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文明論(地球環境・戦争・憲法)

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三宅正樹著『文明と時間』(東海大学出版会、2005年)

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1、『文明と時間』の構造と意義

東海大学でも長く教鞭をとられてきた三宅正樹・明治大学名誉教授は、 ご専門の『ユーラシア外交史研究』(河出書房新社, 2000年)を発行された後も、『スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想』(朝日選書, 2007年)『スターリンの対日情報工作――クリヴィツキー・ゾルゲ・「エコノミスト」』(平凡社新書, 2010年)などの著作を次々と刊行されている。

ここでは古代ギリシャや西欧各国だけでなくギリシャ正教を受け入れたロシアや、古代から現代にいたる中国や近代日本の時間概念が比較文明論の視点から考察されている大著『文明と時間』を取り上げたい。

なぜならば、本書は3つの部から成り立っているが、第1部の「比較文明論の視角」では、湾岸戦争やボスニア・ヘルツェゴビナの紛争、チェチェン紛争などが頻発するようになったソ連の崩壊後の事態を受けて、これからは「イデオロギーの対立」に代わって「文明の衝突」の危険性がますます増えると予測して激しい議論を呼んだ政治学者サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突?」(1993年)や大著『文明の衝突と世界秩序の再編成』(1996年、邦訳『文明の衝突』)が、トインビーの文明論などとの比較をとおして詳しく考察されているからである。

しかも、ここで三宅教授は「土着」や「熱心党」という翻訳の用語の問題にも注意を促しつつ、「周辺文明」という概念から「欧化と土着」の問題を分析した「我国における比較文明研究のすぐれた開拓者のひとり」である山本新氏の考察をとおして、ハンチントンのロシア観や日本観の問題に鋭く迫っており、ロシアとの北方領土問題だけでなく、中国や韓国との間でも領土問題に揺れるようになった現在の日本を冷静に考えるための重要な示唆に富んでいる。

本稿では第1部の「比較文明論の視角」に焦点を絞って考察することで本書の意義を明らかにしたいが、その前に簡単に全体の構造を紹介しておく。

第1部に続く第2部は「時間意識・時間観念と歴史」と題されており、そこには「古代の二大歴史家、ポルピオスと司馬遷」歴史観も比較されている「ヨーロッパ史の諸時期における時間意識の様相」や、トインビーの時間概念とルネサンス論も考察されている「時間観念からみた現代ヨーロッパ史学思想の再検討」、さらには第一次世界大戦の問題や「ヴェルサイユ条約の衝撃」が分析されている「ヴァイマル共和国における『保守革命』の時間意識と歴史意識」などの興味深い章が収められている。

そして、やはり3つの章からなる第3部「進歩の理念」では、「近代ヨーロッパにおける進歩の理念の成立」に大きな役割を果たした「古代・近代論争」が、東西の多くの歴史家の比較をとおして詳しく考察されている。

この意味で注目したいのは、第1部の構想だけでなく本書全体を説明していると思われる第1章〔時間の比較文明論〕では、〔ハンチントンとトインビー〕と題されている第1節から始まり、〔時間意識と文明〕、〔進歩の理論と「古代・近代論争」〕、〔下降する時間と不連続の連続としての時間〕へと続き、〔日本とロシアの「欧化」と進歩の理念〕の節で終わっていることである。

このような構成は歴史学における時間概念の綿密な考察をとおして、現代日本の状況にも迫っている本書の性格をよく物語っているであろう。次節からは日露の近代化の比較研究を専門とする筆者の視点から、この著作における考察を詳しく読み解くことによって、本書の意義を明らかにしたい(以下、敬称は略す。また本書よりの引用箇所はかっこ内にローマ数字で示す)。

2、ハンチントンの世界観とトインビーの文明論

第1部第1章〔時間の比較文明論〕の冒頭で三宅氏は、ハンチントンがトインビーは『歴史の研究』において、「21の文明の存在を指摘したが、現在の世界に存在するのはそのうちの6つにすぎない」と記しているが、トインビーがその後「周辺文明(peripheral civilization)」の重要性を指摘したバグビーの提案を採用して「衛星文明(satellite civilization)」という概念を取り入れたので、晩年の『図説・歴史の研究』では、「独立文明は14、衛星文明は17、計31文明となっている」ことを確認している(3~4)。

そして三宅氏は、「文明の衝突」ということを論じようとするならばハンチントンは、「トインビーの文明論のこのような発展を十分に考慮に入れるべきであった。特に日本文明とロシア文明について、周辺文明ないしは衛星文明として理解する視点を導入していれば、議論がはるかに緻密なものになっていたに違いない」と記している(5)。

さらに、『現代日本の開化』で日本における「文明開化」を「皮相上滑りの開化」と指摘した夏目漱石と、ロシアの近代化の問題を深く考察したロシアの思想家チャアダーエフの歴史認識の類似性を指摘した「山本新の卓見は、継承し発展させることが可能な要素を含んでいる」とした三宅氏は、「周辺文明の時間意識の考察にも、示唆を与えるものであろう」と結んでいる(15)。

第2章の〔諸文明の「同時性」と円環的時間意識〕では、トインビーがエッセー「わが歴史観」などにおいて、1914年に第一次世界大戦が勃発した際に、大学の授業でペロポネソス戦争を実証的な視点で記述した『戦史』の著者トゥキュディデスの講義をしていたことから、「我々が今、現在の世界で経験しつつあるその経験は」、「トゥキュディデスが紀元前431年にペロポネソス戦争が勃発したときに、感じたにちがいないものを理解したように思った」ことが重視されている(19~20)。

そしてトゥキュディデスの『戦史』は、「行為の因果関係を見つめる鋭い視線などから、近代的な意味での歴史記述としての評価も高い」が*1、ここでは歴史学の発達を論じた『歴史とは何ぞや』という著作でベルンハイムが、つぎのようなトゥキュディデスの記述に注意を促していることも指摘されている(21)。

すなわち、トゥキュディデスはこの「著作の役だつべき点は、過去の事物について明確な観念を与えることにある。故に彼は、昔に似た政治上の形勢に対しては過去の知識から実用的な教訓が汲まれんことを欲し、且つすべての人間の本性と行為とは一般に類似しているから」と記し、さらに「この記述は、今日の読者に媚びて賞を得るためではなく、世々の遺産たるべく綴られた」と書いていたのである(21~22)。

第一次世界大戦に敗れたハンガリー・オーストリア帝国の崩壊が、ソ連邦の崩壊と同じように支配下の多くの国で民族紛争を呼び起こしていたことを考慮するならば、時間や空間を超えて「すべての文明の哲学的同時性」という「比較文明論」の構想を得たトインビーの「トゥキュディデス体験」の意義が第2章で詳しく論じられていることは、国際政治学の視点から『文明の衝突』の問題を考察したハンチントンの文明観の特徴を詳しく考察するためにも欠かすことのできない作業だったといえるだろう。

3、ハンチントンの文明観と比較文明学

第3章の第1節では、ハンチントンの『文明の衝突と世界秩序の再編成』を、「比較文明論の成果をただ利用しただけというような性格のものではなく」、「比較文明学に対してきわめて鋭く問題を投げかけているもの」と位置付けた哲学者で比較文明論研究の第一人者のひとりであった神川正彦氏の論文を詳しく分析することで、国際政治学との比較文明学の接点と視点の違いが確認されている。

すなわち、神川氏によれば、国際政治学と比較文明学は「第一次世界大戦を介して成立した新しい学の分野であり」、「両者は同時に誕生した『双生児』である」。しかし、比較文明学は「多文明の世界」を前提としており、「ヨーロッパ中心史観をはっきりと否定する」ので、「『多文明の世界』を認めながら」、同時に「国際政治は権力政治ないしは権力闘争であるというリアリティの確認」を原則としているハンチントンの『文明の衝突』は、「比較文明学の思想を完全に欠如している」と鋭く批判していたのである(31~32)。

同じような批判はハンチントンの欧化と「引き裂かれた国家」をめぐる議論に注目したアメリカの著名な比較文明学者ウィルキンソンからも出されていた。

すなわち、ハンチントンは「欧化は理論上は可能である。もし、それらの国家のエリートが熱心であり、公衆が黙認し、新しく受け入れ側となる文明が歓迎するならば、これらの国家は自己の文明上のアイデンティティーを取り替えるかも知れない」が、「ロシア、トルコとメキシコは、これまでのところ欧化を試みて失敗して」おり、「これらの国家はこの過程で文化的に分裂症的な『引き裂かれた国家』になりつつあり、何らの利益も挙げていない」と記していたのである(37~38)。

ウィルキンソンの指摘を踏まえて「引き裂かれた国家」という考え方は、「ハンチントンが本書で展開しているさまざまな議論の中でもとりわけ興味深いもののひとつである」とした三宅氏は、ロシアの思想家チャアダーエフが1836年に発表した「哲学書簡 第一」の後半の部分で、「ビザンツの遺産を否定して西ヨーロッパのカトリック精神を受け入れることこそ、ロシアの歩むべき唯一の道である旨を、繰り返しくりかえし力説している」ことを紹介し、ハンチントンがチャアダーエフを「西欧派の代表的な思想家と断定している後半はロシア思想の歴史に即していない」ことを明らかにしている(38~42)。

その一方で三宅氏は、日本の比較文明学者・山本新氏がすでに『周辺文明論――欧化と土着』(神川正彦・吉澤五郎編、刀水書房、1985年)で、「チャアダーエフは夏目漱石と比較されるべき、非西欧世界の欧化につきまとう困難な問題を象徴する思想家である」と指摘して、日露の近代化の問題をより深く考察することを求めていたことに注意を促している(46)。

さらに三宅氏は、訳書では「比較文明論における重要な概念」である「土着化(Indigenization)」が、「地域主義」と訳されていることは、「言葉としてもつニュアンスを十分に伝えていないように思われる」と断ったうえで、ハンチントンがイスラム世界やインド、さらにはロシアばかりでなく、「日本においても土着化が進行している」として、1980年代の「日本人論」の流行を取り上げていることを指摘している(50)。

ここで注目したいのは、ハンチントンがロシアの思想家ダニレフスキーの著『ロシアとヨーロッパ――スラヴ世界のゲルマン・ローマ世界にたいする文化的および政治的諸関係の概観』(1869)に言及して、ここでは「ヨーロッパ化の努力を『ひとびとの生活を歪め、その形を異質の、外国の形に置き換える』ものとして」と批判されていたと紹介し、さらに「ソヴィエト時代は西欧派とスラヴ派の論争は、一時中止されていた」が、「ソヴィエト体制崩壊後はこのような協力関係は消滅し、両派の対立はふたたび活性化するに至った」と書いていたことである。

すでに三宅氏は政治学者中山治一氏の論文によりながら、ロシアとトルコとの戦争に際して、イギリスやフランスがイスラム国家のトルコの側に参戦したクリミア戦争を比較文明学的な視点から、「ヨーロッパ国家系」から「世界国家系」へと「世界史」が拡大し変質していく「端緒」ととらえていた*2。

実際、イギリスを「文明」とし、その一方でロシアとトルコを「野蛮」と位置付けたイギリスの歴史家バックルの『イギリス文明史』も、クリミア戦争の最中に書かれていた。その一方で、比較文明論の端緒とも位置づけられるダニレフスキーの『ロシアとヨーロッパ』も、クリミア戦争での敗戦を契機として書かれ、攻撃的な西欧列強に滅ぼされないためには、ロシアを盟主とするスラヴ連盟を締結しなければならないと訴えていたのである*3。

4、「文明の衝突」と「文明の共存」

第4節では「土着化・非西欧諸文化の復活(Indigenization:The Resurgence of Non-western Cultures)」という節をハンチントンが、次のように締めくくっていることが紹介されている。

「このように『進歩の時代の終焉』を目撃しつつある我々は、複数かつ多様な文明が相互に接触交渉を繰り返す時代に突入しつつあるのであり、地球全体に広がったこの土着化の過程が鮮明に見られるのは各種の宗教の復興」においてである(51~52)。

このことを確認したあとで三宅氏はトインビーが『歴史の研究』において、「同時代に生ずる文明の「出会い(encounter)」に際して、攻撃を受けた側の文明の内部に見られる正反対の反応を「ヘロデ主義(Herodianism)」と「ゼロト主義(Zealotism)」と名づけている」ことを確認するとともに、「ゼロト主義とは攘夷主義という意味であり、熱心党という訳語では十分にその意味が伝わってこない」ので、「攘夷党」と訳したほうがよいとの重要な指摘をしている(52)。

「文明の衝突」というテーマにもかかわる重要な用語なので、この二つの概念について分かりやすく説明しており、三宅氏が引用している日本思想史研究家の源了圓氏の言葉をここでも引用しておく。

すなわち、ヘロデ主義者とは「ローマ文化の長所を摂取してそれによってローマに対抗する力を得ようとしたヘロデ大王から得たことばであり」、ゼロト主義者とは、「烈しくローマ文化を排撃し、熱狂的に自国の宗教の純粋さを守ろうとした一団の人々(ゼロット)から得たことばであり、もっとひろく、文化摂取のさいに外来文化を排撃し、それによって自国の文化的純粋さと国家的独立を保とうとする人々」を指していた。

そして、「このヘロデ主義者とゼロットとの対立は、近代西欧文明に接触した他の文明圏において数多く見られた。帝政ロシアにおける西欧派とスラヴ愛護派もその一例であろう。またわが国の幕末に見られた開国派と攘夷派もその有力な一例であろう」と続けた源了圓氏は、「大名の中での最も有力なヘロデ主義者は島津斉彬であり、一般の武士の中のヘロデ主義者の先覚者とも言うべきは佐久間象山」であったとしたと指摘していた(53~4)。

このような源氏の考察は、「トインビーのヘロデ主義とゼロト主義という概念が」、幕末の日本の思想史を分析するのにも、「有効な指標として利用され得ることを証明している」と記した三宅氏は、「圧倒的に優勢な西欧文明に接触した日本の指導者たちは、ヘロデ主義の立場を採用して『富国強兵』の道を選択した」と説明している。

その上で、ハンチントンがこの対立する二つの概念の間に「ケマル主義」と呼ぶ「改良主義」を加えていることについては、中国における近代化と比較しながら、「東洋道徳西洋芸」を唱えた佐久間象山を「日本における『改良主義』の先駆者」と位置付けることを可能にするだろうとの肯定的な評価をしている(56)。

しかし、最後に置かれた第6節の〔ウィルキンソンのハンチントン批判〕では、『文明の衝突と世界秩序の再編成』でハンチントンが「グローバルな国際政治に文明論の分析を適用したこと」や、「グローバルな『近代化』の現象をある程度明確に関連付けることを試みたこと」を評価しつつも、そこでは「文明論的なパースペクティヴは、ハンチントンにとっては世界全体にわたるグローバルな国際政治を観察するための『枠組み(framework)』」であり、「有効性を持つかどうかによって判定されている」とウィルキンソンが批判していると書いている(64~65)。

さらに、トインビーやキグリー、メルコなどの比較文明論者は、「文明論的分析を歴史の全ての時期について有効性を持つと考えており」、さらに「それぞれの文明を本質において統一性と一貫性のある文化を有しているという見解に傾いて」いるが、「ハンチントンは、〈冷戦の時期になって、世界史上初めて、グローバルな国際政治が多極的(multipolar)ならびに多文明的(multicivilization)なものとなっている〉と断定している」ことが指摘されている(64)。

三宅氏は「ウィルキンソンによると、グローバルな文明の存在が否定される一方でハンチントンは、権力と文化とのつながりを重視しており、〈普遍的な文明は普遍的な権力を必要とする〉と断定している」ことにも注意を促している(65)。

実は、この著作を再読した際に気づいたのだが、三宅氏は「欧化と土着」の考察に際して、ハンチントンが「二十世紀においては、輸送と通信の進歩とグローバルな相互依存が、排外主義を実行した場合の代償をひどく高くつくものとし、排外主義はほとんど消滅した」と書き、「トインビーの用語を使えば、ゼロト方式は全く実行不可能な選択なのである」と断言していたことに注意を促していた(59)。

トインビーは『歴史の研究』において、それまでの西欧の歴史観を「自己中心の迷妄」と断じていた*4。その後の世界情勢を見るとき、このようなハンチントンの断言は、ソ連が崩壊したことで唯一の超大国となったアメリカに暮らす政治学者の「迷妄」とさえ思える。

なぜならば、圧倒的な武力を有するペリー艦隊と遭遇した幕末の日本では攘夷思想が広まっていた。そして、太平洋戦争の末期にも自分の生命を犠牲にしてでも祖国を守ろうとする「神風特攻隊」による攻撃が行われたが、あまり日本では知られていないが、ソ連の末期にチェチェンのイスラム教徒の過激派たちも、「神風」と呼ぶ「自爆攻撃」で自国の独立を勝ち取ろうとしていた。こうして、自国の自尊心が激しく傷つけられたと感じた時には、「攘夷思想」はいっそう激しく広がるからである。

一方、トインビーの概念を援用しつつ幕末期の日本の思想状況を説明していた源了圓氏は、「江戸後期の文化は、東アジア文化圏内において中国文化を受容しながらそれを受容、消化し、さらに変容し、創造してつくった日本の伝統文化の総仕上げともいうべき性格」があり、しかもこの時代には「自国中心主義を否定する普遍的精神」すらも成立していたことを明らかにしている*5。

このように見てくるとき、比較文明学と歴史学の視点から、時間認識をとおして国際政治学者ハンチントンの文明観が分析されている第1部「比較文明論の視角」を含む『文明と時間』は、発行から10年近い年月が経った現在もその新鮮さは失われず、かえって重要性を増しているように思える*6。学術論文を中心にまとめた著作なので多少難解ではあるが、研究者のみならず比較文明学をめざす若手の研究者にもぜひ読んでもらいたい書物である。

 

*1  安西真「戦史」『世界大百科事典』平凡社、第16巻、78頁。

*2 三宅正樹「世界の一体化と文明の時間意識」『アウローラ』19号、2000年、19―26頁。

*3 高橋誠一郎『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、2002年参照。

*4 トインビー、長谷川松治訳『歴史の研究Ⅰ』、社会思想社、1967年、75-6頁。

*5 源了圓「江戸後期の比較文化研究」、源了圓編著『江戸後期の比較文化研究』、ぺりかん社、1990年、15-21頁。

*6 三宅教授の書評論文「高橋誠一郎氏の新著『黒澤明で「白痴」を読み解く』を読んで」(『異文化交流』、第12号、2012年)からは、チャアダーエフやダニレフスキーについての著者の深い関心が、若い頃にグリボエードフの『知恵の悲しみ』やプーシキンの歴史小説『大尉の娘』を読み、映画《白痴》からも感銘を受けていた著者のロシア文学の造詣の深さによるものであるがわかる。

(『文明研究』、第31号、2012年。2013年8月、改訂)