高橋誠一郎 公式ホームページ

《生きものの記録》

映画《この子を残して》と映画《夢》

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(長崎市に投下されたプルトニウム型原爆「ファットマン」によるキノコ雲。画像は「ウィキペディア」)。

 

映画《この子を残して》と映画《夢》

 映画《生きものの記録》が「第五福竜丸」事件を契機に製作されたことについてはすでにふれたが、その約二ヵ月前には「原子力潜水艦ノーチラス号」の進水が行われており、間もなくソ連でもそれに対抗するために「原子力潜水艦Kー19」の製造に成功するなど、「核技術」の戦争兵器への応用が各国において進められた。

 こうして、多くの科学者が「国益」の名のもとにその開発に従事するようになり、一九六二年のキューバ危機では地球が破滅するような核戦争が勃発する危機の寸前にまでいたることになる。

 さらに、一九七九年には「原子力の平和利用」というスローガンのもとに建設されたスリーマイル島の原発で大事故が起き、核兵器と同じ原理で成立している原子炉の危険性が再びクローズアップされることとなった。

 木下恵介監督が長崎で原爆に遭った自分たち家族のことを描いた医師・永井隆の『この子を残して』の映画化を決意するのは、このような時代の流れとも深く関連しているだろう。

 注目したいのは、この時は黒澤監督が「原爆映画は、被爆者以外には他人ごとだ、客なんか来やしない」と映画化の企画に反対していたことである(1)。この言葉からは《生きものの記録》の失敗が骨身にこたえていたばかりでなく、そのような映画をとおして「現実」をきちんとみつめようともしない「観客」に対する強い不信感も感じられる。

 しかし、一九八三年に公開された映画《この子を残して》(脚本・木下恵介、山田太一)は、原寸の三分の二の縮尺で浦上天主堂を建て直し、町並みも忠実に再現した大オープンセットで映画を撮影することにより、失われたものの大きさと悲しみを映像をとおして視覚的に描き出すことに成功している(2)。しかも、広島に原爆が落とされたという噂が入ってくるようになった終戦直前の八月七日の日常的な生活から描くことで、市民の生命と平和な生活が一瞬にして奪われることの悲惨さを明らかにしている。

 この映画ではさまざまな人々の悲しみが描かれているが、ことに自分の娘(十朱幸代)の死を孫たちに告げることをためらっていた祖母のツモ(淡島千景)が、孫の誠一とともに被爆地で娘の骨を拾う場面からは、深い悲しみが伝わってくる。

 *   *   *

  実は、『長崎の鐘』や『この子を残して』書いた医師の永井隆氏が、自らも被爆しながらも病人を献身的に治療していたことは以前から知っていた。

 それらの著作を私が読んでいなかったのは、「神は戦争を終結させるため、あなた方の命を犠牲として求められたのです」と語ったという言葉をどこかで読んで、戦争の問題を「神」のせいにすることはおかしいと強い反発を感じたためだと思える。

 しかし、木下恵介監督の映画《この子を残して》は、永井隆という医師の内面にも深く関わるこの問題にも迫りえていた。すなわち、合同慰霊祭の時に信者代表として永井隆が先の文章を弔辞で読むと、信者たちから「異議あり!」との鋭い怒りの声が飛ぶ場面が描かれていた。

 しかも、このテーマはそこで終わったのではなく、映画の終わり近くで孫・誠一の教育のことで隆と義母のツモが言い争う場面と密接につながり、言いたいことがもう一つあると続けたツモは、すでに負け戦なのが分かったあとも戦争を続けて沖縄だけでなく広島・長崎の犠牲者を生んだのは戦争の遂行者たちの罪であると語って、合同慰霊祭の時の隆の弔辞を批判するのである。

 娘の緑だけでなく多くの近親者を失っていた祖母ツモの戦争責任に関する発言は重く、それは戦争を推進していた高級軍人や政治家だけでなく、威勢のよい発言で国民を戦争へと駆り立てる一方、敗戦後のことには責任を持とうとしなかった林房雄や小林秀雄などの「知識人」にも関わるだろう(3)。

 *   *   *

  拙著では「盟友・木下監督がこの映画を公開したことが、黒澤監督に映画《夢》だけでなく、その翌年に封切られた映画《八月の狂詩曲(ラプソディー)》(原作・村田喜代子『鍋の中』、脚本・黒澤明)》の製作を決意させたようにも思える」と書き、長崎の被爆をテーマとした映画《八月の狂詩曲(ラプソディー)》の内容を簡単に紹介していた。

 なぜならば、この映画でも夏休みに長崎を訪れた孫たちの眼をとおして、原爆によって夫を失った祖母の深い悲しみと怒りがたんたんと描かれていたからである。

 ただ、「すでに負け戦なのが分かったあとも戦争を続けて沖縄だけでなく広島・長崎の犠牲者を生んだのは戦争の遂行者たちの罪である」と語ったツモの重たい言葉は、富士山に建てられた原発が事故で爆発するシーンが描かれている映画《夢》の子供を連れた母親の批判と深く結びついていると思える。

 「放射能は目に見えないから危険だと言って、放射性物質の着色技術を開発したってどうにもならない、知らずに殺されるか、知ってて殺されるか、それだけだ」と続けた原発の関係者の男は、「ぐじぐじ殺されるより、一思いに死ぬ方がいいよ」と結んだ。

 すると幼い子供たちを連れた母親は、次のように鋭く政治家や官僚などの責任を問い質していたのである。

 「でもね、原発は安全だ! 危険なのは操作のミスで、原発そのものに危険はない、絶対ミスを犯さないから問題はない、とぬかした奴等は、ゆるせない! あいつら、みんな縛り首にしなくちゃ、死んでも死に切れないよ!」。

 *   *   *

  映画《この子を残して》が過去の記録というだけでなく、現代にも訴える力を持っているのは、映画の後半で成人して記者となりベトナムや中東の戦争の報道にも携わるようになった息子・誠一(山口崇)の視点から、進駐軍の厳しい検閲にも関わらず、病気で寝込むようになりながらも次々と原爆についての記録を書き残した医師・永井隆(加藤剛)の記憶が描かれているためであると思える。

 この映画のラストシーンでは、『長崎の鐘』がようやく出版された後で父が亡くなったという息子・誠一の言葉が語られる。

 その直後に、柱時計を指さしながら戦争を二度と起こしてはならないと告げた父の姿に被さるように、八月九日一一時二分に投下された原爆により浦上天主堂や町が被爆する映像が流され、「ちちをかえせ、ははをかえせ、としよりをかえせ、こどもをかえせ」という言葉で始まる峠三吉の詩とともに被爆後の人々の苦しみが実写も含めた映像が流され、圧倒的な説得力で観客に迫ってくる。

 

*1 横堀幸司、『木下恵介の遺言』朝日新聞社、2000年、203頁。

*2 木下恵介、DVD《この子を残して》、松竹、2013年。

*3 1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、「英雄とはなんだらう」という同人の林房雄の問いに「ナポレオンさ」と答えた小林秀雄は、ヒトラーも「小英雄」と呼んで、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語っていた。戦争に対して不安を抱いた林が「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけると小林は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていたのである。この小林の言葉を聴いた林は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」との覚悟を示していた。(「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁。不二出版、復刻版、2008~2011年)。

 

映画《ゴジラ》考Ⅲ――映画《モスラ》と「核の傘」政策の危険性

リンク先→「映画・演劇評」タイトル一覧Ⅱ

映画《ゴジラ》考Ⅲ――映画《モスラ》と「反核」の理念 

 はじめに

   映画《ゴジラ》の60周年ということで、1992年公開の映画《ゴジラvsモスラ》がテレビ東京で放映され、久しぶりに映画《モスラ》シリーズの作品を見た。

 1961年に公開された映画《モスラ》についての記憶も薄らいでいるので、ここではまず初めて見た映画《ゴジラvsモスラ》(製作:田中友幸、監督:大河原孝夫、脚本:大森一樹)の粗筋や感想を、「ウィキペディア」の記述や『GODZILLA 60:COMPLETE GUIDE』(以下、『ゴジラ徹底研究』と略記する。マガジンハウス、2014年)を参考にしながらまず記し、その後で映画《モスラ》とその理念について考えたい。

 

1.環境破壊の問題と映画《ゴジラvsモスラ》

 1992年に公開された日本映画《ゴジラvsモスラ》(製作:田中友幸、監督:大河原孝夫、脚本:大森一樹)は、「ゴジラシリーズ」の第19作にあたり、観客動員数では平成ゴジラシリーズ中最多の420万人、配給収入は22億2千万円を記録した。

 この作品を見て嬉しかったのは、《モスラ》シリーズの第三作目にあたるこの映画でも地球環境の破壊が主要なテーマとした取りあげられていたことである。

 この映画でも1万2000年前の古代文明が眠るインファント島の守護神モスラが活躍するが、むしろ、モスラとの戦いに負けて北の海に封印されていた「バトルモスラ」が、「地球の環境を破壊し続ける人類に対し、自然の怒りの代弁者として」描かれている(『ゴジラ徹底研究』、68頁)。

 そしてこの映画では、その「徹底的な破壊獣」のバトラが、巨大隕石が落下したことにより海底での眠りから目覚めたゴジラやモスラとの壮絶な戦いを展開する。

 乱開発が進んでいたインファント島の調査に向かった東都大学環境情報センター所員の手塚雅子(小林聡美)と元東都大学考古学教室助手で現在はトレジャーハンターをしている元夫の藤戸拓也(別所哲也)は、島の開発を行なっている丸友観光の社員・安藤健二(村田雄浩)に同行して、モスラの卵を見付けるところから物語が始まる。

 「コスモス」と名乗る古代文明の2人の小美人によって、そこで目にしたものはがモスラの卵であることや、環境破壊に怒ったバトラが復活して攻撃してくる危機を警告されたが、モスラの卵で一儲けしようと考えた丸友観光の社長・友兼剛志(大竹まこと)は、卵を日本に輸送するように命じたのである。

 一方、モスラの卵を輸送していた船はフィリピン沖を航行中にゴジラの襲撃を受けるが、卵からモスラの幼虫が孵化して応戦したが、氷河から目覚めて日本に侵入し、名古屋の街を破壊した後で地中へと姿を消していたバトラもそこに現れて、ゴジラと海中で戦いを続けるさなかに海底火山が爆発して両者はマグマの中に消える。

 映画《ゴジラvsモスラ》は、1973年に公開された映画《日本沈没》が保持していた配収記録を19年ぶりに更新したとのことであるが、興味深いのはフィリピン沖のマグマの中に消えたゴジラが、噴火して噴出するマグマから出現すると描かれているように、この映画でも海底火山の爆発やマグマが重要な働きを担っていることである。

 他方で、観光の広告に使おうとした友兼社長の命令で、先住民族の末裔の二人の小美人(今村恵子と大沢さやか)たちが安藤によって拉致されると、モスラはコスモスを追って東京に上陸。国会議事堂に繭を張り、やがて成虫へと変化を遂げる。

 こうして、横浜みなとみらいでゴジラ・バトラ・モスラの三つ巴の戦いが行われることになるが、地球に巨大隕石が再び近づいていることを知っていたバトラは、モスラに隕石の軌道を変えることを頼み、ゴジラを倒した後で力尽きる。

 初代の「小美人」を演じたザ・ピーナッツの歌った「モスラの歌」は懐かしく、特撮の技術がさらに進んでいたこともあり、「極彩色の大決戦」というキャッチフレーズが物語るように、戦いのシーンの映像はより迫力のあるものとなっていて見応えもあった。

 ただ、見終わって物足りなく感じたのは、映画《モスラ》に込められていた「反原爆」の強い思いと、武力では「平和」を作れないというメッセージがきわめて希薄になっていたことである。

 

2,映画《ゴジラ》から映画《モスラ》へ 

 1961年7月30日に公開された東宝映画《モスラ》(製作:田中友幸、監督:本多猪四郎、特技監督:円谷英二)は、3年の構想と製作費2億円(当時)をかけ、アメリカのコロンビア映画との日米合作企画映画として製作し、日本初のワイド・スクリーンで上映された。

 注目したいのは、この映画の脚本が中村真一郎、福永武彦、堀田善衛という著名な作家三人が合同で書いた原作『発光妖精とモスラ』(『週刊朝日』)を元に、関沢新一によって書かれていたことである。日東新聞記者である主人公の福田善一郎という名前は、これらの三人の作家の名前を組み合わせて出来ているが、ここにはシナリオを重視した黒澤明と同じような姿勢が強く見られるだろう。

 本多猪四郎監督は後年この映画《モスラ》を映画《ゴジラ》や私がまだ未見の映画《妖星ゴラス》と並んで「最も気に入っている作品」に挙げている。注目したいのは、映画《七人の侍》で大ヒットを飛ばした盟友・黒澤明監督が、原爆の恐怖をテーマとした1955年の映画《生きものの記録》では興行的には記録的な失敗に終わっていたにもかかわらず、この映画でも水爆実験の問題を全面に出していたことである。

 物語の発端は台風により座礁沈没した貨物船・第二玄洋丸の乗組員は、ロリシカ国(ロシア+アメリカのアナグラム。原作では「ロシリカ」)の水爆実験場である絶海の無人島であるインファント島に漂着して救助されたが、不思議なことに放射能障害が見られなかった。このため、スクープ取材のため乗組員たちが収容された病院に潜入した日東新聞記者の福田善一郎(フランキー堺)とカメラマンの花村ミチ(香川京子)は、原水爆実験場であるはずのインファント島に原住民がいることを知る。

 当初、ロリシカ国は原住民の存在自体を否定したが、急遽日本とロリシカ国が合同で調査隊を派遣することが決定され、調査団員の言語学者・中條信一(小泉博)と知り合った主人公の福田は、記者活動を行わないことを条件に辛うじて臨時の警備員として参加を認められた。インファント島に上陸した調査隊の前に現れたのは、放射能汚染された島の中心部に広がる緑の森で、原住民たちは島に生息する巨大な胞子植物から「赤い汁」を採り、これを飲み、体に塗ることで放射能から免疫を保っており、島の奥に古代遺跡の神殿祭壇があり、島民は巨大な蛾「モスラ」を守護神としてあがめていた。

 一方、奇妙な植物群の中に謎の石碑を発見して記録をとった中條は、巨大な吸血植物に絡め捕られるが、その窮地を双子の小美人に助けられる。ネルソン(ジェーリー・伊藤)によって「資料」として捕らえられた小美人を解放した調査隊は、帰国した後も誰一人島の秘密を語ることなく解散した。

 しかし、インファント島調査隊の資金を提供していたロリシカ国側事務局長のネルソンは直属の部下を率いて、インファント島を再訪して小美人を誘拐し、彼女たちを守ろうとした原住民を容赦なく銃火器の犠牲にした。

  一方、武器を持たずに平和に暮らしていた原住民は、石を鳴らして相手を威嚇するだけでその多くが死傷するが、洞窟に崩れ落ちた老人が祈るように「モスラ…」とつぶやくと、洞窟の奥が崩れ落ち、虹色の巨大な卵が出現した。

 東京では囚われの身となって「妖精ショー」で歌わされていた双子の小美人を救おうと福田たちは日東新聞で世論にその非人道性を訴えたが、ネルソンから小美人を救うことはできなかった。

 観客として「妖精ショー」を見た福田と中條は、「モスラ」という単語の響きに惹かれるが、それは「moth(蛾)」であるとともに、「mother(母)」のイメージにもつながる怪獣モスラを呼ぶ歌で、本多監督がスタッフのインドネシアの留学生に訳させた歌詞は「モスラよ、早く助けに来て下さい。平和を取り戻してください」という意味だったのである(前掲書、8頁)。

 小美人たちの歌声と響き合うようにインファント島でも原住民たちの儀式が最高潮に達し、虹色の卵を破ってモスラが復活し、歌声に応えるように洋上に姿を現した超巨大な芋虫状の怪物は、防衛隊の洋上爆撃のナパーム弾で炎上して一度は海に姿を消す。しかし、東京近郊の第三ダムに瞬間移動したモスラはダムを崩壊させ、特車隊や戦闘機での攻撃をもものともせずに都心を破壊する。

 このような情況を見たロリシカ国大使館はネルソンから小美人を取り上げることに同意するが、大使館職員に変装し航空機で日本を脱出したネルソンの一行はロリシカ本国へと向かった。一方、モスラが芝の東京タワーに取り付き、そこで糸を吐き出して巨大な繭を作り始めると、防衛隊はロリシカ国からの軍事援助で供与された原子力エネルギーによる原子熱線砲で攻撃し、瞬時にモスラの繭は焼き尽くされたかに見えた。

 しかし、モスラの繭に対する原子熱線砲攻撃の模様を本国の中継放送で聞いて安心したネルソンたちが、小美人たちを閉じ込めていた脳波遮断ケースを開けると彼女たちの声を聞き取ったモスラは黒焦げになった繭を破って羽化した姿を現し、ロリシカ軍の防衛線を破ってニューカーク・シティに大きな損害を与えた。

 こうして映画《モスラ》は、ニューカーク・シティの人々から罵声を浴びせらながら抵抗したネルソンが警官を射殺するが、別の警官たちに射殺されるという最期を描くことで、利己主義的な儲けを正当化するだけでなく、「核実験」や大量殺りく兵器を発明することで、「敵」に勝とうとしてきた近代文明の非人道性とその危険性をも鋭く浮き彫りにしていたのである。

 しかも「ウィキペディア」の説明によれば、60年安保闘争の翌年に公開されたこの映画では、サンフランシスコ講和条約で日本が独立を回復したはずであるにもかかわらず、外国人の犯罪捜査や出入国管理が相変わらず在日米軍主導で行なわれていることやモスラがわざわざ横田基地を通ることなど、当時の日本の政治状況を反映した描写が目立つことが指摘されている。

 最後に時期を改めてもう一度、初代の《ゴジラ》や《モスラ》シリーズと比較しながら、8月6日にテレビ東京で放映された映画《ゴジラvsスペースゴジラ》を分析することで、「原爆」や「原発」の危険性が軽視され、「積極的平和」の名の下に堂々と原発や武器を売ることが正当化され、それまでの政府見解がたやすく覆されて「集団的自衛権」が唱えられるようになった日本の問題に迫ることで映画《ゴジラ》とそのシリーズの簡単な考察を終えることにしたい。

 (2017年5月12日、「ウィキペディア」より図版を追加。2023年5月20日、改題してツイートを追加)

特集「映画は世界に警鐘を鳴らし続ける」と映画《生きものの記録》

黒澤明研究会の会誌には、映画《夢》や《生きものの記録》の考察が掲載されているばかりでなく、広島の被曝をテーマにした黒木和雄監督の《父と暮らせば》や「第五福竜丸」の被爆後に撮られた本多猪四郎監督の映画《ゴジラ》や新藤兼人監督の映画《第五福竜丸》などについての優れた考察が掲載されている。

この会誌をなかなか目にする機会がないと思われるので、いずれ筆者の了解を得た後で紹介していきたいと考えているが、ここでは「映画は世界に警鐘を鳴らし続ける」という日本映画専門チャンネルの2012年の映画特集の前に行われた仙台出身の岩井俊二監督と鈴木敏夫プロデューサーとの対談記事を紹介しておきたい(注1)。

福島第一原子力発電所の大事故の後で、一気に深まったように見えた黒澤明監督の映画《夢》などへの関心は、当然放映すると思われた「公共放送」のNHKが取り上げなかったこともあり、広まることなく現在に至っているように見えるが、2012年の初めにこのような好企画で特集が組まれていたのを知ったのは新鮮な驚きであった。

スタジオジブリの鈴木敏夫氏については、これまで私の中では敏腕なプロデューサーというイメージが強かったのだが、この対談記事を読んだ後ではイメージが一変し、宮崎監督が全幅の信頼を寄せるのも当然だと思うようになった。

DVDボックスのような形でこの好企画で放映された映画を購入することができれば素晴らしいと思えるので、ここでは《生きものの記録》について語られている箇所を中心にこの対談記事を紹介する(テキスト・構成・撮影:CINRA編集部、2011/12/30)。

*   *   *

岩井:日本映画専門チャンネルで「映画は世界に警鐘を鳴らし続ける」という特集を組むことになりました。今回は黒澤明監督の映画『生きものの記録』などさまざまな作品を放映します。今回の作品ラインナップはいかがでしょうか?

鈴木:放映される作品の中で一番印象に残ったのは、『生きものの記録』ですね。震災後に改めて観ると、以前にくらべて「受け取る印象がこうも違うのか」と思いましたし、すごくリアリティがあった。黒澤っていう人は面白いなと、つくづく思いましたね。

岩井:確か『七人の侍』の翌年に製作され、脚本陣も同じチームで自信を持って作ったそうですが、お客さんは全然入らなかったそうですよ。

鈴木:たぶんそうでしょうね、三船敏郎は良かったけれど(笑)。メークアップも撮影も漫画っぽくしてあったりするけれど、今観ると言いたいこともはっきりしているからすごくリアリティがあって。多くの人に、今観てほしい作品です。

岩井:『日本沈没』もそうで、3.11以降に観ると後半部分には「日本はこれからどうなるのか」というテーマが切実に描かれていると思ったし、思想的にも哲学的にも考えさせられる内容ですよね。いわゆるパニック映画とはちょっと違うテイストで。しかも「御用学者」なんて言葉も登場しているし、真実をぼかして報道するメディアに対する批判もある。(中略)今回放送されるラインナップは、震災前に観るとピンとこなかった作品もありますよね。『生きものの記録』なんて、出てくるセリフの単語のひとつひとつが、震災後に耳にする言葉だったりしますし。

鈴木:黒澤監督は、関東大震災を目の当たりにしているそうなんですね。たくさんの瓦礫と人の死が自分の記憶の底に残った、と著書に書いていて(注2)、そういう意味でも戦争や核の問題に対して敏感だったんでしょう。昔観たときは、『生きものの記録』はむしろ「喜劇映画かよ」っていう印象でしたが、震災を経ることによって、黒澤監督が作品に込めた考えが、やっと伝わってきたような気がしています。

   *   *   *

引用者注                                                                   1,「日本本映画専門チャンネル」で2012年1月5日(木)から2月23(木)毎週木曜日23:00から放送                           1月放送作品:『生きものの記録』/『日本沈没』/『風が吹くとき』/『ヒバクシャ HIBAKUSHA 世界の終わりに』/
『特別番組「岩井俊二×鈴木敏夫 特別対談(仮)」』
2月放送作品:『夢』/『空飛ぶゆうれい船』/『六ヶ所村ラプソディー』/『原子力戦争 Lost Love』/
『特別番組「岩井俊二×坂本龍一 特別対談(仮)」』

2,黒澤明『蝦蟇の油――自伝のようなもの』岩波書店、1990年。

映画 《福島 生きものの記録》(岩崎雅典監督作品 )と黒澤映画《生きものの記録》

6月29日(土)に 日本ペンクラブと専修大学人文ジャーナリズム学科の共催によるシンポジウム、【脱原発を考えるペンクラブの集い】part3 「動物と放射能」が専修大学で行われた。

大教室での開催だったのでどのくらいの人数が集まるかと心配したが、少し空席はあったもののほぼ満席に近い状態で、体調不良のために総合司会者が直前に変わるという変更があったものの浅田次郎会長の開会挨拶で始まり、中村敦夫・環境委員会委員長の総括で終わったシンポジウムは活気のあるものとなった。

75分という上映時間は、ドキュメンタリー映画としては長すぎるかもしれないと心配したが、杞憂にすぎず映画が始まると引き込まれてあっという間に終わったという印象であった。上映後の報告や対談でも、それぞれの視点からなされた各報告者の発表は説得力を持っており熱のこもった質疑応答がなされた。(プログラムは、文末に記す)。

私自身は黒澤映画との関連に強い関心を持って映画「福島 生きものの記録」を観た。静かな映像とナレーターの静かな口調をとおして、「警戒区域内」に残された「生き物たち」の姿を語っていたこのドキュメンタリー映画からは、自作の題名を《怒れる人間の記録》ではなく、《生きものの記録》としていた黒澤監督の先見性も伝わってきた。

たとえば、「牧場」に残って牛の世話を続ける吉沢氏は「警戒区域内の牛をすべて殺処分」するようにとの国の命令が、この地域の生き物に対する放射能の影響の「証拠隠滅」はかろうとするものと語っていたが、この地域に残された生き物に現れた症状は人間にも現れる可能性が強いのである。「人の居なくなった」この地域のツバメに現れた「斑点」は、チェルノブイリのツバメの「斑点」ときわめて似ており、近づいてくる「死の影」さえ感じられる。

上映後の対話では、この映画の試写会には新聞記者など多くのマスコミの関係者も参加したが、なぜか記事新聞んはほとんど取り上げられなかったことが明かされたが、それはビキニ沖での水爆実験で被爆した「第五福竜丸事件」の後で公開された映画《生きものの記録》の場合を彷彿とさせる。作家井上ひさし氏との対話で黒澤監督は、「あのとき、ある政治家が試写会にきて、『原水爆何怖い、そんなもの屁でもねえ』といったんですよ」と語っていたのである。

原発事故では死んだ者はいないという趣旨の発言をした自民党の高市政調会長も、事故後に自殺に追いやられた人々など無視していることを批判されて後で撤回したが、殺処分され、あるいは見捨てられて死んだ多数の牛などの映像は、人間を含む「生きものの生命」を大切にしない政策の問題点が浮かび上がってくる。

作家の司馬遼太郎氏は日露戦争をクライマックスとした長編小説『坂の上の雲』において、「命令のままに黙々と埋め草になって死んでゆく」日本兵の姿を「虫のように殺されてしまう」という激しい表現で描いていたが、3.11以降の日本は「国民の生命」が「虫のように」軽かった時代へと転落を始めているかのような恐怖さえ抱く。

岩崎監督の映画では死んでゆく生き物の姿だけではなく、人の居なくなった世界で我が物顔に振る舞うようになった猿や野生化した豚などの映像も映し出されている。ことに圧倒的な迫力を持っていたのは、「国策」によって見捨てられながらも生き残って野生化した牛の群れが疾走する映像で、ふと立ち止まってカメラを見据えた牛の鋭い視線からは怒りと殺意さえ感じられた。

そのとき、私が思い浮かべたのは、やはり「国策」によって戦場に駆り出され、復員兵として戦後の荒廃した首都に戻るが、自分の持ち物を盗まれたために犯罪に手を染めるようになった若者を描いた黒澤映画《野良犬》であった。

ドイツでは福島第一原子力発電所の事故のあとで、それまでの原発推進という「国策」が国民の意思で破棄されたが、事故の当事者である日本では多くの国民の反対にもかかわらず、「国策」は固持されている。

映画《福島 生きものの記録》の映像は、現在の日本が抱える問題だけでなく明治維新後に日本が近代化する中で抱えるようになった問題さえも映し出しているといえるだろう。

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               <プログラム>

総合司会・・・・・・・山田健太(言論表現委員会委員長)

●開会挨拶・・・・・・・・・・・・・・・・・・  浅田次郎(日本ペンクラブ会長)

●第1部 映画  「福島 生きものの記録」(岩崎雅典監督作品 ) 上映

3.11で被曝した生きものたち、野生動物のみならず、家畜、ペット、そして人間。いったいどうなっているのか、

被災地福島で1年かけて撮り続けた現実。

●第2部  報告 ― 動物と放射能

①「家畜たちの運命は?」・・・・・・・・・・・・・・・・  吉沢正己

②「ペットはどうなる?」・・・・ ・・ ・・・・・・・・・ 太田康介

③「野鳥の異変!」 ・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・ 山本 裕

●第3部  対話・質疑応答

コーディネーター ・・・・・・高橋千劔破(平和委員会委員長)

上記出演者+岩崎雅典、森絵都

●総 括 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 中村敦夫(環境委員会委員長)