高橋誠一郎 公式ホームページ

03月

「核兵器禁止条約交渉」への不参加と安倍首相の「積極的平和主義」

昨日(3月28日)のNHKニュースは、「核兵器禁止条約交渉」に日本が不参加を表明したことを伝えるとともに、「唯一の戦争被爆国として核廃絶を訴えてきた日本も参加しないことを表明し、核軍縮をめぐる各国の立場の違いが際立つ形となっています」と説明しています。

日本が交渉に参加しないという方針を表明したことについて、〈被爆者の代表として国連で演説を行った日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会の藤森俊希事務局次長は「日本政府はこれまで唯一の戦争被爆国という枕言葉をよく使ってきたが、その唯一の戦争被爆国は私たち被爆者が期待することと全く逆のことをしており、賛同できるものではない。日本政府は世界各国から理解が得られるよう、核兵器廃絶の先頭に立つべきだ」と〉、日本政府の対応を批判したことも伝えています。

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今回の事態により2016年の広島市で行われた平和記念式典のあいさつで核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」とする非核三原則に言及しなかった安倍首相の「積極的平和主義」や公明党などの賛成により強行採決された「安全保障法案」の危険な本質がいっそう明らかになったと思えます。

それだけでなく戦争を美化する思想の持ち主であることから防衛大臣に抜擢されながら、自分もかかわっていた森友学園問題で、虚偽答弁を繰り返したかだけでなく、自衛隊の「日報」隠蔽問題にも深く関わる稲田朋美氏を未だに重視している安倍内閣の無責任さや危機管理能力のなさも浮かび上がってきました。

それゆえ、2016年8月7日に書いた「安倍首相の「核兵器のない世界」の強調と安倍チルドレンの核武装論」を再掲します。

このような事態になることを危惧して急いで上梓した拙著『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』の書影と関連する記事へのリンク先も記しておきます。

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(広島と長崎に投下された原子爆弾のキノコ雲、1945年8月、図版は「ウィキペディア」より)

安倍首相が広島市で行われた平和記念式典のあいさつで、核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」とする非核三原則に言及しなかったことが波紋を呼んでいます。

以下、新聞などの記事によって簡単に紹介した後で、安倍首相が本気で「核兵器のない世界」を願うならば、「わが国は核武装するしかない」という論文を月刊『日本』(2014年4月22日号)に投稿していた武藤貴也議員を参院特別委員会に呼んでその見解を質し、今も同じ考えならば議員辞職を強く求めるべき理由を記したいと思います。

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平和記念式典の後で行われた被爆者団体代表との面会では、安倍首相は「唯一の戦争被爆国として非核三原則を堅持しつつ、世界恒久平和の実現に向けた努力をリードすることを誓う」と述べ、これに関し菅官房長官も同日午前の記者会見で「非核三原則は当然のことで、考えにまったく揺るぎはない」と説明したとのことです。

しかし、これらの「誓い」や「説明」の誠実さに疑問が残るのは、すでに多くの新聞や報道機関が指摘しているように、その前日に行われた参院特別委員会で中谷元・防衛相が、戦争中の他国軍への後方支援をめぐり、核兵器を搭載した戦闘機や原子力潜水艦などへの補給は「法律上除外する規定はない」として、法律上は可能との認識を示す一方で、「非核三原則があり提供はありえない」とも述べていたからです。

枝野幸男・民主党幹事長が批判をしているように、武器輸出三原則などの大幅な緩和をしたばかりでなく、「弾薬は武器ではない、その武器ではないもののなかに、ミサイルも入る(と言う)。それに核弾頭が載っていてもそれが(輸送可能な弾薬の範囲に)入る」と説明した安倍内閣の閣僚が、「非核三原則があります、(だから輸送しない)と言っても、ほとんど説得力をもたない」でしょう。

さらに、被爆者団体代表との面会で安全保障関連法案が、「憲法違反であることは明白。被爆者の願いに背く法案だ」として撤回を強く求められた安倍首相は、「平和国家としての歩みは決して変わることはない。戦争を未然に防ぐもので、必要不可欠だ」と答えたようですが、すでに武器輸出三原則などの大幅な緩和をしている安倍首相が、「平和国家としての歩みは決して変わることはない」と主張することは事実に反しているでしょう。

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今回の安倍氏の「あいさつ」で最も重要と思われるのは、秋の国連総会で新たな核兵器廃絶決議案を提出する方針の安倍首相が、「核兵器のない世界の実現に向けて、一層の努力を積み重ねていく決意」を表明し、来年のG7(主要七カ国)外相会合が広島で開かれることを踏まえて「被爆地からわれわれの思いを国際社会に力強く発信する」とも述べていたことです。

このこと自体はすばらしいと思いますが、国際社会に向けたパフォーマンスをする前に安倍首相にはまずすべきことがあると思われます。

それは安倍氏が本気で「核兵器のない世界」を願うならば、「わが国は核武装するしかない」という論文を月刊『日本』(2014年4月22日号)に投稿していた武藤議員を参院特別委員会に呼んでその見解を質し、今も同じ考えならば議員辞職を強く求めるべきことです。

参院特別委員会でも「安全保障関連法案」には多くの深刻な問題があることが次々と明らかになっているにも関わらず、「強制採決」に向けて粛々と審議が行われているように見えます。

しかし、国際社会にむけて未来志向の「美しい言葉」をいくら語っても、武藤議員の発言を厳しく問いただすことをしなければ、「日本を、取り戻す。」を選挙公約にした安倍政権の本当の狙いは、戦前の「日本人的価値観」と軍事大国の復活にあるのではないかという疑いを晴らすことはできないでしょう。

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→『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』(のべる出版企画、2016)

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講座 『夜明け前』から『竜馬がゆく』へ――透谷と子規をとおして

今年も「世田谷文学館友の会」の講座でお話しすることになりました。

「おしらせ」第131号(H29年3月2日発行)より講座が行われる日時や場所、講座の要旨などを転載します。

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日  時  : 平成29年4月16日(日) 午後2時~4時

場  所  : 世田谷区立男女共同参画センター「らぷらす」

参 加 費  : 1000円

申込締切日 : 平成29年4月4日(火)必着

(応募者多数の場合は抽選)

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 講座 『夜明け前』から『竜馬がゆく』へ――透谷と子規をとおして

「木曾路(きそじ)はすべて山の中である」という文章で始まる島崎藤村の『夜明け前』は、「黒船」の来港に揺れた幕末から明治初期までの馬篭宿を舞台にしている。芭蕉の句碑が建てられた時のことが記されているその序章を読み直した時、新聞『日本』に入社する前にこの街道を旅した正岡子規が「白雲や青葉若葉の三十里」と詠んでいたことを思い出した。

『夜明け前』では王政復古に希望を見ながら「御一新」に裏切られた主人公(父の島崎正樹がモデル)の苦悩が描かれているが、そこには「私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人」と藤村が評した北村透谷の苦悩も反映されていた。

『夜明け前』を現代的な視点から読み直すことで、街道の重要性や「神国思想」の危険性だけでなく、「憲法」の重要性も描かれていた『竜馬がゆく』の意義に迫りたい。

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これまでの「講座」

→講座 『坂の上の雲』の時代と『罪と罰』の受容

講座 「新聞記者・正岡子規と夏目漱石――『坂の上の雲』をとおして」

講座「『草枕』で司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を読み解く」(レジュメ)

 

 

 

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)のブックレビュー(2017年3月13日)を転載

『坂の上の雲』を材料に正岡子規の生涯を追い、

司馬遼太郎の魅力的な議論をコンパクトにまとめ、

分かりやすく読み解く。

 isbn978-4-903174-33-4_xl  装画:田主 誠/版画作品:『雲』

人文書館のHP・ブックレビューのページに木村敦夫・日本トルストイ協会理事の書評の抜粋が掲載されましたので、このHPでも紹介させて頂きます。

(人文書館のHPより) 新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」 

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正岡子規を太い経糸(たていと)、彼と親交のあった人々を細い経糸とし、 文明開化に浮かれ騒ぐ日本社会を緯糸(よこいと)として みごとなタペストリーに織り上げ、 明治期の日本の真の「姿」を再構築している。

木村敦夫

作者にとっては2冊目の『坂の上の雲』論である。本作では、「正岡子規を主人公として新聞『日本』を創刊した陸羯南(くがかつなん)との関わりや夏目漱石の友情をとおして」考察している。本書のタイトルに現れている通り、正岡子規論とは言え、新聞記者・正岡子規を通して語られる、日本全体はおろか、日露両国の比較考察さえも超えた、地球規模で俯瞰され提起される広い問題意識が、本書の特徴でもあり、醍醐味でもある。

作者が、読者の想像力を、読者の楽しみを刺激してくれるのは、それらの「ひと」にとどまらない。子規が生きた時代を、社会情勢を、日本に限らず、ヨーロッパ、ロシアをも視野に入れて活写し読み解いてくれている。

1889年、明治22年に議会主義と三権分立が明示された明治憲法が発布されたが、それに先立つ1882年、明治15年に山県有朋の意図のもと「軍人勅諭(ちょくゆ)」が出されていて、「民権」は制限された。その前年1881年、明治14年に明治政府は国会開設の詔勅を出している。「飴と鞭」政策なのかと思いきや、この「軍人勅諭」は反「民権」を全面に押し出している。明治政府にとって「国民」とは、法によって権利と義務を明解に規定するものというよりも、徴税、徴兵の対象というに過ぎなかったのである。さらに、この勅諭を盾に昭和期に「政治化した軍人が軍閥を作」り、明治憲法の精神を踏みにじり三権を超越する「統帥権」の存在を主張し始め、1945年、昭和20年の敗戦まで突っ走り、ついには「国家そのものを破壊する」にいたる。

といったように、作者は、司馬遼太郎の魅力的な議論をコンパクトにまとめ、分りやすく読み解いていく。本書は、正岡子規を狂言回しとした明治期の網羅的な歴史叙述の書だと言える。子規や漱石が身を置いていた社会情勢のみならず、文学、芸術にも読者の目を向けさせ、また、国内外の政治状況、日本の立場から見た国際情勢までも視野に入れさせてくれる。

作者の見識の高さ、洞察の鋭敏さ、視野の広さ、考察の柔軟さを物語るものだが、本書は、そしてまた作者、高橋誠一郎は、司馬遼太郎の作品を通して、司馬遼太郎の視線を通して正岡子規を見るという外枠を超えて、さまざまに読者の知的好奇心を刺激してくれる。

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木村敦夫(キムラ・アツオ、ロシア文学研究者。日本トルストイ協会理事。論文「トルストイの『復活』と島村抱月の『復活』」東京藝術大学音楽学部紀要など。)

『ユーラシア研究』(2017年、第55号、ユーラシア研究所編「書評」より部分的に抜粋)

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015年〔目次と書評・紹介〕

ドストエーフスキイの会、第238回例会(報告者:木下豊房氏)のご案内

お知らせがたいへん遅くなりましたが、第238回例会のご案内を「ニュースレター」(No.139)より転載します。

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第238回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                   

 日 時2017年3月25日(土)午後2時~5時         

場 所神宮前穏田区民会館 第3会議室(2F)   ℡:03-3407-1807 

   (会場が変更になりました。下記の案内図をご覧ください

報告者:木下豊房氏 

題 目: 『カラマーゾフの兄弟』における「ヨブ記」の主題 -イワン・カラマーゾフとゾシマ長老の「罪」の概念をめぐって-

 *会員無料・一般参加者=会場費500円

報告者紹介:木下豊房(きのした とよふさ)

1969年、新谷敬三郎、米川哲夫氏らとドストエーフスキイの会を起ちあげ、「発足の言葉」を起草。その後現在まで会の運営に関わる。2002年まで千葉大学教養部・文学部で30年間、ロシア語・ロシア文学を教える。2012年3月まで日本大学芸術学部で非常勤講師。研究テーマ:ドストエフスキーの人間学、創作方法、日本におけるドストエフスキー受容の歴史。著書に『近代日本文学とドストエフスキー』(1993、成文社)、『ドストエフスキー・その対話的世界』(2002.成文社)、『ドストエフスキーの作家像』(2016、鳥影社)その他。ネット「管理人T.Kinoshita」のサイトで「ネット論集」(日本語論文・ロシア語論文)を公開中。

 

第238回例会報告要旨

『カラマーゾフの兄弟』における「ヨブ記」の主題

     -イワン・カラマーゾフとゾシマ長老の「罪」の概念をめぐって-

新約聖書とドストエフスキーとの関係は、最近の芦川進一氏、大木貞幸氏の著書、および、両氏の本会例会での報告などによってクローズアップされ、このところ、私たちのドストエフスキー読解に、大きな刺激をあたえるテーマとなっている。

もっとも「聖書とドストエフスキー」というテーマからいえば、『カラマーゾフの兄弟』にとりわけ因縁深い、旧約聖書の『ヨブ記』を無視することはできないだろう。小説にはゾシマ長老の話として、『ヨブ記』のエッセンスが詳しく紹介されているだけではなく、晩年のドストエフスキーの『ヨブ記』との再会(1875)、そして遥かさかのぼる幼年時代の思い出から、小説執筆の背景に『ヨブ記』の存在があったことが想像されるのである。

ロシアの研究者の間でのこのテーマでの研究は、1997年段階での『ドストエフスキー便覧事典』の記述『ヨブ記』の項によれば、この書の作家への影響の研究は、近年まだ事実の確認にとどまっていて、『カラマーゾフの兄弟』で部分的になされているものの、創作全体にかかわる潜在的影響の解明は今後に待たれるとされている。その後の10年間を見ても、意外にこのテーマの研究は十分に展開されたとはいえないようである。

私がこのテーマに関心を向けたきっかけは、イワンがアリョーシャとの会話で、神の否定、神の創造した世界を否定する根拠に、無辜の子供にまで及ぶ「人々の間での罪の連帯性」をあげているのに妙に引っかかるものを感じたことだった。「罪の連帯性」という用語は、かつて木寺律子さんが、自分の論文の題名にこの用語を掲げていて、あらためて気づかされたのだった。明らかにラテン語由来の「連帯性」という用語が、ロシア文化史上、いつごろからどのようなコンテクストで使われるようになったのか、にまず興味をもった。

この用語はロシアでのユートピア社会主義思想の普及に伴い、とりわけ19世紀60年代末のナロードニキの思想家達、活動家達の間で一般的なものになったらしい。なかでもドストエフスキー本人やイワン・カラマーゾフのまさに同年代人であるナロードニキの思想家ピョートル・ラヴロフ(1823-1900)にとっては、人類の意識における「連帯」はきわめて重要なキーワードだった。

他方、まったく別方向からの「連帯」概念、しかもドストエフスキーに絡む形での情報に接することになった。それはドストエフスキー研究者T.カサートキナの論文からの情報で、『貧しき人々』のエピグラフの引用元であるオドエフスキーの小説『生ける死者』には、架空の小説からのエピグラフが掲げられていて、そこには作中人物達により、「solidartis(連帯)はロシア語ではどう訳したらよいのか?」の問答がなされているのである。

ここでの「連帯」の概念を、カサートキナはゾシマ長老の思想に連なるものとしているが、これはイワンの「連帯性」とは明らかに異質なものである。イワンの論理からすれば、子供に向けられた大人の罪の「連帯性」は「原罪」の論理にほかならない。「罪における連帯性」という用語を、さらに探って行くと、こういうことがわかった。

ロシア正教会において、「原罪」についての聖アウグストの教義に基づくカトリック的解釈が聖書翻訳に付随して持ち込まれた結果、なお自然崇拝の要素を残し、「原罪」については異なる解釈を持つ正教会では、これを非公認の概念としてあつかい、「罪における連帯性」と呼ぶようになったということである。こうして見ると、イワンのいう「人々の間での罪の連帯性」の概念は、明らかに「原罪」についてのカトリックの匂いが濃厚である。

他方、オドエフスキーに発し、ドストエフスキーの念頭にもあったであろう、もう一つの「連帯」概念は、多くの辞書類の解説にも見られない独特の解釈である。むしろ、ロシア人の原初的なメンタリティに由来するものとして、ゾシマ長老の思想に反映された、オプチナ修道院を中心とする「セラフィム系流(清貧派)」の修道僧や長老(アンブローシイやチーホン・ザドンスキイなど)の東方的「自然崇拝」の思想から逆照射して理解できるのではなかろうか。そこにはまたヨブの信仰の本来の姿も浮かび上がってくるように思われる。例会では出来ればこのあたりにまで話を進めたいと思っている。

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神宮前隠田区民会館の案内図

ドストエーフスキイの会会場

地下鉄千代田線か副都心線の明治神宮前駅(1分) あるいはJR山手線原宿駅(5分)。(原宿駅下車、表参道を下って、 明治通り交差点手前右横奥)

「森友学園」問題と「教育勅語」の危険性――『夜明け前』論にむけて(5) 

前回は「森友学園」における「教育勅語」をめぐる問題のようなことは、内村鑑三の「不敬事件」以降、日本の近代化や宗教政策とも複雑に絡み合いながら常に存在しており、それを明治から昭和初期にかけて深く分析したのが作家の島崎藤村だったと記した。

今回は「教育勅語」の成立をめぐる問題をもう少し補った後で、島崎藤村と「教育勅語」の関わりを掘り下げることにしたい。

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明治憲法は明治22年年2月11日に公布され、翌年の11月29日に施行されたが、この間にその後の日本の教育や宗教政策を揺るがすような悲劇が起きていた。すなわち、大日本帝国憲法発布の式典があげられる当日に「大礼服に威儀を正して馬車を待っていた」文部大臣の森有礼が国粋主義者によって殺されたのである。

林竹二は『明治的人間』(筑摩書房)において、この暗殺事件の背景には「学制」以来の教育制度を守ろうとした伊藤博文と国粋の教育を目指した侍講元田永孚のグループとの激しい対立があったと指摘し、この暗殺により「国教的な教育」を阻止する者はなくなり、この翌年には「教育勅語」が渙発(かんぱつ)されることになったと記している。

作家の司馬遼太郎も西南戦争の後で起きた竹橋事件を鎮圧して50余名を死刑とした旧長州藩出身の山県有朋が発した「軍人訓戒」が明治15年の「軍人勅諭」につながるばかりか、さらに「明治憲法」や「教育勅語」にも影響を及ぼしていることに『翔ぶが如く』(文春文庫)でふれていたが、このあとに総理大臣となった山県有朋は「勅語」の作成に熱心でなかった第二代文部大臣の榎本武揚を退任させ、代わりに内務大臣の時の部下であった芳川顕正を起用して急がせていた。

こうして、山県内閣の下で起草され、明治天皇の名によって山県首相と芳川文部大臣に下された「教育勅語」は、大日本憲法が施行されるより前の明治23年10月30日に発布され、また島崎藤村が長編小説『破戒』で描くことになる教育事務の監督にあたる郡視学や「小学校祝日大祭日儀式規程」などを定めた第二次小学校令もそれより少し前の10月7日に公布された。

注目したいのは、宗教学者の島薗進氏が「教育勅語が発布された後は、学校での行事や集会を通じて、国家神道が国民自身の思想や生活に強く組み込まれていきました。いわば、『皇道』というものが、国民の心とからだの一部になっていったのです」と語っていることである(『愛国と信仰の構造』集英社新書)。

このように見てくるとき、「言論の自由や結社の自由、信書の秘密」など「臣民の権利」や司法の独立を認めた明治憲法が施行される前に、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」と明記された「教育勅語」を、学校行事で習得させることができるような体制ができあがっていたように思われる。

実際、明治24年1月9日に第一高等中学校の講堂で行われた教育勅語奉読式においては教員と生徒が順番に「教育勅語」の前に進み出て、天皇親筆の署名に対して「奉拝」することが求められたが、軽く礼をしただけで最敬礼をしなかったキリスト教徒の内村鑑三は、「不敬漢」という「レッテル」を貼られ退職を余儀なくされたのである。

比較文明学者の山本新が指摘しているように「不敬事件」として騒がれた内村鑑三の事件は、「大量の棄教現象」を生みだすきっかけとなり、この事件の後では「国粋主義」が台頭することになったが、同じ年に「教育勅語」の解説書『勅語衍義(えんぎ)』を出版していた東京帝国大学・文学部哲学科教授の井上哲次郎が、明治26年4月に『教育ト宗教ノ衝突』を著して改めて内村鑑三の行動を例に挙げながらキリスト教を「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」とした「教育勅語」の「国家主義」に反する反国体的宗教として激しく非難したことはこのような動きを加速させた。

私たちの視点から興味深いのは、長編小説『春』(明治41)において『文学界』の同人たちの交友や北村透谷の自殺を描いた藤村が、徳富蘇峰の『国民之友』に掲載された山路愛山の史論「頼襄(のぼる)を論ず」を厳しく批判した透谷の「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」と題した論文からも長い引用を行っていたことである。

島崎藤村は後に北村透谷について「彼は私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人の一人だ。そして私達のために、早くもいろいろな支度をして置いて呉れたやうな気がする」と書いているが、「尊皇攘夷の声四海に遍(あまね)かりしもの、奚(いづくん)ぞ知らん彼が教訓の結果に非るを」と、頼山陽をキリスト教の伝道師・山路愛山が書いたことを厳しく批判した透谷の論文も、その2ヶ月後におきる「教育ト宗教ノ衝突」論争をも先取りしていたようにみえる。

そして、島崎藤村も北村透谷の批判を受け継ぐかのように、日露戦争の最中に書いた長編小説『破戒』で、「教育勅語」と同時に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた小学校教育の状況を、明治6年に国の祝日とされた天長節の式典などをとおして詳しく描いた。

この長編小説では、ロシア帝国における人種差別の問題にも言及しながら、四民平等が宣言されたあともまだ色濃く残っていた差別の問題を鋭く描き出していることに関心が向けられることが多い。しかし、現在の「森友学園」の問題にも注意を向けるならば、「『君が代』の歌の中に、校長は御影(みえい)を奉開して、それから勅語を朗読した。万歳、万歳と人々の唱へる声は雷(らい)のやうに響き渡る。其日校長の演説は忠孝を題に取つたもので」と、「教育勅語」が学校教育に導入された後の学校行事を詳しく描き出していた長編小説『破戒』の現代的な意義は明らかだろう。

一方、自伝的な長編小説『桜の実の熟するとき』で学生時代に「日本にある基督教界の最高の知識を殆(ほと)んど網羅(もうら)した夏期学校」に参加した際に徳富蘇峰と出会ったときの感激を「京都にある基督教主義の学校を出て、政治経済教育文学の評論を興し、若い時代の青年の友として知られた平民主義者が通った」と描いていた。実際、明治19年に『将来之日本』を発行して、国権主義や軍備拡張主義を批判した言論人・徳富蘇峰は、翌年には言論団体「民友社」を設立して、月刊誌『国民之友』を発行するなど青年の期待を一身に集めていた。

しかし、『大正の青年と帝国の前途』(大正5)で蘇峰は、「教育勅語」を「国体教育主義を経典化した」ものと高く評価し、「君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神」の養成と応用に「国民教育の要」があると主張していた。

この長編小説が発行されたのが、第一次大戦後の大正8年であったことを考慮するならば、長編小説『桜の実の熟するとき』における「若い時代の青年の友として知られた平民主義者が通った」という描写には、権力に迎合して「帝国主義者」に変貌した蘇峰への鋭い皮肉と強い批判が感じられる。

奉安殿2(←画像をクリックで拡大できます)

(写真は『別冊一億人の昭和史 学童疎開』(1977年9月15日 毎日新聞社、56~57頁より)

司馬遼太郎は昭和初期を「別国」と呼んでいるが、大正14年に制定された治安維持法が昭和3年に改正されていっそう取り締まりが厳しくなると、学校の奉安殿建築が昭和10年頃に活発になるなど蘇峰が「国体教育主義を経典化した」ものと位置づけていた「教育勅語」の神聖化はさらに進んだ。ロシア文学にも詳しい作家の加賀乙彦氏は、この時代についてこう語っていた。

「昭和四年の大恐慌から、その後満州事変が起こり軍国主義になっていく。軍需産業が活性化して、産業資本は肥え太っていく。けれども、その時流に乗れないのは農村、山村、そして東北の人々などの…中略…草莽の人々は、昭和四年から昭和十年にかけて、どんどん置き忘れられて、結局は兵隊として役に立つしかないようになる」。

島崎藤村の大作『夜明け前』は、このように厳しい時代に書き続けられていたのである。

奉安殿(←かつて真壁小学校にあった奉安殿。図版は「ウィキペディア」より)

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「森友学園」問題と「教育勅語」の危険性――『夜明け前』論にむけて(4) 

「森友学園」をめぐっては次々と新たな疑惑が発覚している。

その一つが2月22日の国会質疑で以前から塚本幼稚園を知っていたかとの質問に、「聞いたことはありますけれど、その程度でございます」と答弁していた稲田防衛相の「教育勅語」観と「森友学園」との関係である。

「教育勅語」をめぐる問題は急に持ち上がったことではなく、内村鑑三の「不敬事件」以降、日本の近代化や宗教政策とも複雑に絡み合いながら常に存在しており、それを明治から昭和初期にかけて深く分析したのが作家の島崎藤村だったと私は考えている。

それゆえ、ここではもう少し現代の日本の政治と「教育勅語」の問題をもう少し考察しておきたい。

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弁護士出身の稲田朋美防衛相と「森友学園」の問題がクローズアップされたのは、「保守の会」会長の松山昭彦氏が15年3月のFacebookに「塚本幼稚園の籠池園長とは今後も連絡を取り合うことにしました。ちなみに国会議員になる前の稲田朋美先生は塚本幼稚園の顧問弁護士だったそうです。驚きました」と書き込んだ投稿が見つかったことによる。

これには出典も明記されていたので、私も3月4日付けの記事で稲田氏が「顧問弁護士を努めていたことが判明した」と記した(稲田朋美・防衛相と作家・百田尚樹氏の憲法観――「森友学園」問題をとおして)

しかし、その後松山氏自身が2年前の書き込みの間違いを認めて削除した上、新たに「顧問弁護士だったのは稲田先生の旦那さんの方でした。この場を借りて訂正いたします」との書き込みをしていた。

この件については、「リテラ」(3月7日号)が「稲田と夫は同じ弁護士事務所で、政治的にも一心同体の関係。もし、稲田の夫が森友学園の顧問弁護士なら、稲田と森友学園もそれなりの関係にあったと考えるべきだろう」と書いていたが→lite-ra.com/2017/03/post-2970.html … @litera_web、菅野完氏の3月13日のインタビューと平成17年の文書によって、夫の稲田龍示氏だけでなく稲田朋美防衛相も森友学園の訴訟代理人を務めていたことが明らかなった。

しかも、この論考の第二回では2月23日の衆院予算委員会で民進党の辻元清美議員から質問された稲田氏が、「教育勅語の中の親孝行とかは良い面だ。文科省が言う、丸覚えさせることに問題があるということはどうなのかと思う。どういう教育をするかは教育機関の自由だ」と答弁していたことも紹介した。

今回の「リテラ」の記事からは、それがすでに2006年7月2日付紙面で「教育勅語 幼稚園で暗唱 大阪の2園 戸惑う保護者も 園長『愛国心はぐくむ』」と題した「東京新聞」の次のような記事への反論の延長戦上にあったことが分かった。

〈園側は「幼児期から愛国心、公共心、道徳心をはぐくむためにも教育勅語の精神が必要と確信している」と説明〉、さらに籠池理事長も「戦争にいざなった負の側面を際立たせ、正しい側面から目をそむけさせることには疑問を感じる」などと発言したことも記した同記事には、取材を受けた文部科学省幼児教育課が、「教育勅語を教えるのは適当ではない。教育要領でも園児に勅語を暗唱させることは想定していない」とコメントしたことも記載されていたが、これを厳しく批判していたのが当の稲田氏だったのである。

「リテラ」は稲田防衛相が自らほこらしげに「WiLL」(ワック)2006年10月号の新人議員座談会でこう語っていた箇所を引用している。

〈そこで文科省の方に、「教育勅語のどこがいけないのか」と聞きました。すると、「教育勅語が適当ではないのではなくて、幼稚園児に丸覚えさせる教育方法自体が適当ではないという主旨だった」と逃げたのです。/ しかし新聞の読者は、文科省が教育勅語の内容自体に反対していると理解します。今、国会で教育基本法を改正し、占領政策で失われてきた日本の道徳や価値観を取り戻そうとしている時期に、このような誤ったメッセージが国民に伝えられることは非常に問題だと思います」。

さらに「リテラ」は前述の座談会で、麻生太郎財務相が「教育勅語の内容はよいが、最後の一行がよくない」「『以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ』と言ったような部分が良くない」と指摘したことを新人の稲田議員が「教育勅語は、天皇陛下が象徴するところの日本という国、民族全体のために命をかけるということだから、(略)教育勅語の精神は取り戻すべきなのではないかなと思ってるんです」と批判していたことも紹介している。

一番の問題はこの箇所だろう。なぜならば、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と記された箇所こそは、『教育勅語』を「国体教育主義を経典化した」ものと高く評価した言論人・徳富蘇峰が『大正の青年と帝国の前途』で、「君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神」の養成と応用に「国民教育の要」があると主張する根拠となった一節だと思えるからである。

戦時中の1942年12月には内閣情報局の指導のもとに設立された大日本言論報国会の会長となって言論統制にあたることになる蘇峰は同書において、集団のためには自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを讃えて、「我が旅順の攻撃も、蟻群の此の振舞に対しては、顔色なきが如し」と記して、作家の司馬遼太郎が『坂の上の雲』で「自殺戦術」によって兵士が「虫のように殺されてしまう」と厳しく批判した「突撃」の精神を讃えていた。

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 こうして、すでに2006年には「森友学園」の問題が指摘されており、公的な秘書が5人もついていたにもかかわらず、安倍昭恵首相夫人が2014年12月に続いて2015年9月にも「森友学園」で講演し、その教育方法を称賛して名誉校長を2017年2月24日まで引き受けていたことはきわめて問題だと思われる。

「森友学園」をめぐっては、さまざまな問題が次々と発覚するために報道もそれに追われてしまうという傾向も見られるが、徳富蘇峰の解釈に現れているように「徹底した人命軽視の思想」も秘めている「教育勅語」の重要性を強調する稲田防衛相と彼女を防衛相に任命した安倍首相の責任問題も焦点の一つであることはたしかだろう

(2017年3月13日、加筆しリンク先を追加)

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「森友学園」問題と「教育勅語」の危険性――『夜明け前』論にむけて(1)

「森友学園」問題と「教育勅語」の危険性――『夜明け前』論にむけて(2)

 「森友学園」問題と「教育勅語」の危険性――『夜明け前』論にむけて(3) 

「森友学園」問題と「教育勅語」の危険性――『夜明け前』論にむけて(5) 

 

「森友学園」問題と「教育勅語」の危険性――『夜明け前』論にむけて(3) 

『夜明け前』1『夜明け前』2『夜明け前』3『夜明け前』4

(岩波文庫版『夜明け前』、図版は紀伊國屋書店より)

島崎藤村は青山半蔵を主人公とした『夜明け前』第1部の第9章から第11章で1864年の「天狗党の乱」を詳しく描いていた。

それゆえ、昭和11年5月の『文学界』座談会で「作者が長い文学的生涯の果に自分のうちに発見した日本人という絶対的な気質がこの小説を生かしているのである」と「気質」を協調した文芸評論家の小林秀雄は、「座談会後記」でも「最も印象に残ったところは、武田耕雲斎一党が和田峠で戦って越前で処刑されるまで、あそこの筆力にはたゞ感服の他はなかった」と高く評価した。(引用は『国家と個人 島崎藤村『夜明け前』と現代』より)。

たしかに、この乱に巻き込まれた馬篭宿の庄屋であり、なおかつ「平田篤胤(あつたね)没後の門人」でもあった青山半蔵の視点から描かれている「天狗党の乱」の顛末を描いた「文章の力」はきわめて強い。

しかし、司馬遼太郎は江戸後期の国学者平田篤胤(1776~1843)とその思想について「神道という無言のものに思想的な体系」を与えることにより、「国学を一挙に宗教に傾斜させた」と記している(『この国のかたち』第5巻)。

小林は『夜明け前』について「個性とか性格とかいう近代小説家が戦って来た、又藤村自身も戦って来たもののもっと奥に、作者が発見し、確信した日本人の血というものが、この小説を支配している」と語っているが、それは主人公に引き寄せたすぎた解釈であると思える。

なぜならば、島崎藤村はこの長編小説で義兄・半蔵の純粋さには共感しながらも危惧の念も感じていた寿平次に、「平田派の学問は偏(かた)より過ぎるような気がしてしかたがない」と語らせ(第3章第3節)、「半蔵さん、攘夷なんていうことは、君の話によく出る『漢(から)ごころ』ですよ」と批判させてイデオロギー的な側面を指摘していた(太字は引用者、第5章第4節)。

実際、「尊王の意思の表示」のために、「等持院に安置してある足利尊氏以下、二将軍の木像の首を抜き取って」、「三条河原に晒(さら)しものにした」平田派の先輩をかくまった際には半蔵も、「実行を思う心は、そこまで突き詰めて行ったか」と考えさせられることになる(第6章第5節)。

しかも「同時代に満足しないということにかけては、寿平次とても半蔵に劣らなかった」が、「しかし人間の信仰と風俗習慣とに密接な関係のある葬祭のことを寺院から取り戻(もど)して、それを白紙に改めよとなると、寿平次は腕を組んでしまう」と描いた藤村は、「神葬祭」について、「これは水戸の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)に一歩を進めたもので、言わば一種の宗教改革である。古代復帰を夢みる国学者仲間がこれほどの熱情を抱(いだ)いて来たことすら、彼には実に不思議でならなかった」と記し、「復古というようなことが、はたして今の時世に行なわれるものかどうかも疑問だ。どうも平田派のお仲間のする事には、何か矛盾がある」という寿平次の独り言も記していたのである」(太字は引用者、第6章第2節)。

「古代復帰を夢みる国学者仲間」と「廃仏毀釈」運動の関係について記したこの記述は、その後の歴史の流れや青山半蔵のモデルである島崎藤村の父親の悲劇をも示唆しているように思える。すなわち、『翔ぶが如く』で司馬が書いているように、「維新というのは一面において強烈な復古的性格をもっていたが、ひとつには幕末に平田国学系の志士が小さいながらも倒幕の勢力をなし、それが維新政府に入って神祇官を構成したということもあったであろう。かれらは仏教をも外来宗教であるとし、鳥羽伏見ノ戦いが終わって二カ月後に、政府命令として廃仏毀釈を推進した」(文春文庫、第6巻・「鹿児島へ」)。

しかし、倒幕に成功したことで半蔵たちの夢が叶ったかに見えた「明治維新」の後で、村びとたちの暮らしは徳川時代よりもいっそう悪化した。それゆえ、半蔵たちは疲弊した宿村を救うために、伐採を禁じられてきた「停止木(ちょうじぼく)の解禁」を訴えて、『旧来ノ弊習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基ヅクベシ』という「五箇条の御誓文」の一節を引用した請願書を差し出したが、それは取り上げられず「戸長」(かつての庄屋のような役職)をも免職になったのである。

(2017年3月12日、一箇所訂正)

無責任な政治家と終末時計の時刻

終末時計(図版は「ウィキペディア」より)

(縦軸には残りの時刻が横軸には年号が示されており、クリックすると画像が鮮明になります)

豊洲市場問題で責任を問われている石原慎太郎元都知事(現「日本会議」代表委員)は今日の記者会見で責任逃れに終始していたが、国会議員に当選した翌年の国会では、「非核三原則」を「核時代の防衛に対する無知の所産」のせいだと批判していた((拙著『ゴジラの哀しみ』4頁)。

さらに、八木秀次・現「日本教育再生機構」理事長との『正論』(産経新聞社)2004年11月号での対談では、「いっそ北朝鮮からテポドンミサイルが飛来して日本列島のどこかに落ちればいい。そうすれば日本人は否応もなく覚醒するでしょう」と語っていた(同上、170頁)。

一方、現実からの逃避とも思えるこのような政治家の無責任な発言や安倍現首相などの無作為などから地球規模の危機は進み、朝日新聞は今年1月27日のデジタル版に次のような記事を掲載していた。

「米国の科学者らが毎年公表している地球滅亡までの残り時間を示す「終末時計」が2年ぶりに30秒進められ、残り2分半になった。核兵器増強を主張するトランプ米大統領の就任や北朝鮮の核実験、地球温暖化などを重く見た。米国と旧ソ連が対立した冷戦時代以来の深刻さという。」

そして今日の「東京新聞」は文化欄に「終末時計が30秒進む 恐怖の時代に刻々と…」の見出しで、次のように結ばれる池内了・総合研究大学大学院名誉教授の記事を掲載している。

「世界が不安定化して一触即発の状況になりつつあるという警告で、軍国主義化する日本も例外ではない。終末時計を見て、今私たち人類が陥っている愚かしさをじっくり考えてみる必要がありそうである。」

国民の安全と経済の活性化のために脱原発を

(はじめに 1、「原爆の申し子」としてのゴジラ 2,水爆「ブラボー」の実験と「第五福竜丸」事件 3,水爆大怪獣「ゴジラ」 4,核戦争の恐怖と映画《生きものの記録》 5,チェルノブイリ原発事故と「第三次世界大戦」 6,福島第一原子力発電所事故と映画《夢》 7,黒澤明と作家ガルシア・マルケスとの対談)

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(↑ 画像をクリックで拡大できます ↑)

【映画《ゴジラ》から《シン・ゴジラ》にいたる水爆怪獣「ゴジラ」の変貌をたどるとともに、『永遠の0(ゼロ)』の構造や登場人物の言動を詳しく分析することによって、神話的な歴史観で原発を推進して核戦争にも対処しようとしている「日本会議」の危険性を明らかにし、黒澤明監督と宮崎駿監督の映画に描かれた自然観に注目することにより、核の時代の危機を克服する道を探る】。

稲田朋美・元防衛相と作家・百田尚樹氏の憲法観――「森友学園」問題をとおして(改訂版)

はじめに

新聞やテレビのニュースなどをとおして、「森友学園」問題の本質とその根の深さが徐々に明らかになってきている。

菅野完氏の『日本会議の研究』では「『生命の実相』を掲げて講演する稲田朋美・自民党政調会長(当時)」と園児たちに「愛国行進曲を唱和させる塚本幼稚園」との深い関係についてもふれられていた(221~232頁)。

さらに今日(3月4日)は、「復古」的な価値観を語る稲田朋美・防衛相が国会で、虚偽答弁の疑いのある発言をしていたことも判明したので、以下にそれに関する記事と考察を追記する。

*   *

昨年に12月に安倍首相とともにハワイの真珠湾を訪問して戦没者慰霊式典に出席していた稲田朋美防衛相は、帰国すると靖国神社に参拝して「神武天皇の偉業に立ち戻り」、「未来志向に立って」参拝したと語った。

その時は弁護士でもある稲田氏が明治の薩長政権が掲げた「王政復古」の理念の流れに沿う「神武天皇の偉業」に立ち戻ることと「未来志向」との論理的な矛盾を無視していることに驚かされた。

今度は森友学園理事長に感謝状を授与していた稲田防衛相が、2月22日の国会質疑で民進党の大西健介議員の前から塚本幼稚園を知っていたかとの質問に、「聞いたことはありますけれど、その程度でございます」と答弁していたにもかかわらず、15年3月に「保守の会」会長の松山昭彦氏がFacebookに書いた記述によっていたが顧問弁護士を努めていたことが判明した。

この後、松山氏は「顧問弁護士だったのは稲田先生の旦那さんの方でした」と訂正したが、菅野完氏の3月12日のインタビューと平成17年の文書によって、夫の稲田龍示氏だけでなく稲田朋美防衛相も森友学園の訴訟代理人を務めていたことが明らかなった。

さらに、「教育勅語」を暗唱させるだけでなく、「愛国行進曲」を唱和させていた塚本幼稚園には「思想教育」の懸念や「児童虐待」の疑惑もあった。その塚本幼稚園の3人もの教員が文部科学大臣優秀教員に認定されていたことも明らかになった。

安倍内閣ではほとんどの大臣が「日本会議国会議員懇談会」や「神道政治連盟国会議員懇談会」に所属しているが、「アッキード事件」とも呼ばれる今度の事態からは、彼らが重視しているのは「国民の意見」ではなく、「日本会議」の意向と「お友達の利権」であることが感じられる。

文部科学大臣の松野博一・衆議院議員もこれら二つの「国会議員懇談会」だけでなく、安倍首相を会長とする〈創生「日本」〉に所属している(『日本会議の全貌』花伝社、資料21頁)。

安倍首相夫妻と「日本会議大阪運営委員」である「森友学園」の籠池泰典・園長との関わりだけでなく、虚偽答弁と思われる稲田防衛相の発言や、どのような基準で文部科学大臣優秀教員に選ばれたのかをも追究する必要があるだろう。

*   *   *

稲田朋美・自民党政調会長(当時)の発言が忠実に記録されている菅野完氏のホームページhttps://hbol.jp/129132  @hboljpからは、安倍元総理(当時)との深い繫がりだけでなく、共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック株式会社、2013年)を出版していた『カエルの楽園』の作者・百田尚樹の憲法観との強い類似性も感じられる。

すなわち、「第六回東京靖国一日見真会」で稲田朋美・自民党政調会長(当時)」は、自分と主張がほとんど同じ聴衆に向かってこう語っていた。

「だいたい弁護士とか裁判所とか検察官とか特に、弁護士会ってとても左翼的な集団なんですね。なぜかというと憲法教、まぁ憲法が正しい、今の憲法が正しいと信じている憲法教という新興宗教(会場爆笑)がはびこっているんですねぇ。」(太字は菅野)

第90回帝国議会の審議を経て1946年11月3日に公布された「日本国憲法憲法」を守ろうとすることを「憲法教」と嘲笑するだけでなく、「新興宗教」とも名付けていることに驚かされるが、『カエルの楽園』の著者も2013年10月7日付のツイートでこう記していた。

「もし他国が日本に攻めてきたら、9条教の信者を前線に送り出す。そして他国の軍隊の前に立ち、『こっちには9条があるぞ!立ち去れ!』と叫んでもらう。もし、9条の威力が本物なら、そこで戦争は終わる。世界は奇跡を目の当たりにして、人類の歴史は変わる。」(太字は高橋)

広島と長崎に投下された原爆の悲劇が象徴的に物語っているように、科学技術の進歩に伴って兵器の威力も増大し、大規模な世界戦争が起きれば地球の破滅も予想されるようになっていた。そのような中で戦争を起こさないように努力することは、もはや単なる理想ではなく、現実的な要請だったと思える。

それゆえ、このような暴言を吐くことは現在ある戦争の危機から眼を背けるだけでなく、第90回帝国議会の審議にかかわったすべての政治家をも侮辱することにもなると思える。

*   *

以下に、関連記事へのリンク先を記す。

ヒトラーの思想と安倍政権――稲田朋美氏の戦争観をめぐって

安倍首相の年頭所感「日本を、世界の真ん中で輝かせる」と「安倍晋三記念小学校」問題――「日本会議」の危険性

菅野完著『日本会議の研究』と百田尚樹著『殉愛』と『永遠の0(ゼロ)』

「日本会議」の歴史観と『生命の實相』神道篇「古事記講義」

 オーウェルの『1984年』で『カエルの楽園』を読み解く――「特定秘密保護法」と監視社会の危険性

 (2017年3月4日、3月8日・14日加筆、2023年10月25日、改訂

「森友学園」問題と「教育勅語」の危険性――『夜明け前』論にむけて(2)

ISBN4-903174-07-7_xl岩波新書<br> 国家神道と日本人

(図版は人文書館と紀伊國屋書店より)

「森友学園」問題と「教育勅語」の危険性――『夜明け前』論にむけて(2)

朝廷から「攘夷を進めるようにとの密勅が水戸藩に降った」のは、会沢正志斎が『新論』を書き上げてからすでに40年以上を経た時だった。そのため、「老成していた正志斎は、穏健現実派の立場から返納を主張した」(小島毅『増補靖国史観』ちくま学芸文庫、67頁)。

しかし、若い武田耕雲斎らが返納を拒絶して一八六四年に挙兵したのが、「天狗党の乱」と呼ばれることになる騒動であった。島崎藤村は「平田篤胤(あつたね)没後の門人」となった青山半蔵(自分の父・島崎正樹がモデル)を主人公とした『夜明け前』で池田屋の事件や「蛤御門の変」、さらには長州藩と「四国艦隊」との戦いなどについて簡単にふれたあとで、馬篭の宿など中山道を激しく動揺させたこの乱について詳しく記している。

長い間あこがれていた「王政復古」が達成されたあとで、かえって村民の暮らしが苦しくなったのを見て激しく苦悩した半蔵が菩提寺に放火をしかけて捕らえられ、狂人として座敷牢で亡くなるところで『夜明け前』は終わる。

研究者の相馬正一氏は、「藤村が『夜明け前』の構想を練っていた昭和2年から、これを発表しはじめた昭和4年までの日本の政情は、藤村の父正樹の生きた明治維新初期の政情と酷似している点が多い」ことに注意を促していたが、宗教学者の島薗進氏は「今の状態は、昭和10年の国体明徴運動に向かう時代の流れと似通っているように思います」とさえ語っている( http://iwj.co.jp/wj/open/archives/364520 … )。

実際、『夜明け前』の第二部が発表されたのは昭和7年であったが、その3年後にはそれまで国家公認の憲法学説であった天皇機関説が「『国体に反する』と右翼や軍部の攻撃を受け」、「東大教授の美濃部達吉は公職を追われ、著書は発禁」となっていた。安倍政権も憲法学者の樋口陽一氏や小林節氏などの指摘を無視して「安全保障関連法案」を強行採決していたのである。

*   *   *

2月28日の「こちら特報部」では、文部科学省幼児教育課や同省私学行政課の回答が歯切れが悪く及び腰であることも指摘していたが、注目したいのはその回答が森友学園理事長への感謝状の問題点を認識して、「取り消しを検討」との報道された稲田防衛相が語っていた次のような言葉ときわめて似ていることである。

「教育勅語の中の親孝行とかは良い面だ。文科省が言う、丸覚えさせることに問題があるということはどうなのかと思う。どういう教育をするかは教育機関の自由だ」。

しかし、「国体」概念の成立経過などを考慮するならば、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」と記されているだけでなく、臣民の忠孝を「国体ノ精華」とした「教育勅語」の文言には、「尊王攘夷」の思想が色濃く反映されていると思われる

「こちら特報部」の記事は「教育勅語(教育二関スル勅語)」の「学校への配布や礼拝、奉読が進むにつれ、「御真影」(天皇、皇后両陛下の写真)とともに「奉安殿」と呼ばれる立体物に保管されるなど神聖化され、軍国主義教育の要となった」ことも紹介している。

それゆえ、憲法学者の小林節氏が指摘しているように、「教育勅語の最後は『国に危機が迫ったら、国のために力を尽くし皇室の運命を支えなさい』と結ばれている。違憲のはずの教育勅語を教育の中心に据えようとする学校が、認可の手続きに乗っていること自体が問題だ」と思える。

奉安殿(図版は「ウィキペディア」より)

「教育基本法」に明らかに反した教育を行っていると思われるこの「幼稚園」からは3人もの教員が文部科学大臣優秀教員に認定されていたことも明らかになった。

【国有地払い下げ】問題だけでなく、「教育勅語」を暗唱させているような幼稚園の教員のどこが評価されて、文部科学大臣優秀教員に選ばれたのかも明らかにする必要があるだろう。

安倍首相の年頭所感「日本を、世界の真ん中で輝かせる」と「安倍晋三記念小学校」問題――「日本会議」の危険性

(2017年3月2日、青い字の部分を追加し、その前後を変更)