

〔満州国の負の遺産と安倍政権〕(Ⅱ)↓

https://twitter.com/stakaha5/status/1165188016463237120

安倍政権が「日韓請求権協定」問題で執拗に文政権を批判するのは、岸元首相が高官として深く関わっていた満州国がアヘン取引に関わっていた実態を日本の国民から隠蔽したいためだと思われる。

ドストエーフスキイの会、253回例会(報告者:太田香子氏)のご案内

「第253回例会のご案内」を「ニュースレター」(No.154)より転載します。

*   *   *

第253回例会のご案内

 

   下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

2019921(土)午後2時~5時

場所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車徒歩7分) 和室

                  ℡:03-3402-7854

報告者:太田 香子 氏

題 目: ステパンの信仰告白から読み解く『悪霊』

   *会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:太田香子(おおた きょうこ)

1986年生まれ。会社員。13歳で『罪と罰』を読んで以来、ドストエフスキー作品を読み続けている。ドストエフスキーの意図を丁寧に、正確に読み取ることに少しでも近づくことが変わらぬ目標。

   *   *   *

第253回例会報告要旨

ステパンの信仰告白から読み解く『悪霊』

 「ぼくにとって不死が欠かせないのは、神が不正を行うのを望まれず、またぼくの胸の中にひとたび燃え上がった神への愛の火をまったく消し去ることを望まれないという理由によるものです。愛より尊いものがあるでしょうか? 愛は存在よりも高く、愛は存在の輝ける頂点です。だとしたら、存在が愛に従わないなどということがありうるでしょうか? もしぼくが神を愛し、自分の愛に喜びをおぼえているとするなら―神がぼくの存在をも、ぼくの愛をも消し去って、ぼくらを無に変えてしまうなどということがありうるでしょうか? もし神が存在するとすれば、このぼくも不死なのです。コレガ・ボクノ・シンコウコクハクデス」(『悪霊』下巻 p.614 新潮文庫 江川卓 訳)

 今回の発表では、『悪霊』の終盤、ステパンの臨終の場面での彼の信仰告白の言葉(冒頭に掲げた台詞)を手掛かりに、『悪霊』で表現されようとしていたテーマを探りたいと思います。当該箇所は、『悪霊』の成立背景を考えたときに、「スタヴローギンの告白」で表現される内容と重なる部分があることから、ドストエフスキーが『悪霊』を通して表現しようとしていた考えの核心を捉えるには欠かせない場面であると思われます。また、発表者である私自身が、学生時代に読んで人生観を変えられるほどの衝撃を受け、その後も折に触れ繰り返し読み返してきた箇所でもあります。今回の発表を通して当該箇所の理解を深め、さらにそこで表現されているテーマが、いまを生きる人間にどのようにかかわりがあるのかを考えたいと思います。

 ステパンの信仰告白は抽象的な観念の表明となっています。また、『悪霊』全体を通してみたときに、それまでのステパンの人物像から予想される想定を上回る思考が表現されています。そのため、当該箇所のステパンの台詞の言い回し、言葉の選ばれ方に着目し、『悪霊』の全体を通してステパンの台詞の裏付けとなる箇所をいくつか取り上げ、比較検証を行うことで、ステパンの信仰告白で表現される概念が何と結びついているのか、またそれが意味するのはどのような思考なのかを検証します。

具体的には、「子ども」の概念をめぐるシャートフ、キリーロフ、スタヴローギンの立場の違いを切り口に、特にキリーロフの思想の特徴とそれに対するスタヴローギンの考えの違いを明らかにします。

また、マリヤ・レヴャートキナの回想、「スタヴローギンの告白」にあるスタヴローギンの夢の描写、ステパンの最後の台詞、の三つを比較検証することで、この三つの台詞相互の関連と、そこから読み取れるドストエフスキーが本作で表現しようとしていたと思われる考えについて考察を深めます。

そして、ステパンの最期の場面にある別の台詞にある、「左の頬を差し出せ」という言葉の意味が理解できたときほかにも会得することがあった、が何を意味しているのか、またなぜその台詞がステパンの人生の終わりに出てくるのかを考えます。

上記の考察を通して、冒頭に掲げたステパンの信仰告白から広がる、『悪霊』の読みの可能性を探っていきたいと思います。

*   *   *

合評会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

(4)眼が真っ黒に塗りつぶされた羊の絵――参謀の「魔法の杖」と内閣官房の闇

この映画では新聞社の社会部に匿名で送られてきた「医療系大学の新設」に関する極秘公文書の表紙に描かれた「真っ黒に眼が塗りつぶされた羊」の絵が、重要な役割を果たしている。

すると神崎の妻・伸子は「羊の形」が幼い娘のために書いた羊の絵とそっくりだが、やさしそうに笑っていた羊とは違い、沈黙に耐えているような苦悩を感じて夫の机の鍵を渡す。引き出しを開けた吉岡は、そこに全く同じ羊の絵と極秘公文書を見つけ、さらにその下には、重要な個所にはマークが付けられている本を発見した。それは化学兵器生物兵器の実験が行われていたアメリカ陸軍の実験施設で1968年に起きたダグウェイ羊事件と呼ばれる羊の大量死事件についての本だったのである。知らせを受けて駆け付けた杉原(松坂)も、「真っ黒に眼が塗りつぶされた羊」の絵から強い衝撃を受け、吉岡(シム)に協力することを決意したのだった。

1931年(昭和6年)に「満州事変」を起こし翌年には満州国を建国した日本は、「五族協和」などの美しいスローガンを掲げたが、実際には過酷な植民地政策を行っていた。それを批判されると国際連盟から脱退しした日本は、1939年には陸軍が満州国境でノモンハン事件を起こして1940年の東京オリンピックは幻に終わっていた。

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映画できわめて重要な役割を果たしているこの「羊」の絵をとおして、オリンピックを翌年に控えた現在の日本と昭和初期の危険な類似性を分析することにする。

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 満州国の国境付近で1939年に起きたノモンハン事件について、研究者のクックス氏から戦前の日本では国家があれだけの無茶をやっているのに国民は「羊飼いの後に黙々と従う」羊だったと指摘された司馬遼太郎は、「日本は、いま世界でいちばん住みにくい国になっています。…中略…『ノモンハン』が続いているのでしょう」と応じていた(「ノモンハンの尻尾」『東と西』朝日文庫)。

戦車兵だった司馬がノモンハン事件に強い関心を持ったのは、日本ではこの事件のことが全く報道されていなかったためである。軍による「嘘」や情報の「隠蔽」は、太平洋戦争時の「大本営発表」でいっそう顕著になるが、すでにこの頃から起きていたのであり、それはオリンピックを前年に控えた現在、内閣官房長官が記者会見で行う「情報」の質を予告していたように見える

米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は「日本は憲法で報道の自由が記された現代国家だ。それでも日本政府はときに独裁国家をほうふつとさせる振る舞いをしている」と批判しているが、敗戦から70年経った現在、安倍政権与党の自民党と公明党の議員だけでなく、官僚たちが再び「沈黙を強いられた羊」と化してしまったかのように感じ、この眼が真っ黒に塗りつぶされた「羊」は、現在の日本人の姿をも象徴しているように思えた。

誠実な官僚だった神崎の自殺は、司馬が書こうと長年準備していた幻の長編小説『ノモンハン』にも深く通じているところがある。

劇作家・井上ひさし氏との対談で「私は小説にするつもりで、ノモンハン事件のことを徹底的に調べたことがある」と記した司馬氏は、「ノモンハンは結果として七十数パーセントの死傷率」で、それは「現場では全員死んでるというイメージです」と語り、戦闘に参戦した連隊長の証言をも記していた。

すなわち、「天幕のなかにピストルを置いて、暗に自殺せよ」と命じられたことを伝えた須見新一郎元大佐は、「敗戦の責任を、立案者の関東軍参謀が取るのではなく」、貧弱な装備で戦わされ勇敢に戦った「現場の連隊長に取らせている」と厳しく批判したのである(『国家・宗教・日本人』)。

 「このばかばかしさに抵抗した」須見元大佐が退職させられたことを指摘した司馬は、彼のうらみはすべて「他者からみれば無限にちかい機能をもちつつ何の責任もとらされず、とりもしない」、「参謀という魔法の杖のもちぬしにむけられていた」と書いている(『この国のかたち』・第一巻)。

こうして「ノモンハン事件」を主題とした長編小説は『坂の上の雲』での考察を踏まえて、「昭和初期」の日本の問題にも鋭く迫る大作となることが十分に予想された。しかしこの長編小説の取材のためもあり行った元大本営参謀の瀬島龍三との対談が、『文藝春秋』の正月号(1974年)に掲載されたことが、構想を破綻させることになった。

すなわち、この対談を読んだ須見元連隊長は、「よくもあんな卑劣なやつと対談をして。私はあなたを見損なった」とする絶縁状を送りつけ、さらに「これまでの話した内容は使ってはならない」とも付け加えていた(「司馬遼太郎とノモンハン事件」)。

実際、『永遠の0(ゼロ)』で重要な働きをなしている元海軍中尉で「一部上場企業の社長まで務めた」武田貴則のモデルとなっている瀬島龍三は、戦後に商事会社の副社長となり再び政財界で大きな影響力を持つようになり、1995年には「日本会議」の前身である「日本を守る国民会議」顧問の役職に就いているのである。

「ゴジラの哀しみ 書影」の画像検索結果

須見元連隊長との関係について記した元編集者の半藤一利氏は、「かんじんの人に絶縁状を叩きつけられたことが、実は司馬さんの書く意欲を大いにそぎとった」のではないかと推測している。

研究者の小林竜夫氏も須見元大佐がこの長編小説の主人公だったのではないかと考え、「須見のような人物を登場させることはできなく」なったことが、小説の挫折の主な理由だろうと想定している(『モラル的緊張へ――司馬遼太郎考』)。たしかに、惚れ込んだ人物を調べつつ歴史小説を書き進めていた司馬のような作家にとって主人公を失うことは大きい。小説は「書かなかった」のではなく「書けなくなった」のである。

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幻となったオリンピックの前年に起きたノモンハン事件と比較するとき、映画『新聞記者』の台本の執筆者たちがどの程度、司馬を意識したかは分からないが、「自殺」という問題をとおして、戦前から現在にいたる日本社会の病理にも迫ろうとしていたように思える。

 

(3)黒澤映画『悪い奴らはよく眠る』から『新聞記者』へ――自殺に追い込む社会の病理に鋭く迫る

もう一人の主人公は外務省から内閣情報調査室に出向していたエリート官僚の杉原(松坂桃李)である。ここでもその能力を高く評価されていた杉原は、次第に自分が政権のために批判者のスキャンダルを作り上げるという陰険な作業に加担させられていることに気づいて困惑する。

この映画に圧倒的な緊張感を生み出しているのは、内閣情報調査室の直属の上司である内閣参事官多田を演じる田中哲司の存在感だろう。彼の演技からは昭和初期の日本の雰囲気がスクリーンから立ち上がってくる。

「伊藤詩織さんの事件」がスキャンダラスに報道されているのテレビを見た出産を間近に控えた妻・奈津美(本田翼)は、「ひどいわね」とつぶやくがその言葉は杉原の胸に突き刺さった。

物語が本格的に動き出すのは公務員のあるべき姿を学んだ外務省の頃の上司の神崎(高橋和也)と久しぶりに昔を思い出しながら楽しく飲んだときからである。

飲んで泥酔した彼を自宅に送り、神崎の妻・伸子(西田尚美)や美しい乙女に成長した彼の娘・千佳(宮崎陽名)と再会するが、別れ際に伸子は何かを切実に伝えようとしてやめた。それから数日後、神崎からの謎めいた言葉に驚いた杉原は必死に携帯電話で呼びかけるが返事はなく、ビルの屋上から身を投げた。

神崎の自殺からは独自の取材を続けていた吉岡も強い衝撃を受けた。すぐれたジャーナリストだった彼女の父も、政府がらみの不正融資の報道が誤報だったとされ自殺していたのである。父の死に顔を見て慟哭した吉岡の記憶が、父の自殺に悲しむ娘・千佳(宮崎陽名)の悲しみに重なる。

日本社会の病理と深く関わる自殺のテーマを黒澤明監督は、A級戦犯被疑者の岸信介が首相として復権して新安保条約を強行採決した1960年に公開された映画『悪い奴ほどよく眠る』で、汚職事件で自殺させられた父親の復讐を企んだ主人公の行動を、『罪と罰』を思わせるような推理小説的な手法と鋭い心理描写を用いながら描き出していた。

Постер фильма 

(写真はロシア語版「ウィキペディア」より)

https://twitter.com/stakaha5/status/972039214937268225

悪い奴ほどよく眠る(プレビュー)

脚本の執筆者の一人でもある藤井道人監督(詩森ろば、高石昭彦共著)がどの程度、黒澤映画『悪い奴ほどよく眠る』を意識していたかは分からない。しかし、この映画『新聞記者』も権力者から責任を押し付けられた部下が自殺を強いられる、あるいは苦悩のあげく自殺するという問題が、令和の時代になってもまったく改善されていないどころか、「公文書」の破棄など映画『悪い奴ほどよく眠る』が公開された1960年代よりも悪化していることを示しているのである。

「自殺の本当の理由」に迫ろうとしていた新聞記者・吉岡は、葬儀で知り合った杉原が、「私は国側の人間です」と語り突き放そうとした杉浦にたいして、「そんな理由で自分を納得させられるんですか? 私たち、このままでいいんですか」と鋭く問い詰めたのである。

葬儀の場での吉岡との運命的な出会いは、官僚の杉原をも動かしていくことになる。

 

映画『新聞記者』を読み解く(2)――権力の腐敗の問題に新聞と映画はどれだけ切り込むことができるか

 新聞社では文科省元トップ官僚の女性スキャンダルのニュースに緊張が走る。テレビなどのマスコミは、先を争うように「その人物の社会的信用を失墜させる」疑惑を報道。ことに大手の新聞社は特ダネを一面で大々的に報じた。しかし、通常は地方版では異なるはずの紙面は不思議なことにどこも同じであった。

そのことに疑問を抱いた女主人公の吉岡(シム・ウンギョン)は、真実を求めて文科省元トップ官僚の直撃取材を敢行し、総理の伝記を書いた人物を告発する本を書いた女性への中傷や罵倒がツイッターに氾濫するようになると、自分の考えをツイートする。

こうして、この映画では「官邸権力と報道メディア」(出演者:望月衣塑子、前川喜平、マーティン・ファクラー、南彰)という題名の討論番組の映像も組み込みながら、「情報」の「真偽」をめぐって緊迫した筋が展開していくことになる。

→討論「権力とメディア

興味深いのはトークイベントで河村光庸プロデューサーが、「新聞記者」製作の発端が「伊藤詩織さんの事件です」と明かし、こう続けていることである。「国家権力が逮捕状を出しておいてそれを取り下げるなんてことがあっていいのかと。そこまで来ちゃったのかと。大変な危機感を持ってなんとしてでもこの映画を作らなければと思いました」。

「新聞記者」トークイベントの様子。左から河村光庸、前川喜平、石田純一、高橋純子。

https://natalie.mu/eiga/news/343077(写真は「映画ナタリー」より)。

この言葉から私が思い出したのは、黒澤監督がロマノフ朝・最後の皇帝ニコライ2世とその一族の最期を当時のニュースフイルムや記録フィルムをも取り込んで壮大なスケールで描いた映画『アゴニヤ(断末魔))』を高く評価していたことである。

日本では《ロマノフ王朝の最期》という題で公開されたこの映画では、政府の汚職がはびこり、民衆の飢餓が拡がっていた帝政ロシアの末期に皇后や女官たちに巧みに取り入った怪僧ラスプーチンが犯した犯行も罪に問われなかったことが描かれていたのである。

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(原題は『断末魔』、アマゾンより)

国連特別報告者は「日本政府に対し、特定秘密保護法の改正と、政府が放送局に電波停止を命じる根拠となる放送法四条の廃止を勧告した」が、安倍政権は無視し続け、報道の自由度は9年前の11位から67位にまで落ち、日本の「報道の自由」は危険水域に達しているように見える。

官僚たちが権力者の意向を「忖度」し、狂信的な宗教者が重用されるとき、国家は崩壊へと向かうといえよう。

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一方、菅官房長官の記者会見でも歯切れの良い口調で質問を行っている望月衣塑子記者の新書『新聞記者』(角川新書、2017年)を原案としたこの映画でも、国民の「知る権利」を守るために精力的な取材を続ける著者の姿勢が描かれている。

新聞記者 (角川新書)

しかも、この映画では原作にとらわれずに、女主人公の吉岡(シム・ウンギョン)に日本人の父と韓国人の母の間に生まれてアメリカで育ったという多元的なアイデンティティを与えることで、女主人公の人物像に深みを与ええている。

ある夜、新聞社の社会部に「医療系大学の新設」に関する極秘公文書が匿名のファックスで送られてくる、その書類を託された吉岡は調査を開始するが、その表紙に描かれていた眼が真っ黒に塗りつぶされた「羊」の絵は、エリート官僚の杉原(松坂桃李)と彼女を結びつけることになる。

前川喜平、寺脇研、望月衣塑子講演会

 

映画『新聞記者』を読み解く(1)――権力による情報の「操作」と「隠蔽」の問題に鋭く切り込む快心作

「映画 新聞記者」の画像検索結果

映画『新聞記者』では人気俳優の松坂桃李が主人公の一人を演じているにも関わらず、テレビでは映画『新聞記者』の前宣伝を見ることは全くなかった。それゆえ、私には戦前や戦中と同じような厳しい「報道統制」が敷かれているのかとすら思えた。

しかし、政府による言論の弾圧と常に直面している「報道」の問題をとおして、自民党の「憲法」案に記されている緊急事態条項の危険性にも肉薄しているこの映画は、上映館数はそれほど多くないにも関わらず、一時は映画興行収入のランキングで8位も記録した。

ソ連の末期には「言論の自由の重要性」を訴えた劇の切符を求める長い行列ができていた。

ここでは黒澤映画などと比較することにより、「言論の自由」がなくなり始めている現代日本の政治の闇に鋭く迫ることで、観客にも現実を変革する一歩を踏み出すことを求めるような力を有しているこの映画の内容と特徴を紹介することにしたい。

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【 映画パンフレット 】 新聞記者

 国会議事堂が中央に白く浮かび上がる夜の風景が映っている映画『新聞記者』のパンフレットを開くと、記者たちが働く大きな部屋の写真が見開きで載っており、その下に「この国に”新聞記者”が必要なのか――?」という文字が白い文字で打ち込まれている。

 実際、官房長官の記者会見などで見られるように、問題のある発言に対しても鋭い質問は飛ばず、ほとんどの記者が黙ってワープロを打つ映像がしばしばみられる。

8月9日には「上からの指示で公文書」を改ざんをさせられ、自殺した近畿財務局職員がいたにもかかわらず、森友問題では元財務省幹部らが再び不起訴となった。一方、この映画はフィクションという手法で、政府による言論の弾圧と常に直面している「報道」の問題を、主人公たちの内面をとおして描いており、テレビだけでなく警察や特捜までもが沈黙するようになり、高級官僚の「法意識」や「道徳観」が地に落ちたとも思えるこの時代に、報道に携わる「新聞記者」が政治の闇にどこまで迫れるかを鋭く問う力作となっている。

しかも、強大化した官邸の権力に高級官僚もひれ伏すようになるなかで、内閣情報調査室に出向して現政権を維持するために公安と連携して政敵のスキャンダルを創り上げることを命じられた元外務相のエリート官僚の苦悩をとおして彼の「良心」の問題にも迫っている。

8月8日に丸の内ピカデリーで映画『新聞記者』を再び観た際にも、冒頭から最後の場面まで一気に引きこまれて見入ってしまった。私が黒澤映画に熱中するようになったのは、映画《白痴》で小林秀雄の『白痴』論とはまったく異なる解釈を行っているように、黒澤監督には勝れた文学作品のすぐれた理解があった。また、NHKで大河ドラマ化された長編小説『坂の上の雲』の作者・司馬遼太郎も、「つくる会」によって「明治の賛美者」に仕立てられたが、ロシア文学に親しんでいた彼は「幕末から現代に至る「神国思想」の厳しい批判者であった。それゆえ、本稿では黒澤明の映画や司馬の幻の長編小説『ノモンハン』に注意を向けながら、映画『新聞記者』を読み解くことにしたい。

映画『新聞記者』予告編

→討論「権力とメディア

 
(書き進める中でこの稿は何度も書き直しているので、全部を書き終えた時から改訂の日時を記すことにする。2019年8月21日)。

(参考:パンフレット『新聞記者』)。