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『坂の上の雲』

改竄(ざん)された長編小説『坂の上の雲』――大河ドラマ《坂の上の雲》と「特定秘密保護法」

 

二〇一一年の一二月に、長い歳月をかけて撮影され三年間という長い期間にわたって放映されたスペシャル・ドラマ『坂の上の雲』が終了した。

 莫大な予算をかけて制作されたドラマのクライマックスにあたる旅順の攻防や日本海海戦のシーンは壮大で目を見張るものがあり、また戦争の悲惨さの一面も伝えられていた。

 私は毎回は見ていなかったのでよい視聴者とは言えないが、それでも『坂の上の雲』についての研究書を書いた者の責任として、重要な場面が放映される回は見たし、終わりの頃の数回は欠かさずに見た。

最終回を見終わって思いだしたのは、『坂の上の雲』を「なるべく映画とかテレビとか、そういう視覚的なものに翻訳されたくない作品」であると語り、その理由を「うかつに翻訳すると、ミリタリズムを鼓吹しているように誤解されたりする恐れがありますからね」と説明していた司馬遼太郎の言葉である(司馬遼太郎『「昭和」という国家』、NHK出版、一九九八年、三四頁)。

 

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  強い違和感を覚えたのは、原作に付け加えた「子規庵点描」のシーンで、英国から帰国した夏目漱石に軍人となった秋山真之を讃えさせているところから完結に至るシーンであった。たとえば、「ポーツマス講和条約」のシーンでは、「坊さんになって戦没者を供養せにゃならん」とまで苦悩した真之が、子規の墓参をした後で、兄の好古と釣りをした際に「おまえはよくやった」と慰められるという場面が付け加えられている。

 一方、原作では戦後に秋山真之が「人類や国家の本質を考えたり、生死についての宗教的命題を考えつづけたりした。すべて官僚には不必要なことばかりであった」と司馬氏は書いていた。前述のシーンが付け加えられることで真之の苦悩の深さや戦争についての本質的な考察が和らげられてしまっていると思える。

 さらに、原作の構造との決定的とも思えるような違いは、この後でナレーターによって全六巻からなる単行本『坂の上の雲』の第一巻の「あとがき」に記されている次のような司馬の文章が朗々と読み上げられたことである。

 「維新後、日露戦争までという三十余年は、文化史的にも精神史のうえからでも、ながい日本歴史のなかでじつに特異である。/これほど楽天的な時代はない。/ むろん、見方によってはそうではない。庶民は重税にあえぎ、国権はあくまで重く民権はあくまで軽く、足尾の鉱毒事件があり女工哀史があり小作争議がありで、そのような被害意識のなかからみればこれほど暗い時代はないであろう。しかし、被害意識でのみみることが庶民の歴史ではない」(下線引用者、司馬遼太郎『坂の上の雲』、単行本第一巻、文春文庫では第八巻)。

 そして、このナレーションはドラマの冒頭で毎回示される松山城の坂道を駆け上る若い主人公たちの姿とも重なり、視覚的な効果を生んでいた。それゆえ多くの視聴者は、長編小説『坂の上の雲』では戦争をも厭わなかった「日本人の気概」や「明治の栄光」が描かれていると理解したと思える。

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  注意を払わねばならないのは、この「あとがき」のある第一巻で描かれていたことと、第五巻以降で描かれている内容が大きく異なることである。

 すなわち、第一巻では江戸幕府の崩壊後に賊軍とされた松山藩士の息子として生まれたために、銭湯の風呂焚きや助教などをしつつ苦学して、士官学校に入って頭角を現した秋山好古や、兄の経済的な援助によって上京し、正岡子規といっしょに学んだあとで無料で学べる海軍兵学校に入って学ぶようになる秋山真之などの若々しい青春時代が描かれていた。

 一方、単行本第五巻の「あとがき」で「少年のころの私は子規と蘆花によって明治を遠望した」と記し、日露戦争の終結後に徳冨蘆花(一八六八~一九二七)が日露戦争の際に反戦論を唱えていたトルストイを訪ねていることを紹介した司馬は、次のように記していた。

 「明治十年代から日露戦争にいたる明治のオプティミズムはたしかに特異な歴史をつくりえたが、しかしどの歴史時代の精神も三十年以上はつづきがたいように、やがて終熄期をむかえざるをえない。どうやらその終末期は日露戦争の勝利とともにやってきたようであり、蘆花の憂鬱が真之を襲うのもこの時期である」(下線引用者、文春文庫、第八巻、「あとがき五」)。

 つまり、スペシャル・ドラマ『坂の上の雲』の最終回にナレーターによって読み上げられた文章は、司馬自身のものではあってもまったく違う時代についての記述が引用されていたのである。

 そのことは『坂の上の雲』の主人公の一人であり、『歌よみに与ふる書』で「歌は事実をよまなければならない」と記した正岡子規の精神をも侮辱するものであるといえるだろう。

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  大河ドラマ《坂の上の雲》におけるナレーションは、「庶民は重税にあえぎ、国権はあくまで重く民権はあくまで軽く、足尾の鉱毒事件」があっても、「国民」は国家に尽くしたことが「明治の栄光」につながったと視聴者に錯覚させる結果になり、それは選挙における自民党の勝利にも影響を与えたとさえ思える。

  「原作の改竄」の問題は現在にまで影響しており、多くの国民が今も「庶民は消費税にあえぎ、国権はあくまで重く民権はあくまで軽く、福島第一原子力発電所の大事故とその後の事態に苦しんでいても」、「国民」が国家に尽くすことが「平成の栄光」につながると錯覚していると思えるのである。

  多くの国民が安くない視聴料を払って楽しむとともに正確な報道を期待しているNHKに、自分たちのイデオロギーにあったような番組を強要する安倍政権には、「特定秘密保護法案」を提出する資格には欠けると思えるがどうだろうか。