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被爆

黒澤映画《八月の狂詩曲(ラプソディー)》

映画《夢》の翌年に封切られた映画《八月の狂詩曲》(原作・村田喜代子『鍋の中』、脚本・黒澤明)では、夏休みに長崎を訪れた孫たちの目をとおして、アメリカで大富豪となった親戚に招かれて有頂天になっている両親たちと原爆によって夫を失った祖母の悲しみが描かれている。

しかも、ここで黒澤は孫たちの両親がハワイに移住した親戚の気分を害することを恐れて、祖父が原爆で亡くなったことも隠していたことをその子供たちの会話をとおして明らかにすることで、原爆を投下した責任のあるアメリカ政府だけでなく、そのアメリカの心証を害することを恐れて原爆の被害の大きさを隠蔽してきた日本政府や戦後の日本人の問題をも映像を通して描き出していたのである。

すなわち、「おかしいと思わない……お父さんたち何故、お祖父ちゃんの事、かくすのかしら」と尋ねられた縦男は「良く言えば、錫次郎さんやクラークさんに対する思いやり……悪く言えば、外交的かけひきと、打算……はっきり言えば、せっかく掴んだ大金持ちとの付合いに水をさす様な事はしたくないのさ」と答える(最終巻、五一)。

それに対して、たみが「お祖母ちゃんは御輿……ただかつがれてるだけ?」と反発し、みな子も「いやーね!」と相打ちをうつと、縦男は「仕方がない……それが大人のリアリズムだ」と批判するが、このような縦男の見方はムィシキンに共感して打算的な大人を批判した『白痴』のコーリャの視点とも重なるであろう。

しかも、登場人物に日系二世のアメリカ人であるクラーク(リチャード・ギア)を加えることによって黒澤は、海外からの視野も取り入れることで、祖父の死亡を隠していた両親の忠雄と良江に、「俺たち、少しみっともなかったかな……そうは思わないかい」、「そうね……なんだか、恥かしいわ」という会話をさせ、認識の深まりを示していたのである。

さらに、普通に語られれば紋切り型のメッセージとして受け取られかねない祖母の次のような台詞(セリフ)も、ハワイの親戚に手紙で本当のことを書いたために咎められた孫の縦男をかばって、思わず語られる本音であるために観客にも説得力を持っている。

「ばってん……本当の事ば書いて何んで悪か……馬鹿か! 原爆ば落しとって、そいば思い出すとがいやって? いやなら、思い出さんでもよかけど……こいも知らんとは言わせん! ピカは戦争やむるために落したって言うて、戦争の終ってもう四十五年もたつとに、ピカはまだ戦争ばやめとらん! まだ、人殺しば続けよる!」(Ⅶ・五四)。

この言葉はドストエフスキーが、「恩人」の改宗を知らされたムィシキンの口をとおして、当時の西欧列強を「キリストによってではなく、またもや暴力によって人類を救おうとしています!」と本音で批判していたことを思い起こさせる。

そして、映画《白痴》において、三船敏郎の「眼」をクローズアップすることで、ロゴージンの殺意とムィシキンの恐怖を描いていた黒澤は、ここでも原子爆弾のキノコ雲に人間を見つめる殺意のこもった「眼」を感じていた祖母が、雷とその雲に似た雨雲を見たことで、再びその日の恐怖を思い出して走り出すという最後のシーンを描いている。

こうして《八月の狂詩曲(ラプソディー)》は、映画《生きものの記録》の主人公喜一が主観的に感じていた原爆の「恐怖」を、孫たちが、祖母が感じた「恐怖」を追体験するような形で描くことで、核兵器の危険性をわかりやすく伝えることに成功していた。