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活動

第8回国際ドストエフスキー・シンポジウム(1992年)に参加して

今回のシンポジウムは1992年の7月29日から8月2日にわたって、世界の22ヶ国から84名の参加者を迎えてオスロで行われた。期間が短かったせいで、発表の多くが二つのセッションに分かれて行われ、スケジュールも朝早くから夜までぎっしりとつまっていたために、半分近くの発表が聞けず、じっくりと問題を話し合う時間も少なかったなどの点については不満の声も聞かれた。

しかし、期間中には『カラマーゾフの兄弟』の映画化であり、ロシアと日本でのみ上映されていた映画《少年たち》や作者の才能を感じさせるアニメ映画《おかしな男の夢》がドミートリイ・ドストエフスキー氏の簡単な説明の後で上映されたり、手入れの行き届いた庭と赤い屋根の家が連なる上品な別荘地のような感もあるオスロの市内見物やムンク美術館の見学、ノルウェーの音楽を中心とするピアノ演奏の鑑賞もあり、北欧の文化の一端にふれることもできて論文発表以外の面でも充実したシンポジウムとなった。

前回のシンポジウムでは、特に一日が割かれて「ドストエフスキーとユーゴスラヴィア文学」のテーマで一〇本もの報告が発表されたが、今回も、特別の日は設けられなかったものの、「ドストエフスキーとムンク」の発表の他にもロシア・アカデミー会員フリードレンデル氏の「ドストエフスキーとイプセン」、「ドストエフスキーとハムスン」、「ドストエフスキーとキルケゴール」(本号木下豊房氏の翻訳参照)といった北欧とドストエフスキーとの係わりに言及した論文が数多く発表された。

また、会場となったオスロ大学の構内には「クロトカヤ(おとなしい女)」と題するムンクの絵を用いたシンポジウムのポスターが数多く張られていたが、マルチン・ナーク氏は、二一歳のムンクが「『罪と罰』の数頁は、それだけで芸術作品であり、これまでにこんなすばらしい作品は読んだことがない」と述べていることを紹介して、多くの作品に登場するシルクハットは犯行の下見を行ったラスコーリニコフが不安に駆られて自分の「奇妙で目立つ」帽子に手をやった場面を下敷きにしており、切羽詰まった状況で日常的でつまらない物に集中するというドストエフスキーの方法はムンクの絵画のライトモチーフとなっていると述べた。また、『白夜』や『賭博者』などもムンクに影響を与えているが、ことにムンクが強く惹かれたのは『白痴』であり、「嫉妬」をモチーフとする数々の作品がこの小説に影響されて描かれていると指摘した。

シンポジウムでは「ドストエフスキーと二〇世紀の宗教・哲学思想」や「ドストエフスキーの詩学」、さらに「ドストエフスキーと現代」というテーマのセッションの他にも「ドストエフスキーはリアリストかロマンチストか」、「『永遠の夫』について」といったパネルディスカッションも設けられた。この中には『罪と罰』とブーニンの作品とを比較したトゥニマーノフ氏の発表やドストエフスキーに対するナボコフの関わりを論じたサラースキナ女史の発表や、意味論的な分析からドストエフスキーの作品に迫ったハンガリーの研究者たちの発表など興味深い論文が多かった。

筆者は文明論的な視点から「ドストエフスキーにおける分身のテーマと良心の問題」という題名で発表を行ったが、今回の主な関心の一つはソ連崩壊後のロシアや東欧の動きがこのシンポジウムにどのような形で反映されるかにあった。前回のシンポジウムでは旧ソ連からも多くの研究者が参加するなどペレストロイカが行われていた当時の状況を強く反映したものであったが、今回もユーゴスラヴィアの分裂やソ連の崩壊といった変化を受けてかつてのユーゴスラヴィアからの参加予定者二名が参加を取りやめる一方で、前回は不参加だったベラルーシやエストニアからも発表者が現れるなど時代の急変を感じさせるものとなった(なお、ロシアからは前回の主だったメンバーの他にヴェトローフスカヤ女史が新たに参加していた)。

私は前回のシンポジウムについて、ドストエフスキーにおける「民族性」という概念を取り上げて分析したラザリ氏の発表がかつての多民族国家ソ連や東欧圏の問題点をも突いていたゆえに参加者の間で激しい論議を呼んだことを報告したが、そのシンポジウムから程なくして分裂した旧ユーゴスラヴィアだけでなく、かつての旧ソ連でもアルメニアやグルジアなどで、民族や宗教などの対立から内戦が勃発し現在にいたるまで激しい戦いが続いている。そして、それはロシアにとっても対岸の火事ではなく、領土問題などもからんでそれらがいつロシアに飛び火しても不思議ではない状況にある。

残念ながら別のセッションだったので聴講できなかったがイギリス人の研究者ピース氏は「予言者ドストエフスキー」という発表で、ドストエフスキーが『悪霊』などの作品で独裁制の危険性を予言したばかりでなく、『いやらしい話』や『鰐』などの作品では経済的な利益ためとはいえロシア人が外国の「鰐」の体中に入り込むことの危険性をも予告していたと指摘した。実際、シンポジウムの前後に三年振りにモスクワにも滞在した私の目に映ったロシアの現状も氏の指摘の正しさを物語っているように思えた。

以下、ロシアに滞在した時に感じたことも交えながら、シンポジウムで強く印象に残った発表を中心に簡単に報告する。

*   *   *

モスクワでの最初の印象は驚くほど物価は高騰しているが、街には活気が出ているなという肯定的なものであった。街のあちこちでは縁日が開かれているかのように、露店商が歩道に机などを置いて様々な品物を一杯に並べていた。そこにはそれまで見かけることの少なかったバナナなどの果物や野菜さらにはビールを始めとするアルコール飲料も山のように積まれていた。

しかし、街に活気が出てきたようだという私の指摘にたいして、まだエリツィンを支持していると述べた友人夫妻ですら、今活気があるのは外国の観光客とマフィア、そして成金相手の商人だけだと苦々しげに答えた。実際、赤の広場のすぐ近くにできたカジノは入場料だけで10ドルも払わねばならず、サンクト・ペテルブルクなどの立派な外装や内装を有する店やレストランで通用するのはほとんどが外貨だけだった。一見、賑やかな露店も売れる場所は場所代の払える者達によって占められ、わずかな物を売る中年の人々は通りの端に立ち続けていたし、物乞いする老人たちの姿はいたる所で見られるようになっていた。

そして、残念ながら現代多くのロシア人が経験している経済的危機は、私の予想をも大きく上回るものであった。たとえば、前回、ユーゴスラヴィアでは年間20倍にもなるというインフレに驚かされたが、今回私が滞在した時ロシアでも、ほんの数年前まで5コペイカ(日本円にして約20円)だった地下鉄の料金は滞在時に20倍になり、食品なども物によっては30~40倍にもなるという激しいインフレ下にあった。

7月の半ばに1ドル=130ルーブル程だったレート(1ルーブル=1円)は、帰国する頃には1ドル=240ルーブルと価値が半減していた。現在、勤労者の平均給料が3~4000ルーブルで、給料の遅配が3~5ヶ月という状況なので、当時は一ヶ月に10ドルあればなんとか生活が出来たというる事になる。[1993年3月現在では1ドル=700ルーブル近くにまでなり、地下鉄の料金や卵の値段もかつての100倍近くにまで跳ね上がっているとのことである]。

このような中で私は何度か自分がドストエフスキーの描いたあの時期のロシアに迷い込んだような錯覚に陥った。たとえば、あるとき私は友人のアパートを間違えて別の建物の部屋のベルを押してしまったことがあるが、その時、中から老婆の怒ったような声がして「誰だい、私は誰も入れないからね」と厳しく問いただされ、私が部屋を間違えたことを告げてあやまり立ち去りかけた時も、部屋の中からは「わたしゃ、誰も入れないよ」という老婆の怒鳴り声がしていた。その時、私はドアの後ろに誰も信じられずにおびえたように隠れている老婆の姿を連想し、一瞬自分がラスコーリニコフになったような気がした。老婆の声は一年で20倍にも物価が跳ね上がるインフレの中で、ほとんど売る物もなくわずかな食べ物だけで暮らしている多くの年金生活者たちの声を象徴していたのかも知れない。

ドストエフスキーは『罪と罰』の中で酔っぱらった少女を救おうとしてあきらめたラスコーリニコフに「お互いに喰らいあうがいいさ」と述べさせているが、娼家の建設をめぐるテレビの討論番組では、最近多くの少女たちが売春を一種の「自由恋愛」のようにとらえていることが強く指摘され、また性犯罪の急激な増加に触れて、そのような家の建設が早急に必要だと述べた婦人の意見が共感を持って受け入れられていたのが記憶に残った。

このような混沌の中で、現在の道徳的危機をロシアの歴史を学ぶことやロシア正教によって乗り切ろうとする動きが出てくるのは当然であろう。たとえば、歩道に机を置く露店商が一杯に並べて売っているのは推理小説やSF、さらにはポルノ小説などの本であったが、それらとともに聖書やロシアの聖者伝などキリスト教関係の書物やカラムジーンを初めとしてソロヴィヨーフ、クリュチェーフスキイなど革命前のロシアの歴史家の著作集も目についた。こうした過去の文化への関心が高まりの中で、ロシアの文化や正教の担い手としての評価を再びドストエフスキーに与える傾向も強まってきている。

今回のシンポジウムでもオスロの小さな正教会でドストエフスキーの追悼式が行われたが、単なる礼儀としてだけでなく信者として参加した人が前回よりも増えていたように感じた。そして、キリスト教的な面からドストエフスキーに迫ろうとする傾向は今回のシンポジウムでの発表にも及んでいた。

たとえば、ザハーロフ氏は冒頭でまず、ロシアではキリスト教の受容がキリル文字や文書の受容と重なることに注意を促して、ロシア文学とロシア正教との関わりの深さを指摘し、「ドストエフスキー作品のシンボルの研究でいまだ手が付けられていないテーマに常用暦と教会暦がある」と指摘した。そして、『貧しき人々』においてドストエフスキーが復活祭などキリスト教的な祭日を巧妙によけて描いていることや、一八四〇年代の作品でも四月一日、新年、「白夜」などの常用季節暦の日にシンボリックな意味を与えていたことを具体的に例証した。

しかし、投獄と流刑によって、作家の世界観は大きく変わり、「ドストエフスキーはキリスト教的な救済の概念を見いだしただけではなく、福音のテキストの中に限りない創作の可能性を発見した」と述べて、その後の作品において教会暦がどのような働きをしているかを明らかにしている。たとえば、ディケンズの『クリスマス・キャロル』のように世界文学にはクリスマス物というジャンルがあり、ドストエフスキーにおいても『死の家の記録』や『キリストのヨルカに召された少年』ではクリスマスが、シンボリックな意味を持っている。しかし、ドストエフスキーの作品においてとりわけ重要な役割を果たしているのは復活祭であり、ドストエフスキーは復活祭物と呼べるような新しいジャンルの作品を書いたと主張して、『死の家の記録』や『虐げられた人々』、『罪と罰』、『白痴』、『未成年』などの作品における復活祭の時期の重要さを強調した。

さらに、氏はナスターシヤ・フィリーポヴナがロシア正教会の聖ゲオルギーの日にトーツキーのもとを去ったこと、ギリシャ語で十字架を意味するスタヴロスから命名された『悪霊』のスタヴローギンが「十字架挙栄祭」の日に登場すること等をあげながら、「キリスト教徒の聖なる概念が、教会暦の一年の周期に表現されるようにドストエフスキーも最も深い部分の精神的で創造的な悔悟をキリスト教暦のシンボルによって表現している」と結んでいる。

このような傾向は他の発表にも見られた。たとえば、アメリカの研究者アンダーソン氏はまずラザロについての説教が『罪と罰』における宗教的な寓意の核心となっていることに注意を向けている。そして、氏はラスコーリニコフが石の下に財布を隠す場面とソーニャが彼に福音書のラザロの復活の箇所を読む場面を結び付けながら、これらの場面の描写がイコンの描写方法と似ていることを指摘して、二つの場面は、丁度二つ折のイコンに描かれた一対の絵のように深く結びついており、イコンの方法を意図的に採用することによって主人公の精神の埋葬と復活のテーマを浮かび上がらせていると主張した。また、イギリスの研究者キリーロワ女史はキリストのまねびとしての痴愚者の観点からムイシキンの形象について論じた。

このような作業はドストエフスキー自身が自らキリスト教的な作家であろうとしている以上、必然的な作業であろうし、こうした論文はロシアの文化的な特徴をより正確に捉え、ドストエフスキーの本質に迫る上でもいっそう広く紹介される必要があるだろう。ただ、このようなアプローチの方法が時として、ドストエフスキーに対する理解を「深める」のではなく、理解の幅を「狭める」ような傾向をも生み出しているようにも感じた。たとえば、夏目漱石の作品にも言及しながらドストエフスキーにおける美と共感の意味について論じた木下氏の発表は、多くの会員から共感を持って受け取られ高い評価を受けたが、「ロシア正教的な見方からすると美と共感とを同列に並べて論じることは邪道ではないか」といった主旨の強い反論も出されたのである。

既に述べたように、ドストエフスキーにおけるロシア正教的な視点に留意することは必要だろう。しかし、ドストエフスキーをロシア正教徒として限定してしまうことは危険性をも伴うように思われるのである。たとえば、キリスト教受容一千年を記念した絵では、最前列の中央に蝋燭を持ったドストエフスキーが描かれている。だが、この絵ではドストエフスキーだけでなく、キエフ公国を滅ぼした異教徒のバトゥ汗も苦悩する裸の乙女の隣にうす笑いを浮かべて座っている姿で描写されてもいた。ロシア人の民族意識を高揚させるようなこの絵が、今もなおモンゴル系などの少数民族やイスラム教徒を多く抱えるロシア連邦において、ロシア人以外の人々にどのような感情を抱かせるかを想像するのはさほど難しくはないだろう。

歴史文化財保護協会から派生したグループ「パーミャチ(記憶)」がその民族主義的性格を強めて反ユダヤ主義を標榜しているように、厳しい政治的・経済的状況の中ではロシア史への関心の増大ですらも、それが拝外的な民族主義と結びつくとき、武力を伴う民族間の衝突に発展しかねない危険性を含んでいる。同じことは宗教についても当てはまるだろう。平和的に見える宗教ですらもそれが民族主義的な傾向と結びつくとき、民族間の対立を煽るという結果を招きかねないように思える。

シンポジウムの最後の日には「ドストエフスキーと現代」いうセッションが設けられたが、そこで発表された論文のいくつかとそれをめぐる白熱した論議は、このような民族・宗教問題に直接かかわるものであった。まず、ポーランドの研究者ラザリ氏は最近のロシアの民族主義者たちがドストエフスキーの唱えた「大地主義」を標榜しながら、ドストエフスキーの後継者を自称していることを具体的に例証し、ドストエフスキーに対するこのような理解が生み出す危険性を指摘するとともにロシアにおいては個人の自立が弱いと述べて、「ナシズム(我々主義)」と名付けられるような全体主義の傾向が強いとも主張した。

これに対してロシアの研究者からは、そういった片寄った理解が広まらないように私達はこのような会を通してドストエフスキーの全体像を伝えるように努力せねばならないという強い反論が出され、発表者から自分の意図もドストエフスキーを誹謗することにあるのではないという表明があった。また、最近のユーゴスラヴィアの内戦に触れてそれを平等や友愛といった「理念」の崩壊とを結びつけたマケドニアの発表者ジュルチノフ氏に対しては、現在の混乱は「理念」の崩壊と理解するよりも、かつての社会主義諸国における宗教の欠如の結果ではないかというロシアの学者からの強い反論があり、これに対してロシア正教の歴史は必ずしも流血を防げはしなかったことを証明しているのではないかと主張してマケドニアの学者を援護する意見も出された。

私にとって興味深かったのは、これらの発言が単に個人的な見解の違いだけによるものではなく、ようやく宗教の自由が確保されたロシア、長い間ロシアの政治的支配下にあったポーランド、いまなお激しい内戦が続く旧ユーゴスラヴィアの諸国に隣接するマケドニアなどそれぞれの国の歴史的状況の違いをも大きく反映していたことである。

ただ、ほとんど同じ言語を話すボスニア・ヘルツェゴヴィナのセルビア人、クロアチア人、ムスリム人の三つの勢力が、カトリック、正教、イスラムという宗教の違いから分かれ、憎しみあい殺しあっている現状は、各々の宗教が持つ文化的な価値は認めつつも、様々な宗教の違いをも越えて「共生」を主張しうるような「理念」を私達が早急に確立せねばならないことを物語っているように思える。そしてその際、私たちは「殺すこと」について深い考察を行ったドストエフスキーの作品から学ぶとともに、ドストエフスキーを理想化することなく後期の論文で彼が述べているような排外的な民族主義的発言に対しては厳しく批判せねばならないだろう。

次回のシンポジウムはオーストリアで1995年の8月1日から5日まで開催されることが決定した。その時ドストエフスキーの宗教・民族観はいかなる状況のもとで語られ、どのような議論がなされるのだろうか。これからも注目していきたい。

(本稿では肩書きは省略した。HPへの掲載に際しては人名と国名表記を一部、変更するとともに、文意を正確に伝えるために最低限の訂正を行った)

 (『ドストエーフスキイ広場』第三号、1993年)。

第7回国際ドストエーフスキイ・シンポジウム(1989年)に参加して

第七回国際ドストエフスキー・シンポジウムは「ドストエフスキーと二〇世紀」の大テーマの元にユーゴスラヴィア北部、スロヴェニア共和国の首都リュブリャーナで1989年の7月22日から29日にわたって行われた。

リュブリャーナは城のある丘を取り囲むように静かに流れるリュブニツァ川に寄りそうように広がる、古いドイツの城下町を思わせる美しい町である。今回、日本からの参加者はモスクワの長期滞在を終えたばかりの井桁貞義氏と私の二人だけであったが、私たちはモスクワと比べて豊富な品物やサービスの良さだけでなく、一年半で二〇倍にも跳上がるインフレにも驚かされた。しかし、この町の人々はインフレを気にするふうもなく、あちこちに点在する南国風のカフェには日暮れともなるといずこともなく若者たちが集まり、物静かに談笑していた

さて、シンポジウムは「ドストエフスキーと二〇世紀の歴史的現実」、「ドストエフスキーの作品における象徴とロシアの象徴主義者たち」、「ドストエフスキーと二〇世紀の宗教・哲学思想」、「ドストエフスキーと二〇世紀文学」、「二〇世紀の演劇及び芸術におけるドストエフスキー」の五つのテーマをめぐって発表や討論が行われ、ドストエフスキーが二〇世紀に与えた影響が詳細かつ、多面的に考察された。この他、夕食後には、「ドストエフスキー ――病気と芸術的創造」という題や「ドストエフスキーと黙示録」という題の二〇世紀末の現在を反映するような共同討議も持たれ、フロイトとドストエフスキーの関係を論じたものやチェルノブイリの原発事故を論じた報告者も出るなど白熱した論議が行われた。

ところで、今回も世界各地から八十名近い研究者が集ったが、ことにソ連からはG・フリードレンデル氏を始め、八名の研究者とレニングラードおよびスターラヤ・ルッサのドストエフスキー博物館の二人の館長が大挙参加した。そして、ソ連側の報告にはこれまでの伝統的な研究の他に、ドストエフスキーの作品が『われら』に及ぼした影響を論じたトゥニマーノフ氏の発表や、『悪霊』をとりあげて権力と潜称者について論じたサラースキナ女史の発表、そしてロシア・イミグラントたちの宗教的なドストエフスキー論を取り上げたベローフ氏の報告など、これまでの研究領域を大きく踏み出すものが見られた。研究者の一人は「ペレストロイカの時期だから来ることができた」と語ったが、確かにペレストロイカの動向はドストエフスキー研究にも無視しえない影響を与えているようだ。

今回は特に「ユーゴスラヴィアの日」が設けられ、「ドストエフスキーとユーゴスラヴィア文学」のテーマでユーゴの各共和国の研究者を中心に一〇本の報告が発表された。このような試みもまた各民族の独自性を尊重しようとするペレストロイカの流れと無関係ではないであろう。

だが、ペレストロイカでの歴史の見直しや個性や自由の再評価は、バルト三国を始めアルメニアなど各共和国で民族意識の昂揚をも生みだしており、前世紀の末に多くの流血と犠牲の上に民族の枠を越えた国家として成立した筈のソ連邦は、一世紀を経過して今世紀の末に再び民族の単位で分裂する危険性をすらかかえているように見えた。そして、民族問題はソ連邦にとどまらず、かつて私が遊学したことのあるブルガリアでもトルコ人の抑圧の問題が、そして開催地のユーゴでも各共和国間の対立が新聞で取り上げられていた。南スラヴの一都市で開かれたこのシンポジウムに、ソ連邦や東欧がかかえるこれらの問題がどのような形でドストエフスキーを通して論じられるのかということに私は強い関心と期待を抱いていた。そして、その期待は裏切られなかった。

シンポジウムの間中、私は多くの個性的ですぐれた名優たちがドストエフスキーという主題をめぐって演ずる劇場にまぎれこみ、筋書のない、時には思いがけぬ展開を見せる劇の観客になったような興奮につねにとらえられていた。たとえば、プログラムにはブラット湖への旅行が20ドルで組まれていたが、東欧やソ連の研究者からの強い批判が起き、ついには全員が無料で参加することになったことがある。マケドニアの学者から同じユーゴでもマケドニアとスロヴェニアでは3倍の貧富の差があり、20ドルというのは自分達にとっては大変な高額だと説明されて半信半疑だった私は、次にポーランドの研究者から彼の祖国では20ドルあれば一ケ月を裕福に暮せると聞かされて言葉を失った。びっしりと組まれたプログラムを終えた後、私たちは場所を変えてビールを片手にドストエフスキーやペレストロイカをめぐって話しつづけたが、その時すでに重大な出来事は丁度、チェーホフ劇のように舞台の外で起きていたのだろう。シンポジウムの幕がおりた八月に入ってから、今に至っても続く東欧の激動が始まったのである。

この意味で私が一番関心を抱いたのは、井桁氏が司会をされた「ドストエフスキーと二〇世紀の歴史的現実」の部会で発表したポーランドの研究者ラザリ氏の報告である。彼はドストエフスキーの「ナロードノスチ(国民性、民族性)」という概念を取り上げ、この概念が社会主義ソ連では初め否定的な形で捉えられていたが、スターリンの時代に復権し、文芸評論家たちによって重用されていたと分析したのである。氏の直後に立ったソ連側の報告者は気分を害して「ロシア語を理解しない参加者もいるようですから、私の報告は五分程で終わらせてもらいます」と語り、司会者から宥められるような一幕も生みだしたが、彼の報告は参加者の間で激しい反発や困惑を招いた。すなわち、ある者はドストエフスキーが侮辱されたと怒り、ある者はドストエフスキーの小説と評論は分けて論じるべきではないかと語った。しかし、東欧の研究者を中心に高い評価も得ていた。それは彼の指摘が現代の多民族国家ソ連や東欧圏の問題点をも突いていたからだろう。

さて、私は「ドストエフスキーと二〇世紀の宗教・哲学思想」の部会で「『罪と罰』における良心の概念の問題」という題で発表した。ベルジャーエフは「何びともドストエフスキー以前、彼ほどに良心の呵責と悔恨を研究したものはいなかった」と述べてその重要性を指摘したが、個々の作品における具体的な「良心」の概念の分析はあまりなされていないように見えたからだ。

長編小説『罪と罰』において、一見、良心は否定的な働きをしているかに見える。しかし、私たちは『罪と罰』が哲学書ではなく、小説であることに注意を払わねばならないだろう。単語「良心」は生身の体を持つ登場人物の口を通して様々な人間関係の中で語られるのである。さて、小説の冒頭で大学生は対話者に「我々は義務や良心をどう解釈しているのか」という問いを発しながら、自分の問いには答えていない。しかし、彼と同じような理論を有するラスコーリニコフは彼の言葉を補うかのように「非凡人」は「自分の内部で、良心に照らして、血を踏み越える許可を自分に与える」のだと語るのである。こうして、冒頭で発せられた大学生の問いは『罪と罰』全体を覆っており、ドストエフスキーは『罪と罰』の中で読者と共にラスコーリニコフの「良心」解釈について深い考察を行っているのである。

そしてこの点に注意する時、この長編小説では単語「良心」は様々な状況の元で何人もの人間によって語られ、しかもそれらの使用法では意味が異なっている場合もあることが明らかになる。たとえば、学生と将校との会話やラスコーリニコフとポルフィーリイとの対話の中での用法はよく知られているが、この他の緊張した会話の中でも「良心」は無視しえない役割を担っているのである。たとえば、母の手紙を読み終えたラスコーリニコフは、兄のために愛してもいない人物との結婚を承諾したドゥーニャのことを考えながら「おお、こういう場合我々は、自分の道徳的感情をも押さえつけてしまうし、自由も安逸も、はては良心までも、何もかも一切合財、ぼろ市にだしてしまうのだ」と考えている。一方、スヴィドリガイロフは、奥さんを殺したのはあなたでしょう、というラスコーリニコフに対して「自分の良心はこの点にかけては、しごく平静なものです」と語り、ドゥーニャにも彼女が兄のために自分の要求を認めて体を許しても「あなたの良心には、なにもやましいところはない」と説得している。一方、スヴィドリガイロフから兄の理論を聞いたドゥーニャは「でも、良心の呵責ってものが? そうすると、あなたは兄に道徳的な感情がまるっきりないと思っていらっしゃるんですね」と問い詰めているのである。

このように見ていく時、私たちはラスコーリニコフの「良心」の用法においても二つの対立的な概念と出会う。第一の概念はカントと同様に義務の概念と強く結びついている。それはそれ自体は何も悪いものではないが、間違った理論と結び付くことによって、ラスコーリニコフを犯罪へと追いやる。第二の概念は、道徳的感情と結び付いている。作者はラスコーリニコフの感触を正確に描き出しながら、彼の感覚が常に理性の決定に反対していたが、あまりに理性を高く評価したラスコーリニコフは自分の感情を軽蔑しそれに注意を払わなかったことを強調しているのである。

幸い私の報告は好意的な評価を受けたが、その理由の一つは冒頭で中国の事件に言及し「人が死ぬことを恐れるな。北京で十万人死んでも大丈夫だ。北京でこのような暴徒を完全に排除しなければ、将来に禍根を残す」という高官が語ったと伝えられる言葉と「……とにかく一億人の首だって、そう恐れるにはあたりません。なぜかと言って、呑気な紙の上の空想を追っていたら、百年ばかりの間に専制主義が一億どころか、五億人の首でも食い尽くしてしまいますからね」(江川卓訳)という『悪霊』のピョートルの言葉を比較しながら、ピョートルにも彼独自の良心の理論があったことを指摘したためかもしれない。

ドストエフスキーは『罪と罰』のエピローグで、自分だけが真理を知っていると思い込んだ人々がその真理を主張して互いに殺し合いを始め、ついにはほんの数人を除く全人類が亡んだという、すさまじい夢をラスコーリニコフに見させる。ドストエフスキーは「良心」理解が、誤った思い込みに陥った時の危険性を鋭く批判していたのであり、残念ながら地球が何回もゆうに消滅するだけの核兵器を有しながら、イデオロギーや宗教の違い、さらには民族のちがいなどによってなおも争いを続ける「現代」の持つ危険性を鋭く予言しえていたと言えるだろう。

総会では、人事と次期の開催地の問題が議題として取り上げられ、ノイホイザー氏が会長に選出され、日本側委員には木下豊房氏が再選された。また、次回は1992年の8月1日から5日までノルウェーのオスロで、開かれることが選挙の結果決定された。会議の席では、会の財政上の困難が指摘され、機関誌(“Dostoevsky Studies”)の購買を含めた会員の援助が求められた。なお、私たちは『ドストエーフスキイ研究』第三号と最近の例会会報を手渡したが、その時、それらは日本の「ドストエーフスキイの会」が活動していることを物語ってはいても、何が書かれているかを外国人には何も伝えていないということ、つまり、丁度経済力はあるけれども何を考えているかは分からない「無口な日本人」、あるいは閉鎖的な日本文化のイメージと重なるかもしれないということを痛感した。

実際にそのことを若い研究者たちから率直な批判もされた。確かに情報の点でも単に外国の研究を紹介する段階から、日本での研究をも積極的に外国に発信する機能も持つべき時期に来ているようだ。その年度のドストエフスキー関係の論文、書物一覧を載せるだけでなくその欧文訳や、さらに一歩進めて欧文の目次や論文のレジュメもこれからは掲載してもよいようにも思える。

シンポジウムを終え飛行便を待っていた私は、帰国の前夜レニングラード出身のトゥニマーノフ氏とともに川辺を歩いたが、その折、氏は「美しい川だ」という感慨をポツリと語った。以前、とうとうたるネワの流れと比較しながら、こんな小さな川では川という感じがしないなあという感想を語っていた氏の言葉に私はなぜか、大国ソヴィエトのペレストロイカの遅々たる歩みや民族問題に心を痛めるロシア人研究者の苦悩をも感じた。

リュブリャーナのシンポジウムで私は単に様々なドストエフスキー研究者たちと知り合うことができただけでなく、改めて現代社会の相互の緊密な係わりをも実感しえたように思う。民族問題を初め様々な問題を抱えるソヴィエトや東欧がこの後どのように進んでいくのか、ドストエフスキーの問題と共に見つめていきたい。(本稿では肩書きは省略した)。

(「第100回例会報告」、『ドストエーフスキイの会会報』第111号、1989年。『場 ドストエーフスキイの会の記録』Ⅳ、1999年に再掲。HPへの掲載に際しては人名と国名表記を一部変更するとともに、文意を正確に伝えるための最低限の訂正を行った

講座「『草枕』で司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を読み解く」(レジュメ)

司馬遼太郎氏は『坂の上の雲』の「あとがき」で、「書き終えてみると、私などの知らなかった異種の文明世界を経めぐって長い旅をしてきたような、名状しがたい疲労と昂奮が心身に残った」と書いている。

征韓論をきっかけに国論が二分し、西郷隆盛と欧米の文明を自分の目で観察してきた大久保利通との対立から西南戦争に至る状況が描かれている『翔ぶが如く』でも、米欧に派遣されたさまざまな使節団や留学生の観察などをとおして、「文明開化」など日本の近代化の問題が深く考察されている。

たとえば、この長編小説の冒頭では「警察制度の視察と研究」のために渡欧していた川路利良などの観察が描かれ、それに続いて、普仏戦争の直後に訪れたことで強い衝撃を受けた山県有朋と西郷従道の二人の印象や留学生として残った大山巌の観察が記されている。

「近代国家創出のモデル選択肢を求めて」、米欧十二か国を回覧した岩倉使節団についても詳しく記されているが、ことにドイツ帝国の首相ビスマルクとの会見では、大久保利通が「プロシア風の政体をとり入れ、内務省を創設し、内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立しよう」と強く思うようになったことが確認されている(文春文庫、第一巻・「征韓論」)。

一方、フランス留学から帰国したのちにルソーの『民約論』を翻訳した中江兆民について司馬氏は、「中江兆民という存在が、十五年前に出ていれば、明治維新という革命に、おそらく世界に共通する普遍性が付与されたに相違ない」と書いて高く評価している(第五巻・「植木学校」)。

『竜馬がゆく』で坂本竜馬と横井小楠との熊本での出会いにふれていた司馬氏は、『翔ぶが如く』では藩校の出身者たちからなる「学校派」や横井小楠を師匠とする「実学派」だけでなく、のちに「神風連の乱」を起こすことになる「敬神派」や、行動的な自由民権派などの思想的なグループが互いに競い合っていた熊本の状況を詳しく描き出している。

ことに詳しく考察されているのが、「泣いて読む、廬騒〔ルソー〕民約論」と「あたかも雷に打たれたような感動を発した」宮崎八郎という存在である。宮崎八郎は腐敗した藩閥政治を打ち倒すために熊本協働隊を組織して西郷軍に参加し戦死するが、その志は弟の宮崎寅蔵(滔天)などによって受け継がれていたのである。

この意味で興味深いのは、漱石が赴任していた時の体験をもとに書いた『草枕』の女主人公那美のモデルとなった前田卓(つな)の父が、明治初期に活躍した熊本の有力な民権家・前田案山子であり、かつ卓の妹槌(つち)の夫が宮崎寅蔵(滔天)だったことである(安住恭子『「草枕」の那美と辛亥革命』白水社)。

本講座では『不如帰』を書いた徳富蘆花と司馬遼太郎との関係も視野にいれながら、漱石が熊本に赴任していた時の体験をもとに書いた『草枕』をとおして『翔ぶが如く』の意味を読み解くことにしたい。

『翔ぶが如く』は文庫本で十冊からなる大作なので、ここでは台湾出兵の頃には「年少客気の侵略主義者」だった宮崎八郎が、思想家として成長する過程が描かれている第五巻の「壮士」から、「肥後荒尾村」、「植木学校」、「明治八年・東京」までに焦点を当てて二つの小説を考察する。

 

 

「『地下室の手記』の現代性――後書きに代えて」(『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』所収、池田和彦訳、高橋誠一郎編集、のべる出版企画、二〇〇六年)

本書の底本となったのはブリストル大学名誉教授リチャード・ピース(Richard Peace)氏のDostoevsky’s Notes from Underground(Bristol Classical Press, 1993)と「ロシアにおける自由の概念」(Russian Concepts of Freedom, Russian Studies,No,35,1978,pp.3-15)である。

言語学や比較文学の手法を用いながら時代的な状況をも踏まえた上で、テキストの綿密な分析を行った第一部と、文学的・思想的な背景、およびこれまでの批評史の第二部から構成されるピース氏の『地下室の手記』論は、アンドレ・ジッドが「ドストエフスキイの全作品を説く鍵」と呼んだこの小説の「謎」に肉薄しつつ、その文学的・思想的な意義をも明らかにしていると思える。

ただ日本では『地下室の手記』の文学的・思想的背景があまり知られていないために日本版の本書においては、構成を少し変えるとともに、『地下室の手記』第二部の注釈のうち、引用文およびあらすじを述べた部分の一部を省略させて頂き、その代わりに『地下室の手記』においても重要な位置を占める「自由」という単語の概念について論じた「ロシアにおける自由の概念」を序論として置いた。

それは一九七八年に書かれたにもかかわらず、西欧とロシアにおける「自由」の意味の違いに注意を払いつつロシア文学を分析することで、この論文が個人の「自由」の欲求と国権による「自由」の弾圧に揺れた一九世紀のロシアを見事に分析しているだけではなく、ソ連の崩壊やその後のロシアの政治状況をも見通すことによって、『地下室の手記』の現代性をも裏付けていると思えるからである。そして氏が示唆した問題は、ロシア帝国と同様に急速な近代化(西欧化)に踏み切った日本における「自由」の問題とも深く係わっているであろう。

さらに、最近の日本では「文明国」の言語であるアメリカの言語さえ習得すれば、どの国の人々ともきちんと分かり合えるという皮相的な考えが広がり、米語教育のみに重点が置かれて、多くの有能な非米語圏の研究者の職が奪われている。しかし、比較言語と比較文学の手法で西欧文学とロシア文学との関係に鋭く迫った本論は、他国を本当に知るためにはその国の言葉や歴史・文化を学ぶことが不可欠なことも見事に説明していると思われる。

それゆえ、『地下室の手記』の受容の問題を考えるためには、ロシアや欧米だけでなく日本の考察も必要と考え、フランス文学との関連などで多くのドストエフスキイ研究のある訳者の池田和彦氏に「日本における『地下室の手記』の受容について」の執筆をお願いした。

現在、国際ドストエフスキイ学会の副会長を務める著者のピース氏は、一九六二年にオックスフォード大学で文学修士課程修了後、ブリストル大学の講師を経て、一九七五年からはハル大学教授の職に就くと共に、英国大学スラヴィスト学会の会長や、ハル大学の文学部長などを歴任した、世界的に著名なロシア文学者である。ことに一九七一年に出版された主著『ドストエフスキイ:主要作品の検討』(Dostoyevsky: An Examination of the Major Novels, Cambridge University Press)は、『罪と罰』から『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』にいたる長編小説の分析を通してドストエフスキイ文学の意味に迫り、作品における登場人物の名前や分離派の問題の重要性を広い視点から明らかにして、江川卓教授や作田啓一教授の著書でもたびたび引用されるなど、欧米やロシアの研究者だけでなく日本人の研究者にも強い影響を及ぼした。

この後もピース氏は、ドストエフスキイに強い影響を及ぼしたゴーゴリの作品を考察した『ゴーゴリの謎』(The Enigma of Gogol–An Examination of the Writing of N.V. Gogol and their Place in the Russian Literary Tradition, Cambridge University Press, 1981)や、すぐれたチェーホフ論である『チェーホフ 主要四戯曲の研究』(Chekhov: A Study of the Four Major Plays, Yale University Press, 1983)、さらには日本に来航した作家ゴンチャローフの主著を分析した『オブローモフ』(Oblomov: A Critical Examination of Goncharov’s Novel, Department of Russian Language and Literature University of Birmingham, 1991)などの研究書を次々と刊行された。

そして一九九二年には『ドストエフスキイ:主要作品の検討』がブリストル大学出版会から復刻されたが、その翌年に出版された『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』(Dostoevsky’s Notes from Underground)は、理想に敗れた知識人の絶望にいたる意識の流れを鋭く描き出してその後の文学や思想に深刻な影響を及ぼした『地下室の手記』の本格的な分析を、それまでの多くの研究成果と斬新な手法を活かして試みたものである。

本書の特徴の一つに挙げうるのは、氏がロシアだけでなくイギリスの思想的潮流をもきちんと分析した上で、ドストエフスキイがイギリスで生まれた功利主義の哲学や、当時の西欧中心史観をも射程に捕らえつつ、イギリスの歴史家バックルが『イギリス文明史』で主唱した「楽観的な進歩史観にたいして」この小説の主人公を敢然と立ち向かわせていると指摘し得ていることであろう。

実際、ドストエフスキイは『地下室の手記』の主人公に、「文明」が進むことによって「戦争」が無くなると言われているが、むしろ現代では「血はシャンパンのように」多量に流されているではないかとして、「文明」の名のもとに正当化される戦争の実態を批判させていたのである。

そしてそれは、なにゆえドストエフスキイが『罪と罰』において、「自分」をナポレオンと同じ「非凡人」であると信じ、「他者」を「悪人」と規定して殺害した若き主人公の思想と苦悩を描き出したかをも説明しているだけでなく、「他国」を野蛮な敵国とし、「自国の正義」を主張して、「戦争と革命の世紀」となった二〇世紀の性格をも予告していたのである。

一方、二一世紀は「平和と対話の世紀」となることが期待されたが、ニューヨークで同時多発テロが起きると、「報復の権利」の行使が主張され、「ならず者国家」に対しては核兵器の使用も含む先制攻撃が出来るとするドクトリンが発表されて、「新しい戦争」が開始された。すなわち、現代は依然として一九世紀にドストエフスキイが提起した問題をきちんと克服できていないのである。

こうして、再び混迷の度を深めている現在、当時のロシアの時代状況をきちんと踏まえつつ、「自己」と「他者」の問題を局限まで考察した『地下室の手記』を本格的に論じたピース氏の著作は、広い視野から文学や歴史を再考察する上でも時宜にかなっていると思える。本書が日本の読者に広く受け入れられることを期待したい。

ピース教授と初めてお会いしたのは、一九九二年にオスロで開かれた国際ドストエフスキイ学会においてであり、混沌とした当時のロシアの政治・経済状況と比較しつつ、『地下室の手記』の直後に書かれた短編小説『鰐(クロコダイル)』の現代性を浮き彫りにした氏の発表からは新鮮な感銘を受けた。その後『罪と罰』をきちんと分析するためには、ヨーロッパ旅行の文学的な記録である『冬に記す夏の印象』や『地下室の手記』の考察が必要であると考えてイギリスでの研究を望んだところ、ブリストル大学(University of Bristol)に快く迎え入れて頂き、さらに出版されたばかりの本書の底本をご贈呈頂いた。

一八七六年創設という古い伝統を持つ総合大学のロシア学科で一年間、近代ヨーロッパ文明の問題点にも注意を払いながら一九世紀のイギリスとロシアの関係を研究できたのはたいへんありがたく、ロシアと日本における「欧化と国粋」のサイクルの類似性に気づいて、「日露両国の近代化の比較」というテーマの重要性を確認できたのもこの時期であった。

それゆえ、拙著『「罪と罰」を読む――正義の犯罪と文明の危機』(刀水書房、一九九六年)は、この本から大きな学恩を受けているといえるのだが、単に引用するだけでなく日本でもきちんと紹介する価値があると思い、訳書を出版したいと考えるにいたった。しかし、折からの大学改革などで全く時間が取れなくなったことなど諸般の事情で最初の企画は頓挫にいたった。

再度の出版を試みた今回も(中略)出版が遅くなり、ご迷惑をおかけした。なお、注釈第二部の翻訳箇所については高橋が原案を作り、これに池田が補足を加えて訳出した。全体の企画と編集の責は高橋が負っている。

大学を退官後もピース氏は、ロシアの思想や文学を知る上で欠かせないグリボエードフの『智恵の悲しみ』の注釈書(A.S.Griboedov:: Woe from Wit, Bristol Classical Press, 1996)をブリストル大学出版会から出版された。さらに二〇〇〇年には国際ドストエフスキイ学会副会長の木下豊房教授のご尽力と安藤厚・北海道大学教授や井桁貞義・早稲田大学教授など多くの方々のご協力により日本で始めて行われた「ドストエフスキイ国際集会」で口頭発表や司会を務められるなど国内外で活溌な研究活動をされている。二〇〇二年にはネット版で The Novels of Turgenev: Symbols and Emblems を、さらに編集に携わられた『罪と罰』論(Fyodor Dostoevsky’s Crime and Punishment: A Casebook)が、オックスフォード大学出版から本年アメリカで出版された。

最後になるが、はやくに日本版の序を寄せて頂いたピース氏にこの場を借りて出版の遅れをお詫びするとともに、厳しい出版事情の中で本書の刊行を快くお引き受け頂いた「のべる出版企画」の野辺慎一社長と本書の出版にもご協力頂いた文芸評論家の横尾和博氏に感謝の意を表したい。

(訳書では「参考文献」のページで本書の原題を示したために原著の英文名を省いたが、ここでは読者の便宜のために記しておく)。

 

 

大木昭男氏の「ドストエーフスキイとラスプーチン」を聴いて

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大木昭男氏の「ドストエーフスキイとラスプーチン ――中編小説『火事』のラストシーンの解釈」を聴いて

今回の発表は、イタリアの国際的文学賞を受賞した短編などを収録した作家ラスプーチンの短編集『病院にて――ソ連崩壊後の短編集』〈群像社〉の翻訳を公刊したばかりの大木氏の発表であった。

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ラスプーチンとは個人的にも旧知の間柄である大木氏は、波乱にとんだ作家の人生を略年譜で分かりやすく説明しながら、中編小説『火事』のラストシーンでの「永遠に姿を消してしまう」という描写の謎に鋭く迫った。ことに、宮沢俊一訳を踏まえて新らしく訳出した最終章の朗読は、重厚で深い陰影と示唆に富む文体をとおして、ラスプーチン自身の生の声を聞くような感さえあり、聴衆の深い共感を呼んで『火事』全体を大木訳で読んで見たいという感想も出たほどであった。

そして、正教における「復活」の重要性を強調した氏は、ラスプーチンも洗礼を受けて正教徒となっていることに注意を促して、『火事』の主人公と『カラマーゾフの兄弟』の「ガリラヤのカナ」におけるアリョーシャの体験の描写との類似性を指摘した。さらに、大木氏はドストエフスキーが1864年のメモで人類の発展を、1,族長制の時代、2,過渡期的状態の文明の時代、3,最終段階のキリスト教の時代の三段階に分類していたことを指摘し、『火事』とドストエフスキーの『おかしな男の夢』の構造を比較することで、その共通のテーマが「己自らの如く他を愛せよ」という認識と「新しい生」への出発ということにあると述べた。

特に私が関心を持ったのは、『白痴』における「サストラダーニエ(共苦)」という用語や「美は世界を救う」というテーマの重要性を強調した氏が、ムィシキンを「シベリアから還った」とする小林秀雄の解釈には無理があり、むしろ未来の「キリスト教の時代」から来たと言うほうが適切だろうと批判した点である。

たしかに、芦川進一氏が指摘するように「『白痴』Ⅱ」に記された「聖書には、生きる事に関する、強い素朴な一種異様な畏敬の念が一貫していて、これが十字架のキリストに至って極まっている様に見える」という文章は名文で心に深く残る。しかし、第3章に記されたこの文章は、第9章の「『キリスト公爵』から、宗教的なものも倫理的なものも、遂に現れはしなかった。来たものは文字通りの破局であって、これを悲劇とさへ呼ぶ事はできまい」という文章へと続いているのである。小林秀雄のムィシキン観の問題は、今後の詳しい検討の課題といえるだろう。

「農村」の重要性を訴えた作家の視点に対しては、果たしてこのような価値が現代において意味を持ちうるのかという鋭い質問も出されたが、「原発などによるすさまじい環境破壊」で「人類が危機的状況」にある一方で、夢物語のように思われていた自然エネルギーは、科学の発展によって可能性を増大させている。ドストエフスキーが唱えた「大地(土壌)主義」とその問題意識を現代に受けついでいる作家ラスプーチンとその作品の意味はきわめて大きいと思える。

「ドストエーフスキイの会 ニュースレター」117号

 (201年1月12日改訂、2015年3月26日、「ドストエーフスキイの会」〈第215回例会傍聴記〉より改題)。

「主な研究(活動)」のページ構成

Ⅰ、 (ドストエフスキー、ロシア文学、堀田善衞、小林秀雄関係)

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(26歳時のドストエフスキーの肖像画、トルトフスキイ絵、図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

 

Ⅱ、 (司馬遼太郎、正岡子規、近代日本文学関係)

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(芥川龍之介の写真、Yokohama045、図版は「ウィキペディア」より) 

 

Ⅲ、市民講座と例会 

3-1,講演・市民講座(2011年~2017年)

3-2,講演・市民講座(2001年~2010年)

3-3,「ドストエーフスキイの会」例会一覧(第218回~第239回)