高橋誠一郎 公式ホームページ

2018年

ドストエーフスキイの会総会と245回例会(報告者:泊野竜一氏)のご案内

ドストエーフスキイの会第49回総会と245回例会のご案内を「ニュースレター」(No.146)より転載します。

*   *   *  

 下記の要領で総会と例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                          

日 時2018512日(土)午後1時30分~5時           

場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車徒歩7分)   ℡03-3402-7854 

総会:午後130分から40分程度、終わり次第に例会

議題:活動・会計報告、運営体制、活動計画、予算案など

 例会報告者:泊野竜一 氏

題 目: 19世紀ヨーロッパ文学における沈黙する聞き手

   ホフマン、オドエフスキー、ドストエフスキーとの比較考察の試み                           

*会員無料・一般参加者=会場費500円

報告者紹介:泊野竜一(とまりの りょういち

早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程人文科学専攻ロシア語ロシア文化コース。研究テーマは、ドストエフスキー作品における対話表現としての長広舌と沈黙との問題、さらには19-20世紀ロシア文学における対話表現の問題の研究。2016年9月−2017年6月までモスクワ大学留学。具体的な研究内容として、ドストエフスキーの作品を中心として、その先駆となるもの、あるいは後継となるものとして、オドエフスキー、ゴーゴリ、アンドレーエフ、ガルシン、ブリューソフの作品を取り上げる。そして、それらの間での「分身」「狂気」「内的対話」の問題に取り組む予定。

 

245回例会報告要旨

19世紀ヨーロッパ文学における沈黙する聞き手ホフマン、オドエフスキー、ドストエフスキーとの比較考察の試み

2015年の225回例会では、ドストエフスキーが長編小説中、特に『カラマーゾフの兄弟』の《大審問官》で、一つの独特な対話表現を用いていると考えられること、それは、対話者の片方は長広舌を続け、もう片方は沈黙しそれを拝聴するという形式をもっていること、つまりこの対話は、見かけ上は、一方的なモノローグの様相を呈しているが、通常の相互通行の対話よりも、はるかに豊かな内的対話の表現となっていたのであったということについて発表した。

 しかしドストエフスキーに先行するE. T. A. ホフマンやV. F. オドエフスキーの作品にも《大審問官》の対話と少なくとも形式上は一致しているといえる対話が存在する。具体的にはまず、ホフマンの『砂男』に登場する学生のナターニエルとスパランツァーニ教授の令嬢オリンピアの対話が挙げられる。ナターニエルはふとしたことからスパランツァーニ教授の令嬢である美女オリンピアに恋をする。ところがオリンピアは教授の製作した自動人形であった。オリンピアは、彼女に恋したナターニエルの熱烈なアプローチに対してただ通り一遍の返答をすることしか出来ない。次に、オドエフスキーの〈ベートーベン晩年のカルテット〉に登場するベートーベンとその弟子のルイーザとの対話が挙げられる。〈ベートーベン晩年のカルテット〉は、若者たちが毎晩集まり、世を徹して語るという形式で書かれたオドエフスキーの額縁小説『ロシアン・ナイト』の第六夜で語られる物語である。この物語中でベートーベンはルイーザに対して芸術論を語るのであるが、ベートーベンの一弟子にすぎないルイーザは、ベートーベンの熱弁に対して一切返答することなく、ただひたすら彼の長広舌を拝聴しているのである。

 先行研究から、ドストエフスキーはホフマンやオドエフスキーからさまざまなかたちで影響を受けている作家であると考えられている。本発表では、長広舌を揮う話し手と、通常の対話では脇役としての役割を担うはずの、沈黙し長広舌を拝聴する聞き手という対話表現に注目する。これらの作品の対話の具体的な分析を行いつつ、《大審問官》との関連性について考察する。その上で、19世紀文学におけるこのような独特な対話表現の意義について検討していく。

 

三宅正樹著『近代ユーラシア外交史論集』の書評を「著書・共著と書評・図書紹介」の欄に掲載

『近代ユーラシア』紀伊國屋書店ウェブ頁(書影は、紀伊國屋書店のWEBより)

古代ギリシャや西欧各国だけでなくギリシャ正教を受け入れたロシアや、古代から現代にいたる中国や近代日本の時間概念が比較文明論の視点から考察されている大著『文明と時間』の第一部「比較文明論の視角」については、かつて『文明研究』第31号に掲載された書評で紹介しました。

なぜならば、そこでは湾岸戦争やボスニア・ヘルツェゴビナの紛争、チェチェン紛争などが頻発するようになったソ連の崩壊後の事態を受けて、これからは「イデオロギーの対立」に代わって「文明の衝突」の危険性がますます増えると予測して激しい議論を呼んだ政治学者サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突?」(1993年)や大著『文明の衝突と世界秩序の再編成』(1996年、邦訳『文明の衝突』)が、トインビーの文明論だけでなく山本新氏の『周辺文明論――欧化と土着』や神川正彦氏の論文の考察をとおして詳しく考察されていたからです。

01672

三宅正樹著『文明と時間』(東海大学出版会、2005年)

   *   *

広い歴史的視野と比較文明学的な視点で書かれている今回のご著書『近代ユーラシア外交史論集』も、現代の政治や外交の問題を考える上で重要な示唆にとんでおり、その意義はきわめて大きいと思います。

国際政治史は私の専門外なのですが、ロシアの「ユーラシア主義」と司馬遼太郎の文明観との関係に引きつけて論じてみました。東海大学文明学会『文明研究』第36号に掲載された書評を「著書・共著著書・共著と書評・図書紹介」の欄に転載しました。

書評 三宅正樹著『近代ユーラシア外交史論集』(千倉書房、2015)

*   *   *

日独伊三国同盟については本書でも言及されていましたが、「ヒトラーの戦争計画を史料に則して詳細に展開させ、ヒトラーと日本との関係にも日独伊三国同盟締結の過程で言及した、ユニークなヒトラー伝」の新訂版が5月に刊行されました。

ヒトラーと日本との関係については、昭和初期と現在の日本の政治思想とのつながりを考える上でもきわめて重要だと思えます。それゆえ、日本が無謀な戦争へと突入していく暗い昭和初期を描いた堀田善衛の『若き日の詩人たちの肖像』との関連で、本書『ヒトラーと第二次世界大戦 (新訂版)』(清水書院)にも言及したいと考えています。

ここでは取りあえず、本書の書影と目次を以下に掲載しておきます。

新・人と歴史拡大版<br> ヒトラーと第二次世界大戦 (新訂版)

(書影は紀伊國屋書店のwebによる)

目次

1 ドイツ国防軍とヒトラー(ホスバッハ覚書;国防軍掌握まで)
2 中央ヨーロッパの覇者として(オーストリア合併とチェコスロヴァキア解体;独ソ不可侵条約からポーランド分割へ;ヨーロッパ制覇)
3 東京・モスクワ・ベルリン(ベルヒテスガーデン会談と荻窪会談;日独伊三国同盟)
4 ヒトラー・モロトフ会談(モロトフとリッベントロップ;モロトフとヒトラー)

大岡昇平の江藤淳批判と子規の評論の高い評価

Natsume_Soseki_photo

夏目漱石(1867~1916、本名は金之助)。以下の図版は、いずれも「ウィキペディア」より。

夏目漱石は断片「無題」の最後に、自分の留学中に亡くなった盟友・子規への思いを次のように記していました。

 「霜白く空重き日なりき、我西土より帰りて、始めて汝が墓門に入る。爾時汝が水の泡は既に化して一本の棒杭たり。われこの棒杭を周る事三度、花も捧げず水も手向けず、只この棒杭を周る事三度にして去れり。汝は只汝の土臭き影をかぎて、汝の定かならぬ影と較べなと思ひしのみ」。

文芸評論家の江藤淳は、この文章を「子規に托し、嫂登世の墓を前にしての「孤愁」を述べた」ものであると解釈し、「棒杭とは登世の戒名を書いた『卒塔婆』であることが判明する」と注記していました。

これに対して、「卒塔婆はどうみても板で」あるが、「子規の墓はこの頃は例の墓標で、まさに『棒杭』だったのである」と指摘した大岡昇平は『子規全集』の監修者の一人として、「私はこの文献を江藤氏の三文小説的な曲解から守るつもりである」と記していました。(「江藤淳の『漱石とアーサー王傳説』を読む」、『文学における虚と実』、講談社、1976年、89~94頁)。

漱石の作品を嫂登世への思いという視点からスキャンダラスに解釈した文芸評論家の江藤淳は、「『文学論』を書いていた漱石には、自らの復讐の対象である文学の感触を楽しんでいるような、奇妙に倒錯した姿勢がある」とも記していました(下線引用者、江藤淳『決定版 夏目漱石』新潮文庫、1979年、45頁)。

しかし、正岡子規についての著作もある末延芳晴氏は、ロンドンでの漱石を考察して、江藤のような解釈は「『文学論』とその『序』が持つ本質的意味を読み誤ってしまって」いると厳しく批判しています(末延芳晴『夏目金之助 ロンドンに狂せり』青土社、2004年、462~464頁)。

この意味で注目したいのは、作家で小林秀雄の直弟子といえる大岡昇平が、こう記していたことです。

「私は、漱石は子供のとき読んだきりでございまして、むしろ若いころは、漱石は何かあまりおもしろくないんだというような雰囲気の中にいたわけで、私は高等学校のころから、つまり昭和の初めですが、いろいろ教えていただいた小林秀雄、河上徹太郎、あのグループには漱石論はないのです。」

しかも、大岡は江藤淳の夏目漱石論について「江藤さんの学術的探索は、こういう風に常にテクストから遊離したところで行われています」と、批判しています。(「漱石の構想力 江藤淳の『漱石とアーサー王伝説』批判、『文学における虚と実』、95頁、108頁)。

この大岡の言葉からは、『罪と罰』論に続く「『白痴』についてⅠ」で小林秀雄が、貴族トーツキーの妾にされていた美女のナスターシヤを「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定していたことが思い起こされます。なぜならば、両親が火災で亡くなったために孤児となったナスターシヤは、少女趣味のあったトーツキーによって無理矢理に妾にさせられていたのです。

「憲法」がなく表現の自由も厳しく制限されていた帝政ロシアで苦闘していたドストエフスキーの作品を主人公たちの情念に絞ってスキャンダラスに分析した小林秀雄の解釈の手法は、文芸評論家・江藤淳の漱石論にも受け継がれているといえるでしょう。

他方で大岡昇平は、島崎藤村の『若菜集』を新聞『日本』で厳しく批判した子規の「若菜集の詩と画」について、子規の評論には「同じ直截な論理と、歯に衣きせぬ語法において、今日でも私たちが手本とすべき多くのものを含んでいると思われる」と書いていました。

北村透谷の死後に島崎藤村が正岡子規と会って新聞『日本』への入社の相談をしていたことを考えるならば、『若菜集』から長編小説『破戒』への移行を考えるうえで、子規の批評についての大岡の評価はきわめて重要だと思えます。

(2018年4月24日、改訂。5月6日、改訂と改題)

高級官僚の「良心」観と小林秀雄の『罪と罰』解釈――佐川前長官の「証人喚問」を見て

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社 

先月の3月27日に行われた国会で「森友問題」に関して佐川宣寿・前国税庁長官の「証人喚問」が行われました。 喚問に先立って「良心に従って真実を述べ何事も隠さず、また、何事も付け加えないことを誓います (日付・氏名)」との宣誓書を朗読したにもかかわらず、佐川前長官は証言拒否を繰り返し、偽証の疑いのある発言をしていました。

その時のテレビ中継を見ながら思ったのは、戦前の価値観への回帰を目指す「日本会議」に支えられた安倍政権のもとで立身出世を果たした高級官僚からは、日本国憲法の第15条には「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と明記されているにもかかわらず、「良心」についての理解が感じられないということでした。

なぜならば、日本国憲法の第19条には、「人間は、理性と良心とを授けられて」おり、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」とされ、日本国憲法76条3項には、「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定められているからです。

そのことを考慮するならば、憲法にも記されている「良心」という用語を用いて、「良心に従って真実を述べ何事も隠さず」と述べた宣誓はきわめて重たいはずなのですが、佐川前長官はその重みを感じていないのです。 それゆえ、このような高級官僚に対しては、宣誓の文言を「良心に従って真実を述べ何事も隠さず」の代わりに、「日本人としての尊厳に賭けて真実を述べ何事も隠さず」としなければ本当の証言は出ないだろうとすら感じました。

ただ、「良心」についての理解の欠如は彼らだけに留まらず、学校などで「良心」の詳しい説明がなされていないので、戦後の日本でも「良心」は日本語としてはそれほど定着しておらず、多くの人にとっては漠然としたイメージしか浮かばないでしょう。 「良心」という単語やその理論は、法哲学にもかかわるので、少し難しいかもしれませんが、ここではまず、なぜ「良心」にそのような重要な意義が与えられたのかを、主に吉沢伝三郎氏の記述によりながら、その歴史的な経過を簡単に振り返っておきましょう。

272-x

すでにこの単語は、キリスト教の初期にもパウロなどによって多く用いられ大きな役割を演じましたが、近世に至るとキリスト教会では「免罪符」を乱発するなどの腐敗が目立つようになってきました。しかし、教皇に神の代理人としての地位が与えられている以上、それを批判することは許されませんでした。

このような中で教会の腐敗を批判したプロテスタントにおいては「知」の働きを持つ「良心」に、神の代理人である「教皇」であろうとも、不正を行っている場合にはそれを正すことのできる〈内的法廷〉としての重要な役割が与えられたのです。

皇帝に絶対的な権力が与えられていた近代のロシアにおいても、皇帝の絶対的な権力にも対抗できるような「良心」が重要視されたのでした。そして、自らをナポレオンのような「非凡人」であると考えて、「悪人」と規定した「高利貸しの老婆」の殺害を正当化した主人公を描いた長編小説『罪と罰』でも、「問題はわれわれがそれら(義務や良心――引用者)をどう理解するかだ」という根源的な問いが記されています。

「良心とはなにか」という問いは、ラスコーリニコフと司法取調官ポルフィーリイとの激論の中心をなしており、「良心に照らして流血を認める」ということが可能かどうかが主人公の心理や夢の描写をとおして詳しく検証され、エピローグに記されているラスコーリニコフの「人類滅亡の悪夢」は、こうした精緻で注意深い考察の結論が象徴的に示されているのです。

*   *

一方、文芸評論家・小林秀雄は、二・二六事件が起きる二年前の一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で弁護士ルージンや司法取調官ポルフィーリイとの白熱した会話などを省いて主観的に読み解いて、「惟ふに超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」と記し、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と結論していました。

この評論が書かれる数年前の一九二七年には、小説『河童』で検閲を厳しく批判した芥川龍之介が自殺するなど治安維持法が施行されて言論の自由が厳しく制限されており、評論の一年後には天皇機関説が攻撃されて「立憲主義」が骨抜きになります。

 小林秀雄が敗戦後の1948年11月に書いた「『罪と罰』についてⅡ」では、「事件の渦中にあつて、ラスコオリニコフが夢を見る場面が三つも出て来るが、さういふ夢の場面を必要としたことについては、作者に深い仔細があつたに相違ない」と記されているように、『罪と罰』の夢についての言及があります。 しかし、戦時中の自分の発言については「自分は黙って事件に処した、利口なやつはたんと後悔すればいい」と記していた小林秀雄の戦後の『罪と罰』論でも、中核的なテーマである「良心」の考察には深まりが見られないのです。

005l

戦後に小林秀雄が「評論の神様」とまで称賛され、教科書でも彼の文章が引用されていることを考えるならば、そのような小林秀雄の「良心」観は、安倍政権によって出世した政治家たちや高級官僚たちの「良心」理解にも反映しているように思われます。

一方、長編小説『破戒』を日露戦争後に自費出版していた島崎藤村は一九二五年に発行した『春を待ちつつ』に収めたエッセーで、日本だけでなくロシアにおいてもドストエフスキーの評価がまちまちであることを指摘したあとでこう記していました。

「思うに、ドストイエフスキイは憐みに終始した人であったろう。あれほど人間を憐んだ人も少なかろう。その憐みの心があの宗教観ともなり、忍苦の生涯ともなり、貧しく虐げられたものの描写ともなり、『民衆の良心』への最後の道ともなったのだろう。」

この言葉からは「明治憲法」の公布に到る時期を体験していた島崎藤村が『罪と罰』における「良心」の問題を深く理解していたことが感じられます。

現在の日本における政治家や高級官僚の「道徳」的な腐敗を直視するためには、北村透谷や夏目漱石、正岡子規など明治の文学者たちの視点で、「立憲主義」が放棄される前年の1934年に書かれて現代にも強い影響力を保っている小林秀雄の『罪と罰』論と「良心観」の問題点を厳しく問い直す必要があると思えます。

(2018年4月27日加筆。重要箇所を太字で表記,2023/02/13、ツイートを追加)  

シリアへの空爆のニュースに接して

  昨日、化学兵器使用についての確認がまだ国際機関によってなされておらず、国連安保理決議もない段階で、アメリカが国連憲章に基づかないシリアへの軍事行動を英仏とともに行いました。

むろん、化学兵器も使用したとされるシリアは強く非難されるべきでしょう。

しかし、「イラクが大量破壊兵器を開発している」との「虚偽」の「証拠」を根拠として米国主導で始まった「大義なきイラク戦争」への英国の参戦を決定したイギリスのブレア元首相は、2015年10月25日に放映された米CNNのインタビューで『我々が受け取った情報が間違っていたという事実を謝罪する』」と述べていました(「朝日新聞」デジタル版)。

そしてブレア氏は政権崩壊後の混乱について、「政権排除後に何が起こるかについて、一部の計画や我々の理解に誤りがあった」とも認めるとともに、イラク戦争が過激派組織「イスラム国」(IS)が台頭した主な原因かと問われると、「真実がいくぶんある」と答えていたのです。

*   *   *

2017年に『原子力科学者会報』は、テロや原発事故の危険性、「アメリカ第一主義」を掲げるトランプ大統領の地球温暖化や核拡散の問題に後ろ向きな政治姿勢などにより世界終末時計が「残り2分半」に戻ったと発表していました。

アメリカとの軍事的な連携の強化を狙う安倍政権は「戦争法案」と思われる「安保関連法案」を強行採決していましたが、自国は非人道的な核兵器を所有しその使用をも公言しているアメリカが先頭に立ってシリア政府への武力攻撃をすることは、再び軍拡を招く危険性を含んでいると思われます。

「核の時代」と「改憲」の危険性

(2018年4月27日、改題と改訂)

小林秀雄の『罪と罰』論と島崎藤村の『破戒』

上海事変が勃発した一九三二(昭和七)年六月に書いた評論「現代文学の不安」で、「この絶望した詩人たちの最も傷ましい典型は芥川龍之介であつた。多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書いた文芸評論家の小林秀雄は、その一方でドストエフスキーについては「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記しました〔『小林秀雄全集』〕。

しかし、二・二六事件が起きる二年前の一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林は、ラスコーリニコフの家族とマルメラードフの二つの家族の関係には注意を払わずに主観的に読み解き、「惟ふに超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」との解釈を記したのです。

そして、小林は新自由主義的な経済理論で自分の行動を正当化する弁護士ルージンや司法取調官ポルフィーリイとの白熱した会話などを省いて「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と結論していました。

このような小林の解釈は、『罪と罰』では「マルメラードフと云う貴族の成れの果ての遺族が」「遂には乞食とまで成り下がる」という筋が、ラスコーリニコフの「良心」をめぐる筋と組み合わされていると指摘していた内田魯庵の『罪と罰』理解からは大きく後退しているように思えます。

800px-Shimazaki_Toson2商品の詳細

(書影は「アマゾン」より) (島崎藤村、図版は「ウィキペディア」より)

 この意味で注目したいのは、天皇機関説が攻撃されて「立憲主義」が崩壊することになる一九三五年に書いた「私小説論」で、ルソーだけでなくジイドやプルーストなどにも言及しながら「彼等の私小説の主人公などがどの様に己の実生活的意義を疑つてゐるにせよ、作者等の頭には個人と自然や社会との確然たる対決が存したのである」と書いた小林が、『罪と罰』の強い影響が指摘されていた島崎藤村の長編小説『破戒』をこう批判していたことです。

 

「藤村の『破戒』における革命も、秋声の『あらくれ』における爛熟も、主観的にはどのようなものだったにせよ、技法上の革命であり爛熟であったと形容するのが正しいのだ。私小説がいわゆる心境小説に通ずるゆえんもそこにある」。

日本の自然主義作家における「充分に社会化した『私』」の欠如を小林秀雄が指摘していることに注目するならば、長編小説『破戒』を「自然や社会との確然たる対決」を避けた作品であると見なしていたように見えます。

たしかに、長編小説『破戒』は差別されていた主人公の丑松が生徒に謝罪をしてアメリカに去るという形で終わります。しかし、そのように「社会との対決」を避けたように見える悲劇的な結末を描くことで、藤村は差別を助長している校長など権力者の実態を明確に描き出し得ているのです。

そのような長編小説『破戒』の方法は、厳しい検閲を強く意識しながら主人公に道化的な性格を与えることで、笑いと涙をとおして権力者の問題を浮き堀にした『貧しき人々』などドストエフスキーの初期作品の方法をも想起させます。

さらに、小林秀雄は「私小説論」で日本の自然主義文学を批判する一方で、「マルクシズム文学が輸入されるに至って、作家等の日常生活に対する反抗ははじめて決定的なものとなった」と書いていましたが、この記述からは独裁化した「薩長藩閥政府」との厳しい闘いをとおして明治時代に獲得した「立憲主義」の意義が浮かび上がってはこないのです。

Bungakukai(Meiji)

(創刊号の表紙。1893年1月から1898年1月まで発行。図版は「ウィキペディア」より)

これに対して島崎藤村は「自由民権運動」と深く関わり、『国民之友』の山路愛山や徳富蘇峰とも激しい論争を行った『文学界』の精神的なリーダー・北村透谷についてこう記していました。

「彼は私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人の一人だ。そして私達のために、早くもいろいろな支度をして置いて呉れたやうな気がする」。

実は、キリスト教の伝道者でもあった友人の山路愛山を「反動」と決めつけた透谷の評論「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」が『文学界』の第二号に掲載されたのは、「『罪と罰』の殺人罪」が『女学雑誌』に掲載された翌月のことだったのです。

「反動は愛山生を載せて走れり。而して今や愛山生は反動を載せて走らんとす。彼は『史論』と名(なづ)くる鉄槌を以て撃砕すべき目的を拡(ひろ)めて、頻(しき)りに純文学の領地を襲はんとす」。

愛山の頼山陽論を「『史論』と名(なづ)くる鉄槌」と名付けた透谷の激しさには驚かされますが、頼山陽の「尊王攘夷思想」を讃えたこの史論に、現代風にいえば戦争を煽る危険なイデオロギーを透谷が見ていたためだと思われます。

なぜならば、「教育勅語」では臣民の忠孝が「国体の精華」とたたえられていることに注意を促した中国史の研究者小島毅氏は、朝廷から水戸藩に降った「攘夷を進めるようにとの密勅」を実行しようとしたのが「天狗党の乱」であり、その頃から「国体」という概念は「尊王攘夷」のイデオロギーとの強い結びつきも持つようになっていたからです。

つまり、北村透谷の評論「『罪と罰』の殺人罪」は「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」と深い内的な関係を有していたのです。

このように見てくる時、「教育勅語」の「忠孝」の理念を賛美する講演を行う一方で自分たちの利益のために、維新で達成されたはずの「四民平等」の理念を裏切り、差別を助長している校長など権力者の実態を明確に描き出していた長編小説『破戒』が、透谷の理念をも受け継いでいることも強く感じられます。

その長編小説『破戒』を弟子の森田草平に宛てた手紙で、「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞していたのが夏目漱石でしたが、小林秀雄は「私小説論」で「鷗外と漱石とは、私小説運動と運命をともにしなかつた。彼等の抜群の教養は、恐らくわが国の自然主義小説の不具を洞察してゐたのである」と書いていました。

夏目漱石や正岡子規が重視した「写生」や「比較」という手法で、「古代復帰を夢みる」幕末の運動や明治における法律制度や自由民権運動にも注意を払いながら、明治の文学者たちによる『罪と罰』の受容を分析することによって、私たちはこの長編小説の現代的な意義にも迫ることができるでしょう。

(2018年4月24日、改訂。5月4日、改題)

高級官僚の「良心」観と小林秀雄の『罪と罰』解釈――佐川前長官の「証人喚問」を見て

 主な引用文献

島崎藤村『破戒』新潮文庫。

『小林秀雄全集』新潮社。    

『罪と罰』の邦訳と「『罪と罰』の殺人罪」

はじめに 「憲法」の発布と『罪と罰』の受容

一、『罪と罰』の邦訳と「『罪と罰』の殺人罪」

Trutovsky_004

(26歳時のドストエフスキーの肖像画、トルトフスキイ絵、図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

  「『罪と罰』を読んだ時、あたかも曠野(こうや)に落雷に会うて眼眩(くら)めき耳聾(し)いたる如き、今までにかつて覚えない甚深の感動を与えられた。」(内田魯庵「二葉亭余談」)

「『罪と罰』についてⅡ」の冒頭近くで内田魯庵のこの文章を引用した文芸評論家の小林秀雄は、「読んだ人には皆覚えがある筈だ。いかにもこの作のもたらす感動は強い。残念な事には誰も真面目に読み返そうとしないのである」と書いていました。

興味深いのは、小林のこの評論が「日本国憲法」の発布から一年後の昭和二三年に発表されていたのに対し、それまで文学をあまり高く評価していなかった魯庵が『罪と罰』の英訳を入手して読んだのは大日本帝国憲法が発布された明治二二年のことだったことです。

引用の名手だけに小林秀雄の評論は一挙に読者を引きこむ印象的な書き出しとなっていますが、引用された箇所の後で魯庵はこう続けていました。

「然るにこういう厳粛な敬虔な感動はただ芸術だけでは決して与えられるものでないから、作者の包蔵する信念が直ちに私の肺腑の琴線を衝(つ)いたのであると信じて作者の偉大なる力を深く感得した。(……)それ以来、私の小説に対する考は全く一変してしまった」。

こうして『罪と罰』から強い感銘を受けた魯庵は「何うかして自分の異常な感嘆を一般の人に分ちたい」と思いたち、二葉亭四迷の助力を得て憲法のない帝政ロシアの首都サンクト・ペテルブルクを舞台に、主人公の法学部元学生の犯罪とその結果を描いた長編小説『罪と罰』の前半部分を、日本で初めて訳出して二回に分けて刊行したのです。

210px-uchida-roan

(内田魯庵(1907年頃)、図版は「ウィキペディア」より)

売れ行きが思わしくなかったために完訳はできなかったものの反響は大きく多くの書評が書かれましたが、なかでもこの長編小説の思想に肉薄していたのが、明治の雑誌『文学界』の精神的なリーダーで、魯庵とも同年の北村透谷でした。

 

島崎藤村の自伝的な長編小説『春』では、透谷の『罪と罰』理解の一端が、夫人から何をしていたのかと尋ねられて『俺は考えていたサ』と答えた青木駿一(モデルは北村透谷)の言葉でこう記されています。

「『内田さんが訳した「罪と罰」の中にもあるよ』、銭とりにも出かけないで、一体何を為(し)ている、と下宿屋の婢(おんな)に聞かれた時、考えることを為ている、とあの主人公が言うところが有る。ああいうことを既に言つてる人が有るかと思うと驚くよ。考える事をしている……丁度俺のはあれなんだね』」(『春』二十三)。

ここでは具体的に何を考えたかは描かれていませんが、透谷は『文学界』の前身の『女学雑誌』に載せた最初の評論で「心理的小説『罪と罰』はかの奇怪なる一大巨人ロシアの暗黒なる社界の側面を暴露して余(あま)すところなしと言うべし」と記し、「貴族と小民との間に鉄柵」が設けられていると指摘していました。

この記述からは西欧の大国に対抗するために短期間で「富国強兵」を成し遂げて貴族は特権を享受する一方で、農民は重い人頭税をかけられたために没落して「農奴」の状態に陥っていた帝政ロシアの体制の問題点を透谷がよく理解していたことが感じられます。

11695465141565245

(長女を抱いた北村透谷。小田原市立図書館所蔵と創刊号の表紙。図版は「ウィキペディア」より)

さらに北村透谷は翌年の一月に発表した評論「『罪と罰』の殺人罪」では、この長編小説の特徴をこう端的に指摘しているのです。

「最暗黒の社会にいかにおそろしき魔力の潜むありて、学問はあり分別ある脳髄の中(なか)に、学問なく分別なきものすら企(くわだ)つることを躊躇(ためら)ふべきほどの悪事をたくらましめたるかを現はすは、蓋(けだ)しこの書の主眼なり」。

そして、「英雄」には「悪人」を殺すことも許されるとする「非凡人の理論」を考え出したラスコーリニコフの危険性を鋭く認識していた透谷は、大隈重信に爆弾を投げた来島や明治二四年五月にロシア皇太子ニコライに斬りつけた津田巡査などにも言及しながらこう続けていました。

「来島(くるしま)某、津田某、等(とう)のいかに憐れむべき最後を為したるやを知るものは、『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なりと笑ひて斥(しりぞ)くるやうの事なかるべし」。

ただ、この評論では文部大臣の森有礼を暗殺した国粋主義者の西野文太郎には言及されていませんが、北村透谷よりも一歳年上の夏目漱石は『三四郎』の第一一章で広田先生に高等学校の生徒だった時に体験した出来事をこう語らせています。

「憲法発布は明治二十二年だったね。その時森文部大臣が殺(ころ)された。君は覚えていまい。幾年(いくつ)かな君は。そう、それじゃ、まだ赤ん坊の時分だ。僕は高等学校の生徒であった。大臣の葬式に参列するのだと云って、大勢鉄砲を担(かつ)いで出た。墓地へ行くのだと思ったら、そうではない。体操の教師が竹橋内(たけばしうち)へ引っ張って行って、路傍(みちばた)へ整列さした。我々は其処(そこ)へ立ったなり、大臣の柩(ひつぎ)を送ることになった」。

高等学校の生徒たちも「鉄砲を担(かつ)いで」大臣の葬式に参列したという記述からは、文部大臣の森有礼が暗殺されてからわずか一年後に儒教的な道徳が列挙されただけでなく、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」と命じた「教育勅語」が渙発されたことへの漱石の深い危惧が感じられます。

さらに漱石は明治四三年に修善寺で大病を患った時に、ペトラシェフスキー事件で捕らえられて「刑壇の上に」立たされて死刑を待つ「彼の姿を根氣よく描き去り描き來って已まなかった」と記し、こう続けていました。「ドストイェフスキーはかくして法律の捏(こ)ね丸めた熱い鉛(なまり)の丸(たま)を呑(の)まずにすんだのである。その代り四年の月日をサイベリヤの野に暮した」(太字は引用者)。

B_pokrovsky_kazn_1849

(セミョーノフスキー練兵場における死刑の場面、ポクロフスキー画。図版はロシア版「ウィキペディア」より)

「法律の捏(こ)ね丸めた」という漱石の表現には、皇帝が絶対的な権力を持っており「憲法」を求めることは許されなかった帝政ロシアで、農奴の解放や言論の自由、裁判制度の改革などを求めて捕らえられ死刑宣告を受けた若きドストエフスキーに対する深い共感が現れていると思えます。

「法律の捏(こ)ね丸めた」という表現からは、農奴の解放や言論の自由、裁判制度の改革などを求めて捕らえられて死刑宣告を受けた若きドストエフスキーに文明論的な視野を持つ漱石が強い共感を覚えていたことが感じられます。

クリミア戦争敗戦後の「大改革」の時期にシベリアから帰還したドストエフスキーは総合雑誌『時代』を創刊しますが、そこには自国や外国の文学作品ばかりでなく、司法改革の進展状況やベッカリーアの名著『犯罪と刑罰』の書評など多彩な記事も掲載されていました。

新自由主義的な経済理論で自分の行動を正当化する弁護士ルージンや心理学的手法でラスコーリニコフの犯罪に鋭く迫る司法取調官ポルフィーリイとの激しい議論が描かれている長編小説『罪と罰』は、監獄での厳しい体験や法律や裁判制度についての真摯な考察の上に成立していたのです。

(2018年4月24日、改訂。5月5日、短縮して改題。6月22日、改訂)

 

  夏目漱石と正岡子規の交友と作品の深まり――「教育勅語」の渙発から長編小説『三四郎』へ

夏目漱石の明治観と「明治維新」という用語

 

主な引用・参考文献

『北村透谷選集』、岩波文庫、1970年。

『現代日本文學大系6 北村透谷・山路愛山集』筑摩書房、1969年。

『透谷と近代日本』、翰林書房、1994年。

『内田魯庵全集』第3巻、ゆまに書房、1983年。

『明治文學全集 29 北村透谷集』筑摩書房、1976年。

『漱石全集』第12巻、岩波書店、1994年。

佐藤善也『北村透谷と人生相渉論争』近代文芸社、1998年。

井桁貞義『ドストエフスキイと日本文化』教育評論社、2011年。

『罪と罰』と「非凡人の思想」

 

Bundesarchiv_Bild_102-10541,_Weimar,_Aufmarsch_der_Nationalsozialisten

(1930年10月、政治集会におけるヒトラー。図版は「ウィキペディア」より)

 

『罪と罰』と「非凡人の思想」

  「ヨーロッパの、少なくともドイツの青年層が、自分たちにとってもっとも偉大な作家としてゲーテでもなければニーチェですらなく、ドストエフスキーを選んでいることは、われわれの運命にとって決定的なことのように思われる」。

 ドイツの作家ヘルマン・ヘッセは第一次世界大戦の後でこう記しましたが、長編小説『罪と罰』では憲法のない帝政ロシアでは「正義」が行われないことに絶望する一方で、「英雄」ナポレオンにあこがれて「非凡人の理論」を考えだした元法学部の学生ラスコーリニコフの思想と行動、そして苦悩が他の登場人物との緊迫した会話や心理分析をとおして描き出されていました。

  注目したいのは、『罪と罰』が連載される前年にナポレオン三世が、大著『ジュリアス・シーザー伝』の序文で「天才」による支配の必要性を次のように説いていたことです(ここではナポレオン一世はナポレオンと甥のルイ・ナポレオンはナポレオン三世と記す)。

 「並外れた功績によって崇高な天才の存在が証明された時、この天才に対して月並な人間の情熱や目論見の標準をおしつけることほど非常識なことがあるだろうか。(……)彼らは時に歴史に姿を現わし、あたかも輝ける彗星のように時代の闇を吹き払い、未来を照らし出す」。

 1848年のフランス・2月革命後の混乱の時期に行われた選挙で大統領に当選し、クーデターで皇帝となった後はクリミア戦争などさまざまな戦争に介入したナポレオン三世が、メキシコ出兵に失敗して栄光に陰りが見え始めていた1865年に著したのがこの本だったのです。

  ナポレオンの言葉「私が人類に対してなさんとした善が実現されるためには、これからまだどれほどの戦闘、血、そして年月が必要であることか!」を引用して、「セント・ヘレナの虜囚の予言」は、「1815年以来、日ごとに実証されつつある」と結んだこの「序文」は、本自体に先だって発表され、ロシア語を含むほとんど全ヨーロッパの言語に翻訳されて、すぐに激しい論議を呼び起こしました。

  「新しい言葉を発する天分」を有するか否かで、現在の法に従って生きる「凡人」と未来の主人となる「非凡人」とに分け、「悪人」と見なした高利貸しの老婆を殺害したラスコーリニコフの考えも、ナポレオン三世の思想や当時は科学的とされていた「弱肉強食の思想」を反映していたと言えるでしょう。

  こうして、ドストエフスキーはこの長編小説でラスコーリニコフと新自由主義的な経済理論で自分の行動を正当化する弁護士ルージンや心理学的手法でラスコーリニコフの犯罪に鋭く迫る司法取調官ポルフィーリイとの激しい議論をとおして、「弱肉強食の思想」の危険性を浮き彫りにしていたのです。

  そして、ポルフィーリイに「あの婆さんを殺しただけですんで、まだよかったですよ。もし別の理論を考えついておられたら、幾億倍も醜悪なことをしておられたかもしれないんだし」と語らせたドストエフスキーは、エピローグの「人類滅亡の悪夢」で「自己(国家・民族)の絶対化」の危険性を示していたのです。

 このことことに留意するならば、ドストエフスキーの指摘は、危機の時代に超人思想を民族にまで拡大して、「文化を破壊する」民族と見なしたユダヤ民族に対する大虐殺を命令したヒトラーの出現をも予見していたとさえ思えます。

  それゆえ、化学兵器が用いられたために1600万以上の死者が出た第一次世界大戦の後でヘッセはこう記していました。「われわれがドストエフスキーの作品に夢中になるのは…中略…ドストエフスキーの創作が、ここ数年来ヨーロッパを内からも外からも呑み込んでいる解体と混沌を、これに先んじて映し出した予言的なものであると感じるのである」。

 残念ながら、第二次世界大戦の終結時には原爆が二度にわたって使用されたことで、水爆実験が繰り返されるようになり1947年には、『原子力科学者会報』が核戦争を懸念して「終末時計」の時刻を発表して残り時間が3分になったと発表しました。

  「冷戦」が終了したソ連崩壊後も唯一の超大国アメリカが掲げるグローバリズムの圧力が世界の各国のナショナリズムを刺激してカリスマ的な指導者を求める傾向も強まり、「人類の滅亡」につながるような核戦争の危険性はむしろ高まっているように見えます。 現代にも直結している19世紀のグローバリズムの問題ときちんと向き合うためにも『罪と罰』をきちんと読み直すことが必要だと思えます。

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社  

〔明治の文学者たちの視点で差別や法制度の問題、「弱肉強食の思想」と「超人思想」などの危険性を描いていた『罪と罰』の現代性に迫り、さらに、「教育勅語」渙発後の北村透谷たちの『文学界』と徳富蘇峰の『国民の友』との激しい論争などをとおして「立憲主義」が崩壊する一年前に小林秀雄が書いたドストエフスキー論と「日本会議」の思想とのつながりを示唆する。〕

主な引用文献

ドストエフスキー、江川卓訳『罪と罰』上中下、岩波文庫。

レイゾフ編、川崎浹・大川隆訳『ドストエフスキイと西欧文学』勁草書房。

井桁貞義『ドストエフスキイ 言葉の生命』群像社。 (2018年3月28日、改題と改訂)

(2019年2月10日、6月24日、図版を追加)

 

ドストエーフスキイの会、第244回例会(報告者紹介:野澤高峯氏)のご案内

第244回例会のご案内を「ニュースレター」(No.145)より転載します。

*   *   *

第244回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                          

日 時2018年3月24日(土)午後2時~5時           

場 所千駄ヶ谷区民会館 1階奥の和室

(JR原宿駅下車7分)  ℡:03-3402-7854

報告者:野澤高峯 氏 

題 目: 「スタヴローギンとムイシュキン」―人間的価値審級を読み解く

*会員無料・一般参加者=会場費500円

報告者紹介:野澤高峯(のざわ こうほう)

書家。「謙慎書道会」評議員、「日本書道芸術協会」認定師範、「書象会」無鑑査会員、「ドストエーフスキイの会」会員、「日本ドストエフスキー協会(DSJ)」会員

*   *   * 

第244回例会報告要旨

「スタヴローギンとムイシュキン」人間的価値審級を読み解く

近代文学の基本は「個性=人間性」の表現だと言えるでしょう。そこには答えがなくとも、表現されていることのみで人間の苦境を救います。そのため文学作品は単に現実を描くだけではなく、それを超えたロマンを必ず含んでいます。しかし、そのロマンは、読み手の日常生活の現実感覚に耐えうるものであるか否かが問題となり、過去の文芸批評はこのロマネスクを常に問題として、観念批判(ロマン主義批判)をテーマとしてきました。ドストエフスキー文学はこの観念自体を作品の主題として、なおかつそれを背理として描いています。そのロマンの根拠となる「本来性・倫理性・審美性」(真・善・美)という価値審級(価値の秩序)をどのように扱っているかを、『白痴』と『悪霊』を中心に今回の報告で取り出したいと思います。それはドストエフスキーが無神論で提示した「問い」でもあると思われる為、無神論の現代的意味も浮上させたいと思います。

また、作品の登場人物は独立性が確保された描き方に徹していますが、スタヴローギンとムイシュキンは日常の現実感覚では予想できない謎めいた人物像で設定されています。価値審級を背景に、この謎も解読してみたいと思います。読解の方法としては形而上学や偶喩・説話的理説を排し、実存論的読解で作品に向き合いますが、同様にスタヴローギンとムイシュキン自身にもこの読解で存在論的に向きあいます。これは80年代からの主流であった文学理論、言語論とは逆行しますが、主軸を「エクリチュール」ではなく「パロール」に置き、尚且つ「言語」ではなく「意識」に置く読み方です。読解のスタンスと同様に作品の中でも、価値審級の取り出しにおいて価値の根拠を「本体」として、人間の外部には想定しません。「神はいない」という前提で解読し、「神」に迫る方法です。

今回の考察は『カラマーゾフの兄弟』の主題に迫る為の序奏ですが、考察で設定した無神論の「問い」の一つ目は、イワン・カラマーゾフ的無神論を背景とした次の「問い」です。

「神がいなければ、人間の欲望の存在それ自体が、「真・善・美」に向かう本性をもっているかどうか」

つまり、「本来性・倫理性・審美性」が作品でどの様に描かれ、物語にどの様な意味を持っているかを取り出す事です。私は「真・善・美」については性善説の立場ですが、形而上学を前提としない為、それに向かうことが人間の本来性とは捉えていません(「あってほしい」という願望と「あるべきだ」という要請はロマン主義となります)。それに向かう、その条件を設定することが重要です。

二つ目は、ドストエフスキーが作品(『白痴』『悪霊』)の中での想定していた神とは何かという事です。ここでも無神論の「問い」として、ニーチェの無神論との比較を横にし、暴挙とも受け取られますが、キリスト教の教義も形而上学とみなしこれを前提としません。

考察のポイントは、スタヴローギンの人物像を、その「意識」の地平(超越論的主観)から捉え、『告白』の意味を探ります。また、ムイシュキンの人物像も、その「意識」の地平から捉え、「意識の限界点」とは何かを探ります。補助題材として小林秀雄の『白痴について』と山城むつみの『小林批評のクリティカル・ポイント』を参考に、その意味を探り、スタヴローギンとムイシュキンの遭遇した共通点を見極め、底辺にあるニヒリズムを基にした作品の現代性も浮上させたいと思います。

 

『黒澤明で「白痴」を読み解く』の紹介(ブルガリア・ドストエフスキー協会のサイトより)

ブルガリア・ドストエフスキー協会のサイトに日本語とロシア語で『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011年)の自著紹介が書影とともに掲載されました。ここでは日本語版を転載します。

https://bod.bg/en/authors-books.html

 『黒澤明で「白痴」を読み解く』大ブルガリア、ソフィア大学 (ソフィア大学、出典はブルガリア語版「ウィキペディア」)

 『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011)

 はじめに――混迷の世界と「本当に美しい人」の探求

目次

序章 「謎」の主人公――方法としての文学と映

第一章 「ナポレオン風顎ひげ」の若者――ムィシキンとガヴリーラ

第二章 ロシアの「椿姫」――ナスターシヤとトーツキー

第三章  ロシアの「イアーゴー」――レーベジェフとロゴージン

第四章 「貧しき騎士」の謎――アグラーヤとラドームスキー

第五章  「死刑を宣告された者」――イッポリートとスペシネフ

第六章 ロシアの「キリスト公爵」―― 悲劇としての『白痴』

終章 ムィシキンの理念の継承――黒澤映画における『白痴』のテーマ

あとがき

索引

附録1 『白痴』関連年表 附録2 黒澤明関連年表

  *   *   *

本書で私は黒澤明監督の視点と比較文学や比較文明学の方法によって、長編小説『白痴』を詳しく分析することによって、現代におけるこの長編小説の真の意義を明らかにしようと試みた。

ドストエフスキーは長編小説『白痴』の構想について姪のソフィアに宛てた一八六八年一月一日の手紙で、次のように記していた。「この長編の主要な意図は本当に美しい人間を描くことです。これ以上に困難なことはこの世にありません。…中略…。この世にただひとり無条件に美しい人物がおります。――それはキリストです。」

長編小説『白痴』でムィシキン公爵はギロチンによる死刑を批判しながら、「『殺すなかれ』と教えられているのに、人間が人を殺したからといって、その人間を殺すべきでしょうか? いいえ、殺すべきではありません。ぼくがあれを見たのはもう一月も前なのに、いまでも目の前のことのように思い起こされるのです。五回ほど夢にもでてきましたよ」と語っていた。

そして、ドストエフスキーはプーシキンの『貧しき騎士』や『けちな騎士』、『エヴゲーニイ・オネーギン』や、グリボエードフの『知恵の悲しみ』など多くのロシア文学や、ユゴーの『死刑囚の最後の日』や『レ・ミゼラブル』、デュマ・フィスの『椿姫』など西欧文学にも注意を払いながら、この長編小説『白痴』を書いていた。

一方、第二次世界大戦の終了から数年後の1951年にドストエフスキーの長編小説『白痴』を元にした同名の映画を公開した黒澤明監督は、「『白痴』演出前記」において、「僕は僕なりに、この主人公と作中人物を永い間愛して来た」と書いた黒澤は、映画《白痴》を「原作の深さ」には及ばないだろうとしながらも、「原作者に対する尊敬と映画に対する愛情を傾けて、せい一ぱい努力するつもりだ」と書いた。

実際、多くの文学作品を成功裏に映画化している黒澤は、場所と時代、登場人物を変更しながらも、二つの家族の関係と女主人公の苦悩を主人公の視線をとおして正確に描き出している。

ことに、真夜中の怖ろしい悲鳴と死刑になる場面を夢で見たという主人公の説明が描かれている冒頭のシーンと、映画の最後に綾子(アデライーダ)が主人公の世界観を讃えつつ、「私、なんて馬鹿だったんだろう……白痴だったの、わたしだわ!」と語っている場面は、この長編小説に対する監督の深い理解を物語っている。

残念ながら、この映画は会社の要求によって半分に短縮されたが、軽部(レーベジェフ)がシェークスピアの戯曲『オセロ』のイアーゴーと同じように、主人公たちを破滅へと導く狡猾な役割を果たしていることを暴露している映画の脚本は完全な形で残っている。

脚本においてもレーベジェフの娘ヴェーラやイッポリートの形象は欠如しているが、クリスマスの賛美歌「清しこの夜」が響いている映画《醜聞》(1950)では清純な心を持つ、卑劣な弁護士の娘が、映画《生きる》(1952)には病によって「死を宣告」されてイッポリートと同じように絶望した主人公が描かれている。こうしてこれらの映画は長編小説『白痴』の三部作とも呼べるような深い関わりを持っている。

さらに、長編小説『白痴』ではシュネイデル教授をはじめ、有名な外科医ピロゴフ、そしてクリミア戦争の際に医師として活躍した「爺さん将軍」などがしばしば言及されており、ガヴリーラもムィシキンに対して「いったいあなたは医者だとでもいうのですか?」と尋ねていた。

実際、ムィシキンはロゴージンにナスターシヤについて「あの人は体も心もひどく病んでいる。とりわけ頭がね。そしてぼくに言わせれば、十分な介護を必要としている」と説明していたのである。

一方、黒澤映画《酔いどれ天使》(1948)や《静かなる決闘》(1949)、《赤ひげ》(1965)では医師が非常に重要な役割を演じており、ことに映画《赤ひげ》ではドストエフスキーの長編小説『虐げられた人々』のネリーをモデルにした少女の患者と医者たちとの感動的な関係が描かれている。

ムィシキンのテーマの深まりからは、おそらく黒澤が、医師(人)が全力を尽くして患者の生命(肉体のみならず精神)を救うというテーマを、ドストエフスキーの主要なテーマと結びつけて考えていたのだと思える。

さらに、イッポリートが「公爵、あれは本当のことですか、あなたがあるとき、世界を救うのは『美』だと言ったというのは?」と質問していたことも考慮するならば、そのことは病んだ世界についてもいえるだろう。

こうして、本書では他の黒澤映画も検討しながら大地主義の意義も考察することによって、現代の世界における長編小説『白痴』の重要性を示した。