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公地公民

司馬遼太郎の「神国思想」批判と平和憲法の高い評価

『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲』を読み直す』、紀伊國屋

ISBN978-4-903174-23-5_xlISBN978-4-903174-33-4_xl

 

 

 

 

 

 

 

 

1、「神国思想」の批判

 幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となったと指摘した司馬遼太郎は、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と記していた(『竜馬がゆく』文春文庫)

子規の青春と民主主義の新たな胎動

2,「公地公民」制と帝政ロシアの農奴制

「公とは明治以後の西洋輸入の概念の社会ということではなく、『公家(くげ)』という概念に即した公」であり、「(「公地公民」とは――引用者)具体的には京の公家(天皇とその血族官僚)が、『公田』に『公民』を縛りつけ、収穫を国衙経由で京へ送らせることによって成立していた制度」だった(『信州佐久平みち、潟のみちほか』、『街道をゆく』第9巻)。

,坂本竜馬の「船中八策」と独裁政体の批判

坂本竜馬が「船中八策」で記した「上下議政局を設け、議員を置きて、万機を参賛(さんたん)せしめ、万機よろしく公議に決すべき事」という「第二策」を、「新日本を民主政体(デモクラシー)にすることを断乎として規定したものといっていい」と位置づけるとともに、「他の討幕への奔走家たちに、革命後の明確な新日本像があったとはおもえない」と書いた司馬は、「余談ながら維新政府はなお革命直後の独裁政体のままつづき、明治二十三年になってようやく貴族院、衆議院より成る帝国議会が開院されている」と続けていた(『竜馬がゆく』)。

4,明治維新と「廃仏毀釈」運動

「仏教をも外来宗教である」とした神祇官のもとで行われた「廃仏毀釈」では、「寺がこわされ、仏像は川へ流され」、さらに興福寺の堂塔も破壊された(『翔ぶが如く』)。

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(破壊された石仏。川崎市麻生区黒川。写真は「ウィキペディア」より)

リンク→日本国憲法施行70周年をむかえて――安倍首相の「改憲」方針と〈忍び寄る「国家神道」の足音〉関連記事を再掲

5,「明治憲法」の破壊者――公爵・山県有朋

「日本に貴族をつくって維新を逆行せしめ、天皇を皇帝(ツァーリ)のごとく荘厳し、軍隊を天皇の私兵であるがごとき存在にし、明治憲法を事実上破壊するにいたるのは、山県であった。」(『翔ぶが如く』)

リンク→明治の藩閥政府と平成の安倍政権(1)――『新聞紙条例』(讒謗律)と「特定秘密保護法」、「保安条例」と「共謀罪」との酷似

6、山県有朋の官僚支配

「山県に大きな才能があるとすれば、自己をつねに権力の場所から放さないということであり、このための遠謀深慮はかれの芸というべきものであった…中略…官僚統御がたれよりもうまかった。かれの活動範囲は、軍部だけでなくほとんど官界の各分野を覆った」(『坂の上の雲』)。

7、明治政府的な「公」の観念の批判

「海浜も海洋も、大地と同様、当然ながら正しい意味での公のものであらねばならない。/明治後publicという解釈は、国民教育の上で、国権という意味にすりかえられてきた。義勇奉公とか滅私奉公などということは国家のために死ねということ」であった(太字は引用者、『甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか』、『『街道をゆく』第7巻)。

参考: 天皇崇敬と皇室祭祀を中心に『公』の秩序を形成するという基本方針は、明治維新の最初期に定まっており、その制度化に向けた布石は、早くから置かれていた」(島薗進著『国家神道と日本人』岩波新書、40頁)。

、「明治国家」80年説

「明治国家の続いている八十年間、その体制側に立ってものを考えることをしない人間は、乱臣賊子とされた」とし、民主主義的な思想を持っていた「竜馬も乱臣賊子の一人だった」と記した司馬氏はこう続けています。「人間は法のもとに平等であるとか、その平等は天賦のものであるとか、それが明治の精神であるべきです。こういう思想を抱いていた人間がたしかにいたのに、のちの国権的政府によって、はるか彼方に押しやられてしまった」。

ただ、司馬氏は「結局、明治国家が八十年で滅んでくれたために、戦後社会のわれわれは明治国家の呪縛から解放された」と書いていましたが、明治が四五年で終わることを考慮するならば「明治国家」が「八十年間」続いたという記述は間違っているように思う人は少なくないと思われます。しかし、「王政復古」が宣言された一八六八年から敗戦の一九四五年までが、約八〇年であることを考えるならば、司馬氏は「明治国家」を昭和初期にまで続く国家として捉えていたといえるでしょう。(『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年、183頁)

、ヒトラー観と昭和前期の日本観

「われわれはヒトラーやムッソリーニを欧米人なみにののしっているが、そのヒトラーやムッソリーニすら持たずにおなじことをやった昭和前期の日本というもののおろかしさを考えたことがあるだろうか」(「『坂の上の雲』を書き終えて」)。

10、戦後日本と平和憲法の評価

「私は戦後日本が好きである。ひょっとすると、これを守らねばならぬというなら死んでも(というとイデオロギーめくが)いいと思っているほどに好きである」(「歴史を動かすもの」1970年、『歴史の中の日本』中公文庫)。

劇作家・井上ひさし氏との対談で司馬氏は、戦後に出来た新しい憲法のほうが「昔なりの日本の慣習」に「なじんでいる感じ」であると語った司馬は、さらに、「ぼくらは戦後に『ああ、いい国になったわい』と思ったところから出発しているんですから」、「せっかくの理想の旗をもう少しくっきりさせましょう」と語り、「日本が特殊の国なら、他の国にもそれも及ぼせばいいのではないかと思います」と続けていました。(「日本人の器量を問う」『国家・宗教・日本人』講談社、1996年)。(『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』東海教育研究所、2005年、219頁

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(昭和22年5月の日本国憲法施行記念切手の図版は「ウィキペディア」より、書影は「紀伊國屋書店」より)

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(2017年6月13日、加筆し図版とリンク先を追加、2023/02/07、ツイートを追加)