高橋誠一郎 公式ホームページ

チェーホフ

現代の日本に甦る「三人姉妹」の孤独と決意――劇団俳優座の《三人姉妹》を見て

久しぶりにチェーホフの《三人姉妹》を劇団俳優座で見た。

案内状によれば、劇団俳優座の10年ぶりの上演となるこの《三人姉妹》の「舞台はロシアではなく、ある施設」で、「そこに入居している老婦人たちは毎日のように『三人姉妹』を読み、彼女たちはその世界に魅入られ、迷い込んでいく……」という設定であった。

しかも、百名ほどの観客で満席となる五階稽古場での上演ということもあり、広い空間を吹き抜けていく風の雰囲気さえも伝わるような演出によるロシアの劇の舞台と比較しながら、ソファーや机が置かれ、ラジオが鳴っているだけの幕もない小さな舞台を見下ろして、どのような劇になるのかとの不安を抱きつつ開演の時を待った。

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思い込みが強すぎると笑われそうだが、私がイリーナの「名の日」から始まる『三人姉妹』に強い愛着を感じているのは、ドストエフスキーの長編小説『白痴』で描かれたエパンチン家の三姉妹の孤独のテーマがそこにも響いていると感じるからである。

たとえばイリーナからは愛されていないことを知りつつも、彼女を誠実に愛し続けようとしたトゥーゼンバフ男爵が、働いて生活するために軍人を辞めて背広を着て現れたときのことがこの劇で語られている。そのエピソードはアグラーヤの有力な花婿候補だった貴族のエヴゲーニイが軍服から背広に着替えて現れ、エパンチン家の三人姉妹から可笑しがられていたことを思い起こさせる。

イリーナの花婿となるはずだったトゥーゼンバフ男爵は、レールモントフを気取る軍人のソリョーヌイに決闘で殺されることになるが、『白痴』では決闘のことがたびたび話題となっているばかりでなく、決闘を描いたレールモントフの小説が重要な役割を果たしていたのである。

「ひょっとすると、わたしたちだって、さも存在しているように見えるだけのことで、じつはいないのかも知れない」(神西清訳、新潮文庫)と語る酔っ払いの医師チェブトイキンには、大嘘つきのイーヴォルギン将軍の面影が感じられる。

さらに、ロシアの混乱を象徴するような第三幕の大火の場面からは、『白痴』の後で書かれた『悪霊』のシーンさえ浮かんでくる。混迷のロシアに生きる三姉妹を主人公としたチェーホフの劇は、「60代の女優陣を中心に起用」された俳優座の劇でどのように演じられるのだろうか。

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舞台では医師や看護婦と思われる白い服を着た俳優たちが、新聞を読んだり、普段の会話を交わしたりしていたが、それぞれの扉をパッと開けて「三人姉妹」とナターシャを演じる女性たちが入ってきた時から、雰囲気が一気に変わった。

かつて暮らしたモスクワでの生活にあこがれながらも、地方都市の単調な暮らしに埋もれていく若い三人姉妹の4年間の歳月が戯曲では描かれているが、劇《三人姉妹》は時代や場所を約百年後の日本に移しながらも、原作で描かれた登場人物の台詞や性格を忠実に活かしている。

レールモントフを気取る軍人のソリョーヌイの形象や台詞は、現代の日本人の観客には伝わりにくいと思われた。しかし、病院のありふれた情景や衣服をとおして描かれることで、自分が愛して言い寄っていたイリーナから振られるとストーカーのようにつきまとい、ついには結婚の決まっていたトゥーゼンバフ男爵にいちゃもんをつけて喧嘩をしかけて殺してしまうソリョーヌイからは、現代の日本でも見られる自己中心的な若者像が浮かび上がってくる。

ドストエフスキーは『地下室の手記』で言葉や理想への強い懐疑を抱くようになった主人公の孤独と苦悩を描き出していたが、劇《三人姉妹》でも登場人物たちの会話から成立している戯曲であるにもかかわらず、彼らの会話はしばしばかみあわず、それぞれの人物たちの孤独を担った重たい言葉の多くは、モノローグのように空しく虚空に消えていく。

しかし、おそらくそれゆえに、互いの孤独な言葉がまれに出会った際には見えない火花が散り、登場人物を行動へと促すような迫力さえも持ち得るのである。

ここではそれぞれの役柄について詳しく考察する余裕はないが、責任感が強く校長をひきうけることになるオーリガや恋するマーシャをはじめ、端役の乳母や守衛に至るまで役柄は深く彫り込まれており鮮明であった。

ことに、3姉妹の兄アンドレイに見初められて結婚した農民出のナターシャが次第に家の実権を握って、ついには老いた乳母を役立たずとののしって追い出そうとする場面は、現代日本の光景とも重なるような迫力をもっていた。

劇中ではロシアの歌の代わりに日本の歌が取り入れられていた。その時代に流行った歌は観客の生きた時代をも想起させる力を持っているので、その場面にあうように適切に選ばれた曲も、この劇を日本の劇として違和感のないものとするのに大きな役割を果たしていたと思える。

こうして、大がかりな舞台装置もない小劇場で、現代の日本のありふれた衣装で演じられることにより、この劇は『三人姉妹』という作品の現代性を鮮烈に浮かび上がらせることに成功していたのである。

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見終わったあとでは、俳優たちが百年後の世界について語るチェーホフ劇『三人姉妹』が、森一の演出で見事に百年後の日本で甦ったという感慨を持った。三人姉妹のきわめて困難な状況を描きつつも、最後の場面では彼女たちの「生き抜く」覚悟と決意を描いたチェーホフ劇の現代的な意義をこの劇は示していると思う。

残念ながら、六本木での上演はすでに終わったが、都心での優雅な暮らしにあこがれつつも、原発事故の影響に今も苦しめられる地方都市や、過疎化などの過酷な状況下で生活している地方の人々のためにこの劇が上演され続けることを望みたい。