(岩波文庫版『夜明け前』、図版は紀伊國屋書店より)
『罪と罰』からの強い影響が指摘されている『破戒』だけでなく、ドストエフスキー(1821~81)とほぼ同時期を生きた自分の父・島崎正樹(1831~86)をモデルとした『夜明け前』のことは、ずっと気になっていましたが、日本文学の専門家ではなく「復古神道」にも疎かったためにそのままになっていました。
ただ、今年が「明治維新」の150周年なので、日露の近代化の比較という視点から『夜明け前』をドストエフスキー研究者の視点から詳しく読み解くことにしました。
なぜならば、文芸評論家の小林秀雄は「天皇機関説」事件の翌年に行われた『文学界』合評会の「後記」で、『夜明け前』について「成る程全編を通じて平田篤胤の思想が強く支配してゐるといふ事は言へる」と記していましたが、この文章に注意を促した新保祐司氏が今年2月に雑誌『正論』に載せた評論で「改憲」の必要性を説いているからです。
すなわち、今年の「正論大賞」を受賞した新保祐司氏は「日本人の意識を覚醒させる時だ」と題した論考で、小林秀雄の「モオツァルト」にも言及しながら皇紀2600年の奉祝曲として作られたカンタータ(交声曲)「海道東征」を、ここには「紛れもなく『日本』があると感じられる」と賛美し、さらに「感服したのは、作者が日本という国に抱いている深い愛情が全篇に溢(あふ)れている事」だと記した小林の『夜明け前』論を引用して「戦後民主主義」の風潮から抜け出す必要性を主張していました。
しかし、『夜明け前』で「平田派の学問は偏(かた)より過ぎるような気がしてしかたがない」という寿平次などの批判的な言葉も記した島崎藤村は、新政府の政策に絶望して「いかなる維新も幻想を伴うものであるのか、物を極端に持って行くことは維新の附き物であるのか」という半蔵の深い幻滅をも描いていたのです。
自分の信じる宗教を絶対化して他者の信じる仏像などを破壊する廃仏毀釈を強引に行い、親類からも見放されて狂人として亡くなった半蔵の孤独な姿の描写は、シベリアの流刑地でも孤立していた『罪と罰』のラスコーリニコフの姿をも連想させるような深みがあります。
一方、テキストに記された「事実」を軽視して、きわめて情念的で主観的に作品を解釈する小林秀雄の批評方法は、「信ずることと考えること」と題して行われた昭和四九年の講演会の後の学生との対話でより明確に表れています。
すなわち、そこで「大衆小説的歴史観」と「考古学的歴史観」を批判しつつ、「たとえば、本当は神武天皇なんていなかった、あれは嘘だとういう歴史観。それが何ですか、嘘だっていいじゃないか。嘘だというのは、今の人の歴史だ」と語った小林秀雄は「神話的な歴史観」を擁護していたのです(国民文化研究会・新潮社編『小林秀雄 学生との対話』新潮社、2014年、127頁)。
小林秀雄の復古神道的な見方に対して全く異なる見解を記したのが、二・二六事件の前日に上京した若者を主人公とした自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』で、ドストエフスキーの『白夜』の冒頭の文章を何度も引用するとともに、「異様な衝撃」を受けたナチスの宣伝相ゲッベルスの「野蛮な」演説にも言及していた作家の堀田善衛氏でした。
平田篤胤の全集を読んだ主人公は、「洋学応用の復古神道――新渡来の洋学を応用して復古というのもまことに妙なはなしであったが――は、儒仏を排し、幕末にいたっては国粋攘夷思想ということになり、祭政一致、廃仏毀釈ということになり、あろうことか、恩になったキリスト教排撃の最前衛となる。それは溜息の出るようなものである」という感想を抱くのです。
さらに、堀田は登場人物の一人に「平田篤胤がヤソ教から何を採って何をとらなかったかが問題なんだ、ナ」と語らせ、「復古神道はキリスト教にある、愛の思想ね、キリストの愛による救済、神の子であるキリストの犠牲による救済という思想が、この肝心なものがすっぽり抜けているんだ。汝、殺すなかれ、が、ね」と続けさせていました。
この言葉は、昭和九年の「『白痴』についてⅠ」において「殺すなかれ」という理念を説いていたムィシキンを主人公とした長編小説『白痴』の結末を、「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と解釈していた小林秀雄の批評方法に対する厳しい批判ともなっているでしょう。
悲惨な戦争へと突入していくことになる時期の日本を描いた『若き日の詩人たちの肖像』は、政府主催による「明治百年記念式典」が盛大に行われた一九六八年に発行されていました。
このことに留意するならば、主人公の心境を描いたこの文章は、「立憲主義」を敵視して「憲法」の放棄を目指す復古主義的な傾向が再び強くなり始めていた執筆当時の日本に対する深い危惧の念をも示しているようにも思えます。(表記は現代表記に改めました)。
(2018年7月25日、8月18日改題と改訂)