高橋誠一郎 公式ホームページ

『白痴』

映画《惑星ソラリス》をめぐって――黒澤明とタルコフスキーのドストエフスキー観

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はじめに

かねてからタルコフスキー(一九三二~一九八六年)の映画には関心を持っており、映画《惑星ソラリス》は授業でも紹介していたが、なかなか詳しく調べる暇がなくそのままになっていた。それゆえ、タルコフスキー監督に関する多くの文献をとおして両者が会った年月を確認し、両監督の映画の深い関わりを明らかにした堀伸雄氏の「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー ~『七人の侍』に始まる魂の共鳴」(『黒澤明研究会誌』(第三二号)からは強い知的刺激を受けた。

さらに『ドストエーフスキイ広場』(第二四号)に掲載された「ドストエフスキーへの執念が育んだ〈絆〉― 黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー」を読んだことで、ドストエフスキーの研究者ではない堀氏が長編小説『白痴』に示している深い理解の原因の一つが、黒澤明監督だけでなくドストエフスーをも深く尊敬していたタルコフスキー映画の理解にあることに気づいた。

それゆえ、本稿では堀氏の論文にも言及しながら映画《惑星ソラリス》を中心に考察することで、黒澤明とタルコフスキーのドストエフスキー観とその意義に迫ってみたい。

一、 黒澤監督と映画《惑星ソラリス》

「『惑星ソラリス』を中心に、物質性と精神性について」と題する論文でタルコフスキーは、「文芸作品の映画化」という側面から黒澤映画《白痴》などに次のように言及していた。

〈文芸作品の映画化は、映画監督が作品から離れて、なにか新しいものを作り出したときにのみ成功するのだと、私は信じています。(中略)最良の映画化とは、原作とは別の新しい何かなのです。シェイクスピアとドストエフスキーの最良の映画は、黒澤の『蜘蛛巣城』(マクベス)と『白痴』です。しかし黒澤はきわめて多くのものを破壊しました。全く新しいものを創造するために、舞台を現代に移しさえしています。例えば、ドストエフスキーの小説を逐語的に言いかえたり、図解したりしようとする映画監督よりも黒澤は、ドストエフスキーに近いことがわかるのです。文芸作品の映画化自体は、純粋の意味では、意味がないと思います〉*1。

ここでタルコフスキーは主人公を日本人とし、登場人物の数を減らして筋にも変更を加えつつも、長編小説『白痴』の本質を描いた黒澤映画の創作方法を見事に指摘しているといえるだろう。

しかし、ポーランドの作家スタニスワフ・レムのSF小説『ソラリス』を原作とした映画《惑星ソラリス》は、一九七二年にカンヌ国際映画祭審査員特別賞などを受賞したものの原作者からは酷評された。

その理由を原作者のレムは次のように語っている。「タルコフスキーは私の原作にないものを持ち込んだのです。つまり、主人公の家族をまるごと、母親やらなにやら全部登場させた。それから、まるでロシアの殉教者伝を思わせるような伝統的なシンボルなどが、彼の映画では大きな役割を果していたんですが、それが私には気に入らなかった」*2。

実際、レムの原作『ソラリス』では、ようやく、地球からの緊張に満ちた飛行を終えて宇宙ステーション「プロメテウス」に到着した心理学者のクリス・ケルヴィンが耳にしたのは、「単語の一つ一つが、鋭く飼い猫の鳴き声のような音で区切られていた」機械的な音声による案内であり、「控え目に言っても、奇妙なことだ。誰か新しい訪問者が到着した。しかもほかならぬ地球から来たのだ、とあれば、生きている者は誰でも発着場に駆けつけるのが普通ではないか」と感じたと描かれている*3。

さらに、主人公が宇宙ステーションで最初に出会ったサイバネティックス学者のスナウトは、クリスの到着に取り乱して「ギバリャンはどこだ?」という質問に答えないばかりか、天体生物学者のサルトリウス以外の誰かを見かけても「何もするな」という奇妙な警告を発するというきわめて緊迫した状況で始まる。

こうして、レムのSF小説では「知性を持つ巨大な存在」である「ソラリスの海」と人間との意志疎通の試みが大きなテーマであり、クリスは「ソラリスの海」によって主人公の記憶の中から実体化して送り出された「自殺した妻」ハリーとも出会うことになる。

一方、澄んだ水の流れとそこに揺らめく藻、そして草の情景から始まる映画《惑星ソラリス》では、原作にはない地球上での風景や家族とのやりとりが描かれており、それに対応するようなシーンで終わる。

それゆえ、訳者の沼野充義氏は「愛を超えて」と題した『ソラリス』の解説で、「(タルコフスキーの映画では――引用者注)シンボルは母から、母なるロシア、大地(地球)へつながっていき、映画は小説とは根本的に違うイデオロギー的意味を担うにいたる」と説明している*4。

たしかに原作と映画から受ける印象はかなり異なり、自分の原作にロシアの家族の物語を挿入された原作者レムの不満は理解できる。しかし、映画《惑星ソラリス》のテーマは、ロシア文学者でもある沼野氏の解釈のように、ロシア的な特殊なものに収斂されるのだろうか。むしろこの映画はドストエフスキー作品のように、きわめて深く個人の内面を描きつつ、普遍的なテーマをめざしているのではないのだろうか。

この意味で注目したいのは、映画《デルス・ウザーラ》の撮影のために当時のソ連に滞在していた黒澤監督が、一九七三年にタルコフスキーとともに映画《惑星ソラリス》を観たあとで、導入部の地球の自然描写の巧みさの中に、科学の進歩は人間を一体、どこへ連れていってしまうのかという根源的な恐ろしさを表現していると評価し、他の監督には見られない並はずれた感性に大いなる将来性を感じたと述べていたことである*5。

このような理解の背景にあるのは、この映画が提起している文明論的な課題の重視であろう。かつてソラリスで奇妙な体験をした宇宙飛行士のアンリ・バートンは、主人公のクリスが「ソラリスの海」の謎を解くために「非常手段として海に放射線を当ててみるか…」と語ると、たとえ研究にしても「手段を選ばぬやり方には反対だ。道徳性に立脚した研究でなければ…」と語り、「不道徳でも目的は遂げられます。ヒロシマのように」と主人公のクリスが反論するとバートンが「君は何を言うんだ。おかしいぞ」と激怒する場面が描かれているのである*6。

黒澤映画《デルス・ウザーラ》の冒頭の場面でも、沿海州を調査した隊長アルセーニエフが、探検隊のガイドをしてくれた森に詳しいデルスの墓を一九一〇年に訪れるが、開発によって工事が進み、その埋葬地さえも分からなくなっているというシーンが描かれている*7。

黒澤監督は記者会見でこの映画の理念についてこう語っていた。「人間は自然に対して好き勝手をしている。しかし、本当に自然を怒らせてしまったら、とんでもないことになる。…中略…環境汚染は海面だけでなく、海底にも及んでいる。今地球が危機に瀕している。今人類には環境を守ることが課題となったのだ。科学をそのために使わなければ自然は滅び、それとともに人間も滅びる。『デルス・ウザーラ』は二〇世紀初めの話だが、私の思いはそこにある」*8。

このような黒澤明の発言には『作家の日記』において、「森林がどんどん伐採されて影をひそめるおかげで、ロシアの気候はまるっきり別なものになろうとしています、水分を保持するところがなくなり、どこにも風をふせいでくれるものはありません」と木々が気候に与える影響について書き記していたドストエフスキーからの影響も見ることが可能だろう。

残念ながら日本では小林秀雄の解釈以降、ドストエフスキーの作品における骨太の文明論的な構造は軽視されるような傾向が今も続いている。しかし、ドストエフスキーは若い頃参加していたサークルの指導者であり、後に「ロシア植物学の父」と呼ばれるようになるアンドレイ・ベケートフとの交友を続けていた。そのベケートフは一八六〇年に「自然界の調和」という論文で、「勝者と敗者以外に何もない世界」を描き出していた社会ダーウィニストたちを批判するとともに、「自然界の調和は普遍的必然性の法則の表明」であると主張していた*9。『罪と罰』で「自然支配の思想」や「弱肉強食の思想」など近代西欧文明の問題点に鋭く切り込んだドストエフスキーには、このような文明論的な視野があるといえるだろう。

さて、映画はその後宇宙ステーション「プロメテウス」で物理学者ギバリャンが謎の自殺を遂げ、残った二人の科学者も何者かに怯えていることを描いた後で、クリスの前に数年前に自殺した妻ハリーが現われるという場面が描かれる。

この妻について映画《惑星ソラリス》では、旅立つ前に主人公のクリスが過去の思い出となる書類やかつての妻の写真を燃やすという地上のシーンで何回か示唆されていたが、妻の自殺に良心の呵責を覚えていたクリスは、「ソラリスの海」によって彼の記憶を物質化して送られた「妻のハリー」と出会うことにより、自分の内面を直視することになる。

それゆえ、映画《惑星ソラリス》の何度も現れる「妻」のシーンから、『罪と罰』の主人公・ラスコーリニコフが「高利貸しの老婆」を殺す前後に見るさまざまな「悪夢」を連想した私は、冒頭の藻のシーンからもラスコーリニコフが殺害の前に「花に見とれ」つつも、その意味を理解できずに立ち去ったという文章を思い浮かべたのである*10。

さらに、『罪と罰』の若き主人公は、酔っ払った少女をつけ回す中年の男を見つけて、警官を呼ぼうとしたあとで、数学の確率論を思い出し、今救ってもどうせ同じような結果になると考えてあきらめる一方で、今、すぐ大金が必要だとして「高利貸しの老婆」殺しを実行していた。

作品を読んでいない方には関係が分かりにくいかもしれないが、研究のためならば「非常手段として海に放射線を当ててみるか」と提案していた映画《惑星ソラリス》の主人公・クリスの考え方は、殺人を犯す前の『罪と罰』の主人公・ラスコーリニコフの思考法ときわめて似ているのである。

そのようなクリスに対して研究の続行を主張しつつも、「海を破壊すること」につながるような方法を拒絶していた宇宙飛行士のバートンは、それ以上の会話は無意味と考えて説得をあきらめるが、車で帰宅するバートンが高速道路で次々とトンネルを通過しながら考え込むシーンはきわめて印象的であり、映画《夢》の第四話「トンネル」のイメージとも重なる。バートンを「幻覚」を見た者のようにみなしてその主張を軽視していたクリスは、ソラリスでバートンの見た「幻覚」の意味を理解することになる。

このように見てくるとき、映画《惑星ソラリス》は『罪と罰』からの影響が非常に強いのではないかと思えるが、実際、堀氏の記述によれば「タルコフスキーの妹のマリーナと結婚した映画監督のアレクサンドル・ガルドン」も、「タルコフスキーの中には、常にドストエフスキーがおり、彼の作品には研究し、学び、考え、苦悩する芸術家ドストエフスキーが形を変えて現れる、つまり、タルコフスキーを通じてドストエフスキーが表現されている」と語っていたのである*11。

二、映画《惑星ソラリス》と『おかしな男の夢』、そして『白痴』

映画《惑星ソラリス》を初めて観た時に『罪と罰』とともに思い浮かべたドストエフスキー作品は、夢の中で他の惑星に行くというSF的な短編小説『おかしな男の夢』であった。この短編については、映画《夢》で実現されなかった「数学の不得意だった学生の私が、天使に導かれて地球から脱出しまた帰還して影と合体」するという話が描かれていたエピソード「飛ぶ」との関連で三井庄二氏の論文「現実と非日常の時空を超えた往還」(『会誌』第三〇号)にも言及しながら拙著でも簡単に触れていた*12。

三井氏は前号の論文の第九章で、タルコフスキーの映画『僕の村は戦場だった』における「イワン少年の見る叙情的な夢のシーン」にも言及している*13。一方、「まったく夢の中では、おれの理性にまったく理解しがたいことが起こるのである」と記された『おかしな男の夢』でも、夢の中で自殺した主人公は墓に埋葬された後で、広大な宇宙を旅して、地球と同じような星に着くのである*14。

そこはエデンの園のような理想郷で、主人公は彼らが「樹々と言葉をかわしていたと言っても、たぶん、あながちおれの誤りではあるまい!」と感じたばかりでなく*15、「なにかもっと積極的な手段によって、空の星と接触を保って」おり、「彼らは自然を讃え、大地を、海を、森を讃えた」とさえ確信したのである。

しかし、少し先を急ぎすぎたようなので、少し後戻りして主人公が自殺をしようとする動機などを確認しておく。

大作『罪と罰』の前に書かれた『地下室の手記』は、「わたしは病的な人間だ……わたしは意地悪な人間だ」という印象的な言葉で始まっていたが、『おかしな男の夢』も「おれはおかしな男だ。やつらはみんないまおれのことを気違いだと言っている。もしおれがやつらにとって、昔のままのおかしな男でないとすれば、それはつまり格が上がったというものである」という特徴的な言葉で始まっている。

こうして主人公の「自意識」や「自尊心」の問題に注意を促したドストエフスキーは、「この世界が存在しようとしまいと、あるいは、どこにもなにもないにしても、おれにとってはどっちみち同じことだ」と感じた主人公が、「素晴らしいピストルを買い込んで、その日のうちに弾丸(たま)をこめておいた」と記したあとで、ある少女と出会った夜のことを描いているのである。

ピストルを買い込んでから二ヶ月間も引き出しにしまい込んでいた主人公は、ある晩、暗い夜空を見上げて一つの星を見つめながら今晩こそ自殺を決行しようと考える。しかし、そんなときに「頭をスカーフで包み、薄い服を一枚身につけているだけで、全身ぐしょ濡れになっていた」八歳ぐらいの少女が、「おかあちゃん! おかあちゃん!」と必死に叫びながら、「おれの肘をつかんだのだった」。

「母親を助けるなにかの手だてを見つけるために、彼女は駆け出してきたものに相違ない」と理解しつつも、怒鳴りつけて追い払ってしまった主人公は、又借りをしている部屋に戻るとピストルを取り出してテーブルに置いた後で、安楽椅子に腰をかけたままで思いがけず眠ってしまう。

ドストエフスキーはその後で夢の中で「エメラルドのような輝きを放っている小さな星」に向かって飛び続けた主人公がその星を見つめながら「自分が見棄ててきた、なつかしい古巣の地球に対する、どうにも抑えがたい感激的な愛情」にとらわれたと書き、「あのとき自分が侮辱を与えた哀れな女の子の面影が、ちらりと目の前にひらめいた」と描いている。

この記述は惑星ソラリスで「なつかしい古巣の地球」で自殺させた妻に対する記憶にさいなまれるようになるクリスの良心の呵責をも説明しているように思える。

さらに、理想的な時代から戦争に明け暮れるようになるまでの人類の歴史を夢の中で主人公に体験させたドストエフスキーは、夢から覚めた主人公が「おれはこれから出かけて行って、たゆみなく、絶えず説きつづけるつもりだ」と決意し、「なによりも肝心なのは――自分を愛するように他人をも愛せよということで、これがいちばん大切なことなのだ」と思ったと描いている。

そして、「ところでおれは例の小さな女の子を探し出した……。さあ出発だ! それではいよいよ出かけるとしよう!」とこの短編は結ばれているのである。

「他者との関係」を失い「自殺」するというテーマは、『悪霊』などで中心的なテーマとしてたびたび描かれているが、この描写から私が連想したのは、長編小説『白痴』で主人公ムィシキンの敵対者となる重要な登場人物のイッポリートのことであった。

自殺し損なったイッポリートは悪意に駆られてさまざまなことを企み、それが悲劇を生むことになるのだが、ドストエフスキーはこの長編小説で別な可能性も示唆していたのである。

映画《白痴》ではこのイッポリートのエピソードは全く描かれていないが、拙著ではこの人物を主人公としながら、その可能性を閉ざすことなく描いたのが映画《白痴》(一九五一年)の翌年に公開された映画《生きる》であるという考えを記した。

先に挙げた論文「ドストエフスキーへの執念が育んだ〈絆〉」で堀伸雄氏も同じような見解を記していたが*16、それはおそらくタルコフスキーに関する主要な邦訳文献を読み込み、考察した結果だと思われる。

ロシア文学者の井桁貞義氏は第一回国際タルコフスキー・シンポジウムの挨拶で、「私にとって残念なことは、タルコフスキーがドストエフスキーの『白痴』を映画化するプランを、ついに実現できなかったこと」と述べていた*17。このことを紹介した堀氏は、「タルコフスキーの思想遍歴と監督生活の日常については、彼が遺した貴重な二つの書籍から読み取ることができる。ひとつは、彼の人生観・芸術観・映画観などを俯瞰的に叙述した『映像のポエジア』であり、他方は、彼自らが『殉教録』と名付けた日記である」と紹介している。さらに、タルコフスキーが一九七〇年四月三〇日の日記で、「ドストエフスキーは、私が映画で作ってみたいと思っていることのすべての核になるかもしれない」と書かれていることに注意を促した堀氏は、映画《惑星ソラリス》の後もタルコフスキーがいかに『白痴』の映画化に向けて終始、執念を燃やし続けていたかを文献をとおして明らかにしている*18。

残念ながら、タルコフスキーは『白痴』の映画化には成功しなかったが、ドストエフスキーが強い関心を持っていた詩人プーシキンの『ボリス・ゴドゥノフ』をオペラ化したムソルグスキーのオペラ《ボリス・ゴドゥノフ》の演出に携わっていた*19。

僭称者のテーマに強い関心を持ったドストエフスキーは、長編小説『悪霊』にこの問題を組み込んでいるが、プーシキンは歴史上の実在の人物をモデルとして権力者の「良心の呵責」の問題を描いたこの作品で、権力の獲得を目指したラスコーリニコフの先駆者とも呼ぶべき若き修道僧グリゴーリーに、彼が見た次のような夢について語らせていた*20。

「わたしは急な梯子をつたわって、塔に登った夢を見ました、モスクワが蟻塚のように見えました、下の広場では人民がひしめき、わたしを指さして笑うのです、わたしは恥ずかしくも恐ろしくもなりました。そして、まっさかさまに落ちると見て、ハッと目がさめました」。

その話を聞いた同室の老僧ピーメンは、それは若者の見る夢だとして、年代記を書いていたこともあり、イワン雷帝の幼い息子ドミトリーがゴドゥノフによって暗殺されたことを伝えた。その時、ピーメンはグリゴーリーの夢に強い権力へのあこがれを読み取り、その戒めとしてゴドゥノフのことを語ったと思われる。

しかし、皇子ドミトリーが生きていれば自分と同じ年齢になることを知ったグリゴーリーは僧院を出奔してリトアニアに逃げ、カトリック教徒のポーランド貴族の娘と結婚して改宗し、自分こそが生き残った皇子ドミトリーであると僭称して、ポーランド軍を率いてロシアに攻め込むことになるのである*21。

オペラ《ボリス・ゴドゥノフ》の演出に際して、皇帝(ツァーリ)となることを受け入れたゴドゥノフが、民衆の中にいた少年を見てはっとする場面を描いていたタルコフスキーは、修道院の「場」では、グリゴーリーとピーメンとの会話の背後で皇子ドミトリーが暗殺される場面を演じさせていた。それは偽ドミトリーとしてツァーリの座につき一時は権力を有するが、ほどなく亡ぶことになるグリゴーリーの将来をも示唆していたといえるだろう。しかもタルコフスキーはこのオペラの終幕ではモスクワに攻め込もうという偽ドミトリーの呼びかけに幻惑されて従う民衆を見た聖愚者にロシアの危機を語らせていた。

私自身としては、ゴドゥノフの子供達たちが自殺したと知らされ僭称者が皇帝になったことを祝うように強要された民衆が、「黙して答えず」と結ばれていた原作の方がその後の歴史を暗示して引き締まっていると感じている。しかし、このオペラの結末のシーンからはタルコフスキーが、「殺すなかれ」という理念を唱えていた長編小説『白痴』の主人公ムィシキンの悲劇を強く意識していたことは確実だと思われる。なぜならば、自分の恩人がカトリックに改宗していたということを知らされ、激しい衝撃を受けたこともあり主人公が元の「白痴」に戻ってしまうこの長編小説の結末も、ロシアの精神的な危機が強く示唆されているからである*22。

最後にもう一度映画《惑星ソラリス》に戻るが、「無重力になった宇宙ステーション内の図書館で抱き合って宙に漂うクリスとハリー」のシーンの直前に「少年時代の主人公が乗っていたと思われるブランコが雪に覆われた丘の上でかすかに揺れるショットがある」。そのことに注意を促したロシア文学者の相沢直樹氏は、そこに黒澤映画《生きる》との関連を見て、そのシーンは「クロサワへのオマージュだったかも知れない」と書いている*23。

黒澤監督がタルコフスキーと一緒に試写室で『惑星ソラリス』を観た後にウォッカで乾杯し、一緒に『七人の侍』だけでなく『生きる』のテーマなどを歌ったという、黒澤和子さんからの証言も踏まえた堀氏の興味深い記述にも留意するならば*24、そのシーンは実際に「クロサワへのオマージュだった」可能性が高いと思われる。

 

追記:

ブログに記したように、考察に際しては「ドストエーフスキイの会」第215回例会で「ドストエーフスキイとラスプーチン ――中編小説『火事』のラストシーンの解釈」という題で発表された大木昭男氏の考察からも強い示唆を受けています。

ドストエフスキーが1864年に書いたメモで、人類の発展を「1,族長制の時代、2,過渡期的状態の文明の時代、3,最終段階のキリスト教の時代」の三段階に分類していたことを指摘した大木氏は、『火事』とドストエフスキーの『おかしな男の夢』の構造を比較することで、その共通のテーマが「己自らの如く他を愛せよ」という認識と「新しい生」への出発ということにあると語っていたのです。

この指摘は長編小説『白痴』の映画化にも強い関心をもっていたタルコフスキーのドストエフスキー観を理解するうえでも重要でしょう。

*1 月刊「イメージフォーラムNO80追補・増補版」七七頁。鴻英良訳による。引用は『会誌』第三二号に掲載の堀伸雄論文より)。

*2 スタニスワフ・レム、沼野充義訳『ソラリス』国書刊行会、二〇〇四年、三六〇頁。

*3 同右、八頁。

*4 同右、沼野充義「愛を超えて」(訳者解説)、三六〇頁。

*5 堀伸雄、前掲論文「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー」、九七頁。

*6 DVD《惑星ソラリス》、アイ・ヴィ・シー、二〇〇二年。

*7 DVD《デルス・ウザーラ》、オデッサ・エンタテインメント、二〇一三年。

*8 ウラジーミル・ワシーリエフ、池田正弘訳『黒澤明と「デルス・ウザーラ」』東洋書店、六~七頁。

*9 トーデス、垂水雄二訳『ロシアの博物学者たち』、工作社、一九九二年、一〇一頁。

*10 高橋『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』、二〇〇〇年、一九九頁。

*11 堀伸雄、前掲論文「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー」、一一五頁。

*12 高橋『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、二〇一四年、二〇一頁。

*13 三井庄二「『七人の侍』に見る伝統文化と歴史観」(『会誌』第三二号)。平和時の叙情的な映像と戦時の過酷な日々が対比されている『僕の村は戦場だった』の夢からは、『戦争と平和』において突撃のシーンの前に見るペーチャの夢も連想される。

*14 小沼文彦訳『おかしな男の夢――幻想的な物語』、『ドストエフスキー全集』第一三巻、一九八〇年、筑摩書房。以下もこの訳からの引用による。

*15 前掲書『「罪と罰」を読む(新版)』では、この記述に注意を促しつつ、ソーニャという存在との類似性を指摘した。

*16 堀伸雄、前掲論文「ドストエフスキーへの執念が育んだ〈絆〉」、三二頁。

*17 堀伸雄、前掲論文「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー」、一一四~一一五頁。

*18 堀伸雄、前掲論文「ドストエフスキーへの執念が育んだ〈絆〉」、四一頁。

*19 都築政昭氏の『プーシキンの恋 自由と愛と憂国の詩人』(近代文芸社、二〇一四年)では、波乱に満ちたプーシキンの生涯だけでなく、主要な作品も詳しく紹介されている。『ボリス・ゴドゥノフ』については一八三頁から一九四頁参照。

*20 プーシキン、佐々木彰訳『ボリス・ゴドゥノフ』(『世界文学体系』第二六巻)、筑摩書房、一九六二年、二〇九頁。

*21 DVD『ボリス・ゴドゥノフ』(『DVDオペラ・コレクション』)、デアゴスティーニ・ジャパン、二〇一一年。

*22 高橋『黒澤明で「白痴」を読み解く』、成文社、二〇一一年、二三四~二五二頁。

*23 相沢直樹『甦る「ゴンドラの唄」 「いのち短し、恋せよ、少女」の誕生と変容』、新曜社、二〇一二年、三一二頁。

*24 堀伸雄、前掲論文「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー」、九六頁。

 

映画《醜聞(スキャンダル)》から映画《白痴》へ

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(映画《醜聞(スキャンダル)》の「ポスター」、作成: Shochiku Company, Limited © 1950。図版は「ウィキペディア」による)(拙著の書影は「成文社」より)

 

映画《醜聞(スキャンダル)》から映画《白痴》へ

ドストエフスキー研究者の新谷敬三郎氏は『白痴』に描かれているスキャンダラスな新聞記事の背景について、それまで厳しく「言論の自由」が規制されていた一八四〇年代のロシアとは異なり、クリミア戦争後に「言論がにわかに大衆化した」一方で、価値観が混乱していたこの六〇年代には、個人の中傷記事が載る新聞や雑誌が横行していたことを指摘し、「作者はそういう現象を念頭に置いて、この記事を作品に挿入したのであろう」と説明している。

このような「ゴシップ記事」の問題に注目するとき、映画《白痴》の前年に公開された映画《醜聞(スキャンダル)》(脚本・黒澤明、菊島隆三)においても、「発行部数をふやすために、誇大で興味本位の性記事や私生活の暴露記事を売り物にする」雑誌社によって、スキャンダラスな記事の対象とされたために苦悩する若者たちの物語が描かれていたことに気づく。

*   *

三船敏郎が演じる山岳画家の青江は、山歩きに疲れた有名な声楽家の美也子(山口淑子)を善意からオートバイに乗せて宿まで送り、そこで彼が描いていた山を一緒に見上げようとした。しかし寄り添うようなポーズになったその瞬間を写真家に撮られて、ゴシップ記事を売り物にする雑誌『アムール』にでっち上げの記事とともに掲載された。

雑誌社が「清純な声楽家」の「愛欲秘話」や「情炎のアリア!」などの宣伝文句で、ポスターやサンドウィッチマンなどを使ってこの記事と写真を大々的に広告したために、この雑誌は売り上げを伸ばした。

一万部の増刷を決定した社長は、自分の書いた記事が「虚偽の記載」や中傷で告訴されることを心配した記者には、そんなことで裁判になったことはないし、むしろそうなったらよい宣伝になるので「あと一万部増刷するね」と語り、偽りの報道に怒って雑誌社に乗りこんできた山岳画家の青江に殴られると、様々な報道機関に自分が暴力の被害者であることを強調して、「僕ア、あくまでも言論の自由のために闘うよ」と宣言し、さらに宣伝に力を入れたために「スキャンダル」は拡大したのである(Ⅲ・一〇~一一)。

絵画の道に進もうとしていた若き日の黒澤明を彷彿とさせるような正義感の強い山岳画家の青江も、自分が「暴力を振るったのは確かに悪い」が、「あの雑誌の記事は、ありゃ何だい。暴力以上じゃないか」と批判していた。

*   *

長編小説『白痴』ではムィシキンは中傷記事に抗して自分の恩人への疑いを晴らすためにガヴリーラに調査を依頼していたが、映画《醜聞(スキャンダル)》で青江に裁判に訴えれば勝てると自ら売り込んできたのが、弁護士の蛭田(志村喬)で、いつかは真実が明らかになると信じていた青江は、蛭田を信用して裁判を始めた。

この映画に出てくる弁護士の蛭田と『罪と罰』に出てくる酔っぱらいのマルメラードフとの類似性についてはすでに公開時に映画評で述べられていた(Ⅲ・三二一)。 たしかに善良だが酒に弱いという点や、「俺は犬だ! 蛆虫だ!」と自分のことを自虐的に語る台詞は、マルメラードフを思い起こさせる。

しかし、依頼人を裏切ることになる弁護士という人物設定に注目するならば、蛭田の人物像は『白痴』におけるレーベジェフにも近いと思える。

なぜならば、人はよいが酒好きの弱い人間であった弁護士の蛭田は、簡単に雑誌社の社長に買収されてしまい、青江たちの裁判は次第に不利な状況へと追い込まれていくことになるからである。

一方、「世間の噂」が静まるまでじっと我慢をしようとしてリサイタルをも中止にしていた声楽家の美也子は、裁判でかえって青江が追い込まれていくのを見て、自らも原告の一人となり雑誌社の社長を訴えた。

*   *

一方、ムィシキンの前に初めて姿を現した際に「喪服に身を包み」、「乳飲み子」を抱いていたレーベジェフの娘ヴェーラは、「この頃は夜はだいたい泣き暮らして、私たちに聖書を読んで聞かせるのです。だって母が五週間前に亡くなったばかりですから」と父について語っていた(二・二)。

このことに注意を払ったイギリスの研究者・ピースは、《キリストの屍》などをめぐるロゴージンとの重苦しい会話について考えながら歩いていた際に、乳飲み子を抱いて立っていたヴェーラのことを思いだして、「あの子はなんとかわいい、愛らしい顔をしていたことか」(二・五)とムィシキンが考えていたことにも注意を促していた。

彼女が胸に抱いている幼子が自分の妹であり、母親がその子を産んで亡くなっていることを想起するならば、このようなヴェーラのイメージは、無垢のままで子供を生んだとされる幼子イエスをとマリアを描いたラファエロの《システィーナの聖母》とも重ねられているだけでなく、ロシアのイコン《ウラジーミルの聖母》も意識して書いているといえるだろう。

映画《白痴》では舞台を日本に移したことで、ムィシキンが語るマリーやロバのエピソードなど『新約聖書』の逸話が削られ、ロゴージンの母親は「毎日仏様ばかり拝んでいる」女性へと変えられていた。

しかし、この映画ではクリスマスの「樅の木」や「清しこの夜」の合唱など、キリスト教的な雰囲気も伝えられることで、蛭田の娘の「聖母マリア」的な性格も描かれており、次第に窮地に追い込まれていく主人公たちの危機を救ったのが重度の肺病を患いつつも「純真な心」を持ち、父の回心を願い続けていた蛭田の善良な娘・正子(桂木洋子)だったのである。

このように見てくるとき、蛭田(レーベジェフ)に「さぎ師」という「レッテル」を貼るのではなく、彼がまだ純真な心を失ってはいないことも描き出していた《醜聞(スキャンダル)》は、蛭田の娘・正子の形象をとおしてヴェーラの見事な映像化を果たしているといっても過言ではないように思える。

 

『黒澤明で「白痴」を読み解く』、成文社、2011年、133~137頁より。なお、前の文章との関連を示すために言葉を補ったり削除した他、注は省略した)。(2017年5月7日、図版を追加)

スタンバーグ監督の映画《罪と罰》と黒澤映画《夢》

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スタンバーグ監督の映画《罪と罰》と黒澤映画《夢》

はじめに

1936年に発表した「『罪と罰』を見る」と題した映画評を「ピエール・シュナアルといふ人の作つた『罪と罰』の映画を薦められて見た」という文章から書き出した小林秀雄は、スタンバーグ監督の《罪と罰》を文士たちが「ソオニャがラスコオリニコフを掴へて『アメリカに逃げて頂戴な』などといふ『罪と罰』はない」と批判したことを紹介している。

そして、文士たちがこの映画を「原作に忠実でないからいけない」と「嘲笑」しているが、「スタンバアグの作がをかしければ今度のものだつてをかしい筈だ。少くとも『罪と罰』といふ小説に関して文学者らしい定見を持つてゐるならば」と続け、その理由を「狙つてゐる処は同じだからだ。一と口で言へば犯罪の心理学だ」と説明した小林は、「両方ともラスコオリニコフとポルフィイリイとの心理的対決といふものが一篇の中心をなしてゐる。そしてこの心理的対決の場面が今度の映画では前の映画より上手に出来てゐる」が、「人間の罪とは何か、罰とは何かと、考へあぐんだ人の思想など這入りこむ余地はないのだ」と記して、映画という表現手段の限界を指摘していた〔四・二二四~二二六〕。

 

1,映画《罪と罰》における「良心の呵責」の描写

黒澤監督は『蝦蟇の油――自伝のようなもの』(岩波文庫)で、1929年までに観た「映画の歴史に残る作品」として、1925年のデビュー作《救ひを求むる人々》から、米国映画最古のギャング映画と言われる《暗黒街》(1927)、さらに《非常線》(1928)と《女の一生》(1929)の四本のスタンバーグ作品を挙げている。

ドイツ系ユダヤ人のスタンバーグ監督(1984~1969)は、『ウィキペディア』によれば、1931年に外人部隊に所属するトム・ブラウン(ゲイリー・クーパー)とモロッコの酒場の歌手アミー・ジョリー(マレーネ・ディートリッヒ)との出会いと激しい愛を描いた映画《モロッコ》で有名になったとされる。

「弱肉強食の思想」を唱えていたヒトラーの内閣が1933年に成立したことによりヨーロッパで大戦争が近づくなか、デビュー作からスタンバーグ監督の映画を高く評価していた黒澤が、自分が深く尊敬していたドストエフスキーの長編小説『罪と罰』を映画化したこの《罪と罰》を非常に注意深く観ていただろうことは間違いないだろう。

上映時間が84分の映画《罪と罰》(脚本:S・K・ローレン、ジョゼフ・アントニー、DVD、コスミック出版)では、残念ながら、時間的な制限からマルメラードフやその妻カテリーナの登場する場面は省略されており、ラズミーヒンやスヴィドリガイロフ像にも深みが欠けている。

また、当時の文人たちが批判したように、ソーニャの形象にもラスコーリニコフが血を流して大地を汚したと語り、大地に接吻するように諭した厳しさは欠けており、それゆえラスコーリニコフの告白を聞いて激しく動揺したソーニャが逃げるように頼む場面からはメロドラマ的な印象さえ受ける。

しかし、ラスコーリニコフの家族関係やルージンの卑劣さはきちんと描かれており、ソーニャが『聖書』のラザロの復活を読むシーンは迫力がある。彼のことを心配して取り乱したソーニャを見たラスコーリニコフが、自首を決意する流れも説得力を持っており、シベリアで彼が己の「罪」を深く「悔悟」して復活することも示唆されていると思える。

原作の登場人物や筋の一部を削除した代わりにスタンバーグ監督は、ラスコーリニコフ(ピーター・ローレ)と予審判事ポルフィーリイとの対決をとおして、「非凡人の理論」の危険性を浮き彫りにするとともに、「良心の呵責」に苦しむようになる主人公の内面にも迫っていた。

ことに、ペンキ職人のミコルカに罪をなすりつけて自分は逃げ出してもよいのかと問いかけることで浮き彫りにしていたラスコーリニコフの「良心の呵責」の問題は、いつの時代でも「国策」の一端を担うことになる「知識人」の「良心」の問題に深く関わっているだろう。

主役を演じたピーター・ローレは小柄で丸みを帯びた体型をしていることもあり、原作に描かれている主人公像との違いに戸惑ったが、ラスコーリニコフの苦悩や怒り、恐れなどの感情を表現力豊かに示して名演であった。

2,スタンバーグ監督の《罪と罰》と黒澤映画《夢》

映像的な面で興味深かったのはラスコーリニコフのベッドの上の壁に飾られているナポレオンの肖像画で、それと対比的に示されていたベートーベンの肖像画の意味が最初はよくわからなかった。しかし、ラスコーリニコフの部屋を訪れたポルフィーリイに、ナポレオンを尊敬していて彼に捧げようとして書いた第五交響曲「英雄」を、彼が皇帝になったことを知ってベートーベンが献辞をやめていたと語らせている場面で、この肖像画が「非凡人の理論」の批判としての意味を有していたことを知った。

このような映像的な処置は原作から離れており、大胆すぎるように思えた観客は多かったと思えるが、ドストエフスキーも原作で予審判事ポルフィーリイに、「あの婆さんを殺しただけですんで、まだよかったですよ。もし別の理論を考えついておられたら、幾億倍も醜悪なことをしておられたかもしれない」と語らせることで「非凡人の理論」の危険性を指摘していた。

 ニーチェのドストエフスキー理解から影響を受けたと思われるヒトラーは、『わが闘争』(第一部、1925年、第二部、1926年)において、「すべての発明はある一人の人の創造の結果である」と書き、「ワイマール憲法」を否定して自分の独裁を正当化していた。

さらに、他民族への憎しみを煽りたてたばかりでなく「非凡人の理論」を「民族」にも当てはめて、「人種の価値に優劣の差異があることを認め(中略)、永遠の意志にしたがって、優者、強者の勝利を推進し、劣者や弱者の従属を要求するのが義務である」と主張して、「復讐」の戦争へと自国民を駆り立てた(高橋『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』刀水書房、2000年、第9章参照)。

そのことを考えるならば、1935年に公開されたこの映画でスタンバーグ監督は、1940年に公開されるチャップリンの《独裁者》に先駆けて、「非凡人の理論」の危険性を描き出していたと思える。

スタンバーグ監督の《罪と罰》と比較するとき、不安の時代に書かれた小林秀雄の『罪と罰』論にはルージンの人間像や行動についての言及や、「非凡人の理論」をめぐる考察が決定的と思えるほどに欠けているのである。

黒澤明は『罪と罰』の映画化を行ってはいないが、1951年に長編小説『白痴』の見事な映画化を行うことで、映像をとおして小林秀雄の『白痴』論を痛烈に批判していた。

「『罪と罰』についてⅠ」で「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」とし、エピローグにおける「人類滅亡の悪夢」の描写にもあまり注意を払っていなかった小林秀雄が、戦後も基本的にはこのような解釈を変えなかったことに対して黒澤明は深刻な危機感を覚え、そのことを考え続けたことが映画《夢》の第四話「トンネル」や第六話「赤富士」に反映しているのではないだろうか。

『罪と罰』と『罪と贖罪』――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(1)

はじめに

昨日の深夜に書いた映画《ドストエフスキーと愛に生きる》についてのブログ記事では次のように書いた。

〈ドキュメンタリー映画なので手法は全く異なっていましたが、映像をとおして知識人の「責任」を鋭く問いかけていた黒澤監督の映画《夢》を見たあとのような重たい感銘が残りました。〉

ドストエフスキー作品の重み――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て

この記述だけではわかりにくいと思えるので、今回は「贖罪」という訳語についての感想を記しておきたい。

一、『罪と贖罪』という訳

翻訳者ガイヤーが長編小説『罪と罰』という題名を『罪と贖罪』と訳しているとの説明からは、衝撃に近い感銘を受けた。なぜならば、「罰」というロシア語の単語を「贖罪」と訳すことは、一見、大学でロシア語を学び始めて間もない学生でも分かるような「誤訳」のように見えるからだ。

ガイヤー訳の『罪と罰』が日本ではまだきちんと紹介されてはいないので、断言することは難しい。しかし、ヴァディム・イェンドレイコ監督は、このドキュメンタリー映画に1923年に公開されたロベルト・ウイーネ監督の映画《ラスコーリニコフ》から主人公が「斧」を探す場面を挿入することで、外国人の観客にもガイヤーの『罪と罰』理解の深さを示唆しえていた。

この場面についてガイヤーは、多くの観客はここでラスコーリニコフが殺害のための「武器」である斧を見つけ出したことに「恐怖」ではなく、主人公の気持ちに寄り添って「ほっと」したのではないかと語り、ドストエフスキーが『罪と罰』で示唆した「非凡人の理論」の危険性が、きちんと伝わっていなかった可能性を指摘しているのである。

『罪と罰』のエピローグでは自分の理論に従って殺人を犯した主人公ラスコーリニコフのシベリアでの重たい時間や「人類滅亡の悪夢」が描かれていることに留意するならば、スターリンの粛正やナチスによるユダヤ人の虐殺、さらには原爆の二度にわたる投下などが行われた第二次世界大戦を踏まえるならば、「贖罪」という訳こそが「殺人者」ラスコーリニコフの心情に寄り添うだけでなく、原作の間違った理解を避ける「適訳」だと思える。

二、小林秀雄の二つの『罪と罰』論

このことを強く感じたのは、私が自分のドストエフスキー論の集大成とも考えている『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』をなんとか脱稿して、「あとがき」の文章をこの時期に考えていたためでもあるだろう。

「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論からは、それまで高校の文芸部で小説のまねごとのような作品を書いていた私が評論という分野に移行するきっかけともなるほどの影響を受けた。

しかし、小林秀雄の『罪と罰』論や『白痴』のムィシキンの解釈を何度も読み返す中で、原作から多くの引用がされているがそこで記されているのは小林独自の「創作」ではないかという深刻な疑問を持つようになった。

たとえば、1934年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林秀雄は、「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」と書き、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と記していた〔四五〕。

この評論ががこれから日本が戦争に向かおうとしていた時期に書かれていることを考慮するならば、このような結論もやむを得なかったと思える。ラスコーリニコフが行った「正義の犯罪」をシベリアで悔いたと解釈することは、軍部に対する批判と見なされて逮捕され、拷問を受ける危険性もあったからである。

問題は戦後に書いた「『罪と罰』についてⅡ」でも、「物語は以上で終つた。作者は、短いエピロオグを書いてゐるが、重要なことは、凡て本文で語り尽した後、作者にはもはや語るべきものは残つてゐない筈なのである。恐らく作者は、自分の事よりも、寧ろ読者の心持の方を考へてゐたかとも思はれる」と、戦前と同じような見解を小林が記していることである〔二五〇〕。

 三、小林秀雄とガイヤーの歴史認識

「『罪と罰』についてⅡ」からはそのような認識の深まりは感じられなかったが、「歴史について」という題で評論家の河上徹太郎と1979年に行った対談で、「歴史をエモーショナルに掴む、と君は言うが、歴史の『おそろしさ』を知り抜いた上での発言と解していいのだな」と河上から確認されると、小林は「まさしく、そうだよ。歴史に向かってはこれとエモーショナルに合体できる道は開けている、と僕は信じている。それは合理的な道ではない。端的に、美的な道だと言っていいのだ」と断言していた。

しかし、まだ『全集』には収録されていないようだが 1940年に「英雄を語る」と題して行った鼎談で、同人の林房雄から「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問われた小林は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けると、この言葉を受けて林房雄は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる。天皇陛下を戴いて諸共に皆んな滅びてしまへば宣いと覚悟してゐる」と応じていた。

二人が語っていたような歴史認識が日本を無謀な戦争へと駆り立てたと思えるが、小林秀雄にはこのことの反省をしているようには見えないばかりか、「『白痴』をやってみるとね、頭ができない、トルソ(頭と手足を持たない胴体だけの彫像、編集部注)になってしまうんだな」とし、「「白痴」はシベリアから還ってきたんだよ」と強調している言葉からは、ドストエフスキーのテキストをきちんと読み解こうとするのではなく、あくまで自分が創作した「物語」を守ろうとする姿勢が感じられる。

《ドストエフスキーと愛に生きる》から私が深い感銘を受けた理由の一つは、小林秀雄の『罪と罰』論とのガイヤー訳の『罪と罰』における「罪」の認識の差を実感しただけでなく、ドイツ人に戦争への反省をも迫るような『罪と贖罪』という題名の訳を翻訳者のガイヤーが提案していたばかりでなく、そのようなあまり売れそうもない重たい題名の訳書の出版に踏み切った出版社の勇気と気概を知ったためでもあった。

そこには「国家」への「奉仕」が求められる一方で、「個人」の自立が切り捨てられたナチス・ドイツへの鋭い批判が感じられ、福島第一原子力発電所の大事故の後で、国民的な議論をふまえて脱原発に踏み切ったドイツと、未だに事故が収束しておらず、使用済み核燃料の問題が解決されていなにもかかわらず、政府や官僚の主導により原発の再稼働や輸出を始められようとしている日本との違いに現れているようにも感じられる。

fc2_2013-09-21_18-19-44-152(く黒澤映画《夢》「赤富士」)

(画像はブログ「みんなが知るべき情報/今日の物語」より。http://blog.goo.ne.jp/kimito39/e/7da039753df523c21dcd451020f1e99c …

 イェンドレイコ監督と黒澤映画――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(2)

ムィシキンの正確な映像化――ボルトコ監督のDVD《白痴》を見て

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(図版は「アマゾン」より)。(図版は「成文社」より)

2003年に全10回のシリーズとしてロシアのテレビで放映され、翌年にはモンテカルロ・テレビ祭テレビシリーズ・プロデューサーアワードや最優秀男優賞を受賞して話題となっていたボルトコ監督のテレビ映画《白痴》がDVDとして、2010年に日本でも販売された。

「ドストエフスキーの代表作を、忠実に再現した唯一無二の、完全再現ドラマ」と広告文でうたっているだけに、半分にカットされる前の黒澤映画《白痴》の倍以上の510分という長時間をフルに生かして、原作の複雑な人間関係を見事に映像化している。

ただ、「忠実に再現した」ことが強調されてはいるものの、長編小説のテーマを明確にし、観客を一気に『白痴』の世界に引き込むための工夫もなされている。たとえば、長編小説を読み親しんできた読者は、一瞬、冒頭のシーンに驚かされるだろう。なぜならば、DVDではナスターシヤの部屋を訪れたトーツキイは自分が彼女に犯した過ちを認めつつも、手切れ金代わりに莫大な持参金を提示することで新しい女性との結婚を望んでいることを伝える一方で、エパンチン将軍もオペラ《椿姫》の主人公の父親のように、娘たちの幸せのために身を退くようにと強く頼んだのである。

そして、ナスターシヤに密かに高価な真珠を贈っていたエパンチンをトーツキイがからかいながら去っていくシーンの後で、カメラは彼らを二階から見下ろした後で、ナスターシヤが鏡に十字を描く姿を映し出した。

こうして、このテレビ映画はトーツキイによる過去の記憶に苦しむだけでなく、今また、若い男との愛のない結婚を迫られる誇り高い女性の苦悩を、最初に分かりやすく観客に示すことでこの長編小説の主要なテーマを示し、なにゆえにムィシキンが彼女の写真を見たときに、激しい衝撃を受けたのかを説明し得ていたのである。

さらに、次のシーンでは一転してムィシキンがエパンチン将軍の屋敷を訪れる場面が描かれ、彼のみすぼらしい身なりを見た召使いが、本当に公爵なのかを疑いつつ、取り次ぐべきかどうかを迷っている場面から始まる。そして正式な待合室ではなく、召使いの部屋で話し込んだムィシキンが、ロシアの裁判と比較しつつ、フランスで見た死刑の光景を詳しく語りながら、「殺すなかれ」と語ったイエスの理念を熱っぽく語る姿が映し出される。

それゆえ、タイトル・バックで十字架にかけられたイエスの像を映し出しているこの映画をとおして、観客はナスターシヤの人物像がドストエフスキーがドレスデンの美術館で見て深い感銘を受けたティツィアーノの宗教絵画《懺悔(ざんげ)するマグダラのマリヤ》と結びついているばかりでなく、ムィシキンという主人公もエミリー・シニョールが描いた絵画《罪の女を赦すキリスト》とも結びついていることを視覚的に実感できるのである。

事実、ナスターシヤを演じたヴェレツェワは、暗い過去を背負った影のある絶世の美女を見事に演じているし、ムィシキン公爵を演じたミローノフも、瞑想がちではあるが、聞き手を引き込むような話し方をし、魅惑的な笑顔を浮かべる若者を熱演している。

こうして、面会を待っている間にタバコを吸い始めたムィシキンが吐く煙とともにペテルブルグに向かう列車での回想のシーンがようやく始まり、マシュコフが演じる激しい情熱を持ちつつもそのエネルギーを使う方向性を見いだせなかったロシアの商人ロゴージンや、「反キリスト」とも呼ばれるしたたかな官吏のレーベジェフとの出会いが描かれて、一気に原作の世界へと観客を引き込んでいくのである。

そして、エパンチン将軍との会見の際には、ムィシキンが何度もポケットに手を入れて手紙を取り出そうとするのを将軍が留めるシーンをとおして、雑事に巻き込まれまいとするやり手の実業家としてのエパンチンの性質だけでなく、ムィシキンもまたロゴージンと同じような莫大な遺産の相続者であることに注意を促して、二人の置かれている状況の類似性と、その後の遺産の使い方の比較をとおして、両者の違いを浮き彫りにしえている。

さらに、秘書のガヴリーラがアグラーヤへの手紙を書く場面も映像化することで立身出世を企む彼の意図や、そのような彼に対するボッティチェリの絵画《春》に描かれた「三美神」のように美しいエパンチン家の三人の娘たちや母親の反応をとおして彼女たちの個性もきちんと描かれている。さらに、原作では目立たないが、常に赤ん坊を抱いてる姿を強調することで、ロシアのイコン《ヴラジーミルの聖母》やラファエロの傑作《システィーナの聖母》を連想させるレーベジェフの娘ヴェーラの優しい眼差しも描写されている。

しかも、ムィシキンが相続した遺産を狙ったスキャンダルや、ホルバインの絵画《キリストの屍》とイッポリートが語る哲学的で重いテーマなど黒澤映画《白痴》では省略されていたエピソードや、さらには時間を圧縮するために少しエキセントリックな印象も呼び起こしたアグラーヤとナスターシヤの緊迫した関係もじっくりと描かれている。

そして、日本ではあまり注目されていないがこの長編小説では、教皇への復讐心を抱いた皇帝の「カノッサの屈辱」や、自分の「恩人」がカトリックに改宗したという知らせを聞いて激しく動揺したムィシキンによる厳しいカトリック批判の演説も描かれていた。

このように見てくるとき注目したいのは、この映画ではムィシキンが立ち止まって、権力や欲望に支配されるロシアから立ち去って、山に囲まれたスイスで静かな瞑想生活をおくるべきではないのかと考える場面がたびたび描かれていることである。

実は、長編小説『白痴』では劇作家グリボエードフの『知恵の悲しみ』からの引用が度々なされているが、長い外国生活から戻ったこの劇の主人公の若者は、旧態依然としたロシアの状況を西欧派的な視点から厳しく批判し、「発狂した」との噂を立てられて絶望し、再び外国へとすぐに戻ってしまっていたのである。

若い頃にこの劇から強い影響を受け西欧派の作家としてデビューしていたドストエフスキーは、シベリア流刑以降には、ロシアにある自分の領地からあがる税金によって外国で優雅な生活をおくりつつ、ロシアの政治制度を批判する貴族には、次第にきびしい眼をむけるようになる。

それゆえドストエフスキーは『白痴』で、「知恵」の問題を主題としつつ、グリボエードフの喜劇『知恵の悲しみ』の主人公とは正反対に、そのままロシアに留まれば自分が破滅することになるかもしれないことを深く知りつつも、最後までそこに留まってなんとか虐げられた女性を救おうとし、ついには再び精神を病んだ若者を描き出していたのである。その姿は自分の危険性を顧みずにエルサレムの神殿を訪れて、最後は生け贄の「子羊」のように十字架で処刑されたイエスとも重なる。

こうしてDVD《白痴》は、ロシアの「キリスト公爵」を創造しようとしたドストエフスキー自身の意図を、かなり忠実に映像化し得ているといえるだろう。

(『ドストエーフスキイ広場』第20号、2011年。2014年1月21日、副題など一部改訂。2017年5月7日、図版を追加)

小林秀雄の『虐げられた人々』観と黒澤明作品《愛の世界・山猫とみの話》

 

一、 《愛の世界・山猫とみの話》から《赤ひげ》へ

 戦時中の一九四三年一月に公開された映画《愛の世界・山猫とみの話》の脚本が主に黒澤明監督の手に成るものであったことは「ブログ」に記したが、この映画にはその後の黒澤明監督作品を予想させるような、テーマとシーンが見られた。

 ことに注目されたのは、例会発表でも指摘されたように、両親と七歳で死別して曲馬団に売られ、その後も様々な職業を転々とするなかで時には凶暴性を発揮したり、何ヶ月も口を利かずに「山猫」とみとあだ名された少女の形象には、映画《赤ひげ》で行われることになる『虐げられた人々』の少女ネリーの見事に映像化がすでになされたいたことである。

 私は映画《赤ひげ》(一九六五)におけるお粥の入った茶碗を少女おとよが壊すシーンと映画《白痴》におけるナスターシヤが花瓶を壊すシーンを比較して、心に傷を負った彼女たちの行動が見事に描き出されていることを指摘して、黒澤明監督の『虐げられた人々』と『白痴』理解の深さを指摘していた(拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、九三~九八頁)。 

 つまり、ワルコフスキー公爵の実の娘でありながら、母親を捨てて死に追いやった父親の援助を拒んで幼くしてなくなった少女ネリーの人物造形は、火事で孤児になった後で無理矢理に「貴族」トーツキーの妾とされていたが、莫大な持参金を拒んで自立しようとして苦しんだ長編小説『白痴』のナスターシヤ像の先駆的な役割を担っていると思われるのである。

 映画《赤ひげ》は一九五一年に公開された映画《白痴》から、はるか後年に撮られていることもあり、黒澤明監督の『虐げられた人々』の理解が深まったのは、映画《白痴》を撮った後であるという解釈も可能であった。しかし、映画《愛の世界・山猫とみの話》が一九四三年一月に公開されていたことは、映画《白痴》を撮ることになる黒澤明監督が、すでにこの時点で『虐げられた人々』のネリー像の重要性を理解していたことを強く示唆していると思われる。

 この点に留意するとき、なぜ映画《白痴》の後で撮られた映画《生きる》(一九五二)では余生がわずかなことを知った主人公の前に、メフィストフェレスを自称する作家が犬を連れて現れることが描かれているのかも理解できる。

二、『虐げられた人々』の構成と粗筋

 四部とエピローグからなる本格的な長編小説『虐げられた人々』(原題は『虐げられ、侮辱された人々』)でも、語り手である主人公のイワンがみすぼらしい老人とその老犬の死に立ち会うという印象的な場面から始まり、その孫娘ネリーの出生の謎をめぐって物語が展開されているのである。

 映画《愛の世界》や《赤ひげ》の理解にも関わるので、あまり知られていない『虐げられた人々』の粗筋をまず簡単に紹介しておきたい。

 この長編小説では少女ネリーをめぐる出来事と孤児となったイワンを養育したイフメーネフの没落と娘ナターシャをめぐる物語が並行的に描かれて行くが、物語が進むにつれて、しだいにこれらの悲劇の原因が、ネリーの父ワルコフスキー公爵の詐欺的な言動によるものであることがはっきりしてくる。

 すなわち、ネリーの祖父はイギリスで工場の経営者だったが、娘がワルコフスキー公爵にだまされて父の書類を持ち出して駆け落ちしたために全財産を失って破産に陥っていたのである。

 一方、一五〇人の農奴を持つ地主で主人公のイワンを養育したイフメーネフ老人の悲劇も、九〇〇人の農奴を所有する領主としてワルコフスキー公爵が隣村に引っ越してきて、イフメーネフ家を訪れて懇意になると自分の領地の管理を依頼し、さらに五年後には新たな領地の購入とその村の管理をも任せたことから始まる。

 積極的にイフメーネフに近付いて、自分の領地の管理を任せてその能力に満足したと語っていた公爵は、後に自分の領地の購入に際してイフメーネフが購入代金をごまかしたという訴訟を起こし、有力なコネや賄賂を使って裁判を有利に運んだ。そのために、裁判に敗けて一万ルーブルの支払いを命じられたイフメーネフ老人は自分の村を手放さねばならなくなったのである。

 こうして、少女ネリーの悲劇が描かれている長編小説『虐げられた人々』は、クリミア戦争敗戦後のロシアを揺るがせていた二つの大きな問題、農奴制の廃止と資本主義の導入の問題点を浮き彫りにして、混沌とした時代の雰囲気や「大改革」の時代の課題を描き出していたといえるだろう。

 

 

三、映画《愛の世界・山猫とみの話》における「鬱蒼とした森」の描写

 長編小説『虐げられた人々』が連載された雑誌『時代』は、農奴制の廃止や言論の自由を求めたために捕らえられて死刑の判決を受けた後でシベリア流刑へと減刑されていたドストエフスキーが、刑期を終えて首都に帰還してから兄ミハイルとともに創刊した雑誌である。

 クリミア戦争の敗戦により農奴制の問題が認識されて、農奴解放などが行われた「大改革」の時代に首都に戻ったドストエフスキーは、「われわれはこの上なく注目に値する重大な時代に生きている」とし、「欧化」でも「国粋」でもない、第三の道として「大地主義」の理念を掲げるとともに、文盲に近い状態におかれていた「農民」に対する教育の重要性とともに、「知識人」が「農民の英知」を学ぶ必要性も唱えていた。

 そのような「農民の英知」の一つは、「森や泉」に深い敬意を払う民衆の自然観だろう。たとえば、木下豊房氏は『貧しき人々』や『虐げられた人々』、さらに『百姓マレイ』などにも言及しつつドストエフスキー家の領地であったダロヴォーエの森について書いたエッセー「フェージャの森」で、「都会の作家といわれるドストエフスキーの深奥には、実は豊かなロシアの自然と大地(土壌)が横たわっている」と指摘している(『ドストエフスキー その対話的世界』、成文社、二〇〇二年、二九七~三〇〇頁)。

 さらに、論文「思い出は人間を救う――ドストエフスキー文学における子供時代の思い出の意味について」(『ドストエーフスキイ広場』、第一六号、二〇〇七年)では、具体的に『虐げられた人々』の文章にも言及しているので、《愛の世界》との関わりを具体的に示すためにも、まずはその文章を引用しておく。

 「ニコライ・セルゲーヴィチ(引用者注――イフメーネフのこと)が管理人であったワシリエフスコエ村の庭園や公園は何と素晴らしかったことか。私とナターシャはこの庭園へよく散歩にでかけたものだった。庭園の向こう側には、鬱蒼とした大きな森があって、私たち二人の子供は一度、道に迷ってしまったことがあった……美しい黄金時代! 人生がはじめて、秘密めいて、誘惑にみちた姿で現れ、それを知ることは、何とも甘美であった」。

 映画《愛の世界・山猫とみの話》から強い印象を受けた場面の一つは、少女救護院で自分をいじめた園児と激しい喧嘩をして脱走して、最初は歌を歌いながら自然の美しさに見とれ、自由を謳歌していた少女とみを描いた後で、次第に暗くなってくると道に迷って森から出られなくなったとみにとっては森が巨大な妖怪の住む無気味な世界へと一変したことが描かれていることである。

 この美しい森から無気味な森への変化は、自然の変化を深く理解して見事な道案内人の役を果たしたデルスが、眼を悪くしたあとでは自然を恐れるようになったことが描かれている映画《デルス・ウザーラ》をも思い起こさせる。

 しかも、畑仕事が厭で怠けていた少女とみは、映画の最後では畑仕事に喜んで従事している場面が描かれているが、それは文部大臣によって京都帝国大学の憲法学者滝川教授が罷免された事件を題材にして、敗戦直後の一九四六年に公開された映画《わが青春に悔なし》(脚本・久板栄二郎、黒澤明)のシーンを思い起こさせる。この映画でも父の教え子でジャーナリストになっていた野毛を敬愛して彼の元に走って同棲生活を送るようになった娘の幸枝が、野毛がスパイ容疑で逮捕され獄中で死亡した後では、野毛の実家へと行って彼の母親(杉村春子)を手伝って黙々と大地を耕すシーンがドキュメンタリー的な手法で描かれていたのである。

 農民を指導して野武士の群盗たちと戦い百姓たちを守った七人の侍の雄々しい戦いが描かれている映画《七人の侍》(脚本・黒澤明、橋本忍、小國英雄)の最後のシーンでも、戦いに勝ったあとで百姓たちが行っていた田植えの場面がクローズアップされていた。そして「いや……勝ったのは……あの百姓たちだ……俺たちではない」と語った指導者の勘兵衛は、さらに「侍はな……この風のように、この大地の上を吹き捲って通り過ぎるだけだ……土は……何時までも残る……あの百姓たちも土と一緒に何時までも生きる!」と続けているのである(『全集 黒澤明』第四巻、九五頁)。

 映画《愛の世界・山猫とみの話》は「国策映画」として製作されたために、表現は制限されてはいるが、ここには一九五四年に公開された映画《七人の侍》に見られるような黒澤明監督の「大地主義」への深い理解がすでに現れているように思われる。

 

四、小林秀雄の『虐げられた人々』理解と映画《赤ひげ》

 『虐げられた人々』においては「庭園の向こう側には、鬱蒼とした大きな森」があったことが描かれていたが、「大地主義」の時期の代表的な作品である『罪と罰』では、本編におけるペテルブルグの「壮麗な眺望の謎」に対応するように、シベリアにおける「鬱蒼(うっそう)たる森林」の謎も読者の前に呈示されていた。

  映画《夢》の分析において詳しく考察することになるが、この「鬱蒼(うっそう)たる森林」の謎を理解したことが、『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフの精神的な「復活」へとつながることが『罪と罰』では示唆されている。

  しかし、今もドストエフスキー論の「大家」と見なされている文芸評論家の小林秀雄は一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、『罪と罰』の「第六章と終章とは、半分は読者の為に書かれたのである」と書いて、ラスコーリニコフの「復活」を否定していた(『小林秀雄全集』第六巻、新潮社、一九六七年、五三頁。引用に際しては、旧漢字は新し漢字になおした)。

 このような小林秀雄の理解には、ドストエフスキーが『地下室の手記』(一八六四)で「かつて、自分が拝跪していたものを…中略…泥の中に踏みつけてしまった」と記し、ニーチェとともにドストエフスキーを「理性と良心」を否定する「悲劇の哲学」の創造者と規定したシェストフからの強い影響があるだろう(拙著、『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、二〇〇二年、一二六頁参照)。

  しかも、ドストエフスキー自身は『虐げられた人々』について、後に次のような厳しい評価を下していた。

 「『虐げられし人々』の時もさうだつた。雑誌には是非長篇が要る。何を置いても成功させねばならぬ。そこで僕は四部から成る長篇を一つ提供したわけだ。プランはずつと前から出来てゐるから、わけなく書けるし、第一部はもう書き上げてあるなどと言つて兄を安心させてゐたが、みんな出鱈目だつた。僕は金が欲しくて働いたのだ。僕の小説中に動いてゐるのは人形であつて、生き物ではない」。

 『地下室の手記』によって前期と後期のドストエフスキー作品との間に深い断層を見たシェストフの見解を受け入れていた小林秀雄は、「ドストエフスキイの生活」で作家自身の言葉を引用することで、『地下室の手記』以前に書かれた『虐げられた人々』も失敗作とみなした。その一方で、ドストエフスキーを「理性と良心」を否定した作家と見なした小林は、『白痴』論では「たゞ確かなのはこの時ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」とし、ナスターシヤを「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定したのである(「『白痴』についてⅠ」)。

 たしかに、急いで書いたこともあり、主人公のイワンをはじめ多くの人物造形がそれほど成功裏に描かれているとは言えないだろう。しかし、ドストエフスキーは謙遜的に記してはいるものの、この小説では幼いながらも高い誇りを持った虐げられた少女ネリーの形象がきわめていきいきと描かれていたばかりでなく、大地主の横暴さや法律の問題など当時の問題を浮き彫りにしており、ここで提起された多くの問題は『罪と罰』以降の長編小説で深められており、ことに『白痴』では誇り高い少女ネリーとナスターシヤの間にはあきらかな連続性が認められるのである。

 しかし、映画《白痴》が一九五一年に公開された翌年の一九五二年から「『白痴』についてⅡ」を書き続けた小林は、長い間中断した後で一九六四年に付け加えた第九章では長編小説の結末について次のように記した。

 「作者は破局といふ予感に向かつてまつしぐらに書いたといふ風に感じられる。『キリスト公爵』から、宗教的なものも倫理的なものも、遂に現れはしなかった。来たものは文字通りの破局であつて、これを悲劇とさへ呼ぶ事はできまい」。そして小林は、「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだろう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである」と続けていたのである(傍線引用者、三三九~三四〇頁)。

 このような小林の断定的な解釈について、私はエッセー「『不注意な読者』をめぐって」で、この時小林秀雄が強く意識していたのは、名指しをしてはいないが、映画《白痴》で病んだナスターシヤを看護しようとしたムィシキンに光をあてながら長編小説『白痴』の映画化をしていた黒澤明監督である可能性が高いという仮説を記した(『ドストエーフスキイ広場』、第二二号)。

 誌面の都合上、詳しい理由を記すことはできなかったが、私が注目したのは映画《白痴》を撮った黒澤明監督による映画《赤ひげ》の制作開始記念パーティが一九六三年一〇月六日に行われていたことである(『大系 黒澤明』第四巻、八二〇頁)。

 様々な事情のために映画《赤ひげ》の撮影は大幅に延びて、公開は一九六五年四月三日になったが、『虐げられた人々』の少女ネリーの形象が採り入れられているばかりでなく、精神的な医師としてのムィシキンの精神を受けついでいるとも思える医師「赤ひげ」とその若い弟子を主人公にした映画のことは、小林秀雄の耳にも入っていたと思える。

 自分の『白痴』論を真っ向から否定するような映画《白痴》を撮った黒澤明監督による新しい映画の公開が、自分のドストエフスキー論の土台を覆す危険性を含んでいることを敏感に感じた小林秀雄が、「不注意な読者」を批判する断定的な文章を加えて、急遽『白痴について』(角川書店、一九六四年)を上梓したのではないかと私は考えている。

 小林秀雄の『白痴について』を批判する評論を黒澤明監督は書いてはいない。しかし、一九七五年にロシアで撮った映画《デルス・ウザーラ》が日本で公開された後で、若者たちと行った座談会で黒澤明監督は、「小林秀雄もドストエフスキーをいろいろ書いているけど、『白痴』について小林秀雄と競争したって負けないよ」と語っているのである(黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、二八八頁)。

 このような発言にはロシアで映画を撮ることになったことで、黒澤映画《白痴》をきわめて高く評価するとともに、自分でも映画《罪と罰》(一九六九年)を撮っていたクリジャーノフ監督などととの会話をとおして、自分の『白痴』理解の正しさと「大地主義」の時期の重要さを再確認したためと思われる。

 ただ、それはすでに新しいテーマなので稿を改めて書くことにしたい。

 

 (本稿は『黒澤明と小林秀雄――長編小説『罪と罰』で映画《夢》を読み解く』と題して来年の三月に発行する予定の著作の第四章〈映画《赤ひげ》から《デルス・ウザーラ》へ――黒澤明監督と「大地主義」〉(仮題)に収録する予定である)。

映画《白痴》から映画《生きる》へ

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(映画《生きる》の「ポスター」、製作:Toho (c) 1952。図版は「ウィキペディア」による)

 

映画《生きる》とイッポリートの可能性

長編小説『白痴』において重要な役割を果たしているイッポリートについてのエピソードは映画《白痴》ではまったく描かれてはいない。しかし、その翌年に公開された映画《生きる》(脚本・黒澤明、橋本忍、小國英雄)について、黒澤は「しみじみと感情を堪えて」というエッセーでこう書いている。

 「ぼくはときどき、ふっと自分が死ぬ場合のことを考える。すると、これではとても死に切れないと思って、いても立ってもいられなくなる。もっと生きているうちにしなければならないことが沢山ある。僕はまだ少ししか生きていない。こんな気がして胸が痛くなる。《生きる》という作品は、そういう僕の実感が土台になっている。この映画の主人公は死に直面してはじめて過去の自分の無意味な生き方に気がつく。いや、これまで自分がまるで生きていなかったことに気がつくのである。そして残された僅かな期間を、あわてて立派に生きようとする。僕は、この人間の軽薄から生まれた悲劇をしみじみと描いてみたかったのである」。

 このような黒澤の言葉に注意を払うならば、体調を壊して病院に行ったことで隣り合わせた人物から胃癌の詳しい症状を聞かされ、自分の余命がほとんどないことを知って、「死刑の宣告」を受けたように苦しむ定年退職前の市民課の課長・渡辺の苦悩と、新しい生きがいを見つけた喜びをモノクロのトーンでしっくりと描いた映画《生きる》は、長編小説『白痴』におけるイッポリートのテーマを受け継いでいると思える。

 実際、子供のためだけに三〇年も務めてきた自分の人生を振り返って自暴自棄になり、やけ酒を飲んでは無断欠勤を繰り返すようになった渡辺は、飲み屋で知り合った小説家から、「人間、生きることに貪欲にならなくちゃ駄目です」と説得されて、ダンス・ホールやストリップ劇場などを案内されたが、いっこうに癒されずに深い絶望感を味わう。

 しかし、自宅へと朝帰りをする途中で、市役所を辞職したいので急いで判がほしいという若い部下のとよと出会い、自宅で書類に判を押した渡辺は、市役所が退屈だったと語る部下が、自分にも密かに「ミイラ」というあだ名を付けていたことを知って思わず久しぶりの笑いを浮かべた。そして、イッポリートが美しく生命力にあふれたアグラーヤに密かに強い関心を抱いていたように、とよの生き生きとした姿に強く惹かれた渡辺も彼女を映画館や食事に誘うようになる。

 自分との付き合いにしか喜びを見いだせない渡辺にとよは、自分が工場で作っているウサギのおもちゃを喫茶店で渡して「何か作ってみたら」と諭した。するとしばらくそれを手にとって見つめていた主人公は、不意に「やる気になればできる」とつぶやき、おもちゃを手にとって急いで階段をおり始める。その時に、退出する男の後を追うように、若者たちの陽気なハッピー・バースデイの合唱が始まり、階段を登ってくる若い乙女とすれ違うのである。

 この場面で響く乙女の誕生日を祝う若者たちの陽気な歌声は、それまで市役所での仕事を嫌々こなしてきた「ミイラ」のような初老の男が、あたかも「復活」して真に生き始めるのを祝福する歌のように感じられるのである。前年度に撮られた《白痴》における前半の山場が、精神的な復活を計ろうとしていた妙子(ナスターシヤ)の誕生祝いだったことを思い起こすならば、続けて撮られた二つの映画の類似性は明らかだろう。

 しかも、《生きる》の後半では、葬儀の会葬者たちの会話をとおして、亡くなった市役所の課長が「胃癌と闘いながら」、市民たちの強い願いでありながら官僚的なたらい回しにあっていた公園の建設に邁進して、それを成し遂げていたことが明らかになってくる。

 警官の証言では公園で行き倒れのように亡くなっていたと思われていた男が、雪の降る公園で「命短し、恋せよ乙女」という歌をブランコにのって、しみじみと満足そうに歌っていたことが明らかになる。すると通夜の席で課員たちは次々と「僕も生まれ変わったつもりで」などと語り、改革への意欲が盛り上がったのだった。

 しばらくするとその時の興奮と感激を忘れたかのように職員たちが再び惰性に流された仕事ぶりに戻っていく。課長の遺志を継ごうとしながらもそのような職場にむなしさを感じていた一人の職員が、渡辺の行動で実現した公園に行く。そこで楽しげに遊ぶ子供たちの姿を見つけて、彼が渡辺のしたことの意義を感じるところで映画は終わるのである。

 こうして、なかなか「他者」からは理解されなかった主人公の行動の描写や、部下たちの「記憶」が重ね合わされることで、生前の渡辺の意義が浮かび上がってくるという映画《生きる》の構造は、映画《白痴》のエピローグにおける薫と綾子の「記憶」をめぐる会話を強く思い起こさせる。

 このように見てくるとき、映画《生きる》において黒澤が描いたのはイッポリートが望みながら死期を告げられたことで断念してしまった「他者を変え、そして生かす思想」の実現であるといっても過言ではないと言えるだろう。

 

『黒澤明で「白痴」を読み解く』、成文社、2011年、272~275頁より。なお、前の文章との関連を示すために言葉を補い文体を少し直した他、注は省略した)。

現代の日本に甦る「三人姉妹」の孤独と決意――劇団俳優座の《三人姉妹》を見て

久しぶりにチェーホフの《三人姉妹》を劇団俳優座で見た。

案内状によれば、劇団俳優座の10年ぶりの上演となるこの《三人姉妹》の「舞台はロシアではなく、ある施設」で、「そこに入居している老婦人たちは毎日のように『三人姉妹』を読み、彼女たちはその世界に魅入られ、迷い込んでいく……」という設定であった。

しかも、百名ほどの観客で満席となる五階稽古場での上演ということもあり、広い空間を吹き抜けていく風の雰囲気さえも伝わるような演出によるロシアの劇の舞台と比較しながら、ソファーや机が置かれ、ラジオが鳴っているだけの幕もない小さな舞台を見下ろして、どのような劇になるのかとの不安を抱きつつ開演の時を待った。

*    *   *

思い込みが強すぎると笑われそうだが、私がイリーナの「名の日」から始まる『三人姉妹』に強い愛着を感じているのは、ドストエフスキーの長編小説『白痴』で描かれたエパンチン家の三姉妹の孤独のテーマがそこにも響いていると感じるからである。

たとえばイリーナからは愛されていないことを知りつつも、彼女を誠実に愛し続けようとしたトゥーゼンバフ男爵が、働いて生活するために軍人を辞めて背広を着て現れたときのことがこの劇で語られている。そのエピソードはアグラーヤの有力な花婿候補だった貴族のエヴゲーニイが軍服から背広に着替えて現れ、エパンチン家の三人姉妹から可笑しがられていたことを思い起こさせる。

イリーナの花婿となるはずだったトゥーゼンバフ男爵は、レールモントフを気取る軍人のソリョーヌイに決闘で殺されることになるが、『白痴』では決闘のことがたびたび話題となっているばかりでなく、決闘を描いたレールモントフの小説が重要な役割を果たしていたのである。

「ひょっとすると、わたしたちだって、さも存在しているように見えるだけのことで、じつはいないのかも知れない」(神西清訳、新潮文庫)と語る酔っ払いの医師チェブトイキンには、大嘘つきのイーヴォルギン将軍の面影が感じられる。

さらに、ロシアの混乱を象徴するような第三幕の大火の場面からは、『白痴』の後で書かれた『悪霊』のシーンさえ浮かんでくる。混迷のロシアに生きる三姉妹を主人公としたチェーホフの劇は、「60代の女優陣を中心に起用」された俳優座の劇でどのように演じられるのだろうか。

*    *   *

舞台では医師や看護婦と思われる白い服を着た俳優たちが、新聞を読んだり、普段の会話を交わしたりしていたが、それぞれの扉をパッと開けて「三人姉妹」とナターシャを演じる女性たちが入ってきた時から、雰囲気が一気に変わった。

かつて暮らしたモスクワでの生活にあこがれながらも、地方都市の単調な暮らしに埋もれていく若い三人姉妹の4年間の歳月が戯曲では描かれているが、劇《三人姉妹》は時代や場所を約百年後の日本に移しながらも、原作で描かれた登場人物の台詞や性格を忠実に活かしている。

レールモントフを気取る軍人のソリョーヌイの形象や台詞は、現代の日本人の観客には伝わりにくいと思われた。しかし、病院のありふれた情景や衣服をとおして描かれることで、自分が愛して言い寄っていたイリーナから振られるとストーカーのようにつきまとい、ついには結婚の決まっていたトゥーゼンバフ男爵にいちゃもんをつけて喧嘩をしかけて殺してしまうソリョーヌイからは、現代の日本でも見られる自己中心的な若者像が浮かび上がってくる。

ドストエフスキーは『地下室の手記』で言葉や理想への強い懐疑を抱くようになった主人公の孤独と苦悩を描き出していたが、劇《三人姉妹》でも登場人物たちの会話から成立している戯曲であるにもかかわらず、彼らの会話はしばしばかみあわず、それぞれの人物たちの孤独を担った重たい言葉の多くは、モノローグのように空しく虚空に消えていく。

しかし、おそらくそれゆえに、互いの孤独な言葉がまれに出会った際には見えない火花が散り、登場人物を行動へと促すような迫力さえも持ち得るのである。

ここではそれぞれの役柄について詳しく考察する余裕はないが、責任感が強く校長をひきうけることになるオーリガや恋するマーシャをはじめ、端役の乳母や守衛に至るまで役柄は深く彫り込まれており鮮明であった。

ことに、3姉妹の兄アンドレイに見初められて結婚した農民出のナターシャが次第に家の実権を握って、ついには老いた乳母を役立たずとののしって追い出そうとする場面は、現代日本の光景とも重なるような迫力をもっていた。

劇中ではロシアの歌の代わりに日本の歌が取り入れられていた。その時代に流行った歌は観客の生きた時代をも想起させる力を持っているので、その場面にあうように適切に選ばれた曲も、この劇を日本の劇として違和感のないものとするのに大きな役割を果たしていたと思える。

こうして、大がかりな舞台装置もない小劇場で、現代の日本のありふれた衣装で演じられることにより、この劇は『三人姉妹』という作品の現代性を鮮烈に浮かび上がらせることに成功していたのである。

*     *   *

見終わったあとでは、俳優たちが百年後の世界について語るチェーホフ劇『三人姉妹』が、森一の演出で見事に百年後の日本で甦ったという感慨を持った。三人姉妹のきわめて困難な状況を描きつつも、最後の場面では彼女たちの「生き抜く」覚悟と決意を描いたチェーホフ劇の現代的な意義をこの劇は示していると思う。

残念ながら、六本木での上演はすでに終わったが、都心での優雅な暮らしにあこがれつつも、原発事故の影響に今も苦しめられる地方都市や、過疎化などの過酷な状況下で生活している地方の人々のためにこの劇が上演され続けることを望みたい。

モスクワの演劇――ドストエフスキー劇を中心に

はじめに

今回は私が留学生の引率として1985年6月から10ヵ月間モスクワに滞在した時に見た演劇について記します。演劇の専門家ではないので、モスクワの演劇の全体像を描き出すことはできませんので、ここではドストエフスキー関係の劇を中心にモスクワ演劇の動向を簡単に紹介します。

一、

モスクワの演劇のレパートリーで、まず私の目を惹いたのは、想像以上に古典物が多く演じられていることであった。チェーホフの作品は相変わらず、人気が高いのは当然であるが、この他にもアレクセイ・トルストイの歴史劇、レフ・トルストイの三部作(この内『死せる屍』は三つの劇場で上演されていた)が演じられていた。また日本ではほとんど知られていないが、レフ・トルストイやチェーホフへの道を開いたA・オストロフスキーは18本の戯曲が上演され、しかもそれらの何本かは、同時に二箇所の劇場で演じられていた。

それとともに古典小説の劇化もまたかなり積極的になされていることが私の興味を惹いた。少し振り返っただけでもトルストイの『アンナ・カレーニナ』や、『クロイツェル・ソナタ』、ツルゲーネフの『その前夜』などが浮かんで来る。その他レスコフやシチェドリンの作品もまたレパートリーを飾っている。そしてもちろんドストエフスキーもその例外ではない。

私が大学院生の時に留学の機会を得て初めてソヴィエトを訪れた時、モスクワでは、ドストエフスキーの劇はザワートスキイの『ペテルブルクの夢』(『罪と罰』に基づく)が大当たりし、エーフロスの『兄弟アリョーシャ』(『カラマーゾフの兄弟』に基づく)が話題を呼んでいた。また『ステパンチコヴォ村とその住民』がモスクワ芸術座に掛かり、小さなスタジオでは『貧しき人々』が二人だけで演じられていた。

これらの劇ことに『ペテルブルクの夢』は、予想に反して私に強い印象を与えた。それまで小説の映画化などで原作が損なわれるのを何回も見てきた私は、あまり劇に期待をかけてもいなかったのだ。だがザワートスキイは、巧みな演出と鋭い問題意識で観客の心を捉え、それまでドストエフスキーの孤独な読者であった私は、見知らぬ多くの観客達と共通の気分に浸りながら、このような形でのドストエフスキーの受容もありえることを再確認していた。

確かに劇化や映画化に際しては、原作の著しい短縮は避けられえず、それゆえ原作を損なうこともありえる。だが演出家が深く作品を理解し、その主題を鋭く提示するとき、小説は舞台においてもそのリアリティーを主張しえるのである。そして私はその後、ドストエフスキー自身が若い時、演劇に凝り、戯曲を書き、自分でも演じたことがあることを知った。私のドストエフスキー理解には大きな欠落があったのである。

私が日本に帰ってからモスクワの舞台では、リュビーモフの『罪と罰』や、フォーキンの『俺も行く、俺も行く』(『地下室の手記』と『おかしな男の夢』に基づく)が人間存在の根底に迫る鋭い演出でソヴィエト演劇の枠を大きく広げた(なお、これらの劇に関しては、ルドニーツキイの論文「理念の冒険」に詳しい。残念ながら、リュビーモフはあれからモスクワを去り、以上の劇の内で現在も演じられているのは、『ペテルブルクの夢』一本になってしまった。

だが、ソヴィエト演劇界におけるドストエフスキーの受容は留まることなしに、これまでの成果を踏まえながら、更に新たなる模索をしているといえよう。たとえばモスソヴィエト劇場ではザワートスキイの業績を受け継いだホームスキイの『カラマーゾフの兄弟』が、十年以上のロング・ランを続ける『ペテルブルクの夢』と並んで上演されている。タガンカ劇場では『空想家の手記』(『白夜』と『地下室の手記』に基づく)が初演されており、モスクワ芸術座では『おとなしい女』が、そしてソヴィエト軍劇場の小舞台では『白痴』が演じられている。

二、

モスクワの友人がこの頃劇場の券を手に入れるのが大変むずかしくなったと言った。何故かと問うと恐らくテレビに飽きたらなくなって劇場に来る人々が増えたのだろうと言う。確かにモスクワの劇場は券が安いこともあって(高いものでも七〇〇円位)求め易く、少しよい劇になると、なかなか手に入らず、チケット売り場を求め歩いてもらちがあかず、キャンセルを期待して二時間程前から劇場の前に並ぶことになる。だが驚くべきことには、そこにも既に例の行列ができており、何枚でるかわからない券を延々と待っているのだ。ただこの行列だけは特別で元来劇好きの者ばかりが並んでいるので時には話に花が咲いたりもする。そして苦労して出会った劇との対面には感慨も深いのである。

大きな劇場が、最近いずれも小舞台を別に持つようになった理由の一つは、このような観客数の増加もあるだろう。だが演劇人に語らせると、小舞台の流行は、単に量の問題から来るのではなく、質の問題とも深く関わっていると言う。すなわち小舞台では多少、実験的なこともでき、そこで成功したものを大舞台に懸けることもできる。そしてそれとともに小舞台では俳優と観客の間に距離的なものから来る一種の緊張感も生まれるのだ。

ソヴィエト軍劇場における『白痴』もそうした劇の一つである。期待が大き過ぎただけに劇を見た後は、軽い失望感に襲われたが、それでもこの劇も小舞台の長所を生かしていたとは言える。例えばナスターシヤ・フィリポヴナの提言で、彼女の家に集まった面めんが、誰にも言えなかった心の秘密を語る場面では、単に舞台の上のことではなく観客の一人一人に問いかけるだけの鋭さを有していた。

同じことがタガンカ劇場の旧舞台で演じられた『空想家の手記』にも当てはまる。ここでも場内の空間的狭さは、欠点とはならず、舞台と観客とを結び付ける働きをしている。この劇は一見まったく異なっているように見える二つの作品を空想家という共通項によって統一したものだが、演出家はロマンチストと絶望者という全く相反する二人の主人公を、彼らの分身を登場させることによって説得力豊かに結び付けている。例えば、劇中で女主人公達が語る次のような言葉は、二人の主人公の同質性をまざまざと証明している。

「だって、あなたのお話はまるでご本でも読んでいらっしゃるようなんですもの」(『白夜』)、「あなたはなんだか……まるで本でも読んでいるような話し方をするんですもの」(『地下室の手記』、ともに米川正夫訳)。

さらにリュビーモフは劇『巨匠とマルガリータ』(ブルガーコフ作)や、トリーフォノフの『交換』において、悪魔や黒い服を着た仲買人の口をとおして、今あなた方は物質的には多少豊かになったかもしれないが、精神的にはどうかという鋭い問いを発していた。

そして、『空想家の手記』でも黒い服を着た分身も盛んに観客に話しかけてはいたが、残念ながらこの分身はことに第一部の『白夜』においては劇から浮いて、ロマンチックな恋を冷ややかに見つめる解説者に成り下がっていた。発想がユニークなだけに突っ込みの足りなさが惜しまれた。

モスクワ芸術座(支部)で演じられた『おとなしい女』は以前レニングラードで上演されていたものだが、主演のボリ-ソフのモスクワ移転に伴ってモスクワでも見られるようになった。

この劇も又、小舞台的な、と言うよりも、小舞台向きの劇だと思える。舞台は妻の自殺の場面が、観客に息を飲ませる位で、他には特に凝った装置はない。しかし初めはぼそぼそとしたボリーソフの声は、次第に力が入り、時には彼の話を直に聞かされていると錯覚する程の迫力を帯びた。

ところで私はこの劇場を見終わってから、なぜか劇『クロイツェル・ソナタ』を思い起こし、これらの劇が今モスクワの劇場で上演されることに興味を覚えた。周知のように『おとなしい女』は、自殺した若い妻の遺骸の脇での高利貸しの男の考えを記したものであり、トルストイの『クロイツェル・ソナタ』もまた妻との精神的つながりを失い、嫉妬から彼女を殺した中年の男の告白である。これら両作品に共通しているのは、愛と性にたいする根本的な反省と洞察であると言えよう。これらの作品の劇化は、離婚が頻発するなかで新しい家族像を模索するソヴィエト社会を反映しているように思える。

三、

モスソヴィエト劇場で演じられた二つの劇は、大舞台のよさを十二分に生かしていた。『ペテルブルクの夢』では、舞台後方に金貸しの老婆が住む古びた建物が再現され、ラスコーリニコフの殺人に至る場面や逃走の場面では、実際に彼が階段を登ったり降りたりする状況がリアルに描かれ、緊迫感を盛り上げている。だがそれとともにザワートスキイもまた観客を単なる観客としてほおってはおかず、事件の目撃者に引きずりこむ。劇が始まる前に、真っ暗な場内に左右から差し込んだ光は、舞台ではなく観客席の真ん中に突き刺さる。舞台に現れたラスコーリニコフも、また舞台には留まらずに、丁度花道のように作られた道を通って、観客席の六列目まで入り込み、そこで自分の考えを述べるのである。更に殺人を犯す前にも彼は観客席に入り込み、そこで隠されていた斧を取り出す。こうししてザワートスキイは緊迫した劇づくりで観客を引き付け、彼らの前にラスコーリニコフの犯罪を暴露するのである。

ホームスキイの『カラマーゾフの兄弟』では、観客は客席に足を踏み入れた途端に劇の世界に入り込むことになる。すなわち舞台には既に居酒屋が存在し、そこでは或る者はギターを弾き、他の者は女を膝に抱いて口説いているのである。そしてホームスキイは、ザワートスキイの問題意識を更に押し進め、スメルジャコフにかなり焦点をしぼって殺すことの意味を問うている。

 舞台作りの上ではザワートスキイが最後のエピローグでは、たぎる霧の中に巨大な十字架をあたかも世界の救済のごとくに浮かび上がらせ、観客をあっと言わせたが、ホームスキイは、居酒屋の場面を一転させて僧院の一室に変えた。するとそれまで天井を形成していたすのこ状の板が半回転して壁となり、そこにはキリストを抱いたマリアの像が無彩色で描かれていた。少なくともこれらの劇を見た範囲では、ソヴィエトにおいても単に宗教を否定するのではなく、そのよい部分は吸収しようとする新しい流れを感じた。

なおこのことに関連して思い起こされるのは、ドストエフスキーの作品による劇『俺も行く、俺も行く』を演出したフォーキンの『語れ』である。この劇は党の在り方を問題にしているのだが、終わり近くで上からの指導を批判し、下からの意見がなければだめだと主人公に語らせながら、最後に相変わらず十年一日のごとくに決まりきった報告書を読みあげる女性のノートを取り上げ、「(自分の声で)語れ」と言った時には、観客の熱い共感が湧き起こった。これまでこのエルモーロワ劇場の券はほとんどいつでも取れたのだがこの劇については、券を手に入れるのがむずかしかった。また今回は見ることができなかったのだが、ロック・ミュージカルなどで若者達に絶大な人気を持つレン・コンソモール劇場が、『良心の独裁』を初演している。この劇は今モスクワで最も人気のある劇の一つであり、ここでは『悪霊』のスタブローギンが登場し、良心の在り方が問題になっているとのことである。

ドストエフスキー研究者のグラーリニクは、その論文で「ドストエフスキーを克服する」のがかつての課題であったが、今では「ドストエフスキーを理解する」ことが必要であると述べ、カリャーキンも『罪と罰』を分析しながら、「どんな『良心』も『知性』を欠いては、あるいはどんな『知性』も良心を欠いては、世界を理解し、改造することはできない」と結論しているが、極めて間接的ではあるが、これらの劇もまた現在のソヴィエトにおけるドストエフスキーの受容を物語っているように思える。

こうしてソヴィエトにおいてもドストエフスキー理解の深まりは、直接的に劇にも反映しドストエフスキー劇以外の劇にも影響を及ぼしていると言えよう、ソヴィエトのドストエフスキー劇がどのような地平を開くのかこれからも注意深く見つめたいと思う。(本稿では肩書きは省略した)。

初出は『人間の場から』第9号、1987年11月1日。その後『ドストエーフスキイの会 会報』第103号、1988年、および『場 ドストエーフスキイの会の記録』Ⅳに再掲。HPへの掲載に際しては人名と国名表記を一部変更した)。