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映画《惑星ソラリス》をめぐって――黒澤明とタルコフスキーのドストエフスキー観

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はじめに

かねてからタルコフスキー(一九三二~一九八六年)の映画には関心を持っており、映画《惑星ソラリス》は授業でも紹介していたが、なかなか詳しく調べる暇がなくそのままになっていた。それゆえ、タルコフスキー監督に関する多くの文献をとおして両者が会った年月を確認し、両監督の映画の深い関わりを明らかにした堀伸雄氏の「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー ~『七人の侍』に始まる魂の共鳴」(『黒澤明研究会誌』(第三二号)からは強い知的刺激を受けた。

さらに『ドストエーフスキイ広場』(第二四号)に掲載された「ドストエフスキーへの執念が育んだ〈絆〉― 黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー」を読んだことで、ドストエフスキーの研究者ではない堀氏が長編小説『白痴』に示している深い理解の原因の一つが、黒澤明監督だけでなくドストエフスーをも深く尊敬していたタルコフスキー映画の理解にあることに気づいた。

それゆえ、本稿では堀氏の論文にも言及しながら映画《惑星ソラリス》を中心に考察することで、黒澤明とタルコフスキーのドストエフスキー観とその意義に迫ってみたい。

一、 黒澤監督と映画《惑星ソラリス》

「『惑星ソラリス』を中心に、物質性と精神性について」と題する論文でタルコフスキーは、「文芸作品の映画化」という側面から黒澤映画《白痴》などに次のように言及していた。

〈文芸作品の映画化は、映画監督が作品から離れて、なにか新しいものを作り出したときにのみ成功するのだと、私は信じています。(中略)最良の映画化とは、原作とは別の新しい何かなのです。シェイクスピアとドストエフスキーの最良の映画は、黒澤の『蜘蛛巣城』(マクベス)と『白痴』です。しかし黒澤はきわめて多くのものを破壊しました。全く新しいものを創造するために、舞台を現代に移しさえしています。例えば、ドストエフスキーの小説を逐語的に言いかえたり、図解したりしようとする映画監督よりも黒澤は、ドストエフスキーに近いことがわかるのです。文芸作品の映画化自体は、純粋の意味では、意味がないと思います〉*1。

ここでタルコフスキーは主人公を日本人とし、登場人物の数を減らして筋にも変更を加えつつも、長編小説『白痴』の本質を描いた黒澤映画の創作方法を見事に指摘しているといえるだろう。

しかし、ポーランドの作家スタニスワフ・レムのSF小説『ソラリス』を原作とした映画《惑星ソラリス》は、一九七二年にカンヌ国際映画祭審査員特別賞などを受賞したものの原作者からは酷評された。

その理由を原作者のレムは次のように語っている。「タルコフスキーは私の原作にないものを持ち込んだのです。つまり、主人公の家族をまるごと、母親やらなにやら全部登場させた。それから、まるでロシアの殉教者伝を思わせるような伝統的なシンボルなどが、彼の映画では大きな役割を果していたんですが、それが私には気に入らなかった」*2。

実際、レムの原作『ソラリス』では、ようやく、地球からの緊張に満ちた飛行を終えて宇宙ステーション「プロメテウス」に到着した心理学者のクリス・ケルヴィンが耳にしたのは、「単語の一つ一つが、鋭く飼い猫の鳴き声のような音で区切られていた」機械的な音声による案内であり、「控え目に言っても、奇妙なことだ。誰か新しい訪問者が到着した。しかもほかならぬ地球から来たのだ、とあれば、生きている者は誰でも発着場に駆けつけるのが普通ではないか」と感じたと描かれている*3。

さらに、主人公が宇宙ステーションで最初に出会ったサイバネティックス学者のスナウトは、クリスの到着に取り乱して「ギバリャンはどこだ?」という質問に答えないばかりか、天体生物学者のサルトリウス以外の誰かを見かけても「何もするな」という奇妙な警告を発するというきわめて緊迫した状況で始まる。

こうして、レムのSF小説では「知性を持つ巨大な存在」である「ソラリスの海」と人間との意志疎通の試みが大きなテーマであり、クリスは「ソラリスの海」によって主人公の記憶の中から実体化して送り出された「自殺した妻」ハリーとも出会うことになる。

一方、澄んだ水の流れとそこに揺らめく藻、そして草の情景から始まる映画《惑星ソラリス》では、原作にはない地球上での風景や家族とのやりとりが描かれており、それに対応するようなシーンで終わる。

それゆえ、訳者の沼野充義氏は「愛を超えて」と題した『ソラリス』の解説で、「(タルコフスキーの映画では――引用者注)シンボルは母から、母なるロシア、大地(地球)へつながっていき、映画は小説とは根本的に違うイデオロギー的意味を担うにいたる」と説明している*4。

たしかに原作と映画から受ける印象はかなり異なり、自分の原作にロシアの家族の物語を挿入された原作者レムの不満は理解できる。しかし、映画《惑星ソラリス》のテーマは、ロシア文学者でもある沼野氏の解釈のように、ロシア的な特殊なものに収斂されるのだろうか。むしろこの映画はドストエフスキー作品のように、きわめて深く個人の内面を描きつつ、普遍的なテーマをめざしているのではないのだろうか。

この意味で注目したいのは、映画《デルス・ウザーラ》の撮影のために当時のソ連に滞在していた黒澤監督が、一九七三年にタルコフスキーとともに映画《惑星ソラリス》を観たあとで、導入部の地球の自然描写の巧みさの中に、科学の進歩は人間を一体、どこへ連れていってしまうのかという根源的な恐ろしさを表現していると評価し、他の監督には見られない並はずれた感性に大いなる将来性を感じたと述べていたことである*5。

このような理解の背景にあるのは、この映画が提起している文明論的な課題の重視であろう。かつてソラリスで奇妙な体験をした宇宙飛行士のアンリ・バートンは、主人公のクリスが「ソラリスの海」の謎を解くために「非常手段として海に放射線を当ててみるか…」と語ると、たとえ研究にしても「手段を選ばぬやり方には反対だ。道徳性に立脚した研究でなければ…」と語り、「不道徳でも目的は遂げられます。ヒロシマのように」と主人公のクリスが反論するとバートンが「君は何を言うんだ。おかしいぞ」と激怒する場面が描かれているのである*6。

黒澤映画《デルス・ウザーラ》の冒頭の場面でも、沿海州を調査した隊長アルセーニエフが、探検隊のガイドをしてくれた森に詳しいデルスの墓を一九一〇年に訪れるが、開発によって工事が進み、その埋葬地さえも分からなくなっているというシーンが描かれている*7。

黒澤監督は記者会見でこの映画の理念についてこう語っていた。「人間は自然に対して好き勝手をしている。しかし、本当に自然を怒らせてしまったら、とんでもないことになる。…中略…環境汚染は海面だけでなく、海底にも及んでいる。今地球が危機に瀕している。今人類には環境を守ることが課題となったのだ。科学をそのために使わなければ自然は滅び、それとともに人間も滅びる。『デルス・ウザーラ』は二〇世紀初めの話だが、私の思いはそこにある」*8。

このような黒澤明の発言には『作家の日記』において、「森林がどんどん伐採されて影をひそめるおかげで、ロシアの気候はまるっきり別なものになろうとしています、水分を保持するところがなくなり、どこにも風をふせいでくれるものはありません」と木々が気候に与える影響について書き記していたドストエフスキーからの影響も見ることが可能だろう。

残念ながら日本では小林秀雄の解釈以降、ドストエフスキーの作品における骨太の文明論的な構造は軽視されるような傾向が今も続いている。しかし、ドストエフスキーは若い頃参加していたサークルの指導者であり、後に「ロシア植物学の父」と呼ばれるようになるアンドレイ・ベケートフとの交友を続けていた。そのベケートフは一八六〇年に「自然界の調和」という論文で、「勝者と敗者以外に何もない世界」を描き出していた社会ダーウィニストたちを批判するとともに、「自然界の調和は普遍的必然性の法則の表明」であると主張していた*9。『罪と罰』で「自然支配の思想」や「弱肉強食の思想」など近代西欧文明の問題点に鋭く切り込んだドストエフスキーには、このような文明論的な視野があるといえるだろう。

さて、映画はその後宇宙ステーション「プロメテウス」で物理学者ギバリャンが謎の自殺を遂げ、残った二人の科学者も何者かに怯えていることを描いた後で、クリスの前に数年前に自殺した妻ハリーが現われるという場面が描かれる。

この妻について映画《惑星ソラリス》では、旅立つ前に主人公のクリスが過去の思い出となる書類やかつての妻の写真を燃やすという地上のシーンで何回か示唆されていたが、妻の自殺に良心の呵責を覚えていたクリスは、「ソラリスの海」によって彼の記憶を物質化して送られた「妻のハリー」と出会うことにより、自分の内面を直視することになる。

それゆえ、映画《惑星ソラリス》の何度も現れる「妻」のシーンから、『罪と罰』の主人公・ラスコーリニコフが「高利貸しの老婆」を殺す前後に見るさまざまな「悪夢」を連想した私は、冒頭の藻のシーンからもラスコーリニコフが殺害の前に「花に見とれ」つつも、その意味を理解できずに立ち去ったという文章を思い浮かべたのである*10。

さらに、『罪と罰』の若き主人公は、酔っ払った少女をつけ回す中年の男を見つけて、警官を呼ぼうとしたあとで、数学の確率論を思い出し、今救ってもどうせ同じような結果になると考えてあきらめる一方で、今、すぐ大金が必要だとして「高利貸しの老婆」殺しを実行していた。

作品を読んでいない方には関係が分かりにくいかもしれないが、研究のためならば「非常手段として海に放射線を当ててみるか」と提案していた映画《惑星ソラリス》の主人公・クリスの考え方は、殺人を犯す前の『罪と罰』の主人公・ラスコーリニコフの思考法ときわめて似ているのである。

そのようなクリスに対して研究の続行を主張しつつも、「海を破壊すること」につながるような方法を拒絶していた宇宙飛行士のバートンは、それ以上の会話は無意味と考えて説得をあきらめるが、車で帰宅するバートンが高速道路で次々とトンネルを通過しながら考え込むシーンはきわめて印象的であり、映画《夢》の第四話「トンネル」のイメージとも重なる。バートンを「幻覚」を見た者のようにみなしてその主張を軽視していたクリスは、ソラリスでバートンの見た「幻覚」の意味を理解することになる。

このように見てくるとき、映画《惑星ソラリス》は『罪と罰』からの影響が非常に強いのではないかと思えるが、実際、堀氏の記述によれば「タルコフスキーの妹のマリーナと結婚した映画監督のアレクサンドル・ガルドン」も、「タルコフスキーの中には、常にドストエフスキーがおり、彼の作品には研究し、学び、考え、苦悩する芸術家ドストエフスキーが形を変えて現れる、つまり、タルコフスキーを通じてドストエフスキーが表現されている」と語っていたのである*11。

二、映画《惑星ソラリス》と『おかしな男の夢』、そして『白痴』

映画《惑星ソラリス》を初めて観た時に『罪と罰』とともに思い浮かべたドストエフスキー作品は、夢の中で他の惑星に行くというSF的な短編小説『おかしな男の夢』であった。この短編については、映画《夢》で実現されなかった「数学の不得意だった学生の私が、天使に導かれて地球から脱出しまた帰還して影と合体」するという話が描かれていたエピソード「飛ぶ」との関連で三井庄二氏の論文「現実と非日常の時空を超えた往還」(『会誌』第三〇号)にも言及しながら拙著でも簡単に触れていた*12。

三井氏は前号の論文の第九章で、タルコフスキーの映画『僕の村は戦場だった』における「イワン少年の見る叙情的な夢のシーン」にも言及している*13。一方、「まったく夢の中では、おれの理性にまったく理解しがたいことが起こるのである」と記された『おかしな男の夢』でも、夢の中で自殺した主人公は墓に埋葬された後で、広大な宇宙を旅して、地球と同じような星に着くのである*14。

そこはエデンの園のような理想郷で、主人公は彼らが「樹々と言葉をかわしていたと言っても、たぶん、あながちおれの誤りではあるまい!」と感じたばかりでなく*15、「なにかもっと積極的な手段によって、空の星と接触を保って」おり、「彼らは自然を讃え、大地を、海を、森を讃えた」とさえ確信したのである。

しかし、少し先を急ぎすぎたようなので、少し後戻りして主人公が自殺をしようとする動機などを確認しておく。

大作『罪と罰』の前に書かれた『地下室の手記』は、「わたしは病的な人間だ……わたしは意地悪な人間だ」という印象的な言葉で始まっていたが、『おかしな男の夢』も「おれはおかしな男だ。やつらはみんないまおれのことを気違いだと言っている。もしおれがやつらにとって、昔のままのおかしな男でないとすれば、それはつまり格が上がったというものである」という特徴的な言葉で始まっている。

こうして主人公の「自意識」や「自尊心」の問題に注意を促したドストエフスキーは、「この世界が存在しようとしまいと、あるいは、どこにもなにもないにしても、おれにとってはどっちみち同じことだ」と感じた主人公が、「素晴らしいピストルを買い込んで、その日のうちに弾丸(たま)をこめておいた」と記したあとで、ある少女と出会った夜のことを描いているのである。

ピストルを買い込んでから二ヶ月間も引き出しにしまい込んでいた主人公は、ある晩、暗い夜空を見上げて一つの星を見つめながら今晩こそ自殺を決行しようと考える。しかし、そんなときに「頭をスカーフで包み、薄い服を一枚身につけているだけで、全身ぐしょ濡れになっていた」八歳ぐらいの少女が、「おかあちゃん! おかあちゃん!」と必死に叫びながら、「おれの肘をつかんだのだった」。

「母親を助けるなにかの手だてを見つけるために、彼女は駆け出してきたものに相違ない」と理解しつつも、怒鳴りつけて追い払ってしまった主人公は、又借りをしている部屋に戻るとピストルを取り出してテーブルに置いた後で、安楽椅子に腰をかけたままで思いがけず眠ってしまう。

ドストエフスキーはその後で夢の中で「エメラルドのような輝きを放っている小さな星」に向かって飛び続けた主人公がその星を見つめながら「自分が見棄ててきた、なつかしい古巣の地球に対する、どうにも抑えがたい感激的な愛情」にとらわれたと書き、「あのとき自分が侮辱を与えた哀れな女の子の面影が、ちらりと目の前にひらめいた」と描いている。

この記述は惑星ソラリスで「なつかしい古巣の地球」で自殺させた妻に対する記憶にさいなまれるようになるクリスの良心の呵責をも説明しているように思える。

さらに、理想的な時代から戦争に明け暮れるようになるまでの人類の歴史を夢の中で主人公に体験させたドストエフスキーは、夢から覚めた主人公が「おれはこれから出かけて行って、たゆみなく、絶えず説きつづけるつもりだ」と決意し、「なによりも肝心なのは――自分を愛するように他人をも愛せよということで、これがいちばん大切なことなのだ」と思ったと描いている。

そして、「ところでおれは例の小さな女の子を探し出した……。さあ出発だ! それではいよいよ出かけるとしよう!」とこの短編は結ばれているのである。

「他者との関係」を失い「自殺」するというテーマは、『悪霊』などで中心的なテーマとしてたびたび描かれているが、この描写から私が連想したのは、長編小説『白痴』で主人公ムィシキンの敵対者となる重要な登場人物のイッポリートのことであった。

自殺し損なったイッポリートは悪意に駆られてさまざまなことを企み、それが悲劇を生むことになるのだが、ドストエフスキーはこの長編小説で別な可能性も示唆していたのである。

映画《白痴》ではこのイッポリートのエピソードは全く描かれていないが、拙著ではこの人物を主人公としながら、その可能性を閉ざすことなく描いたのが映画《白痴》(一九五一年)の翌年に公開された映画《生きる》であるという考えを記した。

先に挙げた論文「ドストエフスキーへの執念が育んだ〈絆〉」で堀伸雄氏も同じような見解を記していたが*16、それはおそらくタルコフスキーに関する主要な邦訳文献を読み込み、考察した結果だと思われる。

ロシア文学者の井桁貞義氏は第一回国際タルコフスキー・シンポジウムの挨拶で、「私にとって残念なことは、タルコフスキーがドストエフスキーの『白痴』を映画化するプランを、ついに実現できなかったこと」と述べていた*17。このことを紹介した堀氏は、「タルコフスキーの思想遍歴と監督生活の日常については、彼が遺した貴重な二つの書籍から読み取ることができる。ひとつは、彼の人生観・芸術観・映画観などを俯瞰的に叙述した『映像のポエジア』であり、他方は、彼自らが『殉教録』と名付けた日記である」と紹介している。さらに、タルコフスキーが一九七〇年四月三〇日の日記で、「ドストエフスキーは、私が映画で作ってみたいと思っていることのすべての核になるかもしれない」と書かれていることに注意を促した堀氏は、映画《惑星ソラリス》の後もタルコフスキーがいかに『白痴』の映画化に向けて終始、執念を燃やし続けていたかを文献をとおして明らかにしている*18。

残念ながら、タルコフスキーは『白痴』の映画化には成功しなかったが、ドストエフスキーが強い関心を持っていた詩人プーシキンの『ボリス・ゴドゥノフ』をオペラ化したムソルグスキーのオペラ《ボリス・ゴドゥノフ》の演出に携わっていた*19。

僭称者のテーマに強い関心を持ったドストエフスキーは、長編小説『悪霊』にこの問題を組み込んでいるが、プーシキンは歴史上の実在の人物をモデルとして権力者の「良心の呵責」の問題を描いたこの作品で、権力の獲得を目指したラスコーリニコフの先駆者とも呼ぶべき若き修道僧グリゴーリーに、彼が見た次のような夢について語らせていた*20。

「わたしは急な梯子をつたわって、塔に登った夢を見ました、モスクワが蟻塚のように見えました、下の広場では人民がひしめき、わたしを指さして笑うのです、わたしは恥ずかしくも恐ろしくもなりました。そして、まっさかさまに落ちると見て、ハッと目がさめました」。

その話を聞いた同室の老僧ピーメンは、それは若者の見る夢だとして、年代記を書いていたこともあり、イワン雷帝の幼い息子ドミトリーがゴドゥノフによって暗殺されたことを伝えた。その時、ピーメンはグリゴーリーの夢に強い権力へのあこがれを読み取り、その戒めとしてゴドゥノフのことを語ったと思われる。

しかし、皇子ドミトリーが生きていれば自分と同じ年齢になることを知ったグリゴーリーは僧院を出奔してリトアニアに逃げ、カトリック教徒のポーランド貴族の娘と結婚して改宗し、自分こそが生き残った皇子ドミトリーであると僭称して、ポーランド軍を率いてロシアに攻め込むことになるのである*21。

オペラ《ボリス・ゴドゥノフ》の演出に際して、皇帝(ツァーリ)となることを受け入れたゴドゥノフが、民衆の中にいた少年を見てはっとする場面を描いていたタルコフスキーは、修道院の「場」では、グリゴーリーとピーメンとの会話の背後で皇子ドミトリーが暗殺される場面を演じさせていた。それは偽ドミトリーとしてツァーリの座につき一時は権力を有するが、ほどなく亡ぶことになるグリゴーリーの将来をも示唆していたといえるだろう。しかもタルコフスキーはこのオペラの終幕ではモスクワに攻め込もうという偽ドミトリーの呼びかけに幻惑されて従う民衆を見た聖愚者にロシアの危機を語らせていた。

私自身としては、ゴドゥノフの子供達たちが自殺したと知らされ僭称者が皇帝になったことを祝うように強要された民衆が、「黙して答えず」と結ばれていた原作の方がその後の歴史を暗示して引き締まっていると感じている。しかし、このオペラの結末のシーンからはタルコフスキーが、「殺すなかれ」という理念を唱えていた長編小説『白痴』の主人公ムィシキンの悲劇を強く意識していたことは確実だと思われる。なぜならば、自分の恩人がカトリックに改宗していたということを知らされ、激しい衝撃を受けたこともあり主人公が元の「白痴」に戻ってしまうこの長編小説の結末も、ロシアの精神的な危機が強く示唆されているからである*22。

最後にもう一度映画《惑星ソラリス》に戻るが、「無重力になった宇宙ステーション内の図書館で抱き合って宙に漂うクリスとハリー」のシーンの直前に「少年時代の主人公が乗っていたと思われるブランコが雪に覆われた丘の上でかすかに揺れるショットがある」。そのことに注意を促したロシア文学者の相沢直樹氏は、そこに黒澤映画《生きる》との関連を見て、そのシーンは「クロサワへのオマージュだったかも知れない」と書いている*23。

黒澤監督がタルコフスキーと一緒に試写室で『惑星ソラリス』を観た後にウォッカで乾杯し、一緒に『七人の侍』だけでなく『生きる』のテーマなどを歌ったという、黒澤和子さんからの証言も踏まえた堀氏の興味深い記述にも留意するならば*24、そのシーンは実際に「クロサワへのオマージュだった」可能性が高いと思われる。

 

追記:

ブログに記したように、考察に際しては「ドストエーフスキイの会」第215回例会で「ドストエーフスキイとラスプーチン ――中編小説『火事』のラストシーンの解釈」という題で発表された大木昭男氏の考察からも強い示唆を受けています。

ドストエフスキーが1864年に書いたメモで、人類の発展を「1,族長制の時代、2,過渡期的状態の文明の時代、3,最終段階のキリスト教の時代」の三段階に分類していたことを指摘した大木氏は、『火事』とドストエフスキーの『おかしな男の夢』の構造を比較することで、その共通のテーマが「己自らの如く他を愛せよ」という認識と「新しい生」への出発ということにあると語っていたのです。

この指摘は長編小説『白痴』の映画化にも強い関心をもっていたタルコフスキーのドストエフスキー観を理解するうえでも重要でしょう。

*1 月刊「イメージフォーラムNO80追補・増補版」七七頁。鴻英良訳による。引用は『会誌』第三二号に掲載の堀伸雄論文より)。

*2 スタニスワフ・レム、沼野充義訳『ソラリス』国書刊行会、二〇〇四年、三六〇頁。

*3 同右、八頁。

*4 同右、沼野充義「愛を超えて」(訳者解説)、三六〇頁。

*5 堀伸雄、前掲論文「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー」、九七頁。

*6 DVD《惑星ソラリス》、アイ・ヴィ・シー、二〇〇二年。

*7 DVD《デルス・ウザーラ》、オデッサ・エンタテインメント、二〇一三年。

*8 ウラジーミル・ワシーリエフ、池田正弘訳『黒澤明と「デルス・ウザーラ」』東洋書店、六~七頁。

*9 トーデス、垂水雄二訳『ロシアの博物学者たち』、工作社、一九九二年、一〇一頁。

*10 高橋『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』、二〇〇〇年、一九九頁。

*11 堀伸雄、前掲論文「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー」、一一五頁。

*12 高橋『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、二〇一四年、二〇一頁。

*13 三井庄二「『七人の侍』に見る伝統文化と歴史観」(『会誌』第三二号)。平和時の叙情的な映像と戦時の過酷な日々が対比されている『僕の村は戦場だった』の夢からは、『戦争と平和』において突撃のシーンの前に見るペーチャの夢も連想される。

*14 小沼文彦訳『おかしな男の夢――幻想的な物語』、『ドストエフスキー全集』第一三巻、一九八〇年、筑摩書房。以下もこの訳からの引用による。

*15 前掲書『「罪と罰」を読む(新版)』では、この記述に注意を促しつつ、ソーニャという存在との類似性を指摘した。

*16 堀伸雄、前掲論文「ドストエフスキーへの執念が育んだ〈絆〉」、三二頁。

*17 堀伸雄、前掲論文「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー」、一一四~一一五頁。

*18 堀伸雄、前掲論文「ドストエフスキーへの執念が育んだ〈絆〉」、四一頁。

*19 都築政昭氏の『プーシキンの恋 自由と愛と憂国の詩人』(近代文芸社、二〇一四年)では、波乱に満ちたプーシキンの生涯だけでなく、主要な作品も詳しく紹介されている。『ボリス・ゴドゥノフ』については一八三頁から一九四頁参照。

*20 プーシキン、佐々木彰訳『ボリス・ゴドゥノフ』(『世界文学体系』第二六巻)、筑摩書房、一九六二年、二〇九頁。

*21 DVD『ボリス・ゴドゥノフ』(『DVDオペラ・コレクション』)、デアゴスティーニ・ジャパン、二〇一一年。

*22 高橋『黒澤明で「白痴」を読み解く』、成文社、二〇一一年、二三四~二五二頁。

*23 相沢直樹『甦る「ゴンドラの唄」 「いのち短し、恋せよ、少女」の誕生と変容』、新曜社、二〇一二年、三一二頁。

*24 堀伸雄、前掲論文「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー」、九六頁。

 

劇《石棺》から映画《夢》へ

目次

はじめに チェルノブイリ原発事故と劇《石棺》

一、「演じることと見ること」

二、劇《石棺》

三、映画《夢》と福島第一原子力発電所の事故

四、日本の原発行政と「表現の自由」

Earthquake and Tsunami damage-Dai Ichi Power Plant, Japan(←画像をクリックで拡大できます)

(2011年3月16日撮影:左から4号機、3号機、2号機、1号機。)

 

 はじめに チェルノブイリ原発事故と劇《石棺》

チェルノブイリ原発事故をモスクワで体験していた私は、黒澤映画や帝政ロシアや現代ソヴィエトにおける厳しい検閲の問題にもふれつつ、現代のチェーホフとも称されているヴァンピーロフの劇『去年の夏、チュリームスクで』と、原発事故をテーマにしたソ連の劇《石棺》を考察したエッセーを一九八八年に同人誌『人間の場から』(第10号)に書いた。

作家のヴァムピーロフが「時代の病気である人間の中の自然破壊に最初に気づき、劇作の筆をとりはじめた」ことを紹介した訳者の宮沢俊一氏は、「ヴァムピーロフを読み直すたびに《美が世界を救う》というドストエフスキーの有名な言葉が何度も何度も新たな希望をもって思い出されるのです」という作家ラスプーチンの言葉を紹介している。

映画《夢》が公開される二年前のエッセーだが、このとき私がチェルノブイリ原発事故のことを考えつつ、《美が世界を救う》という言葉が記されている長編小説『白痴』を映画化した映画《白痴》や映画《生きものの記録》などの黒澤映画に対する関心を深めていたことは確かなように思える。

それゆえ、ここでは劇『去年の夏、チュリームスクで』の感想は省略し、ロシアにおける「表現の自由」の問題と劇《石棺》を中心に、国民の生命にかかわる原発事故と情報の隠蔽の問題を確認しておきたい。そして最後に「表現の自由」という視点から、黒澤明監督の発言などをとおして福島第一原子力発電所の事故とその後の経過を考察する。(なお、ここでは用語や人名表記の一部を改めた)。

一、「演じることと見ること」

前回、私はモスクワの舞台においてドストエフスキー劇が予想以上に演じられていることを紹介したが(次項参照)、それは分野が異なるにせよ文学と演劇が密接な関わりを持ち続けていること、さらに演劇が生活の中に深く入り込んでいることを物語っていると言えるだろう。

最近、本場のイギリスで『マクベス』を上演して高い評価を受けた演出家の蜷川氏と主演女優栗原小巻もイギリスでは演劇が市民から愛されているのに対し、日本での観客層は主に婦人であると先日のテレビで語っていた。すなわち、働きバチの日本男子には観劇などをする暇はなく、又、ますます都市から離れていく日本の住宅事情では夜に妻と共に劇を見ながらゆっくりと人生について考える余裕も持ちにくく、さらにはヨーロッパの国々と比べて切符の値段もはるかに高いのだ。

ところで演劇の力ということで思い出されるのは『白痴』の映画化についてふれながら、「映画というのは考えるということにあんまり適した形式ではない」と述べた黒澤明監督の言葉である。それは一見、ドストエフスキーの本場ソヴィエトでも高い評価を受けた映画『白痴』の監督の言葉とは見えないだろう。だが氏の言葉が事実を突いていることも確かだ。現代において長編小説が読まれなくなってきたのは、恐らくそれがあまりに〈考えるということに適している〉からだろう。

それに反して、映画やテレビのドラマでは一度始まってしまえば、途中で多少の不満は残ったにせよ、ほとんど考えるというエネルギーを使わないまま最後まで見ることができる。そしてそのように観客を引っ張っていけるのは直接感覚に訴えることができるという映画の力であり、観客の前で直接演じる演劇はその力が一層強いといえるだろう。

〈なんだ、そんな事か、それならば演劇の力なんて大したことではないじゃないか〉と思われるかも知れない。確かにそれだけならば演劇は世の中を改善しうるような力強い力を持ち得ないはずだからである。だが後に見るように、その面でも演劇は力を持ち得ていたし、今も持っているのだ。では黒沢氏の定義が間違っているのだろうか。そうではない。恐らく、私達は氏の表現を限定するだけでよい。「上映中は」と。そう、映画や演劇は上映中は考えるということにはあまり適さないのだ。

沢山の印象や感覚が観客を襲い、観客はそれに呑み込まれる。しかし、時の経過と共に観客は自分を取り戻す。今見たシーンを思い出してみる。語られたせりふが浮んでくる。蜷川と栗原の両氏は、イギリスの劇場のレストランは真夜中でも開いていると語っているが、それは食欲を満たすばかりではあるまい。そこには語る時間と語る相手がいる。

そう、多少極端に言うならば、映画(演劇)がその思索的な力を発揮するのは、それが終わった時からなのだ。だが、余韻と余白の美を作り上げた私達日本人は今、終わった後の創造的な余韻を持ち得ているだろうか。

*                           *                             *       *          *

一方、ロシアの演劇史を見ると、そこには上演禁止の戯曲が累々と死体のように横たわっている。ロシアの検閲官は文学に対しても厳しかったが、演劇にはさらに厳しかったのだ。以下、少し長くなるがドストエフスキーの場合を見てみよう。

《ドストエフスキーが亡くなってから暫くの期間は、概して演劇界は不毛であり、ロシアの伝統的レパートリーを豊富にできた筈の当時の作家や劇作家の問題作は、殊に激しい弾圧を受けた。八〇年代には…中略…ドストエフスキーの長編小説が舞台にのる可能性は開かれていなかった。演劇の検閲官は、上演のための改作が度々要求されていた『罪と罰』、『虐げられた人々』、『白痴』、『カラマーゾフの兄弟』などの上演を徹底して禁止したのである。かつて舞台にかけられたことがあり、ドストエフスキーの目からは「罪のない」小説『伯父様の夢』による喜劇ですらも一八八八年には検閲官によって禁止の措置を受けた。

ドストエフスキーのこの小説を改作した喜劇『うつつの夢』について、演劇の検閲官ダナウーロフは、通常の上申の中で、この喜劇が「舞台で許可しえるリアリズムの限界を越えており、その内容においても表現においても、検閲の条件には全くそぐわない」と報告し、さらに彼は「概して、審査の対象であるこの喜劇は、筋書き自体の無道徳性と作者自身によって与えられた粗野で汚れた色彩の結果、極端に好ましからぬ、重苦しい印象を引き起こすものであり、それゆえ本官はこの喜劇の舞台での上演を許可することはできないと判断するものである」と結論している。検閲官はこの月並みな意見を、ドストエフスキーの他の作品にも拡大して、それらが劇場にかかり、観客に対して直接的で情念的な影響を与えることを妨げたのである》(A・ニーノフ、「ドストエフスキー劇の誕生」『ドストエフスキーと演劇』)。

この事実はロシアの為政者が演劇をいかに恐れていたかを端的に物語るものだろう。だが演劇の力を恐れたのは帝政ロシアの為政者ばかりではなかった。『去年の夏、チュリームスクで』の作者ヴァンピーロフの場合をみてみよう。訳者の宮沢俊一氏は、優れた演出家トフストノーゴフが「ソヴェート戯曲の最高傑作の一つである『鴨猟』が書かれてから十一年も上演を妨げられていた事態を絶対に容認する訳にはいかない」と一九八六年の初めに「文学新聞」紙上で検閲の廃止を要求したことを紹介しながら、「スターリン批判と自由化の波を食い止めようとしていた六十年代のブレジネフ政権の官僚は、執拗に新しい純粋なものの出現を抑えようとしていた」と書き、ヴァンピーロフの主な作品が両首都で演じられるようになったのは「彼の死後のことである」と解説している。

二、劇《石棺》

グーバレフの戯曲『石棺』もまたソヴィエトの現実を鋭くえぐり出したと言えるだろう。この戯曲はチェルノブイリの事故を扱っているが、この事故が起きた時、私は学生と共にモスクワにいた。周知のようにこの事故はウクライナばかりでなく、近隣諸国にも多くの被害を与えたが、たまたまこの数日間南風がずっと吹いていたためにかろうじてモスクワは汚染から逃れ得た。だがそれは単なる偶然に過ぎず、もし北風が吹いていたら、私達も又汚染から逃れることはできなかった筈であり、その事は私に核の時代に生きることがいかなる危険性と隣接しているかを再認識させもしたのだ。

それゆえ、ソヴィエトでこの事故を扱った戯曲が発表されたと知った時にはどのような視点からこの事故が描かれるかに強い興味を惹かれた。

「ぐでんぐでんに酔っ払って実験用原子炉のそばで寝てしまった」ために多量の放射能を浴びたのだが奇跡的に生き残り病院に一年以上も入院しているこの作品の主人公は『罪と罰』の大酒呑みマルメラードフを思わせるような、道化の患者である。そして、チェルノブイルの原発事故の実体はこの男が治療を受けている放射線治療病院を舞台にして解明されていく。

この場面設定はすぐれている。なぜならばこの患者やこの病院で医師たちの視点からはこの苛酷な事件もある程度、客観的に見ることができるし、また、事故の患者たちとじかに接する彼らは、たとえば、市役所や裁判所を舞台とする場合よりも、内部の視点からこの事件を描きえる。さらに作者はここに三人の新入りの研修医を登場させ、放射能の恐ろしさをほとんど知らなかった彼女たちを瀕死の病人たちが次々と運ばれる戦場のような場に立たせあるいは若い患者の一ときの愛を描いて戯曲に幅と深みを与え得ている。そして、何よりも自ら「不死身の男」と名のる自分も放射線の被害者である道化を介在させることによって事故の悲劇性を笑いを通して鋭く描きだしているのだ。

事故の実態や危機に際しての個々の行動は運ばれてきた患者たちの会話や彼らと事情調査を行う検事の会話を通して徐々に明らかにされていく。たとえば、決死の覚悟で消火にあたった消防士や変圧器を接続するために現場に止まったオペレーター、あるいは出張で来ていただけなのに科学者として反応の変化を気を失うまで追い続けた物理学者の行動が再現される一方で、被害の大きさを熟知しながらも、上司や市民に知らせる事を怠った研究所長の行為が暴露される。

始めは温厚で人情味豊かな人間と思われていた消防指令の将軍も、実は対人関係をスムーズにし、摩擦を起さないために原子炉の屋根に禁じられていた可燃性の素材を用いる許可を与えていたことや、現所長が上部の受けのみを狙って計画の遂行だけにきゅうきゅうとしていたことが明らかにされる。そして事故の発端となった緊急炉心冷却装置を切ったのは誰だという物理学者の問いに対して、「不死身の男」は作者の声を代弁して、それはシステムだ、「無責任体制だ」と断言する。

この劇の題名ともなっている「石棺」という言葉は、劇の冒頭から「不死身の男」が解いているクロスワードの答えという形で巧妙に劇中に挿入されている。研究所長との対決の場で彼は「ファラオ王朝のピラミッドにしたって、まだ五千年の歴史があるだけだ。しかし、この原子炉のピラミッドは(中略)少なくとも一万年以上はしっかりと立っているだろうよ」と語るのである。訳者の解説によれば、この原子炉の埋葬には三十万立方メートルのコンクリートが使われたが、「しかしコンクリートの耐用年数は五十年だから、五十年ごとに石棺の上にコンクリートを塗り補強しつづけねばならない」、「まさに現代科学技術の生みだしたピラミッド」と言わねばならぬような代物なのである。

こうしてこの戯曲は原発の管理者や行政者の責任を激しく糾弾するばかりでなく、きわめて進んだ文明と共に危険とも隣接した核の時代という現代に生きる私達の原子力に対する関心の薄さや、後世への倫理的な責任をも鋭くついており、この劇はソヴィエトの現実を痛烈に批判するばかりでなく、その批判力の鋭さで未来への扉を少しにせよこじあけているようにも見える。

(ウラジーミル・グーバレフ、金光不二夫訳『石棺――チェルノブイリの黙示録』、リベルタ出版、参照)

三、映画《夢》と福島第一原子力発電所の事故

このエッセーを書いた翌年の一九八九年にリュブリャーナで開かれた国際ドストエフスキー学会に参加した私は、そこで多くのロシアの研究者と出会ったことで、作家や演出家たちが自分の職を賭けて勝ち取った「表現の自由」の重みと演劇や映画などの力を実感した(「ドストエーフスキイの会」会報、第一〇〇回例会報告、「国際ドストエフスキー・シンポジウムに参加して」、一九八九年一二月、参照)。

一方、日本では「絶対安全」とされていた福島第一原子力発電所で、映画《夢》の第六話で「赤富士」のエピソードを描いた黒澤明監督が危惧していたようなチェルノブイルの原発事故に匹敵するような地球規模の大事故が二〇一一年三月一一日に起きた。

そのあとで明らかになったのは、原子力発電所には原子炉を消火する消防車がなく、きちんとした防御服もなく、さらに日本が最先端の技術を有すると誇っていたロボットも動かなかったことである。使用済み核燃料も放置された古タイヤのように燃え出したばかりでなく、原子炉建屋が爆発してメルトダウンで汚染した放射能が原子炉から空気中に放出され、さらに放射能に汚染された大量の水が海に流れ出るなどの事態が次々と発生した。

推進派の学者や政治家、高級官僚がお墨付きを出して「絶対に安全である」と原子力産業の育成につとめてきた日本には、「美しい日本の自然」が強調されてきたにもかかわらずその大地や大気、そして海を汚しつつある原発事故の拡大を制御する技術がなく、核実験を続けることで危機的な事態へのノウハウを蓄積してきた核大国の援助によって、ようやく最悪の事態を当面は免れることができたのである。

スイスやドイツなどでは今回の「フクシマ」後に脱原発の政策が明確に打ち出され、続いて国民投票を行ったイタリアでもその方向性が示された。チェルノブイリ原発事故の際に十分な情報を与えられていたこれらの国々では、マグマの上にある薄い地表の上に成立している世界における原発の危険性をきちんと判断することができたのだと思われる。

日本でもようやくこの事故のあとで、「政治家・学者・マスコミ」などが「原発マネー」に群がっていたことや、官僚の「天下」など「利権」による「癒着」の構造が明らかになった。ことに私を驚かしたのは、莫大な予算を投じて『わくわく原子力ランド』のような教科書の副読本が配布され、戦前や戦中の「不敗神話」と同じような形で「安全神話」が小中学生に教えられていたことであった(『東京新聞』四月一九日号の「”安全神話”教える 不適切な原発副読本」など参照)。日本の原子力行政では、戦前の日本さながらに「国策」の名の下に反対を許さずに、莫大な広告費を費やして進められてきたのである。

さらに、福島第一原子力発電所が爆発すれば大量に放出されることになる放射能の被爆を防ぐために開発された「SPEEDI」の情報が、国民には知らされなかった一方で、アメリカ軍には伝えられていたことが翌年になって新聞に載り、八〇キロ圏内に住むアメリカ人に退避命令が出された理由が明らかになった。

しかも、『東京新聞』一二月四日付けの朝刊では、東京電力の社員たちが記者会見では、「事故やトラブル」を「事象」と、「老朽化」を「高経年化」と、さらに「汚染水」を「滞留水」と、「放射能汚泥」を「廃スラッジ」などと言い直していることが報じられている。

このような用語の言い換えは、「退却」を「転進」と「全滅」を「玉砕」と呼び、「敗戦」を「終戦」と「占領軍」を「進駐軍」と言い換えた当時の日本と、現在の日本の体制がほとんど変わっていないのではないのかという深刻な思いを抱かせる。

ドキュメンタリー映画『一〇〇,〇〇〇年後の安全』を撮ったデンマーク出身のマドセン監督は、「日本には、事実を国民に教えない文化があるのか」と問いかけ、「福島事故で浮き彫りになったのは、日本人の”心のメルトダウン”だ」と感じていると語った(「処理先送り 倫理の問題」[こちら特報部]『東京新聞』二〇一一年一二月二三日)。

四、日本の原発行政と「表現の自由」

このような事態は、「日本映画と、日本人の国際性を問う」と題したジャーナリスト筑紫哲也との一九九三年の対談で、「繁栄」や「自由」を謳歌しているように見える日本には、権力の問題を指摘するような「表現の自由」がないことを批判していた黒澤監督の指摘がいかに正鵠を射ていたかを物語っているだろう。

黒澤「……たとえば政治の問題とか。/アメリカの場合は、こんなこと映画にしてもいいのかっていうものもやらせているでしょう。そこがアメリカのいいところでね。…中略…日本でああいうものを作ろうと思ったら、大騒ぎになる。第一、金出すのがいないでしょう。それから、作っても上映されないかもしれない。」

筑紫「だから今こそ、『悪い奴ほどよく眠る』を上映したらいいと思う。まったく今のテーマですよね。」

黒澤「絶対やらないです。『生きものの記録』でも、どっかで抑えられているんだと僕は思いますよ。」(『大系 黒澤明』第四巻。初出、『BART』一九九三年四月二六日号)。

実際、多くの東北の人々が苦しみ放射能もれなどの事故が相次いでいるさなかに、外務省の初代原子力課長が会長を務める「エネルギー戦略研究会」や、「日本原子力学会シニア・ネットワーク連絡会」、さらには「エネルギー問題に発言する会」などの原発推進団体が、原発問題を検証した昨年末のNHKの報道番組にたいして「(番組内容には)誤りや論拠が不明な点、不都合な事実の隠蔽(いんぺい)がある」との抗議文を送っていたことが明らかになった(東京新聞、二月一日朝刊、一面)。

「高濃度の汚染水」がまだ大量に残り、原子炉の状態もはっきりしていないにもかかわらず、「冷温停止状態」が報告されると昨年末には「事故収束」が高らかに宣言され、「武器の輸出原則の緩和」に続いて昨年末には国民レベルでの議論や国会での討議もないままに原発の輸出が決められた。さらに、自民党政権が発足すると、戦後の原子力政策をそのまま受けついで、原子力の推進が謳われるようになり、安倍首相が先頭にたって原子力発電所の輸出に乗り出すようになっている。

これまで日本は「被爆国」として同情的に見られてきたが、「地震大国」でもある日本で同じような原発事故を繰り返したならば、今度は「放射能」による「加害国」として厳しい批判を世界中から浴びることになるだろう。私たちの子孫が「加害者」として肩身の狭い思いをするのではなく、日本人の誇りを持って世界で活躍できるようにするためにも、私たちはきっぱりとした決断を下す必要があるだろう。

(初出、『人間の場から』第10号、1988年。2013年7月8日、加筆、7月23日.改訂。2016年3月15日、図版を追加。10月30日、目次とリンク先を追加)

グラースノスチ(情報公開)とチェルノブイリ原発事故

正岡子規の時代と現代(3)――「特定秘密保護法」とソ連の「報道の自由度」

 

 

ドストエフスキー劇の現代性――劇団俳優座の《野火》を見る

補充兵として参戦した主人公の心理をとおして真正面から「戦争」を問い質した大岡昇平の作品を、ドストエフスキー的な方法によって見事に舞台化した鐘下脚色による俳優座の《野火》からは強い感銘を受けた。

激しい飢餓と闘いながらレイテ島を放浪していて、島の若い男女と偶然に出会い、女を撃ち殺して男にも照準を合わせた主人公の心理と行動を大岡は、「男が何か喚いた。片手を前に挙げて、のろのろと後ずさりするその姿勢の、ドストエフスキイの描いたリーザとの著しい類似が、さらに私を駆った」と描いていた。

戦後に帰国して妻と再会した主人公の感触についても大岡は、「しかし何かが私と彼女との間に挟まったようであった」と書いていた。それはリーザたちを殺した後で母親や妹と再会したラスコーリニコフが感じた距離感をも連想させられる。

こうして、『野火』には、「殺すこと」の問題を極限まで掘り下げた『罪と罰』からの影響が強く見られるが、鐘下氏の脚色からもドストエフスキー作品の深い理解がうかがえる。

たとえば、ラスコーリニコフを見守るソーニャの視線が強調されていた『罪と罰』のエピローグと同じように、原作では結末近くの章になって描かれる主人公の妻が、劇では冒頭から登場して最後まで主人公の行動を見続けるのである。

『野火』において発狂した主人公の内面の声として描かれていた箇所は、「狂兵」という主人公の分身を登場させることで声の具象化が行われており、舞台で演じられる人間関係にさらなる緊張感と深みを与え得ていた。

タガンカ劇場の劇《罪と罰》では初めにラスコーリニコフの行動を擁護した小学生の書いた作文を朗読することで、問題の現代性を明確な形で示していた。

劇団俳優座のこの劇でも「この田舎にも朝夕配られてくる新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び欺(だま)されたい人達を私は理解できない。以下略…」という主人公の言葉を、劇の冒頭で主人公自身に語らせただけでなく、劇の最後では妻にも朗読させることで『野火』の現代性を浮かび上がらせていた。

(『ドストエーフスキイ広場』第16号、2007年。再掲に際して少し手を入れた。太字は引用者。2022年7月29日誤記を訂正)

映画《醜聞(スキャンダル)》から映画《白痴》へ

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(映画《醜聞(スキャンダル)》の「ポスター」、作成: Shochiku Company, Limited © 1950。図版は「ウィキペディア」による)(拙著の書影は「成文社」より)

 

映画《醜聞(スキャンダル)》から映画《白痴》へ

ドストエフスキー研究者の新谷敬三郎氏は『白痴』に描かれているスキャンダラスな新聞記事の背景について、それまで厳しく「言論の自由」が規制されていた一八四〇年代のロシアとは異なり、クリミア戦争後に「言論がにわかに大衆化した」一方で、価値観が混乱していたこの六〇年代には、個人の中傷記事が載る新聞や雑誌が横行していたことを指摘し、「作者はそういう現象を念頭に置いて、この記事を作品に挿入したのであろう」と説明している。

このような「ゴシップ記事」の問題に注目するとき、映画《白痴》の前年に公開された映画《醜聞(スキャンダル)》(脚本・黒澤明、菊島隆三)においても、「発行部数をふやすために、誇大で興味本位の性記事や私生活の暴露記事を売り物にする」雑誌社によって、スキャンダラスな記事の対象とされたために苦悩する若者たちの物語が描かれていたことに気づく。

*   *

三船敏郎が演じる山岳画家の青江は、山歩きに疲れた有名な声楽家の美也子(山口淑子)を善意からオートバイに乗せて宿まで送り、そこで彼が描いていた山を一緒に見上げようとした。しかし寄り添うようなポーズになったその瞬間を写真家に撮られて、ゴシップ記事を売り物にする雑誌『アムール』にでっち上げの記事とともに掲載された。

雑誌社が「清純な声楽家」の「愛欲秘話」や「情炎のアリア!」などの宣伝文句で、ポスターやサンドウィッチマンなどを使ってこの記事と写真を大々的に広告したために、この雑誌は売り上げを伸ばした。

一万部の増刷を決定した社長は、自分の書いた記事が「虚偽の記載」や中傷で告訴されることを心配した記者には、そんなことで裁判になったことはないし、むしろそうなったらよい宣伝になるので「あと一万部増刷するね」と語り、偽りの報道に怒って雑誌社に乗りこんできた山岳画家の青江に殴られると、様々な報道機関に自分が暴力の被害者であることを強調して、「僕ア、あくまでも言論の自由のために闘うよ」と宣言し、さらに宣伝に力を入れたために「スキャンダル」は拡大したのである(Ⅲ・一〇~一一)。

絵画の道に進もうとしていた若き日の黒澤明を彷彿とさせるような正義感の強い山岳画家の青江も、自分が「暴力を振るったのは確かに悪い」が、「あの雑誌の記事は、ありゃ何だい。暴力以上じゃないか」と批判していた。

*   *

長編小説『白痴』ではムィシキンは中傷記事に抗して自分の恩人への疑いを晴らすためにガヴリーラに調査を依頼していたが、映画《醜聞(スキャンダル)》で青江に裁判に訴えれば勝てると自ら売り込んできたのが、弁護士の蛭田(志村喬)で、いつかは真実が明らかになると信じていた青江は、蛭田を信用して裁判を始めた。

この映画に出てくる弁護士の蛭田と『罪と罰』に出てくる酔っぱらいのマルメラードフとの類似性についてはすでに公開時に映画評で述べられていた(Ⅲ・三二一)。 たしかに善良だが酒に弱いという点や、「俺は犬だ! 蛆虫だ!」と自分のことを自虐的に語る台詞は、マルメラードフを思い起こさせる。

しかし、依頼人を裏切ることになる弁護士という人物設定に注目するならば、蛭田の人物像は『白痴』におけるレーベジェフにも近いと思える。

なぜならば、人はよいが酒好きの弱い人間であった弁護士の蛭田は、簡単に雑誌社の社長に買収されてしまい、青江たちの裁判は次第に不利な状況へと追い込まれていくことになるからである。

一方、「世間の噂」が静まるまでじっと我慢をしようとしてリサイタルをも中止にしていた声楽家の美也子は、裁判でかえって青江が追い込まれていくのを見て、自らも原告の一人となり雑誌社の社長を訴えた。

*   *

一方、ムィシキンの前に初めて姿を現した際に「喪服に身を包み」、「乳飲み子」を抱いていたレーベジェフの娘ヴェーラは、「この頃は夜はだいたい泣き暮らして、私たちに聖書を読んで聞かせるのです。だって母が五週間前に亡くなったばかりですから」と父について語っていた(二・二)。

このことに注意を払ったイギリスの研究者・ピースは、《キリストの屍》などをめぐるロゴージンとの重苦しい会話について考えながら歩いていた際に、乳飲み子を抱いて立っていたヴェーラのことを思いだして、「あの子はなんとかわいい、愛らしい顔をしていたことか」(二・五)とムィシキンが考えていたことにも注意を促していた。

彼女が胸に抱いている幼子が自分の妹であり、母親がその子を産んで亡くなっていることを想起するならば、このようなヴェーラのイメージは、無垢のままで子供を生んだとされる幼子イエスをとマリアを描いたラファエロの《システィーナの聖母》とも重ねられているだけでなく、ロシアのイコン《ウラジーミルの聖母》も意識して書いているといえるだろう。

映画《白痴》では舞台を日本に移したことで、ムィシキンが語るマリーやロバのエピソードなど『新約聖書』の逸話が削られ、ロゴージンの母親は「毎日仏様ばかり拝んでいる」女性へと変えられていた。

しかし、この映画ではクリスマスの「樅の木」や「清しこの夜」の合唱など、キリスト教的な雰囲気も伝えられることで、蛭田の娘の「聖母マリア」的な性格も描かれており、次第に窮地に追い込まれていく主人公たちの危機を救ったのが重度の肺病を患いつつも「純真な心」を持ち、父の回心を願い続けていた蛭田の善良な娘・正子(桂木洋子)だったのである。

このように見てくるとき、蛭田(レーベジェフ)に「さぎ師」という「レッテル」を貼るのではなく、彼がまだ純真な心を失ってはいないことも描き出していた《醜聞(スキャンダル)》は、蛭田の娘・正子の形象をとおしてヴェーラの見事な映像化を果たしているといっても過言ではないように思える。

 

『黒澤明で「白痴」を読み解く』、成文社、2011年、133~137頁より。なお、前の文章との関連を示すために言葉を補ったり削除した他、注は省略した)。(2017年5月7日、図版を追加)

映画《ゴジラ》考Ⅳ――「ゴジラシリーズ」と《ゴジラ》の「理念」の変質

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映画《ゴジラ》考Ⅳ――「ゴジラシリーズ」と《ゴジラ》の「理念」の変質

 

はじめに

映画《ゴジラ》の60周年ということで、テレビ東京では8月5日に放映した1992年公開の映画《ゴジラvsモスラ》に続いて、翌日には映画《ゴジラvsスペースゴジラ》(製作:田中友幸、監督:山下賢章、脚本:柏原寛司、特技監督:川北紘一)が放映された。

この映画でも特撮の技術を駆使したクライマックスの戦いのシーンの映像はことに迫力があった。しかし、「破壊神降臨」をキャッチコピーとしていたように、宇宙に飛散したゴジラの細胞がブラックホール内で結晶生命体を取り込み怪獣化して地球に飛来した宇宙怪獣スペースゴジラは終始、抹殺すべき「敵」として描かれていた。            

《水戸黄門》などの勧善懲悪的なテーマを持つ時代劇では、主人公が人々を苦しめる「悪代官」などを「征伐すべき者」として描かれ、主人公が彼らを「退治」する場面に観客は共感するので、この映画もそのような流れを受け継いでいるといえるだろう。                                                       しかし、これまで考察してきたように本多監督の映画《ゴジラ》や《モスラ》では、これらの「怪獣」は、自然を破壊する水爆実験や環境破壊によって深い眠りから目覚めた「生き物」として描かれ、「敵」を抹殺するためや、膨大な利益をあげるために科学を利用する人間の傲慢さが厳しく批判されていた。

今回はこの映画《ゴジラvsスペースゴジラ》を分析することで、「敵」の危険性を強調する一方で、「積極的平和」の名の下に堂々と原発や武器が売られ「集団的自衛権」が唱えられるようになった日本の問題に迫ることにしたい。

 1,「ゴジラシリーズ」と映画《ゴジラvsスペースゴジラ》

「ゴジラシリーズ」の第21作にあたる映画《ゴジラvsスペースゴジラ》は、1994年12月に公開され、観客動員数では映画《ゴジラvsモスラ》には及ばなかったものの340万人を集め、配給収入は16億5千万円を記録した(「ウィキペディア」)。

ゴジラに似た容姿を持つこのスペースゴジラは、「大気圏内ではマッハ3で飛行」し、「周囲をエネルギー吸収のための結晶体の要塞に変え」、「敵を超重力波で無重力状態にして攻撃を封じ」、「口から強力破壊光線」を発するのである(『GODZILLA 60:COMPLETE GUIDE』、マガジンハウス、2014年)。

物語は南太平洋に浮かぶバース島でゴジラの抹殺のために設立された国連ゴジラ対策センターに所属するG-Forceの隊員たちが、ゴジラの後頭部にテレパシーを受信する増幅装置を埋め込み、ゴジラの行動を誘導しようとするTプロジェクトを展開する一方で、ゴジラに親友を殺されていたはみだし隊員の結城晃(柄本明)がゴジラを倒すための様々な罠をしかけているところから始まる。

その結城晃にまとわりついていたリトルゴジラの愛くるしい容姿や行動がユーモラスな笑いを呼び、シリアスな活劇に可笑しさを生み出している。さらに、フェアリーモスラに化身した小美人「コスモス」(今村恵子と大沢さやか)からのメッセージを受け取って、なんとかゴジラを殺さずに地球を救おうとする超能力者の三枝未希(小高恵美)とGフォース隊員の新城功二(橋爪淳)との恋愛劇が描かれていることも怪獣映画に幅を与え、観客の共感を呼んだと思える。

NASAからスペースゴジラが地球に向けて飛来していることを知らされたGフォースは早速、最新のロボットMOGERA(モゲラ)で迎撃しようとしたが失敗に終わり、バース島に降り立ったスペースゴジラは最初の戦いではゴジラを圧倒し、結晶体にリトルゴジラを幽閉した。

その後、Tプロジェクトを横取りしてゴジラを操り、利益を上げようとする企業マフィアに拉致された超能力者の未希を新城たちが奪還しようとする銃撃戦が描かれたあとで、いよいよ札幌、山形、神戸などを破壊し、九州の福岡タワーの周囲に結晶体で囲まれた不思議な空間を作りだしたスペースゴジラとゴジラとの戦いや、無敵にも思える兇暴な怪獣スペースゴジラを倒すために、MOGERA(モゲラ)を操縦してゴジラを援助したGフォースの隊員たちの献身的で激しい戦いが詳しく描かれていた。

2,映画《ゴジラvsスペースゴジラ》と「集団的自衛権」

「ゴジラシリーズ」では最初の映画《ゴジラ》から「国民の生命」を守るために怪獣ゴジラと果敢に戦う防衛隊(自衛隊)の活動は描かれていた。そして映画《ゴジラvsモスラ》では丹沢でのゴジラ迎撃戦でメーサー戦闘機が初登場して、大規模な戦闘が繰り広げられている様子が描かれていたように、圧倒的な力を有する「敵」の怪獣と戦うために自衛隊の装備も徐々に強化されていった。

ただ、映画《ゴジラvsスペースゴジラ》ではスペースゴジラがはじめから、キャッチコピーで「破壊神」と描かれていたように妥協のない「敵」と規定されており、この凶悪な「敵」と戦うために科学力を駆使して強力な戦闘ロボットMOGERAなどを製造して戦うGフォースが、「国民の生命」を守る「正義の組織」として描かれていたことには強い違和感を覚えた。

なぜならば、映画《ゴジラ》では水爆実験によって誕生した「ゴジラ」が持つ、目には見えない強い放射能の危険性が、ガイガーカウンターによる放射能の測定のシーンをとおして映像として指摘されていたからである。広島型原爆の1000倍の威力を持つ水爆の実験で起きた「第五福竜丸」事件を契機に製作された映画《ゴジラ》の第一作では、「反原爆」の強い思いだけでなく、武力では「平和」を作り出すことはできないというメッセージがきわめて強く打ち出されていたといえよう。

ことに、「ゴジラ」を抹殺することのできる最終兵器のオキシジェン・デストロイヤーを発明した芹沢が、兵器の制作方法を知っている自分が莫大な富や名誉などに惑わされてその制作方法を明かすようになることを恐れて「ゴジラ」とともに滅ぶことを選ぶという最後のシーンでは、いかなる兵器もそれが発明された後では悪用される危険性があり、武力では平和を達成することはできないという倫理的な視点が提示されていた。

*   *   *

このように記すと映画《モスラ》では「怪獣」対策としての日本とロリシカ国との軍事技術の連繋が描かれていたではないかという厳しい反論がなされるかもしれない。たしかに、そこでは誘拐された小美人を救うために飛来したモスラが東京タワーに取り付いて巨大な繭を作り始めると、防衛隊はロリシカ国(水爆実験を行っていたロシア+アメリカのアナグラム)からの軍事援助で供与された原子力エネルギーによる原子熱線砲で攻撃することによりモスラを抹殺するシーンが描かれていた。

しかし、その後では原子熱線砲に焼かれて灰となった繭からモスラが雄々しく飛び立っていくシーンが描かれており、「モスラ」という存在も「ゴジラ」と同じように、人間の力を越えた「大自然の力」の象徴のようにとらえることができるだろう。

このことに注意を払うならば、モスラに対する原子力エネルギーによる原子熱線砲での攻撃のシーンは、原爆の投下を正当化したアメリカ軍がベトナム戦争では枯れ葉剤をまき散らし、イラク戦争では地中深くに埋めるべき劣化ウラン弾を用いてベトナムやイラクの「大地」を汚すことになることへの予言的な批判さえもあるのではないかと私は考えている。

それは同時にこのシーンには広島や長崎の被爆というたいへんな悲劇を経験した後も、二度にわたる原爆投下を「道徳的」に批判するのではなく、アメリカの「核の傘」に入ることの正当性を国民に納得させようとしていた当時の日本政府に対する痛烈な批判も含まれていると思われる。

一方、映画《ゴジラvsスペースゴジラ》では、「スペースゴジラ」や「ゴジラ」の破壊力のすさまじさは映像化されていても、「ゴジラ」が歩いたあとに残されるはずの高い放射能についての指摘はほとんど語られてはいなかった。そこには「国策」として進められていた「原発」に対する強い配慮があったともいえるだろう。                   

しかし、1964年に公開された《モスラ対ゴジラ》(監督、本多猪四郎)のノベライズ版である上田高正の 『モスラ対ゴジラ』(講談社X文庫、1984年)では、ゴジラが襲おうとしていた岩島にはもし破壊されれば日本列島の大半が汚染される規模の原子力発電所があった。それゆえ、そこでは記者会見をする官房長官が国民に対して民族移動を決意するように呼びかけるシーンも描かれていた(「ウィキペディア」)。

「原発事故」による「民族移動」の必要性という設定は、小松左京の長編小説『日本沈没』のテーマを思い起こさせるばかりでなく、あまり知られていないが、福島第一原子力発電所の大事故に際しては、もはや抑えることができないとして東京電力の幹部が脱出を指示しようとしており、関東一帯が被爆して東京都民が避難民となりかねないような事態と直面していた(リンク先→真実を語ったのは誰か――「日本ペンクラブ脱原発の集い」に参加して

しかも、ゴジラ抹殺を最大の目的とする精鋭部隊で、世界中から若く有能な人物を集めて組織されたとされるGフォースの司令官は日本の陸上自衛隊出身の将官であり、主要メンバーもアメリカの他にはロシア人の科学者が戦闘ロボットMOGERAの設計者として入っているが、水爆実験で目覚めた「ゴジラ」が強力な放射線を出していることに注意を払うならば、その部隊にはその被害を受けるはずの韓国や中国などの近隣諸国のメンバーも入れなければ、きちんとした対策をとることはできないであろう。

このように見てくる時、「国民の生命」を守る組織としての「自衛隊」の役割やモゲラの製造にかかわったロリシカ国との「軍事同盟」の必要性が、特撮技術を駆使した華々しい戦闘シーンをとおして描かれていた20年前の映画《ゴジラvsスペースゴジラ》は、「積極的平和」の名の下に堂々と原発や武器が売られ、それまでの政府見解とは全く異なる「集団的自衛権」が正当化されるようになる日本の政治情況を先取りしていたようにさえ見える。

ブッシュ大統領が「戦争の大義」もなく始めたアフガンやイラクとの戦争は、国家レベルではともかく、民衆のレベルではイスラム教徒やアラブ諸国からの強い反発を招き、それが今日の泥沼化した状況を作り出したといっても過言ではないだろう。映画《ゴジラvsスペースゴジラ》に描かれていた架空の世界は、「国民」の眼から「原爆」や「原発」の危険性や、「軍事同盟」の危険性をも覆い隠すことになるだろう。

折しも、「第五福竜丸」事件を契機に製作された映画《ゴジラ》(原作:香山滋。脚本:村田武雄・本多猪四郎)の誕生60周年にあたる今年は「自衛隊」が誕生して60周年にもあたるので、「国民の生命」や「国家の大地」を守るとはどういうことかを考えるよい機会だろう。

*   *   *

映画《ゴジラ》の芹沢博士と監督の本多猪四郎の名前を組み合わせた芹沢猪四郎が活躍するアメリカ映画《Godzilla ゴジラ》は、映画《ゴジラ》の「原点」に戻ったという呼び声が高い。

残念ながら当分、この映画を見る時間的な余裕はなさそうだが、いつか機会を見て映画《ゴジラ》と比較しながら、アメリカ映画《Godzilla ゴジラ》で水爆実験や「原発事故」の問題がどのように描かれているかを考察してみたい。

映画《この子を残して》と映画《夢》

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(長崎市に投下されたプルトニウム型原爆「ファットマン」によるキノコ雲。画像は「ウィキペディア」)。

 

映画《この子を残して》と映画《夢》

 映画《生きものの記録》が「第五福竜丸」事件を契機に製作されたことについてはすでにふれたが、その約二ヵ月前には「原子力潜水艦ノーチラス号」の進水が行われており、間もなくソ連でもそれに対抗するために「原子力潜水艦Kー19」の製造に成功するなど、「核技術」の戦争兵器への応用が各国において進められた。

 こうして、多くの科学者が「国益」の名のもとにその開発に従事するようになり、一九六二年のキューバ危機では地球が破滅するような核戦争が勃発する危機の寸前にまでいたることになる。

 さらに、一九七九年には「原子力の平和利用」というスローガンのもとに建設されたスリーマイル島の原発で大事故が起き、核兵器と同じ原理で成立している原子炉の危険性が再びクローズアップされることとなった。

 木下恵介監督が長崎で原爆に遭った自分たち家族のことを描いた医師・永井隆の『この子を残して』の映画化を決意するのは、このような時代の流れとも深く関連しているだろう。

 注目したいのは、この時は黒澤監督が「原爆映画は、被爆者以外には他人ごとだ、客なんか来やしない」と映画化の企画に反対していたことである(1)。この言葉からは《生きものの記録》の失敗が骨身にこたえていたばかりでなく、そのような映画をとおして「現実」をきちんとみつめようともしない「観客」に対する強い不信感も感じられる。

 しかし、一九八三年に公開された映画《この子を残して》(脚本・木下恵介、山田太一)は、原寸の三分の二の縮尺で浦上天主堂を建て直し、町並みも忠実に再現した大オープンセットで映画を撮影することにより、失われたものの大きさと悲しみを映像をとおして視覚的に描き出すことに成功している(2)。しかも、広島に原爆が落とされたという噂が入ってくるようになった終戦直前の八月七日の日常的な生活から描くことで、市民の生命と平和な生活が一瞬にして奪われることの悲惨さを明らかにしている。

 この映画ではさまざまな人々の悲しみが描かれているが、ことに自分の娘(十朱幸代)の死を孫たちに告げることをためらっていた祖母のツモ(淡島千景)が、孫の誠一とともに被爆地で娘の骨を拾う場面からは、深い悲しみが伝わってくる。

 *   *   *

  実は、『長崎の鐘』や『この子を残して』書いた医師の永井隆氏が、自らも被爆しながらも病人を献身的に治療していたことは以前から知っていた。

 それらの著作を私が読んでいなかったのは、「神は戦争を終結させるため、あなた方の命を犠牲として求められたのです」と語ったという言葉をどこかで読んで、戦争の問題を「神」のせいにすることはおかしいと強い反発を感じたためだと思える。

 しかし、木下恵介監督の映画《この子を残して》は、永井隆という医師の内面にも深く関わるこの問題にも迫りえていた。すなわち、合同慰霊祭の時に信者代表として永井隆が先の文章を弔辞で読むと、信者たちから「異議あり!」との鋭い怒りの声が飛ぶ場面が描かれていた。

 しかも、このテーマはそこで終わったのではなく、映画の終わり近くで孫・誠一の教育のことで隆と義母のツモが言い争う場面と密接につながり、言いたいことがもう一つあると続けたツモは、すでに負け戦なのが分かったあとも戦争を続けて沖縄だけでなく広島・長崎の犠牲者を生んだのは戦争の遂行者たちの罪であると語って、合同慰霊祭の時の隆の弔辞を批判するのである。

 娘の緑だけでなく多くの近親者を失っていた祖母ツモの戦争責任に関する発言は重く、それは戦争を推進していた高級軍人や政治家だけでなく、威勢のよい発言で国民を戦争へと駆り立てる一方、敗戦後のことには責任を持とうとしなかった林房雄や小林秀雄などの「知識人」にも関わるだろう(3)。

 *   *   *

  拙著では「盟友・木下監督がこの映画を公開したことが、黒澤監督に映画《夢》だけでなく、その翌年に封切られた映画《八月の狂詩曲(ラプソディー)》(原作・村田喜代子『鍋の中』、脚本・黒澤明)》の製作を決意させたようにも思える」と書き、長崎の被爆をテーマとした映画《八月の狂詩曲(ラプソディー)》の内容を簡単に紹介していた。

 なぜならば、この映画でも夏休みに長崎を訪れた孫たちの眼をとおして、原爆によって夫を失った祖母の深い悲しみと怒りがたんたんと描かれていたからである。

 ただ、「すでに負け戦なのが分かったあとも戦争を続けて沖縄だけでなく広島・長崎の犠牲者を生んだのは戦争の遂行者たちの罪である」と語ったツモの重たい言葉は、富士山に建てられた原発が事故で爆発するシーンが描かれている映画《夢》の子供を連れた母親の批判と深く結びついていると思える。

 「放射能は目に見えないから危険だと言って、放射性物質の着色技術を開発したってどうにもならない、知らずに殺されるか、知ってて殺されるか、それだけだ」と続けた原発の関係者の男は、「ぐじぐじ殺されるより、一思いに死ぬ方がいいよ」と結んだ。

 すると幼い子供たちを連れた母親は、次のように鋭く政治家や官僚などの責任を問い質していたのである。

 「でもね、原発は安全だ! 危険なのは操作のミスで、原発そのものに危険はない、絶対ミスを犯さないから問題はない、とぬかした奴等は、ゆるせない! あいつら、みんな縛り首にしなくちゃ、死んでも死に切れないよ!」。

 *   *   *

  映画《この子を残して》が過去の記録というだけでなく、現代にも訴える力を持っているのは、映画の後半で成人して記者となりベトナムや中東の戦争の報道にも携わるようになった息子・誠一(山口崇)の視点から、進駐軍の厳しい検閲にも関わらず、病気で寝込むようになりながらも次々と原爆についての記録を書き残した医師・永井隆(加藤剛)の記憶が描かれているためであると思える。

 この映画のラストシーンでは、『長崎の鐘』がようやく出版された後で父が亡くなったという息子・誠一の言葉が語られる。

 その直後に、柱時計を指さしながら戦争を二度と起こしてはならないと告げた父の姿に被さるように、八月九日一一時二分に投下された原爆により浦上天主堂や町が被爆する映像が流され、「ちちをかえせ、ははをかえせ、としよりをかえせ、こどもをかえせ」という言葉で始まる峠三吉の詩とともに被爆後の人々の苦しみが実写も含めた映像が流され、圧倒的な説得力で観客に迫ってくる。

 

*1 横堀幸司、『木下恵介の遺言』朝日新聞社、2000年、203頁。

*2 木下恵介、DVD《この子を残して》、松竹、2013年。

*3 1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、「英雄とはなんだらう」という同人の林房雄の問いに「ナポレオンさ」と答えた小林秀雄は、ヒトラーも「小英雄」と呼んで、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語っていた。戦争に対して不安を抱いた林が「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけると小林は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていたのである。この小林の言葉を聴いた林は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」との覚悟を示していた。(「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁。不二出版、復刻版、2008~2011年)。

 

映画《ゴジラ》考Ⅲ――映画《モスラ》と「核の傘」政策の危険性

リンク先→「映画・演劇評」タイトル一覧Ⅱ

映画《ゴジラ》考Ⅲ――映画《モスラ》と「反核」の理念 

 はじめに

   映画《ゴジラ》の60周年ということで、1992年公開の映画《ゴジラvsモスラ》がテレビ東京で放映され、久しぶりに映画《モスラ》シリーズの作品を見た。

 1961年に公開された映画《モスラ》についての記憶も薄らいでいるので、ここではまず初めて見た映画《ゴジラvsモスラ》(製作:田中友幸、監督:大河原孝夫、脚本:大森一樹)の粗筋や感想を、「ウィキペディア」の記述や『GODZILLA 60:COMPLETE GUIDE』(以下、『ゴジラ徹底研究』と略記する。マガジンハウス、2014年)を参考にしながらまず記し、その後で映画《モスラ》とその理念について考えたい。

 

1.環境破壊の問題と映画《ゴジラvsモスラ》

 1992年に公開された日本映画《ゴジラvsモスラ》(製作:田中友幸、監督:大河原孝夫、脚本:大森一樹)は、「ゴジラシリーズ」の第19作にあたり、観客動員数では平成ゴジラシリーズ中最多の420万人、配給収入は22億2千万円を記録した。

 この作品を見て嬉しかったのは、《モスラ》シリーズの第三作目にあたるこの映画でも地球環境の破壊が主要なテーマとした取りあげられていたことである。

 この映画でも1万2000年前の古代文明が眠るインファント島の守護神モスラが活躍するが、むしろ、モスラとの戦いに負けて北の海に封印されていた「バトルモスラ」が、「地球の環境を破壊し続ける人類に対し、自然の怒りの代弁者として」描かれている(『ゴジラ徹底研究』、68頁)。

 そしてこの映画では、その「徹底的な破壊獣」のバトラが、巨大隕石が落下したことにより海底での眠りから目覚めたゴジラやモスラとの壮絶な戦いを展開する。

 乱開発が進んでいたインファント島の調査に向かった東都大学環境情報センター所員の手塚雅子(小林聡美)と元東都大学考古学教室助手で現在はトレジャーハンターをしている元夫の藤戸拓也(別所哲也)は、島の開発を行なっている丸友観光の社員・安藤健二(村田雄浩)に同行して、モスラの卵を見付けるところから物語が始まる。

 「コスモス」と名乗る古代文明の2人の小美人によって、そこで目にしたものはがモスラの卵であることや、環境破壊に怒ったバトラが復活して攻撃してくる危機を警告されたが、モスラの卵で一儲けしようと考えた丸友観光の社長・友兼剛志(大竹まこと)は、卵を日本に輸送するように命じたのである。

 一方、モスラの卵を輸送していた船はフィリピン沖を航行中にゴジラの襲撃を受けるが、卵からモスラの幼虫が孵化して応戦したが、氷河から目覚めて日本に侵入し、名古屋の街を破壊した後で地中へと姿を消していたバトラもそこに現れて、ゴジラと海中で戦いを続けるさなかに海底火山が爆発して両者はマグマの中に消える。

 映画《ゴジラvsモスラ》は、1973年に公開された映画《日本沈没》が保持していた配収記録を19年ぶりに更新したとのことであるが、興味深いのはフィリピン沖のマグマの中に消えたゴジラが、噴火して噴出するマグマから出現すると描かれているように、この映画でも海底火山の爆発やマグマが重要な働きを担っていることである。

 他方で、観光の広告に使おうとした友兼社長の命令で、先住民族の末裔の二人の小美人(今村恵子と大沢さやか)たちが安藤によって拉致されると、モスラはコスモスを追って東京に上陸。国会議事堂に繭を張り、やがて成虫へと変化を遂げる。

 こうして、横浜みなとみらいでゴジラ・バトラ・モスラの三つ巴の戦いが行われることになるが、地球に巨大隕石が再び近づいていることを知っていたバトラは、モスラに隕石の軌道を変えることを頼み、ゴジラを倒した後で力尽きる。

 初代の「小美人」を演じたザ・ピーナッツの歌った「モスラの歌」は懐かしく、特撮の技術がさらに進んでいたこともあり、「極彩色の大決戦」というキャッチフレーズが物語るように、戦いのシーンの映像はより迫力のあるものとなっていて見応えもあった。

 ただ、見終わって物足りなく感じたのは、映画《モスラ》に込められていた「反原爆」の強い思いと、武力では「平和」を作れないというメッセージがきわめて希薄になっていたことである。

 

2,映画《ゴジラ》から映画《モスラ》へ 

 1961年7月30日に公開された東宝映画《モスラ》(製作:田中友幸、監督:本多猪四郎、特技監督:円谷英二)は、3年の構想と製作費2億円(当時)をかけ、アメリカのコロンビア映画との日米合作企画映画として製作し、日本初のワイド・スクリーンで上映された。

 注目したいのは、この映画の脚本が中村真一郎、福永武彦、堀田善衛という著名な作家三人が合同で書いた原作『発光妖精とモスラ』(『週刊朝日』)を元に、関沢新一によって書かれていたことである。日東新聞記者である主人公の福田善一郎という名前は、これらの三人の作家の名前を組み合わせて出来ているが、ここにはシナリオを重視した黒澤明と同じような姿勢が強く見られるだろう。

 本多猪四郎監督は後年この映画《モスラ》を映画《ゴジラ》や私がまだ未見の映画《妖星ゴラス》と並んで「最も気に入っている作品」に挙げている。注目したいのは、映画《七人の侍》で大ヒットを飛ばした盟友・黒澤明監督が、原爆の恐怖をテーマとした1955年の映画《生きものの記録》では興行的には記録的な失敗に終わっていたにもかかわらず、この映画でも水爆実験の問題を全面に出していたことである。

 物語の発端は台風により座礁沈没した貨物船・第二玄洋丸の乗組員は、ロリシカ国(ロシア+アメリカのアナグラム。原作では「ロシリカ」)の水爆実験場である絶海の無人島であるインファント島に漂着して救助されたが、不思議なことに放射能障害が見られなかった。このため、スクープ取材のため乗組員たちが収容された病院に潜入した日東新聞記者の福田善一郎(フランキー堺)とカメラマンの花村ミチ(香川京子)は、原水爆実験場であるはずのインファント島に原住民がいることを知る。

 当初、ロリシカ国は原住民の存在自体を否定したが、急遽日本とロリシカ国が合同で調査隊を派遣することが決定され、調査団員の言語学者・中條信一(小泉博)と知り合った主人公の福田は、記者活動を行わないことを条件に辛うじて臨時の警備員として参加を認められた。インファント島に上陸した調査隊の前に現れたのは、放射能汚染された島の中心部に広がる緑の森で、原住民たちは島に生息する巨大な胞子植物から「赤い汁」を採り、これを飲み、体に塗ることで放射能から免疫を保っており、島の奥に古代遺跡の神殿祭壇があり、島民は巨大な蛾「モスラ」を守護神としてあがめていた。

 一方、奇妙な植物群の中に謎の石碑を発見して記録をとった中條は、巨大な吸血植物に絡め捕られるが、その窮地を双子の小美人に助けられる。ネルソン(ジェーリー・伊藤)によって「資料」として捕らえられた小美人を解放した調査隊は、帰国した後も誰一人島の秘密を語ることなく解散した。

 しかし、インファント島調査隊の資金を提供していたロリシカ国側事務局長のネルソンは直属の部下を率いて、インファント島を再訪して小美人を誘拐し、彼女たちを守ろうとした原住民を容赦なく銃火器の犠牲にした。

  一方、武器を持たずに平和に暮らしていた原住民は、石を鳴らして相手を威嚇するだけでその多くが死傷するが、洞窟に崩れ落ちた老人が祈るように「モスラ…」とつぶやくと、洞窟の奥が崩れ落ち、虹色の巨大な卵が出現した。

 東京では囚われの身となって「妖精ショー」で歌わされていた双子の小美人を救おうと福田たちは日東新聞で世論にその非人道性を訴えたが、ネルソンから小美人を救うことはできなかった。

 観客として「妖精ショー」を見た福田と中條は、「モスラ」という単語の響きに惹かれるが、それは「moth(蛾)」であるとともに、「mother(母)」のイメージにもつながる怪獣モスラを呼ぶ歌で、本多監督がスタッフのインドネシアの留学生に訳させた歌詞は「モスラよ、早く助けに来て下さい。平和を取り戻してください」という意味だったのである(前掲書、8頁)。

 小美人たちの歌声と響き合うようにインファント島でも原住民たちの儀式が最高潮に達し、虹色の卵を破ってモスラが復活し、歌声に応えるように洋上に姿を現した超巨大な芋虫状の怪物は、防衛隊の洋上爆撃のナパーム弾で炎上して一度は海に姿を消す。しかし、東京近郊の第三ダムに瞬間移動したモスラはダムを崩壊させ、特車隊や戦闘機での攻撃をもものともせずに都心を破壊する。

 このような情況を見たロリシカ国大使館はネルソンから小美人を取り上げることに同意するが、大使館職員に変装し航空機で日本を脱出したネルソンの一行はロリシカ本国へと向かった。一方、モスラが芝の東京タワーに取り付き、そこで糸を吐き出して巨大な繭を作り始めると、防衛隊はロリシカ国からの軍事援助で供与された原子力エネルギーによる原子熱線砲で攻撃し、瞬時にモスラの繭は焼き尽くされたかに見えた。

 しかし、モスラの繭に対する原子熱線砲攻撃の模様を本国の中継放送で聞いて安心したネルソンたちが、小美人たちを閉じ込めていた脳波遮断ケースを開けると彼女たちの声を聞き取ったモスラは黒焦げになった繭を破って羽化した姿を現し、ロリシカ軍の防衛線を破ってニューカーク・シティに大きな損害を与えた。

 こうして映画《モスラ》は、ニューカーク・シティの人々から罵声を浴びせらながら抵抗したネルソンが警官を射殺するが、別の警官たちに射殺されるという最期を描くことで、利己主義的な儲けを正当化するだけでなく、「核実験」や大量殺りく兵器を発明することで、「敵」に勝とうとしてきた近代文明の非人道性とその危険性をも鋭く浮き彫りにしていたのである。

 しかも「ウィキペディア」の説明によれば、60年安保闘争の翌年に公開されたこの映画では、サンフランシスコ講和条約で日本が独立を回復したはずであるにもかかわらず、外国人の犯罪捜査や出入国管理が相変わらず在日米軍主導で行なわれていることやモスラがわざわざ横田基地を通ることなど、当時の日本の政治状況を反映した描写が目立つことが指摘されている。

 最後に時期を改めてもう一度、初代の《ゴジラ》や《モスラ》シリーズと比較しながら、8月6日にテレビ東京で放映された映画《ゴジラvsスペースゴジラ》を分析することで、「原爆」や「原発」の危険性が軽視され、「積極的平和」の名の下に堂々と原発や武器を売ることが正当化され、それまでの政府見解がたやすく覆されて「集団的自衛権」が唱えられるようになった日本の問題に迫ることで映画《ゴジラ》とそのシリーズの簡単な考察を終えることにしたい。

 (2017年5月12日、「ウィキペディア」より図版を追加。2023年5月20日、改題してツイートを追加)

映画《ゴジラ》考Ⅱ――「大自然」の怒りと「核戦争」の恐怖

ゴジラ

(製作: Toho Company Ltd. (東宝株式会社) © 1954。図版は露語版「ウィキペディア」より)

1,近代の文明観と「自然の支配」

前回の「映画《ゴジラ》考Ⅰ」では、スティーヴン・スピルバーグ監督の映画《ジョーズ》(1975年)との比較をとおして、両作品が「事実」の隠蔽の危険性を鋭く示唆していたことを指摘した。それとともに、関東大震災から50年目の1973年に発表されたSF作家・小松左京の長編小説『日本沈没』にも言及することで、怪獣ゴジラの怒りは核エネルギーという自らの科学力を信じた人類の傲慢さのために苦しむ大自然の怒りの象徴のようにも見えると書いた。

映画《ゴジラ》を映画《ジョーズ》や長編小説『日本沈没』と比較することで、このような結論を引きだすのは強引だと感じられる読者も少なくないだろう。

しかし、黒澤監督のもとでチーフ助監督を務めた経験もある森谷司郎監督は、深海潜水艇わだつみで日本海溝の調査に赴いた田所博士(小林桂樹)と操縦士の小野寺(藤岡弘)が、海底に異変が起きていることを発見し、続いて東京大地震、富士山噴火、そして列島全体が沈没するという壮大なテーマの原作を、同じ1973年に映画化していた(脚本:橋本忍)。

ここで注目したいのは、日本の近代化を主導した思想家の福沢諭吉が、西欧文明の優越性を主張したバックルの文明観に依拠しながら、『文明論之概略』において「水火を制御して蒸気を作れば、太平洋の波濤を渡る可し」とし、「智勇の向ふ所は天地に敵なく」、「山沢、河海、風雨、日月の類は、文明の奴隷と云う可きのみ」と断じていたことである。

このような福沢の文明観について歴史学者の神山四郎は、「これは産業革命時のイギリス人トーマス・バックルから学んだ西洋思想そのものであって、それが今日の経済大国をつくったのだが、また同時に水俣病もつくったのである」と厳しく批判していた(『比較文明と歴史哲学』)。

このような文明観が原発の推進を掲げる現政権や日本の経済界などでは受けつがれたことが、地殻変動により形成されていまもさかんな火山活動が続き地震も多発している日本列島に、原爆と同じ原理によって成り立っている原子力発電所を建設させ、福島第一原子力発電所の大事故を引き起こしたといえるだろう。

今回は運良く免れることができたものの、東京電力の不手際と優柔不断さにより関東一帯が放射能で汚染され、東京をも含む関東一帯の住民が避難しなければならない事態とも直面していたのである(真実を語ったのは誰か――「日本ペンクラブ脱原発の集い」に参加して )。

2,映画《ゴジラ》とソ連の若者たちの原爆観

「第五福竜丸」事件が起きた翌年に映画《生きものの記録》を制作し、後にシベリアの原住民を主人公とした《デルス・ウザーラ》をソ連で撮影することになる黒澤明監督は、『虐げられた人々』や『死の家の記録』などで重要な役割を担っていたドストエフスキーの文明観や彼が雑誌『時代』で唱えた「大地主義」の重要性を深く認識していた。

 本稿の視点から興味深いのは、1981年に行われた俳優・平田昭彦との対談で原爆の問題の重要性を指摘した本多監督が、映画《夢》で補佐をすることになる盟友黒澤明の言葉を紹介していることである。

 「そうすると、今は情勢は非常に変わってますけれども、もうひとつ緊迫してますね。この間も黒澤明君とも、彼とは山本嘉次郎監督の助監督をやったりした頃からの友達ですけれど、黒澤君と久しぶりに会って話したとき、ソビエトの若い人達の話を聞いてゾッとしたというんです。(中略)ソビエトの若い連中は世界の核弾頭はソ連の方を向いている、怖い怖い、あと10年保つか? なんてボソボソ話してる。それがこっちへ来るとね、ソビエトの核弾頭はみんなこっちを向いていると言って恐怖をあおるような、そういう情勢になってる。」(『初代ゴジラ研究読本』洋泉社MOOK、2014年、69-70頁)。

こうして、あまり語られることのないソ連から見た核弾頭の問題に対する若者たちの実感を詳しく伝えた後で、本多監督はこう結んでいた。

「これを何とか話し合いができるようなところへね、ゴジラが出てこなきゃいけない。僕はそういうものがね、作品として描けるようになるならね、思いきって作りたいですけれども、やっぱりゴジラはただただ暴れるだけの話じゃなくて、そんなようなひとつの情況の中に生まれるべくして生まれてこないと、どうも嘘のような気がするね)」

この黒澤の証言と本多の考察は、きわめて重要だろう。実は、私が映画《ゴジラ》を初めて観たのはソ連で行われた日本の映画祭の時であったが、ソ連でも日本映画に対する関心はきわめて高く、映画《ゴジラ》もなんとか入場券を買うことができたものの満席の状態だった。

「広島・長崎」に続いて「第五福竜丸」の被爆という悲劇的な体験をしたにもかかわらず、アメリカの「核の傘」に入ることを選んだ日本では、1962年に起きたキューバ危機の後では「核戦争」の危機感が薄らいだように見える。しかし、アメリカに対抗して核実験を行い、多くの核兵器を所有していたソ連の若者たちは、核兵器によって攻撃されることを強く意識していたのである。

3, 映画《デルス・ウザーラ》とタルコフスキーの映画《サクリファイス》

1990年10月に行われたノーベル賞作家のガルシア・マルケスとの対談で黒澤監督は、ソ連の官僚による情報の「隠蔽」の問題についてふれながら原発事故の危険性についてこう語っていた( 『大系 黒澤明』第4巻、513頁)。

「ソビエトっていうのはペレストロイカで今日のように解放されたから言うけどね、あすこは前にウラルで廃棄物の大変な事故が起こったのにそれを隠してたわけ。それがどんなにひどいものだったかということは、今度チェルノブイリの事件が起こってから初めて公表したけれども、そういう具合に内緒にしている、ひどいことがたくさんあるんですよ」。

黒澤監督がきわめて確信をもって言えたのはなぜだろうかと疑問を持っていた私は、それは映画《デルス・ウザーラ》を撮影した時に映画関係者と歓談する中でこれらの情報や知識を得たのではないかと考えていた。今回、本多監督の対談を読んでそれが裏づけられたように感じている。

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(図版は『黒澤明と「デルス・ウザーラ」』東洋書店より)。

たとえば、《デルス・ウザーラ》を撮影した際に、ドストエフスキーの作品や黒澤監督の映画を高く評価していた映画監督のタルコフスキーが黒澤監督を歓迎していた。タルコフスキーが後に核戦争をテーマとした映画《サクリファイス》(1986年)を製作していることを考慮するならば、シベリアで会った二人の巨匠が映画の手法についてだけではなく、ウラルの核廃棄物の問題や「核戦争」という文明論的なテーマについて語りあった可能性が強いだろうと思える*。

なぜならば、映画《サクリファイス》の主人公は長編小説『白痴』の主人公ムィシキンを演じたことのある俳優であったが、若きドストエフスキーが流刑されていたセミパラチンスクも後に核実験場となり、その問題についてはジャーナリストや映画人は知っていたと思えるからである。

 4,科学者・芹沢と『白痴』のムィシキン 

少し映画《ゴジラ》の筋から離れてしまったが、本多監督が対話した相手が山根博士の弟子で自分が発明したオキシジェン・デストロイヤーによってゴジラを滅ぼすことになる科学者の芹沢を演じた俳優の平田昭彦であったことを最後に思い起こしておきたい。

オキシジェン・デストロイヤーを発明した芹沢については、山根博士の娘・恵美子(河内桃子)とその恋人・尾形秀人(宝田明)との会話をとおして、戦争で片眼の視力を失ったことから、山根博士の娘との結婚を断念していたことが語られる。その芹沢は、自分が発明した危険な兵器が悪用されることを恐れて、その作成方法を記した書類を燃やしただけでなく、兵器の制作方法を知っている自分も莫大な富や名誉などに惑わされてその制作方法を明かすようになることを恐れて「ゴジラ」とともに滅ぶことを選ぶ。

ドストエフスキーの研究者の私には、芹沢のそのような自己犠牲的な決断には、トーツキーのような利己的なロシア貴族たちの罪も背負って亡んでいったムィシキンを映画化した黒澤映画《白痴》の主人公・亀田の精神にも通じるところがあると感じる。

映画は芹沢がゴジラとともに亡くなったことを知った山根博士が「暗然たる面持ちで」つぶやく次のような台詞で終わる。

「……だが……あのゴジラが 最后の一匹だとは思えない……もし……水爆実験が続けて行われるとしたら……あの ゴジラの同類が また世界の何処かへ現われ来るかも知れない」。

* 堀伸雄「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー ~『七人の侍』に始まる魂の共鳴」『黒澤明研究会誌』第32号参照。

(2015年5月6日、注と『黒澤明と「デルス・ウザーラ」』の図版を追加。6月18日、訂正と「ゴジラ」のポスターの追加)。

映画《ゴジラ》考Ⅰ――映画《ジョーズ》と「事実」の隠蔽

1,映画《ゴジラ》から映画《ジョーズ》へ

 映画《ゴジラ》の冒頭のシーンを久しぶりに見てまず感じたのは、1954年に製作されたこの映画が、大ヒットして第48回アカデミー賞で作曲賞、音響賞、編集賞などを受賞したスティーヴン・スピルバーグ監督の映画《ジョーズ》(1975年)を、映像や音楽の面で先取りしていたことである。「ウィキペディア」の記述によりながら、まず映画《ジョーズ(Jaws)》の内容を確認しておく。

 この映画では浜辺に女性の遺体が打ち上げられた後で、「鮫による襲撃」と判断した警察署長はビーチを遊泳禁止にしようとしたが、観光での利益を重視した町の有力者がこれを拒否したために少年が第2の犠牲者となり、少年の両親が鮫に賞金をかけたことからアメリカ中から賞金目当ての人々が押し寄せて大騒動となる。

  そのような中で呼び寄せられた鮫の専門家の海洋学者フーパーは、最初の遺体を検視して非常に大型の鮫による仕業と見抜くが、事態を軽く見せるために「事実」を隠そうとした市長などの対応から事件の解決はいっそう遠ざかることになった。

 一方、映画《ゴジラ》の冒頭では、船員達が甲板で音楽を演奏して楽しんでいた貨物船「栄光丸」が突然、白熱光に包まれて燃え上がり、救助に向かった貨物船も沈没するという不可解な事件が描かれる。  

 遭難した漁師の話を聞いた島の老人は大戸島(おおどしま)に伝わる伝説の怪物「呉爾羅(ゴジラ)」の仕業ではないかと語るが、ゴジラもなかなかその姿をスクリーンには現わさず、観客の好奇心と不安感を掻きたて、暴風雨の夜に大戸島に上陸した巨大な怪物は村の家屋を破壊し、死傷者を出して去る。

 襲われた島の調査を行って「ゴジラ」と遭遇し、その頭部を見た古代生物学者の山根博士(志村喬)は、国会で行われた公聴会で「ゴジラ」について、発見された古代の三葉虫と採取した砂を示して、おそらく200万年前の恐竜だろうと語り、「海底洞窟にでもひそんでいて 彼等だけの生存を全うして今日まで生きながらえて居った……それが この度の水爆実験に よって その生活環境を完全に破壊された もっと砕いて言えば あの水爆の被害を受けたために 安住の地を追い出されたと見られるのであります……」と述べる。

 しかし、博士の推論に与党議員の委員は、「博士! どうしてそれが 水爆に関係があると 断定できるのですか!?」と激しく反論し、山根が「ガイガーカウンターによる放射能検出定量分析によるストロンチューム90の発見」によると語ると、その事実の公表を迫る小沢議員(菅井きん)と、公表は「国際情勢」にかかわるだけでなく「国民」を恐怖に陥れるので禁止すべきとした与党議員の激しい議論が繰り広げられる。

 

 大山「私は 只今の山根博士の報告は 誠に重大でありまして 軽々しく公表すべきでないと思います」

小沢婦人議員「何を云うか! 重大だからこそ公表すべきだ!」

と 野次が飛ぶ

大山「黙れ!! (と睨んで)と云うのは あのゴジラなる代物が水爆の実験が産んだ落とし子であるなどという……」

小沢婦人議員「その通り その通りじゃないか!」

大山「そんな事をだ そんなことを発表したらたゞでさえうるさい国際問題が一体どうなると思うんだ!」

小沢婦人議員「事実は 事実だ!」

 2,映画《ゴジラ》と「第五福竜丸」事件

 この場面について、「ゴジラは核実験で蘇ったのではないか?……と古生物学者の山根博士がその仮説を口にしただけで、与野党の政治家が紛糾する国会の場面。激しく言い合いになる政治家の後ろで声なく座っている山根博士や、大戸島の住民遺族の無言の表情を映画は映し出す」と書いた切通理作氏は次のように指摘している。

 「その後、劇中でははっきり名指しされていないが、核実験を起こしたとおぼしき大国の視察団が、ゴジラの対策会議に後ろの席で座って立ち会うさまを提示する。

 客観的に提示されているからこそ、第五福竜丸事件と同じ年の日本が置かれた立場と、映画の出来事が想像上でリンクしてしまう」(コラム「60年目の新発見 新聞報道とゴジラ」『初代ゴジラ研究読本』洋泉社MOOK、2014年、148頁)。

 この指摘は重要だろう。実際、電車のシーンで若い女性が「いやあねえ……原子マグロだ 放射能雨だ その上に今度はゴジラと来たわ」と語ると、男は「そろ〱疎開先でも探すとするかな……」と応じるなど、この映画は当時の世相をも反映していた。

しかも、徐々に明らかになってきたように、その年の3月1日にビキニ環礁で行われたアメリカの水爆「ブラボー」の実験は、この水爆が原爆の一千倍もの破壊力を持ったために、制限区域とされた地域をはるかに超える範囲が「死の灰」に覆われて、160キロ離れた海域で漁をしていた日本の漁船「第五福竜丸」の船員や、南東方向へ525キロ離れたアイルック環礁に暮らしていた住民も被爆していたのである(前田哲男監修『隠されたヒバクシャ──検証、裁きなきビキニ水爆被害』凱風社、2005年。および、高瀬毅『ブラボー 隠されたビキニ水爆実験の真実』平凡社、2014年参照)。

 3,映画《ゴジラ》と「情報の隠蔽

 興味深いのは、映画では山根博士が「水爆の洗礼を受けなおも生命を保つゴジラの抹殺は無理」と考えていたことが描かれていたが、本多監督も科学者芹沢を演じた平田昭彦との対談で、「第1代のゴジラが出たっていうのは、非常にあの当時の社会情勢なり何なりが、あれ(ゴジラ)が生まれるべくして生まれる情勢だった訳ですね。その頃、やっぱり原爆というのが、原爆の実験が始まったという事を聞いて、これはもうこんな事をいつまでも続けていては、というような事がきっかけで、ゴジラというものの性格が出て、ものすごく兇暴で何を持っていってもだめだというものが出てきたらいったいどうなるんだろうという、その恐怖」と語っていたことである(「対談 ステージ再録 よみがえれゴジラ」、前掲書、『初代ゴジラ研究読本』、69頁)。

 この言葉は映画《ゴジラ》の翌年に公開されることになる黒澤映画《生きものの記録》の趣旨をも説明しているといえるだろう。しかし、アメリカが「原子力の平和利用」政策を打ち出し、『読売新聞』が「ついに太陽をとらえた」と銘打った特集記事を載せるとともに、「原子力平和利用博覧会」を各地で開催すると、日本における「核エネルギー」にたいする見方はがらりと変わった。

しかも、日本政府は「核の恐怖」に対抗するにはやはり「核兵器」の力が必要として、「核の傘」政策を打ち出していたが、映画でも政府は「力」には「力」の政策を取り、大戸島沖の海上でフリゲート艦の艦隊による爆雷攻撃を実施して、ゴジラの抹殺をはかった。

 そして、大々的な爆雷攻撃でも傷つくことなく、日本に上陸したゴジラが首都の防衛線である「5万ボルト鉄塔作戦」を破って侵入すると、自衛隊(この映画での名称は「防衛隊」)は山根博士の「ゴジラに光を当ててはいけません。ますます怒るばかりです!」との忠告にもかかわらず、野戦砲、機関銃、戦車隊、ジェット戦闘機によるロケット弾などで攻撃を加え続けた。

 ここで注意を払いたいのは、前述のように、ゴジラが水爆の実験で蘇った可能性を示唆した山根博士の報告に対して、国会で与党議員がそのような情報を公表したら、「国際問題」が複雑化するばかりでなく、「国民」を「恐怖に陥れる」ことになるとして公表の禁止を求めていたことである。  

 この言葉に留意するならば、多くの自衛隊員はゴジラが水爆事件の結果、蘇ったことを知らずにゴジラと戦っていたことになる。さらに、福島第一原子力発電所の事故に際しては、放射能の広がりを表示できるSPEEDIというシステムを持ちながら情報が「隠蔽」されていたが、この映画でもゴジラが放射能を帯びていることを知らされなかったために、ほとんどの国民が風の向きも考慮せずに逃げ惑っていたことになる。

4,「ゴジラ」の怒りと「大自然」の怒り

 しかも、古代の怪獣ゴジラが攻撃に対して怒りから放射能を帯びた体の色を不気味に変色させながら、放射性物質を含んだ白熱光を吐き、鉄塔やビルを溶かすシーンが描かれていた。それは本多猪四郎監督が黒澤監督の演出補佐として参加した映画《夢》(1990年)の第五話「赤富士」で、富士に建設された原子力発電所の大事故で富士が山肌を真っ赤に染めて爆発するシーンをも連想させる。

 山根博士がゴジラは「あの水爆の被害を受けたために 安住の地を追い出された」と語っていたことを思い起こすならば、怪獣ゴジラの怒りは核エネルギーという自らの科学力を信じた人類の傲慢さのために苦しむ大自然の怒りの象徴のようにも見えるだろう。

 この言葉は少し大げさに聞こえるかもしれない。しかし、最初、貨物船などが原因不明の沈没事故を起こした可能性として海底火山の爆発も示唆されていたが、海底調査の結果、地殻変動で形成された日本列島が再び沈没する可能性があることを示唆した科学者を主人公として、1973年に長編小説『日本沈没』を書いた作家の小松左京によって、1974年に「ゴジラ祭り」が行われたことを本多監督は語っていた(66頁)。  

 このことを思い起こすならば、1954年に公開された映画《ゴジラ》における「ゴジラ」の怒りは、映画《日本沈没》(1973年)の大自然の脅威や映画《夢》における「大自然」の怒りを先取りしていると思えるのである。

5,終わりに

 最後に、伊福部昭作曲の「ゴジラのライトモチーフ」について語った作曲家の和田薫の言葉を引用して終わることにしたい。

 「円谷英二さんから特に画を観させてもらったというエピソードがありますよね。あの曲は低音楽器を全て集めてやったわけですが、画を観なければ、ああいう極端な発想は生まれません」(前掲書、『初代ゴジラ研究読本』、122頁)。

 映画《ジョーズ(Jaws)》のライトモチーフが、ゴジラのライトモチーフと同じように、一度聴いたら忘れられないインパクトを持っている理由を和田氏のこの言葉は説明しているように思える。

 

スタンバーグ監督の映画《罪と罰》と黒澤映画《夢》

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スタンバーグ監督の映画《罪と罰》と黒澤映画《夢》

はじめに

1936年に発表した「『罪と罰』を見る」と題した映画評を「ピエール・シュナアルといふ人の作つた『罪と罰』の映画を薦められて見た」という文章から書き出した小林秀雄は、スタンバーグ監督の《罪と罰》を文士たちが「ソオニャがラスコオリニコフを掴へて『アメリカに逃げて頂戴な』などといふ『罪と罰』はない」と批判したことを紹介している。

そして、文士たちがこの映画を「原作に忠実でないからいけない」と「嘲笑」しているが、「スタンバアグの作がをかしければ今度のものだつてをかしい筈だ。少くとも『罪と罰』といふ小説に関して文学者らしい定見を持つてゐるならば」と続け、その理由を「狙つてゐる処は同じだからだ。一と口で言へば犯罪の心理学だ」と説明した小林は、「両方ともラスコオリニコフとポルフィイリイとの心理的対決といふものが一篇の中心をなしてゐる。そしてこの心理的対決の場面が今度の映画では前の映画より上手に出来てゐる」が、「人間の罪とは何か、罰とは何かと、考へあぐんだ人の思想など這入りこむ余地はないのだ」と記して、映画という表現手段の限界を指摘していた〔四・二二四~二二六〕。

 

1,映画《罪と罰》における「良心の呵責」の描写

黒澤監督は『蝦蟇の油――自伝のようなもの』(岩波文庫)で、1929年までに観た「映画の歴史に残る作品」として、1925年のデビュー作《救ひを求むる人々》から、米国映画最古のギャング映画と言われる《暗黒街》(1927)、さらに《非常線》(1928)と《女の一生》(1929)の四本のスタンバーグ作品を挙げている。

ドイツ系ユダヤ人のスタンバーグ監督(1984~1969)は、『ウィキペディア』によれば、1931年に外人部隊に所属するトム・ブラウン(ゲイリー・クーパー)とモロッコの酒場の歌手アミー・ジョリー(マレーネ・ディートリッヒ)との出会いと激しい愛を描いた映画《モロッコ》で有名になったとされる。

「弱肉強食の思想」を唱えていたヒトラーの内閣が1933年に成立したことによりヨーロッパで大戦争が近づくなか、デビュー作からスタンバーグ監督の映画を高く評価していた黒澤が、自分が深く尊敬していたドストエフスキーの長編小説『罪と罰』を映画化したこの《罪と罰》を非常に注意深く観ていただろうことは間違いないだろう。

上映時間が84分の映画《罪と罰》(脚本:S・K・ローレン、ジョゼフ・アントニー、DVD、コスミック出版)では、残念ながら、時間的な制限からマルメラードフやその妻カテリーナの登場する場面は省略されており、ラズミーヒンやスヴィドリガイロフ像にも深みが欠けている。

また、当時の文人たちが批判したように、ソーニャの形象にもラスコーリニコフが血を流して大地を汚したと語り、大地に接吻するように諭した厳しさは欠けており、それゆえラスコーリニコフの告白を聞いて激しく動揺したソーニャが逃げるように頼む場面からはメロドラマ的な印象さえ受ける。

しかし、ラスコーリニコフの家族関係やルージンの卑劣さはきちんと描かれており、ソーニャが『聖書』のラザロの復活を読むシーンは迫力がある。彼のことを心配して取り乱したソーニャを見たラスコーリニコフが、自首を決意する流れも説得力を持っており、シベリアで彼が己の「罪」を深く「悔悟」して復活することも示唆されていると思える。

原作の登場人物や筋の一部を削除した代わりにスタンバーグ監督は、ラスコーリニコフ(ピーター・ローレ)と予審判事ポルフィーリイとの対決をとおして、「非凡人の理論」の危険性を浮き彫りにするとともに、「良心の呵責」に苦しむようになる主人公の内面にも迫っていた。

ことに、ペンキ職人のミコルカに罪をなすりつけて自分は逃げ出してもよいのかと問いかけることで浮き彫りにしていたラスコーリニコフの「良心の呵責」の問題は、いつの時代でも「国策」の一端を担うことになる「知識人」の「良心」の問題に深く関わっているだろう。

主役を演じたピーター・ローレは小柄で丸みを帯びた体型をしていることもあり、原作に描かれている主人公像との違いに戸惑ったが、ラスコーリニコフの苦悩や怒り、恐れなどの感情を表現力豊かに示して名演であった。

2,スタンバーグ監督の《罪と罰》と黒澤映画《夢》

映像的な面で興味深かったのはラスコーリニコフのベッドの上の壁に飾られているナポレオンの肖像画で、それと対比的に示されていたベートーベンの肖像画の意味が最初はよくわからなかった。しかし、ラスコーリニコフの部屋を訪れたポルフィーリイに、ナポレオンを尊敬していて彼に捧げようとして書いた第五交響曲「英雄」を、彼が皇帝になったことを知ってベートーベンが献辞をやめていたと語らせている場面で、この肖像画が「非凡人の理論」の批判としての意味を有していたことを知った。

このような映像的な処置は原作から離れており、大胆すぎるように思えた観客は多かったと思えるが、ドストエフスキーも原作で予審判事ポルフィーリイに、「あの婆さんを殺しただけですんで、まだよかったですよ。もし別の理論を考えついておられたら、幾億倍も醜悪なことをしておられたかもしれない」と語らせることで「非凡人の理論」の危険性を指摘していた。

 ニーチェのドストエフスキー理解から影響を受けたと思われるヒトラーは、『わが闘争』(第一部、1925年、第二部、1926年)において、「すべての発明はある一人の人の創造の結果である」と書き、「ワイマール憲法」を否定して自分の独裁を正当化していた。

さらに、他民族への憎しみを煽りたてたばかりでなく「非凡人の理論」を「民族」にも当てはめて、「人種の価値に優劣の差異があることを認め(中略)、永遠の意志にしたがって、優者、強者の勝利を推進し、劣者や弱者の従属を要求するのが義務である」と主張して、「復讐」の戦争へと自国民を駆り立てた(高橋『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』刀水書房、2000年、第9章参照)。

そのことを考えるならば、1935年に公開されたこの映画でスタンバーグ監督は、1940年に公開されるチャップリンの《独裁者》に先駆けて、「非凡人の理論」の危険性を描き出していたと思える。

スタンバーグ監督の《罪と罰》と比較するとき、不安の時代に書かれた小林秀雄の『罪と罰』論にはルージンの人間像や行動についての言及や、「非凡人の理論」をめぐる考察が決定的と思えるほどに欠けているのである。

黒澤明は『罪と罰』の映画化を行ってはいないが、1951年に長編小説『白痴』の見事な映画化を行うことで、映像をとおして小林秀雄の『白痴』論を痛烈に批判していた。

「『罪と罰』についてⅠ」で「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」とし、エピローグにおける「人類滅亡の悪夢」の描写にもあまり注意を払っていなかった小林秀雄が、戦後も基本的にはこのような解釈を変えなかったことに対して黒澤明は深刻な危機感を覚え、そのことを考え続けたことが映画《夢》の第四話「トンネル」や第六話「赤富士」に反映しているのではないだろうか。