『若き日の詩人たちの肖像』では「『カラマーゾフの兄弟』中の、スペインの町に再臨したイエス・キリストが何故に宗教裁判、異端審問にかけられねばならなかったかという難問について」喋り続けるアリョーシャと呼ばれる若者が描かれていますが、「ガダルカナルでは陸軍は殲滅的な打撃をうけているらしい」ことが伝わってくるようになると、その彼は「突然正座して膝に手を置き、眼と額をぎらぎらと輝かして」次のように語ります〔下・305~306〕。
「だからキリストがだな、キリストが天皇陛下なんだ。つまり天皇陛下がキリストをも含んでいるんだ。キリストの全論理の、その上に、おわしましますんだ」。
そこではどうしてそのような結論になるのかは明かされていませんが、「いずれその日本のために戦って死なねばならぬとなれば、国学というものにはその日本の絶対によい所以(ゆえん)が書いてあるのであろう」と思い、「平田篤胤全集にとりかかった」主人公は、アリョーシャの言葉の論理的な背景を知ることになります〔下・320~323〕。
すなわち、そこでは「義の為にして窘難(きんなん)を被る者は、これ即ち真福にて、その已に天国を得て処死せざるとあるなり。これ神道の奥妙、豈人意を以て測度すべけむや」と書かれていたのですが、それは「幸福(さいわい)なるかな、義のために責められたる者、天国はその人のものなり」という「マタイ伝第五章にあるイエス・キリストの山上の垂訓」のほとんど引き写しだったからです。
それでも、「平田篤胤は、本当に前人未踏の地で苦闘をしているのである。天地創造の問題を神学的に処理するために彼は苦しみぬいているのである」と評価しようとした主人公は、アリョーシャの論理をこう説明しています。
「キリスト教や西洋天文学までを援用して儒仏を排するというところから発し、アダムもエヴァもわれらの古伝の訛りだということになれば、つづけて世界も宇宙も、つまりは八紘はわが国の天之御中主神の創造になるものであり、従って八紘はわが国の一宇であって、その天之御中主神が天皇陛下の御先祖様であるということになると、それはまったくアリョーシャの言ったように、天皇はキリストを含んで、という次第に、たしかになる。」
しかし、その後で主人公は「この洋学応用の復古神道――新渡来の洋学を応用して復古というのもまことに妙なはなしであったが――は、儒仏を排し、幕末にいたっては国粋攘夷思想ということになり、祭政一致、廃仏毀釈ということになり、あろうことか、恩になったキリスト教排撃の最前衛となる。それは溜息の出るようなものである。」と続けていました。
一方、文芸評論家の小林秀雄は1942年7月に行われた座談会「近代の超克」において、「近代人が近代に克つのは近代によってである」として欧米との戦争を評価していましたが(河上徹太郎、竹内好他『近代の超克』富山房百科文庫、昭和54年)、長編小説の主人公はこの座談会を想起しながら、「とにかく近代の超克もなにもあったものではなかった。近代を超克するというのなら、まず平田篤胤あたりから超克してかからなければならぬだろうと思う」と書いています。
しかも、登場人物に「平田篤胤がヤソ教から何を採って何をとらなかったかが問題なんだ、ナ」と語らせた堀田氏は、「復古神道はキリスト教にある、愛の思想ね、キリストの愛による救済、神の子であるキリストの犠牲による救済という思想が、この肝心なものがすっぽり抜けているんだ。汝、殺すなかれ、が、ね」と続けさせています。
この言葉は、「殺すなかれ」という理念を説いていたムィシキンを主人公とした長編小説『白痴』の結末について、「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と1934年に書いた「『白痴』についてⅠ」で解釈していた小林秀雄のドストエフスキー観の厳しい批判ともなっているでしょう。
そして、この長編小説で堀田善衛氏は主人公の心境を次のように描いているのです。「平田篤胤の研究は、男を本当にがっかりさせてしまった。何をするのもいやになってしまった。日本精神だとか、国学だとか、あるいはまた皇道ということばが印刷物に矢鱈に沢山出てくる。」(下、327)。
興味深いのは、このような厳しい批判が長編小説『竜馬がゆく』において、幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となり、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と記した作家・司馬遼太郎の指摘と重なることです。
その司馬は『この国のかたち』の第五巻で「篤胤は、国学を一挙に宗教に傾斜させた。神道に多量の言語をあたえたのである」と指摘し、「創造の機能には、産霊(むすび)という用語をつかい、キリスト教に似た天地創造の世界を展開した」と説明した後で、平田篤胤の言説が庄屋など「富める苗字(みょうじ)帯刀層にあたえた」影響を次のように記していました。
「平田国学によって幕藩体制のなかではじめて日本国の天地を見出させた、ということだった。奈良朝の大陸文化の受容以来、篤胤によって別国が湧出したのである」(太字は引用者)。
「昭和初期」を「別国」あるいは、「異胎」の時代と激しい言葉で呼んでいた司馬氏がここでも「別国」という独特の用語を用いていることは、昭和の「別国」と平田篤胤によってもたらされた「別国」との連続性を示唆していると思われます。
(岩波文庫版『夜明け前』、図版は紀伊國屋書店より)
このような昭和初期の重苦しい時代に島崎藤村が描いた長編小説が、「黒船」の到来に危機感を煽られて古代を理想視した平田派の学問を学び、草莽の一人として活躍しながら明治維新の達成後には新政府に裏切られて絶望し、ついに発狂して亡くなった自分の父・島崎正樹(1831~86)を主人公のモデルとした『夜明け前』でした。
この長編小説は芥川龍之介が日本の検閲を厳しく批判した小説『河童』を書いたあとで、「ぼんやりした不安」を理由に自殺した2年後の昭和4年から連載が始まり昭和10年に完結しましたが、その年にはそれまで国家公認の憲法学説であった東大教授・美濃部達吉の天皇機関説が「国体に反する」との理由で右翼や軍部の攻撃を受けて、著者は公職を追われ、著書は発禁となるという事件が起きていました。
それゆえ、研究者の相馬正一は「田中ファシズム内閣が、〈国家〉の名において個人の言論・思想を封殺する狂気を実感しながら」島崎藤村が、「『夜明け前』の執筆と取り組んでいた」ことの意義を強調しています(『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』人文書館、2006年)。
実際、天皇機関説事件で「立憲主義」が否定された日本では、明治5年3月に廃止されて内務省神社局となっていた神祇省が皇紀2600年を祝った昭和15年に内務省の「外局神祇院に昇格」して、「国家神道は名実ともに絶頂期」を迎えました。
(1940年の紀元2600年記念式典会場、出典は「ウィキペディア」)
しかし、それは神武東征の神話を信じた日本が、「皇軍無敵」を唱えて無謀な太平洋戦争へと突入することを意味していました。
戦況が苦しくなると神風を信じて特攻隊をも編制してまでも戦争を続けた日本は、広島・長崎に原爆が落とされたあとでようやくポツダム宣言を受け入れたのです。
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注目したいのは、司馬遼太郎や宮崎駿監督と行った鼎談で、堀田善衛が「『この国』という言葉遣いは私は島崎藤村から学んだのですけど、藤村に一度だけ会ったことがある。あの人は、戦争をしている日本のことを『この国は、この国は』と言うんだ」と語っていたことです(『時代の風音』朝日文庫、1997年、150頁)。
実際、『夜明け前』には「新たな外来の勢力、五か国も束になってやって来たヨーロッパの前に、はたしてこの国を解放したものかどうかのやかましい問題は、その時になってまだ日本国じゅうの頭痛の種になっていた」などという形で「この国」という表現が度々出てきます。
このように見てくるとき、大学受験のために上京した翌日に2.26事件に遭遇した主人公が「赤紙」によって召集されるまでの「昭和初期」の重苦しい日々を、若き詩人たちとの交友をとおして克明に描き出した堀田善衛の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』(1968年)は、馬篭宿の庄屋であり、「篤胤没後の門人」でもあった青山半蔵を主人公とした島崎藤村の『夜明け前』を強く意識して書かれていたといっても過言ではないでしょう。