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「暗黒の三〇年」と若きドストエフスキー

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26歳時のドストエフスキーの肖像画、トルトフスキイ絵、図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

 

「暗黒の三〇年」と若きドストエフスキー

「謎」としての人間

将来の戦争をも予期されるようなフランスとの緊張関係の高まる中で、ドストエフスキーの父・ミハイルは軍医の養成が急務となっていた際の募集に応募してモスクワの医学校に転校し、「祖国戦争」では軍医として働いた。しかも、この戦争で知り合った軍医の紹介でモスクワ商人の娘のマリアと結婚することができたミハイルは、その親類の援助もあり、ロシアの皇室との関係も深かった病院の医師として転職することにも成功していたのである。

しかし、ロシア帝国が「祖国戦争」で奇跡的な勝利をおさめた後で、皇帝アレクサンドル一世は戦争で荒廃したロシアの内政にではなく、「諸国民の解放戦争」と新しい国際秩序の確立に力を注いだ。そのために皇帝が亡くなった後では、憲法の制定を求めて青年将校たちによるデカブリストの乱が起きたが、それを鎮圧したニコライ一世は、フランスなどの外国からの影響を防ぐために、秘密警察や検閲を強化し、彼の治世は「暗黒の三〇年」と呼ばれるような時代となった。

このような中で、一代で世襲貴族の地位にまで出世したミハイルは、モスクワ郊外の村を買いとって村では絶対的な権力を持つ領主となったが、農奴たちとの軋轢から殺害されることになった。父ミハイルの横死の後で、「人間は謎です。その謎は解き当てなければならないものです」と記していたドストエフスキーは、「人間の謎」を解くために職を辞して作家になるという決断をしたのである。

それゆえ、ドストエフスキーが選んだ作家という職業は、彼が背負わねばならなかった問題と深く結びついており、それは「父親」という「一個人の謎」に留まるものではなく、「自己」と「他者」との複雑な「関係性」を深く考察することで、「人間の謎」に迫ろうとするものであり、ドストエフスキーの視線はそのような人間関係を規定している「教育」や「法律」などの「制度」にも深く及んでいるのである。

「イソップの言葉」

緊迫した哲学的な対話を通して登場人物の隠された心理にも鋭く迫った後期の長編小説と比較すると、ドストエフスキーの初期の作品は軽視されることが多い。しかし、後期の作品と比較すればドストエフスキーの初期の作品では主人公たちの心理分析の甘さが目立つが、それは単にドストエフスキー自身の表現能力の未熟さを意味するのではない。

むしろこれから詳しく考察するように、それは「暗黒の三〇年」と呼ばれたニコライ一世治下の厳しい検閲制度とも深く関わっていたといえよう。すなわち、厳しい検閲の眼を逃れるために、ドストエフスキーは初期の作品からいわゆる「イソップの言葉」を用いることで、驚くほど果敢にロシアにおける権力の腐敗や人間の心理の問題などに迫っているのである。

それゆえセンチメンタルな小説にしかみえないような小説の構造や、「道化」的なタイプの登場人物、さらには主人公が親友に対して自分の婚約者と一緒に仲良く暮らそうという提案なども、検閲の問題との関わりで読み解くとき別な様相を示していることに気付く。

しかも、第一作『貧しき人々』の題名に用いられた「貧しい」(bednaya)という形容詞は、「哀れな」という意味も持っているが、ドストエフスキーの作品においては「文学」や「良心」といった重要な単語でさえも二義性を持っており、同じ単語でありながら語り手や時間が違うとその意味を変えるものさえあるのである。

たとえば、一見すると中年の官吏と若い女性のセンチメンタルな物語に見える『貧しき人々』には、プーシキンの作品やゴーゴリの作品などが複雑な形で組み込まれている。それらの作品を「イソップの言葉」を解読する「鍵」として、この小説を読み解くとき、そこにはすでに「父親に捨てられた母親と子供」のテーマが秘められているばかりでなく、ここでは、学校における外国語教育の問題や、職場における「リストラ」の問題、さらには「プライヴァシー」や「個人の権利」の問題など、きわめて現代的な問題が考察されていることに気付くのである。

さらに、第一作とは正反対のタイプの官吏を主人公とした第二作『分身』では、権力者に取り入って立身出世を図ろうとする人物の破滅を「欲望の模倣」というきわめて独自な視点から鋭く描き出すことに成功している。

そしてフランス二月革命の余波が全ヨーロッパに及んでいた一八四八年に書かれた『白夜』や『弱い心』などではプーシキンにおける「ペテルブルグのテーマ」が深く再考察されているばかりでなく、主人公の女性をめぐるライバルとの葛藤の問題をとおして「夢想家」のテーマなど、後の長編小説でも重要な役割を演じることになる重要なテーマが多く描かれている。

こうして、文学という方法で農奴制などの過酷な制度を批判し、農奴制の廃止や憲法の制定などを求めるペトラシェフスキーの会で積極的に活動していたドストエフスキーは、ロシア軍がハンガリーに派兵されたのと同じ月の一八四九年の四月に捕らえられ、八ヶ月間にわたる厳しい取り調べの後で、年末に死刑を宣告されて刑場に立つことになったのである。

以下、本書では『貧しき人々』から『白夜』にいたるドストエフスキーの作品の分析することにより、クリミア戦争の時期にまで続いたニコライ一世(在世――一八二五~五五年)の「暗黒の三〇年」の時期に、ドストエフスキーが「人間の謎」にどのように迫ったのかを明らかにしたい。(後略)

(『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』、「はじめに」より。語句や文体を一部改訂)

 

長瀬隆氏の「アインシュタインとドストエフスキー」を聴いて

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長瀬隆氏の「アインシュタインとドストエフスキー」を聴いて

ペレヴェルゼフ『ドストエフスキーの創造』(1989、みすず書房)の訳者として知られる長瀬隆氏は、その考察を踏まえた『ドストエフスキーとは何か』(2008、成文社)では、作家のレオーノフが「アインシュタインとドストエフスキー」を研究の課題とすべきだと語っていたことを紹介し、昨年には『トリウム原子炉革命――古川和男・ヒロシマからの出発』(展望社)を刊行している。

例会での発表は長年にわたる研究を反映した重厚なものであったが、時間的な制約のために全部は語り尽くされなかったので、びっしりと書き込まれたA4版・10枚の配布資料で補いながら感想を記すことにしたい。

発表の前半では個人史にもふれつつ、ドストエフスキーからの強い影響が指摘される作家レオーノフの作品を学生の頃に熱中して読んだことや、30年代後半の大粛清の真最中に書かれたレオーノフの戯曲『吹雪』が発表されるにいたる経過や来日の際の質疑応答などが詳しく語られた。また、アインシュタインがこの時期のソ連では批判の対象とされていたことや、検閲などのために厳しい制限を受けていたペレヴェルゼフの『ドストエフスキーの創造』が、日本でも1934年にその一部が翻訳掲載され、小林秀雄の『ドストエフスキーの生活』にもその名前が見えるなどのエピソードも語られた。

ただ、なかなか本題の「アインシュタインとドストエフスキー」に話が到達しないので気をもんだが、マクロの世界を支配するのが調和である」と信じ、その解明を目指して「相対性理論を創造した」アインシュタインが、『カラマーゾフの兄弟』を「いままで手にしたなかでもっともすばらしい本です」と記し、「ドストエフスキーはどんな思想家よりも多くのものを、すなわちガウスよりも多くのものを私に与えてくれる」と絶賛していたことに言及するころから一気に佳境に入った。

すなわち、大著『アインシュタイン』の著者クズネツォフは、「非ユークリッド幾何学の最初の提唱者はロシアのロバチェフスキーであって、リーマンよりも30年も早く、その精神はドストエフスキーの中にも流れていた」と説明していた。それゆえ、「非ユークリッド幾何学なしには、空間の3点に時間を加えた四次元の世界(肉眼ではみえない)の発見、すなわち相対性理論の確立は無かった」とした長瀬氏は、「永遠の調和の瞬間」についても言及しているイワンが、「非ユークリッド幾何学の存在をしりながら、それが調和をもたらしていないことを指摘した」ことに注意を促して、アインシュタインがイワンの問題提起に強い関心を持ったのは、この統一場の理論の探求の時代になってからのようであるとした。

質疑応答もアインシュタインの調和との関連などについて議論が盛り上がり、充実したものとなった。小林秀雄が傾倒したベルグソンが「時間と空間のアマルガム(混合物)」と批判したことに対してアインシュタインが、「あなたには、時間(だけ)が有って空間が無い」と反批判したとの説明を聞いた時には、それまでの疑問が解消されたように思えた。

今年は原爆が日本に落とされたことに責任を感じてアインシュタインが哲学者のラッセルとともに組織したパグウォッシュ会議が初めて長崎市で行われた年でもある。質問でも指摘されたように、『カラマーゾフの兄弟』におけるアリョーシャに対する発表者の評価については議論の余地があると思えるが、『罪と罰』では「人類滅亡の悪夢」が描かれていたことを想起するならば、ドストエフスキーの作品に対するアインシュタインの切実な関心は伝わってくる。

「ジャンルの境界」を超えてアインシュタインの倫理観とイワン観の重要性を指摘した今回の発表は、『カラマアゾフの兄弟』論で「完全な形式が、続編を拒絶してゐる」と断言していた小林秀雄が、なぜ「あれは未完なのです」と語るようになったのかを考える上でもきわめて示唆に富むものであった。

リンク→アインシュタインのドストエフスキー観と『カラマーゾフの兄弟』

作品の解釈と「積極的な誤訳」――寺田透の小林秀雄観

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 作品の解釈と「積極的な誤訳」――寺田透の小林秀雄観

はじめに

文芸評論家・小林秀雄(1902~1983)のドストエフスキー論からは高校生の頃に強い影響を受けたが、小林秀雄の『白痴』論をドストエフスキーのテキストと具体的に比較しながら読んだ時に、客観的に分析されているように見えたその解釈が、きわめて情念的で主観的なものであることに気づいた。

フランス文学者・寺田透(1915~1995)の『ドストエフスキーを讀む』(筑摩書房、1978年)については、拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011年)で簡単に触れたが*1、自分の感性によってドストエフスキーのテキストを深く読み込むことで、ドストエフスキー作品の独自な解釈を行った小林秀雄の方法と同じように研究書には依拠せずに書きたいと考えていたために、寺田透の小林秀雄観については手つかずのままであった。

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ようやく調べ初めてみるとすぐれた卓見が随所に見つかった。私自身はフランス語にうといので、翻訳の問題に深く立ち入ることはできないが、小林の翻訳や文体についてだけでなく、『ゴッホの手紙』などの伝記的研究の問題点についても鋭い分析を行っていた寺田透の記述を年代の流れに沿って考察することにより、小林秀雄のドストエフスキー解釈の問題に迫りたい(本稿においては、敬称は略した)。

1、文体の問題と伝記的研究

1951年に発表された「小林秀雄論」で、小林の最初の評論集が上梓された時は、「中学四年の末、高等学校の入学試験準備に忙しい最中だった」と記した寺田は、「まず僕を魅したのは、かれの自我の強烈さだった、ということが今になれば分る。僕はかれの思想に食い込まれるというより、かれの精神の運動に眩惑されたというべきだ」と書いた*2。そして、「たしかにかれはその文体によって読者の心理のうちに生きた」と強烈な文体からの印象を記した寺田は、「いわば若年の僕は、そういうかれの文体に鞭打たれ、薫染されたと言えるだろう」と続けていた。

しかしその後で、小林のランボーの訳詞などに徐々に違和感を募らせたことを記した寺田は、伝記的研究の『モーツアルト』において「二つの時代が、交代しようとする過渡期の真中に生きた」とモーツアルトを規定し、「彼の使命は、自ら十字路と化す事にあった」と記していた小林自身は、「みずから現代の十字路と化すかわりに、現代の混乱と衰弱を高みから見降し、過去をたずね、そこからかれ迄通じている歴史の脈路を見出すことに、かれの資質にかなった生き方を見出す」と分析して、両者の違いを明らかにした。

さらにここではそのような解釈の方法は、小林が「対象を自分に引きつけて問題の解決をはかる、何というか、一種の狭量の持ち主であることをも語っている」と記されているが、それは小林の『ゴッホの手紙』に対する批判にも通じている。

1953年に書かれた「ゴッホ遠望」で寺田は、「批評家小林秀雄には多くのディレンマがある。そのひとつは芸術家の伝記的研究などその作品の秘密をあかすものではないと、デビュの当初から考え、…中略…それを喧伝するかれが、誰よりも余計に伝記的研究を世に送った文学評論家だということのうちに見出される」と指摘しているのである*3。

さらに寺田は、小林秀雄が度々伝記を調べて評伝を書いている理由を、「そこにあるのは、評伝が芸術作品の代用をつとめうるという仮設、といっては余りにも無態だが、巧みに書かれた評伝は、その評伝の主人公である人間の芸術作品によって惹起される感動を近似的に再現しうるのじゃないかという願望である」と想定している。

実際、小林秀雄の生活と初期の作品を小林的な方法で詳しく考察した文芸評論家の江藤淳も、伝記的研究の『小林秀雄』でE・H・カーのドストエフスキー論と比較しながら、「いはばカアの主人公はペテルスブルグの街路を歩いているが、小林のドストエフスキイは彼自身の心臓の上を歩いている」と書き、『白痴』の最後の場面の解釈について「ことに小林が『滅んで行く』三つの生命に、自分と中原中也と長谷川泰子との、『憎み合うことによつて、……協力する』あの『奇怪な三角関係』を投じて見ていることは疑いをいれない」と解釈している*4。

このような江藤の指摘は、小林秀雄の『ドストエフスキーの生活』と『白痴』論との関連をも示唆していると思える。すなわち、「『白痴』についてⅡ」では、ムィシキンの癲癇という病や、主人公とナスターシヤをめぐるロゴージンとの三角関係などに焦点をあてて解釈されるとともに、やはり癲癇という病を持ち愛人との三角関係も体験していたドストエフスキーとの類似性に注意を促していたのである。

一方、小林の伝記的研究へのこだわりを指摘した寺田は、その後で「それはそうとゴッホに対してこの小林のやり方はうまく行っただろうか。/世評にそむいて僕は不成功だったと思っている」と続けていた*5。

そして、「これらのゴッホの作品を叙する小林秀雄の論鋒は奇妙に変転し、評価のアクロバットと言いたいような趣きを呈する」と指摘した寺田は、「小林流にやったのでは」、「絵をかくものにとって大切な、画家ゴッホを理解する上にも大切な考えは、黙過されざるをえない」と指摘していた。

この批判は小林秀雄の『白痴』論にも当てはまるだろう。拙論「長編小説『白痴』における病とその描写」でも指摘したが、家族関係を解体して「孤独な個人」に焦点をあてた小林の解釈では、長編小説に描かれている複雑な人間関係が意図的に省略されているために、長編小説全体の理解に重大な「歪み」が生じているのである*6。

さらに注目したいのは、ルナンの『イエス伝』がゴッホに与えた強い影響に言及した小林が、「ルナンが『キリスト伝』を書いたのは、ドストエフスキイが、シベリヤから還つて来て間もない頃である。ドストエフスキイが、この非常な影響力を持った有名な著書を読んだかどうかは明らかではないが、読んだとしても、恐らく少しも動かされることはなかったであらう」と断言し、「恐らく、美しい宗教画など、彼には何んの興味もなかつたのである」と続けて、「無気味なものや奇怪な現象に強い興味を示したムィシキン」と作者との類似性を強調していたことである*7。

ゴッホとドストエフスキーとを比較しつつ描かれているこれらの記述は、映画監督を目指す前にはゴッホやセザンヌのような画家になることを目指していた黒澤に、強い反発心を起こさせたと思える。

なぜならば、黒澤明監督は木下恵介監督により1948年に公開された映画《肖像》のシナリオで、『白痴』のナスターシヤと同じような境遇のミドリを主人公とし、老画家から頼まれて肖像画のモデルとなったミドリに、「私ね、じっと座ってその画描きの綺麗な眼でじっと見られていると、なんだか、澄んだ冷い流れに身体をひたしている様な気がするの」と告白させていたからである。こうして、黒澤はこの脚本で画家の家族にも励まされて苦しくとも自立しようとするミドリの姿を描き、真実を見抜く観察眼の必要性と辛くても「事実」を見る勇気が、状況を変える唯一の方法であることを強調していたのである*8。

映画《夢》を論じた拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』の第4章では、この映画が『罪と罰』における夢の構造との驚くような類似性があることを示して、そのような類似性が生じたのは小林秀雄の『罪と罰』観を黒澤明が批判的に考察し続けたことの結果ではないかと記した*9。

さらに、ゴッホの絵の展覧会場で絵に見入っていた主人公の「私」が絵の中に入り込み、ゴッホと出会うシーンが描かれている第五話「鴉」が挿入されているのも、小林秀雄のゴッホ観への批判が根底にあったかではないかという想定をしていた。「ゴッホ遠望」における寺田の考察は、私のこの想定を支える有力な根拠となりうると思える。

この考察に続いて1955年に発表した「小林秀雄の功罪」という題のエッセーでも寺田透は、「ゴッホにとっては、その内部に蠢(うごめ)き、かれをつき動かし、かれに静止を許さなかったその情熱的な、というより宿命的な生の規範が、小林氏にとっては、いわば箴言(しんげん)にすぎなくなっているのを見た」と小林の『ゴッホの手紙』を痛烈に批判していたのである*10。

 2、「自意識過剰」という訳語――翻訳と解釈

「その頃のヴァレリー受容」と題された1983年の日本フランス語フランス文学会関東支部春季総会の講演で、小林秀雄の『テスト氏』の翻訳が出版された1932年に、「僕は第一高等学校の文科丙類の生徒で、二年生」であったと語った寺田透は、当時は「ひどい就職難の時代で」、「こういう閉塞状態が自意識、自己意識の問題を発達させた」こともあり、

「それで小林秀雄氏の訳したヴァレリーの『テスト氏』の中の訳語、自意識過剰というようなものも、たちまち行き渡り、時代の、少なくも青春にかかわる一般的命題になった」と当時のヴァレリー受容と時代との関わりを語った*11。

その後で小林秀雄が「exces」*という原文を「過剰」と訳していることにふれて、「過剰といいますと、だいたい量的に多すぎるということがその日本語としての語感」であるのに対し、「excesという言葉は」、「分量の問題よりも程度の問題になってくる。平面的にひろがる多さではなく、高く、強く、上にのびる大きさということになる」と説明している。

そして寺田は、『テスト氏』の主人公が「そのころの青年たちが抱えていた自意識過剰とは違う、もっといわば能動的、積極的な、自分をふたりとない強力な存在として意識するときの誇り高い自意識に苦しんでいた」ことを指摘し、「それは批評家として乗り出して行こうとしている小林さんの自意識とはずいぶん性格のちがうものだったと考えていいでしょう」と続けて、原文と訳語のニュアンスの違いに注意を促していた。

この指摘から思い起こされたのは、小林秀雄が「『白痴』についてⅠ」で「『白痴』は一種の比類のない恋愛小説には相違ないが、ムイシュキン、ナスタアシャ、ラゴオジン、アグラアヤの四人の錯雑した関係のうちに、読者は尋常な恋愛感情、恋愛心理を全く読みとる事は出来ない」と断定し、ことにナスターシヤを「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定していたことである*12。長編小説『白痴』にプーシキンの作品からだけではなく、フランスの『椿姫』や『レ・ミゼラブル』からの強い影響と、独自な受容を見ていた私はこのような解釈にたいへん驚かされた。このように規定されてしまうと、小林秀雄のドストエフスキー論の読者は、ナスターシヤの内に精神的な自立を目指した女性や、彼女にふさわしい男性になろうとしてプーシキンの作品を読み、ロシア史を学ぼうと努力していたロゴージンの可能性を読み落とすことになると思われる。

さらに、主人公の「善」と「悪」の意識に関わる重要な箇所を小林秀雄が意図的に誤訳したと指摘している寺田の次の指摘は小林秀雄のドストエフスキー論の厳しい批判ともなっている。少し長くなるが引用しておきたい。

「こういう、より情緒的、より人間臭く、そして、じかに生理にはたらきかけてくる表現の方向をとる小林さんの傾向は『テスト氏』の翻訳の中にも頻繁に見出され」と書いた寺田透は、「『善と縁を切る』といった訳語でなければならない」、「s’abstraire de」という原文を、「『善に没頭する事はひどく拙い』と小林さんのように訳しては、話が反対になってしまいはしないでしょうか。/小林さんはこういった間違いを不注意でやったのではないと僕は感じるのです」と記して、こう続けている*13。

「善を断つにはひどい苦渋を伴うが、悪を断つことは楽々とできるテスト氏の性分を暗示した対句ととらなければなりませんでしょう。/あとのほうを小林さんは『悪には手際よく専念している……』と訳していますが、こうなると、ある人間解釈にもとづく、積極的な誤訳としかいいようがありません」(太字は引用者)。

そして「小林秀雄氏の死去の折にⅢ」という副題を持つ講演記録では、「小林さんは良心の導き手である宗教人といったものを、俗物ときめてかかったのではないか」という深刻な疑問も記されているのである。

寺田が『テスト氏』で感じた疑問は、主人公には「罪の意識も罰の意識も」ないと解釈して、ラスコーリニコフの精神的な「復活」を描いた『罪と罰』のエピローグが読者のために書かれたと小林が解釈していたこととも深く結びついているだろう。

3,「後世のために自分の姿を作つて行くひと」

1948年の8月に行われた物理学者・湯川秀樹博士との対談で、原爆の発明と投下について、「人間も遂に神を恐れぬことをやり出した……。ほんとうにぼくはそういう感情をもった」と語った小林秀雄は、「高度に発達する技術」の危険性を指摘するとともに、「目的を定めるのはぼくらの精神だ。精神とは要するに道義心だ。それ以外にぼくらが発明した技術に対抗する力がない」と強調していた*14。

問題はそのように時代を先取りするような倫理的な発言をしていた小林が、原発が国策となると沈黙していただけでなく、さらに、「国策」としての戦争の遂行を擁護するような戦前に書いた文章を全集に収録する際に改竄したり削除していたことである。

一方、寺田透は『文学界』に寄稿した「小林秀雄氏の死去の折に」という記事で、「男らしい、言訳けをしないひととする世評とは大分食ひちがふ観察だと自分でも承知してゐるが」と断った上で、次のように明記していた*15。

「戦後一つ二つと全集が出、その中に昔読んで震撼を受けた文章が一部削除されて入つてゐるのを見たり、たしかに読んだ筈の警句がどこからも見出されない経験をしたりしてゐるうち、僕はかれを、後世のために自分の姿を作つて行くひとと思ふやうになつた。/作られた自分の姿のうしろから自分は消える、さうしなければならない。自分を抜け殻――かつてはさう呼んだもの――のかげに消してしまふこと」。

小林秀雄の文芸評論は今も高く評価されているように見えるが、寺田の小林評は日本における文学の意義を再構築する上できわめて重要だと思える。

 

フランス語の「exces」にアクサン・グラーヴが付けられれないので、そのままになっている。

*1 高橋『黒澤明で「白痴」を読み解く』、成文社、2011年、155頁。

*2 寺田透「小林秀雄論」『小林秀雄集』(『現代日本文學大系』60)、1969年、427頁。

*3 寺田透「ゴッホ遠望」、前掲書『小林秀雄集』、438頁。

*4 『江藤淳著作集』第3巻、講談社、1977年、137~146頁。

*5 寺田透、前掲論文「ゴッホ遠望」、439~441頁。

*6 高橋「長編小説『白痴』における病とその描写――小林秀雄の『白痴』論をめぐって」『世界文学』117号、2013年参照。

*7 『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、186~187頁、277頁。

*8 高橋『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、2014年、34~38頁。

*9 平野具男氏の精緻な「書評的短見」では、哲学的な議論が多い第4章については「論の運びが突っ込みと展開にやや物足りない観」があるとの厳しい指摘とともに非常に温かい評価を頂いた。『世界文学』120号、2014年、100~108頁。

*10 寺田透「小林秀雄の功罪」、前掲書『小林秀雄集』、441~448頁。

*11 寺田透「その頃のヴァレリー受容――小林秀雄氏の死去の折にⅢ」『私本ヴァレリー』、筑摩叢書、1987年、58~63頁。

*12 『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、94~95頁。

*13 寺田透、前掲論文「その頃のヴァレリー受容」、74~77頁

*14 『小林秀雄全作品』第16巻、新潮社、2004年、51~54頁。

*15 寺田透「小林秀雄氏の死去の折に」『文學界』、1983年、70頁。

(『世界文学』第122号、2015年12月、96~100頁)

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司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって

「陶酔といふ理解の形式」と隠蔽という方法――寺田透の小林秀雄観(2)

「事実をよむ」ことと「虚構」という方法――寺田透の小林秀雄観(3)

(2016年2月1日、関連記事一覧を追加。2017年11月9日、書影を追加))

The Acceptance of Dostoevsky in Japan

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The Acceptance of Dostoevsky in Japan   — the theme of St.Petersburg and dialogue as the means

Preface

The United Nations proclaim the year 2001 the year of dialogue between civilizations. Regrettably partly because of September 11th attacks, in many countries and areas people seek to settle their disputes by force, not through dialogue.

Dostoevsky, a Russian novelist who considered deeply the problem of conflicts between “self and others” in his many works such as “Crime and Punishment” is the one of the most popular foreign writers in Japan. For example, three different editions of Dostoevsky’s complete works have beenpublished so far.

In addition to that, in 2000, the international conference on the theme of “The Twenty-first Century through Dostoevsky’s Eyes-The Prospect for Humanity” was successfully held in Japan for five days in which many scholars including 25 from foreign countries participated. (The schedule included a short excursion introducing Japan.) At the conference there many reports were made on ‘the importance of dialogue’ in the works of Dostoevsky*1.

Henceforth this paper will analyze the meaning of the acceptance of Dostoevsky in Japan from the viewpoint of comparative civilizations, noting the theme of St.Petersburg and dialogue as the means. Through this attempt, I intend to seek for the possibility of overcoming the clash of civilizations.

 

1, Peter the Great’s Reforms and Russo-Japanese Relations

Now St.Petersburg is celebrating the tercentenary. It is interesting that this year Edo, which was once the seat of government of the Tokugawa Shogunate and later turned to be the capital Tokyo happens to be attain the quadricentenary of foundation.; moreover, like the Romanov dynasty, the Tokugawa Shogunate maintained very long regime over 250 years from 1603 until 1867. The big difference is that while the Romanovs, especially Peter the Great employed ‘open-door policy’, the Shogunate kept ‘isolationism’: In 1612 international trade with European countries was forbidden. The Shogunate prohibited the Japanese people from returning from abroad and, at one point, even refused to receive its people who suffered shipwreck.

Peter the Great was the first ruler who wanted to begin trade with Japan during the period of Japanese isolation by the Edo Shogunate. Knowing of such policy in Japan, Peter the Great who met with such victims in 1702, founded a Japanese school in St. Petersburg in 1705 and appointed these Japanese as teachers. (The death masks of some Japanese teachers had been kept in the Kunstkamera). These conditions reflected in the following case. In 1783, a Japanese merchant, Kodayu, was shipwrecked on a Russian island. He got to Russia and learnt many things while he was in Russia, but he still longed to go home. Catherine the Second, the successor of Peter the Great’s policy, thought that this was a good chance to have contact with Japan. In 1792, she sent him in a Russian ship to the Japanese ruler. After returning from Russia, Kodayu gave a wide range of useful information about Russia; customs, history, language and so on. He also gave such information that Peter the Great had reformed Russia and been regarded very highly.

 

2, Peter the Great’s ‘Enlightenment’ and Meiji Restoration in Japan

From the beginning of the 19th century other Western countries also came to Japan to demand the opening up of several ports for trade. Many people who wanted to preserve traditional Japanese ways and, to that purpose, they went so far as to propose the killing of foreigners. Some able administrators, however, found such measures useless, and wanted to establish a new political system immediately so as not to be conquered like India and China and began to adopt European civilization.

In this sense it is interesting that there were some thinkers who thought Peter the Great’s enlightenment in Russia would be a good model for Japan. Indeed after the Meiji Restoration was achieved in 1868, the new Japanese government carried out many reforms :the establishing of a conscription system; the relocation of the Capital from Kyoto to Tokyo; That is, the new Edo became a “window” from which European civilization came in : the introduction of a compulsory education system; the sending of many students abroad; the employment of many engineers and teachers at top salaries. They even carried out a ban on the old traditional hair style and constructed a special ball room in Tokyo in order to learn European customs etc. Of course not every reform was based on Peter’s, but some of them are obviously similar.

After opening its doors, Japan’s situation changed dramatically. Successful industrialization and militarization of the country brought the government wealth and produced a new rich class. In 1894 Japan dared to go to war with China, a country which once had a great influence on Japanese culture. Japan won this encounter and gained a market in Korea.

But a successful modernization of the country did not mean an improvement of the situation for the general population. In order to carry out many reforms, the new government needed more money and they exacted heavy taxes from the people.

Russia was not able to play an important role in the political and industrial field in Japan, however Russia made a great contribution to Japanese literature.Kawabata Kaori, a scholar of Russian literature and comparative literature suggested that in 1908 the total number of translations from Russian literature exceeded those of English literature. He explained the reason in such a way: the description of deep suffering from rapid civilization and a search for solutions to such problems aroused the sympathy of the Japanese people, because they had almost the same problems.

In this sense, it is intriguing that Yamamoto Shin, a Japanese scholar of comparative study of civilization analyzes as follows: Both Japan and Russia started as ‘peripheral civilizations’ based on Chinese and Byzantine Empires respectively, and only gradually developed originality. He observes that, when they encountered Western civilization in the modern age, “Both countries adopted a policy to strengthen their economic base and military power in a hurry, for fear of colonization by the great Western powers which surpassed them. They forced modernization ‘from the top’ by means of Westernization for that purpose”. This is particularly true of Peter the Great who abolished Russia’s former isolationism, and whose “policy was similar to our Meiji Restoration to some extent”*2.

Yet when the economical situations went worse and conflicts with Western nations became frequent, repulsion to westernization and revival of tradition of own country arose–this time from the public.

Noticing the alternation of contempt for the indigenous traits through worship of the West and ethnocentric nationalism as a reaction against it, Yamamoto Shin, a scholar of comparative study of civilizations argues that the cyclical change takes place every twenty years. It is interesting that both the highest and the lowest point in the cycle curiously coincided with the acceptance of Dostoevsky in Japan.

 

3, Dostoevsky’s Works and the theme of St.Petersburg

Dostoevsky’s father Mikhail rose to aristocrat in his lifetime thanks to the system established by Peter the Great which made it possible that any able man should be promoted.

Young Dostoevsky appreciated highly such modernization by Peter, while he criticized in his first novel,”Poor Folk”, the problems of serfdom and censorship from a westernizer’s viewpoint following the grand tradition of Pushkin’s “The Bronze Horseman” written with St.Petersburg as the background.

However, having released from banishment to Siberia, he began to advocate ‘Pochvennichestvo'(native soil conservatism), observing the importance of and reconciliation with Russian cultural and historical tradition, for drastic westernization was apt to shake the cultural foundation of one’s own country and bring its people to identity crisis, only to provoke chauvinism as a reaction.

After the journey through Europe in 1862, he wrote ” Crime and Punishment”, in which he depicted murders and agony of an excellent student who had been forced to leave the law school of St.Petersburg University for poverty. What has to be noted is that Dostoevsky had the protagonist who regarded struggles for existence as the laws of nature invented a theory that an ‘extraordinary man’ was allowed to kill evil men. This novel, especially before the World War the Second, put questions to Japanese readers as to one’s own self and the means of enlightenment. About this novel, various interpretations were made. One went so far as to sympathize the protagonist and insisted that one should not flinch from war for a reformation of the World*3.

As the studies of Dostoevsky are proceeding, however, gradually it has become clear that this novel did not appreciated the theory of “superman” but represented the collapse of it.

In the epilogue of “Crime and Punishment”, having Raskolinikov dream of the extinction of the human race, Dostoevsky carried out the conversion of Raskolinikov’s “egocentric view of the world”*4.

Such a point of view was a result of Dostoevsky’s own experience in Siberia, who lived with people in the bosom of the nature. Although it appeared to be an idea of compromise, it already had some modern themes such as importance of dialogue between ‘self’ and ‘others’; the intellects and the public, one’s own nation and other nations, the human race and the nature.

 

4, The ‘Diversity’ of the Edo Era and Golovnin

I will take an example to show how to overcome the clash of civilizationsinthe Russo-Japanese contact. When Russia was invaded by the Napoleon army in 1812, it was on the brink of another war in the far east, for its relation with Japan had become worse for the territorial issues and trade friction. It was Takadaya Kahei, a Japanese merchant who contributed to avert this crisis. With knowledge of the level of Russian culture, he respected both Russia and Japanese cultures and maintained persistently the risk in war as the means, saying that Japan had not made war nor invaded any countries for two hundred years and finally succeeded in liberation of Golovnin who had been detained for intrusion of territorial water.

Golovnin who had been in prison in Japan for three years was surprised at a low illiteracy percentage of the Japanese and politeness of the people. In his book, “The Experiences of a Russian Prisoner in Japan” published in 1816. he defined Japanese civilization as completely different type from a European civilization, still described Japan as one of the most civilized nation in the world. Chaadaev in “Philosophical Letters” referred to this book*5.

Actually, the policy of isolation gave a period of about 300 years of peace to Japan, so that national wealth was not wasted and it led to a development, not only in the commercial system, but also in education. Therefore about two hundred seventy clans live together and compete with each other to develop their own cultures and enhance their productivity. Ukiyoe or wood block prints which influenced greatly the Impressionists is one of the instances. This high level of culture led to drive the rapid successful modernization in Japan after the Meiji period.

According to the Commentary, Golovnin’s book gained popularity and was translated into all European languages. It is young missionary Nikolai that was most influenced by this book. He came to be interested in above-mentioned Takadaya Kahei and the Japanese culture. He came to Japan and in addition to missionary work, he introduced Russian literature, including Dostoevsky, which had great influence on many Japanese.

From my point of view, this episode proves that the world today needs understanding of ‘self and others’ through ‘dialogue as the means’. Dostoevsky depicted his novels by the method of polyphony stressing on dialogue instead of monophony and have had a great influence on other novels since then. Shiba Ryotaro, a novelist who wrote a novel about Takadaya Kahei, said the ‘diversity’ of Edo period enabled Japan’s peaceful development*6. I think the principle of diversity was very important for opening up the possibility of overcoming the clash of civilizations. In other words, the world is not composed of just one kind of flowers and butterflies, but made up of variety of flowers, trees and butterflies. Just like this, when the polyphonic voices, not monophonic one, sing in harmony, we can establish the peace of the world.

 

5, The Clash of Civilizations and the Solution for that

In 1993 S.P.Huntington analyzed the world situation after the cold war and suggested that a number of countries which shared the same religion began an alliance mainly against European civilization*7.

However, this is not the first time in history that we encountered such a situation. From the viewpoint of comparative civilizations, it is noteworthy that after the Crimean War, Danilevsky, an old friend of Dostoevsky appealed to Slavic counties to unite against Europe *8. And before the Second World War, Japan also proposed a confederation among Asian countries against Europe.

In other words, when the clash of civilizations is emphasized, small and weak countries with a civilization in common seek to unite for survival. In his philosophiacal book written in the form of dialogue, Nakae Chomin analyzed French and German history and concluded that wars were apt to recur and expand, because after a war, the lost country claimed ‘the right of reprisal’ and develop powerful weapons*9. Indeed oppression by strong military power may obtain success for a while, but after several years or several decades, ‘a war of reprisal’ will possibly break out.

Thus along with dialogue as the means, the idea, “thou shalt not kill” which Dostoevsky stated in “Crime and Punishment” is the basic principle of all civilizations as well as those of Buddhism, Islamism and Christianity.

 

Notes

*1 See, Doetoevsky Square, No.,10, Edited by The Japanese Dostoevsky Society,2001(in Japanese)

*2 Yamamoto Shin, Shuhen-bunmeiron, Tosui-shobo,1985, p.62-63

*3 Takahashi Seiichiro. The Acceptance of “Crime and Punishment in Japan”: On the Theory of the Cycle of Westernization and Nationalism,”The Twenty-first Century through Dostoevsky’s Eyes-The Prospect for Humanity”ID Graal,Moscow,2002,pp.76-81(in Russian)

*4 Takahashi Seiichiro. Problem of Conscience in the novel “Crime and Punishment”, Dostoevsky.Materialy i issledovaniya,vol.10,L.,Nauka,1990,pp.56-62(in Russian)

*5 Chaadaev,P.Ya., Polnoe sobranie sochinenij i izbrannye pis’ma, vol.1,Nauka¤M.¤1991,p.333,p.695

*6 Shiba Ryotaro, Nanohana no Oki, Bungei-shunju,1982

*7 Huntington, S.P.”The Clash of Civilizations?”, Foreign Affairs,Summer 1993

*8 Danilevsky,N.Ya.,Rossiya i Evropa,izd.Glagol j izd.S-Peterburgskogo universiteta,@SPb,1995

*9 Nakae Chomin, San suijin keirin mondo, Iwanami-shoten, 1965 (originally published in 1887)

Comparative Civilizations Review, No.51,2004)

 

サンクト・ペテルブルクでの国際比較文明学会の報告

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はじめに

2003年9月16日から22日まで国際比較文明学会とそれに続いて学術研修旅行がサンクト・ペテルブルクの建設300周年を記念してロシアで開かれ、筆者は「日本におけるドストエフスキー受容ーーサンクト・ペテルブルクのテーマと方法としての対話」という発表を行った。

主な関心はサンクト・ペテルブルクとロシア文学との関わりを再考察するとともに、比較文明学の創始者の一人とも言われるダニレフスキーや文学作品において深い歴史的考察を行ったプーシキンやその伝統を受け継ぐドストエフスキーやトルストイなどの大作家を輩出しているロシアにおいて、比較文明学の大会がどのように受け入れられるかに強い興味を持ったからでもある。

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(アレクサンドル・ネフスキー大修道院の外観。図版は「ウィキペディア」より)

もう一つの関心は学会での発表が終わったあとに組まれていた学術旅行で、そこにはロシア建国の際の都市であるノヴゴロドやプーシキンゆかりの都市であるプスコフなどとともに、ロシア最古の都市として耳慣れない都市の名前も書かれており、きわめて強い関心をもった。

ただ、ロシアの経済が混乱から完全には脱し切れていない中で、国際比較文明学会と国立エルミタージュ美術館、ソローキン・コンドラチェフ研究所、ロシア科学アカデミー歴史部門などロシア側の5学術団体が共同して行うこのような規模での国際学会を果たしてきちんと乗り越えられるかにも強い不安もあった。実際、運営方法をめぐっては様々ないきさつがあったようで、最初の日程表とは異なるものとなり、レジュメを送ってからもそれに対する応答がほとんどなく、さらには送金先の銀行に対する情報がなく入金されるかどうかは確信がありませんと日本の銀行から言われたり、ビザも出発間際までとれるかどうかもわからないなど、多くの不安を抱えたままでの出発となった。

それゆえ、モスクワからの夜行列車でサンクト・ペテルブルクの駅に16日の早朝に着いて、出迎えの係りの人から報告者の名前が記入された正式な予定表を渡された時には、ほっとした。なぜならば様々な困難に直面して途中で参加を取りやめにした方も多いと聞いていたが、そこには多くの日本人研究者の名前があったからだ。

すなわち、後でロシア側の組織者からもらった資料によれば、ロシア人約110名の他に、外国からも、アメリカ、日本、アイルランドから4名、スイス、フィンランド、スペイン、韓国などから44名(同伴者を含む)が参加していたが、アメリカ人の19名に次ぐ14名の方が万難を排して日本から参加されていたのである。お名前を記してその労に報いたい。すなわち、伊東俊太郎夫妻、川窪啓資夫妻、服部英二父子、宮原一武夫妻、奥山道明、松崎登、犬飼孝夫と私の他に、サンクト・ペテルブルク大学大学院で研究中で通訳などの労も買ってくれた大高まどか氏とホームページで見て飛び入りで参加された藤原ゆりこの各氏である。

以下、このときの大会と学術旅行の模様を簡単に報告する(本稿では原則として敬称を略す)。

 

1,サンクト・ペテルブルクでの学会

宿泊のホテルは、ネヴァ川添いにありアレクサンドル・ネフスキー大修道院の向かいに位置する大きなモスクワ・ホテルであった。この大修道院にはドストエフスキーやチャイコフスキー、さらにモスクワ大学の創設者ロモノーソフなどの墓があるので、いわばロシアの歴史と直面しながらの学会となり、初日から船による市内観光が組まれており、時間的な制約のなかでの精一杯の歓迎ぶりがみられた。

2日目の午前中は、4つのグループに分かれて、国立エルミタージュ美術館、文化人類学・民族学博物館(クンストカメラ)、科学アカデミー・東洋学研究所、科学アカデミー物質文化史研究所などを見学し、専門員からの説明を受けた。

私はピョートル一世によって創設され、ロモノーソフなどとも関係が深い文化人類学・民族学博物館(クンストカメラ)を訪れた。残念ながら、日本人学校の教師ゴンザなどのデスマスクを見ることはできなかったが、日本人の研究者が多いのを知った係員からラクスマンからエカテリーナ二世に献上された漂流民・大黒屋光太夫ゆかりの品物などや日本にも訪れたことのあるラングスドルフがアメリカで収集した物品のコーナーなどの詳しい説明があった。

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(クンストカメラ。図版は「ウィキペディア」より)

国立エルミタージュ美術館での昼食を挟んで、美術館に納められているトラキアやギリシャの金製品の多くには専門の研究者も目をみはっていた。さらにこの後には噴水で有名なピョートル宮殿への小旅行が実施され、夜には主催者による晩餐会も用意されていた。

18日の10時から科学アカデミーの学術センター会議室で行われた発表は、「サンクト・ペテルブルクーー文明間の対話の都市」、「東西の諸文明と諸文化の交流におけるロシア」、「グローバリゼーションと文明の未来」の3つの部会に分かれていた。しかし、いずれの部会も同じ会議室で行われたことや、ロシア側の実行委員会の組織が5つの学術団体で組織されていたために、予想通りそれぞれの組織から多くの発表希望者が出たので、その場で発表時間を大幅に制限され、さらに質疑応答の時間も削られるなどの不備がでた。ただ、発表はロシア語と英語で行われ、英語には2名の同時通訳者がついた。また、直前まではレジュメが印刷されているかどうか分からずに心配していた資料集は、下記のような2冊の論文・レジュメ集の形で渡され、発表時間の不足の不備を補ってあまりあるものだった。

たとえば、『東西の諸文明と諸文化の対話におけるサンクト・ペテルブルク』と題された191頁からなる論文・レジュメ集には、編者の一人であるソローキン・コンドラチェフ研究所所長のヤコベッツ氏の論文「諸文明の対話と相互関係におけるロシア――歴史的経験と21世紀の展望」が巻頭を飾っており、それに続く「第1部 サンクト・ペテルブルク--諸文明と諸文化の対話の都市」と、「第2部 東西の諸文明と諸文化の相互関係におけるロシア」に、最初の二つの部会で発表された多くの論文のレジュメが収められていた。それゆえ、本書ではテーマの関係もあり、ロシア人の発表が多かったが、それらとともに東京が今年400周年にあたることを紹介しながら、佐久間象山におけるピョートル大帝の改革やプスコフの修道士プロフェイの「第三ローマ・モスクワ」説にも言及しながら、トインビーの視点からロシア文明の特徴を考察した川窪啓資氏の「比較文明学的観点から見たサンクト・ペテルブルク」や私のレジュメも載せられていた。

私の発表「日本におけるドストエフスキーの受容――サンクト・ペテルブルクのテーマと方法としての対話」では、2001年に千葉大学で行われた国際ドストエフスキー集会の模様などについても言及しつつ、日本の近代化と『罪と罰』の受容との関わりを分析して、第二次世界大戦の前には、「生存闘争」を自然の法則と捉えた主人公に対する共感をしめすような解釈もあったことを紹介した。それとともに、ドストエフスキーが文学における対話という手法をとることによって、単一的な声ではなく、「多声的」(ポリフォニー)な世界を描きだしていたことに注意を払いながら、そのエピローグでは主人公に「人類滅亡の夢」を見させることにより、それまでの「自己中心的な世界観」を批判していることを指摘した。

さらに、司馬遼太郎の長編小説『菜の花の沖』に言及しつつ、ロシアにナポレオン一世が侵攻した1812年に、戦争という手段の問題点を根気強く説明することにより、領海侵犯の咎などで捉えられていたゴロヴニーンの解放に成功し、日露間で生じていた「文明の衝突」の危機を救った商人・高田屋嘉兵衛の「対話的な方法」の意義を考察した。そして、後期の江戸時代が有した高い文化水準と多様性が、ゴロヴニーンの『日本幽囚記』によって紹介されたことが、後に来日してロシアの文化を伝えることになる宣教師ニコライにも大きな影響を与えたことを指摘して、江戸時代が有した多様性についても注意を喚起して、単一的な原理による「グローバリゼーション」の問題をも指摘した。

最後の第3部会「グローバリゼーションと文明の未来」で発表された論文のレジュメは、『グローバリゼーションと諸文明の運命――グローバリゼーションの新しいモデルと文明間の交流をめざして』と題され、4部からなる論文・レジュメ集に収められていた(総頁数322頁)。これは科学アカデミーのチモフェーエフ教授、ソローキン・コンドラチェフ研究所のヤコベッツ所長、ブレッドソー国際比較文明学会長の編になるもので、多くの論文には発表者の紹介とともに簡単なロシア語訳がつけられていた。

この本の構成で眼を惹いたのは、第1部には「国連総会決議 56/6(2001年9月9日)/ ユネスコ一般声明(2001年)、/ ロシア・イラン国際シンポジウム・アピール」などの文書が資料として載せられていたことである。さらに第4部では「著書紹介」として比較文明学関係のロシアの書物が紹介されていたことである。それはもう一冊の場合も同様で、その分野におけるロシアの「研究論文集紹介」も収められていた。

第2部として編集された「グローバリゼーションと文明間の対話」には、国際比較文明学の会員だけでなくチモフェーエフ氏の「グローバル化する世界における文明間の相互関係の諸問題」やボンダレンコ氏の「グローバル社会認識のための方法論諸相」など多くのロシア人の論文も掲載されていたが、経済関係の専門家が多かったせいもあり、このような視点からの「グローバリゼーション」の問題点を論じたものが多いとの印象を受けた。

ここでは、国際比較文明学の形成を論じたブレッドソー氏の「文明間の対話――トインビー、クレーバー、ソローキンとコンドラチェフ」に続いて、”文明交流圏”という考えの重要性を説いた伊東俊太郎氏の「文明の対話と”文明交流圏”」のレジュメが国際比較文明学会・終身名誉会長の肩書きの紹介とともに載り、また国連における「文明間の対話の試みやイランのハタミ大統領による提案などを紹介しつつ、そのような対話の重要な例としてのシルクロードの意味を論じた服部英二氏の「シルク・ロードと文明間の対話」が掲載されていた。

また、国連の活動に注目しながら、「不殺生・共存共生・公正」という3つの原則を説いた伊東俊太郎氏の提案にも言及した犬飼孝夫氏の「地球企業市民のための〈シヴィリゼーショナル・ミニマム〉とは? 国連グローバル・コンパクト」のレジュメや、第3部の「グローバリゼーションの時代における文化と宗教の対話」には、主に明治期における神道と国家神道との関わりを論じた奥山道明氏の「日本と西欧との対話および近代宗教制度の確立」が掲載されていた。

こうして、日本人研究者の発表はいずれも大きな関心をもって受け止められた。ただ、先にも記したように時間的な制限のために質疑応答の時間がなく、また、最後に第4部として予定されていた討議と会議総括の時間もあまりとれなかったのは残念であった。

しかし、その夜に日本人の研究者10人が集まってホテルのレストランで催された夕食会では、ロシアに対する様々な理解を「神話」と断じて新しいロシア像を示したヤコベッツ氏の「北西ロシアの過去とロシア文明の未来」というきわめて興味深い論文を取り上げた伊東俊太郎名誉会長の問題提起を受けて、ロシア文明の位置をめぐって質疑応答の時間のたっぷりある議論が交わされ、思いがけぬ「円卓会議」となり、楽しいひとときを持つことができた。実際、次節でみるようにこの論文は「ロシア文明の源」を訪ねた学術旅行へのテーゼの如きものでもあったのである。

2,学術旅行「北西ロシア――ロシア文明の源とその絶頂」

学会の後に組まれた旅行は、外国人向けの国内旅行に少し学問的な色彩を加えた程度のものかと最初は思っていた。しかし、ほぼ毎日開かれた「円卓会議」など、朝は8時から時には夜の10時半の夕食といったいささかハードなスケジュールの中で「ロシア国家の建国や理念」をめぐって、知的好奇心を刺激するきわめておもしろい論争や場所が示された。まず、スケジュールを掲げる。

9月19日 レニングラード攻防戦記念パノラマ館、スタラヤ・ラドガ――ロシア最古の都市で古代ロシア最初の首都、歴史的記念物と考古学的発掘の見学、文明の対話の方法(スタラヤ・ラドガ1250周年記念円卓会議)、ノヴゴロド到着

9月20日 ベリーキー・ノヴゴロド――歴史と文化の探訪、ロシア文明の歴史におけ るノブゴロド共和国(円卓会議)

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(ノヴゴロドのクレムリン。図版は「ウィキペディア」より)。

9月21日 プスコフ、イズボルスク、ウスペンスキー修道院のあるエストニア近くのペチョールィ訪問

9月22日 ロシア文明の西の前哨地点(プスコフ1100周年記念円卓会議)、プーシキンゆかりの地訪問、サンクト・ペテルブルク帰還

 

議論の焦点の一つは、これまでロシア最古の都市とされてきたノヴゴロドよりも古く、1250年前に創られたとされるロシア最古の町スタラヤ・ラドガ(Staraya Lagoda)の発掘現場と展示館の見学であった。

ロシアの建国にかかわる論争は、ピョートル一世によって創設された科学アカデミーに招かれたドイツ人の歴史家バイエルが『原初年代記』によって、ノヴゴロドがバイキングの一族であるバリャーグ族の長リューリクによって創られたとしたときから持ち上がっていた。これは日本の建国がそれまでいた民族ではなく、朝鮮からきた少数の「騎馬民族」によって形成されたとする江上波夫説を思いださせるようないわば「ロシアの騎馬民族説」論争ともいえるようなものであった。

ロモノーソフをはじめとするロシア人の歴史家は、平和的に招いたと書かれていたことや、その後のリューリク朝ではスラヴ的な要素が強いことなどから、すでにロシアが高い文化的水準をもっていたことを示してロシアの独自性を示そうとしてきたのである。しかしドストエフスキーもこのことに言及しているが、これまでの歴史的な研究からはバイエルによって指摘された「ロシア国家のバイキング起源説」を覆すのは難しいように思われていたのである。

これに対してスタラヤ・ラドガの発掘は、すでにノヴゴロドの建設に先立ってスラヴ的な要素の強い都市が造られていたことを示すものとして、高い関心を呼んでいるのである。たとえば、現在の発掘責任者のキルピチニコフ氏は、今回の発掘とロモノーソフの説の正しさを証明するのかとの私の質問に対して、たしかにこの発掘成果はロモノーソフの先見性を実証するものであると強く語った。この議論についての結論がでたのかとおもわれたのだが、ノヴゴロドで行われた「円卓会議」では、発見されたものは古いがしかしヴァイキング的な性格を持つとして、歴史学者から前日の結論に対する疑問が出されて、激しい議論となった。日本の王朝が朝鮮系の騎馬民族によって創られたとする江上波夫説に対する反発が強く激しい議論を巻き起こしたが、ロシアでもふたたび「ロシアの騎馬民族説」とでも名付けられるような議論がふたたび巻き起こっているのである。

さらにノヴゴロドやプスコフの「円卓会議」では、ハンザ同盟との関わりを論じた発表やプーシキンとミハイロフスコエ村との関わりが論じられるなど、「ロシア国家の理念」にかかわるもう一つの重要な議論もなされた。

すなわち、「ロシア最古の都市」であったノヴゴロドやプスコフは、国家の中心がキエフに移り、キエフ・ロシアが形成された後でも、ハンザ同盟に加入して、「ロシアの〈自由都市〉と呼ばれる共和政体の都市として発展し、政治的にもその後のロシア史上に例を見ない独自の一時期を画した」が、その後「分裂したロシアの再統一を進めるモスクワによって」、15世紀末から16世紀初頭にかけて次々と併合されていた(『ロシア・ソ連を知る事典』平凡社)。

これらの都市の独自性については、歴史家だけでなくロシアの改革を試みたデカブリストたちがが強い関心を抱いたことは知られているが、ロシア国家の統一性が重要視されるなかで、政治的な意味でこれらの都市にスポットライトがあてられることは少なかった。

しかし、これまではロシア最初の国家として位置づけられてきたキエフ・ロシアの中核をなしていたかつてのキエフ公国を受け継いだウクライナが独立し、新しい「ロシア国家の理念」が求められる中で浮かんできたのが、モスクワ公国にも受け継がれたキエフ・ロシアの専制的な政治原理とはことなる民主的な原理による「ノヴゴロド・ロシア」あるいは「北西ロシア」の理念なのである。

残念ながら、学術旅行への参加者は半数以下であり、日本人も私を含めて4人だったが、宮原夫妻とはロシア正教の現在をめぐって、犬飼氏とはロシアの自然環境問題などについて意見を交わすことができ、また個人的にも長い間の念願でもあったロシア民話に出てくる蜂蜜酒を古風なロシア風のレストランで飲むことができた。こうして、付随的だと思われていた旅行は、終わってみると私にとってはむしろこちらの方の収穫の方が大きかったとも感じられるほどに充実した内容であった。

 

結語

ロシアでの初めての国際比較文明学会は一般の外国からの参加者にとっては、様々なロシアの歴史的事物やエルミタージュ美術館などを訪れることができた一方で、かなりハードなスケジュールのために発表や質問時間が制限されたという不満も残ったようだ。

しかし、ロシア研究者である私にとっては、現在のロシアの政治・経済状況を知ることができるとともに、「ロシアの理念」が現在のロシアにおいて、どのように構築されようとしているのかをも知ることができ、きわめて有益な大会となった。

ただ、多くの外国人研究者の中でロシア語を話すのが筆者一人であったことや、単独行動主義的な原則を強めている現在のアメリカ政府に対する厳しい批判をしているフランスやドイツからの参加者が全くいなかったのはさびしかった。川窪国際委員長はかつて総会で、国際比較文明学会でも日本人が日本語で発表できるように通訳をつける制度を作ってはどうかと提案されたことがあったが、今回はロシア側の発表者が全員ロシア語で発表していたのが印象に残った。先に言及した国際ドストエフスキー学会ではロシア語の他にも英独仏の各言語の使用が認められているが、梅棹忠夫氏がフランスで国際交流の必要性を通訳をつけて日本語で語っていたことを思い起こすならば、文明間の共存と多様性の重要性を訴える国際比較文明学会においては、将来、日本語も含めた形での使用言語の多言語主義が考えられる時期にきているのかとも思った。

また、ロシア文明の独自性を強く主張する一方で、国連の「多元的な原理」をも重視しながら、新しい「グローバリゼーション」のモデルを探そうとする今回のロシア側の姿勢や戦略は、ブッシュ・ドクトリンの一元的な原理に従う傾向が強いように見える日本の戦略から見るときわめてしたたかに映った。また、今回の学術旅行も単なる研究活動とせずに、外国人の研究者に対してロシアの新しい観光旅行の魅力をもアピールする場ともなっていたのは、いささか功利的な色彩も少し感じたが、しかしそれはペレストロイカからロシアへの移行期の時期に、ロシアの経済が二流国へと低迷するようになったことへの厳しい反省の中で、なんとか自立的な形でロシアの経済を改革しようとする力強い試みの一環として評価できよう。

日本の比較文明学の創始者の一人である山本新は、トインビーの考察を深めることによって、日本とロシアにおける近代化を比較して「欧化と国粋」の問題に気づき、「100年以上の距離をおいて、二つの文明のあいだに並行現象がおこっている」と鋭く重い分析をした。この意味で筆者はこれまでロシアと日本の近代化の比較を中心に研究してきたが、日本の今後の方向性を考える上でもロシアの比較文明学(文化学)の状況を追っていくことはこの意味でも重要であろう。

今後ともロシアにおけるこのような研究の流れを注意深く見守っていきたいと思う。

(「サンクト・ペテルブルクでの国際比較文明学会報告」『文明研究』第22号、2003年。再掲に際しては、人名の表記や文体などを一部変更した)。

商人・高田屋嘉兵衛の自然観と倫理観――『菜の花の沖』と現代

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はじめに――『坂の上の雲』から『菜の花の沖』へ

『坂の上の雲』(1968~72)において、明治初期から日露戦争の終結に至るまでの激動の歴史を描いていた司馬氏はこの長編小説の後で、勃発寸前までに至った日露の衝突の危機を救った江戸時代の商人・高田屋嘉兵衛を主人公とした長編小説『菜の花の沖』(1979~82)を描いていた。

本発表では『坂の上の雲』をも視野に入れることにより、近代化の問題に鋭く迫った『菜の花の沖』の現代的な意義に迫りたい(ここでは配付資料に図版とリンク先を追加した)。

Ⅰ.『菜の花の沖』の時代と「江戸文明」の再評価

a.『菜の花の沖』の構造

単行本で6巻からなる長編小説『菜の花の沖』(文藝春秋)の前半では、淡路島の寒村に生まれた嘉兵衛が兵庫に出て樽廻船に乗って一介の炊(かしき)から身を起こして船持ちの船頭となり、航路を切り開き大船団を率いて、折から緊張の高まりつつあった北の海へと乗り出していくまでが描かれている。

そして、後半では厳しい封建制度の中で行動の自由を得、菜の花から作る菜種油を販売して財を成し、虐げられていたアイヌの人々と共に対等な立場で貿易を行い、箱館の町を発展させた嘉兵衛が一介の商人でありながら、戦争の危機を救うという重大な役割を果すまでが描かれるのである。

b.高田屋嘉兵衛(1769~1827)とその時代

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(高田屋嘉兵衛 (1812/13年)の肖像画。画像は「ウィキペディア」より)

『菜の花の沖』は主人公が生まれた淡路島の形状とその位置の描写から始まる。

「島山(しまやま)は、ちぬの海(大阪湾)をゆったりと塞(ふさ)ぐようにして横たわっている。…中略…わずか一里のむこうに本土の車馬の往来するのが見え、その間を明石海峡の急流がながれており、本土に変化があればすぐさま響いてしまう」(1・「都志の浦」)。

そのような例として「この話の主人公がうまれるすこし前」に、「六甲山山麓の住吉川、芦屋川などの急流ぞいに水車工場がうまれ」たと記した司馬氏は、「それまでは菜種油は高価なものであったが、この大量生産によってやすくなり、さらにはこの油を諸国にくばるために兵庫や西宮(にしのみや)あたりの海運業が栄えた」と説明している。それは貧しい農家の子供だった高田屋嘉兵衛が将来、海運業者として飛躍することになる背景でもあった。このことにより司馬氏は高田屋嘉兵衛がこの時期に忽然と現れた「英雄」ではなく、時代の流れのなかから生まれてきたことを明らかにしているのである。

c.高田屋嘉兵衛の自然観

司馬氏は兵庫の回船問屋堺屋で働き始めた頃の嘉兵衛についてこう記す。「この時期、嘉兵衛はおぼろげながらかれ自身が生涯をかけてつくりあげた哲学の原型のようなものを、身のうちにつくりつつあった。そのことは、かれの気質や嗜好と密接にむすびついている。潮汐や風、星、船舶の構造と同じように、嘉兵衛は自分の心までを客観化してしまうところがあった」。それは「つまりは正直ということであった」とし、「自分と自分の心をたえず客体化して見つづけておかねば、海におこる森羅万象(しんらばんんしょう)がわからなくなる、と嘉兵衛はおもっている」(1・「兵庫」)。

そして、「みずから持船を指揮し、松前(北海道の藩領地域)にのりだした」彼に次のように語らせている。「海でくらしていると、人間が大自然のなかでいかに非力で小さな存在かということを知る、という。海の人間のなかで、陸にいるような増上慢や夜郎自大のものはおらんよ、といった。陸には、追従で立身したり、人の褌ですもうをとって金儲けをする者がいるが、海にはおらんな。真に人間というものが好きになり、頼もしくなるというのも、海じゃな」。

この言葉はなにゆえ、なぜ高田屋嘉兵衛が当時奴隷のように虐げられていたアイヌの人々をも人間として接することができたかや、ロシア人との交渉においてなぜの彼の言葉が説得力を持ち得たのかをも明らかにしていると言えよう。

こうして「潮」と人間の観察を踏まえつつ、黒潮の流れにのって北海道にまでのりだした高田屋嘉兵衛の活躍を通して、そのような人物を生みだし得た「江戸文明」の意味を明らかにするのである。

d.高田屋嘉兵衛の蝦夷観と江戸時代の新しい知識人

注目したいのは、司馬氏が「江戸期はふしぎな時代であった。鉄の箱のように極端な鎖国社会を形成しながら、その箱のなかのひとびとの知的活動は、つねに唐(中国)と阿蘭陀(オランダ)の二つの異文化を日本と対置しながら物を考えるという癖があった」(3・「春信」)とし、江戸後期には「文明」と「野蛮」に分けて、「低地」をさげすむのではない工藤平助や高橋三平など第三の「知的なグループがすでに江戸に存在していた」ことにも注意を向けている(3・「箱館」)。

e.江戸時代の商取引と江戸時代の先進性

第四巻で司馬氏は、高田屋嘉兵衛が波濤を超えてクナシリ航路を開拓し、エトロフの地域での商業権を得て、商人としても飛躍する時期を描いている。江戸時代の商取引に言及した網野善彦氏も「遅れていたら商業や取引を自分たちの用語だけでやれる」はずはないと説明して、「『遅れている日本』というイメージは、明治政府によって作り出された虚像だ」と説明している。

 

Ⅱ.高田屋嘉兵衛の説得力――「江戸文明」の独自性

a.高田屋嘉兵衛とゴローニン(以下、司馬氏の表記に従う)の屈辱

司馬氏は嘉兵衛が捕らわれた時の状況をこう記している。「自由を奪われた嘉兵衛は、怒りのために全身の血が両眼から噴きだすようであり、それ以上にこの男を激昂させたのは、ロシア人たちがかれを縛ったことである。…中略…嘉兵衛の自尊心にはこれがたまらなかった。『縛るな』 ねじ伏せられながら、叫んだ」。

注目したいのは、司馬氏がここで高田屋嘉兵衛のこのシーンを描く前に、日本人が「一国の艦長を罠にかけ、けもののように縛り」あげたことや「囚人にとって苦痛をきわめた」、「逮捕・護送」についても詳しく記していたことである。

ここには「歴史的な事実」を一方の視点からだけ見るのではなく、他の視点からも描くという司馬氏の比較文明論的な視野がよく現れていると思える。

b.近代の「奇怪な国家心理」について

ゴローニンが江戸幕府に捕らえられるようになった時代的な背景を説明しつつ、司馬氏は、「 『国家』という巨大な組織は近代が近づくにつれていよいよばけもののように非人間的なものになってゆく。とくに、国家間が緊張したとき、相手国への猜疑と過剰な自国防衛意識」が起きるだけでなく、「さらには双方の国が国民を煽る敵愾心の宣伝といった奇怪な国家心理」も働くという分析を行っている。

c.高田屋嘉兵衛の決意

その一方で、司馬氏は高田屋嘉兵衛が「このままゆけば国家間の戦争になると憂えていたかもしれない」と記し、彼が『人質になった以上は、両国の和平のために、なんとかよき方向に持ってゆきたいのが心底です』と記したことに触れて、これは「一介の町人身分にすれば、江戸期の身分制的なふんいきから高く跳躍した物言い」であり、「この決意をした瞬間、船頭の嘉兵衛は歴史の上に、新しいあしあとを穿った」と記している。

d.高田屋嘉兵衛とナポレオン

 司馬氏が『坂の上の雲』において主人公の一人とした俳人の正岡子規は若い頃に書いた「筆まかせ」で比較の重要性を強調していた(近著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年が、それは夏目漱石の作品ばかりでなく、『菜の花の沖』にも見られる。ことに重要と思われるのは、嘉兵衛がロシア側に捕らえられたのと同じ年にロシアに侵攻してモスクワを占領したナポレオンの両者を比較して司馬氏が、「嘉兵衛はナポレオンと同じ年にうまれている」ばかりでなく、「両人とも島の出身だった」と記していることである。

さらに嘉兵衛が「欧州ではナポレオンの出現以来、戦争の絶間がないそうではないか」と語り、「扨々(さてさて)、恐敷事候(おそろしきことにそうろう)」と批判したことに注意を促した司馬氏が「ただ一人の友人しか持てなかった」ナポレオンと、「嘉兵衛の事情は異なっている」と続けていることを考慮するならば、ここでは日露両国の衝突の危険性を平和的に解決した高田屋嘉兵衛と武力によるヨーロッパの統一を目指したナポレオンの生き方とが比較されているのは明らかだろう。

e.高田屋嘉兵衛の上国観と「国政悪敷国」

司馬氏は嘉兵衛が、「わが国は軍事については、敵国の物を奪いとることは大法にて禁制になっています」と言い、言葉を継いで「日本と当国の軍制のちがいは、日本の場合、どういう怨みがあっても、自国を固めることはあっても、不法に他国を攻めるようなことがない」と伝えたと記して、「こういうことを大見得でもって言えたのは、江戸期の日本だったればこそであったろう」と続けた。

嘉兵衛がリコルドに「国政が悪い国家とは何か」という主題について、「愛国心を売りものにしたり、宣伝や扇動材料につかったりする国はろくな国ではない」と説いたとし、ここで「『国政悪敷国』というふうにやわらかい表現をつかっている」ことに注意を促した司馬氏は、「下国とか悪国ということばをつかわないのは、国に善悪などはなく、国政がいいか悪いかだけだという考え方が嘉兵衛にあるからだろうか」と記した。

f.『坂の上の雲』における戦争の批判

『坂の上の雲』において司馬氏は一九世紀末を「地球は列強の陰謀と戦争の舞台でしかない」と規定していたが、ここには戦争を絶えず生み続けた近代ヨーロッパの「国民国家」への鋭い批判を見ることができる。

実際、すでに『竜馬がゆく』において明治7年の台湾出兵や明治10年の西南戦争などでは利益をあげ、巨万の財を築くことになる政商・岩崎弥太郎を批判的に描いていた司馬氏は、『坂の上の雲』では、外国からの借金によって軍備の拡大と近代化を行ったことや戦争と経済の関係をこう分析していた。

「日本の戦時国民経済がほぼ平時とかわらなかったのは、主として外国の同情によって順調にすすんだ外債のおかげであった。結果としての数字でいえば日露戦争は十九億円の金がかかった。このうち外債が十二億円であったから、ほとんどが借金でまかなった戦争といっていい」(五・「奉天へ」)。

夏目漱石は日英同盟の締結に沸く日本をロンドンから冷静に観察していたが、司馬氏も『坂の上の雲』において「自国の東アジア市場を侵されることをおそれ」たイギリスが同盟国の日本に求めたのは、「ロシアという驀進(ばくしん)している機関車にむかって、大石をかかえてその前にとびこんでくれる」ことだと書いていたのである(七・「退却」)。

一時的な景気にはつながっても長い目で見れば、国家経済を破綻へと導くことになる戦争や兵器の輸出などの問題をこの記述は鋭く指摘していたといえる。

g.『本郷界隈』における『三四郎』の考察

夏目漱石は『三四郎』で日露戦争後の日本を厳しく批判した広田先生の言葉を描く前に、一人息子を日露戦争で失った老人の「一体戦争は何のためにするものだか解らない。後で景気でも好くなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんな馬鹿気たものはない」という嘆きを描いていた。司馬氏は『三四郎』のこの文章を受けて「爺さんの議論は、漱石その人の感想でもあったのだろう」と書き、日本が「外債返しに四苦八苦していた」ために、「製艦費ということで、官吏は月給の一割を天引きされて」いたことに注意を向けている(『本郷界隈』)。

 

Ⅲ.「後期江戸時代」の再評価と新しい文明の可能性

a.ゴローニンの日本観

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(『日本幽囚記』の著者ゴロヴニーン。図版は「ウィキペディア」より)。

司馬氏は囚われの身であったゴローニンが、「『日本人こそ世界で最も凶悪な野蛮人だ』と、帰国後も叫びつづけることもできたし、ふつうの精神ならそのようにしたところで当然ともいえる」と記した後で、そうは記さなかったゴローニンの偉大さに司馬氏が触れている。

実際、ゴローニンは『日本幽囚記』で日本の教育を、「一国民を全体として他の国民と比較すると、私の意見では、日本人は天下で最も教育のある国民である。日本には読み書きのできない者や、自分の国の法律を知らない者は一人もいない。日本では法律はめったに変更されない」と絶賛している。

彼がイギリスで教育を受けていることを考えるならば彼の意見は重たく、ヨーロッパ文明の絶対視を越えて比較文明論的な視点から歴史を見ようとする新しさがある。

b.ケンペルの「鎖国論」

1690年にオランダ商館の医師として長崎に着任し、将軍綱吉にも三度の拝謁を許されたケンペルも「日本国民のやり方は全く背理の行為である」と一応は鎖国を批判しつつも、「日本人の模範例に」ならって各民族が鎖国をした場合には、不毛の土地を開墾できるだけでなく、「学問、技術、道徳の分野ではより更なる熱意と精勤を以て自己を陶冶し」、「子供の教育、家事全般には益々熱心に身を入れ」、「国民として最も幸福な状態の頂点に近づいてゆく」と絶賛していた(小堀桂一郎『鎖国の思想』中公新書)。

c.ヴォルテールの評価

江戸時代を遅れた時代とする見方になれた私たちには不思議な記述だが、重要なのはここで彼が「戦乱によって家屋や諸所の都市が破壊されたり、人間が殺戮され、国土が荒廃に帰した」西欧と比較していることであろう。上垣外憲一はケンペルの書物を読んだヴォルテールが「日本人は世界で最も寛容な国民である」と記していることに注意を払い、「同時代の西洋諸国が戦争に明け暮れていた」ことと比べれば、驚くべく永続的な平和を享受していたことも、評価されねばならない」と記している。

d.江戸時代後期における「公益」の感覚

この意味で注目したいのは司馬遼太郎氏が『菜の花の沖』において、自分の発明を公開した町人の発明家である工楽松右衛門の言葉として、「人として天下の益ならん事を計らず、碌(ろく)々として一生を過ごさんは禽獣(きんじゅう)にもおとるべし」という激しい言葉を紹介して、「この公益の感覚は、この時期よりもずっと後期の町人社会になるとよほどひろがってくる」と書いていることである(2・「松右衛門」)。

しかも、司馬氏は「嘉兵衛は商人(あきんど)というより仁者だ」言った幕府の役人高橋三平の言葉を紹介しながら、「たしかにそうであったろう」と続け、「商利や生産上の利益」を「息せき切って」追求し、「また使っている人間たちを利益追求のために鞭打つようなことをした場合、当人も使用人も精神まで卑しくなってしまう」(5・「嘉兵衛船」)と書いた。

つまり、最近になって強調されるようになった「公益」という思想は、すでに江戸後期の町人社会で成立していたのであり、それは「自己中心主義」や「自店中心主義」のみならず、「国益」を前面に出した最近の「自国中心主義」をも批判できるようなより厳しい形で成立していたと思える。

e.江戸時代における「軍縮と教育」

川勝平太氏も「江戸時代の日本人」が、「軍縮と教育とを柱とする『徳治主義』によってゆるやかな経済成長」を実現したことに注目して、「軍事にではなく、教育に投資をし、知的水準をあげることは、自国のみならず、地上のどの国においても圧制者の出現を許さぬ環境づくりになる」とし、「野蛮(戦争、環境破壊)の克服こそ文明の文明たる所以である」と強調している(『日本文明と近代西洋――「鎖国」再考』)。

 

結語 日本の伝統に基づいた「積極的な平和政策」の必要性

残念ながら、今年の9月には「安全保障関連法」が「強行採決」されて、原爆の悲惨さを踏まえたそれまでの日本の「平和政策」から「武器輸出」の推進へと舵が切られた。

しかし、『坂の上の雲』で機関銃や原爆などの近代的な大量殺戮兵器や軍事同盟の危険性を鋭く描いていた司馬氏は、高田屋嘉兵衛を主人公としたこの長編小説で、江戸時代における「軍縮と教育」こそが日本の誇るべき伝統であり、この理念を広めていくことが悲惨な「核戦争」から世界を救うことになると描いていたように思える。

 

参考文献

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高橋『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』のべる出版企画、2002年。

柴村羊五『北海の豪商 高田屋嘉兵衛』亜紀書房、2000年。

黒部亨『高田屋嘉兵衛』神戸新聞総合出版センター、2000年。

須藤隆仙『函館の歴史』東洋書院、1980年。

高田屋嘉兵衛とその時代については年表3、「司馬遼太郎とロシア」関連年表、参照。

 

「様々な意匠」と隠された「意匠」

リンク→4,「主な研究」のページ構成

 

「様々な意匠」と隠された「意匠」

『全作家』の第九〇号に「司馬遼太郎と小林秀雄」という評論を発表して小林秀雄のドストエフスキー観に言及したことが、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)の発行につながった。

予想をしていたように、少し刺激的な副題をつけたこともあり厳しい批判も頂いたが、その反面、「批評の神様と奉られている小林秀雄をよくぞ取り上げた」との好意的な礼状も多く頂いた。また、平成二六年度の全作家合同出版記念会には参加することができなかったが、フェイスブックで思いがけず拙著の題名の垂れ幕がかかっているのを見てありがたく感じた。

実は、前回の評論では言及しなかったが、拙著『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、二〇〇二年)に収録した『竜馬がゆく』論で簡単にふれていたように、『罪と罰』を読んでその文明論的な広い視野と哲学的な深い考察に魅せられた私は、幕末の混乱した時期を描いた司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読んで感動し、そこでは日本を舞台としながらもクリミア戦争敗戦後の価値の混乱したロシアの問題点を鋭く描きだしていたこの長編小説のテーマが深い形で受け継がれていると感じていた。

さらに、『罪と罰』のエピローグで「人類滅亡の悪夢」を描いたドストエフスキーが、次作の『白痴』ではこのような危機を救うロシアのキリスト(救世主)を描きたいと考えて、悲劇には終わるが、混迷のロシアで「殺すなかれ」と語った主人公・ムィシキンの理念も『竜馬がゆく』の主人公・坂本竜馬には、強く反映されているとも考えていた。

一方、一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──主人公)には現れぬ」と記した文芸評論家の小林秀雄は、「『白痴』についてⅠ」でも「ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」と記し、一九六四年の『白痴』論では、「作者は破局といふ予感に向かつてまつしぐらに書いたといふ風に感じられる。『キリスト公爵』から、宗教的なものも倫理的なものも、遂に現れはしなかつた。来たものは文字通りの破局であつて、これを悲劇とさへ呼ぶ事はできまい」と解釈していた。

それゆえ、私は「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論から一時期、強い影響を受けていたものの、小林が『白痴』論で描いたムィシキン像よりは、『竜馬がゆく』で日本のキリスト(救世主)として描かれている坂本竜馬像の方が、むしろドストエフスキーのムィシキン像に近いのではないかとひそかに思っていた。

原作のテキストと比較しながら小林秀雄の評論を再読した際には、「異様な迫力をもった文体」で記されてはいるが、そこでなされているのは研究ではなく新たな「創作」ではないかと感じ、一九二九年のデビュー作「様々な意匠」で小林秀雄が「批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない。批評とはついに己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」と率直に記していることに深く納得させられもした。

「様々な意匠」は次のように結ばれている。「私は、今日日本文壇のさまざまな意匠の、少なくとも重要と見えるものの間は、散歩したと信ずる。私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようとしたのでは決してない。たゞ一つの意匠をあまり信用し過ぎない為に、寧ろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない。」

しかし、改めてこの文章を読んだ私は強い違和感を覚えた。なぜならば、『竜馬がゆく』第二巻の「勝海舟」ではその頃の「尊皇攘夷思想」が「国定国史教科書の史観」となったばかりでなく、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と痛烈に批判されていたからである。

ここで詳しく論じる余裕はないが、司馬が「昭和初期」の「別国」と呼んだこの時期には「尊皇攘夷思想」という「意匠」が、政界や教育界だけでなく文壇の考えをも支配していた。そのことに留意するならば司馬の痛烈な批判の矛先は戦前の代表的な知識人の小林秀雄にも向けられているのではないだろうか。

司馬の視線をとおして「様々な意匠」を読み直すとき、イデオロギーには捉えられることなく「日本文壇のさまざまな意匠」を「散歩」したかのように主張されているが、ここでは当時の文壇の考えを支配していた重要な「意匠」が「隠されて」おり、それはライフワークとなった『本居宣長』で再び浮上することになったのではないかと思われる。この重たい問題については稿を改めて考察したい。

(『全作家』第98号、2015年)

タイトル一覧 1(ドストエフスキー、ロシア文学、小林秀雄関係)

リンク→タイトル一覧Ⅱ (司馬遼太郎、近代日本文学関係)

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「主な研究(活動)」タイトル一覧Ⅰ (ドストエフスキー、ロシア文学、堀田善衞、小林秀雄関係)

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『ドストエフスキーとの対話』(水声社)に「堀田善衞のドストエフスキー観――堀田作品をカーニヴァル論で読み解く」を寄稿

『現代思想』に「大審問官」のテーマと 核兵器の廃絶――堀田善衞のドストエフスキー観 を寄稿

新刊 『堀田善衞とドストエフスキー 大審問官の現代性』(群像社、2021年)

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「様々な意匠」と隠された「意匠」

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「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観

「不注意な読者」をめぐってーー黒澤明と小林秀雄の『白痴』観

テキストからの逃走――小林秀雄の「『白痴』についてⅠ」を中心に (発表要旨) 

黒澤映画《夢》の構造と小林秀雄の『罪と罰』観 

「『地下室の手記』の現代性――後書きに代えて」

The Acceptance of Dostoevsky in Japan

サンクト・ペテルブルクでの国際比較文明学会の報告

ドストエフスキー生誕記念国際会議(1996年)に参加して

第九回国際ドストエフスキー・シンポジウムに参加して

第八回国際ドストエフスキー・シンポジウムに参加して

第七回国際ドストエーフスキイ・シンポジウムに参加して

「研究活動・前史」と「引率時の体験とIDSでの発表」など

  

「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観

 

一、 小林秀雄の『白痴』論と三種類の読者

小林秀雄氏の『白痴』論を何度か読み直す中で強い違和感を抱くようになった最初のきっかけは、小林氏が読者を「注意深い読者」と「多くの読者」、「不注意な読者」の三種類に分類していることであった(〔〕内のアラビア数字は、『小林秀雄全集』(第6巻、新潮社)のページ数を示す)。

すなわち、1934年9月から翌年の10月まで連載した「『白痴』について1」で、「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない。シベリヤから還つたのだ」と繰り返し強調した小林氏は、「『罪と罰』の終末を仔細に読んだ人は、あそこにゐるラスコオリニコフは未だ人間に触れないムイシュキンだといふことに気が付くであろう」と書き〔82~83〕、さらに死刑について語った後でムィシキンが「からからと笑ひ出し」たことを、「この時ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」と説明し、「作者は読者を混乱させない為に一切の説明をはぶいてゐる」ので、「突然かういふ断層にぶつかる。一つ一つ例を挙げないが、これらの断層を、注意深い読者だけが墜落する様に配列してゐる作者の技量には驚くべきものがある」と続けていた〔下線引用者、90~91〕。

これらの解釈には重大な問題があるが、1937年に発表した「『悪霊』について」で小林氏は「スタヴロオギンは、ムイシュキンに非常によく似てゐる、と言つたら不注意な読者は訝るかも知れないが、二人は同じ作者の精神の沙漠を歩く双生児だ」と断言して〔下線引用者、158~159〕、自分の読み方とは異なる読み方をする者を「不注意な読者」と決めつけていた。

この他に小林氏は、「夢の半ばで目覚める苦労は要らない」ような一般的な「多くの読者」にも言及している〔96〕。

そのような小林氏の読み方からは、人間を「非凡人」「凡人」「悪人」の三種類に分類していた知識人ラスコーリニコフの「非凡人の理論」との類似性が感じられ、小林氏の解釈に疑いを抱くようになったのである。

二、「沈黙」あるいは「無視」という方法

ここで注目したいのは、自分の読み方とは異なる読み方をする「不注意な読者」との論争の際に、小林氏が自分の気に入らない主張や相手の質問に対しては、「沈黙」という方法により無視して、自分の考えのみを主張するという方法をとっていたことである。

そのような方法が数学者の岡潔氏との対談『人間の建設』(新潮社)からも感じられる。ここでは具体的に引用することで、ムィシキンを好きだと率直に語っていた岡氏が、「専門家」の小林に言い負かされていく様子を分析することにする。

この対談が行われたのは、『「白痴」について』(角川書店)が単行本として発刊された1964年5月の翌年のことであり、10月に雑誌『新潮』に掲載された(〈〉内のアラビア数字は、文庫本『人間の建設』(新潮社)のページ数を示す)。

『白痴』が好きだった岡潔氏はこの対談で、「ドストエフスキーの特徴が『白痴』に一番よくでているのではないかと思います」とすぐれた感想を直感で語っていた〈85〉。

これに対して小林秀雄氏はなぜ岡氏がそう思ったかを尋ねることをせずに、「ドストエフスキーという人には、これも飛び切りの意味で、狡猾なところがあるのです」と早速、厳しい反論をしている〈87〉。それを聞いた岡氏が、「それにしてもドストエフスキーが悪漢だったとはしらなかった」と語ると、小林氏はさらに「悪人でないとああいうものは書けないですよ」と言葉を連ねて説明している。

それに対して岡氏は、「そうですか。悪人がよい作品を残すとは困ったのですな」という率直な感想を漏らしている〈90〉。

このような経過を読むと、一方的に自分の読み方を批判されている岡氏に同情したくなるが、小林氏は矛を収めずにさらに「『白痴』もよく読むと一種の悪人です」と発言して「不注意な読者」を戒め、「ムイシキン公爵は悪人ですか」と問いただされると、「悪人と言うと言葉は悪いが、全く無力な善人です」と言い直した小林氏は、前年に発行した『白痴』論で、「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだろう」という言葉の後の文言を繰り返すかのように次のように発言している。

「小説をよく読みますと、ムイシキンという男はラゴージンの共犯者なんです。ナスターシャを二人で殺す、というふうにドストエフスキーは書いています。…中略…あれは黙認というかたちで、ラゴージンを助けているのです」。

そして小林氏は、「これは普通の解釈とはたいへん違うのですが、私は見えたとおりを見たと書いたまでなのです」と文芸評論家としての権威を背景にして語り、こう諭している。

「作者は自分の仕事をよく知っていて、隅から隅まで計算して書いております。それをかぎ出さなくてはいけないのです。作者はそういうことを隠していますから」(下線引用者)。

これに対して自分のことを専門家ではない「多くの読者」の一人と感じていた岡氏は、「なるほど言われてみますと、私はただおもしろくて読んだだけで、批評の目がなかったということがわかります」と全面的に自分の読みの浅さを認めてしまっていた。

三、長編小説『白痴』の解釈とイワンの「罪」の「黙過」

ただ、岡氏は「悪人」が書いたそのような作品を「なぜ好きになったかという自分をいぶかっているのです」と続けていた〈100〉。ガリレオが裁判で自分の間違いを認めた後で「それでも地球は回る」とつぶやいたように、岡氏のつぶやきは重たい。果たして岡氏の読みは間違っていたのだろうか。

注目したいのは、「ドストエフスキーという人には、これも飛び切りの意味で、狡猾なところがあるのです」と語っていた文芸評論家の小林氏が、小説の構造の秘密を「かぎ出さなくてはいけないのです。作者はそういうことを隠していますから」と主張していたことである。

しかし、小林氏は本当に「作者」が「隠していること」を「かぎ出した」のだろうか、「狡猾なところがある」のはドストエフスキーではなく、むしろ論者の方で、このように解釈することで、小林氏は自分自身の暗部を「隠している」のではないだろうか。

このように感じた一因は、岡氏との対談でムィシキンを「共犯者」と決めつけた小林氏が、その後で『白痴』論から話題を転じて、ドストエフスキーは「もっと積極的な善人をと考えて、最後にアリョーシャというイメージを創(つく)るのですが、あれは未完なのです。あのあとどうなるかわからない。また堕落させるつもりだったらしい」と続けていたことにある(下線引用者)。

なぜならば、「『白痴』についてⅠ」で「キリスト教の問題が明らかに取扱はれるのを見るには、『カラマアゾフの兄弟』まで待たねばならない」と書いていた小林氏は、太平洋戦争直前の1941年10月から書き始めた「カラマアゾフの兄弟」(~42年9月、未完)では、「今日、僕等が読む事が出来る『カラマアゾフの兄弟』が、凡そ続編といふ様なものが全く考へられぬ程完璧な作と見えるのは確かと思はれる」と書き、「完全な形式が、続編を拒絶してゐる」と断言していたからである〔170〕。

よく知られているように、長編小説『カラマーゾフの兄弟』では自殺したスメルジャコフに自分が殺人を「指嗾」をしていたことに気づいたイワンが「良心の呵責」に激しく苦しむことが描かれている。一方、小林氏はこのことに触れる前に「カラマアゾフの兄弟」論を中断していた。

そのことを思い起こすならば、戦争中に文学評論家として「戦争」へと「国民」を煽っていたことを認めずに、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した」と戦後に発言していた小林氏は、イワンの「罪」を「黙過」するために今度は『カラマーゾフの兄弟』の解釈を大きく変えたのではないかとさえ思えるのである。

*   *    *

キューバ問題で核戦争の危機が起きた1962年の8月には、アインシュタインと共同宣言を出したラッセル卿の「まえがき」が収められている『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(筑摩書房)が発行されていた。

それから3年後の1965年に行われてアインシュタインとベルグソンとの関係も論じられたこの対談は、「原子力エネルギー」や「道義心」の問題も含んでおり、福島第一原子力発電所の大事故が起きた現在、きわめて重たいので、稿を改めて考察することにしたい。

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『復活』の二つの訳とドストエフスキーの受容

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『復活』の二つの訳とドストエフスキーの受容

はじめに

昨年の3月に「日本トルストイ協会」で行われた講演で籾内裕子氏は、内田魯庵訳の『復活』への二葉亭四迷の関わりを詳しく考察し、12月にはトルストイの劇《復活》を上演した島村抱月主宰の劇団・藝術座百年を記念したイベントも開かれました。

さらに、夏には故藤沼貴氏による長編小説『復活』の新しい訳が岩波文庫から出版され、「解説」には『罪と罰』の結末との類似性の指摘がされていました。その記述からは、改めてドストエフスキーとトルストイのテーマと問題意識の深い繋がりや、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」とした文芸評論家の小林秀雄の『罪と罰』解釈の問題点が感じられました*1。

本稿では『復活』とその訳に注目することで、対立して論じられることの多いドストエフスキーとトルストイの作品の内的な深い関係をエッセー風に考察したいと思います(図版はいずれも「岩波文庫」より)。

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一、雑誌『時代』とトルストイ

農奴制の廃止や言論の自由などを求めたために1848年のペトラシェフスキー事件で逮捕され、死刑の宣告を受けた後に減刑されてシベリアに流刑されたドストエフスキーは、流刑中の1852年に『同時代人』に掲載された『幼年時代』に記されている「Л.Н.とはだれのことか」と兄ミハイルへの手紙で尋ねていました*2。

農奴解放だけでなく法律や教育制度の改革も行われた「大改革」の時期に首都に帰還したドストエフスキーは、兄とともに総合雑誌『時代』を創刊し、多くが文盲の状態に取り残されている民衆に対する教育の普及の重要性を強調し、そこで1862年2月に創刊された月刊教育雑誌『ヤースナヤ・ポリャーナ』の紹介を行ったばかりでなく、『死の家の記録』では厳しい検閲の下にもかかわらず、監獄の状況を鋭く描き出しました*3。

それゆえ、トルストイはこの長編小説について「我を忘れてあるところは読み返したりしましたが、近代文学の中でプーシキンを含めてこれ以上の傑作を知りません。作の調子ではなく、観点に驚いたのです。誠意にあふれており、自然であり、キリスト教的で、申し分のない教訓の書です」と書いているのです*4。

一方、ドストエフスキーが唱えた「大地主義」について、「その教義は、要するに西欧派とスラヴ派との折衷主義であつて、…中略…穏健だが何等独創的なものもない思想であり、確固たる理論も持たぬ哲学であつた」とした文芸評論家の小林秀雄は、『死の家の記録』についても「厭人と孤独と狂気とが書かせた」ゴリャンチコフの「手記だつた事を思ひ出す必要がある」と書いています*5。

しかし、この作品が一時、「検閲官」の差し止めで中止されるなど厳しい検閲下で書かれていたことを忘れてはならないでしょう。興味深いのは、雑誌『時代』の創刊号から7ヵ月にわたって連載された長編小説『虐げられた人々』(原題は『虐げられ、侮辱された人々』)でドストエフスキーが登場人物にトルストイの作品にも言及させていることです。

「大改革」の時代のロシアが抱えていた問題を浮き彫りにしているこの作品のことはあまり知られていないので、まずその粗筋を紹介しその後で『罪と罰』との関連にふれることにします。

この長編小説は、主人公のイワンがみすぼらしい老人と犬の死に立ち会うというシーンから始まり、その後で少女ネリーをめぐる出来事とイワンを養育したイフメーネフの没落と娘ナターシャをめぐる筋が並行的に描かれていきます。

物語が進むにつれて、しだいにこれらの悲劇の原因が、ワルコフスキー公爵の犯罪的な詐欺によるものであることがはっきりしてくるのです。すなわち、物語の冒頭で亡くなるネリーの祖父はイギリスで工場の経営者だったのですが、娘がワルコフスキー公爵にだまされて父の書類を持ち出して駆け落ちしたために全財産を失って破産に陥っていました。

一方、150人の農奴を持つ地主で、主人公のイワンを養育したイフメーネフ老人の悲劇も900人の農奴を所有する領主としてワルコフスキー公爵が隣村に引っ越してきたことに起因しています。しばしばイフメーネフ家を訪れて懇意になったワルコフスキー公爵は、自分の領地の管理を依頼し、5年後にはその経営手腕に満足したとして新たな領地の購入とその村の管理をも任せたのです。

ここで注目したいのは、ワルコフスキーがイワンに「私はかつて形而上学を学びましたし、博愛主義者になったこともあるし、ほとんどあなたと同じ思想を抱いていたこともある」と語っていることです。父親からあまり関心を払われずに親戚の伯爵の家に預けられていた息子のアリョーシャは、トルストイの『幼年時代』と『少年時代』を熱中して読んだとイワンに伝えていますが、この時彼は父親のうちに、自分の領地ヤースナヤ・ポリャーナに学校や病院を建設して農民の養育に励んだトルストイのような面影を見ていたように思えます。人の良いイフメーネフ老人がワルコフスキー公爵を信じて彼の領地の管理や新たな領地の購入を手伝ったのは、改革者のような彼の姿勢に幻惑されたためだったといえるでしょう*6。

しかし、領地を購入した後でワルコフスキー公爵は、領地の購入代金をごまかされたという訴訟を起こし、隣村の地主たちを抱き込んでさまざまな噂を流し、有力なコネや賄賂を使って裁判を有利に運んだために、裁判に敗れて一万ルーブルの支払いを命じられたイフメーネフ老人は自分の村を手放さねばならなくなったのです。

この小説が連載された雑誌『時代』(1861年1月号~1863年4月号)が検閲で発行禁止となった後、ドストエフスキーは新たに創刊した雑誌『世紀』に『地下室の手記』などを発表してなんとか存続させようとしましたが、この雑誌も1865年には廃刊になりました。その翌年に発表されたのが、「強者のみに有利なる法律」に激しい怒りを覚え、「高利貸しの老婆」を「悪人」と規定して殺した元法学部の学生・ラスコーリニコフの苦悩と行動を詳しく描いた長編小説『罪と罰』でした。

二、内田魯庵訳の『復活』と新聞『小日本』

日本では内田魯庵が二葉亭四迷の助力を得て1892年に『罪と罰』の第一部を、翌年には第二部を英語から訳していましたが、充分な購買者数を得ることができなかったために『罪と罰』の後半部分は出版されませんでした。それにも関わらず、評論「『罪と罰』の殺人罪」できわめて深い解釈を記したのが北村透谷だったのです*7。

『罪と罰』を訳していた内田魯庵訳の『復活』が政論新聞『日本』に連載されたのは、日露戦争終結前の1905年4月5日から12月22日にかけてでした*8。魯庵はこの訳を掲載する前日に「トルストイの『復活』を訳するに就き」との文章を載せて、そこでこの長編小説の意義を次のように記していました。

「社会の暗黒裡に潜める罪悪を解剖すると同時に不完全なる社会組織、強者のみに有利なる法律、誤りたる道徳等のために如何に無垢なる人心が汚され無辜なる良民が犠牲となるかを明らかにす」。

私が強い関心を抱いたのは、どのような経緯で魯庵訳の『復活』が『日本』に掲載されたのかということでした。そのことに関連してまず注目したいのは、正岡子規が編集主任に抜擢されていた家庭向けの新聞『小日本』に掲載された文芸評論家・北村透谷の自殺についての次のような記事が子規によって書かれていた可能性が高いことです*9。

「北村透谷子逝く 文学界記者として当今の超然的詩人として明治青年文壇の一方に異彩を放ちし透谷北村門太郎氏去る十五日払暁に乗し遂に羽化して穢土の人界を脱すと惜(をし)いかな氏年未だ三十に上(のぼ)らずあたら人世過半の春秋を草頭の露に残して空しく未来の志を棺の内に収め了(おは)んぬる事嗟々(あゝ)エマルソンは実に氏が此世のかたみなりけり、芝山の雨暗うして杜鵑(ほとゝとぎす)血に叫ぶの際氏が幽魂何処(いづこ)にか迷はん」。

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(図版は正岡子規編集・執筆『小日本』〈全2巻・別巻、大空社、1994年〉、大空社のHPより)

この記事が掲載された新聞『小日本』は明治八年に発布された「讒謗律」や「新聞紙条例」によってたびたび発行停止処分を受けていた新聞『日本』を補う形で創刊されたのですが、俳句や和歌のコーナーを設けて投稿を広く呼びかけた子規は、その創刊号からは自分の小説「月の都」を卯之花舎(うのはなや)の署名で掲載していました。

若い仏師の悲恋を描いた幸田露伴の『風流仏』に強い感銘を受けた子規が、1891年の冬期休暇中に一気に書き上げたこの小説の原稿は「露伴氏の一閲を乞うた」ものの批評が芳しくなかったために、社主の羯南翁から自恃(じじ)居士(高橋建三氏)の手に渡り、二葉亭四迷のところまで行っていたのです*10。

それゆえ、夏目漱石が英国から親友の正岡子規に書いた手紙でトルストイの破門についてのイギリスの新聞の記事を紹介していたのは一方的な紹介ではなく、子規の関心に応えていたという可能性さえあると思われます。

さらに、『罪と罰』を高く評価した北村透谷は、トルストイの長編小説『戦争と平和』や『イワンの馬鹿』を英訳で読み、徳冨蘆花よりも早くにトルストイの戦争観にも言及して、両者をともに高く評価していました*11。二葉亭四迷の勧めで1908年に連載した長編小説『春』で島崎藤村が、『文学界』の同人であった北村透谷との友情やその死について描いていたことはよく知られていますが、短い記事とはいえ子規はすでに北村透谷の意義を高く評価する記事を書いていたのです。

子規が書いた短い記事を視野にいれると二葉亭四迷だけでなく、夏目漱石も深い印象を受けただろうと推測され、内田魯庵訳の『復活』が政論新聞『日本』に掲載されるようになった遠因は正岡子規にあったと言ってもよいのではないかと思えます。

さらに正岡子規や北村透谷との関連で注目したいのは、1910年に修善寺で大病を患った夏目漱石が、「思い出す事など」で「無意識裡に経過した大吐血の間の死の数瞬間」とドストエフスキーの「癲癇時の体験」との比較をしつつ、ペトラシェフスキー事件で捉えられ、刑場に連れ出された「寒い空と、新しい刑壇と刑壇の上にたつ彼の姿と、襯衣一枚で顫えてゐる彼の姿を根氣よく描き去り描き來って已まなかった」と記していたことです。

比較文学の清水孝純氏はこの時漱石が「時代を震撼させた」日本の大逆事件を「思い浮かべていたことは想像に難くない」と記しています*12。この指摘は重要でしょう。ペトラシェフスキー事件の翌年にオーストリア帝国の要請によってハンガリー出兵に踏み切っていたロシア帝国はその数年後にクリミア戦争へと突入していました。大逆事件で幸徳秋水などを逮捕した年に「日韓併合」を行った日本も、その後大陸への進出を強めることになったのです。

三、トルストイの『罪と罰』観と『復活』

トルストイの『罪と罰』観を考える上で重要なのは、日露戦争後にヤースナヤ・ポリャーナを訪れた德富蘆花からロシアの作家のうち誰を評価するかと尋ねられた際に、「ドストエフスキー」であると答え、さらに蘆花が『罪と罰』についての評価を問うと「甚佳甚佳(はなはだよし、はなはだよし)」と続けていたことです*13。

そのような高い評価に注目するならば、トルストイは「高利貸しの老婆」を「悪人」と規定してその殺害を正当化した主人公ラスコーリニコフの悲劇と苦悩を描き出すとともに、ソーニャとの関わりに読者の注意を促しながら、シベリアの流刑地で森や泉の尊さを知る民衆との違いを認識させていたエピローグの意義を深く理解していたと思えます。

たしかに、ドストエフスキーは『罪と罰』の本編では、「殺してやれば四十もの罪障がつぐなわれるような、貧乏人の生き血をすっていた婆ァを殺したことが、それが罪なのかい?」と妹に問わせ、さらに自分が犯した殺人と比較しながら、「なぜ爆弾や、包囲攻撃で人を殺すほうがより高級な形式なんだい」と反駁もさせていました*14。

しかし、ドストエフスキーはラスコーリニコフに「人類滅亡の悪夢」を見させていた後で、「罪の意識」に目覚めた主人公が徐々に変わっていく「新しい物語」を次のように示唆していたのです。

「ここにはすでに新しい物語がはじまっている。それは、ひとりの人間が徐々に更生していく物語、彼が徐々に生まれかわり、一つの世界から他の世界へと徐々に移っていき、これまでまったく知ることのなかった新しい現実を知るようになる物語である。それは、新しい物語のテーマとなりうるものだろう。しかし、いまのわれわれの物語は、これで終わった。」

自分の理論が核兵器の発明にも利用されてしまったことを知ってから、核兵器廃絶と戦争廃止のための努力を続けた物理学者のアインシュタインは、ドストエフスキーについて「彼はどんな思想家よりも多くのものを、すなわちガウスよりも多くのものを私に与えてくれる」と述べていました*15。兵器の改良により大量殺人が可能になった現代では、新たな戦争が「人類滅亡」につながる可能性が実際に出てきていたのであり、ドストエフスキーやトルストイはその危険性をいち早く洞察していたといえるでしょう。

一方、1934年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林秀雄は、ラスコーリニコフには「罪の意識」はなかったと断言し、エピローグも「半分は読者の為に書かれた」と記していました。そして、戦後に書いた『罪と罰』論でもエピローグの結末に記された「新しい物語」に言及した小林は、ドストエフスキーが『白痴』で「この『新しい物語』を書かうと考へた事は確かである」としながらも、主人公が「次第に更生し、遂に新しい現実を知ることは可能であるか」と読者に問い、不可能であると断言していたのです*16。

このような解釈と正反対の解釈を示したのがトルストイ研究者の藤沼貴氏でした。『罪と罰』の粗筋を「誤った『超人』思想に駆られて殺人を犯し、シベリアに流刑されたラスコーリニコフは、彼と共に流刑地まで来たかつての娼婦ソーニャの純粋な愛によってよみがえり、自分の罪を認めて復活する」と簡明に記した藤沼氏は、『復活』の結末の次のような文章が『罪と罰』の結末に酷似していることを指摘していました*17。

「この夜から、ネフリュードフにとってまったく新しい生活が始まった、それは彼が新しい生活条件に入ったからというよりむしろ、このとき以来彼の身に生じたすべてのことが、彼にとって以前とまったく別の意味を得ることになったからだった。ネフリュードフの人生のこの新しい時期がどのようなかたちで終わるか、それは未来が示してくれる」。

四、『復活』のネフリュードフと『白痴』のムィシキン

トルストイの劇《復活》で松井須磨子が「カチューシャの唄」を歌ってから百年に当たることを記念して行われたイベントでは、トルストイの原作とそれを劇化したアンリ・バタイユの脚本やその英訳をしたビアボム・トゥリーの脚本をもとにした島村抱月の劇との違いも論じられました*18。

私にとってことに興味深かったのは、名門貴族のネフリュードフが奔走したかいがあり、皇帝からの特赦状が届いてカチューシャ(マスロワ)は自由になるが、彼女は政治犯のシモンソンとともにシベリアへいくことを選ぶことです。

この後で、トルストイは「奇妙な斜めを向いた目とあわれを誘うような微笑の中に」、ネフリュードフが彼女は自分を愛していたが、彼女は娼婦だった「自分を彼に結びつければ、彼の一生をだいなしにすると考え、シモンソンといっしょに姿を消して、ネフリュードフを自由にしようとしていたのだ」と読み取ったと記しています*19。

トルストイの『復活』が誘惑した後で捨てた小間使いのカチューシャと裁判所で再会したことで「良心の呵責」に苦しむようになった貴族のネフリュードフの物語であることに注意を払うならば、その描写は、子供の時の火事が原因で孤児となり貴族のトーツキーによって養われていたが、美しい乙女になると犯されて妾にさせられていたナスターシヤが、ムィシキンからのプロポーズに歓喜しながらも、子供のように純粋な彼の一生をだいなしにすると考えて、ロゴージンとともに去っていたことを思い起こさせます。

『罪と罰』の結末に記された「ひとりの人間が徐々に更生していく物語」という記述に注目しながら、『復活』と『白痴』の第一部を比較するとき、主人公と虐げられた女性との関係の描かれ方の類似性に驚かされます。

トルストイは長編小説『白痴』の主人公ムィシキンを「その値打ちを知っている者にとっては何千というダイヤモンドに匹敵する」と高く評価していました*20。

長編小説『罪と罰』や『白痴』における「良心」という単語の用法に注目しながら読むとき、しばしば否定的に論じられるムィシキンの行動は、名門貴族の末裔であったという「贖罪的な意識」から自分の非力さを知りつつも「殺すなかれ」という理念を広めようとしていたと解釈できるのではないでしょうか*21。

おわりに

ドストエフスキーとトルストイはしばしば対立的な作家として対置されてきましたが、ドストエフスキーはトルストイの農民に対する教育活動を高く評価していましたし、トルストイもまた「大地主義」の理念に深い関心を寄せていたのです。

長編小説『復活』と『罪と罰』の結末に記された「新しい物語」の記述の類似性を指摘した藤沼氏の言葉に注目しながら、『罪と罰』から『白痴』への流れを分析するとき、両者の相互関係を深く理解することが、二人の大作家の作品を正しく理解する上でも必要不可欠であることを物語っているでしょう。

 

《注》

*1  小林秀雄「『罪と罰』についてⅠ」、『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、45頁。

*2  川端香男里『100分de名著、トルストイ「戦争と平和」』NHK出版、2013年。

*3  ドストエフスキー、望月哲男訳『死の家の記録』光文社、2013年参照。

*4  グロスマン、松浦健三訳編「年譜(伝記、日記と資料)『ドストエフスキー全集』(別巻)、新潮社、1980年、483頁。

*5  小林秀雄「『罪と罰』についてⅠ」、『小林秀雄全集』第5巻、新潮社、66頁。

*6  高橋『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2002年、第2章〈「大改革の時代」と「大地主義」〉参照。

*7  北村透谷「『罪と罰』の殺人罪」『北村透谷選集』岩波文庫、1970年参照。

*8  籾内裕子「内田魯庵と二葉亭四迷――『復活』初訳をめぐって」『緑の杖』(日本トルストイ協会報)第12号、2015年、2~13頁。

*9  『「小日本」と正岡子規』大空社、1994年、34頁。

*10柴田宵曲『評伝正岡子規』岩波文庫、2002年。

*11北村透谷、前掲書、1970年。

*12 清水孝純「日本におけるドストエフスキー ――大正初期に見る紹介・批評の状況」、『ロシア・西欧・日本』朝日出版社、昭和51年、452~454頁。

なお蘆花のトルストイ観については、阿部軍治『徳富蘆花とトルストイ――日露文学交流の足跡』(改訂増補版)彩流社、2008年参照。

*13 徳冨蘆花「順禮紀行」、『明治文學学全集』第42巻、筑摩書房、昭和41年、183~186頁。

*14 ドストエフスキー、江川卓訳『罪と罰』岩波文庫より引用。

*15 クズネツォフ、小箕俊介訳『アインシュタインとドストエフスキー』れんが書房新社、1985年、9頁。

*16 小林秀雄、前掲書、『小林秀雄全集』第6巻、291頁。小林秀雄のドストエフスキー観の問題点については、髙橋『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、2014年参照。

*17 藤沼貴「トルストイ最後の長編小説『復活』」、藤沼貴訳『復活』岩波文庫下巻、2014年。初出は『トルストイ』第三文明社、2009年、504頁。

*18 昨年12月7日のパネルデスカッション「カチューシャの唄大流行と大衆の時代」、および、木村敦夫「トルストイの『復活』と島村抱月の『復活』」、東京藝術大学音楽学部紀要、第39集、平成26年、39~58頁参照。

*19 トルストイ、藤沼貴訳『復活』岩波文庫下巻、440頁。

*20 トルストイ、訳は『白痴』新潮文庫下巻、「あとがき」の木村浩訳より引用。

*21 髙橋『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、2011年参照。

(『緑の杖』〈日本トルストイ協会報〉第12号、2015年)