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大岡昇平

ドストエフスキー劇の現代性――劇団俳優座の《野火》を見る

補充兵として参戦した主人公の心理をとおして真正面から「戦争」を問い質した大岡昇平の作品を、ドストエフスキー的な方法によって見事に舞台化した鐘下脚色による俳優座の《野火》からは強い感銘を受けた。

激しい飢餓と闘いながらレイテ島を放浪していて、島の若い男女と偶然に出会い、女を撃ち殺して男にも照準を合わせた主人公の心理と行動を大岡は、「男が何か喚いた。片手を前に挙げて、のろのろと後ずさりするその姿勢の、ドストエフスキイの描いたリーザとの著しい類似が、さらに私を駆った」と描いていた。

戦後に帰国して妻と再会した主人公の感触についても大岡は、「しかし何かが私と彼女との間に挟まったようであった」と書いていた。それはリーザたちを殺した後で母親や妹と再会したラスコーリニコフが感じた距離感をも連想させられる。

こうして、『野火』には、「殺すこと」の問題を極限まで掘り下げた『罪と罰』からの影響が強く見られるが、鐘下氏の脚色からもドストエフスキー作品の深い理解がうかがえる。

たとえば、ラスコーリニコフを見守るソーニャの視線が強調されていた『罪と罰』のエピローグと同じように、原作では結末近くの章になって描かれる主人公の妻が、劇では冒頭から登場して最後まで主人公の行動を見続けるのである。

『野火』において発狂した主人公の内面の声として描かれていた箇所は、「狂兵」という主人公の分身を登場させることで声の具象化が行われており、舞台で演じられる人間関係にさらなる緊張感と深みを与え得ていた。

タガンカ劇場の劇《罪と罰》では初めにラスコーリニコフの行動を擁護した小学生の書いた作文を朗読することで、問題の現代性を明確な形で示していた。

劇団俳優座のこの劇でも「この田舎にも朝夕配られてくる新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び欺(だま)されたい人達を私は理解できない。以下略…」という主人公の言葉を、劇の冒頭で主人公自身に語らせただけでなく、劇の最後では妻にも朗読させることで『野火』の現代性を浮かび上がらせていた。

(『ドストエーフスキイ広場』第16号、2007年。再掲に際して少し手を入れた。太字は引用者。2022年7月29日誤記を訂正)