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映画・演劇評

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ニュース

ムィシキンの正確な映像化――ボルトコ監督のDVD《白痴》を見て

映画《白痴》、ボルトコ86l

(図版は「アマゾン」より)。(図版は「成文社」より)

2003年に全10回のシリーズとしてロシアのテレビで放映され、翌年にはモンテカルロ・テレビ祭テレビシリーズ・プロデューサーアワードや最優秀男優賞を受賞して話題となっていたボルトコ監督のテレビ映画《白痴》がDVDとして、2010年に日本でも販売された。

「ドストエフスキーの代表作を、忠実に再現した唯一無二の、完全再現ドラマ」と広告文でうたっているだけに、半分にカットされる前の黒澤映画《白痴》の倍以上の510分という長時間をフルに生かして、原作の複雑な人間関係を見事に映像化している。

ただ、「忠実に再現した」ことが強調されてはいるものの、長編小説のテーマを明確にし、観客を一気に『白痴』の世界に引き込むための工夫もなされている。たとえば、長編小説を読み親しんできた読者は、一瞬、冒頭のシーンに驚かされるだろう。なぜならば、DVDではナスターシヤの部屋を訪れたトーツキイは自分が彼女に犯した過ちを認めつつも、手切れ金代わりに莫大な持参金を提示することで新しい女性との結婚を望んでいることを伝える一方で、エパンチン将軍もオペラ《椿姫》の主人公の父親のように、娘たちの幸せのために身を退くようにと強く頼んだのである。

そして、ナスターシヤに密かに高価な真珠を贈っていたエパンチンをトーツキイがからかいながら去っていくシーンの後で、カメラは彼らを二階から見下ろした後で、ナスターシヤが鏡に十字を描く姿を映し出した。

こうして、このテレビ映画はトーツキイによる過去の記憶に苦しむだけでなく、今また、若い男との愛のない結婚を迫られる誇り高い女性の苦悩を、最初に分かりやすく観客に示すことでこの長編小説の主要なテーマを示し、なにゆえにムィシキンが彼女の写真を見たときに、激しい衝撃を受けたのかを説明し得ていたのである。

さらに、次のシーンでは一転してムィシキンがエパンチン将軍の屋敷を訪れる場面が描かれ、彼のみすぼらしい身なりを見た召使いが、本当に公爵なのかを疑いつつ、取り次ぐべきかどうかを迷っている場面から始まる。そして正式な待合室ではなく、召使いの部屋で話し込んだムィシキンが、ロシアの裁判と比較しつつ、フランスで見た死刑の光景を詳しく語りながら、「殺すなかれ」と語ったイエスの理念を熱っぽく語る姿が映し出される。

それゆえ、タイトル・バックで十字架にかけられたイエスの像を映し出しているこの映画をとおして、観客はナスターシヤの人物像がドストエフスキーがドレスデンの美術館で見て深い感銘を受けたティツィアーノの宗教絵画《懺悔(ざんげ)するマグダラのマリヤ》と結びついているばかりでなく、ムィシキンという主人公もエミリー・シニョールが描いた絵画《罪の女を赦すキリスト》とも結びついていることを視覚的に実感できるのである。

事実、ナスターシヤを演じたヴェレツェワは、暗い過去を背負った影のある絶世の美女を見事に演じているし、ムィシキン公爵を演じたミローノフも、瞑想がちではあるが、聞き手を引き込むような話し方をし、魅惑的な笑顔を浮かべる若者を熱演している。

こうして、面会を待っている間にタバコを吸い始めたムィシキンが吐く煙とともにペテルブルグに向かう列車での回想のシーンがようやく始まり、マシュコフが演じる激しい情熱を持ちつつもそのエネルギーを使う方向性を見いだせなかったロシアの商人ロゴージンや、「反キリスト」とも呼ばれるしたたかな官吏のレーベジェフとの出会いが描かれて、一気に原作の世界へと観客を引き込んでいくのである。

そして、エパンチン将軍との会見の際には、ムィシキンが何度もポケットに手を入れて手紙を取り出そうとするのを将軍が留めるシーンをとおして、雑事に巻き込まれまいとするやり手の実業家としてのエパンチンの性質だけでなく、ムィシキンもまたロゴージンと同じような莫大な遺産の相続者であることに注意を促して、二人の置かれている状況の類似性と、その後の遺産の使い方の比較をとおして、両者の違いを浮き彫りにしえている。

さらに、秘書のガヴリーラがアグラーヤへの手紙を書く場面も映像化することで立身出世を企む彼の意図や、そのような彼に対するボッティチェリの絵画《春》に描かれた「三美神」のように美しいエパンチン家の三人の娘たちや母親の反応をとおして彼女たちの個性もきちんと描かれている。さらに、原作では目立たないが、常に赤ん坊を抱いてる姿を強調することで、ロシアのイコン《ヴラジーミルの聖母》やラファエロの傑作《システィーナの聖母》を連想させるレーベジェフの娘ヴェーラの優しい眼差しも描写されている。

しかも、ムィシキンが相続した遺産を狙ったスキャンダルや、ホルバインの絵画《キリストの屍》とイッポリートが語る哲学的で重いテーマなど黒澤映画《白痴》では省略されていたエピソードや、さらには時間を圧縮するために少しエキセントリックな印象も呼び起こしたアグラーヤとナスターシヤの緊迫した関係もじっくりと描かれている。

そして、日本ではあまり注目されていないがこの長編小説では、教皇への復讐心を抱いた皇帝の「カノッサの屈辱」や、自分の「恩人」がカトリックに改宗したという知らせを聞いて激しく動揺したムィシキンによる厳しいカトリック批判の演説も描かれていた。

このように見てくるとき注目したいのは、この映画ではムィシキンが立ち止まって、権力や欲望に支配されるロシアから立ち去って、山に囲まれたスイスで静かな瞑想生活をおくるべきではないのかと考える場面がたびたび描かれていることである。

実は、長編小説『白痴』では劇作家グリボエードフの『知恵の悲しみ』からの引用が度々なされているが、長い外国生活から戻ったこの劇の主人公の若者は、旧態依然としたロシアの状況を西欧派的な視点から厳しく批判し、「発狂した」との噂を立てられて絶望し、再び外国へとすぐに戻ってしまっていたのである。

若い頃にこの劇から強い影響を受け西欧派の作家としてデビューしていたドストエフスキーは、シベリア流刑以降には、ロシアにある自分の領地からあがる税金によって外国で優雅な生活をおくりつつ、ロシアの政治制度を批判する貴族には、次第にきびしい眼をむけるようになる。

それゆえドストエフスキーは『白痴』で、「知恵」の問題を主題としつつ、グリボエードフの喜劇『知恵の悲しみ』の主人公とは正反対に、そのままロシアに留まれば自分が破滅することになるかもしれないことを深く知りつつも、最後までそこに留まってなんとか虐げられた女性を救おうとし、ついには再び精神を病んだ若者を描き出していたのである。その姿は自分の危険性を顧みずにエルサレムの神殿を訪れて、最後は生け贄の「子羊」のように十字架で処刑されたイエスとも重なる。

こうしてDVD《白痴》は、ロシアの「キリスト公爵」を創造しようとしたドストエフスキー自身の意図を、かなり忠実に映像化し得ているといえるだろう。

(『ドストエーフスキイ広場』第20号、2011年。2014年1月21日、副題など一部改訂。2017年5月7日、図版を追加)