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12月

「黒澤明研究会五〇周年とドストエフスキー生誕二〇〇年」(『黒澤明研究会会誌』46号)

黒澤明研究会の50周年を記念した『黒澤明研究会会誌』46号が届いた。黒澤映画の上映会や、黒澤映画を支えたスタッフや俳優へのインタビューを行って、『黒澤明 夢のあしあと』(共同通信社MOOK)や『黒澤明を語る人々』(朝日ソノラマ)なども刊行してきた研究会の50年振り返る座談会なども掲載されている。

週刊誌とほぼ同じ大きさのB5版のサイズで269頁の大部で関係者の思いがこもる『会誌』となっているが、特記すべきは黒澤映画関係者との貴重な写真が豊富に掲載されているばかりか、黒澤監督手書きのクリスマス・カードの絵も載せられていることである。

『デルス・ウザーラ』関係の写真はないが、ロシア文学とも深いかかわりを持つ黒澤監督を記念したこの号は、多くの黒澤映画のファンにとっても興味深い記念号となっている。

私自身は拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011)の発行をきっかけに入会した時のいきさつとその後の会での活動と私のドストエフスキー論とのかかわりについて振り返った「黒澤明研究会五〇周年とドストエフスキー生誕二〇〇年」を投稿した。

ただ、ドストエフスキーの愛読者を自称するプーチン大統領がウクライナ侵攻を行ったことで、ロシアだけでなくドストエフスキー文学の信頼が大きく揺らいでいる。それゆえ、そこではまず私がドストエフスキー論に本格的に取り組むきっかけとなったソ連崩壊後のスーパーインフレやエリツィン大統領の独裁的な手法の問題などロシア危機を踏まえて書いた『「罪と罰」を読む―「正義」の犯罪と文明の危機』(刀水書房、1996)についてふれた。

その後で、研究会の活動を踏まえて上梓した『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社、2014)の内容を下記の拙著の帯の文章を引用して紹介した。

 【なぜ映画“夢”は、フクシマの悲劇を予告しえたのか。一九五六年一二月、黒澤明と小林秀雄は対談を行ったが、残念ながらその記事が掲載されなかった。共にドストエフスキーにこだわり続けた両雄の思考遍歴をたどり、その時代背景を探る。】

ドストエフスキーの生誕200年にあたる2021年には『会誌』での発表を踏まえて『堀田善衞とドストエフスキー 大審問官の現代性』(群像社)を上梓した。その序章では堀田の長編小説『祖国喪失』の終わり近くには滝川事件をモデルとして教授の娘の恋愛と苦悩、そして新たな出発を描いた黒澤映画『わが青春に悔なし』の「広告が真直に眼に沁みた」と書かれ、「もしほんとうに悔のない世代が既に動いているものなら、(……)全体的滅亡の不幸の底に、未来への歴史の胚子が既に宿っているのかもしれぬ」という主人公の感想も描かれていることを指摘した。

 最後に黒澤明監督を敬愛し、彼の脚本を元にした映画『暴走機関車』(1985)を撮ったロシアの巨匠アンドレイ・コンチャロフスキー監督の言葉を紹介して締めくくった。

なお、「黒澤明研究会五〇周年とドストエフスキー生誕二〇〇年」の全文は、「主な研究」に拙著の書影も加えて再掲した。黒澤明研究会五〇周年とドストエフスキー生誕二〇〇年

 (2023/02/02、改訂と改題)

戦前のベルグソン論の再考と長編小説『橋上幻像』論の構想

はじめに

前回のブログに記したように、キリーロフの人神論とイワンの叙事詩「地質学的変動」の問題を考察することによって、「神の観念の破壊」が人肉嗜食と結びつくことはないことを明らかにした熊谷論文から私は強い知的刺激を受けた。

それは『罪と罰』についての言及もある大岡昇平の『野火』や武田泰淳の『ひかりごけ』を踏まえて、ニューギニア戦線における人肉食の問題も描かれている堀田善衞の三部作『橋上幻像』(1970)の考察を始めているためでもあるだろう。

一方、「地質学的変動」についての言及は参加者にベルグソンへの関心も呼び起こした。ただ、ウクライナ戦争が現在も続く「戦争の時代」に入っていることに留意するなら、1913年から1914年をピークとする日本の「ベルグソン・ブーム」と戦争との関りも視野に入れて考察する必要があると思える。

それゆえ、ここではベルグソン哲学の受容の流れを振り返った後で(拙著『堀田善衞とドストエフスキー』群像社、2021年、30-31頁、161-162頁参照)、長編小説『橋上幻像』論の構想を簡単に記すことにしたい。

戦前のベルグソン論の再考

まず、注目したいのは、1951年に書かれた『野火』の第19節「塩」でドストエフスキーの『罪と罰』の描写に言及し、第21節「同胞」では「俺達はニューギニヤじゃ人肉まで食って、苦労して来た兵隊だ」と語る脱落兵たちと主人公が出会う場面を描いた大岡昇平が、 第14節「降路」ではベルグソン哲学についてこう記していることである 。

「この発見はこの時私にとってあまり愉快ではなかった。私はかねてベルグソンの明快な哲学に反感を持っていた。例えばこの『贋の追想』の説明は、前進する生命の仮定に立っているが、私は果して常に前進しているだろうか。時として繰り返し後退しはしないだろうか。絶えず増大して進む生命という仮定は、いかにも近代人の自尊心に媚びる観念であるが、私はすべて自分に媚びるものを警戒することにしている。」

この時、大岡は追い詰められた兵士の視点から、「戦争」の遂行と結びついて利用されたベルクソンの「理知主義打破」の哲学の問題点を鋭く指摘していた。

実際、第一次世界大戦がはじまった1914年に評伝『ベルグソン』を書き、この哲学者を「直観の世界」、「溌剌たる生命の世界」の発見者と紹介した評論家の中津臨川は、評論「ベルグソンの戦争及び現代文明観」(1916年)では、「ベルグソンの戦争観を紹介しつつ、〈戦争〉を一つの生命現象として認識する視点」を提示していた。

同じように戦争を一つの「生命現象」と見て、人間の内なる「生命の波動」により「現状打破の運動」が「地殻変動のように起こっている」とした歌人の三井甲之(こうし)も、1914年9月に書いた評論では、「『欧州動乱』を『文化史的見地』から、『理知』に対する『精神の戦い』と意味づけ」、ベルクソンの「理知主義打破」哲学は、「戦争の時代にこそ意義を持つ」と主張した(太字は引用者。中山弘明『第一次大戦の“影”――世界戦争と日本文学』新曜社、2012年、26-27頁、72-76頁、222-223頁)。

三井甲之が右翼思想家の蓑田胸喜(むねき)などと「原理日本社」を結成したのは1925年のことであったが、社会ダーウィニズムの理論を援用して「この宇宙を支配している永遠の意志にしたがって、優者、強者の勝利を推進し、劣者や弱者の従属を要求するのが義務である、と感ずる」と記したヒトラーの『わが闘争』の第一部がドイツで出版されたのも同じ年であった

「『今の一瞬に久遠(くおん)の生命を生きる』という事が日本精神」であるとして「爆弾三勇士」を礼賛し、「殺人は普通悪い」と考えられているが、「戦争に出て敵兵を殲滅するのは善である」と『生命の實相』で説いて、軍人などにも強い影響力をもった谷口雅春の「生長の家」が創始されたのは1930年のことであった。

「生長の家」の教祖・谷口雅春はベルクソンに言及しながら「生命の実相(ほんとうのすがた)は動であって静ではないという事が判って来るのであります」と記していた(谷口雅春『古事記と日本国の世界的使命――甦る『生命の實相』神道篇』光明出版社、2008年)。

一方、『野火』の 第14節「降路」でベルグソン哲学への批判を記した大岡は、 第37節「狂人日記」ではこう記したのである。「この田舎にも朝夕配られてくる新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び欺(だま)されたいらしい人達を私は理解できない。恐らく彼等は私が比島の山中で遇(あ)ったような目に遇うほかはあるまい。」

堀田善衞の『囚われて』(1954)では元憲兵だった主人公の父親が「生長の家」のもじりと思われる“成長の家”の“聖書”にピストルを隠していたと記されているが、「盾の会」を結成した後で三島由紀夫は、「生長の家」の教祖・谷口雅春の思想に魅せられるようになり、分派の「生長の家本流運動」は谷口雅春の思想を絶対視して戦前の価値観への復帰を目指す「改憲」運動を推し進めている。

そのことに、注目するならば、堀田は短編『囚われて』において「生長の家」を示唆することで、戦前と戦後の価値観の同質性に鋭く迫っていたといえるだろう。

ドストエフスキー論との関連で問題なのは、「ヒットラーと悪魔」を発表した翌年の1961年に国粋派の論客・小田村寅二郎からの依頼に応えて国民文化研究会で「現代思想について」と題した講演を行った小林秀雄が、その後の学生との対話でベルクソンの意義を再評価したあとで、こう語っていたことである。

 「凡人が、自分は死んでもこのほうが正しいと思うと、人を殺すね。僕はそういうことを考えたこともある。正しくないやつを殺さなきゃならんでしょう。」(『学生との対話』新潮社、2014年、86頁)

『橋上幻像』論の構想について

短編『審判』(1947)で原爆の問題に関連して『黙示録』にも言及していた武田泰淳は、1954年に描いた『ひかりごけ』では、「大岡昇平氏の『野火』に於(おい)ても、主人公たる飢えた一兵士は、仲間から与えられた人肉(日本兵の肉)を口までは入れますが、ついに咽喉(のど)より下へは呑み下すことをしないのです」とし、「殺人の方は二十世紀の今日、きわめて平凡で、よく見うけられるが、人肉喰いの方はほとんど地球上から消滅しつつある」と記している。

三島由紀夫も1955年9月に「雲の会」の同人でもあった加藤道夫の追悼文「加藤道夫氏のこと」を発表し、その冒頭で「加藤氏は戦争に殺された人であったと思ふ。その死は戦後八年目であつたけれど、ニューギニアにおける栄養失調、そこからもちかへつたマラリア、戦後の貧窮、肋膜炎、肺患、かういふものが悉く因をなして、彼を死へみちびいた」と書き、「もしもう少し生きのびて、この状態を克服し、客観視する時が来たならば、この夢想家は、戦争と死のおそるべきドラマを書いたであらう」とも記していた。

さらに三島は、加藤が学生時代に書き上げていた遺書ともいえるような戯曲「なよたけ」が上演されなかったことにふれて「彼の生前にこれを上演しなかった劇団というところは、残酷なところだ」と記し、「かくてこの人肉嗜食(ししょく)の末世は、一人の心美しい詩人を、喰べてしまったのである」と結んでいた[

戦後間もない時期に発表されたこれらの作品や追悼文で人肉食のことが記されているのは、当時はまだ悲惨な体験を多くの日本兵が記憶していたためだと思える。

しかし、その記憶はすぐに消え去るようなものではなく、大岡昇平はその問題を1967年から1969年にかけて『中央公論』に連載した『レイテ戦記』でさらに深く掘り下げている。

『豊饒の海』の第2巻『奔馬』では「血盟団」事件をモデルとして美意識による暗殺を描いた三島由紀夫も、第3巻『暁の寺』(新潮社、1970)では美的な視点から「性の千年王国」を夢見るドイツ文学者・今西が語る「人肉嗜好」の物語を組みこんでいた(173-180頁)。

さらに、「今西はどんな些末な現象にも、世界崩壊の兆候を嗅ぎ当てた」とも記されているが(252頁)、その感覚は三島自身のものとも重なり、三島は原爆投下のニュースを知ったときの衝撃について、「世界の終りだ、と思つた。この世界終末観は、その後の私の文学の唯一の母体をなすものでもある」と「民族的憤激を思ひ起せ-私の中のヒロシマ」において記しているのである(447)。 つまり、三島由紀夫の作品にも『黙示録』的な終末観が深く関わっていたのだ 。

一方、堀田善衞が1953年末に自殺した友人で劇作家の加藤道夫をモデルとした長編小説『橋上幻像』の第1部を書いたのはようやく1970年のことであった。しかし、昭和初期の暗い時代における友人たちとの交友を描いた長編小説『若き日の詩人たちの肖像』(1968)で加藤道夫についても触れていた堀田は、その翌年に出版した美術紀行『美しきもの見し人は』では、『ヨハネの黙示録』にふれつつ、戦争の悲惨さにも言及していた。

そのことを想起するならば、堀田がニューギニア戦線で「地獄」を体験した加藤道夫をモデルとした小説を長く書かなかったことは、このテーマの重さを物語っているだろう。

 (2023/02/24、加筆と改題、2023/03/08、改訂)


「ドストエーフスキイの会」合評会(7月31日)の感想

はじめに

ロシア軍のウクライナ侵攻が深刻化する時期に行われた「ドストエーフスキイの会」の合評会では「『謙虚(謙抑)』の概念を考察した木下論文や〈神がなければすべては許される〉というテーゼが、「イワンの思想として小説の中で流布していく」過程を詳しく検証した熊谷論文からは強い知的刺激を受けた。それゆえ、合評会ではこの二つの論文を中心に感想を述べた。

例会ではそれをふまえて「大審問官」で述べられている究極の悪とされる「食人」の問題もレーベジェフが論じている『白痴』と、「食人」も起きたニューギニア戦線の記憶の問題が描かれている長編小説『橋上幻像』との関係を考察したいと考えた。

それゆえ、ここでは合評会で述べた感想と木下論文と熊谷論文については感想に加筆した形で掲載する。(例会発表の構想を練る中で『白痴』論と『橋上幻像』論とを組み合わせると時間が足りなくなることに気づき、例会では『橋上幻像』の詳しい考察は省いた)。なお、熊谷論文の考察と感想は、『橋上幻像』論の構想とも関連があるので、最後に掲載した。

『広場』31号掲載論文の感想

「ロシア・ヘシュカスム(静寂主義)」についての言及がある『広場27号』掲載の論文のテーマを受け継いだ木下豊房氏の巻頭論文「ドストエフスキーにおける「謙虚・スミレーニエ」の意味について」から私は静かだが重たい問題提起を受け取った。

なぜならば、「『謙虚(謙抑)』の概念はドストエフスキーの創作意識・方法(ポエティックス)の本質を成しているであろう」とも記されている木下論文では、「殺すこと」を厳しく批判した『罪と罰』のソーニャが「謙虚な英知の象徴」とされており、この問題はプーチンによるウクライナ侵攻の問題とも絡んでいるからである。

他方で、冒頭から4行目で「マゾヒズム」の問題に言及されているこの論文の12行目以降では、著者の問題意識が明確にこう記されている。「ロシア語の «смирение»(スミレーニエ・謙虚)」は、「欧米のフロイド主義的立場の研究者達からは精神病理学的な『マゾヒズム』と同一視され、しかもロシア人固有のメンタリティとされ、さらにはドストエフスキーとからめて論じられ、精神分析の格好な材料にされるという現象が起きている。」

この記述や論文全体で「マゾヒズム」という用語が14回も用いられていることに注目するとき、この論文は少女の行動に「マゾヒズム的快感」を読み取るような『悪霊』の解釈に疑問を示したSQUAREの論考「少女マトリョーシャ解釈に疑義を呈す」(『ドストエーフスキイ広場』第15号、2006年。『ドストエフスキーの作家像』鳥影社、2016年に再録)の問題意識を強く受け継いでいると思われる。

『現代思想』にも論文「ロシア民衆の宗教意識の淵源」が寄稿されていることに注目するならば、『悪霊』がメインテーマとなるIDSの日本大会で、この問題を深く問い直すことが読者に求められているのだろうと感じた。

「謙虚な英知の象徴」とされているソーニャ像に注目するならば、「ロシアの民衆の理想」とは漠然としたものではなく、「殺すなかれ」というイエスの理念を保持していた「ロシアの民衆」には戦争への批判も内在していると理解すべきであると思われる。

論文と同じような質の高さを持つ冷牟田エッセイ「『時間』(堀田善衞)を読む」は、堀田がエッセイ「文学の立場」で、「文学も、最早ドストエフスキー以上のものが出なければ到底間に合わないのだ。…まことの苦悩に鍛え抜かれた人間像を我々は生まねばならぬ」と記していたことに注意を向けて、この作品を丁寧に読み解くことで堀田善衞の誠実さとドストエフスキー文学への関心の深さと明らかにしている。

すなわち、まず第一章の「日記の文体」では、主人公の陳が日記を書くにあたって自ら制約を課していることに注意を促し、「感情に流されぬよう、情緒に溺れぬよう、痛々しいほど己を制御」していることを指摘している。以下、二、陳英諦の、絶望から希望へ、三、時の経過の描写、四、表題の「時間」について考える、五、鼎(かなえ)、と続いて、「むすび」では、陳英諦の年齢が著者と同じ三七歳なのは偶然ではないだろうとし、「自らの精神を陳英諦に託して『まことの苦悩に鍛え抜かれた人間像』を創出したのである」と結んでいる。/ 冷牟田氏のこの『時間』論は、『広場15号』のSQUAREに掲載された「疑問に思うこと」における『悪霊』論の読みの深さと冷静で客観的な分析にも通じていると思える。

清水論文「『死の家の記録』変奏(第一部)」では、流刑後のドストエフスキー作品の原点ともいえる『死の家の記録』について、会話体で広い視野から説得力豊かに論じられており、改めてその面白さと深さが感じられた。

たとえば、ロシア語を教えて山上の垂訓を読んだ後では回教徒のアレイが「ゆるせ、愛せよ、辱めるな、敵を愛せよ」という文章に感激したと告げられる場面やユダヤ人の活き活きとした描写からは、木下論文でも触れられているドストエフスキーの宗教観の一端が浮かび上がってくる。

「恐るべき臨死体験」についての詳しい言及からは、ブルガリアで行われた「国際ドストエフスキー・シンポジウム」に参加いただいた際の、ムィシキンの謙虚さによる行動を「魂の治癒の行動学」と呼んで分析した論文や、円卓会議での黒澤明の映画《白痴》の鋭い分析が思い起こされた。

論文では囚人たちが演じた「芝居」にもふれられているが、複雑な構造を持つこの作品を高く評価した黒澤監督が映画化をも真剣に考えていたことも付記しておきたい。

近藤論文「『二重人格』について」は、ゴーゴリの『狂人日記』とも比較することによって、「新ゴリャートキンは幻影ではなく実在していた。だからゴリャートキンは狂ってなどいなかった。それなのに精神病院行きになったのは、彼を疎ましく思う人たちの陰謀によるものであった」という説を提示し、それを丁寧に検証している。

最後に再登場する医師のクレスチャン・イワーノヴィチが正しいロシア語を話せていないことに注目して、「成りすまし」の可能性を指摘した箇所も面白い。

 「正教・専制・国民性」の厳守が求められていた当時のロシアにおいて、検閲に引っかからないような表現方法を模索しながら書かれている初期のドストエフスキー作品は、後期の作品のテーマだけでなく表現の方法においてもつながっており、その意味でも興味深く読んだ。

 長縄論文「ドストエフスキーにおける『ルーシ』の概念」は冒頭でまず、「ルーシ」と「ロシア」が同じ概念ではないことを確認している。用語の訳は作品の理解にもかかわるが、長年のゲルツェン研究の成果を踏まえてなされたこの指摘は重要だと思える。

ドストエフスキーが「農村共同体の直接的表現」とみなしている「ゼムストヴォ」との関連で「ルーシの民」は「西欧派のアソシエーションの原理は知らなかったが、すでにアルテリをもっていた」との指摘や、「西欧派の極北に位置するベリンスキーについても「ルーシの原理の闘士である」と書いていることに注意を促して、「この文章はゲルツェンについて言っているとも読めるだろう」という記述にも関心を持った。

なお、2012年はゲルツェン生誕200年にあたっていたが、「祖国戦争」勝利の記念行事で影が薄くなったと記した加藤史朗氏によれば、その年の学術会議で長縄光男氏はゲルツェンの時代と「新自由主義が跋扈する」昨今のロシアとの近似性を指摘して、プーチン政権の危険性をすでに示唆していた(『スラヴャンスキイ・バザアル――ロシアの文学・演劇・歴史』水声社,2021年)。

音楽の造詣も深い伊東氏の発表は大変興味深く聞いたが、伊東論文「《 ポリフォニー 》 における声』と『音』」では、バフチンの「ポリフォニー」論が「文化人類学に、従来の民族誌史は、作者が他者であるインフォーマントを客体として一元的に支配し、管理するモノローグ型の小説のようなものではないか、という反省を促した」ことも記されている。

さらに、ここでは「引用における対話性と二声性」については詳しくは記されてはいないが、前掲書『スラヴャンスキイ・バザアル』における「二つの『声』が同一方向のベクトルを持っているとき,それは様式化あるいは文体模倣となる」が,「異方向のベクトルを持つ二声的言葉は,批評的意識と結びつき,『笑い』と密接に関連する。『二声的言葉』の内部で二つの声は様々な対話的関係にある」という指摘はカーニヴァル理論の理解だけでなく,作者と主人公との関係や登場人物の相互関係を正しく理解するためにも重要であり、そのような理解は杉里直人氏の『カラマーゾフの兄弟』の新訳にも響いていると思われる。

熊谷論文「『神の観念の破壊』について」では〈場所柄をわきまえない会合〉におけるミウーソフの発言とミーチャの要約とが相まって〈神がなければすべては許される〉というテーゼが、「イワンの思想として小説の中で流布していく」ことが確認されている。

「悪魔の発言」をとおしてイワンの「伝道への熱意」が示され、『悪霊』のキリーロフが「もしそれを悟ったら、小さな女の子を辱めなどしなくなるでしょう」とも語っていたことに注意を向けた著者は、「我意は、利他と一体化している」としたキリーロフの人神論との類似性も指摘している。

さらに「死に対する恐怖の苦痛」という視点からキリーロフの人神論とイワンの叙事詩「地質学的変動」の問題を考察することによって、「神の観念の破壊」が人肉嗜食と結びつくことはないことを明らかにした著者は、民衆に保持される「信仰と謙譲」に希望を託しているゾシマの思想との比較も行った後で、「現代の生物学・心理学によれば利他的行動も自然の法則による」ことも記している。

こうして、ドストエフスキー作品の複雑な人物体系と相互関係に細心の注意を払いながら登場人物の発言を丁寧に分析した熊谷論文から私は強い知的刺激を受けた。

 (2023/02/24、加筆と改題)