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司馬遼太郎と梅棹忠夫の情報観と言語観ーー比較文明学の視点から

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(高橋誠一郎『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房の表紙。図版はオムスクの監獄)

はじめに

 現在、世界では「グローバリゼーション」の名の下に価値の一元化が進められる一方で、伝統的な価値の混乱が各国でみられるようになり、日本でも若者における日本語の乱れや犯罪の増加が指摘されている。

 この意味で興味深いのは、日本における比較文明学の創始者の一人である梅棹忠夫が、「近代文明をになうことができる言語」とは、「現代の経済、技術、科学をふくんだ膨大な情報をただしく操作でき」、「コンピューターに代表される現代の情報機械と有効に接合することのできる言語であるべき」と述べ、さらに「日本語はいま、まさに『国際化』というおおきな局面にさしかかっている」として、漢字表記の問題点を指摘し、日本語はローマ字で表記すべきだとする論を展開したことである*1。

 コンピューターの時代をいち早く予想し、その後のIT産業にも大きな影響を与えた梅棹のこのようなローマ字論は、多くの者にとって情報化時代における日本語の問題点を示すものと受け取られ、急速に進んだグローバリゼーションの流れの中で、「英語公用語」論にも道を開く根拠の一つともなった。

 しかし、梅棹忠夫は後に、自分が「情報産業論」(1962年)で主張したこととは異なり、その後の議論は、「コンピューターによる情報処理や効率化の視点から論じるものがほとんど」であったと批判し、「近代文明語をかんがえるとき、その言語には母体となる文化のしっかりとした枠があり、そのまわりに外国がある」として母国語である日本語の重要性を強調した*2。つまり後に詳しく見るように、国際的な広い視野を有した梅棹は情報を載せる道具としての言語自体を、情報というソフトのハードウェアとして認識しており、言語というハードを制した国が情報をも制することができると考えているのである。それゆえ、梅棹はあくまで日本語による情報の発信にこだわっているのであり、その日本語表記の効率をよくするための方法として、ローマ字論を主張しているのである。

 このことに注意しながら梅棹忠夫が高く評価した司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読むとき、日露戦争を賛美したとして毀誉褒貶の烈しかったこの長編小説では、「文明開化」を強いられた日本における「文明語」の学習とその影響が克明に描かれていることに気づく。他方、司馬の情報・言語論を通して、梅棹の「情報論」を読み返す時、彼のローマ字論が日本の近代化と外国語学習の問題にも深くかかわっていることが分かる。

 以下、本稿では司馬遼太郎と梅棹忠夫の「情報・言語観」に注意を払いながら『坂の上の雲』を分析するとともに、比較文明学的な視点からヨーロッパと日本における語学教育の問題を考察することにしたい*3。

 

1、言語の序列化と「文明」による「野蛮」の規定

  長編小説『坂の上の雲』が連載され始めたのはちょうど明治百年にあたる1968年からであり、このことを司馬も強く意識して、「維新によって日本人ははじめて近代的な『国家』というものをもった…中略…たれもが『国民』になった」と記した(「あとがき一」・Ⅷ)。

  桜井哲夫は近代的な「国民国家」の強化のためには、徴兵制による軍隊の近代化だけでなく、教育体制の改革が急務と考えたナポレオン一世が「学校は国家機関であるべきであり、…中略…それらは、国家によって国家のために存在するのである」と述べて、「中央集権的な教育システムを構想した」と指摘している*4。このことは「国語教育」においてことに顕著であった。田中克彦が指摘しているように、「国民国家」フランスの成立と共に、周辺地域でもフランス語を「国語」として用いることが強要されるようになったのである*5。

 このような国語教育の事情は「国民国家」をめざした明治維新後の日本においてもほとんど変わらなかったが、「文明開化」を進める上で政府にも大きな影響力を持った福沢諭吉が、「開国の要として、英語を全国に奨励」すべきと強調していたように*6、急速な近代化を進めていた日本では、「言語教育」の問題はもう少し複雑であった。

 つまり、自国を「文明」としたバックルの『イギリス文明史』などの強い影響下に書いた『文明論之概略』(1875年)において、日本はまだ「半開」に留まっているとする認識を示していた福沢にとって(F・Ⅳ、20~22)、歴史が「文明(中央)ー半開(周辺)ー野蛮(辺境)」と序列化されたのと同じように、言語もまた「文明語ー国語ー方言」と序列化されていたのであり、「文明国」の言語である英語を習得させるのは、当然のことだったのである。

 言語論から見た『坂の上の雲』の面白さは、日露戦争の勝利に貢献した地方都市松山出身の秋山兄弟の活躍が、それぞれの外国語学習と深く関わっていることを明らかにしていることである。すなわち、師範学校から陸軍士官学校、陸軍大学校へと進んだ秋山好古(よしふる)は、フランスへの留学でフランス式馬術の優秀さを知り、欧州視察旅行の際にパリにも立ち寄った山県有朋に対してこのことを建言して、優秀なロシアのコサック騎兵との戦いを可能にした(Ⅰ・「馬」)。

 また学費がかかるため大学への進学をあきらめねばならなかった弟の秋山真之も、「教科書も原書であり、英人教官の術科教育もすべて英語で、返答もいちいち英語」で、「私語だけが日本語」の世界であった海軍兵学校で学び、やがてまだ一流国ではなかった新興のアメリカに留学してスペインとの米西戦争を観察し、後のバルチック艦隊との戦いに参考になる多くの作戦を学んだのである。

 ところで、福沢が依拠したバックルは『イギリス文明史』において、戦争という「野蛮な行為は、進歩が完成されつつある社会では、次第に使用されなくなっている」とし、その例としてイギリスを挙げる一方で、クリミア戦争を「知性の発達とは無縁の民族」であるロシアとトルコの「二つの国家の衝突によってもたらされた」として、「文明国」としてのイギリス帝国と「野蛮な」ロシア帝国を対置していた*7。日露戦争が勃発するとロンドンで三巻からなる戦史 “Japan’s Fight for Freedom”(1904~6年)が刊行されたが、俵木浩太郎は著者のウィルソンがその序文で「ロシアは野蛮と反動の側にある」とし、一方「日本は正義のために、民族独立のために闘っている」と書き、「日本の勝利」を「野蛮な力と物質主義にたいする徳性の勝利である」とまで断言して、同盟国となっていた日本の「文明」を讃えていたことを紹介している*8。

 興味深いのは『坂の上の雲』の前半における司馬遼太郎の歴史認識が、イギリス帝国を「文明」としたこれらイギリス人の「国民国家」史観や福沢諭吉の歴史観とほぼ重なっており、司馬は明治維新によってアジアで初めて「憲法」も持った「文明」的な「明治国家」と、皇帝の専制国家である「野蛮なロシア帝国」との戦いを正面から描こうとしていたといえよう。

 たとえば、司馬遼太郎は『坂の上の雲』において、民衆には将校になる可能性がほとんどなかったロシアの場合と比較しながら、「日本ではいかなる階層でも、一定の学校試験にさえ合格できれば平等に将校になれる道がひらかれている」(Ⅰ・「七変人」)として、だれもが努力すれば立身出世ができる明治の新しい教育制度のよさを強調し、第3巻において、「日清戦争から日露戦争にかけての十年間の日本ほどの奇蹟を演じた民族は、まず類がない」(Ⅲ・「権兵衛のこと」)と記した。その一方で司馬は、「ロシアの態度には、弁護すべきところがまったくない。ロシアは日本を意識的に死へ追いつめていた。日本を窮鼠にした」(Ⅲ・「開戦へ」)と書き、さらに小村寿太郎が「下僚に命じ、ロシアおよび英国がそれぞれ他国とむすんだ外交史をしらべさせたところ、おどろくべきことにロシアは他国との同盟をしばしば一方的に破棄したという点で、ほとんど常習であった」(Ⅲ・「外交」)と記していた。

 そして、司馬は第5巻ではロシア側が都市を要塞化して守っていた旅順攻防の悲惨な戦いを描く中でクリミア戦争に言及し、ペリーが日本に来航した1853年におきたこの戦争と日露戦争は、ともに「ロシアの南下膨脹政策からおこった」のであり、「その本質は酷似している」とし、「英国がその植民地政策上、トルコに味方したことも、日露戦争に似ている」とした(Ⅴ・「水師営」)。

 しかし、史実を注意深く調べながら日露戦争を書き進めていた司馬はすでに第4巻のあとがきで、このような歴史小説は「事実に拘束される」が、「官修の『日露戦史』においてすべて都合のわるいことは隠蔽」されていることを挙げて、「情報」の問題に注意を払うようになるのである。

 たとえば、第3巻で司馬は「日本政府は、戦争をおそれた」が、「世論は好戦的であった。ほとんどの新聞が紙面をあげて開戦熱をあおりたて、わずかに戦争否定の思想をもつ平民新聞が対露論に反対し、ほかに二つばかりの政府の御用新聞だけが慎重論をかかげているだけであった」(Ⅲ・「外交」)と書いていた。しかし、第7巻の「退却」の章で司馬は、「日本においては新聞は必ずしも叡智と良心を代表しない」と断言し、「満州における戦勝を野放図に報道し続けて国民を煽っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり」、これが「のちには太平洋戦争にまで日本をもちこんでゆく」ことになったと新聞報道のあり方をも厳しく批判するようになるのである。実際、井口和起が『日露戦争の時代』において記しているように、日本軍の進軍の状況を記したことによって新聞の部数は、戦争の期間中増え続けていたのである*9。

 さらに、「西方のゲルマン文化を東方のロシアにうけわたす役割をした」ポーランドが、「ロシアの属領となってしまっているため、壮丁が大量に徴兵され、極東の戦線」で亡くなっているロシア帝国の悲惨な支配の状況を描いていた司馬遼太郎は、後にこのような「ロシアとポーランドの関係」が、「日本と朝鮮との関係とやや似ている」ことに気付き、「朝鮮を通じて大陸文化を受容した」日本が、「いちはやく近代化した」後では、「朝鮮を隷属させようとし、げんにこの日露戦争のあと、日韓併合というものをやってしまい、両国の関係に悲惨な歴史をつくった」と批判している(Ⅵ・「大諜報」)。

  しかも、司馬遼太郎はフィンランドを属国としたロシア帝国が「ロシア語をもって公用語」としたことに注意を促しているが、日露戦争に勝って強大な帝国となった日本が行ったのも朝鮮において日本語を強要するという帝国的な言語政策だったのである*10。

 こうして司馬はロシア陸軍の退却を描いた第7巻では、英国とは「情報によって浮上している島帝国」であり、強国が生まれそうになると、イギリスはすばやく手をうってきたと指摘し、日露戦争に際して「極東の弱小国にすぎない日本を支援」したのも、「英国の伝統的思考法から出たもの」と説明している。そして、「日露戦争におけるロシアは世界中の憎まれ者であった」が、それは英国が「タイムズやロイター通信という国際的な情報網をにぎって」いたからと指摘し、ロシアが英国と同盟してナポレオンと戦った時には、ロシア軍の「退却」は軍事的な「戦術」とされたが、英国が日本と同盟していた日露戦争に際しては、ロシア軍の「退却」は「敗北」として世界中に報道されたと記したのである(Ⅷ・「あとがき六」)。

 梅棹忠夫はそれまで「情報」という用語が「敵に関する知識という意味の軍事用語」であり、また「マスメディアに対するさまざまな統制をおこなう部署」も「情報局」と呼ばれたために、よい印象はなかったと記した*11。実際、それは過去のことにとどまるものではなく、現代にいたっても「イラク戦争」に際しては、敵と勇敢に戦ったとされた女性兵士のジェシカ・リンチの救出が映像とともに報道され、野蛮な敵と戦うこの戦争の正当性が強調されたが、後に本人自身の証言でこれが作られた情報であったことが明らかになったのである。

 さらに、1970年に行われた司馬との対談で梅棹は、「情報には一種の独自の論理」があるが、「権力とか財力とかと直接結びつくと、しばしば狂う」と述べて、情報と権力の癒着の危険性への鋭い示唆をしていたが*12、膨大な量の「言語」情報や「映像」情報による国際世論の操作は、「敵」の「野蛮性」を創り上げて戦争を起こすことやそれを正当化することも可能なのである*13。

 

2,「言語帝国主義」とEUの多言語政策

 この意味で注目したいことは、「フセイン体制」の打倒のためには先制攻撃ができるとしたアメリカのラムズフェルド国防長官が、国連による査察の最中に先制攻撃を行うことは「大義」を欠くことや、イスラム原理主義とは敵対する近代化政策をとったフセイン体制を充分な対策なしに打倒することは、権力の空白からむしろテロリズムを蔓延させるなどとして、この戦争に反対したフランスやドイツなどを「古いヨーロッパ」と呼んで批判していたことである。しかし、互いに「自国」を「正義」としながら戦争を拡大してきたこれらの国々には、自国を戦場とした2度の世界大戦での悲惨な体験への深い反省があったと思える。ここでは言語を中心にヨーロッパの歴史を簡単に振り返ったあとで、EUの言語政策の特徴をみておきたい。

 まず私たちは「文明語」の位置をめぐる激しい論争が近代に始まったことではなく、すでにローマ帝国とビザンツ帝国との間でもキリスト教の布教方法をめぐって起きていたことに注意を払いたい。

 ギリシア正教の宣教師であるキュリロス(スラヴ名キリル)は、スラヴ諸国での布教にあたって、誰もが理解できるように『聖書』の一部のスラヴ語への翻訳を9世紀に行った。これに対して当時ギリシア正教と並ぶ一大勢力であったローマ・カトリックは、ラテン語の権威を強調して、『聖書』の各国語への翻訳を認めなかったのである。筆者はこの論争の経緯をつまびらかにはできないが、「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神と偕(とも)にあり、言(ことば)は神なりき」*14という「ヨハネ伝第1章1節」の文章がこのような主張の根拠の一つであっただろうということは予想できる。その後西欧社会における科学の急速な発達にともなってラテン語は、「上位語」としての優位性を確保し、ニュートンの論文を読むためにもラテン語の知識が必要になったのである。

 しかし、「普遍語」としての地位が定着したかに見えたラテン語は、カトリック教会の内部から突き崩されることになる。すなわち、絶対的な権力を確立した後で、多くの点で形骸化し、腐敗すら顕著になったカトリック教会においても「神の代理人」としての教皇の権威は絶対で批判すら許されなかった。このような壁をうち砕いたのが、各人が神の声を聞くことができるという「良心論」と、ラテン語以外の言語でも神のことは伝えられるとする考えであり、その果敢な実行者であったルターは、『聖書』のドイツ語訳に着手したのだった。そしてライプニッツ哲学の継承者であったヴォルフはこのような考えに支えられて、プロテスタントの大学であったフライブルク大学でドイツ語による講義を行ったのである。この講義を聴講して感銘を受けた学生の一人が、当時ドイツに留学していた若きロモノーソフであり、かれはモスクワ大学を創立するとともに、公開講義をだれもが理解できるロシア語で行うようになるのである*15。

 ただここでラテン語から自立するようになった各国語が今度は、自国語の優位性を主張し始めることにも留意しておきたい。イスラム以外への十字軍の派遣はあまり知られていないが、プラハ大学総長フスの殉教後に起きたフス派戦争の際には、法皇やハプスブルク家の皇帝はチェコ人を「異端民族」と規定して大がかりな十字軍を派遣し、フス派の「神の戦士」は5度にわたってこれを撃退していた。しかし、30年戦争でのチェコの敗戦を契機とした暗黒時代(1648~1780年)には、カトリックの反宗教改革により、チェコ語の書物が焼かれドイツ語が公用語とされて、徹底したカトリック化とドイツ化が行われていたのである*16。

 この意味で注目したいのは、社会学者の作田啓一が「ナポレオン戦争を支えたフランス民族のナショナリズム」では、「フランス革命によって到達した民主主義的な諸価値を世界に拡げること」を「彼らの使命」としていたと指摘していることである*17。実際、ニコルソンによれば、ロシア侵攻の直前にナポレオンは「余の運命はまだ成就されていない。想定図はまだアウトラインが引かれたばかりだ。全ヨーロッパを、一つの法典、一つの通貨にしなければならない。ヨーロッパ諸国を併合して一つの国にし、パリをその首都にする」と語っていたのである*18。ここでナポレオンは言語については述べていないが、彼が

フランス語を「普遍語」として意識していたことはたしかであろう。「国民国家」から「帝国」へと発展したフランスでは、自己の獲得した諸価値を世界に拡げるために自国の言語を広めることも「彼らの使命」としていたのである。

 このことはロシアの知識人もよく知っていた。たとえばトルストイは「祖国戦争」を描いた『戦争と平和』の冒頭でロシアの貴族たちが、母国語であるロシア語でではなく「文明語」と見なされていたフランス語で敵のナポレオンを罵るという光景を描くことで、「周辺文明国」ロシアにおける「文明語」学習の問題点を見事に表現していた。そしてトルストイは、ボロジノの戦いに勝利してモスクワの町を見下ろしたナポレオンの次のような言葉を記すことで、彼がフランスを「文明」としたギゾー風の「国民国家」史観を受け継いでいることを明らかにして、このような歴史観が戦争を正当化させていることを見事に指摘していたのである。「野蛮と専制のこの古い記念物の上に、正義と慈悲の偉大な言葉を刻みつけてやろう。…中略…おれは彼らに正義の掟をあたえてやろう。真の文明の意味を示してやろう」*19。

 この意味で注目したいのは、比較文明学の視点から「言語と情報」の問題の重要性を指摘した梅棹が、「国民国家」フランスを建設したナポレオンの目標が「ローマ帝国の再現」であったことを指摘して、「国民国家と帝国とのねじれた関係」についての議論の深化をも求めていたことである*20。このとき梅棹の視野には、「言語・情報」の問題における「国民国家」の言語と「帝国」の言語との問題も入っていたと言っても過言ではないだろう。「国民国家」の成立に際して、「国語」が大きな役割を担ったように、「帝国」の形成においても言語がきわめて重要な役割を果たしていたのである。

 しかし、チェコにおける「言語帝国主義」と「民族語」の問題を考察した川村清夫は、ドイツ語を「文明語」としていたオーストリア・ハンガリー帝国では、チェコの裕福な知識人層もチェコ語を「半開の言語」とする政策に協力していたが、ナショナリズムが盛んになると母語の復権を求めたチェコ人の烈しい「言語権運動」が起き、それがハプスブルク帝国の崩壊を招いたと指摘している*21。

 さらに、フランス帝国の場合もロシアとの戦いでナポレオンが大敗を喫すると、それまで軍事力の前に面従腹背していたヨーロッパの諸国が一斉に反攻に転じて、「諸国民の解放戦争」を起こし、それまで「普遍語」として通用していたフランス語もその地位を失ったのである。しかも神川正彦はソ連を帝国と規定した梅棹の先見性に注目しているが*22、ソ連が崩壊する時期にバルト諸国を始め、各共和国で見られたナショナリズムの昂揚の一因となったのも、「文明語」としてロシア語の学習を強要した、共和国政府側の「周辺文明国」的な言語政策に対する反発だったのである。つまり、経済効率や情報処理の面からの「文明語」重視の言語政策は、一時的には効果をもたらすが、長い目で見るときむしろ大きな民族問題を引き起こすのである。

  このように見てくるとき、自国語以外に「たとえそれが簡単なレベルであったとしても」、「二カ国語以上で話ができる」ようにすることが、「異なった文化や言語で生活している寛容さと理解を深めることにつながる」とした1998年に欧州評議会の勧告の意味がはっきりとしてくる*23。

 つまり、加藤周一が説明しているように「文明語」の学習に際しては、「力関係が絶えず一方に傾斜」し、「どうしても先生と弟子の関係になりがち」であるので、「相手を理想化してそれに近づこうとする傾向」や「劣等感が生じ」るのである*24。実際、記憶だけでなく舌や口構えなど身体的な面でも「自己の他者化」を要請するような外国語教育は幼児期における自己の確立を損なう危険性が強く、他方、「外国語の学習」を強要することは、その外国語の属する文明が自国よりも「上位の文明」であるという錯覚や劣等感を学習者に対してもたせることになる。このことは、「文明」語の学習における劣等感とその反撥としてのナショナリズムが生まれる心理的な過程を物語っていると思える。

 なぜならば、「文明語」の習得の過程で、生徒たちが感じた自国の歴史や文化に対する劣等感をうち消すためには、バランスをとるためにも授業のなかで「自国の価値」を強調し、「国民」としての一体感を認識させることが必要とされるのである。それゆえ、自国が富国強兵に成功した際には、これまでの反撥から一気に優越感に転化し、自国語を「帝国語」として学習させたいとする欲望が生まれるのである。

 しかも、「文明語」の習得の問題は学習者だけに生じるのではなく、他国の人間もまた苦労しながら懸命に語学を習得して、語ろうとする姿を見るとき、「文明語」を母国語としている者に、自国の文化が他の文化よりも優れているという先入観や、たどたどしく「文明語」で語る外国人の考えよりも自分の考えの方が優れているという、いわれなき優越感すらも抱かせることになるのである。自国を「文明」として他国を野蛮視するというナポレオンやブッシュ大統領が抱いた自己(自国)中心的な文明観は、このような「文明語」の優位性とも深く係わっているだろう。

 すなわち比較文明学の創始者といわれるトインビーは、世界戦争を引き起こすにいたった近代西欧の「自国」中心の歴史観を「自己中心の迷妄」と厳しく批判したが*25、EUの言語政策には、互いに「自国」を「文明」として、歴史だけでなく、言語をも「文明ー半開ー野蛮」に序列化してきたことが、「他国」の反発を招き戦争を生んできたことへの深い反省があると言っても過言ではないだろう。

 このようなEUの言語政策から見るとき、『坂の上の雲』を書き終えた後で司馬遼太郎が、「コトバの窓」という概念を用いながら、自分が英語以外にも数カ国語を学んだことで、日露戦争や「世界じゅうの事柄を、自分がすこしでもかじったコトバ(モンゴル語、中国語、ロシア語)の窓からみること」ができたとし、情報の面でも一定の視点や情報量の多さからではなく、多様な視点からみることの必要性を記したことの意義が明らかになる*26。つまり、現在の世界では英語という「窓」がもっとも見通しがよく、広い「窓」であることは確かだ。しかし、司馬の「コトバの窓」の例にならって言うならば、「広い窓」から見える景色がいかに美しく見えても、これまで見てきたように別の角度から見る時、全く違う様相を示す可能性があるのである。重要なのはただ一つの「窓」を通して一つの価値を学ぶだけではなく、できるだけ多くの「窓」を通してその国の文化や歴史を学ぶことにより、様々な「文明」の持つ価値観を理解することで、「共存の可能性」を探ることであろう。

 それは梅棹忠夫の「情報論」の意義を解説した高田公理が、「単一の言語の過剰な普及は、のぞましいことではない。言語をふくめて異質な文化が、相手の存在を許容しながら『やりとり』することこそが、めざされるべきである」と述べたこととも重なるのである*27。

 

3、「文明語」の重視とその心理的弊害

  では、日本における言語政策はどうであろうか。「文明開化」を主導した福沢諭吉は、「情報量」の視点から「東洋に行はるるものは、英語を最とし、此語を以て英米人と他国人と語るのみならず、他国人と他国人と語るの方便とも為る可し」とし、それゆえ日本人は子供の頃から「自国のいろはと共に英文字を学び、少しく長じて日常の用文章に兼て、英文の心掛けこそ大切なる可し」として、「文明語」としての英語習得の必要性を強調していた(F・Ⅶ・208~209)。

 このような福沢の言語観は敗戦後の日本にも受け継がれて、一時は敵性語として排除されていた英語が今度は「文明語」として中学校の必修科目として指定され、さらに「グローバリゼーション」が進むと1999年には小渕内閣の私的懇談会によって、「グローバル・リテラシー(国際的対話能力)」の確立のための英語の重要性がうたわれ、さらに翌年には英語を「第二公用語」とすべきとの報告書が提出された。また、これに呼応する形で「小学校英語教育学会」も設立されて、2002年には小学校での英語教育も始まったのである。

 この意味で注目したいのは、公文俊平が大著『情報文明論』において、日本語のもつ問題点にも言及しながら、インターネットの急速な普及を理由に、英語公用語論など現在の言語教育に結びつくいくつかの重要な提言をしていることである。彼の議論はその後の言語教育にも大きな影響力を持ったようにみえるので、ここでは語学と情報の面に限って、少し考察しておきたい。

 彼はここで、「漢字の使用が、コンピューターによる情報処理にとっての大きな制約要因」となることを指摘するとともに、「日本語を使ってのコミュニケーションは、情緒に支配される度合いが相対的に大きく、ともすれば相手の論点への批判が人格的な攻撃としてみなされてしまったり」することもあると指摘した*28。実際、幕末におけるナショナリズムの問題を分析した平川祐弘も、「複数の異質な要素から成立つ国民を統合するためには論理的な説得力が必要とされようが、日本のような均質な国民を動かすには、情緒に訴える言葉がある程度まで有効に作用する」と述べて、「尊皇攘夷」や「米英撃滅」などの4字の漢字熟語の問題点を指摘していた*29。

 こうして、公文俊平は「私は、長期的には日本人は”バイリンガル”な言語使用国民となることを決心ーーたとえば日本語と英語を共に公用語とするといったようなーーすべきではないかと思う」と結論したのである*30。このように見てくる時、公文の英語公用論はかなりの説得力を持っているように見える。                           

 しかし、「英語公用語」の問題を現代アフリカの状況から考察した小川了は、多くの民族によって国家が形成されているアフリカ諸国においては、「いずれかが得をするのではなく、すべてが平等に学び取ってゆかねばならない言語」として公用語が採用されているという特殊な事情を説明するとともに、公用語の採用は英語を習熟した者には可能性を与える一方で、そうでない者からは立身出世の可能性すらも奪うことになり、統治する者と統治される者という「強者と弱者の二極分化はますます大きくなる」危険性を指摘している*31。

 ここで注目したいのは、日本より約150年も前に「文明開化」が行われたロシアでは、すでにそのような「二極分化」が発生していたことである。すなわちピョートル大帝の改革の結果、西欧の言語を習得して専門的な知識を有する若者が一代で貴族にまでも立身出世できる制度が生み出されていた反面、税の実質的な負担者である農民や町人の生活はいっそう悪化していたのである。それゆえ、プーシキンの友人でもあったデカブリストの詩人キュヘリベッケルが、フランス語で会話していたロシアの宮廷を批判して、「あそこではロシアの言葉を話さず、聖なるルーシ(訳注、ロシアの古称)を嫌悪する!」と叩きつけるように書いたように*32、宮廷ではロシア人の母語であるロシア語を、粗野な農民の言葉として軽視するようにさえなっていたのである。

 こうしてドストエフスキーがロシアの上層階級におけるフランス語崇拝を指摘しつつ、ピョートル大帝の改革が外国語を話す貴族と話せない民衆の二つの階層に分裂させたとし、民衆は外国語の習得により立身出世して富を得た階層を外国人と見なすようになっているとしたような事態が生まれたのである*33。こうして外国語を話す能力がある者が出世し、母国語を話しながらも外国語ができないばかりに、二流とされ出世の可能性も与えられなかったロシアでは、支配されつづけることへの民衆の鬱積した反発が、革命へとつながる大きな一因となったといえよう。

 ロシアと同じような事態は、「文明開化」後の日本でも起きた。ロシア知識人の西欧かぶれを痛烈に批判したドストエフスキーの短編小説『鰐』をドイツ語から訳した森鴎外は、ドイツに留学中に起きていた「英語公用語」論について、「国民性(ナショナリティ)の維持。『読売新聞、英語を邦語と為すの論』を反駁すること」とし、かつての「フリードリヒ大王の母国語蔑視、フランス語崇拝という倒錯」を指摘しながら、「文明は歴史的基礎の上に立脚している」と続けて、特定の「文明語」の偏重や母国語軽視を厳しく批判していた*34。

 司馬遼太郎もすでに陸軍ではドイツ式が採用されていたことにふれて、秋山好古がフランスへの留学を決めたとき、「陸軍における栄達をあきらめた」とも書いていた。つまり、福沢諭吉は『学問のすゝめ』(1872年)において、「人は生まれながらにして貴賤貧富の別なし。唯学問を勤(つとめ)て物事をよく知る者は貴人となり、富人となり、無学なる者は貧人となり、下人となるなり」として学問の効用を説いていた(F・Ⅳ・291)。しかし司馬遼太郎は、英語ができなかったばかりにすぐれた能力をもっていた正岡子規が「貧人となり、下人となり」かけたことを指摘したが、立身出世を成し遂げるためには国家や組織が求める「文明語」の習得が不可欠だったのであり、それ以外の言語の学習はむしろ出世の邪魔だったのである。

 それゆえ、司馬は「日露戦争の終わりごろからすでに現れ出てきた官僚、軍人」などの「いわゆる偉い人」には、「自分がどう出世するかということ」には「多くの関心」があったが、「日本の人民」も含む「他者を愛する思想はなかった」とし、さらに言葉を継いで「地球や人類、他民族や自分の国の民族を考える、その要素を持っていなかった」と記して厳しく批判したのである*35。それは『冬に記す夏の記録』(1863年)において、西欧文明を絶対視するロシアの知識人を「文明の普及者という己が使命にうぬぼれきって」、「文明の曹長とでもいった顔付で、民衆の上に君臨している」と厳しく批判し、ロシアの将来への危惧を示したドストエフスキーの言葉を想起させるのである*36。

 こうして『坂の上の雲』を書き終えた後で司馬遼太郎は、陸軍の「参謀本部はドイツ式となった」ため、「当然、語学の中心はドイツ語になり」、また「すべてのシステムをイギリスから」買った「海軍は英語が中心」となったと記し、「明治時代は大変な模倣の時代」だったと批判して、「上位文明」と見なした言語の強制的な学習が、情報だけでなく、視野をも制限するという弊害をもたらしたことを指摘したのである*37。 

 さらに戦前の日本には、「たいへん本を読んでいてなんでも知っている」が、出世ができず「不遇感がいっぱいあって、また英語に対して異様な劣等感」を持った「偏狭という点でいちばん危険なナショナリスト、というタイプ」が村役場の係長や中小企業の課長などにいたと指摘し、「いまもいます」と続けた司馬は、戦後の言語教育についても「日本人は、中学から英語を学ぶ。趣味で習うならいいけど、点数がついて、生徒としての優劣がついて、さらには高校や大学の入学試験まで左右してしまう」と批判して英語を「文明語」として「日本語」よりも高い位置に置く、現在の言語教育に鋭い疑問を投げかけたのである*38。

 養老孟司の「科学と国民の距離ーー英語で論文を書く理由」と題するエッセーは、最近の日本においてはこのような傾向がさらに強まっていることを鋭く批判しえている。ここで養老はまず、現代の日本では「科学者の世界で評価されるには、論文を英語で書かなければならない。日本語で論文などを書いたら、二流以下と見なされる」ことに注意を促して、「科学が日常に繋がるものなら、それが日本語で書かれてまったくおかしくない。そうなってない世界がおかしいのである」と断言し、「価値のある日本語論文なら、外国人は自分で読めばいい。あるいは翻訳すればいい。いまでは翻訳ソフトまであるではないか。それが公平というものである」と批判したのである*39。この養老が最近出した著書は、驚異的なベストセラーとなったが、このことは現代日本の言語政策に対する若者や中高年層の不満がどの程度深く、また草の根のレベルでいかに広がっているかをも示しているだろう。

 たしかに、すでに見たようにドイツの哲学者ヴォルフやロシアの科学者ロモノーソフは、新しい知識を多くの者が理解しやすいようにと母国語での講義を行っていたが、現代の世界で「グローバリゼーション」という名のもとに起こっているのは、全く反対の事態なのである。

 梅棹忠夫はコンピューターが「計算と情報ストックのためには、はなはだ有用である」としつつも、「言語を主体とする人間の知的生産に対しては、はたしてどれほどの革命をもたらしうるかは、いまのところ疑問」としていた*40。すなわち、梅棹が提起したローマ字論の問題は誤解されて、主に「効率化と有用性」の視点から議論されてきたが、母国語の問題は単に「情報の量」だけには還元できない重要な「固有の価値」の問題が含まれているのである。

 このことを「言語とアイデンティティ」の問題の重要性に気づいた司馬遼太郎の次のような言葉はよく説明しえているだろう。すなわち司馬は、「言語の基本(つまり文明と文化の基本。あるいは人間であることの基本)は」、「母親によって最初に大脳に植えこまれた」「国語なのである」として、幼児期からの母国語によるきちんとした言語教育の重要性を強調している*41。さらに司馬は、その頃すでに持ち上がっていた「日本人は英語がへただから、多くを語らず、主張もひかえ目にする」という論理に対して、「そういうことはありえない。国語がへたなのである。英語なんて通訳を通せばなんでもない。いかに英語の達人が通訳してくれても、スピーカーの側での日本語としての国語力が貧困(多くの日本人がそうである)では、訳しようもない」と鋭い批判を放っているのである。

 たしかに、基礎となるのは見たこと聞いたことの感動や自分独自の思考をきちんと相手に伝え、また相手の言葉の細やかなニュアンスを理解しうるだけの「母国語」の能力なのである。このような司馬の発言は、翻訳ソフトも急速に整い、伝達の「手段」から、伝達する「内容」が問われるようになってきている現在、いっそう現実味を増しているといえよう。実際、「文明」の側から発せられる膨大な量の情報に左右されずにきちんとした判断をなせるためには、まず日本語の理解力と表現力の発展が必要なのである。

  このような司馬遼太郎の言語観は、梅棹の言語・情報観を文学者の視点からうまく説明しえていると思える。なぜならば、司馬は自分自身ではローマ字論を唱えなかったものの、桑原武夫などによるローマ字論の実践を、言語における伝達の機能に注目しつつ、自分の考えを分かりやすく相手に伝えるという日本語の機能を高めるものとして、文体論的な視点から高く評価していた。つまり、梅棹のローマ字論は情報のハードウェアとしての日本語の改良の手段としての性格が強かったのである。

 こうして、司馬は幼児期からの外国語教育は、言語によってでは自分を表現できない情緒の不安定な人格を生み出す危険性があると考え、すべての日本人をバイリンガルにするのではなく、すぐれた通訳と翻訳者を養成する必要性を説いたのである。このような司馬の論説は、なぜ梅棹が外国での講演を日本語で行ったかも説明しえているだろう。すなわち、梅棹は「日本文明の位置」と題したフランスでの講演で、日本は「国際的孤立主義の傾向から脱して、国際的な情報交流に積極的に参加しなければならない時期にきて」いると語った*42。この文章を読んだ多くの読者はこれが欧米語の学習の必要性を説いていると感じるであろう。しかし日本語による情報の発信を重用視した梅棹は、これを日本語で通訳をつけて語っていたのである。

 この意味で注目したいのは、『坂の上の雲』において日本の短歌の改革に大きな足跡を残した正岡子規が夏目漱石に及ぼした影響を描いていた司馬における漱石観の深まりである。たとえば、司馬遼太郎はリービ英雄との対談で「ぼくは年をとって、漱石が好きという以上に恋しくなっています」と言い、「文明語」である英語の第一人者であったにもかかわらず、イギリスの留学で日本人としてのアイデンティティの危機を体験した後には、自らの特権的な地位を捨てて、小説家となり多くのすぐれた作品を生みだした漱石への共感を示し、さらに「漱石において、ラブレターも書けて地球環境論も論じられる、そういう文章日本語が成立した」と続けて、文体論の視点からも漱石を高く評価していることである*43。

  こうして夏目漱石や梅棹忠夫とともに近代日本の「文明開化」の模倣性を鋭く指摘した司馬遼太郎は、『菜の花の沖』において「江戸期はふしぎな時代であった」と記し、「鎖国社会を形成しながら、その箱のなかのひとびとの知的活動は、つねに唐(中国)と阿蘭陀(オランダ)の二つの異文化を日本と対置しながら物を考える」という比較の精神を有していたと書くことになるのである。そして司馬はアイヌ語を「野蛮語」としてさげすむことなく自ら習得していた高橋三平や高田屋嘉兵衛など新しい「知的なグループがすでに江戸に存在していた」ことに注意を向けて、「半開」とされた「後期江戸時代」が、「文明ー半開ー野蛮」という序列化を批判するような、換言すれば、すでに現代のEUの言語政策を先取りするような世界観をもった真に独創的な思想家を生み出していたことを明示したのである*44。

 「何のための外国語教育?」と題した『日本語教育新聞』の特集は、日本の市民社会の「根強い排他性」や「非国際性」に注意を促して、EUの言語政策と比較しつつ、「外国語教育といえば、英語一辺倒である」日本政府の「戦略」に強い疑問を投げかけ、「国際化」の真の意味を、「再度定義し直す必要」を強調している*45。たしかに、言語が思考と密接な関わりを持っている以上、国家レベルで「文明語ー国語ー方言」という序列化を認めるような言語教育を行うことは、個人のレベルでも生徒に「強者ー自己ー弱者」という差別化を認めさせ、強者へのあこがれを生み出させるとともに、弱者に対する「いじめ」をも正当化させる根拠を与えてしまう危険がある*46。強い「グローバリゼーション」の流れの中にある現在こそ、「文明開化」の際の言語教育の問題点を反省して新しい「言語教育」のあり方を示すべきであろう。 

 

結語

  福沢諭吉は『学問のすゝめ』(1872年)において、学問の効用を説いた後で、「専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり」と続けていた。しかし、1978年に行われた対談で、司馬は明らかにこの福沢の言葉を意識しながら、日本は明治以降に「有用の学問をしすぎた」ために、強国となり「野蛮になった」と語った*47。興味深いのは司馬のこの言葉を受けて梅棹が、国立民族学博物館は「虚学の世界で、あんまり実際の役」にたたないが、「それはそれでいい」と語り、ここでは「おなじ平面に世界中の文化をならべてみた」と述べ、司馬も「単一性」が高く、「無用の愛国心へ逆もどりするおそれのある」日本社会においてこの博物館ができたことの意義を高く評価していることである。

 実際、これまでの歴史は言語的な「情報の量」から、「鎖国」を「半開」と、無文字社会を「野蛮」と規定してきたのである。しかし、梅棹はシンポジウム「言語と文字の比較文明学」において、「言語をもたない社会は存在しえないが、文字をもたない社会はいくつもある。われわれは現代世界において、文字をもたない人びととともに共存しています」と述べて、このような「言語的な情報の量」による序列化を厳しく諫めていたのである*48。

 一方、「水火を制御して蒸気を作れば、太平洋の波濤を渡る可し」とした福沢諭吉は、「智勇の向ふ所は天地に敵なく」と判断し、「山沢、河海、風雨、日月の類は、文明の奴隷と云う可きのみ」と断言して、「文明」による「野蛮」の支配や征伐と同様に、「文明」による「自然支配」の正当化も『文明論之概略』において行っていた(F・Ⅳ・144)。 福沢諭吉の比較文明論的な視野と方法を高く評価した神山四郎は、このような見方が「産業革命時のイギリス人トーマス・バックルから学んだ西洋思想」であり、「それが今日の経済大国をつくったのだが、また同時に水俣病もつくったのである」と批判し、「明治には『奴隷』と思った自然から今はしっぺ返しを受けている」とした*49。実際、今でも「自国」を「文明」と主張するブッシュ政権は、温暖化防止のための京都議定書などへの調印をこばんでいるが、無理矢理「支配」されてきた自然は、人類の生存をすらも脅かすようになってきているのである。

  比較文明学会・前会長の伊東俊太郎は、近代西欧の歴史観が「ナショナリズム的な『国家史観』」の影響下にあったことを指摘しつつ、戦争の悲惨さや環境問題にも注意を促して、トインビーの業績や「自然の概念」の重要性をとおして「地球文明史」の成立の必要性を説いている*50。

 この意味で注目したいのは梅棹忠夫が、「情報の文明学ーー人類史における価値の転換」において、「すべての存在それ自体が情報である。自然もまた情報である」と記し*51、「情報はすでにひとつの環境である」、「人類史における情報の問題は、すでに人間対人間のコミュニケーションの話ではなくなってきている」と規定したことである*52。これらの規定は画期的であり、それは彼の「情報論」の視野が「地球環境」にも向けられていることを物語っている。すなわち、樹木や川、海などの自然は、「言語的な情報」を自ら発信しないゆえに、「文明」の側からは無視あるいは軽視されてきたが、「情報のとらえ方」を換えることで、これまでの「文明ー半開ー野蛮」という序列化を進めることになった「自己中心的な」歴史観や言語観をも根底から変革する可能性が生まれるのである。

 今、焦眉の課題としてあるのは、英語を「文明語」として必修化している現在の一元的な言語教育を、多様な語学から自分の関心のある言語ーーたとえば環境問題に関心のある者はドイツ語を、絵画にあこがれる者はフランス語を、文学に興味があればロシア語を、そして、アジアに関心があるなら中国語や韓国語ーーを選べるような教育システムへと変換することであろう。そのことにより、様々な「文明」の持つ多様な価値観や、さらには物言わぬ「自然」の価値をも理解しうるような「情報・言語」観を確立することが、はじめて可能になるのである。

 追記:明治期の語学教育と「欧化と国粋」の二極化の問題については、新聞記者・正岡子規に焦点を当てて『坂の上の雲』を考察した『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015年)参照。

 isbn978-4-903174-33-4_xl

*1  梅棹忠夫、『近代世界における日本文明ーー比較文明学序説』中央公論社、2000年、149頁

*2  同上、279~80頁  

*3  以下、『坂の上の雲』からの引用は、文春文庫版により、箇所は本文中にローマ数字で示した巻数と章の題名を記す。なお、『坂の上の雲』の分析については、高橋『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』のべる出版企画、2002年、第2章「『文明の衝突』と『他者』の認識」、および中島誠・文/清重伸之・絵『司馬遼太郎と「坂の上の雲』現代書館、2002年参照

*4  桜井哲夫『「近代」の意味ーー制度としての学校・工場』、NHKブックス、1984年、50頁、58~9頁

*5  田中克彦『ことばと国家』岩波文庫、1981年参照

*6  福沢諭吉『福沢諭吉選集』第7巻、岩波書店、208頁(以下、この選集をFと略し、引用箇所は本文中に巻数はローマ数字で、頁数は算用数字で示す)。

*7   Bokl’G.T., Istoriya tsivilizatsii v Anglii,Spb.,1896,vol.1.,pp.75-78

*8  俵木浩太郎『文明と野蛮の衝突--新・文明論の概略』ちくま新書、2001年、181~2頁

*9  井口和起『日露戦争の時代』吉川弘文館、1998年、150~2頁

*10 言語帝国主義とアイデンティティの問題については、三浦伸夫「文明史の中の交流言語」『比較文明』第16号、刀水書房、2000年参照

*11  梅棹忠夫、前掲書(『近代世界における日本文明』)、279~80頁

*12 梅棹忠夫編著『日本の未来へーー司馬遼太郎との対話』NHK出版、2000年

*13アメリカ軍の占領下に行われた原子爆弾の悲惨さの隠蔽については、高橋『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』、のべる出版企画、2002年、113~4頁参照

*14『旧新約聖書』日本聖書協会発行、1967年

*15 高橋「ロシアの文明開化ーーロモノーソフとモスクワ大学」『望星』11月号、東海教育研究所、1992年、14ー19頁参照

*16  ザツェク「チェコスロヴァキアのナショナリズム」『東欧のナショナリズムーー歴史と現在』東欧史研究会訳、刀水書房、1981年、140~3頁。なお、ロスティンスキー「マサリクによるドストエフスキーの考察」高橋訳注、『ドストエーフスキイ広場』第4号、1994年、19~27頁参照

*17  作田啓一『個人主義の運命ーー近代小説と社会学』岩波新書、1981年、107頁

*18ニコルソン『ナポレオン1812年』、白須英子訳、中公文庫、1990年、20頁

*19 トルストイ『戦争と平和』(『世界文学全集』第20巻)、中村白葉訳、河出書房、昭和41年、230頁。両小説の比較については、高橋「司馬遼太郎のトルストイ観ーー『坂の上の雲』と『戦争と平和』をめぐって」『比較思想研究』第30号、日本比較思想学会、2004年参照

*20  梅棹忠夫、前掲書(『近代世界における日本文明ーー比較文明学序説』)、342~5頁。なお、司馬遼太郎における「国民国家」と「帝国」の問題については、高橋「『明治国家』から『日本帝国』へーー司馬遼太郎の歴史認識」『比較文明』第19号、日本比較文明学会、2003年参照

*21  川村清夫「言語と民族主義」『比較文明』第16号、刀水書房、2000年、134~8頁

*22  神川正彦『クォータリーリサーチレポート』第11号、日本価値観変動研究センター、2003年、2頁

*23「特集・何のための外国語教育?ーー日本とEU、言語政策の差」『日本語教育新聞(欧州版)』2003年、7月15日号、第2面参照

*24  加藤周一「日本にとっての多言語主義の課題」『多言語主義とは何か』藤原書店、1997年、298頁

*25 トインビー『歴史の研究』第2巻、長谷川松治訳、社会思想社、昭和42年、75~6頁

*26  司馬遼太郎『司馬遼太郎が語る日本Ⅴ』朝日新聞社、1999年、87頁

*27  高田公理「マルクスをこえる最後の文明史論」『情報の文明学』、305頁

*28  公文俊平『情報文明論』NTT出版、1994年、400~403頁

*29  平川祐弘、『西欧の衝撃と日本』講談社学術文庫、1985年、135頁

*30  公文俊平、前掲書、402頁

*31  小川了「公用語の思想と機能」『比較文明』第16号、刀水書房、116~120頁

*32 ロトマン『文学と文化記号論』、磯谷孝編訳、岩波書店、1979年、302頁

*33 日本とロシアの「文明開化」の類似性については、高橋『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、2002年参照

*34  平川祐弘、前掲書、210頁より引用

*35 司馬遼太郎『「昭和」という国家』NHK出版、1998年、29~31頁

*36  Dostoevsky,F.M. Polnoe sobranie  sochinenii v tridtsati tomakh, Leningrad, Nauka、T.5.,pp.59-60、『ドストエフスキー全集』新潮社、第6巻、小泉猛訳、27頁

*37  司馬遼太郎、前掲書(『「昭和」という国家』)、133頁

*38  司馬遼太郎「新宿の万葉集」『九つの問答』朝日新聞社、1995年、96~7頁

*39  養老孟司「科学と国民の距離ーー英語で論文を書く理由」毎日新聞、2002年11月10日

*40  梅棹忠夫『情報の文明学』中公文庫、1999年、296頁 

*41  司馬遼太郎「なによりもまず国語」『一六の話』中公文庫、1997年、367頁

*42  梅棹忠夫『日本とは何かーー近代日本文明の形成と発展』NHK出版、1986年、38頁

*43  司馬遼太郎「新宿の万葉集」『九つの問答』朝日新聞社、1995年、101~2頁

*44  司馬遼太郎『菜の花の沖』文春文庫(新版)、第3巻、2000年、167~9頁

*45  「特集・何のための外国語教育?ーー日本とEU、言語政策の差」『日本語教育新聞(欧州版)』2003年、7月15日号、第3面

*46  この問題については、高橋『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』、刀水書房、2002年、第5章「非凡人の理論」参照

*47  梅棹忠夫編著、前掲書(『日本の未来へ』)、177頁 

*48  梅棹忠夫、前掲書(『近代世界における日本文明』)、159頁。なお、米山俊直「アフリカ地域の文明」(伊東俊太郎・梅棹忠夫・江上波夫監修、米山俊直・吉澤五郎編『講座比較文明』第2巻)、朝倉書店、1999年参照

*49  神山四郎『比較文明と歴史哲学』刀水書房、1995年、115頁

*50  伊東俊太郎『比較文明』東京大学出版会、1997年、24~5頁

*51 梅棹忠夫、前掲書(『情報の文明学』)、209頁

*52 同上、222頁

 

 【『東海大学外国語教育センター紀要』第24輯、2004年。本稿は2002年に国立民族学博物館で行われた比較文明学会において口頭発表した論文に、その後の考察を加えて大幅な改訂を行ったものである。なお、本稿では敬称は略した】

リンク→英語教育と母国語での表現力――「欧化」と「国粋」の二極化の危険性

詩人プレシチェーエフ――劇作家オストロフスキーとチェーホフをつなぐ者

 

斬新な視点から「コジマ・プルトコフ」という架空のユーモア作家とドストエフスキーとの関係を考察した金澤友緒氏の論文については、「ニュースレター」では紙面の都合上あまり深く言及できなかったが、雑誌《ズボスカール》との対比や共作という視点からもたいへん興味深い論考であった(『ドストエーフスキイ広場』第22号)。

たとえば、文壇への復帰を願っていたドストエフスキーがトルストイの『幼年時代』に強い関心を抱いて「Л・Нとは誰のことか」と手紙で尋ねていたという指摘からは、オストロフスキーの作品に強い興味を示していた手紙のことを思い起こし、「プルトコフ」の生涯をとおしてこの時代をも浮かび上がらせていると感じた。

『ステパンチコヴォ村とその住民達』においてドストエフスキーが「プルトニコフ」の作品から引用するだけでなく、それに対する登場人物の反応を描いているとの指摘は、長編小説『白痴』においてプーシキンの詩『貧しき騎士』が果たしている役割にも通じており、ドストエフスキーの創作方法の一端をも明らかにしていた。

さらに論文を読み返しながら私が思い起こしていたのは、ベケートフ兄弟のサークルに接近した際に知り合ったペテルブルグ大学の学生で、詩人のプレシチェーエフ(一八二五~九三)とドストエフスキーとの関係のことであった。

 

*    *   *

1,プレシチェーエフへの献辞

ドストエフスキーは、一八四七年の四月一三日から六月一五日まで五回にわたって『サンクト・ペテルブルグ報知』にフェリエトン『ペテルブルグ年代記』を連載したが、これはドストエフスキーだけの作品ではなく、プレシチェーエフとの共作であった。

きわめて興味深いのは一八四七年四月二七日のフェリエトンには、『白夜』に書かれることになる「夢想家」についての考察がすでにはっきりと見られることである。

つまり、そこには「自分のもっているいいところを現わす」手段がないと、人間は「酒で身を持ちくずしたり」、「トランプに手を出し」たり、さらには、「自負心で頭がおかしくなったりする」と指摘され、その文末近くでは「われわれはみんな多少とも夢想家ではないのか!」という特徴的な文章も記されているのである。

よく知られているように『白夜』は、「感傷的な物語」という副題の他にも、「夢想家の思い出より」という副題をも持っているが、研究者のコマローヴィチは「作品を献ずることにおいては概して吝惜の人であった」ドストエフスキーにはめずらしく、『白夜』には当初プレシチェーエフにへの献辞が掲げられていたことを指摘している。

すなわち、ドストエフスキーが献辞を付した作品は、兄ミハイルに捧げられた『虐げられた人たち』と姪のソフィアに捧げられた『白痴』、そして妻アンナに献じられた『カラマーゾフの兄弟』の三作と、『白夜』だけだったのである。

さらに、『白夜』が掲載された雑誌の少し後の号で発表されたプレシチェーエフの中編小説『友情ある忠告』でも主人公が「夢想家」であり、その内容が「酷似しているのは、何も驚くべきことではない」としたコマローヴィチは、「この二つの中編小説は、親友であった作者たちの同質の精神状態から生まれた」のであり、彼らの共通のテーマは疑いもなく「フランス・ユートピア思想の諸々のテーマ」だったと続けている。

このように見るとき、ドストエフスキーはニコライ一世の「暗黒の三〇年」と呼ばれる時期を、まさに詩「進め!」のように、プレシチェーエフとともに心を奮い立たせながら「手に手をとって」前へと進もうとしていたといえよう。

(拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』、成文社、第4章「『白夜』とペトラシェフスキー事件事件」参照)

 

 2, プレシチェーエフからの手紙

ドストエフスキーが逮捕された容疑の一つは、反ロシア的な文書とされていた「ベリンスキーの手紙」を朗読したことであったが、その手紙のコピーをモスクワで入手したのがプレシチェーエフであり、ドストエフスキーはそのモスクワから送られてきたそのコピーを翌年の四月に朗読し、その直後に逮捕されているのである。

こうして、ドストエフスキーはシベリア流刑という厳しい体験を強いられることになったのだが、かれらの交際は流刑後も続いていた。

劇作家のオストロフスキーの戯曲がドストエフスキーの「大地主義」の形成に大きな役割を果たしたことは、以前にこのHPでもふれたが、たとえば、詩人のプレシチェーエフはドストエフスキーに「君の『雷雨』評を首を長くして待っている」と手紙に書いていた。

ドストエフスキー自身はこの論文を書かなかったが、彼の兄ミハイルが雑誌『たいまつ』にこの戯曲の劇評を書いており、それはドストエフスキーのプーシキン観とも深く関わるだけでなく、フリードレンデルが指摘しているようにこの論文にはドストエフスキーの手も入っていると考えられる。

ミハイルはこの論文でそれ以前に書かれた主な戯曲にも触れた後で、オストロフスキーが『雷雨』で「まだ誰も手を付けていなかったロシアの生活の幾つかの新しい側面を取り上げ」たと主張し、殊にカチェリーナの性格は「作者によって大胆にきわめて正確に創造されている」と述べ、オストロフスキーがプーシキンの『オネーギン』の「タチヤーナ以降、記されることのなかったロシア女性の美しさ」をもその戯曲の中で描いたと指摘している。

それとともにミハイルは「我々の考えではその作品においてオストロフスキー氏はスラヴ派でも西欧派でもなく、ロシアの生活とロシア人の心を深く知る一芸術家なのである」と高く評価した。それはオストローフスキイの「新しい言葉を信じている」と述べたドストエフスキーの思想にも重なるものであり、このオストロフスキー論はドストエフスキー兄弟が発刊することになる雑誌の理念をも表明していたのである。

(拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、74頁参照)。

 

3,プレシチェーエフとチェーホフ

こうしてプレシチェーエフは、シベリアから帰還したドストエフスキーが文壇に復帰する際に、オストロフスキーとの関係の橋渡しをしていたといえるだろう。

興味深いのは、「チェーホフと知合う以前から、このユーモア作家に注目していた」プレシチェーエフが、チェーホフの出世作『大草原』の誕生にも係わっていることをロシア文学研究者の佐藤清郎氏が明らかにしていることである(『チェーホフの生涯』筑摩書房、一六六~一六八頁)。

このことは詩人プレシチェーエフがチェーホフのうちに、若きドストエフスキーの作風の継承者を見ていたとも考えられ、きわめて興味深い。(『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』終章、注*21)。

*   *   *

(最近、『ロシア語ロシア文学研究』第45号に「プレシチェーエフの青春」と題する高橋知之氏の論文が掲載された。ロシア語文献だけでなく、欧米の文献にも広く目を配って、事件発覚前のモスクワにおけるプレシチェーエフ行動の意味に迫った好論文だと思える。地味だが重要なテーマであり、ドストエフスキーとの詳細な比較も課題としているとのことなので今後も期待したい。)

ムィシキンの観察力とシナリオ『肖像』――小林秀雄と黒澤明のムィシキン観をめぐって

 

1,「シベリヤから還つた」ムィシキン

 「『罪と罰』についてⅠ」(1934)の冒頭で、「重要な事は、告白体といふ困難な道からこの広大な作品を書かうと努めたほど、ラスコオリニコフといふ人物が作者に親しい人物であつたといふ事である」と記していた文芸評論家の小林秀雄は、「ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」という解釈を示した(『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、62~63頁。全集第6巻からの引用に際しては旧漢字を新漢字になおすとともに、本文中の〔〕内に頁数をアラビア数字で示す)。

 「『白痴』についてⅠ」(1934)においても、「本当に美しい人間」を描こうとしたドストエフスキーの「明瞭な企図」と「その実現された処」の違いの激しさを指摘した小林は、「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない、シベリヤから還つたのだ」と繰り返し強調している。

 そして、「『罪と罰』の終末を仔細に読んだ人は、あそこにゐるラスコオリニコフは未だ人間に触れないムイシュキンだといふことに気が付くであろう」と続けた小林は、「この小説の終りで、作者が復活の曙光とよんでゐるものは、恐らく僕等が一般に理解してゐる復活、即ち精神上の或は生活上のどういふ革新にも縁のないものだ」と断言した〔82~83頁〕。

 戦後に書いた「『白痴』についてⅡ」(1952~53)でもムィシキンがスイスから帰国する「汽車の中で、独り言を繰返す」ことに注意を促した小林は、「詮索するにも及ぶまい。当人が『これから人間の中に出て行く』と言つてゐるのだから、この男には過去なぞないのだらう」と断定している〔299頁〕。

 しかし、ここで小林は「これから人間の中に出て行く」というムイシュキンの言葉が、汽車の中での「独り言」と説明しているが、この言葉はエパンチン家の令嬢たちにスイスの村でのマリーと子供たちの逸話を説明した後で語られた言葉であり、しかもムィシキンは「ぼくは自分の仕事を誠実に、しっかりとやり遂げようと決めました」と続けていた(第1部第6章)。

 つまり、スイスでの治療をほぼ終えたムィシキン公爵が混沌としている祖国に帰国する決意をしたのは、母方の親戚の莫大な遺産を相続したとの知らせに接したためであり、ドストエフスキーは小説の冒頭で自分が得た遺産を苦しんでいるロシアの人々のために尽くしたいと考えていたムィシキンと、莫大な遺産で女性を自分のものにしようと願ったロゴージンという対照的な若者の出会いを描いていたのである。

 ムィシキンが「シベリヤから還つた」と解釈すると彼が西欧で見たギロチンによる死刑の場面もなくなり、『白痴』における主要なテーマの一つである「殺すなかれ」というイエスの言葉と、近代西欧文明の批判が読者の視界から抜け落ちてしまうことになる。

 「『白痴』についてⅠ」で『白痴』の結末の異常性を強調した小林秀雄は、「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と記していた〔100~103頁〕。

 ムィシキンの帰国の理由を説明していたエパンチン家での会話の部分を読み落としたことが、このような陰惨な解釈にも直結していると思われる。

 

2,「アグラアヤの為に思ひ附いた画題」

 小林秀雄は「『白痴』についてⅠ」で「周知の事だが、作者はこの主人公を通じて、自分の二つの異常な生活経験を、熱烈に表現してゐる」として、癲癇の発作とともに死刑体験とを挙げていた〔90~91頁〕。

 戦後に書いた「『白痴』についてⅡ」でも、「この死刑の話は、執拗に、三通りの違つた形で繰返し語られ、恰も、作品の主音想(ライト・モチフ)が鳴るのを聞くやうだ」とした小林秀雄は、「ギロチンが落ちて来る一分間前の罪人の顔を描いてはどうか」という「三番目の話は、ムイシュキンがアグラアヤの為に思ひ附いた画題の話である」と続けている〔傍点引用者、281~2〕。

 しかし、ムィシキンが画題を示したのは絵の才能のある次女のアデライーダに対してであって、三女アグラーヤにではなかった。

 しかも、ムィシキンの「見る」能力を考察した川崎浹氏が指摘しているように、エパンチン家で「アデライーダに『見る』ことを示唆した」あとにスイスのことを話したムィシキン公爵は、スイスで見たギロチンの話をした後で死刑囚の顔を描きなさいと語っていたのである(第1部第5章、「『見る』という行為――ムイシュキン公爵とアデライーダ」、104頁)。

 この論考について木下豊房氏も「この物を見る目という本質的な問題を『白痴』のアデライーダの絵の題材への迷いに見て取り、背後に作家のリアリズム観の存在を指摘した川崎氏の慧眼を評価したい」と結論している。

 ドストエフスキー論の「大家」とされてきた文芸評論家の小林秀雄が、『白痴』においてきわめて重要な役割を演じているエパンチン家のアグラーヤとアデライーダの名前を取り違えていたことは、ムィシキンの「孤独」に焦点を絞って考察した小林秀雄の視野にはエパンチン家の家族関係だけではなく、ムィシキンの「観察力」も入っていなかったことを物語っているだろう。

 あるいは、「注意深い読者」であった小林秀雄の視野にはムィシキンの「観察力」も入っていたかもしれない。しかし、このような「事実」としての「テキスト」を忠実に読み解くことで「殺すなかれ」と語ったムィシキンを高く評価することは、戦争に走り出した当時の日本の「国策」に反することも知っていた。そのために、「軍国主義」を批判する評論の筆者として逮捕されることを逃れるために、「テキストから逃走」してしまった可能性も高いと思われる。

 問題は同じような事態が戦後にも起きていたと思われることである。よく知られているように小林秀雄は、科学者の湯川秀樹との対談では「原子力エネルギー」の危険性を「道義心」の視点から厳しく指摘していた。しかし、「第五福竜丸」事件の後で、「原子力の平和利用」が「国策」として打ち出されると、小林秀雄はこの問題を全く語らなくなってしまったのである(拙論「知識人の傲慢と民衆の英知――映画《生きものの記録》と『死の家の記録』」、『黒澤明研究会誌』第30号、参照)。

 一方、このような小林秀雄のムィシキン観とは異なり、長編小説『白痴』におけるムィシキンの観察力をきわめて高く評価したのが黒澤明監督の映画《白痴》であった。

 

3,映画《白痴》とシナリオ『肖像』

 黒澤映画《白痴》(脚本・久板栄二郎、黒澤明、1951年)の亀田(ムィシキン)には絵画を観察する能力は与えられていないが、戦争だけでなく死刑という極限的な体験をしていた亀田には人を見る直感的な観察力が与えられている。

 この意味で注目したいのは、この映画の3年前に黒澤明が木下恵介監督(1912~1998年)のために書いた映画《肖像》のシナリオの主人公の老年の画家がムィシキンを想起させるばかりでなく、老画家の家族を嫌がらせで追い出すためにその二階を間借りして住み込んだ悪徳不動産屋の愛人・ミドリも、ナスターシヤを思い起こさせることである。

 黒澤明監督は「僕は、映画におけるシナリオの地位は、米作における苗つくりのようなものだと思っている」と述べ、、「弱いシナリオから絶対に優れた映画は出来上がらない」と結んでいた(第3巻、286頁)。

 この言葉に留意するならば、シナリオ『肖像』は黒澤明監督の映画《白痴》におけるムィシキン理解の深さを知る上でも、きわめて重要な作品であるといえるだろう。

 井川邦子、小沢栄太郎、三宅邦子、三浦光子、菅井一郎、東山千栄子、佐田啓二などの出演で撮られ、1948年に公開されて第3回毎日映画コンクール監督賞を受賞したこの映画のシナリオの内容を簡単に見ておきたい(サイト「木下恵介生誕100年プロジェクト」の画像も参照)。

 

 まず注目したいのは、主人公の老画家から肖像画のモデルとなるように頼まれたミドリが、「でも、どうして、私なんか」と尋ねると、画家の野村は「なんて言いますかな……不思議なかげがあるんですよ、あなたの顔には」と説明していることである(『全集 黒澤明』第3巻、214頁)。この台詞は、写真館に掲示されている那須妙子(ナスターシヤ――原節子)の写真をみつめて、「綺麗ですねえ」と同意しながらも、「……しかし、何だかこの顔を見ていると胸が痛くなる」と続けた亀田(ムィシキン)の台詞を想起させる(シーン八)。

 一方、嫌々ながらもモデルを務めていたミドリは同じような境遇の芳子に「私ね、じっと座ってその画描きの綺麗な眼でじっと見られていると、なんだか、澄んだ冷い流れに身体をひたしている様な気がするの……自分の身体のいやなあぶらやあかみたいなものが洗い落されて行く様な……」と告白する。

 「いやだよ……お前さんその画描きに惚れるンじゃないのかい」と芳子から冷やかされると、ミドリは「その人、薄汚いお爺さんだわ」と言いながらも、「でも、私……その人好きよ……だんだん好きになって行くわ……初めは、随分まぬけな人だと思ってたけど……」と続けるのである。

 しかも、酔っぱらった勢いで自分が淑女ではなく愛人であると明かしてしまったミドリは、「こんなの私なものか……これが私の肖像だなんて……笑わせるわ」と言い放ち、「煙草を出して吸いつけると壁にもたれてあばずれたポーズ」を取ったが、画家の義理の娘・久美子から「いいえ……どんな不幸が今のような境遇に貴女を追い込んだのか知らないけれど……本当は……貴女はやっぱり、お父さんが描いたような貴女に違いないんです」と説得される。

 その台詞もムィシキンがナスターシヤに「あなたは苦しんだあげくに、ひどい地獄から清いままで出てきたのです」と語った言葉を思い起こさせるのである。そしてミドリは、結末近くで「死んだつもりで、出直して見るんだわ……私達、なんにもやって見もしないで、何もかも駄目だってきめてかかっていたような気がするわ」と語り、同じ稼業だった芳子に「弱虫なのは私達だわ」と続けて自立への決意を語ったのである。

 台詞自体は何人かの登場人物に分与されているが、画家の家族に励まされて苦しくとも自立しようとするミドリの決意は、ムィシキンに励まされたナスターシヤの思いとも対応しているだろう。

 こうして黒澤は老画家の肖像画をとおして、真実を見抜く観察眼の必要性と辛くても「事実」を見る勇気が、状況を変える唯一の方法であることをこの脚本で強調していたのであり、それは映画《白痴》の亀田(ムィシキン)像に直結している。 

日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって

287-8

(高橋誠一郎『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房の表紙。図版はオムスクの監獄)

はじめに  日本の近代化とナショナリズムの覚醒

明治9年(1875年、以下、年号は原則として西暦で示す)に、ベルツはその日記に、「これは最も不思議千万の事ではあるが--今日の日本人は、自身の過去に就いては何事も知る事を欲していない。教養ある人士も、過去に引け目を感じているのである」とし、「何も彼も野蛮至極であった」と言明した者や…中略…「我等は歴史を持って居ない、我等の歴史は今から始まるのだ」とまで断言する者までいるという驚きを記している*1。

だが、実はこのような自己の過去を否定するという精神の働きは、一部の日本人知識人の特殊性を物語るものではない。たとえば、社会学者の作田啓一は『個人主義の運命――近代小説と社会学』で、「ナポレオン戦争を支えたフランス民族のナショナリズム」では、「フランス革命によって到達した民主主義的な諸価値を世界に拡げること」を「彼らの使命」と説明している*2(以下、本書をKと略記し、本文中に頁数を示す)。

このような思想的潮流の中で、フランスの文明を普遍的な文明ととらえたロシアの思想家チャアダーエフは、ナポレオンを破った祖国戦争(1812)の後でも農奴制のような非近代的な制度が改革されないことに悲観し、ロシアはギリシア正教を受け入れたために「人類の普遍的な発展」から孤立したのだと厳しく批判した。こうして、それ以降ロシアでは発展のあり方をめぐって「欧化と国粋」の激しい対立が生まれることになったのである*3。

しかし、一方で「国民国家」の成立と自分たちを「普遍的な理念」の普及者として主張したフランスにおける民族意識の昂揚は、隣国ドイツやギリシア正教を国教とするロシアにおいては、激しい反発から自国の民族意識の高まりを生みだし、独自の「国民性」が求められるようになったのである。

それはロシアに限ったことではなく、いわゆる「文明開化」が求められた明治維新以降の日本でも近代化の過程における「西欧化と土着」の問題が起きてくるようになる。なぜならば、ベルツの「日記」が書かれる3年前に政府は、西欧諸国からの強い要望もあり、キリスト教の禁制をも解いており、西欧文明を学ぶ機会も大幅に拡大したが、自らの普遍性を主張する「近代西欧文明」自身が、それ以外の諸文明の独自性や意義を否定する働きをも担っていたのである。

「西洋崇拝による土着軽視」とその反発としての「国粋」思想の勃興の流れに注目した比較文明学者の山本新は、このサイクルが日本ではほぼ20周年で周期的に交替しているという説を唱えた*4。吉澤五郎は近著でこのような「西欧化と土着」のサイクルを分かりやすく図示しているが、興味深いのは、サイクルの高揚期や低迷期などの節目とドストエフスキー受容が不思議と一致していることである*5。

すなわち、松本健一は「ドストエフスキイが熱狂的に読まれた時代が過去に五度ほどあった」とし、①、1892年前後 ②、1907年前後 ③、大正期 ④、1934年から1937年 ⑤、1945年から1950年を挙げているのである*6。

以下、本稿では「個人主義のゆくえを考えることは、ナショナリズムのゆくえを考えることに通じる」(K.201)とした作田啓一の考察を踏まえながら、比較文明論的な視点から第二次世界大戦に到るまでに時期を絞って日本におけるドストエフスキー受容と「欧化と国粋」のサイクルの問題の係わりを考察し、「文明の衝突」を乗り越える可能性を探りたい*7。

第1節  ロシアの近代化とロシア文学の受容

明治維新の初期に東京外国語学校の教員として招かれていたメーチニコフは、岩倉具視、木戸孝允、副島種臣などの「維新を指導した少数の国家的人物」をはじめとする多くの人たちが、ピョートル大帝の「熱烈なファンである」と書いた*8。

彼の言葉は誇張のようにも思えるが、実際、明治維新に際しては「ざんぎり頭をたたいて見れば文明開化の音がする」と歌われたように断髪令が出されたが、ピョートルもロシア人の意識を変えるために、成人男性が生やしていたあごひげを切り取ることや衣服を西欧式に改めるなどの命令を発しているのである。さらに彼は「ペテルブルク市長に命じて、定期的に夜会をひらかせ、貴族たちが夫人同伴で出席することを義務」づけたが、「わが国の『鹿鳴館』の先駆」だったのである*9。

また、明治政府は1871年暮れに西欧文明を早急に取り入れるために、「一国の政権の最高首脳部の大半をあげて、先進文明世界を視察し、これから学ぼうとする」使節団を1年以上にわたって西欧に派遣したが*10。ピョートル大帝もロシアの内政が安定しないなか250名もの随員と留学生を連れて、一年半にわたる長い西欧視察旅行に出かけていた。さらに、1872年12月に明治政府はそれまでの太陰暦を西暦(グレゴリオ暦)に改めるという大改革を行ったが、ピョートル一世も年号を天地創造の日から数え、1年の始まりを9月1日としていたそれまでのビザンツ暦を、西暦に近いユリウス暦に改めていた。

こうして明治政府は「殖産興業」と「富国強兵」をめざしたピョートル大帝の改革をなぞるかのように息せき切って「近代化」を進めたのであった。幕末の1862年にロシアを訪れた福沢諭吉も、当時のロシアには厳しい評価をしたものの、元禄の頃に行われたピョートル大帝の改革については、「学校を設け海陸軍を建て」、「堂々たる一大国の基(もとい)を開き、今日に至るまで、威名を世界中に轟かせり」と記した*11。

ところで、作田啓一はデュルケームなどの考えによりながら、「近代政治史とは、さまざまの特権を持った中間集団を国家が打ち砕く過程」であり、「この闘争を通じて、中世的な共同態は衰退してゆき、それに代わって国家と個人が社会の有力な構造要素」となってきたとし、こうして「国家の成長に伴って個人主義が発展してきた」と説明している(K.90-93)。

このことは強大な西欧諸国との接触によって開国を余儀なくされた日本が、近代国家の成立をめざして行った改革を例に取れば分かりやすい。明治維新に際し、明治政府は廃藩置県をも断行し、藩にも自治を許すそれまでの幕藩体制というゆるやかな制度を取りやめて、強大な中央集権国家の設立を目指したのである。このような「近代化」を推進したのが、それまでの日本を「半開」とし、西欧を「文明」と位置づけた福沢諭吉であった。彼は『学問のすゝめ』(1872)において「唯学問を勤(つとめ)て物事をよく知る者は貴人となり、富人となり」と書き、さらに「専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり」として新しい西欧の学問を学ぶことが「立身出世」につながると強調したのであった。このような見方は、同時に新政府が欲していた方向性でもあり、同じ年に学制が発布され公的な義務教育が始まり、これ以降「わずか数年の間に2万6千余校という小学校ができ」ることとなった。こうして、身分や貧富に係わらず、「富国強兵」という国家の要望に答える能力を有した者には「立身出世」が可能となったのである。

だが、作田が書いているように、「近代化が進み、公的生活において人々が参加する集団の規模が大きくなり、官僚制化してゆくと、公私の二つの領域において、人々は相互に異質的な要求に直面することを余儀なく」される。なぜならば、「自己を発展させよという個性の命令に忠実な個人」は、「どの方向へ向かうかの選択」という「苦しい自己決定を行ったあとに、葛藤と不満とが待ち受けているかもしれ」ないからだからである(K,113~4)。

このような事態を日本もむかえた。「中間集団」の文化を否定する一元的な価値の上からの強制や「西欧化」を強要する「文明開化」への反発は、すでに徴兵反対一揆(1873)や佐賀の乱(1874)などの形で噴出し始めていた。それが、ベルツが日本人知識人への驚きを記した翌年の1876年3月に「廃刀令」が出されると、同じ年の10月には神風連の乱や秋月の乱、萩の乱などが頻発することになり、その翌年には国力を二分した西南の役が起きることになった。さらに、これらの乱が鎮圧された後は、今度は武器ではなく筆を持って政府批判を繰り広げる「自由民権運動」が盛んになったのである。

このことは、日本の文明開化よりも150年以上も早くロシアの近代化を行ったピョートル大帝の改革とそれ以降の歴史の流れにも現れた。ロシアではピョートル大帝の死後、強国としての位置を築く一方で、相次ぐ宮廷クーデターの中で特権を増やした貴族とは正反対に、農民の隷属化が進んで過酷な農奴制が確立していた。このような中、ロシアの知識人たちは、国家のさらなる近代化を目指すとともに個人の自由や民衆の権利を求める運動をも展開したのだった。

これに対応しているのが、ロシア文学の受容だろう。島崎藤村は『千曲川のスケッチ』の奥書において、「明治年代に入って言文一致の創設とその発達に力を添えた人々の骨折と云うものは、文学の根底に横たわる基礎工事であったとわたしには思われる」と書いている。このような困難な作業に大きな影響を及ぼしたのが、農奴制の問題を文学的な視点から鋭く批判したツルゲーネフの『猟人日記』の中の一編を言文一致体で訳した二葉亭四迷の『あひびき』である。

川端香男里は、ロシア文学が「1908年には翻訳の点数で英米文学を追い越し」ていたことに注意を促して、「昭和20年代までに世に出た作家や評論家でドストエフスキー、トルストイ、チェーホフから影響を受けなかった者はいない」と述べ、さらにロシア文学受容のピーク時について、ツルゲーネフは明治期、トルストイは大正期、そしてドストエフスキーは昭和期に入ってからとも指摘した*12。すなわち、官民挙げて日本が「文明開化」に精力を注いでいた明治には西欧派のツルゲーネフが流行り、日露戦争前後の時期からは平和論を唱えたトルストイの作品が好んで読まれたのであり、近代化の問題点が明白となり、近代西欧文明の批判の強まるとともに、ドストエフスキーが爆発的な広がりを見せたといえよう。

 

第2節  『罪と罰』の翻訳と北村透谷

内田魯庵が二葉亭四迷の助力を得て日本で最初に『罪と罰』を訳出したのは、1892年のことであった。だが、この時は充分な購買者数を得ることができずに、その前半部分を訳したのみで終わった。ただ、この時すでに鋭く本質的な理解を示した者に北村透谷がいる。

彼は「『罪と罰』の殺人罪」(1893)という書評において、ハムレットにも言及しながら、「最暗黒の社会にいかにおそろしき魔力の潜むありて、学問はあり分別ある脳髄の中に、学問なく分別なきものすら企つることを躊躇(ためら)うべきほどの悪事をたくらましめたるかを現はすは、蓋(けだ)しこの書の主眼なり」と喝破したのである*13。

しかし、このような透谷の言葉は単に彼の鋭い理解力を示すものではなく、「近代化」の流れの中での苦しい体験の結果でもあった。ラスコーリニコフの母親は息子に家名をあげることを望んでいたが、透谷の母も小田原藩藩士だった夫の禄高が、佐幕派だったために3分の1に減らされる中で、息子の「立身出世」を強く期待したのだった。さらに、ラスコーリニコフは「非凡人の理論」を編み出して高利貸しの老婆の殺害におよんだが、1884年の5月には、近隣の三郡百余村に金を貸付け、「負債人民からの憎悪の的であった」高利貸露木卯三郎が殺害されるという事件が大磯で起きていた。

注目すべきは、透谷がその末尾近くで大隈重信に爆弾を投げた来島や、来日中のロシア皇太子ニコライ二世に斬りつけた津田巡査などに言及しながら、「来島某、津田某、等のいかに憐れむべき最後を為したるやを知るものは、『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なりと笑ひて斥(しりぞ)くるやうの事なかるべし」とすら述べていることである。

この言葉はドブロリューボフに言及した1862年のドストエフスキーの論評を思い起こさせる。ここでドストエフスキーは「深く神聖に真理を確信している」りっぱな人物が、「ただただ自分の高潔無比な目的を達せんがために」、誤った手段を取ることもありうるのだといい、問題は「彼が目的到達のために用いた手段に存する」ことは明瞭であると考察したのだった。このような考察は『罪と罰』などで、「十字軍」や「暴力革命」などの「手段」をも「正当化」した、「カトリック」や「テロリスト」への哲学的な批判として深化されていくのである。

透谷の考察は、「目的と手段」の問題を通じて「近代西欧文明」の問題の根元にも迫ろうとしたドストエフスキーの作品の本質にも肉薄していたのである。だが、ここでも透谷の理解は、「時代」とも深く係わっている。すなわち、1884年には朝鮮で「近代化」を推進しようとする独立党を押して内閣を作ろうとするクーデターが失敗した甲申事変が起きたが、この翌年には朝鮮での独立運動を支援するために、強盗をしてこの資金を得ようとした大阪事件が起きた。この時透谷は「自由民権運動」に係わっていた親しい友人から参加を求められていたのである。

色川大吉は、この事件の首謀者の論理が1873年に「単身韓国にのりこもうとした西郷の征韓論の論理」や「一国の人心を興起して全体を感動せしむるの方便は外戦に若(し)くものなし」と1878年に記した福沢諭吉の「通俗国権論の論理」と基本的にはほぼ共通しているとし、彼らには「封建的な事大党をたおして、開明的な独立党に政権をとらせ、朝鮮人民への連帯と友情をしめそう」とする姿勢もあったことに注目している*14。すなわち、彼らの論理には、ロシアの現状を打破するためにポーランドの独立運動にも理解を示したドブロリューボフたちの考えに近いものもあったのである。

だが、透谷はこのような「目的」を達するために、強盗のような「手段」を取ることには賛成できず拒否するという、ちょうど『悪霊』(1871~2)のシャートフ的な体験を有していたのであり、その後彼自身もキリーロフのように若くして自殺した。

 

第3節  近代化の深化と夏目漱石

夏目漱石が『三四郎』を書き上げたのは、1908年のことであった。この時期までに日本は急速な近代化を経て、日清戦争(1894~5)や日露戦争(1904~05)で勝利をおさめ、朝鮮での勢力を強めるなど「富国強兵」に成功していた。だが、ちょうどポーランドを分割し、コーカサスをも併合して領土の拡大に成功したロシアが、国家の強大化に反して民衆のレベルでは農奴化がかえって進んできたように、日本でも「強大な国権」への批判が下から噴出し、このころから価値の2分化が顕著になっていた。

このような近代化の苦悩を象徴的に物語っているのが、政府の派遣によりイギリスに留学し、帰国後に教鞭を取っていた東京帝国大学での職を辞して、近代日本の知識人の苦悩を描く小説を書くことになる夏目漱石だろう。

司馬遼太郎は『三四郎』について、「明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」と規定するとともに、「明治後、東京そのものが、欧米の文明を受容する装置になった。…中略…下部(地方や下級学校)にそれを配るという配電盤の役割を果たした」と指摘している*15。

この指摘は「ペテルブルグほど人間の心に暗く、激しく、奇怪な影響を与えるところは、まずありますまいよ」と語り、「これは全ロシアの政治的中心なので、その特性が万事に反射せざるをえません」と続けた『罪と罰』の登場人物スヴィドリガイロフの言葉を思い起こさせる。実際、ロシアの首都サンクト・ペテルブルクもピョートル一世により、西欧の科学技術を大幅に取り入れるために「西欧への窓」として建設されたのである。

しかも、司馬は1872年にできた「司法職務定制」により、「弁護士の前身といえる」「代言人という職と機能が」成立したことに注目し、それ以降、1881年に明治大学の前身である明治法律学校が出来たのをはじめ、英吉利法律学校(後の中央大学)や日本法律学校(後の日本大学)が次々と設立されていることに注目し、「明治は駆けながら法をつくり、法を教える時代」だったと規定している。

司馬遼太郎の読みは『三四郎』の社会的背景だけでなく、名門サンクト・ペテルブルク大学の法学部を中退した若者を主人公とした『罪と罰』の社会的背景をも説明し得ている。すなわち、主人公のラスコーリニコフの妹ドゥーニャの婚約者で、今まさに首都に法律事務所を開こうとしていた弁護士のルージンは「いろいろな新しい傾向とか、改革とか、新思想とか、すべてそうした」、「いっさいを残りなく見ようとするには、やっぱりペテルブルクにいなければなりません」と述べていたのである。

このようなルージンの「文明観」を、ラズミーヒンは「科学、文化、思索、発明」などの知識がロシアの知識人にはまだまだ未熟でありながら、それなのに「他人の知識でお茶をにごすのが楽でいいものだから、すっかりそれになれっこになってしまった」と鋭く批判する。このような彼の批判は、明治末期の1911年に「内発的」ではない日本の開化を厳しく批判した漱石の「現代日本の開化」という講演ときわめて似ている。

実際、福沢は日本が「開国20年の間に、200年の事を成した」と「文明開化」の成功を誇ったが、一方、漱石はすでに『三四郎』において自分と同じ年齢の登場人物広田に「明治の思想は西洋の歴史にあらわれた300年の活動を40年で繰返している」と「皮相上滑り」な「文明開化」を批判させたのである*16。

この意味で注目したいのは、『三四郎』に先だって朝日新聞に発表された二つの作品である。すなわち、『三四郎』が書かれる直前には、島崎藤村が北村透谷などの若者たちを主人公とした作品『春』を発表しており、さらにその直前には漱石が、足尾銅山をテーマにした『坑夫』という作品を発表していたのである。

立松和平はこの前年の1907年に「足尾銅山で鉱夫たちにより大暴動が起こり、軍隊が出動して鎮圧」されていたことに注意を向けて、「足尾銅山は、富国強兵の最先端を走っていた。…中略…日露戦争で使われた鉄砲の玉は、ほとんどが足尾で産出した銅を原料としていたといわれている」と指摘している*17。このような大量生産の結果、足尾では、現在の環境汚染の先駈けとも言える「鉱毒事件」が発生したのである。

このように見てくる時、「西欧文明を目的」とした福沢の「文明観」は、近代化を要請した「時代」の産物であり、一方、福沢よりも30年ほど遅れて生まれた漱石は、「文明開化」の結果発生した近代化の負の面をも見ねばならなかったと言える。

 

第4節  近代化の矛盾と「近代の超克」論

漱石は『三四郎』において広田先生に「いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね」と語らせ、このままでは「亡びるね」とさえ断言させていた。司馬遼太郎はこの言葉に注意を促して、「ひげの男の予言がわずか38年後の昭和20年(1945)に的中するのである」と記した*18。

そして、司馬は日露戦争後にロシアから充分な戦後補償を得られなかったことを不満として、日本各地で日本政府の弱腰を責めたてる「国民大会が次々に開かれ」たことを重視し、ことに放火にまで走った「日比谷公園に集まった群衆」こそが、「日本を誤らせたのではないか」と記している。そして、司馬は「ナショナリズムは、本来、しずかに眠らせておくべきものなのである。わざわざこれに火をつけてまわるというのは、よほど高度の(あるいは高度に悪質な)政治意図から出る操作というべき」だと鋭く批判していた。

ナショナリズムの加熱がどうしてこのような結果を招くかを、作田は社会学の視点から「大衆デモクラシーのもとでは、有権者の票の獲得にあたって、理性に訴える説得よりも、感情に訴える操縦のほうが有効であると言われるようになり、また事実、その傾向が強く」なったと説明している(K.110)。

ここで注目したいのは、作田が「個人の自尊心」と「国家の自尊心」とは深いところで密接に結びついていることを指摘して、「個人主義」だけでなく「個人主義の双生児であるナショナリズムも、自尊心によって動かされて」きたと指摘していることである(K.201)。つまり、お互いに自国の「正義」をかざして戦った第一次世界大戦では、フランスなどが勝って、「自民族」の優秀さを謳歌したが、それは戦争に敗れて経済的な打撃だけでなく、精神的にもドイツ人を深く傷つけてしまったのである。こうして、「自尊心」をも侮辱されたと感じた中で、ラスコーリニコフの「非凡人」の理論を「民族」にまで拡大して、「優秀な民族」は、「悪い民族」を滅ぼすべきだと主張し、ユダヤ民族の抹殺を謀ったヒトラーの理論が生まれてくることになったのである*19。

日本における『罪と罰』の受容の波が太平洋戦争へと突入する時期に高まったのも、このような流れと無関係ではない。松本健一は真珠湾攻撃の翌年に出版された堀場正夫の『英雄と祭典』にふれて、彼が『罪と罰』を「『ヨーロッパ近代の理知の歴史』とその『受難者』ラスコーリニコフの物語」ととらえ、「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と見なしたことを紹介している*20。

むろん、このような読みは現在のレベルでの研究を踏まえた上での読みから見れば、きわめて問題があるが、このような「読み」には、時代的な背景もあった。ニーチェの思想から強い影響を受けたシェストフは、ドストエフスキーをも「超人思想」の提唱者であり、「悲劇の哲学」の創始者の一人としていたるとした*21。このようなシェストフの解釈が日本でも受け入れられる中で、優れた批評家であった小林秀雄ですらも、『罪と罰』のエピローグではラスコーリニコフは影のような存在に成っていると指摘して、書かれている彼の更生をも否定したのであった*22。

それは「近代人が近代に勝つのは近代によってである」とした小林の福沢的な近代観から導かれたものでもあった。こうして、堀場の理解は太平洋戦争の直前に「近代の超克」を謳ってなされた日本の著名な知識人たちによる討論のテーマや主張とも重なり合うものだったのである。

だが、ドストエフスキーは『罪と罰』において、「非凡人の理論」から殺人を犯したラスコーリニコフの悲劇を描くとともに、それに対抗する形でロシア正教の敬虔な信者ソーニャの苦難と彼女によるラスコーリニコフの救いを対置していた。そして、『地下室の手記』(1864)では主人公に、バックルによれば「人間は文明によって穏和に」なるなどと説かれているが、ナポレオン戦争や南北戦争では「血は川をなして流れている」ではないかと、「近代西欧の<知>」への鋭い批判を投げかけていた。実際、『戦争の社会学』によれば、すでに「フランス革命からナポレオン帝国の戦争」(1792-1815)の間に、「巻き込まれた人口は一億人。殺害されたものは200万人以上」だったのである*23。

こうして、お互いに他国によって滅ぼされないようにと「富国強兵」と武器の改良に励んだ結果、原子爆弾さえも製造されたことによって、第二次世界大戦では5000万人を越える戦死者を出すことになるのである。

作田啓一は「第二次大戦以降、自立ナショナリズムは、かつてヨーロッパに支配されていた諸民族のあいだにおいて燃え上がる」ようになったと指摘しているが、このような状況はオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊した第一次世界大戦前のヨーロッパでも起きたし、さらにソ連邦が崩壊した後にも、世界的なレベルでナショナリズムの高まりが起きている。そして、これに連動する形で最近の日本でも「国家」に価値を置くことによって、このような不安定さや混乱を回避しようとするナショナリズム的な発言や行動が多く見られるようになってきた。

だが、それは一時的には国内の矛盾を解決するかに見えるが、ひいては「国権と民権」の対立だけではなく、「国益と国益」との対決を引き起こして、ハンチントン氏が指摘するような第三次世界大戦につながる危険性を含んでいる。他方、作田は「超大国の自尊心は、核戦争の危機をかもし出す条件の一つとなって」いると指摘しているが、ソ連邦の崩壊とともに、核物質や核技術も海外へと流出した現在、大国ばかりでなく、小国でさえもが「自国の自尊心」から核戦争に到る危険性が出てきているのである。

比較文明学者の神川正彦は、「近代」の「学的パラダイム」が、ナポレオン以後に成立した国民国家を成立させている「ナショナリズム」と同じように、「ディシプリン(専門個別科学領域)の自律性」にもとづいた「単純化と排除のパラダイム」であると分析している*24。

「文明の衝突」が語られるようになった現在、近代的な古いパラダイムを克服して、「文明の共存」を可能にするような新しい「学的パラダイムの確立」が、焦眉の課題となっている。

 

*1 『ベルツの「日記」』、濱邊正彦訳、岩波書店、昭和14年、14~15頁、なお、引用に際しては新かな、新字体に改めた。

*2  作田啓一、『個人主義の運命――近代小説と社会学』、岩波新書、107頁。

*3  高橋「ヨーロッパ『近代』への危機意識の深化(1)――ドストエーフスキイの西欧文明観」参照。神川正彦、川窪啓資編、『講座比較文明』第1巻、朝倉書店、1999年、50~63頁。

*4  山本新、神川正彦・ 吉澤五郎編『周辺文明論ーー欧化と土着』、刀水書房、1985年。

*5  吉澤五郎、『世界史の回廊--比較文明の視点』、世界思想社、1999年、96頁

*6  松本健一、『ドストエフスキーと日本人』、朝日新聞社、昭和50年。

*7  本稿は、東海大学で行われた比較文明学会の公開シンポジウムで「『欧化と国粋の「サイクル』克服の試み――ドストエフスキーの受容と司馬遼太郎文明観」という題名で発表した論考(『比較文明』第16号、2000年、146~151頁)に、日本における『罪と罰』の受容と「欧化と土着」の問題に焦点を絞って、加筆したものである。なお、ドストエフスキーの訳は『ドストエフスキー全集』(新潮社)により、巻数と頁数を本文中に( )内に示す。

*8  メーチニコフ、渡辺雅司訳『亡命ロシア人が見た明治維新』、講談社学術文庫、1982年、25頁。

*9  相田重夫、『帝政ロシアの光と影』(『人間の世界歴史』、第12巻)、三省堂、1983年、128頁。

*10  井上清、『明治維新』、(『日本の歴史』、第20巻、中央公論社、200頁)。

*11  福沢諭吉の文明観については、高橋「日本の近代化とドストエーフスキイ――福沢諭吉から夏目漱石へ」参照。(『日本の近代化と知識人』、東海大学出版会、2000年、所収)。

*12  川端香男里『ロシアソ連を知る事典』、平凡社、1989年、520頁。

*13  『北村透谷選集』、勝本清一郎校訂、岩波文庫、212頁。

*14  色川大吉、『明治精神史』(上)、講談社学術文庫、175頁。

*15  司馬遼太郎、『本郷界隈』(『街道をゆく』第巻)、朝日文芸文庫、267~271頁。

*16 司馬遼太郎の夏目漱石観については、日本ペンクラブ電子文藝館に寄稿した「司馬遼太郎の夏目漱石観   ―比較の重要性の認識をめぐって―」を参照。

*17  立松和平、「足尾から『坑夫』を幻視する」、『夏目漱石:青春の旅』所収。

*18  司馬遼太郎の近代化観の変化については、高橋「『文明の衝突』と『他者』の認識――『坂の上の雲』における方法の変遷」(『異文化交流』創刊号、31~58頁、参照)。この考察は「司馬遼太郎における文明観の変遷と沖縄――周辺文明論の視点から」(『文明研究』第20号、2001年)へと受け継がれ、拙著『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、2002年)の第2章と第3章として収録されている。

*19  勝田吉太郎、『神なき時代の預言者――ドストエフスキーと現代』、日本教文社、昭和59年、44~6頁。

*20  松本健一、前掲書、198頁。

*21 拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、2002年、125~126ページ、および注に挙げた文献を参照。

*22  『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、53頁。

*23  引用は、前田哲男、『戦争と平和――戦争放棄と常備軍廃止への道』、ほるぷ出版、156頁による。

*24  神川正彦、「比較文明学という学的パラダイムの構築のために」(神川正彦、川窪啓資編、前掲書『講座比較文明』第1巻、6~9頁、180~181頁)。

 (『東海大学外国語教育センター紀要』第21輯、2000年)

 

追記:再掲に際しては、人名の表記を現在のものに統一した他、文体や注の記述なども改訂した。

「トルストイで司馬作品を読み解く――『坂の上の雲』と『翔ぶが如く』を中心に」(レジュメ)

 

Ⅰ.トルストイの受容と司馬遼太郎

a.「小さくなった」トルストイ――森鴎外『青年

「……日本人は色々な主義、色々なイズムを輸入して来て、それを弄んで目をしばだたいてゐる。何もかも日本人の手に入っては小さいおもちやになるのであるから、元が恐ろしいものであつたからと云つて、剛(こは)がるには当らない。何も山鹿素行や、四十七士や、水戸浪士を地下に起して、その小さくなつたイブセンやトルストイに対抗させるには及ばないのです」(『青年』)。

b.夏目漱石とトルストイの民話『イワンの馬鹿』

「どうかしてイワンの様な大馬鹿に逢つて見たいと存候。出来るならば一日でもなつて見たいと存候。近年感ずる事有之イワンが大変頼母しく相成候。イワンの教訓は西洋的にあらず寧ろ東洋的と存候」(内田魯庵訳の『イワンの馬鹿』への礼状)。

c.夏目漱石の日露戦争観と司馬遼太郎

長編小説『三四郎』で、夏目漱石は自分と同世代の登場人物広田先生に、「いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね」と語らせているばかりでなく、「然しこれからは日本も段々発展するでしょう」とした三四郎の反論にたいしては「亡びるね」と断言させていた。

司馬遼太郎は、広田の「予言が、わずか三十八年後の昭和二十年(一九四五)に的中する」と指摘して、「明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」と絶讃していた(『本郷界隈』『街道をゆく』第37巻)。

d.『坂の上の雲』から『翔ぶが如く』へ――「坂」という単語の両義性

「この時期、歴史はあたかも坂の上から巨岩をころがしたようにはげしく動こうとしている」(『翔ぶが如く』、第3巻「分裂」)。

 

Ⅱ.日本の近代化のモデルとしてのロシア――トルストイのドストエフスキー観

  a.徳冨蘆花の『トルストイ』と『戦争と平和』論

「露国政治上の圧政は万の迹出口を塞いで内に燃え立つ満腔の不平感懐は仮寓文字の安全管を通じて出るの外なかったのである」。

「『戦争と平和』は実に奈翁入寇前後露国社会の大パノラマである」。「花やかな人形の斬合や、小供役者の真似芝居でなくて、活人間の動く活社会が歴々と浮み出る」。

 b.司馬遼太郎の正岡子規観と徳冨蘆花観

  「少年のころの私は子規と蘆花によって明治を遠望した」(『この国のかたち』)。

 c.トルストイの『戦争と平和』観とダニレフスキーの評価

「愛国に過ぎたる所あり」(徳冨蘆花「順禮紀行」)。

ロシアの思想家ダニレフスキーは、大著『ロシアとヨーロッパ――スラヴ世界のゲルマン・ローマ世界にたいする文化的および政治的諸関係の概要』で、トルストイの『戦争と平和』を高く評価しながら、大国フランスに勝つことによって抑圧されていたスラヴの諸民族にも独立の気概を与えたと「祖国戦争」の意義を讃えていた。

d.トルストイの『罪と罰』観と「大地(土壌)主義」の評価

「甚佳甚佳(はなはだよし、はなはだよし)」(徳冨蘆花「順禮紀行」)。

「当時のロシアの現実は貴族であろうと民衆であろうと破滅させてしまうような厳しいもの」であり、「トルストイが情熱を注いだ教育活動は、貴族と民衆の融合・調和を目指していました」(川端香男里『100分de名著、トルストイ「戦争と平和」』)。

「われわれはこの上なく注目に値する重大な時代に生きている」としたドストエフスキーも、ピョートル大帝による「文明開化」以降に生まれた「民衆」と「知識人」との間の断絶を克服するためには、農奴制の中で遅れたままの状態に取り残されている民衆に対する「教育の普及」こそが「現代の主要課題である」と強調していた。

e.トルストイと『死の家の記録』――近代の制度としての法律、監獄、病院

「数日来病気で、暇にまかせて『死の家』を読みました。我を忘れてあるところは読み返したりしましたが、近代文学の中でプーシキンを含めてこれ以上の傑作を知りません。作の調子ではなく、観点に驚いたのです。誠意にあふれており、自然であり、キリスト教的で、申し分のない教訓の書です」(批評家のストラーホフへの手紙)。

f.『アンナ・カレーニナ』とドストエフスキーの『作家の日記』

「『アンナ・カレーニナ』は芸術作品としては、まさに時宜を得てさっと現われた完成された作品であって、現代のヨーロッパ文学中、何ひとつこれと比べることができないような作品である。第二に、これはその思想的内容から言って、何ともロシア的なものである。われわれ自身と血でつながっているものである」(『作家の日記』)。

しかし、主人公のリョーヴィンが次のように語る箇所を引用したドストエフスキーはトルコによる大量虐殺を指摘しながら、次のような考えをそれは「復讐」ではないと厳しく批判している。

「……自分の兄をもふくむ数十人の人びとが、首都からやって来た何百人かの口達者な義勇兵たちの話を根拠にして、民衆の意志と思想とを表現しているのは、新聞と、それから自分たちであると揚言する権利をもっているという考えには、彼はとうてい同意することはできなかった。しかもその思想たるや、復讐と殺人とによって表現されるものではないか。」

g.トルストイの『白痴』観と『イワンの馬鹿』

「その値打ちを知っている者にとっては何千というダイヤモンドに匹敵する」(『白痴』の主人公ムィシキン評)。

 

Ⅲ.『坂の上の雲』における「教育」と「軍隊」の制度の考察

a.「二つの祖国戦争」――『戦争と平和』の最近の評価と『坂の上の雲』

ロシア語書籍の最良作品リストのアンケート。

1位、トルストイ『戦争と平和』、32パーセント。

3位、ドストエフスキー『罪と罰』、16パーセント。

(2位、ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』、19パーセント。)

b.トルストイの困惑と司馬遼太郎の德富蘆花観

「日露戦争そのものは国民の心情においてはたしかに祖国防衛戦争であった」が、「近代を開いたはずの明治国家が、近代化のために江戸国家よりもはるかに国民一人々々にとって重い国家をつくらざるをえなかった」。「蘆花は、そういう国家の重苦しさに堪えられなかった。かれは国家が国民に対する検察機関になっていくことを嫌悪」した(『坂の上の雲』「あとがき五」)。

c.『戦争と平和』における主人公と作品の構成

d.『坂の上の雲』における主人公と作品の構成

e.ピエールの戦争観察と正岡子規の従軍

f.『坂の上の雲』における「普仏戦争」の考察

「プロシャ憲法をまねした」明治憲法には、「天皇は陸海軍を統率するという一項があり、いわゆる統帥権は首相に属して」おらず、「作戦は首相の権限外」だった。

「首相の伊藤博文も陸軍大臣の大山巌もあれほどおそれ、その勃発をふせごうとしてきた日清戦争を、参謀本部の川上操六が火をつけ、しかも手ぎわよく勝ってしまった」が、「昭和期に入り、この参謀本部独走によって明治憲法国家がほろんだことをおもえば、この憲法上の『統帥権』という毒物のおそるべき薬効と毒性がわかるであろう」(第2巻「日清戦争」)。

 

Ⅳ.『坂の上の雲』の広瀬武夫と『戦争と平和』

a.『坂の上の雲』における秋山真之の親友・広瀬武夫

「少尉当時からロシアに関心をもち、ロシア語を独習」していたために、兵学校の卒業席次がきわめて劣等だったにもかかわらず、ロシアに派遣された。広瀬武夫がロシアでは、「プーシキンの詩の幾編かを漢詩に訳したり、ゴーゴリの『隊長ブーリバ』」やアレクセイ・トルストイの全集に熱中するなど「日本人としては、ロシア文学をロシア語で読むことができたごく初期のひとびとの一人であろう」(第3巻「風雲」)。

b.「軍神・西住戦車長」と広瀬武夫

菊池寛の『西住戦車長伝』によりながら、「西住小次郎が篤実で有能な下級将校であったことはまちがいない」としながらも、西住戦車長が「軍神」になりえたのは、陸軍が「軍神を作って壮大な機甲兵団があるかのごとき宣伝をする必要があった」からであると冷徹な記述をした司馬氏は、その一方で比較文学者の島田謹二が描いた『ロシヤにおける広瀬武夫』を読んで「この個性的な明治の軍人がすぐれた文化人の一面をもっていたことを知った」と続けている(「軍神・西住戦車長」)。

c.広瀬武夫と『知恵の悲しみ』

トルストイの『復活』を読み、「叙事詩『ルスランとリュドミーラ』を脚色したミハイル・グリンカの楽劇をマリヤ座でみた」広瀬は、帝政ロシアの貴族社会を痛烈に批判してデカブリストたちにも影響を与えた「グリボエードフの『知恵の悲しみ』を見にいった。モスクワの上流社会を舞台にした風俗劇だ。…中略…セリフは口語にちかい言葉でありながら、りっぱな詩になっているのが耳にこころよい」との感想も記していた(『ロシアにおける広瀬武夫』)。

d.広瀬のロシア観とピエールへの共感

「いろいろな方面で、せまかった私の眼をロシヤは開いてくれました」と語った広瀬は、「あのころは日本からもっていった日本人の眼で、ロシヤの風俗を外から眺めて、日本人の心で判断して、笑ったり怒ったりしていたのだと思います」とし、「国家としては、日本の恐るべき敵でしょうが、個人的な交際を考えると、いい人が多いですな」とも続けたことが描かれている。

「とうとう僕も『戦争と平和』をよみあげました」と語った広瀬は『戦争と平和』の構造について、「ずいぶん長いもので、はじめは迷宮にはいったよな気がしましたが、だんだん家族と家族の結びつきがわかってきました。しまいにはボルコンスキー家と、ロストフ家の人々が記録の中からぬけだして、生きてきました」と分析した。

そして、「ピエール・ベズーホフがことにいい。結婚に失敗して、社交界のつまらぬことを知るでしょう。それから生き甲斐のあるものをいろいろ求めるでしょう。…中略…わが命一つをなげだして、圧制者ナポレオンを暗殺しようとするでしょう。あすこがいい」と、広瀬は激賞したと描かれている。

その言葉を聞いた川上が笑いながら、「君にもピエールのようなところがあるよ」というと、「そう。理想家というのでしょうね。ピエールは、神秘家でもなければ、聖者でもありません。ただ心をきよくして単純な生き方をしているうちに、満ちわたる生命(いのち)の光をあびたんです。澄んだ眼をしている男と書いてありますね。……」と分析した広瀬は、「日本の将校だから、日本のために戦うのは当然だが、同時に、ロシヤにも報いるような道をみつけたい。それが人道というものでしょうね」と続けたと描かれている。

e.『坂の上の雲』における『セヴァストーポリ』への言及

トルストイは「下級将校として従軍」して「籠城の陣地で小説『セヴァストーポリ』を書き、愛国と英雄的行動についての感動をあふれさせつつも、戦争というこの殺戮だけに価値を置く人類の巨大な衝動について痛酷なまでののろいの声をあげている」(第5巻「水師営」)。

 

Ⅴ.『翔ぶが如く』における「内務省」と「法律」の考察

a.「藩閥政治」の腐敗と「征韓論」

「孤絶した環境にある日本においては、外交は利害計算の技術よりも、多分に呪術性もしくは魔術性をもったものであった」。「明治初年になってふたたび朝鮮問題がもちあがったとき、桐野(利秋)など多くの壮士的征韓論者は、(豊臣)秀吉の無知の段階からすこしも出ていなかった」と続けている(括弧内は引用者の補注、第1巻「情念」)。

b.内務省の問題と木戸孝允の危惧

大久保利通は「プロシア風の政体をとり入れ、内務省を創設し、内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立しようとした」(第1巻「征韓論」)。

「内務省は各地方知事を指揮するという点で、その卿たる者は事実上日本の内政をにぎってしまうということになる。知事は地方警察をにぎっている。従って内務卿は知事を通して日本中の人民に捕縄(ほじょう)をかけることもできる」(第1巻「小さな国」)。

幕末に活躍していた木戸孝允(桂小五郎)には、「内務省がいかにおそるべき機能であるかということ」を「十分想像できた」ので、「欧州から帰ったあと憲政政治を主唱」した(第2巻「風雨」)。

 c.正岡子規の退寮問題と与謝野晶子の批判

内務官僚の佃一予が、「常磐会寄宿舎における子規の文学活動」を敵視し、「正岡に与(くみ)する者はわが郷党をほろぼす者ぞ」と批判したことを紹介した司馬は、「官界で栄達することこそ正義であった」佃にとっては、「大学に文科があるというのも不満であったろうし、日本帝国の伸長のためにはなんの役にも立たぬものと断じたかったにちがいない」とし、「この思想は佃だけではなく、日本の帝国時代がおわるまでの軍人、官僚の潜在的偏見となり、ときに露骨に顕在するにいたる」と続けている。

実際、日露戦争の最中に『君死にたまふことなかれ』を書いた与謝野晶子は、評論家の大町桂月によって「教育勅語」を非議したと激しく批判されることになる。

d.明六社と新聞紙条例

「『明六雑誌』は創刊の明治七年以来、毎月二回か三回発行されたが、初年度は毎号平均三千二百五部売れたという。明治初年の読書人口からいえば、驚異的な売れゆきといっていい。しかしながら、宮崎八郎が上京した明治八年夏には、この雑誌は早くも危機に在った」(第5巻「明治八年・東京」)。

「明治初年の太政官が、旧幕以上の厳格さで在野の口封じをしはじめたのは、明治八年『新聞紙条例』(讒謗律)を発布してからである。これによって、およそ政府を批判する言論は、この条例の中の教唆扇動によってからめとられるか、あるいは国家顛覆論、成法誹毀(ひき)ということでひっかかるか、どちらかの目に遭った」。

e.中江兆民と宮崎八郎――「壮士」から「民権論者」へ

「宮崎八郎は本来、思想的体質のもちぬしであったが、しかし文明とはたとえば人類共通の思想であるということを、この時期、わずかでも思ったことがない」(第5巻「壮士」)。

宮崎八郎がルソーの『民約論』を中江兆民訳で読んだ後では「泣いて読む、廬騒(ルソー)民約論」と「あたかも雷に打たれたような感動を発し」て大きく変わることを指摘した司馬は、「幕末にルソーの思想が入っていたとすれば、その革命像はもっと明快なものになっていたにちがいない。中江兆民という存在が、十五年前に出ていれば、明治維新という革命に、おそらく世界に共通する普遍性が付与されたに相違ない」と続けていた(第5巻「肥後荒尾村」)。

f.『坂の上の雲』から『翔ぶが如く』へ――近代国家の「原形」の考察

西南戦争がおさまったあとで、「もういっぺんこんなことがあったら明治政府はしまいだ」と考えた山県有朋がその翌年に「軍人訓戒」を出し、さらに西南戦争から五年たった明治15年には軍人勅諭が出されたが、それは「教育勅語」へと直結しているように見える。

デカブリスト事件を書き始めたトルストイが、その原点となった「祖国戦争」の時代へと関心を深めて『戦争と平和』を書くことになることはよく知られている。『坂の上の雲』で正岡子規の退寮問題で内務官僚にふれていた司馬も、その原点ともいうべき明治初期の時代を『翔ぶが如く』で描いたといえるだろう。

 

おわりに――「小さくされた」司馬遼太郎

学徒動員で満州の戦車部隊に配属された司馬遼太郎は、「防衛と日本史」という講演で、「日露戦争が終わると、日本人は戦争が強いんだという神秘的な思想が独り歩きした。小学校でも盛んに教育が行われた」が、自分もそのような教育を受けた「その一人です」とし、「迷信を教育の場で喧伝して回った。これが、国が滅んでしまったもと」であると分析している(「防衛と日本史」『司馬遼太郎が語る日本』第5巻)。

『坂の上の雲』を書く中で近代戦争の発生の仕組みや近代兵器の威力を観察し続けていた司馬は、「日本というこの自然地理的環境をもった国は、たとえば戦争というものをやろうとしてもできっこないのだという平凡な認識を冷静に国民常識としてひろめてゆく」ことが、「大事なように思える」とも書いていた(「大正生れの『故老』」『歴史と視点』)。

さらに司馬は自衛隊の海外への派遣には強く反対して、「私は戦後日本が好きである。ひょっとすると、これを守らねばならぬというなら死んでも(というとイデオロギーめくが)いいと思っているほどに好きである」と記している(『歴史の中の日本』)。

ここには『イワンの馬鹿』を高く評価した夏目漱石と同じようなトルストイの深い理解が反映されているように思える。

 

主な参考文献

阿部軍治『〔改訂増補版〕徳富蘆花とトルストイ――日露文学交流の足跡』、彩流社、2008年。

阿部軍治『白樺派とトルストイ――武者小路実篤・有島武郎・志賀直哉を中心に』、彩流社、2008年。

梅棹忠夫『近代世界における日本文明――比較文明学序説』、中央公論社、2000年。

大木昭男『漱石と「露西亜の小説」』ユーラシア・ブックレット、東洋書店、2010年。

川端香男里『100分de名著、トルストイ「戦争と平和」』、NHK出版、2013年。

グロスマン著、松浦健三訳編「年譜(伝記、日記と資料)『ドストエフスキー全集』(別巻)、新潮社、1980年。

司馬遼太郎『坂の上の雲』(全8巻)、文春文庫、1978年。

司馬遼太郎『「昭和」という国家』、NHK出版、1998年。

司馬遼太郎『翔ぶが如く』(全8巻)、文春文庫(新装版)、2002年。

島田謹二『ロシアにおける広瀬武夫』(上下)朝日選書、1976年。

Данилевский,Н.Я., Россия и Европа. СПб.,изд.Глагол и изд.С-Петербургского университета, 1995.

徳冨蘆花『トルストイ』(『徳冨蘆花集』第1巻)、日本図書センター、1999年。

徳冨蘆花「順禮紀行」、『明治文學学全集』(第42巻)、筑摩書房、昭和41年。

ドストエフスキー著、川端香男里訳『作家の日記』(『ドストエフスキー全集』第17巻~第19巻)、新潮社、1980年。

トルストイ著、藤沼貴訳『戦争と平和』(全6巻)、岩波文庫、2006年。

ヒングリー著、川端香男里訳『19世紀ロシアの作家と社会』、中公文庫、1984年。

藤沼貴『トルストイ』、第三文明社、2009年。

藤沼貴『トルストイ・クロニクル――生涯と活動』、ユーラシア・ブックレット、東洋書店、2010年。

法橋和彦『古典として読む 「イワンの馬鹿」』未知谷、2012年。

柳富子『トルストイと日本』、早稲田大学出版会、1998年。

米川哲夫「第四回日ソシンポジウムに参加して――報告の要約と雑感」『ソヴェート文学』第95号、群像社、1986年。

テキストからの逃走――小林秀雄の「『白痴』についてⅠ」を中心に (発表要旨)

 

作家の坂口安吾が、戦後間もない1947年に著した「教祖の文学 ――小林秀雄論」で、「思うに、小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ」と書き、小林秀雄が「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったと厳しく批判したことはよく知られている(『坂口安吾全集 5』、筑摩書房、1998年、239~243頁)。

しかし、小林秀雄とも同人誌『文科』の同人だった坂口は、この評論において「日本は小林の方法を学んで小林と一緒に育つて、近頃ではあべこべに先生の欠点が鼻につくやうになつたけれども、実は小林の欠点が分るやうになつたのも小林の方法を学んだせゐだといふことを、彼の果した文学上の偉大な役割を忘れてはならない」とも記していた(同上、232~233頁)。

実際、「『未成年』の独創性について」(1933)と題された論考など初期の論考にはきわめて深いドストエフスキー作品の理解が見られ、また『カラマアゾフの兄弟』論(1941)における「この最後の作も、まさしく行くところまで行つてゐる。完全な形式が、続編を拒絶してゐる」との適確な指摘は、現在の通俗的な理解をも凌駕しているといえるだろう(『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、170頁。以下、全集からの引用に際しては旧漢字を新漢字になおすとともに、本文中の括弧内に頁数をアラビア数字で示した)。

それゆえ、本稿では小林秀雄が何も語らなかった黒澤映画《白痴》(1951)を参考にしながら、ドストエフスキーの作品と小林秀雄の評論とを具体的に比較することによって、小林のドストエフスキー論の意義と問題点を検証したい。

*   *   *

最初に『永遠の良人』論と『未成年』論における小林の独創的な分析とその特徴を確認する。次に小林秀雄が「『罪と罰』についてⅠ」では、『地下室の手記』の主人公の言説とドストエフスキー自身とを結び付けることで、ドストエフスキーが前期の作品と訣別しそれまでの「理性と良識」を捨てたと主張したシェストフの『悲劇の哲学』からの強い影響を受け始めていることを明らかにする。

すなわち、「第六章と終章とは、半分は読者の為に書かれたのである」と書いた小林は〔53〕、この評論の終わりで「ドストエフスキイは遂にラスコオリニコフ的憂愁を逃れ得ただらうか」と読者に問いかけていたのである〔63〕。

次の「『白痴』についてⅠ」で小林は、『罪と罰』の終りで「作者が復活の曙光とよんでゐるものは、恐らく僕等が一般に理解してゐる復活、即ち精神上の或は生活上のどういふ革新にも縁のないものだ」とラスコーリニコフの「悔悟」を否定し、「ラスコオリニコフは生きのびて来たドストエフスキイその人に他ならぬ」と断言していた〔83~84〕。

このような小林の解釈は、戦争に向けて走り出していた当時の日本社会では多くの読者に受け入れられた。なぜならば、「非凡人」には「悪人を殺す」ことも許されると考えて「高利貸しの老婆」を殺害したラスコーリニコフが、シベリアで自分の罪を深く反省してしまっては、「自国の正義」のために「敵」と戦う「戦争」も否定されることになってしまうからである。

最も問題なのは、『罪と罰』との連続性を強調するために小林が「来るべき『白痴』はこの憂愁の一段と兇暴な純化であつた。ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」とテキストとは全く違う、読者の予想を超えるような大胆な解釈をしていたことである〔傍線引用者、63〕。

「『白痴』についてⅠ」もこのような解釈に従って記述されているが、シベリアから帰還したことになると、ムィシキンが治療を受けていたスイスの村で体験したマリーのエピソードがなくなることで、判断力がつく前に妾にされていたナスターシヤの心理や行動を理解することが難しくなる。さらには、ムィシキンが西欧で見たギロチンによる死刑の場面もなくなり、『白痴』における主要なテーマの一つである「殺すなかれ」というイエスの言葉と、近代西欧文明の批判も読者の視界から抜け落ちてしまうことになる。

『白痴』のテキストが具体的に分析されている「『白痴』についてⅠ」の第三章で、小林は「ムイシュキンの正体といふものは読むに従つていよいよ無気味に思はれて来るのである」と書き、簡単な筋の紹介を行ってから「殆ど小説のプロットとは言ひ難い」と断じている〔87~88〕。しかし、それはスイスでのエピソードが省かれているばかりでなく、筋の紹介に際しても重要な登場人物が意図的に省略されているために、ムィシキンの言動の「謎」だけが浮かび上がっているからだと思われる。

*   *   *

研究者の相馬正一は、「教祖の文学」で「面と向かって評論界のボス・小林秀雄」を初めて「槍玉に挙げた」坂口安吾が、その直前に書いた「通俗と変貌と」(1947)でも、小林を「実は非常に鋭敏に外部からの影響を受けて、内部から変貌しつづけた人であり」、「勝利の変貌であるよりも、敗北の変貌であったようだ」と書いていたことを指摘している(『坂口安吾 戦後を駆け抜けた男』人文書館)。

領土問題などをめぐって近隣諸国との軋轢が強まっている現在、小林秀雄の評論が再び脚光を浴び始めている。本発表では坂口安吾のリアリズム観も紹介しながら具体的に小林の文章を引用しつつ論じることで、小林秀雄のドストエフスキー論の意義と問題点を明らかにしたい。忌憚のないご意見やご批判を頂ければ幸いである。(再掲に際しては、読みやすいように文体的な改訂を行った)。

黒澤映画《夢》の構造と小林秀雄の『罪と罰』観

 

はじめに――黒澤明と小林秀雄のドストエフスキー観

a、黒澤明監督の長編小説『白痴』観と映画《白痴》の結末

ドストエフスキーについて「生きていく上につっかえ棒になることを書いてくれてる人です」と語った黒澤明監督(1910~98年)は、敗戦後間もない1951年に公開された映画《白痴》で、「真に美しい善意の人」を主人公としたドストエフスキーの名作をなるべく忠実に映画化しようとしていた。

それゆえこの映画のラストのシーンで黒澤は、綾子(アグラーヤ)に「そう! ……あの人の様に……人を憎まず、ただ愛してだけ行けたら……私……私、なんて馬鹿だったんだろう……白痴だったの、わたしだわ!」と語らせていたのである*1。

b、長編小説『白痴』の結末と小林秀雄の解釈

一方、全8章からなる「『白痴』についてⅡ」に、『白痴』の結末について考察した第9章を1964年に書き加えて『白痴』論を出版した文芸評論家の小林秀雄(1902~83年)は、そこで次のような言葉を記していた。

「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだろう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである。彼と、その心が分ちたいという希ひによつてである。『自首なぞ飛んでもない事だ』と殺人者に言ふのは彼なのである」*2。

c、黒澤明のドストエフスキー観と映画《夢》

つまり、長編小説『白痴』だけに対象を絞るならば両者のドストエフスキー理解は正反対だったのである*3。しかも、1975年に行われた若者たちとの対談で黒澤明監督は、「小林秀雄もドストエフスキーをいろいろ書いているけど、『白痴』について小林秀雄と競争したって負けないよ。若い人もそういう具合の勉強のしかたをしなきゃいけない」と語っていた*4。

黒澤監督は小林秀雄の『白痴』観に対する批判を評論という形では書いていないが、映画《八月の狂詩曲》には『白痴』のテーマが見られるし、映画《夢》以前の《野良犬》、《醜聞(スキャンダル)》、《天国と地獄》など多くの作品には、『罪と罰』のテーマが強く響いている*5。

それゆえ本発表では、映画《夢》と『罪と罰』との構造的な類似性を指摘した後で、主に第四話と第六話から第八話までの流れを詳しく分析することで、小林秀雄の『罪と罰』観との比較をとおして黒澤明監督のドストエフスキー理解の深さを明らかにしたい*6。

 

Ⅰ、『罪と罰』における夢の構造と映画《夢》

 a、映画《夢》の構造と『罪と罰』

「こんな夢をみた」という字幕が最初に示されるオムニバス形式の映画《夢》は、1990年に公開されたが、黒澤明監督はドストエフスキー作品の愛読者であったばかりでなく、黒澤映画のすぐれた理解者でもあった作家・井上ひさしとの対談「夢は天才である」で、ドストエフスキーの言葉がこの映画の構想のきっかけになっていると語っている*7。

実際、黒澤監督のノートには、小沼文彦訳で長編小説『罪と罰』に記された「やせ馬が殺される夢」の個所の次のような記述が書き写されていたのである。「夢というものは病的な状態にある時には、並はずれて浮き上がるような印象とくっきりとした鮮やかさと並々ならぬ現実との類似を特色とする…中略…こうした夢、こうした病的な夢はいつも長く記憶に残って攪乱され、興奮した人間の組織に強烈な印象を与えるものである」。

しかもこのノートには「夢というものの特質を把握しなければならない。現実を描くのではなく、夢を描くのだ。夢が持っている奇妙なリアリティをつかまえなければならない」という黒澤自身のメモも記されていた*8。

b、小林秀雄の『罪と罰』解釈と夢の重視

戦後の1948年に書いた「『罪と罰』についてⅡ」で小林秀雄も、「この長編は、主人公に関する限り、一つの恐ろしい夢物語なのである」と書き、「事件の渦中にあつて、ラスコオリニコフが夢を見る場面が三つも出て来るが、さういふ夢の場面を必要としたについては、作者に深い仔細があつたに相違ないのであつて、どの夢にも、生が夢と化した人間の見る夢の極印がおされてゐる」と記している(小林、六、228)。

c、「やせ馬が殺される夢」とその後の二つの夢の関連性

実際、黒澤明が書き写していた『罪と罰』の夢についての考察の個所では、主人公のラスコーリニコフが、殺人の前に見る「やせ馬が殺される夢」を見た後で「高利貸しの老婆」を殺害して金品を奪うという自分の計画が「算術のように正確だ」としてもそんなことは決してできないと強く感じたと描かれている*9。

ただ、小林はエピローグにおける「人類滅亡の悪夢」について、「彼(引用者注――ラスコーリニコフ)は、犯行後、屋根裏の小部屋でも、これに類する夢を見たかも知れぬ」と書いているが、個々の夢はそれぞれ深く結びついており、それにつれて「殺すこと」についてのラスコーリニコフの認識も深まっているのである。

d、映画《夢》の構造と土壌の描写

この意味で注目したいのは、八話からなる映画《夢》は一見するとばらばらのテーマが描かれているようにも見えるが、「まあ、全部読んでいるわけじゃないんですけど、やっぱり私の基本となっているのは、ドストエフスキーとチェーホフですね」と語った作家の井上ひさしが*10、黒澤明との対談ではこの映画について「まず水と土の扱いに感動しました」と語っていることである(大系、三、374)。

すなわち、第一話「日照り雨」では、五歳くらいの主人公の「私」が森に行くと、「杉の大木の木立ちの間を縫って、しっとりとした、腐植土のたっぷりある、何を植えてもよく育ちそうな地面の黒い道が見えてくる」と指摘し、さらに第二話「桃畑」でも「少年の『私』が少女を追いかける竹林の中の小道、そこの土がすばらしい。竹の葉が何年も積もってふかふかの土」と語り、さらに第三話「雪あらし」では「雪が主人公です」が、「岩が、なにか頼もしいものとしてチラッと見えます」と指摘している。

井上ひさしは、第五話「鴉」に続いて描かれる第六話「赤富士」と第七話「鬼哭」には、「ものすごいイヤな土が出てきます」と指摘した後で、第八話「水車のある村」で、「もう一度、すばらしい土があらわれる」と語っている。映画《夢》について語られたこの言葉は、後に見るような『罪と罰』の構造をも説明しているように見える。

e、ペテルブルグの「壮麗な眺望」とシベリアの「鬱蒼たる森」の謎

『罪と罰』の冒頭近くで犯行後にネヴァ河の川岸にたたずんだラスコーリニコフが「大学に通っていた時分」に河の向こう側に広がる寺院のドームや宮殿などの「壮麗な眺望」から「なぜとも知れぬうそ寒さ」を感じていたことや、彼がこの「何かすっきりと割りきれぬ自分の印象に驚きに似た気持ちを感じ」つつも、「その解明を先にのばしてきた」と描かれている。

殺害の後で、血で「汚した大地に接吻」して自白しなさいというソーニャの言葉を受け入れたラスコーリニコフが、流刑地のシベリアで「人類滅亡の悪夢」を見る前には、「ただ一条の太陽の光、鬱蒼(うっそう)たる森、どこともしれぬ奥まった場所に、湧きでる冷たい泉が」、なぜ囚人たちにとってそれほど重要な意味を持つのかが分からなかったことも記されていたのである。

 

Ⅱ、『罪と罰』の「死んだ老婆が笑う夢」と第四話「トンネル」

a、復員兵の悲鳴と「戦死した部下」たちの亡霊

映画《白痴》は戦場から帰還した主人公の復員兵(亀田・ムィシキン)が、北海道に向かう青函連絡船の三等室で、戦争犯罪で死刑を宣告されるという悪夢にうなされて悲鳴をあげるという冒頭のシーンから始まる。

そして、近くにいたジャンパーの男(赤間・ロゴージン)に「何て声出しやがるんだア」と言われると、「す、すみません……夢を見たもんで」と語り、さらに「いま、銃殺されるとこだったんです……僕、よくその夢を見ます……実は僕、戦犯で死刑の宣告されたもんですから……」と説明したのである(黒澤、三、75)。

一方、第四話の「トンネル」は、古ぼけた戦闘帽にゴム長靴をはき、色あせた将校の外套を羽織った復員姿の「私」(寺尾聰)が、前方のトンネルに向かってひきずるような重い足取りでやってくる場面から始まる。

後に広島の原爆で亡くなった父を幽霊として娘の前に現出させるという戯曲『父と暮らせば』を書くことになる井上ひさしは黒澤明との対談において、「戦争から生還してきた「私」の前に戦死したはずの部下たち、野口一等兵や第三小隊の亡霊たちが現われる話」が描かれている第四話「トンネル」について、「あの大きなトンネルの中から湧いてくるさまよえる第三小隊のザッザッザッという軍靴の響きには圧倒されます。黒澤映画における効果音の凄さ、すばらしさは周知のことですが、今回の軍靴の響きは音であることを超えて、戦争そのものの象徴音として聞こえてきました。」と語っている(大系、三、375)。

そして、主人公の寺尾聰が演じている「私」を旅人である能のワキと指摘し、「野口一等兵と第三小隊が怨霊物、亡霊で、つまりシテです。そしてトンネルが橋掛かりで、あの敗戦直後の日本の地面によくあった荒れて水たまりのある土が能舞台ですね。電柱が松の古木。背後のコンクリの、急な土手は松羽目のように見えてきます」と続けた井上は、「もっというとこのエピソードは夢幻能なのだと思います。夢の話の中に夢幻能をはめこんである」とし指摘して、「正直にいって、全黒澤映画で、もっともすぐれた場面です」と続けている。

b、「死んだ老婆が笑う夢」と幽霊の話

一方、『罪と罰』で「高利貸しの老婆」の殺害を正当化していたラスコーリニコフは、夢の中で再び老婆の部屋にいる自分を見出し、まだ老婆が生きていることに愕然とし、脳天目がけておのを打ちおろすが、現実とは異なり老婆はびくともしない。そして、最初は静かに笑っていた老婆は、ラスコーリニコフが力まかせに殴り始めるとついには全身をゆすぶって笑い出したのである*11。

しかも、恐怖に襲われて目覚めた彼の枕元に座っていたのが、「強者」にはすべてのことが許されると考えていたスヴィドリガイロフであり、彼はあたかもラスコーリニコフの悪夢を見ていたかのように、初対面の彼に自分の妻マルファの「幽霊」について語り始め、幽霊は実際に存在するのだが「ただ健康な人間には見えないだけだ」と主張した。それゆえ、「老婆の悪夢」はいわば負の意味でワキの僧のような役を演じているスヴィドリガイロフによって、「招魂」されたかのような印象さえ受けるのである。

ここで注目したいのはドストエフスキーが、後に老婆を殺したことによって「自分を殺したんだ、永久に!」とソーニャに語っていることである。この夢は一見、非論理的に見えるが、殺された老婆の姿は彼の記憶にはっきりと刻み込まれて残ったのに対し、殺した側のラスコーリニコフの身体は自分自身に対して決定的な不和を示すようになったといえよう。つまり、ラスコーリニコフ自身の目は彼の犯罪をことごとく見つめていたのであり、彼の腕や指は、おのが老婆の脳天に当たった時の手ざわりや彼女の体から流れ出た血の感触をはっきりと覚えていた。それゆえ、目撃者をすべて殺そうとしたとき、彼は殺害の実行者である自分の身体を消さねばならなくなっていたといえるだろう。

c、「殺すこと」の考察と戦争の問題

さらにドストエフスキーは、本編の終わり近くで「兄さんは、血を流したんじゃない!」と語った妹のドゥーニャに対してラスコーリニコフに、「殺してやれば四十もの罪障がつぐなわれるような、貧乏人の生き血をすっていた婆ァを殺したことが、それが罪なのかい?」と問わせたばかりでなく、さらに自分が犯した殺人と比較しながら、「なぜ爆弾や、包囲攻撃で人を殺すほうがより高級な形式なんだい」と反駁させてもいた。

実は、『罪と罰』が発表されたこの年には、軍国主義的な傾向を強めていたプロシアがオーストリアとの戦争に勝利しており、ナポレオン三世下のフランスとプロシアとの間で大戦争が勃発する危険性が増していた。それゆえ、戦争で使用された爆弾に言及したこの記述には戦争によって「自分の正義」を示そうとすることに対するドストエフスキーの危惧がよく現れていると思われる。

こうしてドストエフスキーは、『罪と罰』において「殺すこと」の問題を根源的な形で考察していたのであり、「殺すなかれ」という理念を語る『白痴』の主人公は、このような考察とも密接に関わっていることは明らかだと思える。

d、「トンネル」における「国策」としての戦争の批判

第四話の「トンネル」では、戦争から復員してきた「私」(寺尾聡)が、四列縦隊を組んでトンネルの入口から出てきた兵隊たちにたいして、泣きながら、「すまん! 生き残った儂(わし)は、お前達に合わす顔もない。お前達を全滅させたのはこの儂の責任だ」と語るシーンが描かれている。

そこには戦意高揚を目的とした「国策映画」の製作にかかわってしまった黒澤の深い苦悩が反映しているだろう。それゆえ黒澤は、戦後には恩師山本嘉次郎との対談でも、「自らを含めた映画人の戦争協力とその責任について」次のような厳しい自己批判を行っていた。

「戦争中に協力してやってきたことに対しては、社会的には勿論、一個の芸術家としても、大変な責任があると思います。ああいう芸術のあり方は、本来あり得べきものではない。それに対して、戦わなかったということだけでも、責任だと思います。それを自分自身を欺瞞してやってきたことは、芸術家として大変恥ずべきことだったと思う」(大系、一、685~686)。

e、小林秀雄の戦争体験と『罪と罰』のエピローグ解釈

一方、1946年に座談会「コメディ・リテレール」で、トルストイ研究者の本多秋五から戦前の発言を問い質された小林秀雄は、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない」と語り、「必然性というものは図式ではない。僕の身に否応なくふりかかってくる、そのものです。僕はいつもそれを受け入れる」と続け、「僕のような気まぐれ者は、戦争中支那なぞをうろつき廻り、仕事なぞろくにしなかったが、ドストイエフスキイの仕事だけはずっと考えていた」と結んでいた*12。

小林は戦後の1948年に書いた「『罪と罰』についてⅡ」でも、「物語は以上で終つた。作者は、短いエピロオグを書いてゐるが、重要なことは、凡て本文で語り尽した後、作者にはもはや語るべきものは残つてゐない筈なのである。恐らく作者は、自分の事よりも、寧ろ読者の心持の方を考へてゐたかとも思はれる」と断言していた。

だが、そうだろうか。次章ではこれまでの考察を踏まえつつ第七話「鬼哭」を分析することで、『罪と罰』のエピローグに記された「人類滅亡の悪夢」の意味を考察することにしたい。

 

Ⅲ、『罪と罰』の「人類滅亡の悪夢」と第七話「鬼哭」

a、エピローグの「人類滅亡の悪夢」とキューバ危機

ドストエフスキーは『罪と罰』のエピローグで、「鬱蒼たる森林」の意味を理解できなかったラスコーリニコフに「人類滅亡の悪夢」を見させていた。

それは、「知力と意志を授けられた」「旋毛虫」におかされ自分だけが真理を知っていると思いこんだ人々が互いに自分の真理を主張して殺し合いを始め、ついには地球上に数名の者しか残らなかったという「悪夢」である。

これは病院に入院したラスコーリニコフが体力と気力が衰えていたために見た夢であり、単なる妄想のようにも見える。しかし、終戦時の原爆の悲劇を記憶していた黒澤明監督は、冷戦下における軍拡競争の中でビキニ沖でアメリカの水爆実験で第五福竜丸が被爆するという事件が起きた後で撮った《生きものの記録》(1955)の最後のシーンでは、原爆を恐れた主人公が夕焼けの色をついに「地球が燃えている」と思い込む光景をスクリーンに描き出していた。実際に1962年にはキューバ危機で核戦争によって「世界が破滅する」という危険性も指摘されるようになっていたのである。

b、小林秀雄と湯川秀樹の対談と原爆の批判

この意味で注目したいのは、1948年の8月に小林秀雄が原子物理学者の湯川秀樹との対話で、いち早く原爆の危険性を鋭く指摘していたことである。

すなわち、「私、ちょうど原子爆弾が落っこったとき、島木健作君がわるくて、臨終の時、その話を聞いた。非常なショックを受けました」と切り出した小林は、「人間も遂に神を恐れぬことをやり出した……。ほんとうにぼくはそういう感情をもった」と語っていた。

そして湯川が「平和はすべてに優先する問題なんです。今までとはその点で質的な違いがあると考えなければいけない。そのことを前提とした上でほかの問題を議論しないといけない。アインシュタインはそういうことを言っている。私も全然同感です」と答えると、「私もそう思う」と同意した小林は、「科学の進歩が平和の問題を質的に変えて了ったという恐ろしくはっきりした思想、そういうはっきりした思想が一つあればいいではないか」と結んでいたのである*13。ここには科学技術の盲信に対する先駆的な指摘があったといえるだろう。

c、第六話「赤富士」の予言性と「人類滅亡の悪夢」

原子力発電の問題を鋭く提起していた第六話「赤富士」は、福島第一原子力発電所の事故を予言していたとして最近も話題になった*14。

一方、原爆の危険性についての深い理解を示していた小林は、『罪と罰』についてⅡ」では、シベリアの病院でラスコーリニコフが見た「人類滅亡の悪夢」について、「アジヤの奥地に発生してヨオロッパに向つて進む、嘗て聞いた事もない伝染病に、全世界の人々が犠牲になる」と紹介したあとで、「夢の印象はもの淋しく、悩ましく、ラスコオリニコフの心の中に反響し、長い間消えようとしないのが、彼を苦しめた」と書いている(小林、六、259~260)。

そして「ラスコオリニコフが夢を見る都度、夢は人物について多くのことを読者に語つてきた筈だが、当人が夢から何かを明かされた事はない」と断言しているのである。

しかし小林秀雄の同人誌の仲間であった作家の坂口安吾は、1947年6月に雑誌『新潮』に発表された「教祖の文学――小林秀雄論――」で戦前に書かれた小林のドストエフスキー論を高く評価しつつも、戦後に文芸批評の「大家」として復権した小林秀雄を、「生きた人間を自分の文学から締め出してしまつた」と批判し、「彼は骨董の鑑定人だ」と批判していた*15。

d、『罪と罰』の現代性と第七話「鬼哭」

『地下室の手記』を精緻に読み解いたイギリスの研究者ピースは、この作品では主人公が「弱肉強食の思想」や「統計学」さらには「功利主義」など近代西欧の主要な流れとなっていた哲学との対決をしていると指摘している*16。こうして雑誌『時代』に書いた諸論文や作品で当時の西欧の思想を厳しく批判していたドストエフスキーは、『罪と罰』においてこのような流行の思想に影響されて「高利貸しの老婆」の殺害を行ったラスコーリニコフの行動と苦悩を深く描き出すとともに、近代西欧の自然観とロシアの民衆的な自然観を鋭く対置させていたのである。

ラスコーリニコフの「復活」がこの悪夢を見たあとで起きたとドストエフスキーが書いていることに留意するならば、「高利貸しの老婆」の殺害を、敵国との戦争と同じ論理で考えていたラスコーリニコフは、「人類滅亡の夢」をみたことで「弱肉強食の思想」や自己を「絶対化」して「他者」を抹殺することを正当化する「非凡人の理論」の危険性に気づいたといえるだろう。

それゆえ、850万人以上の死亡者を出した第一次世界大戦後に、ヘルマン・ヘッセはドストエフスキーの創作を「ここ数年来ヨーロッパを内からも外からも呑み込んでいる解体と混沌を、これに先んじて映し出した予言的なものであると感じる」と高く評価していたのである*17。

そして第七話「鬼哭」で核戦争後の世界を描いた黒澤明監督も、「……馬鹿な人間が、地球を猛毒物質の掃き溜めにしてしまったんだ」と批判させている。それとともに、鬼が「俺たちは共喰いをして生きているんだ!」と語り、「俺みたいな一本角の鬼は、二本角や三本角の鬼の食い物になるしかない……人間だった時、権力を握って悪賢く図々しくのさばっていた奴等が鬼になってものさばってるんだ!」と続けている(黒澤、七、23)。

鬼のこの言葉は、ドストエフスキーが『罪と罰』がラスコーリニコフの犯罪とその後の苦悩をとおして明らかにしていた「弱肉強食の論理」が第二次世界大戦後の現代でも政治や経済の分野で重視されていることに対する鋭い批判を見ることができる。

 

おわりに――ラスコーリニコフの「復活」と第八話「水車のある風景」

こうしてラスコーリニコフは、病院で見た「悪夢」の「悲しく痛ましい余韻」に退院後も悩まされていたが、同じ頃にソーニャも病気にかかって数日間も訪れて来ないことが重なり、彼は彼女の不在を不安にも感じ始めていた。

ラスコーリニコフの「復活」が起きた暖かい日の朝をドストエフスキーは次のように描いている。彼は「丸太の上に腰をおろして、荒涼とした広い川面をながめ始めた。高い岸からは、広い眺望が開けていた。遠い向こう岸のからは歌声がかすかに流れてきた。…中略…向こうでは、時間そのものが歩みをとめ、いまだにアブラハムとその羊の群の時代が終わっていないかのようだった」。

そこにソーニャが現れると、「ふいに何かが彼をつかんで、彼女の足もとに身を投げさせた」と書いたドストエフスキーは、「とうとう、この瞬間がやって」きたと続け、彼らの「病みつかれた青白い顔には…中略…全き復活の朝焼けが、すでに明るく輝いていた」と書いている。

第六話「赤富士」と第七話「鬼哭」の夢をとおして、自然の力を無視する一方で人間の科学力を過信した人間の傲慢さを鋭く描き出した後で黒澤明監督も、一転して自然のすばらしさを描いた第八話「水車のある村」を置いているのである。

この「水車のある村」では、「鬱蒼とした森、その下を水を満々とたたえた小川が流れ、大小六つもの水車がゆっくり回っている。時間が止まったようなのどかさ」を描き出している。しかも、最後の場面では「カメラは、川底に沢山の藻が流れにゆらめく清冽な流れを映し出す」のである。

さらに、制作費などの条件で実現には至らなかったが、シナリオの段階では八つの話以外に三つの夢も描かれており、ことに最後には地球に平和が訪れるという「素晴らしい夢」も描かれていたのである。

ドストエフスキーは『罪と罰』でラスコーリニコフの信じていたような近代的な自然観の危険性とそこからの「復活」を文学的な方法で見事に示唆していたが、黒澤映画《夢》にはこのような『罪と罰』のテーマと構造が色濃く響いていると思われる。

 

*1 黒澤明『黒澤明全集』、岩波書店、第3巻、1988年、145頁。以下、全集からの引用に際しては、本文中の括弧内に巻数を漢数字で、頁数をローマ数字で(黒澤、三、145)というように記す。

*2 小林秀雄『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、340頁。以下、全集からの引用に際しては、本文中の括弧内に巻数を漢数字で、頁数をローマ数字で(小林、六、340)というように記す。なお引用に際しては、旧漢字は新しい漢字になおした。

*3 井桁貞義はこのことを「ドストエフスキイと黒澤明」ですでに指摘している。柳富子編著『ロシア文化の森へ ――比較文化の総合研究』第二集所収、2006年、676~677頁。

*4 黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、1999年、288頁。なお、『夢のあしあと』の366頁には、黒澤明と小林秀雄が歓談している写真が掲載されている。ただ、活字化された資料は残っていないが、堀伸雄はジャーナリストの龍野忠久の著書『パリ・一九六〇』(沖積社、1991)には、映画《蜘蛛巣城》(1957)の公開後にこの対談が行われていたことなどが記されていることを明らかにしている(『黒澤明研究会誌』第24号、232頁)。黒澤明・浜野保樹『大系 黒澤明監督』第4巻、講談社、816頁)。

*5 高橋『黒澤明で「白痴」を読み解く』、成文社、2011年、123~126頁、135頁。および同書に掲載した参考文献を参照。

*6 映画《白痴》の特徴については、「映画《白痴》と『イワンの馬鹿』」(『黒澤明研究会誌』第27号、2012年、92~119頁)でも考察したが、黒澤明監督と小林秀雄のドストエフスキー観との相違については、「小林秀雄のドストエフスキー観と映画《白痴》」というテーマで稿を改めて書く予定である。

*7 黒澤明、浜野保樹『大系 黒澤明』第3巻、講談社、2010年、収録。以下、大系と略して本文中に巻数と頁数を示す。なお、初出は『文藝春秋』1990年6月。

*8 都築政昭『黒澤明の遺言「夢」』、近代文芸社、2005年、18~19頁。

「黒澤デジタルアーカイブ」龍谷大学。www.afc.ryukoku.ac.jp/Komon/kurosawa/index.html

*9 ロシア語アカデミー版追加、訳は江川卓『罪と罰』、岩波文庫より引用。

*10 雑誌「チャイカ」(第三号)のインタビュー。高橋誠一郎「ドストエーフスキイと井上ひさし」『「ドストエーフスキイの会」会報』107号、1989年1月20日号。(『場 「ドストエーフスキイの会」の記録Ⅳ 1983~1990』、ドストエーフスキイの会編、1999年、244~245頁、再録)。

*11  高橋『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』、刀水書房、2000年、第7章「隠された『自己』」参照。

*12 「座談 コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」『小林秀雄全作品』第15巻、新潮社、2003年、34~36頁。

*13 小林秀雄「対談 人間の進歩について」、『小林秀雄全作品』第16巻 2004年、51~54頁。

*14 三井庄二「反核映画作家・反核論者の黒澤明」、堀伸雄「黒澤映画と『核』~その良心と怒り」(『黒澤明研究会誌』第25号)などを参照。

*15 『坂口安吾全集 5』、筑摩書房、1998年、239~243頁。および、相馬正一『坂口安吾 戦後を駆け抜けた男』、第5章「教祖・小林秀雄への挑戦状」、人文書館、二〇〇六年参照。

*16 Richard Peace,”Dostoyevsky’s Notes from Underground”,Bristol Classical Press, 1993.池田和彦訳、高橋編『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』

ノベル出版企画、二〇〇六年参照。

*17 ベレジーナ「ヘルマン・ヘッセの理解したドストエフスキイ」より引用、『ドストエフスキイと西欧文学』レイゾフ編、川崎浹、大川隆訳、勁草書房、1980年、230頁。

 

 追記;

発表に際しては、1,参考文献として注に示した以外の文献 2,映画《夢》の図版、3,黒澤明監督・小林秀雄関連年表を添付していたがここでは省いた。より詳しい年表は近く本ホームページの「年表」に掲載することにしたい。

なお、この時の発表では時間的な理由から、第一話から第三話までと第五話についての考察を除外していたが、『黒澤明研究会誌』第29号(黒澤明研究会40周年記念特別号、2013年3月)にはそれらの考察も加えて寄稿した。

本稿では、文体レベルの改訂を行うとともに、研究例会での感想などを踏まえて本発表の注の一部を変更するとともに、発表の内容をより正確に示すために「黒澤映画《夢》における長編小説『罪と罰』のテーマ」より改題した(11月6日)。

ブルガリアのオストロフスキー劇

ブルガリアの地図オストロフスキーの像

(ブルガリアの地図、図版は「ウィキペディア」より)、(オストロフスキーの記念像、Материал из Википедии )

はじめに

最近、筆者はロシアの劇作家オストロフスキーに関心を持って調べているが、その中でブルガリアにおけるオストロフスキー劇の受容について述べたシマチョーワ氏の論文と出会い、彼の劇がブルガリアの演劇の確立と発展にかなり深く関わっていることが判った1)。 たとえば後に詳しく触れるが、ブルガリアのガリバルディとも称される独立運動の闘士レフスキ(Васил Левски,1837~1873)は1871年にオストロフスキーの歴史劇『コジマ・ザハーリチ・ミーニン』の主人公ミーニンの台詞を借りて独立への思いを訴えかけているのである。

また、ブルガリアのチェーホフ研究者С・カラコストフ氏が「ツルゲーネフの劇作法やその新しい性質は、我が国の演劇ではあまりよく認識されなかった。しかし、オストロフスキーの戯曲はとてもよく知られており、それらは70年代末から80年代に、我が国においてもチェーホフ劇が現れるのを準備した」2)と述べているように、ロシアだけでなくブルガリアにおいてもオストロフスキー劇は、チェーホフ劇への道をひらいたのである。

ロシアの劇作家オストロフスキー(А・Н・Островский,1823~1886年)は、その生涯に50本に近い創作劇と若い劇作家との多くの共作を書いた他、シェークスピアやセルバンテスなどの劇の翻訳にも力を注ぎ、さらには「ロシア劇作家・作曲家協会」の設立にも指導力を発揮して、ロシア国民劇の確立に多大な貢献をした3)。

だが、R・ヒングリーが「ロシア以外ではあまり彼については知られていない――知る価値は十分あるのに」とオストロフスキーについて書いている4)。この劇作家のことは日本でもあまり知られていないのである5)。以下、この稿ではシマチョーワ氏の論文に依りながら、ブルガリアの社会情勢やオストロフスキー劇の内容についても触れることで、ブルガリア演劇の確立にオストロフスキー劇がどのように関わったのかを明らかにしてみたい。

第一章ではまず、ブルガリアの政治的状況の変化とそれに伴う演劇の発生をロシア・ブルガリアの関係にも注意を払いながら概観し、第二章では劇団「涙と笑い」が果たした役割をオストロフスキーの劇を中心に紹介する。そして、第三章では「自由劇場」や「国民劇場」で演じられたオストロフスキー劇に光をあてながら、第一次大戦までのブルガリア演劇の発展を調べてみたい。

 

第一章  ブルガリアの独立運動とオストロフスキー劇

ブルガリア演劇の発展は永年にわたるオスマン・トルコの支配によって阻止されてきた。トルコはブルガリア人に改宗を強制することはせず、ギリシャの総主教にその権限を残したが、ギリシャの総主教はブルガリア語の公用を禁じて学校を閉鎖し、各図書館を焼き払うように命じたのだった。こうして数世紀を経ると多くのブルガリア人はかっての自国の歴史すらも知らないような事態が生まれた。それゆえ、ブルガリアの独立運動には単にトルコからの政治的な独立ばかりでなく、それに先んじて宗教的にはギリシャの総主教からの独立と、自国語で教える学校の創立が急務だったのである。以下、ブルガリア学校で対話劇が演じられ、重要な意味を果たすに至る歴史を簡単に振り返っておこう 6) 。

1762年に修道僧パイーシイ(Паисий Хилендарски,1722-1773)は『スラヴ・ブルガリア史』を書いて東ローマ帝国をも脅かすほどの力を持っていた第一次・第二次ブルガリア王国の栄光について語るとともに、「自分の民族について知ろうともせず、他国の文化や外国語に興味を持ち、自国語について配慮もせず、読むための努力もせずに、ギリシャ語で話し、自分がブルガリア人であると呼ばれることを恥ずかしく思っている」ブルガリア人がいることを激しく批判して、ブルガリア人としての自覚をうながした。彼の書は独立運動に灯をともしたのである。そして、1765年にパイシイと出会った修道僧ソフロニ(Софрони Врачански,1739~1813)は彼の著作を写本して彼の事業を継続し、それを量的に広めただけでなく質的にも深めた。

ミュシャ、ボヘミア大ミュシャ、ブルガリア

このようなパイシイやソフロニの理念は、教育者ペタル・ベロン(Петр Берон,1800-1871)によって受け継がれる。彼は1824年に最初の「ブルガリア人学校のための教科書」を書きあらわす。彼は自著の前書きで「諸外国に初めて子供たちが自国語で書かれた本を読んでいるのを見た時、私は初めて…中略…我々の子供たちがいかに無益な苦しみを被っているかを理解した」と書き、ブルガリア学校の必要性を説いた。

彼は広い知識をもつ学者で、体罰の禁止、上級生による下級生の教育、授業に遊びを取り入れることなど多くの先進的な理念を持ち、その初等読本は手軽で合理的に組織され、百科事典的な内容を持つ教科書であった。それゆえ、この一冊の教科書を用いるだけで、生徒はアルファベットや文法の知識とともに、歴史、物理、地理、自然科学、算数なども学べ、そして面白く教訓的な読みものや動物の絵も入っていたのである。この教科書は子供だけでなく、大人たちにも軽い読みものとして人気があり、40年から60年にかけて五版を重ねた。またこの教科書はその実践的な応用すなわち、ブルガリア学校の創設をも準備し、出版から11年後に最初の世俗の学校が創立される。

ところで、1806~1812年に亙る露土戦争は修道僧ソフロニに「トルコの野蛮な迫害から自分たちを救ってくれるキリスト教徒の農民たちの軍隊」であるロシアの軍隊に大きな期待を寄せさせたが、確かにこの戦争は多くのブルガリア人に同じ宗教のロシアに強い親近感を抱かさせ、これ以降ベッサラビアや南ロシアへの移住が増えた 7) 。

たとえば、後に名著『古代および現代ブルガリア人のロシア人にたいする政治的、民族学的歴史的、宗教的関係』(1829)を書くことになるユリイ・ヴェネリン(Юрий Венелин,1802~39)はリボフ市の大学で学問にたずさわり、1823年にキシニョフに滞在した期間に多くのブルガリア人移民と知り合い彼らの言語文化を知る機会を得たのである。ヴェネリンのこの本は主にブルガリアが中世ロシアに対してどのような影響をおよぼしたかを研究したものであり、「ブルガリアをスラブ古代の『古典的な土地』として考える熱狂的な親スラブ感情によって書かれていた」。

この本や著者との交際はオデッサの富裕なブルガリア人商人ヴァシル・アプリロフ(Васил Априлов,1789~1847)に決定的な影響を与えた。商人の町ガブロヴォに生まれた彼は、モスクワで教育を受けギリシア人のサークルで活動していたが、これ以降ブルガリアの民族文化と教育にたずさわるようになる。そして1835年には彼の胆入りでガブロヴォに初めての世俗学校が創立され、それはブルガリア学校の将来のモデルとなったのである。そして、1840年代に入るとブルガリアの学校では学校の教師たちが作った演劇的対話が、生徒たちによってブルガリア語で演じられ始めたが、それは独立の気運が高まってくるのと時期を同じくしてもいたのである。

1850年代に入ると社会意識の発展がブルガリアの文化生活にも一層反映され、民族の自治の理念が広がった。ロシアがトルコなどと戦ったクリミア戦争(1853~1856)はロシアの敗北にもかかわらず、バルカン半島のスラヴ人たちにロシアに対する期待を膨らませた。 クリミア戦争の直前にはラコフスキ(Георги Раковски)の指導の元に蜂起の準備が行われ、ロシア軍と共に行動する「秘密組織」が創設され、戦争中には約2000人のブルガリア人の義勇軍が参加した。1856年に戦争が終わるとサルタンの命令で全ての国民に平等の権利と信仰の自由が約束された。1860年にはブルガリア人の聖職者たちが公式にギリシャの総主教を否定し、1870年にはついにトルコ政府がブルガリア教会の独立を承認することになるのである。

又、ベネリとアプリロフの活動の結果、ブルガリア学校の教師たちの視線は強くスラヴの諸国や殊にロシアに注がれた。ヨーロッパ諸国の最新の学校教育の体験を踏まえて、ブルガリアの教育者たちは次々と設備のととのった中等学校や高等学校にあたる学校を設立していった。それらの学校ではロシアで学んだ多くの教師が働いており、その中にはオデッサで学び、後に『ブルガリア語辞典』(全6巻)を編集したナイデン・ゲロフ(Найден Геров,1823~1900)もいた。

よく知られているように、ツルゲーネフは1860年にクリミア戦争前のモスクワ大学を舞台に、自らの命をも賭けてトルコからの独立を願うブルガリアの留学生インサーロフと知性と美貌に恵まれた乙女エレーナの激しい恋を描いた『その前夜』を発表した8)。このようなブルガリア人学生のロシアへの派遣に際しては、1854年にオデッサにおかれたブルガリア主任司祭の職と1858年にモスクワに設立されたスラヴ委員会の援助が少なからぬ役割を演じた。以下、将来のブルガリアの文化と教育をになうようになる有能なブルガリア人留学生の名を列記しておこう。

マリン・ドリノフ(Малин Дринов)、歴史学者、ルーマニアのブライラに1869年に設立されたブルガリア文芸協会の会長。

コンスタンチン・ミラディノフ(Константин Миладинов,1830~1862)、1861年に兄ディミタル(Димитр Миладинов,1810~1862)と共にザグレブで『ブルガリア民謡集』を出版。

ヴァシル・ドルメフ(Васил Друмев,1840~1901)、戯曲『アッセンの殺害者、イワンコ』の作者。

リュベン・カラヴェロフ(Любен Каравелов,1834~1879)、1861年にモスクワで『ブルガリア人の民俗記録』を出版。

フリスト・ボテフ(Христо Ботев,1848~1876)、詩人、革命家 などである。

ブルガリア国民学校の教師たちは各地の社会活動の中心的役割を占め、学校だけでなく社会においても教師として深い尊敬を払われた。多くの学校には「チターリシタ(読書室)」と呼ばれる大衆教育活動のセンターが設けられ、そこでは図書館やアマチュア演劇集団が創設され、また文盲者のための日曜学校や展覧会が開かれ、集会や講義も行われたのである。それゆえ、ブルガリア人の教員の中から詩人、作家、劇作家、劇の組織者が生まれたのも偶然ではなかったのである。

こうして、50年代末から60年代始めにかけてブルガリア演劇が形成されていったが、それは学校を基盤にした学校演劇やアマチュア演劇と深く結びついていたのである。劇の上演はしばしばその組織者と反対者の間に鋭い対立を生みだし、上演禁止や劇の参加者の逮捕といった事態も起きたのだった。

ブルガリアにおける最初の翻訳劇の上演はシューメンとロチで教師C・ドブロプロドニ(Савва Доброплодни,1820~1894)とK・ピシュルカ(Кръстьо Пишурка,1823~1875)のもとでアマチュア劇団によって実現された。ブルガリア演劇の父とも呼ばれるドブリ・ヴォイニコフ(Добри Войников,1831~1878)は始め、シューメンで教師として働き、演劇活動に携わったのち、1866年に国外のブルガリア人の文化的中心地の一つルーマニアの都市ブライラでブルガリアの移民たちからなる最初の常設のアマチュア劇団を創設し、翻訳劇やオリジナル劇を上演し大成功を収めた。彼はまた、その著『文学入門』の中でプーシキンなどとともにオストロフスキーについても言及している9) 。

ブルガリアとオストロフスキー劇の出会いは、その後のブルガリア史を変えるほどのものであった。1971年3月10日のブルガリア「中央委員会」の回想によれば、委員会の指導者であったレフスキはオストロフスキーによって書かれた歴史劇『コジマ・ザハーリチ・ミーニン』(Козьма Захарьич Минин-Сухорук) の主人公ミーニンの次のような言葉で仲間に呼び掛けたのである10)。

「兄弟よ、聖なる祖国を助けよう

我々の心は石と化したのか

我らはみな、同じ母なる祖国の子供ではないのか」

この時、ブルガリアはようやく教会の独立を1870年にトルコから勝ち取っていたとはいえ、まだ完全な独立とはほど遠く、カラヴェーロフやレフスキらの革命家たちは、一斉蜂起を実現するために「委員会」を設立し、ことにブルガリアのガリバルディとも称されたレフスキは、命の危険もかえりみずブルガリアを旅して「委員会」を各地に組織していったのであった。

ミーニンは17世紀初頭のニジニ・ノヴゴロドの商人であり、彼はポーランドに占領されたモスクワを解放するために義勇軍を組織し、ポジャルスキイ公を指揮者としてポーランド軍と戦い、モスクワを解放したのだった。五幕物の歴史劇『コジマ・ザハーリチ・ミーニン』に対する評価はロシアではかならずも高くはなかったが、ツルゲーネフはドストエフスキーへの1862年3月2日の手紙で、「韻文はすばらしく、言葉は美しい」と書いていた11)。その演劇的な言葉は、遠いブルガリアでいかなる俳優よりもその役にふさわしいレフスキの口を通して語られたのである。

レフスキは解放を前に1873年に殺されるが、彼の望みは1876年のボテフによる四月蜂起、そして1877年の露土戦争への義勇軍としての参加へと受けつがれて、ついに1878年のサン・ステファノ条約でトルコ主権下の自治国を勝ち取るのである。

だが、1878年にサン・ステファノ条約で自治国を勝ち取ったかに見えたブルガリアは、その直後のベルリン条約でソフィアを首都とするブルガリア公国とプロヴディフを首都とする東ルメリヤ、そしてオスマン帝国に残されたマケドニアの三つに分割され、問題を後に残した。

1880年代になるとまだアマチュア劇の性格を有していたブルガリアの劇は次第に半ば職業的な劇の性格を持ちはじめてきた。

当時東ルメリヤの首都であったプロヴディフには、サプーノフ、ポジャーロフ、ポポフ、などが劇団員となって働き始めた「ルメリヤ劇団」が現れたが、この劇団の活動はアマチュア劇団の多くが半職業劇団へと成熟していく過程をよく示している。この劇団にはまだ職業俳優がいなかった。ブカレストの音楽院で歌と朗読のクラスを卒業し、ルーマニヤの劇場で演じたことのあるサプーノフ(Константин Сапунов,1844~1916)以外は、職業劇団の舞台に立ったこもなかったのである。それゆえこの当時の批評には「舞台に出る時はより自然で一層生き生きとした態度でなければならない。自分の役のせりふをそれに伴った身振りをし、四方を見回すことは妨げにならず、じっと一箇所に留まってはいけない」といった注意までたびたび載っていた。この劇団の主なレパートリーはブルガリアと西欧の戯曲であり、ロシアの戯曲からはツルゲーネフの『貴族団長宅の朝食』が上演されている。こうしたレパートリイは自分たちの劇団の水準を同時代の西欧の文化の水準にまで近づけようとする努力の現れと見ることができるだろう。

なお、この「ルメリヤ劇団」は1883年にフランスの劇作家デ・レリの戯曲『夫たちの隷属』によってその活動を始めたが、研究者のデルジャーヴィンはサプーノフが依ったのはオストロフスキーが翻訳かつ改作したロシア語版であると想定している 12)。すなわち、この劇は1872年にオストロフスキーの著作集に掲載されているのである。なお、オストロフスキーの改作では、登場人物や土地の名前がすべてロシア風に直されている 13)。オストロフスキーはさらに原作にはいない人物を出していが、それは註によれば恐らく役者の要求によって登場人物を一人増やしたものであろうと想定し、その登場人物は、劇の骨格を殆ど変えてはいないし、翻訳は優れたものであると記している 14)。

ところで、オストロフスキーが1886年に亡くなると、この劇作家の死はブルガリアの社会でも大きく取り上げられ、この当時の多くの論文はこの劇作家の作品の意味を普遍化し、評価を与えようと試みていた。ブルガリアにおいてオストロフスキーの作品が本格的に取り上げられるようになるのは、間もないことのように見えた。だが、ブルガリアとロシアの政治的な関係の複雑化は、オストロフスキーの劇がブルガリアの舞台で上演される時期をさらに遅らせることになる。

すなわち、ベルリン条約で意図を挫かれたロシア政府は、その後ブルガリア公国のみを自国の影響下に引き付けて置こうとしたが、それは公国のロシア化を計るものとの疑いを招き、東ルメリヤとオスマン帝国に残されたマケドニアの解放をも望むブルガリア人の激しい反発を招いた。1885年に東ルメリヤがブルガリアに合併されると、ロシア政府はこの統一に反対してブルガリア軍に残っていた将校を引き上げ、さらにはブルガリアがセルビアとの戦いに独自で勝つと親露派の将校や僧侶を利用して1886年八月にクーデターを遂行させた。だが、このクーデターは一週間の内に逆転し、スタンボロフ(Стефан Стамболов,1854~1895)を首班とする新しい反露的な政権(~1894年)が樹立されたのである。

スタンボロフが採った政策について詳しく見る余裕はないが、ここでは二つの見方を並記しておく。「ブルガリアのナショナリズム」の筆者マリン・V・ブンデフ氏はスタンボロフが民族経済の発展を促進させ、1878年に義務教育制を導入し、1889年の高等教育機関の設置や1904年のソフィア大学の設立など、ブルガリア民族の教育発展の基礎を作ったと述べている 15)。

それに対して、シマチェーワ氏は「スタンボロフが政権に就いていたこの期間、ブルガリアは陰欝な時期を苦しんだが、90年代の始めに反対勢力の新しい潮流が活発化した」と書き、高級官僚の収賄を厳しく批判していたオストロフスキーの戯曲『収入の多い地位』が、1893年に初演されて大成功を収めたのはスタンボロフ体制に対する批判として受け取られたと記している 16)。

いずれにせよ、『収入の多い地位』が初演された1893年がスタンボロフ失脚の前年であり、1894年からは再びロシアとの関係が正常化されたことを思い起こせば、この劇の上演も深くブルガリアの情勢と関わっていたことはたしかである。そして、官僚における収賄の問題を扱った『収入の多い地位』がそれだけの反響を呼んだという事実は、レフスキが民族の解放を呼び掛けた『コジマ・ザハーリチ・ミーニン=スホルーク』の抜粋を朗読してから20年余りで達成したブルガリアの政治的・経済的な発展をも反映していたと言えるだろう。

 第二章  オストロフスキー劇と劇団「涙と笑い」

ブルガリアの国民演劇の確立に重要な役割を果たしたのは、1892年に首都のソフィアに創立された劇団「涙と笑い」(1892~1904)である17)。ゴーゴリの『結婚』によって出発したこの劇団は、ゴーゴリの『検察官』、スホヴォ・コヴイリンの『クレチンスキーの結婚』、チェーホフの『熊』等を上演し、その他シェークスピアの戯曲やモリエール、シラー等の劇も上演しているが、殊にオストロフスキーの戯曲を多く上演した。オストロフスキーの名前はこの劇団「涙と笑い」と密接に結び着いていると言えるだろう。

さて、「涙と笑い」が最初に上演したオストロフスキーの創作劇は、『収入の多い地位』である。この五幕の喜劇は1857年に「ロシア談話」に発表されたが、その内容のためにロシアでは長い間上演を許可されなかった。しかし1863年に上演されるとモスクワやペテルブルグで大変評判になった。ブルガリアではこの劇は1893年10月17日に『脂っぽい小骨』という題名で初演され、演出家のR・カネリ(Радул Канели, 1868~1913)が主人公ジャードフを演じた。

ジャードフは理想家肌の若者で、オストロフスキーは彼の理想と苦悩を描き出すことで、当時のロシアの抱える問題点を鋭く衝いたのだった。むろん彼は観念的な操作のみで描くことをせず、ジャードフに純真で可愛いが、他人に影響されやすい妻のポリーナとその姉で打算的なユーリヤを、さらにそのユーリヤの夫に彼の同僚でお世辞がうまく世渡りが上手なベログーボフとその上司のユーソフを配することで登場人物たちの行動を比較し、問題点を浮彫りにしている。殊にジャードフと彼の伯父で賄賂を受け取ることを当然と見なす高級官僚ヴイシネーフスキイの対立と論争はこの劇の主題を明確にしている。

この劇はブルガリアでも大成功を収めたが当時の劇評を読むと、題名だけでなく内容の点でもかなりの変更があったことが判る。「疑いもなく、カネリの演ずるジャードフは何よりもまず、完全な強い性格である。ジャードフが自分も皆と同じようにあるべきか否かをためらう場面をカネリが全部削ったのは偶然ではない。カネリの演ずるジャードフはどのような試練がその生活に待ち受けていようと自分の信念を曲げはしないのである。彼には自分を取り巻いているユーソフとかベログーボフといった輩やあらゆる下劣さを無関心に見つめることはその信念からもできないのである」18)。

すなわち、オストロフスキーの劇ではジャードフは第三幕に入ると既に自分の苦悩を友人に打ち明け、その後も迷い続け、第五幕ではついに折れて「収入の多い地位」を求めて伯父の元に謝りに行くのだが、ブルガリアの舞台ではそういった迷いは一掃されていたのである。ここにも新興ブルガリアの一途な性格が現れていると見るのは行き過ぎだろうか。

ペテルブルグの雑誌「演劇と芸術」の特派員は「戯曲はこれまでブルガリアの演劇にはなかったセンセーションを巻き起こし、何回もの大入りを出したのだ。この原因はまず、これまでブルガリアの舞台で幅をきかせていた喜劇や悲劇の大げさなモノローグに変わる、オストロフスキーの生き生きとした活気のある言葉の魅力だろう」と伝えている19)。こうして1893年の劇『収入の多い地位』の上演はブルガリアの社会的・文化的な出来事となった。多くのアマチュア劇団や半職業劇団はこの戯曲を自分たちのレパートリーに取り入れた。ソフィアに続いてルーセ、ガブロヴォ、ラーズグラト、ローム、カルノバートやその他の都市でも上演され、ジャードフのモノローグはブルガリアの若者たちの合言葉となったのである。

『収入の多い地位』で成功を収めた劇団「涙と笑い」はそれ以降毎年のように、そして多い年には1年に2本もオストロフスキーの戯曲を上演することになり、10年間にオストロフスキーの10の戯曲がブルガリアの舞台で上演されることになる。以下、戯曲の題名とブルガリアでの初演の年度を書き出してみよう。

1893年  『収入の多い地位』(Доходное место)

1894年  『貧しさは罪にあらず』(Бедность не порок)

『持参金のない娘』(Бесприданница)

1895年  『あぶく銭』(Бешеные деньги)

『雷雨』(Гроза)

1899年  『ワシリーサ・メレーンチエワ』(Василиса Мелентьева)

1900年  『幸せな日』(Счастливый день)

『求めよ、さらば与えられん――バリザミーノフの結婚』(За чем пойдёшь,то и найдёшь――Женитьба Бальзаминова)

1901年  『狼と羊』(Волки и овцы)

1902年  『罪なき罪人』(Без вины виноватые)

 

ところで、1905年以降は1909年までしばらく間があいており、しかも上演作品の傾向が違っているが、これは1905年を境に主な演出家が異なっているためだろう。前半の『あぶく銭』以外の四本はすべてカネリが演出し、ことに『持参金のない娘』は彼自身で翻訳した。R・カネリは演劇の教育を受けた最初のブルガリア人俳優であり、彼はレニングラードで演劇コースを終えた後、1893年に劇団「涙と笑い」に入団した。彼が舞台人としてのデビューしたジャードフの役については既に一部劇評を引用したが、それはもっぱら演出家として彼が『収入の多い地位』をどのように捉えたかを物語るものである。俳優としての彼にかかわる別の感想も引用しておこう。ブルガリア人民共和国の人民芸術家タチョ・タネフはこう書いている。「カネリの演ずるジャードフが声をあげて泣き涙ながらに生活における不正への怒りに燃えた時、また彼が高級官僚は主に泥棒とペテン師たちからなり立っていると激しく糾弾した時、私の若い記憶に強く残った。それゆえ、今でも当時の観客が一様に拍手かっさいしたように彼に拍手を送りたいという望みが生じるのである」 20)。以下、簡単に『あぶく銭』をも含めてこれらの戯曲をみておきたい。カネリの演出の傾向がある程度はっきりする筈である。

『収入の多い地位』に続いて上演された『貧しさは罪にあらず』(1854年、括弧内は戯曲が発表された年。以下同じ))では、モスクワの商人の家庭を舞台にやはり貧しいが真面目な手代と商人の娘リュボーフィの愛を縦糸に描かれている。しかし、リュボーフィの父親の横暴さのために彼女は無理矢理、大金持ちの老人に嫁がされそうになる。しかし、そこに伯父のリュービムがあらわれ、老人の過去を暴露して彼らの愛を救うのである。ことに彼の「リュビーム・トルツォーフは酔っぱらいにはちがいない。だが、てめえらよりはまっとうな人間だ。さあ道を開けてくれ、リュビーム・トルツォーフ様のお通りだ」というたんかは観客をわかせた 21)。シマチョーワはこの劇について何もふれてないがその後もオストロフスキーの劇が続いたのを見ると、ブルガリアの舞台でもやはり好評を博したものと思われる。

第三番目の『持参金のない娘』(1869年)は一転してオストロフスキー後期の作品であり、第五番目の『雷雨』(1860年)と同時に女主人公の死で終る。ここでオストロフスキーは持参金がないゆえに憧れの男性と結婚できない女性の苦悩をリアルに描き出し、他方でやはり貧しさのゆえに真面目ではありながら様々のコンプレックスから抜け切れぬ男カランドゥイシェフの悲劇を描いている。殊にカランドゥイシェフの形象は多くの点でドストエフスキーの登場人物と共通するものがあり、ロシアの舞台では大変な話題となった。

第四の『あぶく銭』は1870年に発表されたものであるが、ここには既に後年の『持参金のない娘』を予想させるものがいくつかある。たとえば、女主人公のリリヤもラリーサと同じように美しくはあるが、持参金がなく、自分の美貌でなんとか良い玉のこしに乗りたいと考えている。又、彼女の母親もラリーサの母親のように、ただ娘に安穏な生活をさせようと願うだけの母親なのある。それゆえ、父からの仕送りを受け取ることができなくなったと知ると、リリヤは「美貌は価値があるのよ。心配しなくてもいいわ。美男子は少ないけど、お金持ちのばかなら沢山いるわ」 22)といって、地方出で、風貌はさえないが金鉱をもっているといわれるサーヴァの求婚に同意するのである。こうして、『持参金のない娘』と同様にこの戯曲でも彼らの結婚は始めから破滅を予感させるのである。そして、事実、夫サーヴァが彼女を甘やかさず、質素な生活を営むと「私は蝶と同じで、金粉がないと生きられないのよ…最大の罪は貧しさだわ。これまで私少しはコケティッシュに振る舞ってきたけど、どれだけ恥知らずに行動ができるか自分を試してみるわ」 と母に宣言して大金持ちと思われる二人の男性に愛想をふりまき、愛人になることもいとわないと告げるのだ23)。

だが、この劇ではオストロフスキーはどんでん返しを用意している。すなわち、一見華やかに暮らしていた二人の紳士が共に借金で生活していたこと、それに反して質素な生活を送っていたサーヴァが大儲けをしたことが第五幕で明らかになるのだ。こうして劇は夫をあらためて見直したリリヤが、彼の言葉にしたがって彼の村で義母につかえながら生活を学ぼうと決意するところで幕になる。

チェーホフは後に『桜の園』において貴族の夫人と元農奴だった商人とを対置し、彼女の領地が彼に買われるという筋を用意して、貴族の時代から商人の時代へと移った時代の変化を鮮明に描きだしたが、オストロフスキーは既にこの劇においてその徴候を見事にとらえていたと言えるだろう。借金生活者の一人テリャーテフの「今では金(かね)もより賢くなり、仕事の出来る人間の所に全部行くんだ。以前は金はもっと愚かだったがね。我々の所にあるのは、あぶく銭ばかりだ。汗水たらして得た金は賢く、そいつらはおとなしくおさまっているが、我々がそいつらを招いても来はしない」というセリフはこの戯曲の主題をよく物語っていると言えるだろう24)。

同じ年に上演された『雷雨』はオストロフスキーの代表作である。この作品でオストロフスキーはボルガ川沿岸の架空の町カリーノフを舞台に、横暴で無知な上に迷信深いロシアの小都市の商人たちの実態をあからさまに描き出し、美しい風景や雷雨という激しい自然現象と共に女主人公カテリーナの悲劇を生き生きと伝えている。

すなわち、嫁ぐまで「自由な小鳥のような日を送っていた」カテリーナの姑カバノーワは、うわべは信心深い女性を装ってはいるが、ことあるごとにねちねちと彼女をいびる。だが、夫のチーホンは母に頭が上がらず、親の目を盗んではうさばらしに酒を飲みに行くのだった。こうして、冒頭から劇はカテリーナの心理的な苦悩を描き出して激しい緊張の中にある。二週間の商用での旅を新たに言いつけられたチーホンは、旅行を止めるか、せめて一緒に連れていって下さいと懇願するカテリーナの頼みを振り切って、足枷のない自由な日々を夢見て命の洗濯とばかり、いさんで出かけていってしまう。

そして、彼女の恐れは事実になる。彼女の気持ちを理解しない夫がいなくなった空虚なカテリーナの心に、モスクワで立派な教育を受けながら両親の突然の死によって横暴な伯父にこき使われて働いている同じ境遇の若者ボリースに対する思いがつのる。一方、義理の妹ワルワーラは、母親に隠れて夜毎に恋人クドリャーシュとのあいびきに出ていたが、カテリーナがひそかにボリースに思いを寄せていることを知ると彼女を焚き付け木戸の鍵を渡すのだった。カテリーナは激しく迷うが結局ボリースと会ってしまい、その後も密会を重ねる。しかし、夫が帰宅すると彼女は罪の意識に悩まされ、雷雨の日にすべてを告白し、数日後に岸からボルガ川に身を投げてしまうのである。

この戯曲が1860年に発表されると大変な評判を呼んだ。たとえば、ドブロリューボフは「闇の王国の一筋の光」を書いて、主人公カテリーナの形象に注目し、オストロフスキーがこの作品で横暴で無知な親たちに対する彼女の反抗を通して未来の光を描いたと高く評価した。この劇がブルガリアではどのような評価を受けたのかを知ることのできる資料は手元にないが、演劇評論家のカラコストフはキルコフ(Васил Кирков,1870~1931)が演じたボリースには「柔軟さ、やさしさ、リリシズム」があったと指摘するとともに、「同時にキルコフは、貴族の息子であり、余計者でもあるボリースが本質的には、はっきりした自分の意志を持っていないことも明らかにした」と述べている 25)。

なお、この劇は1902年にも再演されたが、この時キルコフ(ボリース)、キーロフ(クリーギン)、キルチェフ(チーホン)、M・カネリ(ワルワーラ)、サラフォフ(クドリャーシュ)等のブルガリア人俳優に混じって客演したロシアの女優マサロワは1904年の回想録の中で次のように書いている。「ブルガリアのスラヴの友人の中では、外国にいるという感じがしません。私はロシア語で演じ、他の人達はブルガリア語で演じました。それによる困難さは観客にも、俳優たちにもありませんでした。なぜならば、ブルガリア人はほとんどみんながロシア語知っているからです。あらゆるスラヴの言葉の中でブルガリア語は我々の言葉に一番似ています」。 26)

これら五本のレパートリーとその内容に言及したシマチョーワは、この劇団の最初の指導者ナルブロフ27)、と「カネリの貢献はレアリスチックな芸術の原則の確立を意図的に追求したことである」という言葉を裏付けているように見える 28)。ころで、後半の1899年以降再び連続してオストロフスキー劇が上演されるが、これはクロアチアの第一級の悲劇俳優であるアダム・マンドローヴィチ(Адам Мандрович,1839~1912)が監督となった事と、ロシアの演劇学校でレンスキー(А.П.Ленскии,1847~1908)やダヴィドフ(В.Н.Давыдов,1849~1925)の元で学んだブルガリア人の生徒たちが祖国に戻ったことと深く関係している。

たとえば、第六番目の戯曲『ワシリーサ・メレーンチエワ』(1868年)はレンスキーの教え子であるブデフスカ(Адриана Будевска,1878~1955)やキーロフ(Гено Киров,1866~1944)によって演じられ、キーロフはこの戯曲の翻訳もしている。

レンスキーはシェークスピア劇のすぐれた俳優としての定評があるが、オストロフスキー劇にもしばしば出演し、彼が教えていたモスクワ演劇学校でも、18年間、試験の劇のレパートリーは常にオストロフスキーの戯曲であり、オストロフスキーの戯曲の一部や全体が34編演じられた。オストロフスキーもフェドートフの劇『狼』を見た折りに「重苦しい、不愉快な戯曲だが演技はよかった。レンスキーのメーキャップは上出来で、自分の役もすべて立派にこなしていた」と1886年の日記に記し29)、また別の箇所では「サドフスキー、レンスキー、ルィバコフその他の若い俳優たちは私を父親のように慕ってくれています」と書いている30)。

ところで、キーロフ等が選んだ『ワシリーサ・メレーンチエワ』はオストロフスキーの歴史劇の一つで、イワン雷帝の皇后アンナの一介の女官にすぎなかったワシリーサが、自分を恋する若者コルィチェフを使って皇后アンナを陥れて修道院に追いやり、自ら妃になるまでの野望とその結末を描いている。オストロフスキーの意気込みに反して不人気だった一連の歴史劇とは異なり、この劇ではワシリーサを始め登場人物の心理と性格がくっきりと描き出され、その劇的な筋と共に評判を呼んだ。演劇学校のブルガリア人学生たちは、フェドートワが主役を演じたマールイ劇場の劇を見た筈である。

ブルガリアではキーロフがイワン雷帝を、ブデフスカがワシリーサを演じた他、マリュータ・スクラートフをやはりレンスキーの愛弟子ガンチェフが、彼女の恋人コルィチェフをV・キルコフが演じている。こうしてロシアの演劇学校で学んだブルガリア人俳優が多く出演したこの劇はそれまでのブルガリアの演技方法を多くの点で打ち破っており劇団に新しい時代が来たことを印象付けた。新聞の劇評は「劇団の成功は予想をはるかに越えるほどであった。実際オストロフスキーの劇そのものは、取り立てていうべき程のものではないが、俳優たちのすぐれた演技こそが多くの観客の関心を生み、彼らの大成功を呼んだという事を証明している」と述べている。

『ワシリーサ・メレーンチエワ』の上演から4ケ月後に、やはりキーロフの翻訳になる『幸せな日』の初演が行われた。この戯曲はオストロフスキーが若い劇作家ソロヴィヨーフ(Н.Я.Соловьев,1845~1898)と共に書き上げ、1877年に発表した三幕ものの喜劇である。

ゴーゴリは戯曲『検察官』の中で、おしのびで検察官が現われるということを知った地方都市のお偉方の右往左往を見事に描き出したが、この戯曲でも、日頃賄賂を受け取ったり、かってに課税したりしていた郵便局長が部下に訴えられ監査を受けるに至る騒ぎが主題になっている。だが、この作品で主要な役を演じるのは局長の対照的な二人の娘、リーポチカとナースチャである。やり手の母親は家族を救ってくれる一切の望みを、美しく、魅惑的で悪知恵も働くナースチャにかける。そして、事実彼女は持ち前の愛敬と機知で、まず出入簿を調べている若い官吏の気をそそり、また監査官にも「あなたの個人秘書になりたいわ」と取り入って局長を解雇しようと思っていた彼の気をやすやすと変えてしまうのである。一方、母親から「寝ることとピローグを作ることだけしか、才能がない」と言われ 31)、何ら期待を抱かれていないリーポチカは実は創造性のない生活にあきあきしており裁縫師にでもなって働きたいと願い、彼女の恋人の地方医は「私は医学が好きですし、この学問の未来を信じています」と述べて、私達にチェーホフの主人公たちを想起させるのである 32)。

こうして、この劇はナースチャを通して地方官僚の腐敗ぶりを機知に富んだ対話で描き出す一方で、リーポチカとその恋人の医者の形象を通してロシアの可能性をも描き出すことに成功しているのである。

この劇ではナースチャを演じたブデフスカの演技が光った。この役を彼女はレンスキーの指導で準備したのだった。1897年に彼女は「稽古をしていた時、レンスキーは満足し、とても上機嫌でしたが、これはよい徴候です」と手紙で知らせている。だが、この劇自体は評判にはならず、2回演じられただけであった。

同じ年に上演された『求めよ、さらば与えられん――バリザミーノフの結婚』(1863年)は、金持ちの未亡人に見染められることを期待して町中を足を棒にして歩き回っている少し間の抜けた男を主人公にした戯曲の三番目にあたる作品で、雑誌『時代』に掲載された。ドストエフスキーはこの作品について「私の率直で遠慮のない感想をとの御要望ですが、傑作の一語に尽きます」とオストロフスキーへの手紙に書き、この劇の登場人物が皆生彩に富んでいることを取り上げるとともに「主人公が非常に生き生きとして、現実的であり、今ではもう一生全場面が頭から消えることはないと思われる程です」と記している33)。

この劇はА・マンドロヴィチの演出で上演された。彼は単に名悲劇俳優であったばかりでなく、すぐれた教育者でもあり、彼の活動は若い役者たちのレベルを引き上げ、また古い役者たちの芸域を広めたのだった。

この翌年には『狼と羊』(1875年)が上演された。この劇に登場する女地主ムルザヴェツカヤも又、『雷雨』の姑カバノーワと同じように、うわべは信心深い女性のふりをしているが、実際は未亡人クパーヴィナの経営上の無知につけこんで、彼女の夫が莫大な借金を背負っていたような手紙を代言人に偽造させ、なんとか示談にもち込んで、自分の甥を彼女の夫にして、広大な領地をものにしようと企んでいるのだ。

このような企みは、クパーヴィナが秘かに思いを寄せていた夫の若い友人ベルクートフの機知であやうく回避され、彼らはめでたく結婚する。だが、この劇では思慮深くかつ大胆なベルクートフも肯定的な人物とは描かれていない。彼は友人に「いや、僕はもう久しく目をつけていたのだ」と語り、クパーヴィナさんにかい、という問いに対しては「いいや、この領地にだ」と告白し、もちろん彼女にもだがねと付け加えるのである。彼は又、既に彼女の領地に鉄道が敷かれるという決定がなされていることをどこからか聞き込んでおり、又、彼女の領地が美しいだけでなく「ぶどう酒の醸造工場」を建てるにも適している事を見越している。そして彼は結婚の承諾と同時にクパーヴィナの領地の管理権をもゆずり受けてしまうのである。

偽造文書をでっちあげた元管財人のチュグノーフは、「私やあなたがなんで狼です。私どもはにわとりです。鳩です。一粒ずつついばんで決して腹一杯にはなりません。あの連中こそ狼です。あの連中はいっぺんにぐっとのみこんでしまうんです」とぼやく 34)。確かにオストロフスキーがこの劇で描き出したベルクートフは、法律の裏をかいてこそこそともうける小悪党や、古いタイプの暴君型女地主をも堂々と手玉に取ってしまう、新しいタイプの経済人であるといえるだろう。

ブルガリアの上演では、ズラタレヴァが演ずる信心深さを装った暴君的な女地主ムルザヴェツカヤの形象を中心に、彼女の軽薄な甥の役をキーロフが、クパーヴィナの隣人で人の良い地主ルイニャーエフをガーネフが演じた他、ベルクーロフの役をキルチェフが演じている。俳優たちはオストロフスキー劇の本質を理解し、風刺的な舞台を作り上げた。

この劇が上演されると激しい賛否両論が巻き起こった。すなわち、この劇の風刺性が高く評価された反面、この劇に『収入の多い地位』の主人公ジャードフのモノローグのような台詞を期待していた多くの観客を失望させ、肯定的な主人公の欠如が鋭く批判されたのである。それと共に、シマチョーワはこの戯曲に作者のペシミズムを読み取った劇評を紹介しながら、「オストロフスキーの劇作の暴露主義的な傾向は、西欧のメロドラマ的傾向に慣れていた、批評家たちを驚かしたのである」と説明している 35)。

劇団「涙と笑い」が上演した最後のオストロフスキー劇は、А・キルチェフの翻訳した『罪なき罪人』(1884年)である。この劇は1904年にこの劇団が解散した後も、劇団「自由劇場」のレパートリーとして受け継がれることになるので、次章で改めて論じたい。

1903年の次のような劇評は、劇団「涙と笑い」を通してオストロフスキー劇がどのような位置を獲得していたかを如実に物語っている。

「ロシアの劇作家オストロフスキーはブルガリアの演劇や知識人の間でほとんど身内の者となった。ブルガリアでは他のいかなる劇作家も、オストロフスキー程の尊敬を受けてはいない。その理由は多く挙げられるが、その内の一つは決定的なものである。それはオストロフスキーがその戯曲の中で示した筋や作中人物が、我々の現実に非常に近く、その中から汲み取られたように感じられるからである」 36)。

 

第三章  オストロフスキー劇からチェーホフ劇へ

1904年に行われたいくつかの劇団の再編と統一の結果(その中には劇団「涙と笑い」もあった)、ソフィアに国家予算で運営されるブルガリア国民劇場が創立された。だが、主に新しいレパートリーの選択をめぐり、劇場の指導に満足しなかった劇団の有能な俳優サラフォフとキルチェフが劇団を離れ、さらに1905年にはガンチェフ、ストイチェフ、スネジナ、さらにはブデフスカなどの優れた俳優たちが参加してヴァルナに「自由劇場」を組織した。

この劇団はオストロフスキーの戯曲『罪なき罪人』と『森林』を上演したが、この「自由劇場」を何よりも特徴付けるのはチェーホフの劇『ワーニャ伯父さん』(1904)と『かもめ』(1895)を上演したことだろう。チェーホフのヴォードヴィルは既に劇団「涙と笑い」も『熊』(1901)や『結婚申し込み』(1904)といったヴォードヴィルを上演し、また国民劇場も『ワーニャ伯父さん』を取りあげてはいた。しかし「チェーホフの劇作法は国民劇場の舞台でではなく、1905年から1906年にかけて存続した自由劇場の舞台において最も深く習得された」のである 37)。

こうして、ブルガリアにおける劇団「涙と笑い」から「自由劇場」へという過程は、オストロフスキーの家と呼ばれた「マールイ劇場」ややはりオストロフスキーの劇を多く取り上げたアレクサンドリンスキイ劇場からチェーホフ劇の「モスクワ芸術座」へと移行したロシアの流れとほぼ重なるように見える。

この点で興味深いのは、アタナス・キルチェフ(Атанас Кирчев,1879-1912)の存在だろう。彼はヴァルナのアマチュア劇団で演技を始めるが、後にペテルブルグの演劇学校のダヴィドフで学び、またアレクサンドリンスキイ劇場でダヴィドフ、ヴァルラーモヴァ、サーヴィナ等の名優の芸を見る機会を得た。キルチェフのオストロフスキーにたいする敬愛には彼の師ダヴィドフからの影響が見られる。ダヴィドフはオストロフスキー劇のすぐれた俳優の一人であり、その生涯にオストロフスキー劇の80以上の役を演じた。オストロフスキーも彼について「ダヴィドフは非常に才能に恵まれ、芸術を愛し情熱的に仕えている」と高く彼の才能と情熱を評価している 38)。

1907年から翌年にかけて、キルチェフは再びロシアに戻り、今度はモスクワ芸術座で学び、殊にスタニスラフスキイから強い影響を受けた。残念ながら彼は働き盛りの33歳で亡くなったが、その生涯に多くの仕事をなし遂げ、ブルガリアにおけるオストロフスキーからチェーホフへの橋渡しをしたように見える。キルチェフにはオストロフスキーの『罪なき罪人』、『森林』や『温かみのない光』(Светит,да не греет)などの戯曲の翻訳があるが、面白いことにこれらの劇はいずれもどこかの点でチェーホフの劇を予想させるものがある。

たとえば、劇団「涙と笑い」だけでなく「自由劇場」でも上演されたオストロフスキーの劇『罪なき罪人』は、その女主人公に女優がなっており、チェーホフの劇『かもめ』を幾分思い起こさせもするのである。

よく知られているように『かもめ』では大女優の母とその息子で小説家のトリゴーリンの心理的な葛藤が描かれている他、トリゴーリンに恋して一子までもうけるが、彼に捨てられ子供も失ってしまうが、念願の女優になり、地方の劇場をまわりながらも、女優としての使命に燃えて生きていく若い女性ニーナの形象もくっきりと描かれている。同じように、1884年に書かれた『罪なき罪人』でも大女優と息子との心理的な葛藤が劇の重要な位置を占めており、この女主人公クルチーニナも、若い官吏との間に子供までもうけながら、立身出世を望む彼に捨てられ、さらにあずけていた子供も病死したという知らせを受け、心の痛みをいやすために女優になり、内地を回るのである。

だが、『罪なき罪人』では息子が死んだという知らせは、実は彼女との縁を完全に断ち切るために恋人が考え出した策略で、死にかけていた息子は元気を取り戻し子供のない夫婦に預けられていたのだ。こうして劇は、再び故郷に大女優として戻ってきた彼女と、養父にも死に別れ厳しい人生の試練を経て粗野で乱暴だが才能ある俳優に育ってきた息子の出会いを中心に進んでいき、大団円で彼女はその若い俳優が自分の息子であることを知るのである。

全体にチェーホフの劇と比べると幾分センチメンタルな感は否めない。しかし、妻の遺産で町の名士となり市長に立候補しよういう野望を持ち、彼女の存在が邪魔で早く追い出そうとするかつての恋人ムーロフを横に見ながら、息子に「あなたの父親は探すには値しない人よ…中略…あなたは立派な俳優になるわ、名字は誇りを持って私の名字を名乗るの。それは他のどんな名字にもひけをとらないわ」という彼女の最後のモノローグには苦労しながらもようやく自分の道を見つけた女優の自信と誇りが響いている 39)。

そして、このような俳優の賛歌はすでに1871年の名作『森林』(Лес)のなかでも高らかに響いているのである。主人公のネスチャストリーフツェフは貴族の家に生まれながら、両親に早く死なれ、今では旅芸人に身を落としている。自分の育て主の伯母の領地のそばを通りかかった彼は、15年ぶりに会いたいと思い立ち退役軍人と身分を偽り、同僚の役者を従者にしたてて訪れる。

だが、そこで彼が見たのはうわべでは信心深い女性を装いながら、遠い親戚の娘アクシーニヤの婿にと呼びよせた若い軽薄な男に恋をし、アクシーニヤを領地から追い出そうとするが、彼女には持参金を付けてやるのも惜しい打算的な伯母の姿であり、彼女の元で苦しむアクシーニヤの姿だった。絶望したアクシーニヤが湖に入水しようとするのを助けた彼は、せめて千ルーブルの持参金をつけてあげるようにと裕福な伯母に懇願する。しかし冷たく拒絶された彼は自分の権利として譲り受けた有り金全部をアクシーニヤの持参金に譲り、貴族たちを前に「道化師ですって? いいや我々は俳優です。高潔な俳優です。道化師はあなた方です。…中略…助けるときには有り金を全部だしても助けます。でも、あなたたちは…」 という有名なモノローグを述べて、再び徒歩で旅に出るのである40)。

殊に最後の彼のモノローグは男と女の違いはあれ、「わたしはかもめ。いいえ、そうじゃない…中略…私はもう本物の女優なの。……わたしは楽しく、喜び勇んで役を演じて、舞台に出ると酔ったみたいになって、自分はすばらしいと感じるの」という戯曲『かもめ』のニーナのセリフと重なる部分が多いように見える 41)。

なお、この「自由劇場」のレパートリイには、チェーホフやオストロフスキーらの戯曲のほかにはゴーリキーの『どん底』やドストエフスキーの『白痴』の劇化、そして、西欧の作家ではイプセンの『海の夫人』、ハウプトマンの『織工』が入っていた。これらの戯曲はこの集団の傾向をはっきりと物語っているだろう。

「自由劇場」の舞台では上演されなかったが、やはりキルチェフの訳で第一次世界大戦後に「国民劇場」の舞台で演じられた『温かみのない光』についても簡単に見ておきたい。これはオストロフスキーが若い劇作家ソロヴィヨーフと共に1881年に書き上げた戯曲であり、美しく才能がありながら暇を持て余している若い女地主が森林を売り払うために一時的に領地に戻ってき、暇つぶしのために、生真面目な若者を誘って楽しい日々を過すが、その間に初めは彼女に冷たく振る舞っていた青年が次第に夢中になり、それを知った青年の恋人が自殺し、責任を感じた若者も自殺するという暗い内容の戯曲であり、ここには俳優も登場しない。

しかし地主が森林を売るために一時的に領地を訪れるという筋はチェーホフの『桜の園』や『ワーニャ伯父さん』にも共通のものであり、殊に、セレブリャコーフ教授の若い妻エレーナはその美貌でワーニャや医師アーストロフを魅惑して夢中にさせ、アーストロフに「あなたはこの世で、何ひとつする仕事のないひとだ」と批判させながら、同時に「僕はすっかりのぼせあがって、まるひと月というもの何ひとつやらなかった」と言わさしめているのである42)。

シマチョーワ氏の論文によりながら、その後の歩みを簡単に見ておきたい。1906年に「国民劇場」にチェコ人のシュマハ(Йозев Шмаха,1845~1915)が新しい演出家になり「自由劇場」の要求が入れられた。それに伴って「自由劇場」は解散し、俳優たちは国民劇場に戻った。国民劇場の歩みはこれ以降も平坦なものではなく危機や創作能力の低下した時も経験したが、創立された時からこの劇場はずっと国の文化生活の中核を担ったといえるだろう。「国民劇場」は初めから国家予算で運営されたが、1907年には劇場の新館の開場式が荘重に取り行われた。レパートリイの面では「涙と笑い」の舞台にかけられた『狼と羊』が残っていたが、さらに、1907年から翌年にかけて『収入の多い地位』と『森林』が上演された。

キルチェフは、1908年2月16日付けの手紙で劇の成功を師モロゾフ(П.О.Морозов,ペテルブルグ演劇学校の教師)の息子に次のように伝えている。

「今週私達の『国民劇場』の舞台で『森林』と『収入の多い地位』が相次いで上演されたことをとり急ぎお伝えします。しかも両戯曲は未曽有の成功を収めました。大変な大成功でした。『森林』は既に超満員の劇場で演じられ、これからも続演されます。一方、『収入の多い地位』も多くの観客を集め続けています。『森林』ではネスチャストリーフツェフの役を、翻訳者でもある私が演じ、スチャストリーフツェフの役はやはりダヴィドフの弟子のР.ストイツェフが演じました。数日中に第二幕の一場面の写真をお送りします。『収入の多い地位』ではジャードフの役をК・サラフォフが、ユーソフの役をН・ガンチェフが演じています。(二人共レンスキーの教え子です)。この週間を『オストロフスキーの祝典』とすら呼んでもいい位です」。

劇『森林』はロシアの演出家イワノフスキーの演出で上演され、キルチェフとストイチェフの他には女地主ライーサの役をスネージナが、アクシーニヤの役をストイチェフの夫人ストイチェワが、そして彼女の恋人ピョートルの役をキーロフ、さらに彼の頑固な父の役をガンチェフが演じた。

この時演じられた『収入の多い地位』は、この劇団の歴史の中で一時期を画するものとなり、劇評の一つは初日の熱狂を次のように伝えている。「観客は戯曲のすばらしい演技と舞台で彼らの眼前に示された形象に歓喜した。現在の体制が舞台の観客の前にありありと描き出されたことに、観客は全員が一致して満足の気ちを何回も表現したのだった。観客が等しくした感激は、鳴り止まぬ嵐のような拍手となってあらわれ、その場にいあわせたすべての者を感動させた」。この劇は翌年のマケドニアへの客演のレパートリーにも取り入れられた。サラフォフとガンチェフ以外ではストヤノフ夫妻がヴィシーネフスキイ夫妻の役を、ベログーボフをキーロフが演じている。

同じく1908年にはゲオルギー・ゲー(Георгий Ге)のドラマ劇団がブルガリアで公演したが、そのレパートリーの中には『罪なき罪人』も入っていた。この劇はブルガリアの観客の間でも大評判となったが、「演劇と芸術」の特派員ベルベンコは、解放者であるロシア人の劇団がブルガリア人の間で温かく迎えられたことを紹介し、さらに、クルニチナを演じたホルムスカヤは「見事に自分の役を演じて非常な能力を発揮した。…中略…涙が流れ出たが、私達はそれを恥とはしなかった」というブルガリアの劇評を紹介している。この劇はソフィアの他にプロヴディフ、トゥルノヴォ、ヴァルナの各都市でも演じられた。

また、1901年から1912年にかけてブルガリアには、俳優と監督を兼ねたイコノモフによって指導される強力な移動劇団「現代劇場」があった。この劇場のポスターには『収入の多い地位』と『森林』の二つが載っていた。1968年に雑誌『演劇』にはこの劇場の俳優アナスタソフの日記が載ったが、そこにはこの劇場が1911~1912演劇年度に14のレパートリイを持ち、171回の上演をしたが、そのうちの26回が『森林』であったことが記されている。

以上、簡単にではあるが、ブルガリア演劇の発達におけるオストロフスキー劇の役割を一瞥した。シマチョーワ氏はブルガリアにおいてオストロフスキー劇での関心が生まれたのは、劇場の組織への関心からばかりでなく、演技の問題とも当然深くかかわっていると指摘し、オストロフスキー劇の演技者たちは、単にロシアの著名な俳優たちから演技をまなんだのではなく、オストロフスキー劇の登場人物たちのきわめて独自なタイプや、彼らの行動の鋭い心理的な動機付けも俳優を育て、彼らの専門的な芸に磨きをかけて、俳優たちの人間や文化に対する理解を深めたのである、と記している43)。

実際、俳優を主人公にしたオストロフスキーの劇は、彼らの苦しみや人道的なモノローグを通して単に観客に温かい人間的な感情を呼び起こしただけではなく、演じる側の俳優にも職業としての自覚や誇りを持たせたことも確かであると思う。たとえば絶望して身を投げようとしたアクシーニヤに女優になるようにすすめ「ここではお前の泣き叫ぶ声にも答えはない。しかし舞台ではお前の一粒の涙に何千もの目から涙が落ちるのだ」と語って一緒に巡業しようと説く、ネスチャストリーフツェフの言葉は説得力に富んでいる44)。

こうして、オストロフスキー劇はブルガリア近代演劇の成立に大きな役割を果したが、第一次世界大戦が始まるとブルガリアはドイツと提携し、1915年にロシアの使節団はソフィアを離れた。それと共に「国民劇場」で6年間演出家の地位にいたР・イワノフスキーも又、ロシアに帰国した。長い空白の期間を経て、ブルガリアにおけるオストロフスキー劇は新しい段階を迎える45)。

ブルガリア、ソフィア大学ブルガリアSt_Clement_of_Ohrid

(ブルガリア・ソフィア大学と聖クリメントオフリドスキー出典はブルガリア語版「ウィキペディア」)

 

1.Т.А.Симачева,′Островский в Болгарии′,Литературное наследство,т.88.А.Н.Островский, кн.2 Наука,Москва,1974,   с.351~372

2.Стефан Каракостов,′Драматургията на Чехов на Българската сцена′, ″А.П.Чехов,1860~1960″,Българска Академия на науките, София,1961,с.54

3.Александр Николаевич Островский,Полное собрание сочинений в двенадцати томах,Москва, Искусство,1973~1980.

4.R・ヒングリー、『一九世紀ロシアの作家と社会』川端香男里訳、中公文庫、昭和59年,220頁。

5.中村喜和・灰谷慶三・島田陽著『ロシア文学案内――世界文学シリーズ』(朝日出版社、昭和52年)によれば以下の6つの戯曲が日本語に訳されている。

『収入ある地位』(「世界古典文庫」) 石山正三訳 日本評論社 昭22

『賢者の抜け目』(「世界戯曲全集」24) 熊沢復六訳 其刊行会  昭2

『どんな賢者にもぬかりはある』(「世界古典文庫」)  石山正三訳 日本評論社 昭24

『狼と羊』(世界文庫)、 石山正三訳 弘文堂   昭23

『森林』(「世界戯曲全集」24)、熊沢復六訳 其刊行会  昭2

『嵐』(「近代劇大系」16) 、米川正夫訳 其刊行会  大13

『嵐』(「ロシア文学全集」35)、米川正夫訳 修道社   昭34

『雷雨』(「世界戯曲全集」23)、矢住利雄訳 其刊行会  昭3

『雷雨』(「近代劇全集」27)、山内封介訳 第一書房  昭3

『雷雨』(ロシア・ソビエト文学全集1)、米川正夫訳、平凡社  昭41

『雪姫』(「世界童話大系」20)、松田衛訳  其刊行会  大13

『雪姫』(「世界少年少女文学全集」31)、池田豊訳  創元社   昭29

 

6.第二章は主として次の本を参考にしてこの時期のブルガリア史を概観した。

Ⅰ.マリン・V・ブンデフ,「ブルガリアのナショナリズム」,『東欧のナショナリズム――歴史と現在』,287~367頁,刀水書房,1981.

Ⅱ.″Болгарская литература,хрестоматия″,Высшая школа,Москва,1987.

Ⅲ.В.Д.Андреев,″История болгарской литературы,Высшая школа,Москва,1987.

Ⅳ.″Кратка българска енциклопедия  в 5 тома,Бьлгарска Академия на науките, София,1963.

7.1812年のブカレスト条約以降ベッサラビア(現在のモルダビア社会主義共和国)  には約4万のブルガリア人が移住した。

また、南ロシアのオデッサにも「オスマン・トルコの鎖から逃れて何千ものブルガリア人が移民して」、「19世紀の中頃に、オデッサはブルガリア国外の文化の中心の一つとなった」。オデッサにはその一室がブルガリア文学に当てられている国立文学博物館がある。その博物館が発行している博物館案内から、ブルガリアとのかかわりのある部分を要約して引用しておこう。「オデッサにはブルガリア史のロシア人研究家Ю・ヴェネリと、В・チェプリャコフが住んでいた。1841年にはブルガリアの教育や出版活動の様々な面について述べたアプリロフの『ブルガリアの教育のありかた』という本がここで出版され、1840年代にオデッサはトルコからの独立運動に参加したブルガリア人たちの避難所となった。Г・ラコフスキもここに住み、『ブルガリア語の手引き』などを出版したが、それらはブルガリアやロシアの若者の間で大評判となった。作家イヴァン・ヴァーゾフ(Иван Вазов,1850~1921)も又オデッサに住み、短編や1876年の4月蜂起を招いた長編『くびきの下に』の一部を書き上げた。後に彼は『私は約一年間オデッサに追放になったが、この追放の期間に感謝している』と書いている。1881年にオデッサで学んだアレコ・コンスタンチノフ(Алеко Константинов,1863~1897)はプーシキン、シェフチェンコ、レールモントフ等の作品をブルガリア語に訳した」(Одесский государственный литературный  музей: Путеводитель,Одесса,Маяк,1986,стр.131~133)

8.ツルゲーネフの『その前夜』とオストロフスキーの戯曲などとドストエフスキーの新しい理念の模索との関わりについては、拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2000年、72~74頁参照。『その前夜』の構造と『白夜』の構造との比較については、拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』成文社、2007年、192~195頁参照。

9.Д.Войников,″Ръководство за словесност″Виена,1874.с.127,より引用。

なお、Велчо Велчевはで、シシコフ(Т.Н.Шишков)もオストロフスキーに言及していると指摘している。(Българо-руски литературни взаимоотношения през ⅩⅨ-ⅩⅩ в、с.45、с.47)

10.この戯曲の抜粋は1877年にブルガリアで、作品集『スラヴの兄弟』にロシア語で掲載された。

11.Островский А.Н.,Полное собрание сочинений в двенадцати томах. Москва,Искусство,1973~1980. т.6,стр.568.(以下、オストロフスキーの全集は巻数とページ数のみを記す)

12.К.Державин.Болгарский театр.М.Л.,1950,стр.95.

13.″Рабство Мужей″,Полное собрание сочинений,т.9,стр.568.

14.Там же,стр.612.

15.マリン・V・ブンデフ,前掲論文,329頁

16.Т.Симачева,там же,стр.352

17.なお、この「涙と笑い」という名前とはブルガリア演劇史の中で度々出会うが、1909年から1930年にかけて様々な時期に5つの劇団がこの名前で存在していた。

18.Т.Танев. Спомени от първите години.《Театър》,1954,№12,стр.29

19.А.В.Каменец-Бежоева.Театр в Болгарии,《Театр и искусство》,1906,№38,стр.581

20.Л.Атанасова. Островски и столичната драматическа трупа 《Сълза и смях》 пред 90те години на миналия век.

21.Т.1,стр.374.

22.Т.3,стр.192.

23.Т.3,стр.210.

24.Т.3,стр.238.

25.С.Каракостов.Васил Кирков.-В кн.:《Годишник на Висшия институт за театрално изкуство 《Кръсто Сарафов》,т.2,1957、 София,1958,стр.19.

26.В.М.Масалова. На родной чужбине.-《Петербугский дневник театрала》,1904,№17,стр.7.

27.Васил Наллбуров,1863~1893。スタラ・ザゴラ市で生まれ、ニコラエフ市で教育をうけ、1890年から首都オペラ・ドラマ劇団の俳優となり、後に劇団「涙と笑い」の支配人となり、ゴーゴリの『検察官』、『結婚』を上演した。また、俳優としてもシラーの『たくらみと恋』のヴルム,ドルメフの『アッセンの殺害者、イワンコ』のイサクなどの役を演じた。

28.Т.Симачева,там же,стр.352.

29.Т.10,стр.432.

30.Т.10,стр.248.

31.Т.8,стр.11.

32.Т.8,стр.16.

33.Ф・М・Достоевский,Полное собрание сочинений,т.28,стр.23.なお、拙論「ドストエーフスキイとオストロフスキー(2)」東海大学紀要,第10輯,1990年、94~95頁参照。

34.Т.4,стр.

35.Т.Симачева,там же,стр.354

36.《Софийски ведомости》,1903,№146.стр.3.

37.Стефан Каракостов,′Драматургията на Чехов на Българската сцена′,″А.П.Чехов 1860~1960″,Българска Академия на науки

те, София,1961,с.54.

38.Записка по поводу проекта 《Правил о премиях императорских театров за драматические произвдения》,Полное собрание сочинений,т.10, стр.224.

39.Т.5,стр.424.

40.Т.3,стр.337.

41.А・П・Чехов,″Чайка″,Избранные произведения в 3 т,т.3 стр.428.(チェーホフ、『かもめ』、神西清訳、新潮文庫、97~98頁)。

42.А・П・Чехов,″Дядя Ваня″,Избранные произведения в 3 т,.т.3 стр.470~471. (チェーホフ、『ワーニャ伯父さん』、神西清訳、新潮文庫、184~185頁)。 43.Т.Симачева,там же,стр.360

44.Т.3,стр.313.

45.1967年にブルガリアには39の劇場があった。その内28がドラマ劇場、人形劇場が8箇所、残りの3つが軽演劇場である。

 

本稿の執筆に際しては、下記の日本語文献も参考にさせて頂いた。

『ロシヤ十九世紀文学史』上・下、岡沢秀虎著 早稲田大学出版部、昭51

『ソビエト文学史』 マークス・スローニム著 池田健太郎・中村喜和訳、新潮社、昭51

『ロシア文学の理想と現実』 P・クロポトキン著 高杉一郎訳、岩波書店、昭59

『ロシア・ソヴェート文学史』、昇曙夢著、昭51

『ロシア文学史』 木村彰一、北垣信行、池田健太郎 明治書院、昭47

『ロシア文学史』 川端香男里著  岩波全書、昭61

『ロシヤ文学案内』 金子幸彦著 岩波文庫、昭36

なお、本論の執筆に際しては小船井文司教授より貴重なご助言を頂いた。

        (『バルカン・小アジア研究』第16号、1990年)

 

ドストエフスキー生誕記念国際会議(1996年)に参加して

「ドストエフスキーと世界文化」と題する国際会議が、1996年11月11日から17日まで、モスクワ大学文学部、ロシア・文化省、国立文学博物館およびサンクト・ペテルブルクのドストエフスキー博物館の四者の共催で行われた。

ドストエフスキーの誕生日に当たる11日には彼のためのミサやドストエフスキー博物館前の作家の像への献花が行われた。この後に博物館の見学や、ドストエフスキー関連のモスクワ見学が組まれ、文学博物館における「ドストエフスキーの世界」と題する展示会の開会式も行われた。

モスクワ大学で行われた12日の開催式に際しては、カターエフ教授の司会で文化省の大臣や修道院長が祝辞を読み上げた他、ドストエフスキーの偉大さをたたえたエリツィン大統領の病院からのメッセージも伝えられた。「ドストエフスキー協会」会長のヴォルギン氏は、外国の諸都市やサンクト・ペテルブルクなどで行われてきたドストエフスキーの国際会議が、初めて作家の生まれたモスクワで行われることの意義を強調した。

参加者の一番の注目を引いたのは、プログラムには載っていなかったソルジェニーツィン氏が壇上に呼ばれた時であった。氏はその短い講演で「ドストエフスキーは、アレクサンドル2世の暗殺の前に亡くなったが、もし彼が生きていたらそのニュースをどのように感じただろうか」と問いかけたあと、「もし彼が、現在のロシアの混乱や貧困を見たらどう感じるだろうか」と言葉を継いで、ロシアの現状を厳しく批判した。そして「ドストエフスキーはロシアの作家や哲学者のうちで、未来への洞察力の最もある予言者であった」とし、彼の作品をさらに注意深く読む必要があることを参加者に訴えた。

翌日の『СЕГОДНЯ』紙は、ソルジェニーツィンの発言に関連して、現在、ロシアでは『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』などとともに『虐げられた人々』が当面の緊急課題となっていると報じていた。実際、ロシアの政治的経済的な混乱は、この国際会議にも暗い影を落としていたようだ。

その一つは本場ロシアでの開催にもかかわらず、治安の問題のせいだろうが、モスクワでは国際ドストエフスキー学会(IDS)の主立ったメンバーをほとんど見ることが出来なかったことである(15日から行われたサンクト・ペテルブルクの会議には、イギリスのキリーロワやシンプソン、アメリカのボグラードなどの研究者が参加した)。また、移動の時間などに余裕がなかったため、外国からの参加者は会議の最中にも、宿泊や列車の手配などの手続きをせねばならぬ事態も起きた。

他方、ロシア人報告者も欠席や新たな発表者の挿入などの変更が目立った。このためプログラムに記されたことがらが大きく異なり、またレジュメの書かれたプリントなども配られなかったので、変更内容が分からないような状態にもおちいった。

会議の終了後にあるロシア人教授にこのような混乱の理由をたずねると「たとえば、私の月給はわずか100ドルなんですよ」との一言が返ってきた。多くの参加予定者にとっては旅費を捻出すること自体がすでに困難だったのである。

こうした状況を考えれば、2都市にわたり130名近い発表者がいた国際会議がこれといった大きな混乱もなく終了したこと自体が成功と言えるだろう。先に挙げた研究者以外では、ルーマニアのコヴァチ、ベラルーシのレナンスキイ、さらにフランスのアレンなどの各氏の他にもドイツ、イタリアさらにクロアチアの学者の姿も見えた。日本からは糸川紘一氏が「『罪と罰』におけるパラドックス」と題する報告を行い、私は「ドストエフスキーとオストロフスキー」という発表を行った。ロシア側ではトゥニマーノフ、ザハーロフ、ステパニャン、ヴェトローフスカヤ、サラースキナといったIDSへの常連の参加者が自ら発表を行う一方、適切な司会もこなして議論を盛り上げた。興味深い発表も多かったが、ここでは議論を呼んだいくつかの発表を中心に紹介することにしたい。

ポーランドのラザリ氏のテーマ「ソボールノスチについて」は、これまでのIDSでのドストエフスキーとロシアのナショナリズムの問題の考察の続きといったもので特に目新しいものではなかった。しかし、IDSでは通常激しい批判と拍手が相半ばする氏の発表だが、「ロシアの民衆の主な特質についてのドストエフスキーの考察」や「ロシアの理念」といった発表が続いたセッションでは明らかに孤立しており、このようなテーマを客観的に論ずることの難しさを感じた。

この点で興味をひいたのは、ドストエフスキーの作品をカトリックの論理的な言語であるフランス語に訳す際の様々な困難について朴訥に語り、聴衆の共感を呼んだ翻訳者の発表である。彼はフランス語の文語では単語の繰り返しなどが基本的には許されず、またラテン語の影響が強かったために<yбивец>というような用語がフランス語の口語に定着していないなどその難しさを指摘するとともに、最近、直訳に近い訳語でなされた劇が成功を収めていることをも報告して、ギリシア正教の理念を伝えるためには正確なロシア語訳の必要なことを強調した。

レールモントフやゴーゴリの場合にも言及しながら、ドストエフスキーの作品における「家と道」のかかわりについて語ったクレイマン女史の論理的な発表に対しては、家としての修道院をどのように考えるかとか、あまりにも抽象的なアプローチの仕方ではないかなどの質問や批判が相次いだ。しかし、女史は「私に手袋を投げたい人には、休憩の時間に対応します」と冷静に応じた。

おそらく最も議論を呼んだのは、サンクト・ペテルブルクに持ち越されたベローフ氏の発表であっただろう。氏は来年に刊行される予定の自著の『ドストエフスキー辞典』について語りながら、故フリードレンデル氏などが編集した30巻全集の欠点などを強い口調で厳しく批判した。このため司会者は感情的な議論は避けて下さいという前提で質問を受け付けたが、やはり議論は白熱したものとなった。

会議に併せて、期間中にモスクワドラマ劇場では脇役に光をあてるという意欲的な演出をした《白痴》の3部作が3夜にわたって上演された。サンクト・ペテルブルクでは普通の住宅の1室を改造した場所でごく少数の観客を対象に《おかしな男の夢》が上演された。この作品の重要性についてはいくつかの発表も言及していたが、狭い空間を利用して見事な出来であった。

なお、IDSの昨年の国際会議の後に日韓の発表論文集が北海道大学スラブ研究センターから刊行されたが、ロシアの「ドストエフスキー協会」と日本の「ドストエーフスキイの会」の共編という形で、それらの論文が今回発行された論文集『ドストエフスキーと世界文化』の第8集にロシア側の論文とともに掲載され、参加者の強い関心をひいた。こうした試みが今後も続けられることを期待したい。

(本稿では肩書きは省略し、HPへの掲載に際しては人名と国名表記を一部変更するとともに、文体レベルの訂正を行った)。

   「国際交流ニューズレター」(日本ロシア文学会国際交流委員会、No.8、1996年)

 

第9回国際ドストエフスキー・シンポジウム(1995年)に参加して

今回の国際ドストエフスキー・シンポジウムは、1995年の7月30日から8月6日までオーストリアのガミングで、100名近い参加者を集めて盛大に行われた。今回の報告は郡伸哉氏にお願いして第5号の『ドストエーフスキイ広場』に掲載される予定なので、筆者は今回は降りるつもりだったが、なるべく新鮮なうちにそれとは重ならないような話題で報告して欲しいとのことだった。それゆえ、前回のシンポジウムなどと比較しながら、シンポジウムの周辺のことを中心に簡単に書いてみたい。

 

シンポジウムが行われたガミングは地図にも載っていない地名なので、初めは会長であり今回の主催者であるノイホイザー氏の勤めるクラーゲンフルト大学の一部のことを指しているのかと思っていた。しかし予想とは全くことなり、そこは山岳地域に近く小川が流れる美しい村だった。会場となった赤い屋根のきれいな修道院は泊まり込みでの会議などに使われているようで、このシンポジウムのすぐ後にはショパンの会が予定されていた。修道院に入りきれない者は近くのいくつかの民宿に泊まることとなった。筆者は車で送り迎えしてもらわねばならないほど遠くのところに当たり、初めのうちは運が悪いと思っていたが、きさくなおかみさんが用意する朝食もうまく、また途中の景色もきれいで後半からはゆっくりと歩いて通った。

こうして筆者はこの長い期間を、もっぱら宿泊所と会場の修道院の間を往復しながらドストエフスキーに集中して修道僧のような(?)日々を過ごした。時間的にも通常は9時30分から18時30分まで30分コーヒー・ブレイクと昼食をはさんでびっしりと予定が組まれ、白熱した議論が展開された。

今回のシンポジウムでは『カラマーゾフの兄弟』の解釈を主調として、下記のような多くのテーマが設定されていた。

1、『カラマーゾフの兄弟』の解釈

2、ドストエフスキーをめぐる文学理論の新しい試み

3、現在のロシアのイデオロギー的な論争におけるドストエフスキー

4、ドストエフスキーの歴史的文脈論的な研究

5、ドストエフスキーの詩学、およびドストエフスキイーと宗教

6、ドストエフスキーの作品の解釈

(1、初期作品、 2、『罪と罰』、 3、『悪霊』)

7、比較文学的な考察

(1、ロシア文学とドストエフスキー、 2、外国文学とドストエフスキー)

ただ、多くの発表が2セクションで行われたことについては前回も問題点が指摘されていたが、今回も参加者が多数だったためと議論に多くの時間を取ったために(25分程度の論文発表の時間の後に質疑応答に20分程度が取られていた)、ほとんどの発表が3セクションに別れ、時間的に重なって聞けない発表が多く出たのが、残念であった。

しかし、修道院の他にはこれといった名所もなく、テレビも新聞もないという好環境の中では、一日のすべての発表が終わった後でも討論や意見交換の時間は有り余るほどあり、この問題もおのずと解決を見たと言えるだろう。前回のオスロでは7月29日から8月2日と短くせっかく3年ぶりに再会した学者ともゆっくりと懇談する時間が少なく筆者もこの点に不満が残ったが、今回はガミング市長主催の晩餐会や閉会式後の晩餐など様々な機会に多くの研究者と心ゆくまでじっくりと話し合う時間が持てて有意義であった。

(シンポジウムの期間中にバスによるメルク修道院の見学とドナウ川沿いの小旅行が実施されたが、午前中の発表を終えてから真夜中の12時まで組まれていたために、ドイツ人は――実際はオーストリア人だが――、日本人と同様に勤勉すぎるという批判が一部から出されていた。しかし、このような不満もビールを飲みながらの夜の歓談にいつしか消え、皆満足して家路についていたようだ)。

私は「ドストエフスキーと『知恵の悲しみ』――良心の問題という視点から」という題名で発表した自分の論文の内容に関連して核実験の廃止も訴えたが、浮き世とは隔絶した環境の中で行われたとはいえ、このシンポジウムも世界の流れとは無関係ではありえなかった。たとえば、シンポジウムに参加しようとしたユーゴの学者に対して入国のビザが出されなかったことを雑談の中で知ったが、折からクロアチアの軍隊が自国内のセルビア人に攻撃をしかけていたこともあり、国連はセルビア人勢力には厳しいがクロアチアに対しては甘いといった批判もロシアや東欧の学者からは聞こえてきた。

また、チェチェンの問題に関連してロシア人の参加者からは、少なくとも軍隊ではもはやエリツィン大統領はまったく人気がなく、彼と比べればジリノフスキーの方がはるかに人気があるという発言もあった。なぜかと問うと、前者は一度もチェチェンに行かなかったが、後者は実際に行って兵士を励ましたからだと言う。そして、彼は経済状況の悪化の中で多くの庶民は政治に対して幻滅しており、政治家の理想の高さではなくどのように行動するかによって判断する傾向にあると分析し、それゆえ、エリツィンを批判して退官することになった元将軍でさえ今度の大統領選挙で勝つ可能性があるとのことであった。折からの日本の選挙の投票率の低さを思い出して身につまされながら聞いていたが、確かにロシアの将来はまだまだ楽観を許すものではないようだ。

今回の一番の特徴は、インドから参加した学者がヒンズー教や禅とドストエフスキーの思想を比較し、韓国から来た学者が朝鮮出身の文学者A・キムとドストエフスキーとの係わりを論じるなどアジアから多くの研究者が参加したことだろう。ことに日本からはこれまでの最高の7名の研究者が大挙参加した。しかも、印象的だったのは多くの学者がこのような事態を奇異なものとは捉えずに、むしろアジアや日本の実力からすれば当然のように受け入れていたことである。

このような状況を受けて木下豊房氏が「国際ドストエフスキ―学会」(IDS)の副会長の一人に選出され、また北海道大学の安藤厚氏が日本のコーディネーターに選出された。

次回のシンポジウムはニューヨークで開催されることが決まったが、今回を上回る方が参加されることを期待したい。また、筆者も何人もの学者から今度は日本でもぜひ開催して貰いたいとの要望を聞いたが、アジアにおけるドストエフスキーの受容などをテーマに日本でも開催すべき時期が来ているのかも知れない。

(本稿では肩書きは省略し、HPへの掲載に際しては人名と国名表記を一部、変更するとともに、文意を正確に伝えるために最低限の訂正を行った)。

(ドストエーフスキイの会「ニュースレター」第22号、1995年8月)