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11月

『若き日の詩人たちの肖像』と小林秀雄のドストエフスキー観(4)ーー『白痴』をめぐって

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

1,若き主人公と『白夜』冒頭の文章

第一章の題辞には「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた」という文章で始まる『白夜』の冒頭の言葉に続いて、祈りにも似た次のような言葉も引用されていた。

「空は一面星に飾られ非常に輝かしかつたので、それを見ると、こんな空の下に種々の不機嫌な、片意地な人間が果して生存し得られるものだらうかと、思はず自問せざるをえなかつたほどである。これもしかし、やはり若々しい質問である。親愛なる読者よ、甚だ若々しいものだが、読者の魂へ、神がより一層しばしばこれを御送り下さるやうに……。」(米川正夫訳)

しかし、泥沼の日中戦争に続いて英米とも開戦に踏み切った日本は、初戦の真珠湾攻撃で華々しい戦果を挙げたが、「特殊潜航艇による特別攻撃」に参加した二十歳前後の若者全員が、後の「神風特攻隊」を予告するかのように戻らなかったという事態も起きていたことを知った時に、若者は「腹にこたえる鈍痛を感じ」る(下巻、92頁)。

そして、長編小説の終わり近くで召集令状が来たことを知らせる実家からの電報が届き、「警察で殺されるよりも、軍隊の方がまだまし」と感じた男は、「新橋サロンの詩人たちにも、なにも言わないことにした」とし、『白夜』の文章にについてこう記すことになる。

「郵便局からの帰りに空を仰いでみると、冬近い空にはお星様ががらがらに輝いていたが、そういう星空を見るといつも思い出す、二十七歳のときのドストエフスキーの文章のことも、別段に感動を誘うということもなかった。なにもかもが、むしろひどく事務的なことに思われる。要するにおれは、あの夢のなかへ、二羽の鶴と牡丹の花と母の舞と銀襖の夢のなかへ死んで行けばいいというわけだ、と思う。」

2,「謎」のような言葉――主人公の『白痴』観

注目したいのは、12月9日の夕方に若者の家を訪れて、真珠湾攻撃の成果を「どうだ、やったろう」と誇った特高刑事をそのまま返すのが業腹で彼らを尾行していた若者は、「成宗の先生」(堀辰雄)と出会って立ち話をしていた際に、長編小説『白痴』に言及していることである。

すなわち、堀田善衛は特高警察の目つきから「殺意に燃えたラゴージンの眼」を思い出し「ほとんどうわの空」で、「ランボオとドストエフスキーは同じですね。ランボオは出て行き、ドストエフスキーは入って来る。同じですね」(下巻、83頁)と主人公の若者に「謎」のような言葉を語らせていた。

その後で堀田は、「鈍痛」を抱えながら閉じこもって『白痴』を読んだ若者にこの言葉の意味を説明させているのである(文庫本・下巻93頁~101頁)。ここでは長編小説『白痴』に対する作者の強い愛着が示されているので、少し長くなるが引用しておきたい。

「学校へも行かず、外出もせず、課された鈍痛は我慢をすることにし、若者はとじこもって本を読みつづけた。ドストエフスキーの『白痴』は、何度読んでも、大きな渦巻きのなかへ頭から巻き込むようにして若者を巻き込み、ときには、その大渦巻きの、回転する水の壁が見えるように思い、エドガー・ポオの大渦巻き(メイルストローム)さえが垣間見えるかと思うことさえあった。とりわけて、その冒頭が若者の思考や感情の全体を占めていた。

――なるほど! 絶対の不可能を可能にするには、こうすればいいのか!

と、その冒頭の三頁ほどを、毎日毎日読みかえした。古本屋で買った英訳と、白柳君に借りた仏訳の双方があったので、米川正夫訳と三冊の本を対照しながら読み返してみていた。」

この後で長編小説『白痴』の冒頭の文章を書き写した著者は、「あのロシアの平べったい平原の、ところどころに森や林や広大な水たまりなどのあるところを、汽車がひた走りに走って行く、その走り方のリズムのようなものが、この文章に乗って来ていることが、じかに肌に感じられる」と記している。

そして、二人の旅客に注意を向けてロゴージンを描いた文章を引用した後で「向ひの席の相客は、思ひもかけなかつたらしい湿つぽい露西亜の十一月の夜のきびしさを、顫へる背に押しこたへねばならなかつたのである」とムィシキンを描写していることに注意を促してこう続けている。

「天使のような人物を、ロシアという現実のなかへ、人間の劇のなかへつれ込むのに、汽車という、当時としての新奇なものに乗せた、あるいは乗せなければなかった、そこに、ある痛切な、人間の悲惨と滑稽がすでに読みとられるのである」(下巻、96頁)。

3,「シベリヤから還つたムィシキン」という小林秀雄の解釈

一方、小林秀雄は二・二六事件が起きる2年前の1934年に書かれた「『罪と罰』についてⅠ」で、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」とし、エピローグは「半分は読者の為に書かれた」と解釈していた(『小林秀雄全集』第六巻、四五頁、五三頁)。

そして、エピローグにおけるラスコーリニコフの「復活」を否定した小林は、「ドストエフスキイは遂にラスコオリニコフ的憂愁を逃れ得ただらうか」と問いかけ、「来るべき『白痴』はこの憂愁の一段と兇暴な純化であつた。ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」というテキストを修正するような大胆な解釈を示して『白痴』論の方向性を示していた(『小林秀雄全集』第六巻、六三頁)。

続く「『白痴』についてⅠ」で小林は、貴族のトーツキーの妾となっていた美女のナスターシヤを、「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定していたが、それは厳しい格差社会であった帝政ロシアの現実を無視した解釈だろう。両親が火災で亡くなって孤児となったナスターシヤは、貴族のトーツキーに養育されたものの少女趣味のあった彼によって無理矢理に妾にさせられた被害者だったのである(『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』、31頁)。

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しかし、「ムイシュキンの正体といふものは読むに従つていよいよ無気味に思はれて来る」と続けた小林は、『白痴』の結末の異常性を強調して「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と記していた(拙著、47頁)。

4,「外界」から「入って」来るムィシキン

一方、『若き日の詩人たちの肖像』で堀田は、ムィシキンのような「天使」はやはり「外国、すなわち外界から汽車にでも乗せて入って来ざるをえないのだ」(下線の箇所は原文では傍点)と記していた。

この文章は『白痴』を映画化した黒澤明監督と同じように、作家・堀田善衛がこの長編小説を正確に読み解いていることを物語っているだろう。なぜならば、スイスでの治療をほぼ終えたムィシキン公爵が混沌としている祖国に帰国する決意をしたのは、母方の親戚の莫大な遺産を相続したとの知らせに接したためだったからである。

そして、ドストエフスキーは小説の冒頭で思いがけず莫大な遺産を相続したムィシキンとロゴージンの共通点を描くとともに、その財産をロシアの困窮した人々の救済のために用いようとした主人公と、その大金で愛する女性を所有しようとしたロゴージンとの友情と対立をとおして、彼らの悲劇にいたるロシア社会の問題を浮き彫りにしていた。

『若き日の詩人たちの肖像』については、2007年に上梓した拙著 『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』でも言及していたが、ムィシキンが「外界」から「入って」来たことに注意を促しているこの文章が、「ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」という解釈を行っていた小林秀雄の『白痴』論を強く念頭に置いて書かれていた可能性にようやく気付いたのは、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』を上梓したあとのことであった。

ここでムィシキンが「外界」から「入って」来ることを強調した堀田は、「小説を読み通して行って、その終末にいたって、天使はやはり人間の世界には住みつけないで、ふたたび外国の、外界であるスイスの癲狂院へもどらざるをえないのである」と小林とは正反対の解釈を記していたのである(下巻、100頁)。

そして、「白痴、というと何やら聞えはいいかもしれないが、天使は、人間としてはやはりバカであり阿呆でなければ、不可能、なのであった」と続けた著者は、若者が「成宗の先生」(堀辰雄)に語った「謎」のような言葉の意味をこう説明していることである。

「左様――ムイシュキン公爵は汽車に乗って入って来たが、ランボオは、詩から、その自由のある筈の詩の世界を捨てて出て行って」しまったというのが、「若者が成宗の先生に言ったことの、その真意であった」(下線は原文では傍点)。

そして、「しかしなんにしてもド氏の小説は面白い、面白くてやり切れなかった。とりわけて、ド氏が小説というものの枠やルールを無視して勝手至極なことをやらかしてくれるところが面白かった」と書いた堀田は、結末の異常性を強調した小林とは反対に「『白痴』はその終末で若者に泪を流させた」と続けていた。

『若き日の詩人たちの肖像』と小林秀雄のドストエフスキー観(3)――『罪と罰』への言及と芥川龍之介の遺書

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

前回は『若き日の詩人たちの肖像』の全体像を確認するために、アリョーシャと呼ばれるドストエフスキーの愛読者の変貌と『罪と罰』を中心に戦争と文学との関わりを考察していた『英雄と祭典』の著者の思想との関連に焦点をあてて、この長編小説の最後までの流れを考察した。

今回はこの長編小説を初めからゆっくりと読み直すことで、第一章の題辞として『白夜』の冒頭の文章を引用していた堀田善衛が小説において『罪と罰』についてどのように言及しているかを確認したい。

*   *

「扼殺者の序章」と題された序章では、序章の冒頭で、「機を見て僕はお前を扼殺したらしい」というフレーズを含む「潟の記憶」と題する詩を載せた著者は、それが、引き揚げ船で上海から帰って来たばかりの一九四七年に書かれたことを明かしたあとで、「記憶を扼殺」した感覚をこう記している。

「自身の指と手のひらに、扼殺者としてのうずくような感覚が、…中略…いまもなお指と手のひらの皮膚になまなましく生きて残っている。男がしめ殺したものが何と何と何であったか」。

その後でこの長編小説でも「冬の皇帝」という呼び名で登場する詩人・田村隆一の「おれはまだ生きている/死んだのはおれの経験なのだ」という句を含む「一九四〇年代夏」という詩が紹介されている。これらの文章からは作家の司馬遼太郎が「鬼胎」と呼んだ昭和初期の異常な時代が、ひしひしと観じられる。

ただ、第一章の題辞に「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた。」という言葉で始まる『白夜』のロマンチックな文章が置かれることによって、暗闇が少しやわらぎ小説空間が広がる。

そして、その冒頭では「文学少年」というよりは「音楽少年といったものであった」少年が上京した晩に聞いた「ボレロ」の強烈な印象で身体が反応してしまったという、音楽の力や生命の不思議さが観じられるエピソードが記されている。

しかも、堀田は暗く重苦しい時代をしぶとく生き、「少年」から「若者」を経て「男」となる主人公を時にユーモアを交えて描いており、読者は彼とともに暗い時代を追体験することになるが、それは陰惨なリンチの問題をテーマとした長編小説『悪霊』を、「時に爆笑を誘うほどのユーモアをともなって」描いていたドストエフスキーの手法とも通じているだろう(下巻、102頁)。

少年の生家は「北国の小さな港町に、二百ほどのあいだ、北海道と大阪をむすぶ、いわゆる北前船の廻船問屋をいとなんで来た家」で、少年が生まれた1918年に、「港の対岸にある滑川の女房連が発起」した米騒動が起きていた。しかし、その騒動が少年の生まれた港にも「波及してきた際には、かつて「明治の民権自由運動の壮士たちの後援者でもあった」曾祖母は、「直ちに家の者、店の者の先頭に立っててきぱきと指示をして」、民衆に粥を配って騒ぎを収めていた。

こうして、父が「古い家柄というものと名とをつかって県会議員をやったりして」おり、選挙の際には「政府与党でない者の選挙違反をつくり上げる義務があった」刑事たちが、「電話その他の盗聴に来ていた」のを見ていた少年は法学部政治学科の予科に入っていた。

このような主人公の設定は『罪と罰』や『白痴』を理解する上でも重要だろう。『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』で分析したように、これらの長編小説を主観的に分析した小林秀雄の解釈では、ドストエフスキーの作品の骨格をなしている「憲法」や法律、裁判の問題などや強者による弱者の蔑視などの問題は読者の視野には入ってこない。

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1954年のエッセー「二つの衝撃」で「裁判を扱う偉大な作品」として『ベニスの商人』『赤と黒』『復活』などとともに『罪と罰』を上げていた堀田善衛は、「キリストもまた、裁判について痛烈なことばをのこし、また自ら十字架に罹っている」と記していた(『堀田善衛全集』第15巻、78頁)。

『罪と罰』では裁判のシーンはエピローグで簡単に描かれているのみなので、むしろ『カラマーゾフの兄弟』が挙げられるべきだと思うが、主人公を法学部の元学生だったとした『罪と罰』でも、弁護士や「司法取調官」などの登場人物をとおして法律の問題点が鋭く描き出されている。

法学部政治学科の学生を主人公とした『若き日の詩人たちの肖像』でも、主人公の『罪と罰』観が記されているばかりでなく、特高警察や検事などが重要な役割を担っており、法律だけでなく拷問などの問題が考察の対象となっている。

たとえば、第一部の冒頭近くでは、大学の保証人になってもらうために従兄のもとを訪ねて行き、「幼いときからなじんでいたこの従兄の表情の険しさに、ほとんど声を出さんばかりに愕いた」と描かれている。

このエピソードを読む現代の読者も拷問の陰惨さに激しく驚かされると思うが、日本の山県有朋などの政治家はロシア帝国の宗教政策や教育政策をモデルの一つとしていた。それゆえ、その強大なロシア帝国が革命によって打倒されたあとでは、大日本帝国の崩壊を怖れて共産党を根絶やしにしようとしていたのである。

「日本共産党の関西関係の、かなりに重要なポストにいたらしかった」従兄は、「思想犯ということで、長く警察にとめおかれ、」「怖ろしい拷問」を三週間も連日受け、「少年の母が司法省の高官の紹介をもって面会に行ったとき、従兄の顔は腫れあがり、手には真新しい軍手をはめさせられていた」が、それは「指、爪、指のつけ根をいためつけられていたからであった」。

そして著者は、母が少年にそのことを詳しく語ったのは、「母にしても、あまりにむごい、警察の非道に就いて、誰かに何かを訴えたかったのかもしれない」と続けた。

それは1918年の米騒動の際には「騒ぎのつづいたあいだじゅう、ずうと人民に粥を配って騒ぎをおさめた」曾祖母が、貧民を助けずに騒動を拡げた問屋たちを「滑川の者(もん)はダラやがいね。心得のないことをしてしもて」と批判し、「問屋というものには問屋としての心得があることをさとした」ことにも通じているだろう。

著者は従兄の面変わりについて、「人はたとえ肉体的には死ななかったとしても、彼のなかで何かが死ぬ、殺される、あるいは殺す、ということがあるものなのであるらしい。/それがそういうふうにしてわかったことは、少年の心の底に、暗く彩られた、ある深い部分をのこした」と記している(27頁)

そして、2・26事件後の6月号に掲載された河合栄治郎の論文が「バッテンばかりで、さっぱり見当もつかなかった」と記されていたように(53頁)、政府を批判する論文への検閲が徐々に厳しさを増していた。

ヒトラーが独裁的な権力を獲得した1933年の2月に『蟹工船』を書いて政府の方針を真っ向から批判していた小林多喜二は拷問で死亡していたが、ドイツではユダヤ人の虐殺のことが一般の民衆には知られていなかったように、日本でも一般大衆は警察による拷問は共産党員に対してのみ行われていたように考え、自分とは関わりの無いかのように処していたように思われる。

このような時期に『罪と罰』を読んで「殺人の場面が、殺人者のラスコリニコフも、また殺される高利貸の婆さんの顔も、またその現場の全体もが黄色一色に塗りつぶされていることに、小説作家というものの心配りの仕方を読みとっていたのである」と書いた主人公もまだこうも記していた。

「『罪と罰』を読んでラスコルニコフは言うまでもなく、あのスヴィドリガイロフなどという怪異な人物は、東京で言えば必ずや大川の向う住んでいる筈」と考えて、「川向うでしばらくを暮した」が、彼らに似た人物とは会えなかったために「あれはやっぱりドストエフスキーという作者の頭のなかの闇でだけ生きている」のかと考えていた。

その彼が『罪と罰』の登場人物に似た人物と会うことになるのは、「理由の説明も何もなく、物品のように若者はどさりと淀橋署の留置場へ放り込まれた」後のことであった。

*   *

2・26事件の余波はなかなか収まらなかったが、主人公がたびたび引っ越しした部屋の一つは、夫が死刑になったあとで軍首脳部の弾劾を続けていた2・26事件の首謀者の未亡人の隣室であった。

そのために右翼係りの刑事がこの「夫人を監視するために隣室の住民である若者の部屋」に、「ご迷惑さんです……」といいながら入り込んで、隣室の模様に耳をこらして」いたが、本人の不在中に家捜しされて部屋に隠していたマルクスやレーニンの本のことを知られたのである。

朝早くに乱暴にアパートの部屋をノックされて、戸を開けると「服を着ろ、警察の者だ」とせき立てられた主人公は、そのまま「ズボンのベルトに腰縄をつけられ」て下北沢の下宿から淀橋署まで連行されたのである。

そのことを記した著者はすでに同級生の二人が授業中に呼び出されて一人が留置場で亡くなっていたことなども記した後で、小林秀雄が訳したランボオ詩集中の「おお城よ/季節よ」というフレーズについて、「張り詰めた呼びかけの、その氷の様に澄み渡った美しさも、これもまたランボオの、詩人として死を賭けていたればこそのものではなかったか」と続けていた。

そして、自分の「氷の様に澄み渡った」という言葉を思い出したことで、「不意に、芥川龍之介の遺書である「或旧友へ送る手記」のことを思い出して勃然たる怒りを感じた」と書き、「所謂生活力と云ふものは実は動物力の異名に過ぎない」で始まる文章を引用している。

「僕の今住んでゐるのは氷のやうに透(す)み渡つた、病的な神経の世界である。僕はゆうべ或売笑婦と一しよに彼女の賃金(!)の話をし、しみじみ「生きる為に生きてゐる」我々人間の哀れさを感じた。…中略…君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは僕の末期(まつご)の目に映るからである。」(159頁)

この文章の後で著者は「何を言ってやがんだ!…中略…いかにお前さんが、たしかに敢然と自殺したからと言って、こんなことを言う権利があるのか!」というこの文章に対する主人公の激しい反発を記している。

小林秀雄が訳したランボオの詩の紹介に続いて芥川龍之介の遺書に対する怒りが記されているこの箇所からは、堀田もまた小林ととともに芥川龍之介を批判しているようにも読める。しかし、「詩と死」についての考察はこの小説に一貫して流れており、小説では「澄江君」と呼ばれる芥川龍之介の遺児・芥川比呂志との出会い以降は遺書に対する思いが少しずつ変化する一方で、なぜここでランボオが引用されていたかも後に明らかになる。

本稿の視点から興味深いのは、この留置所に13日間拘留された主人公を釈放する前に「我が国は皇国であって、国体というものは」などと説教した中年の男が「自分の言っていることを、自身でほとんど信じていないということは、明らかに見てとれた」と記したあとで、「『罪と罰』に出て来る素晴らしく頭がよくて、読んでいる当方までが頭がよくなるように思われるあの検事のことがちらと頭をかすめた」と続けていることである(170頁)。

この文章は昭和初期の日本の政治状況が、憲法のなかった帝政ロシアでも「暗黒の30年」と呼ばれたニコライ一世の治世下と急速に似てきたことをよく物語っているように思われる。すでにこの頃には大学でも「少年が入る前年に、予科生は髪の毛を切れ、坊主頭になれ、つまりは兵隊頭になれという命令」が出ていた。

さらに、「ヨーロッパで戦争」が始まると「東京の街々では、喫茶店や映画館で、また直接の街頭でさえ、官憲によって“学生狩り”というものが行われていた。ぶらぶらしている学生を、遠慮会釈なくひっとらえて一晩か二晩留置所に放り込み、脅かしておいて放り出す。そういう無法が法の名をおいて」行われるようになったのである。

その理由について著者は、「それが何の用意であるかといえば、答は今の日支事変よりももっと大きな戦争という、そのこと以外にありそうもなかった」と記していた(219頁)。

実際、太平洋戦争の戦況が厳しくなる学生たちも戦場へと駆り出されて230万ほどの戦死者を出し、しかも「どの戦場でも戦死者の6~8割が『餓死』という世界でも例がない惨状」で亡くなることになったのである。

学徒出陣

出陣学徒壮行会(1943年10月21日、出典は「ウィキペディア」)

アメリカ軍機による空襲が行われるようになると、「文化系学生の徴兵猶予がとり消されるのは、もう目前なのだ」と語られるようになったことを記していた著者は〔下、208〕、学徒出陣の壮行会に主人公が遭遇した際のことを詳しく描いている〔下、374~376〕。

「競技場からは、吹奏楽をともなった男女の大合唱による、荘厳な『海行かば』が聞こえて来た。…中略…男は傘をさして樹陰のベンチにいたのであったが、競技場の入口あたりから行進が町に出はじめたらしかったので立って道のところまで出て行くと、行進は学生たちのものであった。」

「男は何度か突きとばされて、はじめて、これが出陣学徒壮行大会であったことに納得が行った。行進して行く学生たちは、いずれもみな唇を噛み、顔面蒼白に、緊張をしている、と見えた。法文系は一切廃止されてしまい、全部が全部、丙種不合格までが一斉に十二月一日に入営することになったのである。男の眼に泪が溢れてくる。」

そして、「こういう学生たちまでをお召しだのなんだのという美辞麗句を弄して駆り出して、いったい日本をどうしようというのだ、という、どこへもぶっつけようのない怒りがこみあげて来る」と主人公の思いを記した堀田は、鎌倉初期に思いを馳せながら「鴨長明がルポルタージュをしていたような事態が刻々に近づきつつあるように予感される。『方丈記』は実にリアリズムの極を行く、壮烈なルポルタージュであった。」と続けていた。

堀田善衛、方丈記私記、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

(2017年12月24日、加筆)

ドストエーフスキイの会、第242回例会(報告者:齋須直人氏)のご案内

第242回例会のご案内を「ニュースレター」(No.143)より転載します。

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第242回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                    

日 時2017年11月25日(土)午後2時~5時       

場 所千駄ヶ谷区民会館

(JR原宿駅下車7分)  ℡:03-3402-7854 

報告者:齋須直人 氏 

題 目: 『白痴』、「大罪人の生涯」、『悪霊』における対話による道徳教育

*会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:齋須直人(さいす なおひと)

1986年生まれ。京都大学文学研究科スラブ語学スラブ文学専修博士課程に在中。論文「ザドンスクのチーホンの「自己に勝つ」ための教えとスタヴローギンの救済の問題について」(ロシア語ロシア文学研究49号、2017)、 «О влиянии Достоевского на творчество Т.Манна во время мировых войн (世界大戦期におけるドストエフスキーのトーマス・マンの作品への影響について)» (ドストエフスキーと現代―2014年 第29回 スターラヤ・ルッサ国際学会論集―、2015)、他。

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第242回例会報告要旨

題目:『白痴』、「大罪人の生涯」、『悪霊』における対話による道徳教育  

ドストエフスキー本人の宗教的立場と結びつけつつ、この作家の作品に見られる道徳教育のモチーフを論じることには困難がある。ドストエフスキーの作品は、ポリフォニック小説として読まれるようになってから、作品内で作家自身の立場も相対化されることとなり、作家の作品創造の目的や、作品全体を通して作家が何を主張したかったかについて考察することについて慎重になる必要が生じた。そのため、この作家の作品を、あたかも一定の作品創造の目的があるかのように解釈することが多かれ少なかれ必要とされるような読み方、例えば、登場人物の成長物語(ビルディングスロマン、聖者伝など)として読むことが容易ではなくなっている。作品の中での教育のモチーフ(特に道徳教育)を読み解く際も、教育がある程度一定の価値観に従って人を導くものである以上、同様の問題がある。しかし、ドストエフスキーの作品の中で、成長物語や教育の要素は独自のあり方で存在している。そして、これらの要素と作家自身の立場を完全に切り離すことはできない。特に、作品を描くさい、ドストエフスキーが若者の道徳教育に強い問題意識を持っていたとすれば尚更である。報告者は、作品の芸術的形式に十分注意を払いつつ、作家の宗教思想と作品の全体性が矛盾しないものとして作品を読み解くことを目標とし、ドストエフスキーの作品における、対話を通した道徳教育を研究テーマの一つとしている。

1860~70年代、土壌主義者であるドストエフスキーは西欧の教育を受けた階級の人々と民衆との乖離をロシア社会の根本的な問題とみなしていた。彼はロシアのインテリゲンツィヤと民衆との一体化が、両者のロシア正教への信仰を基礎としてもたらされるものと考えた。特に、作家が懸念していたのはロシアの若者たちに、社会主義やポジティヴィズムを基礎としたニヒリズムが広まっていることだった。1870年3月25日のマイコフに宛てた書簡で、ドストエフスキーは「大罪人の生涯」の構想(結局書かれることなく終わった)について詳しく書いているが、それに際し、次のように述べている:「ニヒリズムについては何も言いません。待ってください、ロシアの土壌から引き離された、この上位層はまだ完全に腐っているのです。お分かりでしょうか、私には次のことが頭に浮かぶのです。つまり、この多くの最もろくでなしの若者たち、腐っている若者たちが、最終的には本物のしっかりした土壌主義者に、純粋なロシア人になるということが」。そして、後に、『悪霊』の創作ノートにおいて、作家は次のように記している:「我々は形(образы)を失ってしまった、それらはすぐさま拭い去られてしまい、新しい形も隠されてしまっている。(…)形を持たない人々は、信念や科学、いかなる支点も持たず、社会主義の何かしらの秘密を説いている。(…)全てのこれら確固としたものを持たない大衆を捕えているのは冷笑主義である。指導者を持たない若者たちは見捨てられている」。ドストエフスキーにとって、新しい世代への宗教・道徳教育についての問題は重要なものであった。彼は、迷える若者たちを導く肯定的な人間像(образ положительного человека)を創造することを自己の課題とした。そして、この課題を『白痴』、「大罪人の生涯」、『悪霊』において実現しようとした。

本報告では、作家本人の教育における立場や宗教観を適宜参照しつつ、これらの作品において対話を通した教育がいかに描かれているか検討する。これら3作品の変遷をたどることで、ドストエフスキーの作品の道徳教育のモチーフがいかに形成されていったかを明らかにしたい。『白痴』との関連では、1860年前後のヤースナヤ・ポリャーナにおけるレフ・ニコラエヴィチ・トルストイの教育活動が、主人公レフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキン像の形成にいかに用いられたかに着目する。「大罪人の生涯」、『悪霊』については、これらの作品の登場人物である僧チーホンと主人公との対話を、ドストエフスキーが参考にしたと考えられる、ザドンスクのチーホンの思想、また、スーフィズムとの関連に着目する。

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例会の「傍聴記」や「事務局便り」の主ななどは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。なお、「事務局便り」にも「国際ドストエフスキー研究集会」のことが掲載されましたのでその箇所を転載します。

◎来年2018年10月23日~26日に、ブルガリアの首都ソフィアで、国際ドストエフスキー研究集会がブルガリア・ドストエフスキー協会の主催で開催される模様です。『白痴』の公刊150周年ということで、黒澤明の『白痴』もテーマとしてとりあげられ、高橋さん所属の「黒澤明研究会」に協力要請が来ています。参加希望者は、詳しくは、高橋さんのHP-http://www.stakaha.com/ からお問い合わせてください。

『若き日の詩人たちの肖像』と小林秀雄のドストエフスキー観(2)――アリョーシャと呼ばれる若者と『英雄と祭典』

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

序章と四つの部からなる長編小説『若き日の詩人たちの肖像』では、「成宗の先生」(モデルは堀辰雄)だけでなく、集英社文庫版の「解説」で篠田一士が説明しているように、「澄江君」(芥川比呂志)や「白柳君」(白井浩司)、「赤鬼君」(加藤道夫)、「良き調和の翳」(鮎川信夫)、「冬の皇帝」(田村隆一)、「富士君」(中村真一郎)、「ドクトル」(加藤周一)などの重要な人物も描かれている。

中でも注目したいのは、厳しく言論を弾圧することによって無謀な戦争へと突入するようになるこの時代に激しく変貌する「アリョーシャ」と呼ばれる若者である。第二部第一章で始めて登場する際には「『カラマーゾフの兄弟』中の、スペインの町に再臨したイエス・キリストが何故に宗教裁判、異端審問にかけられねばならなかったかという難問について、限りもなく喋りつづけていた」この若者は、三年間で「ドストエフスキーから太宰治を経て惟神の道に」至ることになる。

この人物に注目しながら読み直しているうちにアリョーシャのモデルには、ドストエフスキーの作品論をとおして「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と主張する著書『英雄と祭典 ドストエフスキイ論』(白馬書房、昭和17年)を真珠湾攻撃の翌年の昭和17年に発行した堀場正夫も入っているのではないかとより強く考えるようになった(引用は井桁貞義・本間暁編『ドストエフスキイ文献集成』、大空社、1996年による)。

堀田善衛の長編小説『若き日の詩人たちの肖像』は、受験のために上京した主人公が翌日に2・26事件と遭遇するところから始まるが、『英雄と祭典』の「序にかへて」でも「殊に万延元年の桜田門外の変以来の、異状に人々を安逸の眠りから呼び醒ます事件として知られてゐる昭和十一年二月二十六日の前夜、その夜は夜半からしんしんとして冷え、何か魂が羽搏きでもするやうに大朶の雪が降りだした」と記されているからである。

その深夜に『罪と罰』のポルフィーリイとの激しい議論でラスコーリニコフが、ナポレオンのような「非凡人」は「「たしかに肉体でなくて青銅で出来てゐるに違ひない」と絶叫するに至るあの異様に緊張した場面」を読んでいたと記した堀場は、「しかも明くれば二月二十六日、白雪におほはれた東京の街は、ただならぬ緊張の中におかれたのである」と書き、「近代の長い夜はこの日から少しづつ白みそめたといつたら間違ひであらうか」と続けていた。

著書の題名が『英雄と祭典』と付けられている理由は、日中戦争の発端となった昭和12年7月7日の盧溝橋事件を賛美したと思われる「序にかへて」の冒頭の次のような文章から明らかであろう。「今では隔世の感があるのだが、昭和十二年七月のあの歴史的な日を迎へる直前の低調な散文的平和時代は、青年にとつて実に忌むべき悪夢時代であつた」。

「平和時代」を「悪夢時代」と規定した堀場は、西欧の「英雄」ナポレオンを打ち倒したロシアの「祖国戦争」を「祭典」と見なしたのである。

このような著者の「英雄」観には、小林秀雄の英雄観が強く反映していると思われる。ヒトラーが政権を掌握した翌年の昭和9年に本格的な『罪と罰』論と『白痴』論を相次いで雑誌に掲載した小林は、太平洋戦争が始まる前年の9月にはヒットラーの『我が闘争の書評を「朝日新聞」に書き、『文學界』の10月号に掲載された鼎談「英雄を語る」では、ナポレオンを「英雄」としたばかりでなく、ヒトラーも「小英雄」と呼んで「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語り、「暴力の無い所に英雄は無いよ」と続けていたのである(『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』、168頁)。

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注目したいのは、昭和14年8月に発表した「疑惑 Ⅱ」で「軍神」とされた戦車隊の下士官・陸軍中尉西住小次郎を扱った「菊池寛氏の『西住戦車長伝』を高く評価した小林秀雄が、2年後の3月に発表した評論「歴史と文学」の第二章で、徳富蘇峰が序文を書いた元従軍記者・ウォシュバンの伝記『NOGI』の邦訳『乃木大将と日本人』を賛美する一方で、かつては高く評価していた芥川龍之介の『将軍』への否定的な見解を記したことである。

リンク→司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって

この評論は昭和7年に発表した「現代文学の不安」で、「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」とドストエフスキーについて記した小林が、なぜ芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と非難していたかをも説明していると思える。

 さらに、先に見た鼎談「英雄を語る」で、「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と作家の林房雄から問われると「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ」と楽観的な説明をしていた小林秀雄は、戦争に突入したことや戦果報告などを知らせる放送「三つの放送」を聞いたときの印象を「三つの放送」(1942.1『現地報告』)でこう記していた(*1)。

すなわち、「帝国陸海軍は、今八日未明西太平洋に於いてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」 という放送を聞いた際には、「いかにも、成程なあ、といふ強い感じの放送であつた。一種の名文である。日米会談といふ便秘患者が、下剤をかけられた様なあんばいなのだと思つた」と記した小林は、「宣戦詔勅」の印象をこう記していた。

「何時にない清々しい気持で上京、文藝春秋社で、宣戦の御詔勅捧読の放送を拝聴した。僕等は皆頭を垂れ、直立してゐた。眼頭は熱し、心は静かであつた。畏多い事ながら、僕は拝聴してゐて、比類のない美しさを感じた。やはり僕等には、日本国民であるといふ自信が一番大きく強いのだ 」。

そして、「真珠湾爆撃に始まる帝国海軍の戦果発表」を聞いた時には、「名人の至芸が突如として何の用意もない僕等の眼前に現はれた様なものである。偉大なる専門家とみぢめな素人、僕は、さういふ印象を得た」と結んでいたのである。

一方、『若き日の詩人たちの肖像』の主人公も、この報道を聞いた時には「どんな戦争の歴史にもない大戦果をあげた人たちは、まことに、信じかねるほどの、神のようにも偉いものに見えた」と記した。しかし、「そこに、特殊潜航艇による特別攻撃というものが、ともなって」おり、そこに二十歳前後の若者が参加していていたことについては、「腹にこたえる鈍痛を感じていた」と続けていた(下巻、92頁)。

そして、年が明けて1月になり、仲間の詩人たちのなかからも次々と入営し、召集されるものが出てくる頃になると、12月9日の夕方に来て「どうだ、やったろう!」と語った特高警察の言葉を思い出しながら、「戦争というのは」、「少なくとも表面的には、こういう極端な神がかりのような連中がのさばること」であるらしいと書きこう続けていた(下巻、125頁)。

「非常に多くの文学者や評論家たちが、息せき切ってそれ(引用者註――戦争)を所有しようと努力していることもなんとも不思議であった」。

実際、室生犀星も詩「陥落す、シンガポール」では、「皇軍向かふところ敵なし/進撃また進撃/砲火虹のごとく/マレーを陥し入れ/香港を打ち抜く/怒濤は天に逆巻き/敵拠地シンガポール屠る/(後略)」と記していた。

これに対して「ひでぇものをかきやがったな」という「汐留君」の批判を紹介した後で、堀田は「こういうふうな詩をめぐる論議には、何かしら辛いものがある」という主人公の思いを記していた(下巻、149頁)。

一方、『英雄と祭典』でシンガポール攻撃について、「いま現実の歴史の上にそのやうな神話的階調とそのすさまじさを経験するのである」と書いた堀場正夫は、「わが神典に於て、やはりさうした階調の最初に高潮するのは何といつても速須佐之男命の段ではないかと惟ふ」と続けて、八俣遠呂智(やまたのおろち)を撃ち倒す場面を挙げている。

そして、「大東亜戦争戦線布告の大詔を拝してより僅かに二ヶ月有余、神州の正気忽ち発して南方を蔽ひ、早くもシンガポールは陥落した」と記した堀場は「アジアの大いなる夜明けをつげるこの捷報」と続けていたのである(261頁)。

こうして戦争の当初は勝利に酔っていた多くの国民は徐々に戦争の現実と直面することになる。寡聞にして『英雄と祭典』を上梓した堀場正夫のその後の経歴は分からない。しかし、この長編小説の終盤近くでは、「日本の神がかりがいよいよ昂じて来て本当に狂的な国学信奉者」となっていたアリョーシャが、アッツ島玉砕の報を知った時と召集された際の反応が描かれている。

すなわち、彼の若い妻が「いやねぇ‥‥」と言った際には、「アッツ島の軍神たちを妻が侮辱した」として妻の「顔かたちが変わってしまうほどに殴り」つけていたアリョーシャは、自分も召集された際には主人公に「いよいよ官費大旅行に行くことになりました。期再会。」という短いふざけた文面の手紙を残していた。

そして、ついに主人公にも「赤紙」と呼ばれる「臨時召集令状」が届く。

堀田はその文面を読んだ主人公が「生命までをよこせというなら、それ相応の礼を尽くすべきものであろう」と思ったと書き、こう続けている。

「これでもって天皇陛下万歳で死ねというわけか。それは眺めていて背筋が寒くなるほどの無礼なものであった。尊厳なる日本国家、万世一系の国体などといっても、その実体は礼儀も知らねば気品もない、さびしいようななさけないようなものであるらしかった。」

長編小説は一人で海に出た主人公の感慨で終わっている。

「鉛色の北の海には、立派な波が、男がこれまでに耳にしたありとあらゆる音楽の交響を高鳴らせてどうどうと寄せていた。それだけで、充分であった」。

*1)小林秀雄の「三つの放送」(1942.1『現地報告』)の全文を紹介したブログ「小林秀雄をよむ by やりみず」の筆者は2000年2月10日の記事で、「三つの放送」が「四次にわたる『小林秀雄全集』を含めて今まで一度も単行本に収録されたことが」なく、「研究論文や批評」も、「今まで目にする機会」がなかったと記している。

追記) 2001年から発行された新しい『小林秀雄全集』の第7巻には「三つ放送」も収録されているが、『我が闘争』の書評を全集に収録する際に、「天才のペン」の前に加筆された《一種邪悪なる》という言葉は、削除されていない。

『若き日の詩人たちの肖像』と小林秀雄のドストエフスキー観(1)――『白夜』をめぐって

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

第一章・題辞

「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた。空は一面星に飾られ非常に輝かしかったので、それを見ると、こんな空の下に種々の不機嫌な、片意地な人間が果して生存し得られるものだらうかと、思はず自問せざるをえなかつたほどである。これもしかし、やはり若々しい質問である。親愛なる読者よ、甚だ若々しいものだが、読者の魂へ、神がより一層しばしばこれを御送り下さるやうに……。」(ドストエフスキー、米川正夫訳『白夜』)

*   *   *

堀田善衛の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』」(1968年)は、大学受験のために上京した翌日に2.26事件に遭遇した主人公が「赤紙」によって召集されるまでの日々を、若き詩人たちとの交友をとおして司馬遼太郎が「別国」と呼んだ「昭和初期」の重苦しい日々を克明に描き出している。

注目したいのはその第一部のエピグラフには、「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた。」(米川正夫訳)という言葉で始まるドストエフスキーの『白夜』の文章が置かれていることである(以下、引用は集英社文庫、1977年による)。

しかも、第一部の終わり近くではナチスの宣伝相ゲッベルスの演説から「なんという乱暴な……。なんという野蛮な……。」という「異様な衝撃」を受けたと記した後で、再び『白夜』の文章を引用した作者は、「若者は、星を見上げて、つい近頃に読んだある小説の書き出しのところを思い出しながら、坂を下りて行った」と書き、さらに「小説は、二十七歳のときのドストエフスキーが書いたものの、その書き出しのところであった」と説明している(上巻、115~117頁)。

フランス2月革命の余波が全ヨーロッパに及んでいた1848年に書かれたこの作品では、拙著 『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)の第4章で詳しく考察したように、プーシキンにおける「ペテルブルグのテーマ」や「夢想家」やなど後期の作品に受け継がれる重要なテーマが描かれているばかりでなく、「農奴解放」のテーマも秘められていた。

こうして、文筆活動をとおして農奴の解放や言論の自由と裁判制度の改革を求めていたドストエフスキーは、小説『白夜』を発表した後でペトラシェフスキー・サークルの友人たちとともに捕らえられて偽りの死刑宣告を受けた後で皇帝の恩赦という形でシベリア流刑になっていた。

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そのことを想起するならば、拙著でも少し触れたように、堀田善衛がクリミア戦争に向かう時期の専制国家・帝政ロシアとナチスドイツやイタリアと三国同盟を結んで無謀な戦争に突入していくこの時期の大日本帝国との類似性を強く意識していたことはたしかだろう。

なぜならば、「お婆さん(引用者註、母親の年の離れた姉)の言うところを信ずるとすれば、明治の二十年代には、何か素晴らしいことがあったように思われる。それこそ“青春”ということばにふさわしいようななにかがあったように思われる。そうして、その青春は短くて夭折(ようせつ)した」と記されている『若き日の詩人たちの肖像』では(下、22)、大阪事件や北村透谷のことにも触れられているからである(10,37)。

それゆえこの自伝的な長編小説を読み返した時に私は、北村透谷など明治の『文学界』の同人たちとの交友を描いた島崎藤村の自伝的な長編小説『春』を連想した。

それは長編小説『春』でも内田魯庵訳の『罪と罰』が取り上げられているばかりでなく、頼山陽の歴史観を賛美した山路愛山の史論「頼襄(のぼる)を論ず」を批判したことで「人生相渉論争」と呼ばれる激しい論争に巻き込まれ、生活苦も重なって自殺した北村透谷の生き方や理念も描かれているためであった。

しかも、拙論「北村透谷と島崎藤村――「教育勅語」の考察と社会観の深まり」(『世界文学』第125号)で考察したように、この論争の背景には「教育勅語」の発布の後で起きた「不敬事件」があった。そのことを考慮するならば、自殺した芥川龍之介に対する小林秀雄の批判の構造が、透谷の自殺後も徳富蘇峰の「民友社」が透谷や『文学界』への批判を続けていたことときわめて似ていることに気付く。

それゆえ、『若き日の詩人たちの肖像』で将来に対する「ぼんやりした不安」を記して自殺した芥川龍之介の遺書についてたびたび言及されているのは、文芸評論家の小林秀雄(1902~83)のドストエフスキー論を強く意識していたためではないかと思われる。

なぜならば、小林秀雄がドストエフスキー作品の本格的な考察への意欲を記したのは、日本が国際連盟から脱退して国際関係において孤立を深めるとともに、国内では京都帝国大学で滝川事件が起きるなど検閲の強化が進む前年の1932(昭和7)年のことだったからである。

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このような時期に発表した評論「現代文学の不安」で、「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」とドストエフスキーについて記した小林は、「この絶望した詩人たちの最も傷ましい典型は芥川龍之介であつた。多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書き、芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していた(『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、2014年、17頁)。

そして、『地下室の手記』以降はドストエフスキーが前期の人道的な考えを棄てたと主張したシェストフの考えを受け継いだ小林秀雄は、その後、次々とドストエフスキー論を発表するが、帝政ロシアにおける「憲法」の欠如や検閲などの問題をより明確に示唆していた第一作『貧しき人々』から『白夜』に至る初期作品をほとんど論じていない。

一方、芥川龍之介はドストエフスキーの創作方法の特徴をよく理解していた作家であり、ことに短編「藪の中」(1922)では「一つの事件」を三人のそれぞれの見方をとおして描くことで、客観的に見えた「一つの事件」が全く異なった「事件」に見えることを明らかにして、現代の「歴史認識」の問題にもつながるような「事実」の認識の問題を提起していた。

そして、1922年に書いた小説『将軍』で日露戦争時の突撃の悲惨さだけでなく、父と子の会話をとおして軍人を軍神化することの問題を描いていた芥川龍之介は、治安維持法の発布から2年後の昭和2年に自殺する前には小説『河童』で検閲制度など当時の日本社会を痛烈に風刺していた。

『若き日の詩人たちの肖像』の後半では作家の堀辰雄をモデルとした「成宗の先生」との交友が描かれるようになるが、よく知られているように芥川龍之介との深い交友があった堀辰雄は卒論で「芥川龍之介論」を書き、自伝的な作品『聖家族』(昭和5年)の初版には「私はこの書を芥川龍之介先生の霊前にささげたいと思ふ」という献辞を付けるほど龍之介を深く敬愛していた作家だった。

映画《風立ちぬ》(図版は「アマゾン」より)

堀辰雄の「風立ちぬ」(1936-37年)は宮崎駿監督が映画の題名としたことで再び脚光を浴びたが、注目したいのは、主人公が「成宗の先生」の自宅のそばを通りかかった際に「この家の詩人小説家は肺病で、日本語の小説によくもまあ、と思われるほどにしゃれた、純西洋風な題をつける人であった」とその作風を思い出した後で、再び主人公が暗唱していた『白夜』の冒頭の文章が引用されていることである。

そして、その箇所を「ぶつぶつと口のなかでとなえてみていて、こういう文章こそ若くなければ書けなかったものだったろう、と気付いた」と記した堀田は、「二十七歳のドストエフスキーは、カラマーゾフでもラスコルニコフでもまだまだなかったのだ。けれども、この文章ならば、あるときのムイシュキン公爵の口から出て、それを若者が自分の耳で直接公爵から聞くとしても、そう不思議でも不自然でもないだろう……」と続けていた。

この記述からは、初期と後期のドストエフスキー作品が全く断絶していると解釈していた小林秀雄とは異なり、『白夜』と『白痴』の主人公との連続性を見ていることが分かる。

映画《風立ちぬ》では主人公が、戦闘機「零戦」の設計者・堀越二郎の伝記を踏まえて主人公像が形成されていることが話題となったが、主人公の内面はむしろ堀辰雄の作品世界からの影響によって形づくられていると思われる(『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』のべる出版企画、2016年、147~162頁)。

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しかも、宮崎駿は敬愛する堀田善衛と司馬遼太郎との鼎談(『時代の風音』朝日文庫、1997年)の際に司会をしているが、そこでは芥川龍之介の死が堀辰雄の作品ばかりでなく、堀田の『若き日の詩人たちの肖像』を踏まえて語られている可能性が高いのである。

それゆえ、私は日本の近代文学の専門家ではないが、ドストエフスキー研究者の視点から『若き日の詩人たちの肖像』をより詳しく分析することにしたい。

そのことにより帝政ロシアに先駆けて「憲法」を持った日本が、なぜ昭和初期には「無憲法」の状態に陥って無謀な戦争へと突入し、そして戦後72年経った現在、「立憲主義」を否定する動きが起きているのかにも迫ることができるだろう。

(2017年11月8日、加筆、書影を追加。11月28日、第一章の題辞全文を追加。12月28日、加筆)

夏目漱石の高等師範学校の退職と軍事教練――長編小説『破戒』との関連で

夏目漱石が東京を発って遠く四国松山の尋常中学校に向ったのは、明治28年(1895)4月7日のことでした。

漱石が松山になぜ行ったのかを考察して「東京での挫折感、厭世感、失恋などが考えられる」とし、正岡子規の斡旋説も紹介した中村文雄氏は、さらに「高等師範学校が教師をうるさく束縛する」との理由を伊藤整が挙げていたと指摘しています(『漱石と子規・漱石と修――大逆事件をめぐって』(中村文雄著・和泉書院、2002年)。

漱石の高等師範学校の退職の原因に迫ったこの一文は、拙著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)で松山中学を舞台にした漱石の『坊っちゃん』にも言及した時から気になっていたのですが、子規を中心としたこの書では深く分析することはできませんでした。

しかし、帝政ロシアの法制度をも鋭く考察したドストエフスキーの『罪と罰』と長編小説『破戒』との関連について調べ始めた時に、再びこの問題が大きく浮かび上がってきました。

なぜならば、島崎藤村はこの長編小説の主人公・瀬川丑松を師範学校の卒業生としたばかりでなく、彼が師と仰ぐ猪子蓮太郎も同じ師範学校で心理学の講師でしたが、被差別部落出身であることが明るみにでたことで師範学校から追放されたと書いていたからです。

このエピソードは「教育勅語」発布の翌年1月に第一高等中学校教員であった内村鑑三が、教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対して敬礼はしたが最敬礼をしなかったために、「国賊」「不敬漢」という「レッテル」を貼られて退職を余儀なくされたといういわゆる不敬事件が起きていたことを強く想起させます。

しかも、『文学界』第2号に発表された頼山陽の歴史観を賛美した山路愛山の史論「頼襄(のぼる)を論ず」を厳しく批判した北村透谷の「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」に端を発した愛山と徳富蘇峰などとの激しい論争と透谷の自殺の背景には、「教育勅語」の問題がありました(拙論「北村透谷と島崎藤村――「教育勅語」の考察と社会観の深まり」『世界文学』第125号参照)。

それらのことを考慮するならば、解放運動の指導者だった猪子廉太郎が暴漢に襲われて亡くなった後では、師の理念を受け継ぐことになることが示唆されている長編小説『破戒』の瀬川丑松の歩みは、透谷死後の藤村の歩みとも重なるように思えます。

それゆえ、ここでは水川隆夫氏の『夏目漱石と戦争』(平凡社新書、2010年)の記述をとおして、漱石の高等師範学校の退職の問題を簡単に整理しておきます。

*   *

太政官布告により徴兵令が発せられたのは、明治6年(1873)1月のことでしたが、明治19年(1886)4月に発布された師範学校令によって設置された師範学校と高等師範学校が設置されると、「師範学校では全寮制をとり、軍隊内務班にならって隊伍を編制し、兵式体操を重視し、生活のすべてをラッパによって規制するなど兵営生活と同じような軍隊式教育を実施」していました。

一方、漱石は第一高等中学校予科を卒業し、英文学専攻を決意して本科第一部に進んだ明治21年(1888)に書いた英作文「討論――軍事教練は肉体錬成の目的に最善か?」で、「私は軍事教練という名前を聞いただけで、虫酸(むしず)が走ります。軍事教練において、われわれは、形こそ人間でも、鈍感な動物か、機械的な道具のごとく遇されるのであります。われわれは、奴隷か犬のように扱われるのであります」と厳しく軍事教練を批判していました。

このことに注意を促した水川隆夫氏は、漱石が高等師範学校講師の時代を振り返った「私の個人主義」(1914年)において次のように語っていたことを指摘しています。

「然し教育者として偉くなり得るやうな資格は私に最初から欠けてゐたのですから、私はどうも窮屈で恐れ入りました。(中略)何(ど)うあっても私には不向(ふむき)な所だとしか思はれませんでした。奥底(おくそこ)のない打ち明けた御話をすると、当時の私はまあ肴(さかな)屋が菓子屋へ手伝ひに行ったやうなものでした。/ 一年の後私はとうとう田舎の中学へ赴任しました。」

この言葉を引用した水川氏は、師範学校ほどには厳しくはないとしても、高等師範学校でも「漱石が『窮屈』と感じるような国家主義的、権威主義的、形式主義的な教育が行われていたものと思われます」と記しているのです。

*   *

福沢諭吉は自由民権運動が高まっていた明治12年に書いた『民情一新』で、学校の生徒を「兵学校の生徒」と見なしたニコライ一世の政治を「未曽有(みぞう)の専制」と断じて厳しく批判していましたが、徳富蘇峰は大正5年に発行した『大正の青年と帝国の前途』で、「必要なるは、学校をして兵営の気分を帯ばしめ、兵営をして学校の情趣を兼ねしむる事也」と記して、軍事教練の必要性を説いていました。

そして、戦後72年を経た日本では大阪の塚本幼稚園で「教育勅語」を暗唱させていたことが国会などで問題となりましたが、来年からは小学校で再来年からは中学校でも「道徳」が「特別の教科」として教えられることになったばかりでなく、自衛隊で行われている実戦的な「銃剣道」が中学の「武道」に入りました。

軍事教練に対する夏目漱石の厳しい批判や長編小説『破戒』の校長批判は、「特定秘密保護法」や「戦争法」が次々と強行採決されるなど「立憲主義」を軽視して軍拡に向かっている安倍政権の問題点をも明確に示していると思えます。

「国際ドストエフスキー・シンポジウム」について――ブルガリアとソフィアの画像

2018年10月23日から26日まで「国際ドストエフスキー・シンポジウム」がブルガリア・ドストエフスキー協会の主催で、ブルガリアの首都のソフィアで開催されました。

ブルガリア、ソフィア大学

(ソフィア大学、出典はブルガリア語版「ウィキペディア」)

長編小説『白痴』の発表150周年を記念して25日には映画《白痴》の円卓会議も開かれ、ブルガリア・ドストエフスキー協会のサイトにロシア語と日本語で拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011年)の紹介が書影とともに掲載されました。

https://bod.bg/en/authors-books.html(2018年2月19日)

Читаем роман Идиот в фильмах Куросавы Акиры»  (Сэйбунся,2011)

このシンポジウムの 詳細は次のURLを参照して下さい:https://bod.bg/bg/  

*   *   *

Ⅰ. ギリシャ正教の受容とブルガリア →ブルガリア – Wikipedia 

(図版の出典も「ウィキペディア」)

a.「大ボヘミアにおけるスラヴ的典礼の導入」とキュリロスとメトディオス兄弟 ミュシャ、ボヘミア大

ムハ(ミュシャ)画、「スラヴ叙事詩」、第3作「大ボヘミア(現在のチェコ)におけるスラヴ的典礼の導入」。

b.ブルガリアにおけるギリシャ正教の受容

ブルガリアSt_Clement_of_Ohrid

キュリロスとメトディオス兄弟の弟子・聖クリメントオフリドスキー

c. ブルガリア帝国における聖書のスラヴ語訳

ミュシャ、ブルガリア

ムハ(ミュシャ)画、「スラヴ叙事詩」、第4作「ブルガリア皇帝シメオン(在位:893~927年)」

Ⅱ. 現代のブルガリアと首都ソフィア

a.ブルガリアの地図と国旗

ブルガリアの地図ブルガリアの国旗

b.首都ソフィア

ブルガリア、ソフィア (出典は「ウィキペディア」)