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映画《少年H》と司馬遼太郎の憲法観

映画《少年H》と司馬遼太郎の憲法観

文庫本で2巻からなる妹尾河童氏の自伝的小説『少年H』は、発行された時に読んで少年の視点から戦争に向かう時期から敗戦に至る時期がきちんと描かれていると感心して読んだ。

妹尾河童氏の『河童が覗いた…』シリーズを愛読していたばかりでなく、ことに日露両国の「文明の衝突」の危機に際して、冷静に対処して戦争の危機を救った一介の商人高田屋嘉兵衛を主人公とした司馬遼太郎氏の長編小説『菜の花の沖』を高く評価していたので、ジェームズ三木氏の演出で舞台化され、妹尾氏が舞台美術にかかわった「わらび座」の劇《菜の花の沖》からも深い感銘を受けていたからだ。

すなわち、妹尾河童氏は劇《菜の花の沖》を映像化したVHSの《菜の花の沖》(制作、秋田テレビ)で、「舞台の上に、嘉兵衛が挑んだ海の広さが表現できればいいなと思っています」と語っているが、実際に劇では大海原を行く船の揺れをも表現するとともに、牢屋のシーンでは光によって嘉兵衛の内面の苦悩を描くことに成功し、ことに最後の場面における菜の花のシーンは圧巻であった。

それゆえ、この作品がテレビドラマ《相棒》にも深く関わったプロデューサー松本基弘氏の企画と古沢良太氏の脚本により、降旗康男監督のもとで『少年H』がどのような映画化されるかに強い関心を持っていたのである。

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映画の冒頭では長男のために編んだセーターに当時は敵性言語とされていた英語で肇のイニシャルのHを母親が縫い込んだことで、からかわれる場面が描かれており、当時の排外的な雰囲気とともに《少年H》という映画の主題が明確に表現されていた。

そのような時代に肇少年は、クリスチャンであった両親につれられて教会に通っていたが、時代の流れのなかで、日本を離れたアメリカ人の女性からエンパイアーステートビルの絵はがきをもらったことで、次第に「非国民」視されるようになる過程が、洋楽好きの青年が思想犯としてとらえらたり、「オトコ姉ちゃん」と呼ばれていた役者が軍隊から脱走して自殺したするなどのエピソードをはさみながら描かれていく。

注目したいのは、洋服店を営んでいた父親が修繕を行った服の中には杉原千畝のビザを受け取って来日したユダヤ人たちが、日本がナチスドイツなどと三国同盟を結んだために、ようやく到着した日本からも脱出しなければならなくなるという光景も描かれることにより、国際的な関わりも示唆し得ていたことである。

少年Hよりも少し前に学徒動員で満州の戦車部隊に配属された司馬遼太郎氏は、『坂の上の雲』で帝政ロシアと比較しながら日露戦争を描いた後で、「日露戦争が終わると、日本人は戦争が強いんだという神秘的な思想が独り歩きした。小学校でも盛んに教育が行われた」とし、自分もそのような教育を受けた「その一人です」とし、「迷信を教育の場で喧伝して回った。これが、国が滅んでしまったもと」であると分析している(「防衛と日本史」『司馬遼太郎が語る日本』第5巻)。

この映画が描いた時代には、奉安殿に納められていた教育勅語と現人神である天皇のご真影への最敬礼が義務づけられていたが、遅刻しかけて慌てて忘れたために殴られる場面を初めとして、外国人を顧客としていた洋服屋の父親などの情報から、その戦争に違和感を抱くようになっていた肇が学校に派遣されていた教練の教官から目の敵とされて、ことあるごとに殴られるシーンも描かれていた。

実は、「戦車第十九連隊に初年兵として入隊したとき、スパナという工具も知らなかった」ために若き司馬氏も、古年兵から「スパナをもってこい」と命じられた時に、「足もとにそれがあったのにその名称がわからず、おろおろしていると、古年兵はその現物をとりあげ、私の頭を殴りつけた。頭蓋骨が陥没するのではないかと思うほど痛かった」という体験もしていたのである(「戦車・この憂鬱な乗物」『歴史の中の日本』)。

映画の圧巻は、神戸の大空襲のシーンであろう。この場面は《風立ちぬ》で描かれた関東大震災のシーンに劣らないような迫力で描かれており、当時はバケツ・リレーによる防火訓練が行われていたが、実際には焼夷弾は水では消火することはできず、そのために生命を落とした人も少なくなく、映画でも主人公の少年と母親が最後まで消火しようと苦闘した後で道に出てみると、ほとんどの町民はすでに逃げ出していたという場面も描かれていた。

このシーンは、戦争中のスローガンと行動が伴ってはいなかったことをよく示していたが、終戦後にはそれまで「国策」にしたがって肇に体罰を与えていた教官が、ころっと見解を変えたことで、かえって肇が傷つくという場面も描かれていた。

こうして初めは、やんちゃな少年だった主人公が苦しい時代にさまざまな試練にあいながらもくじけずに戦争を乗り越えて自立するまでを見事に描き出しており、《少年H》は現代の青少年にも勇気を与えることのできる映画になっていた。

脇役を固めた役者も母親役の伊藤蘭を初めとして、岸部一徳や國村隼などの渋い役者や小栗旬や早乙女太一、原田泰造や佐々木蔵之介などの旬な役者が脇を固めていたほか、妹役の花田優里音の愛らしさも印象に残った。

なかでも律儀な洋服屋の役を演じた水谷豊の演技には刮目させられた。水谷豊という俳優には、かたくななまでに正義と真実を貫こうとする天才肌の警部役という難しい役柄を見事に演じたころからことに注目していたが、髙橋克彦原作の『だましゑ歌麿』をテレビドラマ化した《だましゑ歌麿》で、狂気をも宿したような天才画家になりきって演じた際には、一回り大きくなったと感じた。時代の流れの中でおとなしくしかし信念を曲げずに家族を守って生きた今回の父親役からは、演技の重みさえも感じることができた。

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司馬遼太郎氏は「昭和十八年に兵隊に取られるまで」、「外務省にノンキャリアで勤めて、どこか遠い僻地の領事館の書記にでもなって、十年ほどして、小説を書きたい」と、「自分の一生の計画を考えて」いた。そして司馬氏は、「自国に憲法があることを気に入っていて、誇りにも思っていた」が、「太平洋戦争の最中、文化系の学生で満二十歳を過ぎている者はぜんぶ兵隊にとるということ」になって、自国の憲法には「徴兵の義務がある」ことが記されていることを確認して「観念」したと書き、敗戦の時には「なぜこんなバカなことをする国にうまれたのだろう」と思ったと激しく傷ついた自尊心の痛みを記している(「あとがき」『この国のかたち』第5巻)。

それゆえ、『坂の上の雲』を書く中で近代戦争の発生の仕組みを観察し続けていた司馬氏は、自国の防衛のための自衛隊は認めつつも、その海外への派遣には強く反対して、「私は戦後日本が好きである。ひょっとすると、これを守らねばならぬというなら死んでも(というとイデオロギーめくが)いいと思っているほどに好きである」と書いていたのである(『歴史の中の日本』)。

かつて司馬作品の愛読者であることを多くの政治家は公言していたが、その人たちは司馬氏のこの言葉をどのように聞くのだろうか。

戦前の教育や憲法がどのような被害を日本やアジアの国々にもたらしたかを知るためにも、「改憲」を主張する人々にもぜひ見て頂きたい映画である。

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