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映画・演劇評

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アニメ映画《紅の豚》から《風立ちぬ》へ――アニメ映画《雪の女王》の手法

1992年に公開された「中年男のためのマンガ映画」《紅の豚》では、生々しい戦闘場面も含んではいたが、主人公のパイロット・マルコが「空賊」との戦いでは人を殺さない人物と設定されているだけではなく、「飛べない豚は、ただの豚だ」とうそぶく「クールな豚」にデフォルメすることによって、現実の重苦しさからも飛翔することのできるアニメ映画となっていた。

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戦闘機「零戦」を設計した実在の人物である堀越二郎氏が《風立ちぬ》の主人公となっていることを知ったとき、私は関東大震災から日中戦争を経て、太平洋戦争へと突入することになる重たい時代を、アニメ映画がどのように描き出すことができるのかに期待と不安を持って映画の開始を待っていた。

600名を収容する大ホールのざわめきが、映画が始まると一瞬にして止んだ。それは主人公の少年が屋根の上に置かれた鳥のような美しい飛行機に乗り込んで飛び立つという、冒頭に置かれた夢のシーンの力によるものが大きいだろう。

しかも、この最初の夢で主人公の二郎少年は、「イタリア航空界の黎明期から1930年代にかけて世界的に知られた飛行機製作者」である「ジャンニ・カプローニおじさん」と出会うが、「今日の日本にただよう閉塞感のもっと激しい時代」に生きた二郎の夢の中に、この人物はたびたび現れては挑発したり助言するだけでなく、最後の場面でも再び現れるという重要な役割を担っているのである。

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《風立ちぬ》の「企画書」には、「夢の中は、もっと自由な空間であり、官能的である」と書かれていている。この言葉を読んだときに思い出したのが、宮崎氏が「ぼくにとっては、運命の映画であり、大好きな映画なんです」と述べているアニメ映画《雪の女王》(1957)の中に出てくる「夢の精」ルポイのことであった。

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このアニメ映画の特徴については、スタジアジブリの新訳版《雪の女王》(2007)の解説に端的に書かれているので、少し長くなるががそれを引用する。

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「監督のアタマーノフをはじめとするロシア版のスタッフは、映像化にあたって、『雪の女王』の原作から、賛美歌や天使、主の祈りといった宗教的なアイテムを徹底的に廃しました。

結果、話は普遍的になり生命と想いの力強さが浮き彫りにされ、ついには神話的ともいえる高みに到達したのです。

神話とは国家や一神教(ここではキリスト教)が出現する以前の、アニミズムに深く根ざした、世界の成り立ち、生命の誕生を解き明かし、人が生きて行くための知恵を説く哲学だという学説がありますが、熱き想いを貫くことで、死にも打ち勝ち、幸福を手に入れるという《雪の女王》が描いたものは、まさに神話的と呼んでも差し支えないでしょう。」

ただ、このアニメ《雪の女王》で女王は「死」の象徴だけでなく、「自然(冬)の力」の象徴としても描かれていると思える。なぜならば、カイが「雪の女王」なんかこわくない、燃えている煖炉に突っこんでやると語ったのを聞いた女王は、愚か者を捜し出して心臓に氷を突き刺せと命令したのである。

こうして、カイが自然を軽視した少年として描かれているのに対し、少女のゲルダはツバメや山羊に語りかけるだけでなく、川には自分の靴を贈って、行き先を尋ねるような自然の力を理解できる少女として描かれており、ここでは「自然」に対する「人間の傲慢さ」と「やさしさ」のテーマも響いていた。

このアニメの特徴の一つとしては「夢の精」ルポイを挙げることができるだろう。よい子には白い傘をさすと面白い夢が見られるし、悪い子に黒い傘をさすと夢は見ないなどと語りながら、ルポイは物語を進めていく。

重苦しい時代が描かれている《風立ちぬ》でも、二郎の夢の中に現れるカプローニおじさんは、「日本帝国が破滅にむかってつき進み、ついに崩壊する」という厳しい時代を生きる二郎だけでなく、未だに原発事故が収束せず、泥沼化している現代の日本に生きる青年にも、ルポイのように白い傘をさして、未来への「夢」を与え得ているのである。

 

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2024/03/18、画像を追加