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ブログ・タイトル一覧1 (20137月7日~8月17日)

「《風立ちぬ》Ⅱ――大地の激震と「轟々と」吹く風」を、「映画・演劇評」に掲載しました(8月17日)

三宅正樹著『文明と時間』(東海大学出版会、2005年)を「書評・図書紹介」に掲載しました日(8月16日)

終戦記念日と「ゴジラ」の哀しみ(8月15日 )

齋藤博著『文明のモラルとエティカ――生態としての文明とその装置』(東海大学出版会、2006年)を「書評・図書紹介」に掲載しました(8月14日)

「アニメ映画《紅の豚》から《風立ちぬ》へ――アニメ映画《雪の女王》の手法」を「映画・演劇評」に掲載しました (8月13日)

「映画・演劇評」に「映画《赤ひげ》と映画《白痴》――黒澤明監督のドストエフスキー観」を掲載しました (8月12日)

「著書・共著」の『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011年)を更新しました(8月10日 )

「映画・演劇評」に「長崎原爆の日」にちなんで映画《八月の狂詩曲(ラプソディ)》を掲載しました(8月10日 )

「長崎原爆の日」と日本の孤立化(8月9日 )

「著書・共著」に『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』(東海教育研究所、2005年)を掲載しました(8月7日 )

麻生副総理の歴史認識と司馬遼太郎氏のヒトラー観(8月7日 )

消えた〈公論〉と司馬遼太郎氏の危惧(8月7日 )

消えた「時論公論」(?)(8月6日 )

原爆の危険性と原発の輸出(8月6日 )

『竜馬がゆく』と「震度5強」の余震(8月6日 )

汚染水の危機と黒澤映画《夢》(8月4日 )

「著書・共著」に『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、2002年)を掲載しました(8月2日 )

「大地主義」と地球環境(8月1日 )

汚染水の深刻さと劇《石棺》(8月1日 )

汚染水の流出と司馬氏の「報道」観(7月28日 )

「主な講演と市民講座」に、一覧を掲載しました(7月27日)

「お問い合わせ」に、コメントへの対応を掲載しました(7月25日)

「お知らせ」に日本トルストイ協会での講演を掲載しました(7月24日)

「映画・演劇評」に《もののけ姫》の評(1997年)を掲載しました(7月23日 )

アニメ映画『風立ちぬ』と鼎談集『時代の風音』(7月20日 )

「改憲」の危険性と司馬遼太郎氏の「憲法」観(7月19日 )

「映画・演劇評」に〈「蟹工船」と『死の家の記録』――俳優座の「蟹工船」をみて〉を掲載しました(7月17日 )

「ブラック企業」と「農奴制」――ロシアの近代化と日本の現在(7月17日 )

TPPと幕末・明治初期の不平等条約(7月16日)

憲法96条の改正と「臣民」への転落ーー『坂の上の雲』と『戦争と平和』(7月16日)

大河ドラマ《龍馬伝》の再放送とナショナリズムの危険性(7月14日)

戦車兵と戦争ーー司馬遼太郎の「軍神」観(7月14日)

講座「『草枕』で司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を読み解く」のレジュメを「主な研究(活動)」に掲載しました(7月14日)

デモクラTVと東京新聞を推薦しますーー新聞報道の問題と『坂の上の雲』(7月12日)

「お知らせ」のページを開設し、『司馬遼太郎の視線(まなざし)ーー「坂の上の雲」と子規と』の予告を掲載しました(7月12日)

「映画・演劇評」に「映画《福島 生きものの記録》(岩崎監督)と黒澤映画《生きものの記録》を掲載しました(7月11日)

「主な研究活動」に「『地下室の手記』の現代性――後書きに代えて」を掲載しました(7月9日)

「主な研究活動」に大木昭男氏の例会発表の傍聴記を掲載しました(7月9日)

「映画・演劇評」に「劇《石棺》から映画《夢》へ」を掲載しました(7月8日)

「主な研究活動」に〈「不注意な読者」をめぐってーー黒澤明と小林秀雄の『白痴』観〉を掲載しました(7月8日)

ホームページを開設しました(7月7日)

年表3、「司馬遼太郎とロシア」関連年表

リンク→「年表」タイトル一覧

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(表紙の日露戦争関連図版は、稲葉千晴氏所蔵による)。

 

年表3、「司馬遼太郎とロシア」関連年表

紀元前91年頃(前漢、武帝の時代)  司馬遷『史記』を完成。 →司馬遼太郎というペンネーム

*   *   *

1769年 高田屋嘉兵衛、淡路島の貧しい農家の6人兄弟の長男として生まれる。

→『菜の花の沖』。【ナポレオン、コルシカ島に生まれる】。

1783年 大黒屋光太夫、アムチトカ島に漂着。

→井上靖『おろしや国酔夢譚』。

1789年 国後(クナシリ)でアイヌの反乱。【フランス革命】。

1790年 高田屋嘉兵衛、兵庫に出て樽回船の水夫(かこ)になる。

1792年 第1回ロシア使節ラクスマン、大黒屋光太夫等を伴って来日。

1794年 桂川甫周、大黒屋光太夫からの聞き取りで『北嵯聞略』を書く。

1798年 高田屋嘉兵衛、北海道に進出、貧しい漁港だった箱館に本拠地をおく。

1799年 高田屋嘉兵衛、幕府から依頼されクナシリ、エトロフへの航海ルートを発見。 【ロシア、アラスカにシトカ建設】。

1800年 高田屋嘉兵衛、エトロフ島の開発権を得る、アイヌの人々との関係を改善。

1804年 第2回ロシア使節レザーノフ来日、交渉決裂。 【ナポレオン皇帝となる】。

1805年 【アウステルリッツの戦い】。→トルストイ『戦争と平和』。

1806年  レザーノフの部下、フヴォストフ、樺太や利尻島の松前藩会所や船を襲う(~07年)。

1808年 間宮林蔵、樺太探検。イギリスの軍艦フェートン号、長崎に入港し荒掠。

1811年 ディアナ号艦長ゴロヴニーンら捕らえられる。

1812年 高田屋嘉兵衛、捕らえられる。【ナポレオン、ロシア侵攻(「祖国戦争」)】。

1813年 高田屋嘉兵衛の尽力でゴロヴニーンら釈放される。

*   *   *

1825年(文政8) 異国船打払令。 【ロシア、デカブリストの乱】。

【日本の文明度を高く評価したゴロヴニーンの『日本幽囚記』(1816)の翻訳(馬場貞由他訳)が完成】。

1836年(天保7) 【チャアダーエフ「哲学書簡」で『日本幽囚記』に言及】。

1839年(天保10) 渡辺華山『外国事情書』において改革のモデルとしてピョートル大帝の改革を挙げる。

1840年(天保11) 佐久間象山、海軍建設の必要性を説き、ピョートル大帝の改革にふれる。

【アヘン戦争始まる(~42年)】 →『世に棲む日日』。

1853年(嘉永6)   6月、ペリー浦賀来航 → 『竜馬がゆく』。7月、ロシアのプチャーチン長崎来航

10月、【ロシアとトルコの間でクリミア戦争(~56年)、翌年3月、英仏もロシアに宣戦布告】。

1854年(安政1) 1月、ペリー再来日。3月、日米和親条約。10月、日英和親条約。

1855年(安政2)   2月、日露和親条約。【2月、ニコライ一世死去。アレクサンドル二世即位。トルストイ「セヴァストーポリ物語」】

1858年(安政5) 井伊直弼、日米修好通商条約を結ぶ。安政の大獄が始まる。

1861年(文久1)   【ロシア、農奴解放令、アメリカ、南北戦争(~65年)】。

『日本幽囚記』を読んで感激したロシア正教の宣教師ニコライが箱館に着任。

1862年(文久2) 幕府の西欧への使節団がロシアのペテルブルクも訪れる。

1867年(慶応3)  6月、坂本龍馬、「船中八策」を成文化。11月、龍馬暗殺される→ 『竜馬がゆく』。

12月、王政復古の大号令。正岡子規、夏目漱石生まれる →『坂の上の雲』。【ロシア、アラスカをアメリカに売却】。

1868年(明治1)  1月、戊辰戦争始まる(~69年)。秋山真之、徳冨蘆花生まれる。

【ドストエフスキー「白痴」】。

1869年(明治2) 【ダニレフスキー「ロシアとヨーロッパ」】。

1870年(明治3)  【普仏戦争(~71年)】。

1871年(明治4)  廃藩置県、岩倉使節団、欧米へ出発。【ドイツ帝国成立】→『翔ぶが如く』。

1872年(明治5)  福沢諭吉『学問のすゝめ』(初編)、8月、学制発布、10月、徴兵令を制定、太陽暦を採用、皇紀の制定。

1876年(明治9)  3月、廃刀令、10月、熊本神風連の乱、秋月の乱、萩の乱 →『殉死』

1877年(明治10)  秋山好古、陸軍士官学校に入校、西南戦争。

1879年(明治12)  正岡子規、秋山真之、松山中学校入学。福沢『民情一新』。

1881年(明治14)  【アレクサンドル二世暗殺】、1889年の国会開設の詔勅。

1889年(明治22)  森有礼暗殺される、大日本帝国憲法発布。

1890年(明治23)  9月、漱石、子規、東京帝国大学入学。10月、「教育勅語」発布。

1891年(明治24)  1月、内村鑑三の不敬事件。5月、皇太子ニコライ大津で襲撃される。

1894年(明治27)  7月、日清戦争始まる(~95年)。

1895年(明治28)   子規、日清戦争に従軍、講和条約と三国干渉。

1896年(明治29)   山県有朋、ニコライ二世の戴冠式に出席。

1897年(明治30)   松山で『ほととぎす』創刊、蘆花「トルストイ」、「不如帰」(~99年)。

1898年(明治31)   発行所を東京に移し、『ホトトギス』第一号。

1902年(明治35) 日英同盟締結。

1904年(明治37) 2月8日 日本の連合艦隊、旅順を奇襲、

2月10日、宣戦布告、2月~5月、旅順口閉塞作戦、8月、旅順攻撃開始(~1905年1月)、

8月、トルストイの「悔い改めよ」の翻訳が『平民新聞』に掲載。9月、遼陽を占領、兵役年限の延長。

1905年(明治38) 【1月、ロシアで「血の日曜日事件」】。5月27~8日、日本海海戦、

【6月、ポチョムキン号の反乱】、9月5日、ポーツマス条約調印、日比谷焼打ち。

【10月、ニコライ二世、国会開設を宣言】。

1906年(明治39)  6月、徳冨蘆花、トルストイ訪問、「勝利の悲哀」、「順禮紀行」。

1908年(明治41) 蘇峰、改訂版「吉田松陰」、漱石、「三四郎」。

1909年(明治42) 伊藤博文、ハルビンで暗殺  。

1910年(明治43) 4月、雑誌『白樺』創刊、6月、大逆事件、8月、日韓併合、

9月、関寛斎、蘆花宅を訪問、 11月、トルストイ死去 →『胡蝶の夢』。

1911年(明治44) 1月、幸徳秋水など処刑、蘆花「謀叛論」、漱石「現代日本の開化」、辛亥革命。

1912年(明治45,大正1)  7月、明治天皇死去、9月、乃木大将殉死、10月、関寛斎自殺。

1914年(大正3)  漱石「こゝろ」、 第一次世界大戦(~18年)。

1916年(大正5)  蘇峰「大正の青年と帝国の前途」。

1917年(大正6)  ロシア革命、翌年、日本は米英仏などとともにシベリア出兵(~25年)

1921年(大正10)   原敬暗殺される。高橋是清、首相となるが辞職。

1923年(大正12)  福田定一(司馬遼太郎)、大阪市に生まれる、関東大震災。

1925年(大正14)  普通選挙法、治安維持法が公布。

1930年(昭和5)  山中峯太郎「敵中横断三百里」、ロンドン海軍軍縮条約。浜口雄幸首相襲われる。統帥権干犯問題発生。

1931年(昭和6)  浜口首相、死亡、満州事変。

1932年(昭和7)  五・一五事件(犬養毅首相、暗殺)、高橋是清、臨時首相となる。

1935年(昭和10) 美濃部達吉の『憲法講義』が発禁処分となる。

1936年(昭和11) 福田、中学校に入学、二・二六事件で高橋是清など暗殺される。

1937年(昭和12) 文部省『国体の本義』発行、日中戦争(~45年)。

1939年(昭和14) ノモンハン事件、第二世界大戦(~45年)。

1941年(昭和16) 文部省『臣民の道』発行、国民学校令公布、真珠湾攻撃。

1942年(昭和17) 福田、大阪外国語学校蒙古語部に入学。

1944年(昭和19) 福田、学徒出兵で満州の戦車第一連隊の小隊長となる。

1945年(昭和19) 福田の連隊、栃木県佐野市に移駐、広島・長崎に原爆投下、ポツダム宣言受諾。

1954年(昭和29) 司馬「それでも、死はやってくる」 、 第五福竜丸事件。

1956年(昭和31) 「ペルシャの幻術師」。

1962年(昭和37) 「竜馬がゆく」(~66年)、  「燃えよ剣」(~64年)、 【10月、キューバ危機】。

1963年(昭和38) 「国盗り物語」(~66年)、「幕末」、  【ケネディ大統領、暗殺】。

1965年(昭和40)  【米、北ベトナム爆撃開始(~73年)】。

1966年(昭和41)「義経」(~68年)、「峠」(~68年)、 【中国、文化大革命】。

1967年(昭和42) 「殉死」(「要塞」「腹を切ること」)、 【EU発足】。

1968年(昭和43) 「坂の上の雲」(~72年)、「歳月」(~69年)。

大学紛争激化、【キング牧師、ロバート・ケネディ暗殺、ソ連・東欧軍、チェコ侵入】。

1969年(昭和44) 「世に棲む日日」(~70年)、「手掘り日本史」。

1970年(昭和45) 「日本歴史を点検する」。

1972年(昭和47)  「翔ぶが如く」(~76年)。

1973年(昭和48) 「竜馬像の変遷」、「モンゴル紀行」(~74年)、「空海の風景」(~75年)、

「人間の集団について――ベトナムから考える」。

1974年(昭和49) 「沖縄・先島への道」。

1975年(昭和50) 「土地と日本人」(~76年)。

1976年(昭和51) 「胡蝶の夢」(~79年)、「信州佐久平みち、潟のみちほか」。

1977年(昭和52)  「中国を考える」(~79年)。

1979年(昭和54)  「菜の花の沖」(~82年)、「ひとびとの跫音」(~81年)。

「北海道の諸道」、【イラン革命。ソ連軍、アフガニスタン侵攻(~88年)】。

1982年(昭和57) 「ロシアについて――北方の原形」、「箱根の坂」(~83年)。

1984年(昭和59) 「韃靼疾風録」(~87年)。

1985年(昭和60)  「アメリカ素描」。

1986年(昭和61)  「この国のかたち」(~96年)、「風塵抄」(~96年)。

1987年(昭和62) 「雑談『昭和』への道」放映(→「「昭和」という国家」)。

1989年(昭和64) 「「明治」という国家」、「オランダ紀行」(~90年)。

1991年(平成3) 「時代の風音」、「本郷界隈」(~92)、【1月、湾岸戦争、9月、ソ連邦崩壊】。

1996年(平成8)  2月12日、司馬遼太郎(福田定一)死去。

         (『司馬遼太郎とロシア』東洋書店、ユーラシア・ブックレット、2010年。2014年5月、追加・改正。柴村羊五『北海の豪商 高田屋嘉兵衛』亜紀書房、2000年などを参照)

 

年表4、応仁の乱から徳川幕府の成立まで

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司馬遼太郎と時代小説――「風の武士」「梟の城」「国盗り物語」「功名が辻」を読み解く』 (のべる出版企画、2006年)

 

年表4、応仁の乱から徳川幕府の成立まで 

西暦        年号       【】内には外国での出来事を示し、青い字で記した。

1467年(文明九) 応仁の乱(~1477)が始まる。 

1492年(明応元)    【スペインでレコンキスタ(再征服運動)終了】。

1527年(大永7)  斎藤道三、 国主の弟土岐頼芸を国主にすえる。

1534年(天文3)  織田信長(~1582)誕生。ヘンリー8世、、「国王至上法」を発布、イギリス国教会を分離成立】

1541年(天文10) 斉藤道三、国主土岐頼芸の嫡子を国外追放。

1542年(天文11) 斉藤道三、国主土岐頼芸の居城大桑を攻めて、追放。

1545年(天文14) 山内一豊(以下、一豊と略記)、尾張黒田に誕生

1547年(天文16) 尾張の織田信秀が稲葉城(金華山城)を攻めるが、落城せず。 【イワン4世(雷帝)、ツァーリとして即位】。

1552年(天文21)  【イワン4世、カザン-ハン国を併合】。

1553年(天文22) 4月織田信長、尾張冨田聖徳寺にて斎藤道三と会見。

1556年(弘治2) 斎藤道三、死亡(63歳)。イワン4世、アストラ-ハン国を併合。対外膨張へ】。

1557年(弘治3)       【ポルトガル、マカオを建設】。

1559年(永禄2) 信長、尾張統一。一豊の父が戦死。流浪始まる。エリザベス一世、「国王至上法」を法制化】。

1560年(永禄3) 桶狭間の戦。

1562年(永禄5)    【ユグノー戦争(カルバン派とカトリック派の抗争)始まる(~1598)】。

1567年(永禄10) 信長、斎藤龍興を攻め落とし、稲葉山城に入る。一豊、このころ信長方につき、千代と結婚。

1568年(永禄11) 9月、信長、足利義昭を奉じて上洛。10月、諸国の関所を撤廃させる。 京都に南蛮寺ができる。

1569年(永禄12) 4月、信長、フロイスに布教を許可する。

1570年(元亀元) 4月、信長朝倉義景を攻めるが、浅井長政の離反により退却。一豊、金ヶ崎城の戦に参戦。6月、姉川の合戦、9月、本願寺光佐(顕如)、信長陣営を攻撃(石山戦争始まる)。大村領長崎、教会領となる。11月、伊勢長島一向一揆、織田信興を殺す。

1571年(元亀2) 5月、信長、長島一揆の攻撃を開始。9月、比叡山焼打ち。スペイン、マニラ市を建設】。

1572年(元亀3) 12月、武田信玄、家康を遠江三方ヶ原に破る(三方ヶ原の戦い)。

1573年(天正元) 4月、信長、義昭を二条城に囲む。両者勅命により和睦。武田信玄没(53)。7月、(室町幕府滅亡。8月、信長、越前近江を攻略、朝倉義景自殺(41)、浅井長政、近江小谷城で自殺。浅井・朝倉滅亡。

1574年(天正2) 4月、本願寺光佐(顕如)、兵を挙げて信長の属城を攻める。9月、長島一向一揆、信長に降伏を申し入れる。信長これをうけつけず皆殺しにする。

1575年(天正3) 一豊、秀吉に従い長篠の戦に参加。

1576年(天正4) 2月、安土城が完成。4月、本願寺光佐(顕如)、義昭と通じ、石山城に拠って信長に反抗。

1577年(天正5) 2月、信長、紀伊雑賀一揆を攻める。6月、安土城下を楽市とする。 10月、一豊、秀吉に従い播磨に出陣。 【スペイン、ルソン島占領】。

1578年(天正6) 3月、上杉謙信没(49)。別所長治、本願寺と結び、反信長決起。11月、荒木村重、信長に叛く。

1579年(天正7) 3月、長宗我部元親、四国を制覇。5月、安土城天守閣できる。安土宗論行なわれる。7月、光秀丹波を平定。

1580年(天正8) 1月、三木城別所長治一族、秀吉に攻められ滅ぶ。閏3月、本願寺光佐(顕如)、信長と和睦。6月、イギリス商船、平戸に来航。

1581年(天正9) 2月、信長、京都で馬揃えを行ない、正親町天皇やヴァリニアーノこれに臨む。 8月、信長、高野聖千余人を斬る。10月、秀吉、鳥取城を陥す。信長、ヴァリニアーノに学校建設を許可。

1582年(天正10) 6月、本能寺の変。一豊、秀吉に従い山崎の戦に参加。

1583年(天正11) 一豊、秀吉に従い賤ヶ岳の戦に参加。  【女真人ヌルハチ挙兵(→『韃靼疾風録』)】。

1584年(天正12) 4月、織田信雄、家康と結び、小牧長久手の戦い。8月、秀吉、大坂城に移る。  11月、秀吉、信雄と和睦する。12月、秀吉、家康と和睦する。

1585年(天正13) 7月、秀吉、関白になり、姓を藤原に改める。8月、長宗我部元親、秀吉に降る。9月、秀吉、明国への侵攻を公言する。この年、聚楽第着工する。一豊、長浜2万石城主となるが、ひとり娘を長浜大地震で失う

1586年(天正14) 12月、九州動員令下される。秀吉、太政大臣となり豊臣の姓を受ける。

1587年(天正15) 6月秀吉、キリシタン禁制を発布。10月、北野に大茶会を催す。

1588年(天正16) 1月、秀吉が義昭に1万石の知行を与える。5月、長崎からキリシタンを追放。7月、刀狩令。この年、天正小判を鋳造。イギリス、スペインの無敵艦隊を破る】。

1589年(天正17) 9月、秀吉、諸大名に妻子の在京を命じる。11月、北条氏に宣戦布告し、諸大名に動員令を下す。秀吉、京都のキリスト教寺院を焼く。淀が鶴松を出産。ブルボン王朝始まる(フランス革命などで中断、~1830年)】。

1590年(天正18) 一豊、北条攻めに参加。近江掛川の5万石城主となる。

1591年(天正19) 2月、千利休自殺。8月、身分固定法令発布。9月、秀吉、フィリピンに入貢を求める。朝鮮への動員令くだる。12月、秀吉、関白職を秀次に譲る。鶴松、没。   

1592年(文禄1)  1月、秀次の名で各軍の役割を定める。3月、秀吉、名護屋に向う。    4月、秀吉が朝鮮に兵を出す(文禄の役)。小西行長、釜山を陥す。5月、漢城(ソウル)を占領。

1593年(文禄2) 8月、淀が秀頼を出産。

1594年(文禄3) 12月、小西行長、明皇帝に謁し、和議を約す。この年、キリスト教徒を京都・大坂で捕え、長崎で処刑。

1595年(文禄4) 7月、秀次、高野山で切腹。9月、長曾我部元親、土佐で検地

1596年(慶長1) 1月、秀吉、明使と朝鮮王子の来日を要求。9月、和議成立せず。秀吉、再出兵を決める。スペイン船サン=フェリペ号、土佐に漂着。11月、キリシタン26人を長崎で磔殺する。

1597年(慶長2) 1月、秀吉、再び兵を朝鮮に送る(慶長の役)。3月長宗我部元親100箇条成立。

1598年(慶長3) 秀吉、没。リューリク朝断絶し、ボリス・ゴドゥノフ即位、動乱の時代始まる(~1613)】。

1600年(慶長5) 一豊、会津征伐のため掛川を発する。小山軍議で家康への忠誠を示す。9月、関ヶ原の戦。11月、一豊、土佐一国を授かる。12月、土佐で浦戸一揆。

1603年(慶長8) 江戸幕府開設(~1867)。8月、土佐で滝山一揆。     

1604年(慶長9)  【ロシアで偽ドミトリー1世出現】。

1605年(慶長10) 一豊、没。

1613年(慶長18) 【ロマノフ朝成立(~1917)】。

1614年(慶長19) 大坂冬の陣。

1615年(元和元) 大坂夏の陣。豊臣家滅亡。

1616年(元和2) 家康、没。

なお、本年表は藤木久志『天下統一と朝鮮侵略』(講談社学術文庫)の年表を中心に、渡部淳『検証・山内一豊伝説』(講談社現代新書)、『新日本史主題史年表(改訂版)』(清水書院)、『新世界史主題史年表』(清水書院)岩間徹編『ロシア史』(山川出版社)などを参照して作成。

幕末の歴史については、年表Ⅱの「坂本龍馬関連年表(1809~1869)」参照。

 

ホームページの主なカテゴリー

作家や映画監督の人名や作品名などをカテゴリーごとに作成(未完ですが、参考のためにアップしておきます)。

 文学

芥川龍之介/『河童』、『将軍』、『藪の中』『羅生門』

井上ひさし /《きらめく星座――昭和オデオン堂物語》『吉里吉里人』、『父と暮せば』『頭痛肩こり樋口一葉』、《闇に咲く花――愛敬稲荷神社物語》、「夢は天才である」(対談)

江藤淳/『作家は行動する 文体について』

大岡昇平/『野火』、『レイテ戦記』、『歴史小説論』、

オストロフスキー/『収入の多い地位』、『身内の者は後勘定』、『雷雨』

海音寺潮五郎/『日本の歴史を点検する』

北村透谷、「井上博士と基督教徒」、『エマーソン』、「厭世詩家と女性」、「最後の勝利者は誰ぞ」「人生に相渉るとは何の謂ぞ」、「罪と罰(内田不知庵譯)」、「『罪と罰』の殺人罪」」、「トルストイ伯」、「内部生命論」『蓬莱曲』

グリボエードフ/『知恵の悲しみ』

小林多喜二/『蟹工船』

小林秀雄/「映画批評について」  、「英雄を語る」(鼎談)、 「Xへの手紙」、「カラマアゾフの兄弟」、  「現代文学の不安」   、「コメディ・リテレール」(座談会)、「思想と実生活」、「事変の新しさ」、「小説の問題」、 「戦争について」 、「断想」、  「『罪と罰』についてⅠ」 、「『罪と罰』についてⅡ」、「『罪と罰』を見る」、『「白痴」について』(単行本) 、「『白痴』についてⅠ」、「『白痴』についてⅡ」 、「ハムレットとラスコオリニコフ」 、「再び文藝時評に就いて」、「文学者の思想と実生活」、「歴史と文学」、「歴史について」

ゴーリキー/『どん底』

シェークスピア/『オセロー』、『ハムレット』

司馬遼太郎/『英雄児』『沖縄・先島への道』『街道をゆく』『功名が辻』『九つの問答』(司馬・対談)『国家・宗教・日本人』(司馬・対談) 『この国のかたち』『坂の上の雲』『時代の風音』(司馬・対談)、『司馬遼太郎が語る日本』『十六の話』『「昭和」という国家』『新選組血風録』『戦雲の夢』『天下大乱を生きる』(司馬・対談)『峠』、『菜の花の沖』『東と西』『ひとびとの跫音』、『梟の城』『「明治」という国家』『燃えよ剣』『竜馬がゆく』『歴史と視点』『歴史のなかの日本』『歴史を紀行する』『ロシアについて――北方の原形』

島崎藤村/『桜の実の熟する時』『破戒』『春』『夜明け前』、『若菜集』

チェーホフ/『六号室』

チェルヌイシェフスキー/ 『何をなすべきか』

壺井栄 /『二十四の瞳』

ツルゲーネフ/『父と子』、『猟人日記』

ディケンズ /『大いなる遺産』、『オリヴァー・トゥイスト』『クリスマス・キャロル』、『骨董屋』、ドンビー親子』、『ニコラス・ニックルビー』、 『ピクウィック・ペーパーズ』

徳冨蘆花/講演「勝利の悲哀」、講演「謀叛論」、『巡礼紀行』、『トルストイ』、『不如帰』

ドストエフスキー/『悪霊』、『永遠の良人』、『おかしな男の夢』、『カラマーゾフの兄弟』、 『作家の日記』 、『虐げられた人々』 、『死の家の記録』  、『地下室の手記』、『罪と罰』、『白痴』、『冬に記す夏の印象』、 『貧しき人々』、『未成年』、『時代』(雑誌)、『世紀』(雑誌)、「ペテルブルクの夢」

トルストイ/『アンナ・カレーニナ』、『イワンの馬鹿』、 『少年時代』、『セヴァストーポリ物語』、  『戦争と平和』 『復活』  、 『ヤースナヤ・ポリャーナ』(雑誌) 『幼年時代』

夏目漱石/『虞美人草』、『草枕』、「現代日本の開化」、『坑夫』、『三四郎』、「趣味の遺伝」、「二百十日」。『坊つちやん』、「夢十夜」『吾輩は猫である』

プーシキン/ 『エヴゲーニー・オネーギン』、『けちな騎士』  、『大尉の娘』、 『プガチョーフ史』、『ボリス・ゴドゥノフ』、『貧しき騎士』、『ルスラーンとリュドミーラ』

正岡子規/「歌よみに与ふる書」、「かけはしの記」、「月の都」、「七草集」、『俳諧大要』「芭蕉雑談」、「はてしらずの記」、「墨汁一滴」、「飯待つ間」、『レ・ミゼラブル』(部分訳)、「若菜集の詩と画」

武者小路実篤/  『白樺』(雑誌)、『真理先生』  、「バン・ゴッホ」

山本周五郎  /『赤ひげ診療譚』

レールモントフ  /『仮面舞踏会』、『現代の英雄』

 映画

エイゼンシュテイン/《アレクサンドル・ネフスキー》、《イワン雷帝》(第一部~第三部)、《戦艦ポチョムキン》

木下恵介/《カルメン故郷に帰る》、《この子を残して》、《肖像》、《太陽とバラ》、《二十四の瞳》《破戒》、《喜びも悲しみも幾歳月》

クリジャーノフ/ 《罪と罰》

黒澤明/《愛の世界・山猫とみの話》(台本)、《生きものの記録》、《生きる》 、《馬》(製作主任)、『蝦蟇の油』、  《蜘蛛巣城》、《静かなる決闘》 、《七人の侍》、 「罪なき罰」、 《デルス・ウザーラ》《トラ・トラ・トラ!》(未完)、 《どん底》 、 《どですかでん》 「人間像製作法」(鼎談)、  《野良犬》  、《白痴》 、《八月の狂詩曲》 、「文明社会に警告する《デルス・ウザーラ》」(対談)、《夢》 、《酔いどれ天使》、 《羅生門》 、《わが青春に悔なし》 、《悪い奴ほどよく眠る》

タルコフスキー/《アンドレイ・ルブリョフ》、《鏡》、《サクリファイス》、《ストーカー》、《ノスタルジア》、《僕の村は戦場だった》《ローラーとバイオリン》、《惑星ソラリス》

チャップリン/《黄金狂時代》、《サーカス》、《独裁者》《街の灯》《モダン・タイムス》《殺人狂時代》《ライムライト》

本多猪四郎/   《ゴジラ》、《モスラ》

宮崎駿/《風立ちぬ》《風の谷のナウシカ》《紅の豚》《千と千尋の神隠し》《となりのトトロ》《もののけ姫》

山本嘉次郎/  《馬》、《綴方教室》、《坊つちやん》、《吾輩は猫である》

(2017年1月13日現在)

年表7、黒澤明・小林秀雄関連年表(1902~1998)

黒澤明・小林秀雄関連年表(ドストエフスキー論を中心に、年号や特に重要な事項はゴシックで、原爆、原発関係の出来事はオレンジ色で示した)。【】内は、本論に関連する国内外の主な出来事。  005l (帯の図版は、1956年に行われた黒澤明と小林秀雄の対談時の写真)    

1902年(明治35年) 小林秀雄(以下、小林と略記)、4月11日、東京に生まれる(~83年)。9月、正岡子規没

1904年(明治37年)   【日露戦争(1904年2月~1905年9月)】

1908年(明治41年)夏目漱石『夢十夜』、『三四郎』

1910年(明治43年) 黒澤明(以下、黒澤と略記)、3月23日、東京に生まれる(~98年)。    【4月、『白樺』創刊、5月、大逆事件、8月、日韓併合、11月、トルストイ歿】。

1913年(大正2年) 芥川龍之介 9月、東京帝国大学文科大学英吉利文学科に入学。

1914年(大正3年)    【第一次世界大戦(~1918)】。   

1915年(大正4年)  芥川、 11月、「羅生門」(『帝国文学』)。漱石の木曜会に参加する。

1916年(大正5年)  12月、夏目漱石没。

1922年(大正11年) 芥川、「将軍」(『改造』1月号)、「藪の中」(『新潮』」1月号)

1923年(大正12年)  黒澤、兄丙午の勧めで関東大震災を観察する。

1924年(大正13年)  黒澤丙午、新宿「武蔵野館」で映画説明者の見習い。

1925年(大正14年)     【治安維持法、普通選挙法公布】。 小林、東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学。中原中也と識る。 黒澤丙午、映画説明者として須田貞明と名乗る。

1927年(昭和2年)  芥川龍之介『河童』、自殺。 小林、9月、「芥川龍之介の美神と宿命」(『大調和』)

1928年(昭和3年、以下略)   【治安維持法が強化される】。 小林、3月、東京帝国大学卒業。 黒澤、第15回「二科展」入選、油彩「静物」。

1929年  3月、堀辰雄「芥川龍之介論――藝術家としての彼を論ず」(「東京帝国大学卒業論文」)。 黒澤、4月、日本プロレタリア美術家同盟(ナップ)に参加。小林多喜二「蟹工船」。 小林、9月、『様々なる意匠』が『改造』懸賞評論二席入選。

1930年    【1月、ロンドン海軍軍縮会議、浜口首相が狙撃される】。 黒澤、徴兵検査後、兵役免除。この頃から地下活動(~1932年春)。

1931年      【満州事変】。

1932年      【上海事変、満州国成立、五・一五事件】。 小林、4月、明治大学に文芸科が創設され、講師に就任 6月、「小説の問題Ⅰ」(映画《アメリカの悲劇》論、『悪霊』論)。 6月、「現代文学の不安」(『改造』) 9月、「Xへの手紙」(『中央公論』)。 黒澤、地下活動より脱落、兄丙午の長屋に身を寄せつつ映画館に通う。

1933年     【1月、ヒトラー内閣成立、2月、小林多喜二が拷問で死亡。         3月、日本、国際連盟から脱退。5月、京都帝国大学で滝川事件】。 小林、1月、「『永遠の良人』」(『文藝春秋』)。 黒澤、7月、兄・丙午が自殺。 小林、10月、『文學界』の創刊にかかわる。 12月、「『未成年』の独創性」(『文藝』)。

1934年     【ワシントン条約の破棄を通告する】。 小林、1月「文学界の混乱」(『文藝春秋』、ドストエフスキー論への意欲)。 1月「アンドレ・ジイドのドストエフスキイ論」。 2月、「『罪と罰』についてⅠ」(第1回、『行動』)。 4月、「レオ・シェストフの『悲劇の哲学』」(『文藝春秋』)。 5月、「『罪と罰』についてⅠ」(第2回、『文藝』)。 7月、「『罪と罰』についてⅠ」(第3回、『行動』)。 9月、「『白痴』についてⅠ」(~35年10月、『文藝』)。    「レオ・シェストフの『虚無よりの創造』」(『文學界』)。

1935年      【美濃部達吉の天皇機関説が問題となる。スタンバーグ監督の《罪と罰》】 小林、1月、『ドストエフスキイの生活』を連載し始める(~37年3月号)。 3月、「再び文藝時評に就いて」(『改造』)。 山本嘉次郎、3月、映画《坊つちゃん》公開。 小林、10月、「『地下室の手記』と『永遠の良人』」(~36年2月)。

1936年      【ロンドン軍縮会議から脱退。二・二六事件】。 小林、1月、「作家の顔」(『読売新聞』)。 2月、「私信」 4月、「思想と実生活」(『文藝春秋』)。 山本嘉次郎、5月、映画《吾輩は猫である》公開。 小林、6月、「文学者の思想と実生活」(『改造』)。 8月、「『ドストエフスキイの精神分析』」(書評、『帝国大学新聞』) 9月、「J・M・マリィ『ドストエフスキイ』」(書評、『文學界』)。 11月、「『罪と罰』を見る」(『読売新聞』) 黒澤、PCL映画製作所(東宝の前身)に助監督として入社。 小林、明治大学で「日本文化史研究」を講じる。

1937年        【蘆溝橋事件から日中戦争がおこる。~1945年】。 小林、1月、「ドストエフスキイの時代感覚」(『改造』)。 6月、「『悪霊』について」(~11月、未完、『文藝』)。 11月、「戦争について」(『改造』)。

1938年     【国家総動員法が公布される】。 小林、6月、明治大学教授に昇格。  黒澤、8月、助監督として参加した山本嘉次郎監督の『綴方教室』公開。 小林、10月、「歴史について」(第一章、第二章、『文學界』)。

1939年  小林、3月、「映画批評について」(『日本映画』)    5月、「歴史について」(全五章、『文藝』)。    5月、「歴史について」を序文とし『ドストエフスキイの生活』(創元社)を出版。    8月、「疑惑Ⅱ」(『文藝春秋』)。

1940年   【チャップリンの《独裁者》。日本での公開は1960年】

Dictator_charlie5 (独裁者ヒンケルが地球儀のバルーンをもてあそぶシーン。図版は「ウィキペディア」より)  

小林、9月、「ヒットラアの『我が闘争』」(書評、『朝日新聞』)    10月、林房雄、石川達三との鼎談「英雄を語る」(『文學界』)。

1941年     【国民学校令の公布、12月、真珠湾攻撃、太平洋戦争が始まる】。 黒澤、3月、製作主任としてついた山本嘉次郎演出、高峰秀子主演の映画《馬》公開。 小林、3月、「歴史と文学」(『改造』、芥川龍之介の『将軍』を否定的に言及)。 10月、「カラマアゾフの兄弟」(~42年9月、未完、『文藝』)。

1942年 黒澤、3月、脚本『雪』が国策映画脚本募集に入選。 小林、3月、「戦争と平和」(『文學界』)、    座談会《文化総合会議 近代の超克》(『文學界』、10月)、    日本文学報国会評論随筆部会常任理事に就任。

1943年 黒澤、1月、脚本に参加した映画《愛の世界・山猫とみの話》が公開。 3月、《姿三四郎》公開。 小林、9月、「ゼークト『一軍人の思想』について」(『文學界』)。 1944年 黒澤、4月、《一番美しく》公開。

1945年   【3月、沖縄戦が始まる。8月、広島・長崎に原爆投下、日本、ポツダム宣言受諾】。        【ロックフェラー財団会長レイモンド・フォスディックが原爆投下の知らせを聞いて「私は良心の呵責に苦しんでいる」と手紙に記す】。 黒澤、5月、《続・姿三四郎》公開。 《虎の尾を踏む男達》制作。

1946年 小林、2月、座談会「コメディ・リテレール――小林秀雄を囲んで」(『近代文學』)。 明治大学教授、辞任。 黒澤、10月、《わが青春に悔なし》公開。 小林、11月、「感想――ドストエフスキイのこと」(『時事新報』)。

1947年   月、日本国憲法発布

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(日本国憲法施行記念切手。図版は「ウィキペディア」より)

黒澤、6月、《素晴らしき日曜日》公開。   坂口安吾、6月、「教祖の文学」で小林秀雄を批判(『新潮』)。

1948年 黒澤、4月、《酔いどれ天使》公開。 8月、黒澤の脚本による映画《肖像》が木下恵介監督により公開。 小林、8月、湯川秀樹との対談「人間の進歩について」で原子力エネルギーを批判(『新潮』)。 11月、「『罪と罰』についてⅡ」(『創元』)。 12月、「ゴッホの手紙」(『文體』)。

1949年  【ソ連、原爆実験】。 黒澤、3月、《静かなる決闘》公開。 10月、《野良犬》公開。   11月、湯川秀樹、ノーベル物理学賞受賞

1950年 黒澤、4月《醜聞(スキャンダル)》公開。 8月《羅生門》公開。

1951年 小林、1月、「ゴッホの手紙」(~1952年2月、『藝術新潮』)。 黒澤、5月《白痴》公開。

Читаем роман Идиот в фильмах Куросавы Акиры»  (Сэйбунся,2011)

9月、ヴェネツィア国際映画祭で《羅生門》がグランプリを受賞。  小林、9月『ドストエフスキイの生活』(『創元文庫』)。

1952年 小林、5月「『白痴』についてⅡ」、(~1953年1月、『中央公論』)。 黒澤、10月《生きる》公開。

1953年    【アメリカ、「原子力の平和利用」政策を発表】。

1954年      【1月、原潜ノーチラス号進水、『読売新聞』で特集記事「ついに太陽をとらえた」、 3月、アメリカの水爆実験で「第五福竜丸」被爆】。

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(「キャッスル作戦・ブラボー(ビキニ環礁)」の写真。図版は「ウィキペディア」より)

黒澤、4月《七人の侍》公開。

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(東宝製作・配給、1954年、図版は「ウィキペディア」より)。

木下恵介、9月、《二十四の瞳》公開。 黒澤、9月、小國や橋本と映画《生きものの記録》の脚本『死の灰』の執筆を始める。 本多猪四郎監督、11月《ゴジラ》公開

ゴジラ (製作: Toho Company Ltd. (東宝株式会社) © 1954。図版は露語版「ウィキペディア」より)

1955年       石原慎太郎、『太陽の季節』(『文學界』、7月号)          【7月、「ラッセル・アインシュタイン宣言」】。 小林、8月「ハムレットとラスコオリニコフ」(『新潮』)。 黒澤11月《生きものの記録》公開

430px-Ikimono_no_kiroku_poster (作成:Toho Company, © 1955、図版は「ウィキペディア」より)  

11月、「原子力平和利用博覧会」が各地で開催される(~57年)。12月19日、「原子力基本法」成立】。 黒澤、湯川秀樹との対談(時期は11月~2月の間と思われる)。

1956年     1月、石原慎太郎、『太陽の季節』で第34回芥川賞受賞。 黒澤、木下恵介・武田泰淳の鼎談「人間像製作法」(『中央公論』2月号)。 小林、8月、「ドストエフスキイ七十五年祭に於ける講演」(~10月、『文學界』)。 11月、木下恵介監督、太陽族を批判した映画《太陽とバラ》公開 12月、黒澤明と小林秀雄の対談(未掲載)。

1957年  黒澤、1月《蜘蛛巣城》公開 4月、徳川夢声、「こんにゃく談義」で、水爆実験と太陽族を批判 黒澤、9月、《どん底》公開。

1958年 黒澤、12月《隠し砦の三悪人》公開。

1959年    【ソ連の原子力潜水艦K-19進水 小林、12月、藝術院会員となる。                             

1960年 小林、5月、「ヒットラアと悪魔」で『悪霊』に言及(『文藝春秋』)。 黒澤、9月《悪い奴ほどよく眠る》公開。

1961年  【ソ連の原子力潜水艦K-19の大事故 黒澤、4月《用心棒》公開。

1962年    【キューバ問題で核戦争の危機】。 黒澤、1月《椿三十郎》公開。  8月 『ヒロシマ わが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』、筑摩書房。(アインシュタインと共同宣言を出したラッセル卿の「まえがき」を所収)。

1963年  黒澤、3月《天国と地獄》公開。 黒澤、10月、映画《赤ひげ》の制作開始記念パーティー。 小林、11月、「ネヴァ河」(『朝日新聞』、『死の家の記録』や『悪霊』に言及)。

1964年 小林、5月、第9章を追加して『「白痴」について』(角川書店)を発行。

1965年    【米、北ベトナム爆撃開始(~73年)】。 黒澤、4月《赤ひげ》公開 小林、数学者の岡潔と対談「人間の建設」(『新潮』10月号)でアインシュタインを批判。

1966年      【中国、文化大革命起こる】。

1968年    【ソ連・東欧軍、チェコ侵入】。

1969年     【日本、大学紛争激化】。 黒澤、《トラ・トラ・トラ!》の監督を降りる。 

1970年 黒澤、10月《どですかでん》公開。

1971年     【沖縄返還】。 黒澤、12月、自殺未遂。

1973年  黒澤、モスクワで映画監督タルコフスキーとともに《惑星ソラリス》を見る。

1975年 小林、4月、東京都知事選に際して、後に原発推進だけでなく、核武装も唱えることになる石原慎太郎の推薦人となる。 黒澤、7月、座談会で小林の『白痴』観を批判(『週刊プレイボーイ』)。 黒澤、8月《デルス・ウザーラ》公開。 森敦との対談「文明社会に警告する『デルス・ウザーラ』」(『サンデー毎日』8月3日号)

1979年    【イランでイスラム革命。ソ連軍、アフガニスタン侵攻(~八八年)、アメリカ、スリーマイル島原発事故】。 小林、7月、河上徹太郎との対談「歴史について」で『白痴』を「トルソ」と呼ぶ。

1980年  【イラン・イラク戦争(~88年)】。 黒澤、4月《影武者》公開。 

1983年 3月1日、小林秀雄死去。 9月、木下恵介、映画《この子を残して》公開。

1985年 黒澤、6月《乱》公開。

1986年    【4月、チェルノブイリ原発事故5月、タルコフスキーの映画《サクリファイス》上映】。 黒澤、映画《夢》の脚本『こんな夢を見た』第一稿脱稿。

1989年    【米、パナマ侵攻】。 1990年    【イラク、クウェート占領】。 黒澤5月《夢》公開。  井上ひさしとの対談「夢は天才である」(『文藝春秋』6月号) 10月、ガルシア・マルケスとの対談「第二部 核をめぐる論争――人間が核を制御できると考えるのは傲慢だ!」(『宝石』1999年6月号)

1991年 【1月、湾岸戦争、5月、ユーゴスラヴィアで内戦、9月、ソ連邦崩壊】。  黒澤5月《八月の狂詩曲(ラプソディー)》公開

1993年  黒澤、4月《まあだだよ》公開。

1995年 【12月、 高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウムの漏洩による火災事故】。

1997年 【3月11日、茨城県東海村の動燃でレベル3の原子力事故】。

1998年 9月6日、黒澤明死去。  

黒澤明 死して15年 直筆ノートにあった“メッセージ”– 長さ: 13:26。

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 【作成に際しては、浜野保樹編「黒澤明 関連年表」『大系 黒澤明』(講談社)、黒澤明研究会のホームページ「黒澤明監督年譜」、横田公次・他「黒澤明の地図」(『黒澤明 夢のあしあと』黒澤明研究会編、共同通信社、1999年所収)、槙田寿文「黒澤明の青春――ナップとその時代」(『黒澤明研究会誌』第24号)、堀伸雄「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー ~『七人の侍』に始まる魂の共鳴」(『黒澤明研究会誌』第32号)、および『小林秀雄全集』(新潮社)の「解題」、「小林秀雄とその時代」(ブログ『やりみず』一九九九年)、菅原健史「小林秀雄年表」(ネット版、2011年)、『新日本史主題史年表』(清水書院、1991年)、などを参照した】。

 (2014年5月5日、6月11日、2015年4月19日、訂正と加筆。6月4日、「ブラボー(ビキニ環礁)」の写真追加。(12月11日。チャップリン監督『独裁者』を追加。図版は「ウィキペディア」より、2018年5月31日、『黒澤明で「白痴」を読み解く』の書影と映画《七人の侍》のオスターを追加、図版は「ウィキペディア」より)。      

年表6、正岡子規・夏目漱石関連簡易年表(1857~1910)

リンク先→タイトル一覧(年表とブログ・タイトル)

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正岡子規・夏目漱石関連簡易年表(1857~1910)

1857(安政4) 陸羯南(~1907)誕生。 【インド、セポイの乱(~59)】。

1858(安政5) 日米修好通商条約調印(続いて、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも調印)。安政の大獄始まる(~59)。

1859(安政6) 秋山好古(1859~1930)、加藤恒忠(旧姓大原、号は拓川、1859~1923)誕生。

1860(万延1) 1月、勝海舟、福澤諭吉、咸臨丸で渡米する。3月、大老井伊暗殺される。8月、徳川斉昭死去。

1861(文久1)【ロシア、農奴解放令、アメリカ、南北戦争(~65)】。

1865(元治2・慶応1) 中江兆民(1847~1901)、長崎で龍馬を知る。 森有礼、五代友厚、藩命でイギリス留学。【トルストイ、『戦争と平和』(~69)】。

1866(慶応2) 1月22日、坂本龍馬、薩長連合を成立させる。6月、幕長戦争始まる。【普墺(プロイセン・オーストリア)戦争。ドストエフスキー、『罪と罰』】

*   *   *

 

1867(慶応3) 漱石、1月5日(新暦2月9日)、父夏目小兵衛直克、母千枝の5男として出生(~1916)、本名金之助。

子規、9月17日(旧暦、新暦10月14日)、父正岡常尚(35歳)、母八重の長男として出生(~1902)。本名常規、幼名処之助、のちに升(のぼる)。

6月15日、龍馬、「船中八策」を成文化する。 11月15日、龍馬、中岡慎太郎とともに暗殺される。12月9日、王政復古の大号令。

1868(明治1) 漱石、11月、四谷の名主塩原昌之助の養子となり、塩原姓を名乗る。

1月、戊辰戦争始まる(~69)。3月、江戸城総攻撃を中止。 3月、五ヶ条の御誓文。神仏分離令。秋山真之(~1918)、徳富健次郎(蘆花)(~1927)誕生。

1869(明治2) 子規、年末、失火により家が全焼

1月、横井小楠暗殺される。5月、榎本武揚軍降伏。大村益次郎(蔵六)襲撃され、傷がもとで死亡

1870(明治3) 漱石、種痘がもとで疱瘡を病み、顔にあばたが残る。

子規、10月、妹律、誕生。

普仏戦争(~71年)、ナポレオン3世退位】。

1871(明治4)  廃藩置県、岩倉使節団、欧米へ出発。中江兆民、フランス留学。 【ドイツ帝国成立】。

1872(明治5) 子規、3月7日(旧暦、新暦4月10日)、父死亡(40歳)

7月、大江卓、マリア・ルス号事件の裁判で奴隷を解放。8月、学制を発布。10月、徴兵令を制定。12月3日(旧暦、新暦1月1日)、太陽暦を採用。皇紀の制定。山城屋事件で山県有朋辞職。福沢『学問のすすめ』(初編)。

1873(明治6) 子規、三並良と祖父大原観山の私塾に通い素読を習う。末広小学校入学。

福沢、明六社結成に参加。山県有朋、初代陸軍卿として復職。 征韓論破れ、西郷隆盛、江藤新平、板垣退助など政府を去る。徴兵反対一揆。内務省設置

1874(明治7)漱石、浅草寿町戸田学校下等小学第八級に入学。1月、民撰議院設立建白書の提出。2月、江藤新平の佐賀の乱。5月、台湾出兵(~6月

1875(明治8)子規、1月、勝山学校へ転校。4月、祖父観山死去。土屋久明に漢学を学ぶ。 秋山好古、大阪師範学校受験、合格。

讒謗律、新聞紙条例発布。

1876(明治9) 3月、廃刀令、7月、秋山好古、大阪師範学校卒業。大阪府北河内58番小学校、名古屋師範学校付属小学校勤務。10月、熊本神風連の乱、秋月の乱、萩の乱。

1877(明治10) 2月14日、西南戦争始まる。5月、秋山好古、陸軍士官学校(旧制3期生)に入学。9月24日、西南戦争終結。【露土戦争~78、英領インド成立】。

1878(明治11) 漱石、2月、回覧雑誌に「正成論」を書く。10月、錦華小学校・小学尋常科二級後期卒業。子規、夏、土屋久明から漢詩の手ほどきを受ける。

5月14日、紀尾井坂で大久保利通が暗殺される。8月、竹橋事件、軍人訓誡。陸軍省参謀局が参謀本部に改称。福沢『通俗民権論』、『通俗国権論』発行、大久保利通暗殺、自由民権高まる。【露土戦争のロシア勝利後に列強による干渉、第2次、第3次アフガン戦争】。

1879(明治12) 漱石、東京府立第一中学校正則科第七級に入学。子規、12月、回覧雑誌(『桜亭雑誌』『松山雑誌』『弁論雑誌』)を始める。勝山学校卒業。

秋山好古、陸軍士官学校騎兵科を卒業。 加藤恒忠(拓川)、原敬、陸羯南、福本日南などともに司法学校退学。加藤恒忠、中江兆民の仏学塾に入塾。福沢『民情一新』。【ドイツ、オーストリア二重同盟締結】。

1880 (明治13)子規、3月、松山中学校入学。竹村鍛・三並良らと五友会で漢詩集回覧。

4月、集会条例。この年国会開設請願運動激しくなる。【イギリス、アフガニスタンを保護国化、フランス、タヒチを領有】。

1881(明治14) 漱石、1月、実母千枝死去。府立一中を中退。私立二松〔にしょう〕學舍に転校し、漢学を学ぶ。

中江兆民、西園寺公望の『東洋自由新聞』主宰。坂本直寛(龍馬の甥)など「日本憲法見込案」起草。7月、開拓使官有物払い下げ事件。10月の政変で大隈重信と慶應義塾門下生が政府から追放され、1890年を期して国会を開設するがドイツの憲法を模範とするとの詔勅。【3月、ロシア皇帝・アレクサンドル2世暗殺される。3世の即位、専制護持の詔書】。

アレクサンドル2世暗殺(図版は「ウィキペディア」より)

1882 (明治15) 子規、9月、県会を傍聴。自由党員訪問など政治への関心が強まる。12月、北予青年演説会で演説。翌年まで熱中。

1月、軍人勅諭頒布、3月、立憲改革党結成、蘇峰、自宅に大江義塾を開く。福沢、『時事新報』創刊。中江兆民『民約論』翻訳。【ドイツ、オーストリア、イタリア間で三国同盟】。

1883(明治16) 子規、1月、演説草稿「天将ニ黒塊ヲ現ハサントス」。5月、松山中学を退学。6月、叔父加藤拓川より上京に同意する旨手紙をもらい上京。陸羯南を訪問。7~9月、須田学舎に入り、従弟藤野潔(古白)と同宿。10月、共立学校入学。11月、叔父の拓川が渡仏。

漱石、9月、神田駿河台の成立学舎に入学。

坂崎紫瀾、民権派の新聞『土陽新聞』に龍馬の伝記小説『汗血千里駒』を掲載。【フランス、ベトナムを保護国化】。

1884(明治17) 子規、2月、随筆「筆まかせ」を起筆(明治25年まで)。3月、 旧藩主久松家の給費生となる。月額7円(大学入学後は10円)・教科書代の支給を受ける。子規、漱石、9月 東京大学予備門入学(同級生に芳賀矢一・夏目金之助・山田美妙・菊地謙二郎がいた)。

新渡戸稲造、欧米留学。加波山の蜂起。自由党解散。甲申政変。【清仏戦争(~85)】。

1885(明治18) 子規、春、哲学への関心を募らせる。7月、妹律が結婚。夏、帰省中に秋山真之と親しくなり、桂園派の歌人井出真棹(まさお)に和歌を学ぶ。9月、坪内逍遙の『当世書生気質』に感動。

漱石、中村是公、橋本左五郎ら約10人と猿楽町の末富屋に下宿。

福沢『脱亜論』発行 蘇峰『第十九世紀日本之青年及教育』自費出版。

1886(明治19) 子規、秋山真之と一時同居。この年から3年間、野球に夢中になる。

漱石、7月、腹膜炎のため落第するが、こののち卒業まで首席を通す。中村是公と本所江東義塾の教師となり、塾の寄宿舎に転居。

東京大学予備門が第一高等中学校と改称。3月、「参謀本部」が設立される。4月、師範学校令発布。蘇峰『将来之日本』刊行。

1887(明治20) 子規、7月 柳原極堂と大原其戎(きじゅう)を訪ね、俳諧を学び始める。8月、「虫の音を踏み分け行くや野の小道」が其戎の主催誌に載る。

漱石、3月に長兄大助、6月に次兄栄之助が共に肺病のため死去。急性トラホームを病み、自宅に帰る。

保安条例公布、坂本直寛(坂本龍馬の甥)ら逮捕される。蘇峰、民友社設立、雑誌『国民之友』創刊。中江兆民、『三酔人経綸問答』、『平民のめざまし』刊行。

1888(明治21) 子規、7月、第一高等中学校予科卒業。8月、鎌倉江の島で2度喀血。夏休みを東京向島の桜餅屋で過ごし、『七草集』を執筆。三並良、藤野古白と同宿。9月、第一高等中学校本科一部(文科)に進む。常磐会寄宿舎に入る。

漱石、塩原家より復籍し夏目姓に変える。7月、第一高等中学校予科を卒業。9月、英文学専攻を決意し本科第一部に進む。英作文「討論――軍事教練は肉体錬成の目的に最善か?」執筆。

陸羯南『東京電報』を主宰。

1889(明治22) 子規、1月、夏目金之助(漱石)と落語を介して交遊を始める。2月11日、新聞『日本』創刊号を読む。5月、『七草集』脱稿。5月9日、夜喀血、時鳥の句を作り「子規」と号す。

漱石、5月、『七草集』を漢文で批評し七言絶句九編を添え、これに初めて「漱石」の号を用いる。8月に学友と房総を旅行し、9月、紀行漢詩文『木屑録』(ぼくせつろく)を書き、松山の子規に批評を求める。

明治憲法、「ウィキペディア」

(憲法発布略図、楊洲周延画、出典は「ウィキペディア」クリックで拡大できます)

1月、徴兵令を全面的に改定。大日本帝国憲法発布。陸羯南、政論新聞『日本』発刊。文部大臣森有礼、暗殺される

890(明治23) 子規、4月 碧梧桐の句を添削、文通をはじめる。9月、東京帝国大学文科大学哲学科に入学。秋、幸田露伴の『風流仏』を読んで傾倒する。

漱石、9月、帝国大学文科大学英文科入学。文部省の貸費生となる。

2月、蘇峰『国民新聞』創刊。10月、「教育勅語」渙発。11月23日、『大日本』創刊(不定期刊行、廃刊の時期は不明)。

教育勅語

(図版は「ウィキペディア」より、クリックで拡大できます)

1891(明治24) 子規、2月、 国文科に転科。3月、 房総地方を旅行。高浜虚子と文通始まる。4月、内藤鳴雪が寄宿舎監督に着任。6月、木曽路を経て松山へ帰省。試験放棄。寄宿舎追放事件後、12月に駒込追分町へ転居。小説「月の都」の執筆に着手。冬、「俳句分類丙号」に着手。

漱石、7月、特待生となる。12月、『方丈記』を英訳する。

1月、内村鑑三による「教育勅語」に対する「不敬事件」。5月、皇太子ニコライ大津で襲撃される。陸羯南、『近時政論考』発刊。福沢「痩我慢の説」執筆。

1892(明治25) 子規、2月 露伴を訪問。「月の都」の批評を依頼する。上根岸(羯南宅西隣)へ転居。5月、「かけはしの記」を、6月、「獺祭書屋俳話」(38回『日本』6.26~10.20)を『日本』に掲載始める。学年試験落第、退学を決意する。7月 帰省、漱石も松山を旅行。10月 退学。11月 母と妹を呼び寄せる。12月 日本新聞社入社、月給15円。福本日南、三宅雪嶺、千葉亀雄、佐藤紅緑、長谷川如是閑などがいた。

漱石、4月、分家し北海道平民となる。5月、東京専門学校(現在の早稲田大学)講師に就任。

内田魯庵、『罪と罰』翻訳(前半部分)。5月、北村透谷、評論「トルストイ伯」。

1893(明治26) 子規、2月、俳句欄を『日本』に設ける。3月、帝国大学を中退する。5月、『獺祭書屋俳話』刊。7月19日~8月20日 東北旅行。俳諧宗匠を歴訪する。11月「芭蕉雑談」、「はてしらずの記」を『日本』に連載開始。

1月、北村透谷、評論「『罪と罰』の殺人罪」。12月、蘇峰『吉田松陰』(初版)。【フランス、ラオスを保護国化】。

1894(明治27) 子規、2月、上根岸82番地(羯南宅東隣)へ転居。2月11日『「小日本』創刊、編集責任者となり、月給30円。小説「月の都」を創刊号より3月1日まで連載。

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(図版は大空社のHPより、『小日本』全2巻・別巻、大空社、1994年〉

3月 挿絵画家として浅井忠より中村不折を紹介される。5月、北村透谷の自殺についての記事を書く。7月、『小日本』廃刊により『日本』に戻る。

蘇峰『大日本膨張論』刊行。

日清戦争――7月29日、清国軍を攻撃。8月1日、清国に宣戦布告。9月黄海海戦で勝利、11月、旅順を占領

1895(明治28) 子規、3月、日清戦争への従軍許可がおりる。4月10日、宇品出港、近衛連隊つき記者として金州・旅順をまわる。金州で従弟・藤野潔(古白)のピストル自殺を知る。「陣中日記」を『日本』に連載。5月4日、金州で森鴎外を訪問。17日、帰国途上船中で喀血。23日、県立神戸病院に入院、一時重態に陥る。7月23日、須磨保養院へ移る。8月20日、退院。8月27日、松山中学教員夏目金之助の下宿「愚陀仏庵」に移る。10月、松山を離れ、広島、大阪、奈良を経て帰京。10月、「俳諧大要」(27回、『日本』10.22~12.31)。12月、道灌山で虚子に文学上の後継者となることを要請するが断られる。

漱石、横浜の「ジャパン・メール」の記者を志願したが、不採用に終わる。4月、高等師範学校を退職し、愛媛県尋常中学校(松山中学)教諭に就任。

日清戦争――2月、清国北洋艦隊降伏。4月、下関で講和条約、三国干渉。10月、閔妃が殺害される

1896(明治29)子規、1月3日、子規庵で句会。鴎外・漱石が同席。30日、鴎外主催の『めざまし草』が創刊。子規を中心とした「日本派」の俳句が掲載される。2月、左腰が腫れ以後臥床の日が多くなる。3月、カリエスの手術を受ける。4月、「松蘿玉液」(32回、『日本』4.21~12.31)。8月、新体詩「父の墓」、「文学」(7回、『日本人』8.5~11.20)。9月5日、与謝野鉄幹ら新体詩人の会に人力車で参加。

漱石、4月、熊本県の第五高等学校講師となる。6月、熊本で借りた家で中根鏡子と結婚。7月、教授に昇任。

蘇峰、欧米旅行に出発(~1897年7月、帰国後勅任参事官に就任)。

1897(明治30) 子規、1月、松山で『ほとヽぎす』創刊。「明治二十九年の俳句界」を『日本』に連載。3月27日、腰部手術。4月13日、「俳人蕪村」の連載(19回、『日本』4.13~12.29)5月 病状悪化、重態。5月28日、子規編集の『古白遺稿』刊。12月、子規庵で第一回蕪村忌を開催。

漱石、6月、実父直克死去。

蘆花『トルストイ』出版、『不如帰』(~1899年)。足尾銅山鉱毒事件高まる。

1898(明治31) 子規、1月、月給が40円となる。2月12日、「歌よみに与ふる書」(10回,『日本』2.12~3.4)を発表し、短歌の革新運動に着手する。3月 子規庵ではじめての歌会。7月、自らの墓誌銘を記し、河東可全(碧梧桐の兄)宛ての手紙に託す。10月、東京発行所を東京に移し、『ホトトギス』第一号発刊。

漱石、9月、寺田寅彦ら五高生に俳句を教える。

米西戦争、ハワイを合併、フィリピン・グアムを領有】。

1899(明治32) 子規、1月 『俳諧大要』刊。3月、 歌会再開、以後定期的に開催する。秋、不折からもらった絵の具で水彩画を描く。10月、「飯待つ間」(『ホトトギス』)。12月 『俳人蕪村』刊、病室の障子をガラス張りにする。

猫の写生(「猫の写生画」、図版は青空文庫より)

漱石、4月、エッセー「英国の文人と新聞雑誌」『ホトトギス』。

福沢諭吉、『福翁自伝』。【義和団事件(~1901)。南アフリカ戦争(~1902)。ロシアのニコライ2世の提唱による第1回ハーグ平和会議(毒ガスの使用禁止)】。

1900(明治33)子規、1月、 伊藤左千夫来訪、短歌会の常連となる。1月29日 「叙事文」を『日本』に連載、写生文を提唱。3月28日 長塚節来訪。4月15日、 第1回万葉集輪講会。8月、大量喀血。8月26日、漱石、寺田寅彦と来訪。9月、第1回「山会」(写生文の会)を開催。11月、静養のため、子規庵での句会、歌会を中止。

漱石、5月、文部省より現職のままで英語研究のため満2ヶ年の英国留学を命ぜられる。 9月、イギリスに留学。10月、途上パリで万国博覧会を訪問。

蘆花『不如帰』刊行、新渡戸稲造”Bushido, the Spirit of Japan”。

1901(明治34) 子規、1月、「墨汁一滴」を『日本』に連載開始(1.26~7.2)、9月、「仰臥漫録」を書き始める。10月13日、母と妹の不在中に自殺を考える。11月6日、漱石宛書簡に「僕ハモーダメニナツテシマツタ」と書く。

漱石、5月、「倫敦消息」が『ホトトギス』に掲載される。帰国まで『文学論』の執筆に専念。

福沢諭吉『丁丑公論・痩我慢の説』刊行、蘇峰の批判と福沢の反論、2月福沢諭吉死去、幸徳秋水『帝国主義』発行。

1902(明治35) 子規、1月、 病状悪化。3月、碧梧桐・左千夫・虚子などが交替で看護にあたる。5月5日、「病牀六尺」を『日本』に連載開始(5.5~9.17)。6月、「菓物帖」、8月「草花帖」、9月「玩具帖」の写生を行う。9月、 随筆「九月十四日の朝」を口述筆記。9月18日、絶筆糸瓜三句を詠む。19日、永眠。享年34歳。21日、田端・大龍寺に埋葬される。会葬者150余名。戒名「子規居士」。

漱石、9月、強度の神経衰弱に陥り、気分転換をはかって自転車の練習を始める。12月、ロンドンを発ち、帰国の途につく。

蘆花「黒潮」(1月26日~6月)、加藤忠三郎(正岡子規の死後養子)誕生。 日英同盟締結。

1903(明治36) 漱石、4月、第五高等学校を辞して第一高等学校講師になり、東京帝国大学文科大学講師を兼任。

藤村操、投身自殺。幸徳秋水たちが『平民新聞』創刊。『小説 寄生木』の主人公・小笠原善平がはじめて蘆花を訪問。

1904(明治37) 漱石、4月、明治大学講師を兼任。12月、虚子の勧めで初めて書いた創作『吾輩は猫である』が子規門下の文章会“山会”(やまかい)で虚子の朗読により発表され、好評を博す。

木下尚江、『火の柱』を東京毎日新聞に連載(1月~3月)、2月、日韓議定書、8月、トルストイの「悔い改めよ」と題する非戦論が『平民新聞』に掲載される。

日露戦争――2月8日 日本の連合艦隊、旅順を奇襲。2月10日、ロシアに対して宣戦布告。2月24日~5月3日、旅順口閉塞作戦。9月遼陽を占領。徴兵令改正、兵役年限の延長。10月26日~31日、第2回旅順総攻撃。11月26日~12月5日、第3回旅順総攻撃。

1905(明治38) 漱石、1月、『ホトトギス』に『吾輩は猫である』を発表(翌年8月まで断続連載。10月、単行本『吾輩は猫である』上編)。1月、「倫敦塔」「カーライル博物館」。3月、講演「倫敦のアミューズメント」。4月、「幻影の盾」。5月、「琴のそら音」、談話「批評家の立場」。9月、「一夜」。11月、「薤露行」。

内田魯庵訳でトルストイの『復活』が、新聞『日本』に掲載(4月5日~12月22日)。

日露戦争――1月1日、旅順陥落。1月22日、ロシアで「血の日曜日事件」。韓国、義兵闘争。5月27~8日、日本海海戦。6月27日、ポチョムキン号の反乱。7月、ロシアの全権ヴィッテ、ポーツマスに出発。9月5日、ポーツマス条約調印。

9月、日比谷焼打ち、国民新聞社も襲撃を受ける。【10月26日、ペテルブルクに労働者代表ソビエト成立、 ニコライ2世、立法権を持つ議会招集を宣言(翌年、この10月宣言を修正】。

1906(明治39)  漱石、1月、「趣味の遺伝」。4月、『坊つちやん』(『ホトトギス』)。5月、『漾虚集』。9月、「草枕」。10月、「二百十日」。

島崎藤村、3月、『破戒』。徳富蘆花、6月30日、トルストイを訪ねる。雑誌『黒潮』を創刊。第一高等学校で講演した「勝利の悲哀」を掲載する。12月『巡礼紀行』。

1907(明治40) 漱石、1月、「野分」を『ホトトギス』に発表。4月、朝日新聞社に入社。5月、『文学論』。6月、『虞美人草』を朝日新聞に連載(~10月)。

第2回ハーグ平和会議(常設の仲裁裁判所の設立を規定。ハーグ密使事件起こる。英露協商締結。英・仏・露の三国協商成立】。

1908(明治41) 漱石、1月『坑夫』(~4月)。4月「創作家の態度」(『ホトトギス』)。6月、『文鳥』(「大阪朝日新聞」)。7月、8月、『夢十夜』。9月『三四郎』(~12月)。蘇峰、改訂版『吉田松陰』。島崎藤村、『春』。【オーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合。清、溥儀が即位】。

1909(明治42) 漱石、1月、『永日小品』(~3月)。3月『文学評論』(春陽堂)。6月、『それから』(~10月)。満洲と朝鮮(当時)を旅行。10月『満韓ところどころ』(~12月)。11月、「『煤煙』の序」。11月25日「朝日文芸欄」を創設。

伊藤博文、ハルビンで暗殺される。蘆花『寄生木』出版。【アメリカで排日運動がさかんになる】。

1910(明治43) 漱石、3月、『門』(~6月)。6月~7月、胃潰瘍で入院。8月24日、修善寺温泉での「大患」。

4月、「白樺」創刊。5月、大逆事件。8月22日、日韓合併条約調印。9月、関寛斎が蘆花宅を訪問。石川啄木「時代閉塞の現状」。【11月トルストイ死去】。

 白樺創刊号(図版は「ウィキペディア」より)

(本年表は、子規に関しては坪内稔典氏の『正岡子規 言葉と生きる』(岩波新書)に掲載されている「正岡子規略年譜」の記述や「子規庵保存会」作成の略年譜、および柴田宵曲『評伝正岡子規』1986.6.16,岩波文庫。今西幹一・室岡和子『子規 百首・百句」1990.5.1,和泉書院。坪内稔典『子規山脈』1997.10.20,日本放送出版会。正岡子規『子規三大随筆』1992.3.20,講談社学術文庫を参考にして作成されたブログ「正岡子規年表」を元に加筆と訂正を行った。

夏目漱石に関しても『別冊 太陽――夏目漱石』(第32号)、水川隆夫『夏目漱石と戦争』(平凡新書)などの年表や『『小日本』と正岡子規』(大空社)を元に加筆をし、さらに、『新日本史主題史年表(改訂版)』(清水書院)、『新世界史主題史年表』(清水書院)『新日本史主題史年表』(清水書院)なども参考にして編集、作成した。

年表の開始は、正岡子規の師ともいうべき陸羯南が生まれた1857年とし、終わる年はトルストイが亡くなったばかりでなく、大逆事件が起きた1910年にした。年表では正岡子規は子規と、夏目漱石は漱石、福沢諭吉は福沢、徳富蘇峰は蘇峰、徳冨蘆花は蘆花と略記した)。

リンク『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015年)

(2017年8月15日、12月29日図版を追加、加筆)

年表5、坂本龍馬関連年表(1809~1869)

リンク→タイトル一覧(年表とブログ・タイトル)

 ISBN978-4-903174-23-5_xl(←画像をクリックで拡大できます)

坂本龍馬関連年表(1809~1869)

西暦   和暦     主な登場人物の活動と生没年(頻出する名前は幼名なども記す)

1809(文化6)   横井小楠(~69)、島津斉彬(~58)誕生
1810(文化7)   緒方洪庵(~1863)、 玉木文之進(~76)誕生
1811(文化8)   佐久間象山(~64)誕生、ロシア艦の艦長が逮捕される
1812(文化9)   高田屋嘉兵衛(1769~1827)、日本とロシアの衝突回避に尽力【→『菜の花の沖』】
1815(文化12)  井伊直弼(~60)誕生
1816(文化13)  吉田東洋(~62)誕生
1817(文化14)  島津久光(~87)誕生
1823(文政4)   勝海舟(~99)誕生。シーボルト来日
1824(文政5)   村田蔵六(大村益次郎)(~69)誕生【→『花神』】
1825(文政6)   岩倉具視(~83)誕生
1827(文政8)   西郷隆盛(吉之助)(~77)【→『翔ぶが如く』】、山内容堂(~72)誕生
1828(文政9)   松平春嶽(慶永)(~90)誕生。シーボルト事件発生
1829(文政10) 武市瑞山(半平太)(~65)誕生
1830(天保1)   吉田松陰(寅次郎)(~59))【→ 『世に棲む日日』】、大久保利通(一蔵)(~78)誕生
1833(天保4)   木戸孝允(桂小五郎)(~77)誕生
1834(天保5)   福沢諭吉(~1901)、岩崎弥太郎(~85)誕生

1835(天保6)   坂本龍馬(~67))【→ 『竜馬がゆく』】、土方歳三(~69)【→『燃えよ剣』】、 井上馨(志道聞多)(35/36~1915)誕生
1836(天保7)   榎本武揚(~1908)誕生
1837(天保8)   徳川慶喜(~1913)、三条実美(~91)誕生
1838(天保9)   中岡慎太郎(~67)、後藤象二郎(~97)、山県有朋(狂介)(~1922)、桐野利秋(中村半次郎)(~77)誕生。緒方洪庵、適塾を開く
1839(天保10)  高杉晋作(狂生、東行)(~67)誕生
1840(天保11) 久坂玄瑞(~64)誕生
1841(天保12)  伊藤俊輔(博文)(~1909)誕生。蔵六、適塾に入門
1848(嘉永1)  1月、松陰、独立の師範となる。龍馬、日根野道場で剣を学ぶ
1849(嘉永2)  6月、松陰、藩命で海防の実情を調査。海舟、蘭学塾を開く. 西園寺公望(~1940)誕生
1850(嘉永3)  8月、松陰、九州へ遊学に旅立つ
1851(嘉永4)  3月、松陰、兵学研究のため、江戸で安積艮斎・古賀茶渓・山鹿素水・佐久間象山らに学ぶ。12月、脱藩し、東北遊歴する
1852(嘉永5)  4月、松陰、江戸に帰る。7月、漂流民(中浜)万次郎、土佐に帰る。12月松陰、、亡命の罪で士籍・家禄を奪われ、杉家の育(はぐ   くみ)となる

1853(嘉永6)  1月、松陰、諸国遊学を許可される。 3月、龍馬、剣術修行のために江戸に出発する。9月、松陰、ロシア艦で密出国を試みる

1854(安政1)  1月、ペリー再来日。2月、諭吉、蘭学に志し、長崎に出る。3月、松陰、アメリカ艦へ弟子の金子と乗り込み、渡航拒否され、自首。4月、江戸伝馬町獄へ。6月、龍馬、江戸より帰国。河田小龍に会う。9月、幕府が松陰と金子、佐久間象山を自藩に幽閉処分。10月、松陰、野山獄へ

1855(安政2)  1月、金子、岩倉獄で病死。9月、松陰、「福堂策」を完成。12月、野山獄から自宅での蟄居へ。海舟、長崎海軍伝習所で学ぶ(~59)。 諭吉、適塾に入門

1856(安政3)  6月、松陰、幽室で講義。8月、龍馬、再度江戸遊学に出立する

1857(安政4)  4月、晋作、明倫館に入舎。松下村塾に入門。龍馬、千葉道場の塾頭となる。諭吉、緒方塾の塾長となる

1858(安政5)  3月、松陰、松下村塾の増築。9月、龍馬、江戸より高知に帰る。11月、松陰、老中襲撃の案。同月、晋作、江戸の昌平校に入る。12月、晋作、久坂らと松陰に書簡を送り、義挙の機ではないと勧告。松陰、野山獄に再入獄

1859(安政6)  3月、多くの門人ら松陰を敬遠。5月、藩より東送の命、以後、多くの門人、獄を訪れる。6月、江戸到着。7月、伝馬町の獄舎に入る。10月26日「留魂録」。10月27日、松陰、処刑される。10月29日、蔵六、女囚の解剖、桂小五郎との出会い。晋作、11月、久坂らと松陰の霊をとむらう

1860(万延1)  1月、海舟、諭吉、咸臨丸で渡米する。晋作、井上方と結婚。久坂らと輪読会。蔵六、宇和島藩依頼の蒸気船を完成、長州藩に出仕。同月、晋作、明倫館舎長を命じられる。9月、佐久間象山に会見。

1861(文久1)  3月、晋作、世子の小姓役を命じられる。 9月、龍馬、勤王党に参加。10月、和宮降嫁。12月、諭吉、使節団の通事として西欧に出発(~62)

1862(文久2)  3月、龍馬、脱藩する。4月、吉田東洋暗殺される。5月、晋作、幕府の「千歳丸」で上海に到着。8月、龍馬、江戸に赴き、このころ勝海舟に入門する。11月、晋作、久坂らと横浜各国公使館襲撃案。12月12日、晋作、久坂らと御殿山の英国公使館を焼き打ち。12月17日、龍馬、勝海舟とともに西上する

1863(文久3)  2月、龍馬、脱藩の罪が許される。3月、晋作、久坂、伊藤俊輔らと松陰の遺骨を若林に改葬。4月24日、神戸海軍操練所の建設が決定。 5月、長州藩、攘夷を決行。 同月、龍馬、越前に赴く。6月、晋作、馬関に赴き奇兵隊編成。7月、薩英戦争。8月、大政変。9月、土佐勤王党弾圧。10月、龍馬、神戸海軍操 練所の塾頭になる。伊藤、井上、イギリスに密出国

1864(元治1) 1月、晋作、脱藩して京都へ走り後、野山獄に投じられる。 2月、龍馬、勝とともに長崎に出張する、4月、横井小楠を熊本に尋ねる。7月、晋作、英国より帰国した井上聞多、伊藤俊輔をともない講和条約を締結。8月、龍馬、入京し西郷隆盛に会う。10月、晋作、長州征伐にたいする主戦論やぶれ、博多にむかう。12月、遊撃隊を率いて下関で挙兵、長州藩の内乱始まる

1865(元治2・慶応1)  5月、龍馬、熊本の横井小楠を訪ねる。5月頃、亀山社中成立、10月、晋作、龍馬と馬関で会い、第2次長州征伐の対策をねる。12月、龍馬、ユニオン号問題を調停する。中江兆民(1847~1901)、長崎で龍馬を知る

1866(慶応2) 1月22日、龍馬、薩長連合を成立させる。1月24日、寺田屋にて襲撃される。6月、晋作、海軍総督となる、幕艦を攻撃。3月、龍馬、お龍と霧島などに遊ぶ。6月17日、門司攻撃戦に参加

1867(慶応3) 4月、晋作、下関において死去。 同月、龍馬、海援隊長に任命される。4月23日、いろは丸事件おこる。6月15日、「船中八策」成文化する。9月、土佐に銃千挺を回漕。10月、新官制を草す。越前福井に向かう。11月上旬、「新政府綱領八策」を起草、11月15日、龍馬・中岡慎太郎とともに暗殺される。 12月、龍馬の復讐のため海援隊と陸援隊の隊士らが新選組を襲撃。

〈正岡常規(子規)(~1902)、夏目金之助(漱石)(~1916)誕生〉【→『坂の上の雲』】

1868(明治1) 1月、鳥羽伏見戦。戊辰戦争始まる(~69)。3月、勝海舟・西郷隆盛談判で江戸城総攻撃を中止。5月、上野彰義隊戦争。奥羽越列藩同盟成立。7月、長岡落城、9月、会津藩降伏。10月、榎本軍が五稜郭を占領

1869(明治2) 1月、横井小楠暗殺される。5月、榎本武揚軍降伏。9月、大村益次郎(蔵六)襲撃される。11月、傷がもとで大村益次郎死亡

*   *  *

勝海舟と坂本龍馬の関係や、吉田松陰と高杉晋作や桂小五郎との関係を中心に『竜馬がゆく』と『世に棲む日日』など考察した拙著『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと(人文書館、2009年)より一部省略して掲載。ここでは師匠の代の人間関係も確認するために、龍馬の師・横井小楠の誕生した年から記した。初出時以外は坂本龍馬を龍馬と、勝海舟は海舟、村田蔵六は蔵六、吉田松陰は松陰、高杉晋作は晋作、福沢諭吉は諭吉と略記する。

ロシアや世界史との関連については、年表Ⅰのドストエフスキー関連年表(1789~1881)を参照。
なお、本年表は『坂本龍馬』(飛鳥井雅道著、講談社学術文庫)、『吉田松陰』(田中彰著、中公新書)、『高杉晋作』(奈良本辰也著、中公新書)、および『新日本史主題史年表』(清水書院)などを元に編集、作成した。日付は太陰暦によった。

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(イサーク・レヴィタン「白樺の林」。図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

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年表1,ロシア史関連年表(一部掲載)

年表2,ドストエフスキー関連年表(1789~1881)

年表3「司馬遼太郎とロシア」関連年表   (1769~1996)

年表4,応仁の乱から徳川幕府の成立まで(1467~1616)

年表5,坂本龍馬関連年表(1809~1869)

年表6,正岡子規・夏目漱石関連簡易年表(1857~1910)

年表7黒澤明・小林秀雄関連年表(1902~1998)

年表8,『若き日の詩人たちの肖像』関連年表(1918~1945)

年表9,『ゴジラの哀しみ』関連年表(「原水爆実験」と「原発事故」、それに関わる映画を中心に)

 

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