はじめに
前回のブログに記したように、キリーロフの人神論とイワンの叙事詩「地質学的変動」の問題を考察することによって、「神の観念の破壊」が人肉嗜食と結びつくことはないことを明らかにした熊谷論文から私は強い知的刺激を受けた。
それは『罪と罰』についての言及もある大岡昇平の『野火』や武田泰淳の『ひかりごけ』を踏まえて、ニューギニア戦線における人肉食の問題も描かれている堀田善衞の三部作『橋上幻像』(1970)の考察を始めているためでもあるだろう。
一方、「地質学的変動」についての言及は参加者にベルグソンへの関心も呼び起こした。ただ、ウクライナ戦争が現在も続く「戦争の時代」に入っていることに留意するなら、1913年から1914年をピークとする日本の「ベルグソン・ブーム」と戦争との関りも視野に入れて考察する必要があると思える。
それゆえ、ここではベルグソン哲学の受容の流れを振り返った後で(拙著『堀田善衞とドストエフスキー』群像社、2021年、30-31頁、161-162頁参照)、長編小説『橋上幻像』論の構想を簡単に記すことにしたい。
戦前のベルグソン論の再考
まず、注目したいのは、1951年に書かれた『野火』の第19節「塩」でドストエフスキーの『罪と罰』の描写に言及し、第21節「同胞」では「俺達はニューギニヤじゃ人肉まで食って、苦労して来た兵隊だ」と語る脱落兵たちと主人公が出会う場面を描いた大岡昇平が、 第14節「降路」ではベルグソン哲学についてこう記していることである 。
「この発見はこの時私にとってあまり愉快ではなかった。私はかねてベルグソンの明快な哲学に反感を持っていた。例えばこの『贋の追想』の説明は、前進する生命の仮定に立っているが、私は果して常に前進しているだろうか。時として繰り返し後退しはしないだろうか。絶えず増大して進む生命という仮定は、いかにも近代人の自尊心に媚びる観念であるが、私はすべて自分に媚びるものを警戒することにしている。」
この時、大岡は追い詰められた兵士の視点から、「戦争」の遂行と結びついて利用されたベルクソンの「理知主義打破」の哲学の問題点を鋭く指摘していた。
実際、第一次世界大戦がはじまった1914年に評伝『ベルグソン』を書き、この哲学者を「直観の世界」、「溌剌たる生命の世界」の発見者と紹介した評論家の中津臨川は、評論「ベルグソンの戦争及び現代文明観」(1916年)では、「ベルグソンの戦争観を紹介しつつ、〈戦争〉を一つの生命現象として認識する視点」を提示していた。
同じように戦争を一つの「生命現象」と見て、人間の内なる「生命の波動」により「現状打破の運動」が「地殻変動のように起こっている」とした歌人の三井甲之(こうし)も、1914年9月に書いた評論では、「『欧州動乱』を『文化史的見地』から、『理知』に対する『精神の戦い』と意味づけ」、ベルクソンの「理知主義打破」哲学は、「戦争の時代にこそ意義を持つ」と主張した(太字は引用者。中山弘明『第一次大戦の“影”――世界戦争と日本文学』新曜社、2012年、26-27頁、72-76頁、222-223頁)。
三井甲之が右翼思想家の蓑田胸喜(むねき)などと「原理日本社」を結成したのは1925年のことであったが、社会ダーウィニズムの理論を援用して「この宇宙を支配している永遠の意志にしたがって、優者、強者の勝利を推進し、劣者や弱者の従属を要求するのが義務である、と感ずる」と記したヒトラーの『わが闘争』の第一部がドイツで出版されたのも同じ年であった。
「『今の一瞬に久遠(くおん)の生命を生きる』という事が日本精神」であるとして「爆弾三勇士」を礼賛し、「殺人は普通悪い」と考えられているが、「戦争に出て敵兵を殲滅するのは善である」と『生命の實相』で説いて、軍人などにも強い影響力をもった谷口雅春の「生長の家」が創始されたのは1930年のことであった。
「生長の家」の教祖・谷口雅春はベルクソンに言及しながら「生命の実相(ほんとうのすがた)は動であって静ではないという事が判って来るのであります」と記していた(谷口雅春『古事記と日本国の世界的使命――甦る『生命の實相』神道篇』光明出版社、2008年)。
一方、『野火』の 第14節「降路」でベルグソン哲学への批判を記した大岡は、 第37節「狂人日記」ではこう記したのである。「この田舎にも朝夕配られてくる新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び欺(だま)されたいらしい人達を私は理解できない。恐らく彼等は私が比島の山中で遇(あ)ったような目に遇うほかはあるまい。」
堀田善衞の『囚われて』(1954)では元憲兵だった主人公の父親が「生長の家」のもじりと思われる“成長の家”の“聖書”にピストルを隠していたと記されているが、「盾の会」を結成した後で三島由紀夫は、「生長の家」の教祖・谷口雅春の思想に魅せられるようになり、分派の「生長の家本流運動」は谷口雅春の思想を絶対視して戦前の価値観への復帰を目指す「改憲」運動を推し進めている。
そのことに、注目するならば、堀田は短編『囚われて』において「生長の家」を示唆することで、戦前と戦後の価値観の同質性に鋭く迫っていたといえるだろう。
ドストエフスキー論との関連で問題なのは、「ヒットラーと悪魔」を発表した翌年の1961年に国粋派の論客・小田村寅二郎からの依頼に応えて国民文化研究会で「現代思想について」と題した講演を行った小林秀雄が、その後の学生との対話でベルクソンの意義を再評価したあとで、こう語っていたことである。
「凡人が、自分は死んでもこのほうが正しいと思うと、人を殺すね。僕はそういうことを考えたこともある。正しくないやつを殺さなきゃならんでしょう。」(『学生との対話』新潮社、2014年、86頁)
『橋上幻像』論の構想について
短編『審判』(1947)で原爆の問題に関連して『黙示録』にも言及していた武田泰淳は、1954年に描いた『ひかりごけ』では、「大岡昇平氏の『野火』に於(おい)ても、主人公たる飢えた一兵士は、仲間から与えられた人肉(日本兵の肉)を口までは入れますが、ついに咽喉(のど)より下へは呑み下すことをしないのです」とし、「殺人の方は二十世紀の今日、きわめて平凡で、よく見うけられるが、人肉喰いの方はほとんど地球上から消滅しつつある」と記している。
三島由紀夫も1955年9月に「雲の会」の同人でもあった加藤道夫の追悼文「加藤道夫氏のこと」を発表し、その冒頭で「加藤氏は戦争に殺された人であったと思ふ。その死は戦後八年目であつたけれど、ニューギニアにおける栄養失調、そこからもちかへつたマラリア、戦後の貧窮、肋膜炎、肺患、かういふものが悉く因をなして、彼を死へみちびいた」と書き、「もしもう少し生きのびて、この状態を克服し、客観視する時が来たならば、この夢想家は、戦争と死のおそるべきドラマを書いたであらう」とも記していた。
さらに三島は、加藤が学生時代に書き上げていた遺書ともいえるような戯曲「なよたけ」が上演されなかったことにふれて「彼の生前にこれを上演しなかった劇団というところは、残酷なところだ」と記し、「かくてこの人肉嗜食(ししょく)の末世は、一人の心美しい詩人を、喰べてしまったのである」と結んでいた[。
戦後間もない時期に発表されたこれらの作品や追悼文で人肉食のことが記されているのは、当時はまだ悲惨な体験を多くの日本兵が記憶していたためだと思える。
しかし、その記憶はすぐに消え去るようなものではなく、大岡昇平はその問題を1967年から1969年にかけて『中央公論』に連載した『レイテ戦記』でさらに深く掘り下げている。
『豊饒の海』の第2巻『奔馬』では「血盟団」事件をモデルとして美意識による暗殺を描いた三島由紀夫も、第3巻『暁の寺』(新潮社、1970)では美的な視点から「性の千年王国」を夢見るドイツ文学者・今西が語る「人肉嗜好」の物語を組みこんでいた(173-180頁)。
さらに、「今西はどんな些末な現象にも、世界崩壊の兆候を嗅ぎ当てた」とも記されているが(252頁)、その感覚は三島自身のものとも重なり、三島は原爆投下のニュースを知ったときの衝撃について、「世界の終りだ、と思つた。この世界終末観は、その後の私の文学の唯一の母体をなすものでもある」と「民族的憤激を思ひ起せ-私の中のヒロシマ」において記しているのである(447)。 つまり、三島由紀夫の作品にも『黙示録』的な終末観が深く関わっていたのだ 。
一方、堀田善衞が1953年末に自殺した友人で劇作家の加藤道夫をモデルとした長編小説『橋上幻像』の第1部を書いたのはようやく1970年のことであった。しかし、昭和初期の暗い時代における友人たちとの交友を描いた長編小説『若き日の詩人たちの肖像』(1968)で加藤道夫についても触れていた堀田は、その翌年に出版した美術紀行『美しきもの見し人は』では、『ヨハネの黙示録』にふれつつ、戦争の悲惨さにも言及していた。
そのことを想起するならば、堀田がニューギニア戦線で「地獄」を体験した加藤道夫をモデルとした小説を長く書かなかったことは、このテーマの重さを物語っているだろう。
(2023/02/24、加筆と改題、2023/03/08、改訂)