(朝日新聞出版)
一、「教祖」から「評論の神様」へ
敗戦後間もない1946年の座談会「コメディ・リテレール」ではトルストイ研究者の本多秋五などから文芸評論家の小林秀雄(1902~1983)は戦時中の言動を厳しく追及された。
小林とは親しかった作家の坂口安吾もその翌年に発表した「教祖の文学――小林秀雄論」で、小林を「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったときびしく批判していた。
しかし、座談会での追及に対して「僕のような気まぐれ者は、戦争中支那なぞをうろつき廻り、仕事なぞろくにしなかったが、ドストイエフスキイの仕事だけはずっと考えていた」と語っていた小林は1948年には「『罪と罰』についてⅡ」を『創元』に掲載し、そして黒澤明監督の映画《白痴》が公開された翌年の1952年から2年間にわたって「『白痴』についてⅡ」を連載した。
こうして、戦後にドストエフスキー論の執筆を再開した小林秀雄は、「団塊の世代」に属する鹿島茂氏が青春を送った「1960年・70年代までは、小林神話がいまだ健在で、大学の入学試験にはかならずと言っていいほど彼の文章が出題」されるようになっていたのである(13頁)。1980年には小林秀雄信者の教員が、「最も晦渋な(というよりも意味不明な)『様々なる意匠』」が出題して、「信者でもない一般の高校生・予備校生に『神様の大切なお言葉を解読せよ』と迫っていた」。
それゆえ、小林秀雄と同じフランス文学者の鹿島氏は、作家の丸谷才一が1980年に「小林秀雄の文章を出題するな」というエッセイを発表して、芥川龍之介の『少年』と『様々なる意匠』の2つの文章を並べて出題した「北海道大学の入試問題をこてんぱんにやっつけたときには、よくぞ言ってくれたと快哉を叫んだものである」と続けた。
この意味で注目したいのは、鹿島氏が1987年に、ドストエフスキーを魅了したユゴーの大作『レ・ミゼラブル』を当時の木版画を掲載することで当時の社会情勢をも示しつつ、分かり易く詳しく解説した『「レ・ミゼラブル」百六景』(文藝春秋)を出版していたことである。
その鹿島氏が2016年に出版した本書『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』(以下『ドーダの人、小林秀雄』と略す)をこれから少しずつ考察することにしたい。
(2019年3月3日、書影を追加。3月10日改訂、2022年2月13日改題)