高橋誠一郎 公式ホームページ

2025年

はじめに 世界の終わりに向き合う文学

(近著『黙示録の世界観と対峙する――ドストエフスキーと日本の文学』群像社より )

*ウクライナとガザ――ふたつの戦争と黙示録

 2021年のドストエフスキーの生誕二百年に際して作家を「天才的な思想家だ」と賛美したプーチン大統領は、その翌年の2月にウクライナ侵攻に踏み切った。

 この戦争がドストエフスキー研究者にとって深刻なのは、ナチス・ドイツの占領下にあったパリで研究を続けて『悪霊』における黙示録の重要性を明らかにしたモチューリスキーが「(ドストエフスキーは)世界史を、ヨハネの黙示録に照らしあわせ、神と悪魔の最後の闘いのイメージで見、ロシアの宗教的使命を熱狂的に信じていた」と『評伝ドストエフスキー』で記していたからである。

 2020年には大統領経験者とその家族に対する不逮捕特権を認める法律を成立させて独裁を強めていたプーチン大統領による武力侵攻は厳しく批判されるべきである。ただ、比較文明論的な視点から見るとき、旧約聖書の預言に依拠して「パレスチナの土地は全てイスラエルのものだ」とするシオニズム的政策を進めるイスラエル政権が、大規模なテロに対する報復としてジェノサイドと批判される大規模な空爆と地上での攻撃を行ったことからはより複雑な深層が見えて来る。

 なぜならば、思想史の研究者・加藤喜之は黙示録だけでなく旧約聖書の預言も重視している米国の福音派教会牧師のジョン・ハギーがロシアなどとの世界最終戦争によって福音派の信徒は救済されると考えていると論考「福音派のキリスト教シオニズムと迫り来る世界の終わり」で指摘しているからである。

 しかも、2024年の長崎での平和式典にロシアだけでなく、イスラエルの代表も呼ばないことを市長が表明するとG7各国の大使が不参加を表明したことで、西欧諸国のイスラエル政権に対する庇護政策と核兵器の抑止論に依存する軍事組織NATOの問題をも浮かび上がらせた。

 過去にさかのぼると、1095年に行われた第一回十字軍の派兵に際してローマ教皇は黙示録の解釈によって、遠征に参加する者には「これまでに彼が犯した罪について罰を一時的に赦免」していた。こうして、他宗教や異端派への十字軍の派遣をも正当化した十字軍の派兵は、イスラム教徒だけでなくユダヤ人大虐殺とエルサレムの富の略奪を招いた。

 同じような殺戮はそれ以降も繰り返され、ことに第四回十字軍はギリシャ正教を国教とする東ローマ帝国の滅亡につながっており、それが西欧諸国の政策に対する根強い不信感の原因ともなっている。こうして、ウクライナ危機とガザ危機は黙示録の終末論を媒介として根深いところでつながっている。

*侵略する「神の国」――キリスト教シオニズムと八紘一宇

 第3章で見るように、日本における『悪霊』の最初の翻訳は第一次世界大戦が勃発した翌年に出版されたが、大戦末期にイギリス外相バルフォアが大戦後にパレスチナにユダヤ人の国家を建設することを認めたことで、「イスラエルはこの世に作られた神の王国」であるという預言説を「自分たちの信仰の核」に据えたキリスト教シオニズムがイギリスやアメリカで盛り上がった。

 日本でも1918年から翌年にかけて内村鑑三とともにキリストの再臨運動を行い、1930年代になると「原理主義的な聖書解釈と日本のナショナリズムと」を結び付けていた中田重治も、ユダヤ人のパレスチナへの入植から強い刺激を受けて満州事変が起こると「関東軍に同調する立場をあきらかにして」こう述べた。

 「日本は黙示録7章2節にある日出国の天使である。世界の平和を乱す事のみをして居る四人の天使(欧州四大民族)から離れて宜しく神よりの平和の使命を全うする為に突進すべきである。」

  一方、関東軍参謀の石原莞爾は国柱会を興した日蓮宗の田中智學が世界統一の原理として1903年に用いた「八紘一宇」という理念に惹かれて1931年に満州事変を起こした。この理念は『日本書紀』に記された全世界を一つの家のようにするという「八紘為宇」というという用語を元にしており、1940年に近衛内閣が基本国策要綱で「八紘一宇」を用いたことで政治スローガンになった。

 思想史研究者の林尚之は石原において「戦時下は道義的世界統一=『八紘一宇』成就にむけて切迫した予言の時空として」把握されたと指摘している。この説明は黙示録と「八紘一宇」の世界観との類似性をも物語っていると思えるので、第3章で詳しく検討することにする。

 作家の埴谷雄高は「吾国の社会状勢に見あってのこと」としながら、昭和初期の日本では「ドストエフスキイの最高作品は『悪霊』だということにまでなった」と記したが、『悪霊』の登場人物で元農奴のシャートフは黙示録の「再臨のキリスト」論の独自な解釈をとおしてロシア・メシヤ思想を主張している。

 その頃に強い影響力を持ったのは小林秀雄の『悪霊』論や『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」への言及であるが、ドストエフスキー作品を愛読していた堀田善衞は自伝的な長編『若き日の詩人たちの肖像』(1968)で、昭和初期の『悪霊』の受容だけでなく「再臨のキリスト」の問題にも鋭く迫った。

 「大審問官」とは歴史学用語の異端審問長官のことで(杉里直人、第4章参照)、スペインでは王権の主導のもとで異端審問が行われ、1481年から1498年だけでも火刑による犠牲者は九千人近くににのぼり、イワンはこのような場に再臨したキリストと異端審問長官との対決を描いたのである。

 埴谷の影響を色濃く受けるとともに、弾圧されたロシアの分離派をテーマとしたドストエフスキー作品を評価した高橋和巳は『邪宗門』(1966)で大本(おおもと)などをモデルに激しい宗教弾圧を受けた「ひのもと救霊会」の受難とその分派「皇国救世軍」との対立を描いた。『堕落』(1965)では満州国の建国に関わっていた主人公をとおして「八紘一宇」の理念が戦後の日本にも受け継がれていることを明らかにした。

 さらに、『死の家の記録』の描写力と『罪と罰』の手法で描いた『日本の悪霊』で高橋は、ネチャーエフ的な組織と日本のテロリズムの関係を分析しただけでなく、警察や検察庁に残る戦前的な価値観の問題をも暴き出している。

*「大審問官」としての原爆と核戦争の危機

 学生の時に原爆投下のニュースを知ったときの衝撃を三島由紀夫は「世界の終りだ、と思つた。この世界終末観は、その後の私の文学の唯一の母体をなすものでもある」と書いた。長編『美しい星』(1962)で三島は、地球を救おうとする家族と核戦争による「人類全体の安楽死」を目指したグループとの対決をSF的な手法で描いた。

 危機の時代を直視したドストエフスキー文学を高く評価して「原子爆弾は現代の大審問官であるかもしれない」と記した堀田善衞は、『審判』(1963)では広島の原爆投下にかかわったパイロットと長崎で被爆した日本画家の深い苦悩をとおして、核兵器がもたらす悲惨さを描き出した。

 ベトナム戦争が激化するとアメリカでは反戦運動が拡がり、映画『地獄の黙示録』(1979)も公開されたが、それに対抗する形で「世界が終末を迎えるとき、エルサレムの地にキリストが再来する」としてイスラエルの意義を強調するキリスト教シオニズムも広まった。

 黙示録の解釈により文鮮明を「再臨のメシア」とした韓国の統一教会も、ベトナム戦争への批判が強まった頃にはエバ国家と規定した日本だけでなくアメリカでの布教活動も活発に行い、1966年に出版した教理解説書『原理講論』では「(サタン側と天の側に)分立された二つの世界を統一するための(……)第三次世界大戦は必ずなければならない」と説いている。

 黙示録に見られる「神と悪魔の最後の闘い」という二項対立的な見方を重視するとき、今も続くウクライナとガザの二つの戦争は核兵器の使用も含む第三次世界大戦へと至る危険性もはらんでいる。

 本年に入って日本原水爆被害者団体協議会のノーベル平和賞受賞という嬉しいニュースが入って来たが、それは岸政権以降、「核の傘」に依存してきた被爆国日本でも声高に唱えられ始めた「核共有」という思想が「人類の滅亡」に導くという強い危機感をノーベル賞の選考委員会も持ったことを意味していると思える。

*グローバリズムの圧力とナショナリズムの高揚――英雄賛美と軍拡の復活

 ソ連崩壊後にはグローバリズムの強い圧力に対抗して世界の各国でナショナリズムが野火のように広がり、ドストエフスキーが『罪と罰』で「非凡人の理論」の危険性をとおして批判したような軍事力を重視する強権的な指導者を英雄化する傾向が強まった。

 「戦争と革命」の世紀が終わりを告げた2001年には、もう核戦争の危険はないとも思えたが、9月11日には同時多発テロが起きた。テロに対する「報復の権利」を主張してアフガニスタンのタリバン政権を壊滅させたブッシュ政権が、イラク、イラン、北朝鮮を「悪の枢軸」と見なして2003年にイギリスなどの有志国とともに大規模なイラク侵攻を行ったが、目的の「大量破壊兵器」は見つからなかった。

 アメリカでも「米国第一主義」を掲げて福音派からも強い支援を受けた富豪のトランプ氏は大統領に当選すると米国大使館のエルサレムへの移転を強行し、2019年には「旧ソ連との間で結んだ INF(中距離核戦力)全廃条約からの一方的離脱を通告」して宇宙軍を発足させた。

 日本でも「戦後レジームからの脱却」というスローガンを掲げてナショナリズム的な価値観を主張して歴史や文学など人文科学を抑圧した安倍元首相は、統一教会などにも支えられた第二次政権では集団的自衛権の行使を可能とした安全保障法制などを強行成立させて、日本を平和国家から軍事力を重視する軍事大国へと変貌を遂げさせた。

 その一方で、グローバリズムは富の一極化と格差の増大を招き、さらに匿名での発信が可能となったSNSの登場によって、実像とは異なる虚像やデマが事実として伝えられることや、ドストエフスキーが『白痴』で描いたような女性にたいする罵詈や中傷、さらにはセクハラやマイノリティーに対する差別なども強まったように見える。

  こうして世界中で緊張感が高まっており、2022年7月に安倍元首相が散弾銃で殺害された事件のあとでは統一教会と自民党や維新などとの強いつながりが批判された。しかし、男尊女卑的な価値観を説くとともに世界大戦の必然性と軍備拡大のための増税を説く旧統一教会との結びつきは続き、戦前的な価値観を主張する極右的な政党も力を伸ばした。隣国の韓国では市民の協力と国会議員の素早い対応で6時間後に撤回されたものの12月3日に戒厳令が宣布された。

*本書の構成

 ドストエフスキーは西欧文学に強い関心を持ちそれらからも手法を学ぶとともに、比較文明学の創始者の一人とも言われるダニレフスキーの比較文明論にも通じる広い視野を持ち、時事的な情報も積極的に取り込んで政治と宗教との関りを描いた。本書でもそのようなドストエフスキーの方法を重視して彼の作品と日本の文学における黙示録の問題を考察する。

 第1章ではロシアにおける分離派の誕生からクリミア戦争後に書かれた『罪と罰』や『白痴』における黙示録への言及の意味を分析する。それとともにドストエフスキーが若い頃に傾倒したフーリエ思想と作品との関りや彼が強く批判したマルサスの『人口論』についても「自然の法則」という用語や社会ダーウィニズムとの関連で分析する。

 第2章では黙示録に引き付けた『悪霊』解釈の問題を考察する。それによりドストエフスキーが黙示録を重視しつつも、その解釈が虐げられた人々の怨念を増幅して武力による権力の獲得も正当化するような危険性を秘めていることも示唆していたことを確認する。

 第3章では黙示録と「八紘一宇」の理念とのかかわりなどに注目しながら昭和初期の『悪霊』受容と「再臨のキリスト」の問題を少年の頃から聖書に親しむとともにドストエフスキー文学を愛読していた堀田善衞の長編『夜の森』や『若き日の……』などをとおして考察し、高橋和巳の『邪宗門』をドストエフスキー的な視点から読み解く。

 第4章では堀田善衛の『審判』だけでなく高橋和巳の三島由紀夫作品の考察も視野に入れて考察する。その作業をとおして、日本に投下された二発の原爆以降の世界大戦はそれまでの戦争とは全く様相が異なり、地球は放射能に汚染されて生き残った人々も被爆の後遺症に苦しむ地獄のような世界となることを明らかにする。

 第5章では『橋上幻想』でカルト的国家の危険性を描いた堀田が『路上の人』で旧約聖書の預言の問題をも踏まえて、黙示録的なキリスト像の危険性に迫っていることを『薔薇の名前』との比較などをとおして考察する。

 1985年に共産党書記長になったゴルバチョフ・共産党書記長は、新思考外交を打ち出して泥沼化していたアフガニスタンからの撤退を決めたが、その翌年に「苦よもぎ」という意味を持つ「チェルノブイリ」で原発事故が起きたことで、黙示録の記述との類似が指摘されて原発事故は「神の罰」であるという解釈が広がりソ連の崩壊にもつながった。

 疫病が蔓延する中での宗教戦争を描いた『ミシェル――城館の人』が「文明の衝突」が声高に唱えられるようになるソ連崩壊の現代の様相を先取りしていることを確認する。

 さらに、他者の冷酷な殺戮者としての「大審問官」に注目したドストエフスキー文学を深く分析し、「大審問官」としての核兵器の問題を直視した日本の文学を読み解く。そのことにより世界の終末に向かって歩んでいるようにも見える世界の危機を克服する方法を、埴谷雄高を尊敬していた高橋和巳の文学や埴谷も入っていた「あさっての会」の会員でもあった堀田善衞の文学などが示唆していることを明らかにしたい。

  (本稿では敬称を略すとともに、「はじめに」では注も省いた。2024年12月。初出、「堀田善衞の会」通信『海龍』第21号、2025年1月発行)