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01月

トップページを改訂し、〈目次〉と〈司馬遼太郎の「神国思想」批判と憲法観〉の頁などを追加

トップページの構造が複雑になりましたので、新たに〈目次〉と〈司馬遼太郎の「神国思想」批判と憲法観〉、および〈黒澤明監督と本多猪四郎監督の核エネルギー観〉のページを追加しました。

目次

司馬遼太郎の「神国思想」批判と憲法観

国民の安全と経済の活性化のために脱原発を

安倍首相は伊勢神宮への参拝の後で、「国民の皆さまとともに、新しい国づくりを本格的に始動してまいります」と発言しましたが、「改憲」を目指すことを明言した安倍首相の意向にそって、今年も憲法改正署名簿が、多くの人々が初詣に訪れる各地の神社に置かれているようです(太字は引用者、憲法改正署名簿の写真はKei氏の2015年12月30日のツイッターを参照)

しかも、安倍首相とともに訪れた真珠湾で平和のメッセージを発していた稲田防衛相は帰国して靖国神社を参拝した後では「神武天皇の偉業に立ち戻り」と語っていました。

すなわち、彼らが重視しているのは「国民の意見」ではなく、戦前の価値観への回帰を目指している「日本会議」や「神社本庁」の意向であるのは明白であると思えます。

それゆえ、『マクベス』の名台詞(セリフ)――「きれいはきたない、きたないはきれい」をもじってツイッターには次のように記しました。「戦争法」を強行採決したばかりでなく危険な原発の再稼働を進め、神社で改憲の署名を集めている「安倍政権」と「日本会議」の「標語」の実態は、「美しいはあやしい、新しいは古い」、危険なものであると考えています。

実際、「戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事」という『生命の実相』の記述を「ずっと生き方の根本に置いてきた」と語っていた稲田朋美氏を防衛大臣に任命した安倍自公政権は、「戦争法」に続いてオリンピックを名目として、「共謀罪」なども視野に入れて動き始めています。

安倍自民党だけでなく公明党もこの「共謀罪」を強くは批判していないようですが、創価学会はかつて治安維持法によって徹底的に弾圧された歴史を持っています。さらに安倍政権が明治維新150周年に向けて「明治維新の映画支援検討」との報道も伝えられていますが、「神武天皇の偉業に立ち戻る」ために明治維新の際して行われたのは「廃仏毀釈」の運動で、大切な仏像などが破壊されたのです。

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(破壊された石仏。川崎市麻生区黒川。写真は「ウィキペディア」より)

リンク→日本国憲法施行70周年をむかえて――安倍首相の「改憲」方針と〈忍び寄る「国家神道」の足音〉関連記事を再掲

司馬遼太郎は長編小説『翔ぶが如く』で、山県有朋について「『国家を護らねばならない』/と山県は言いつづけたが、実際には薩長閥をまもるためであり、そのために天皇への絶対的忠誠心を国民に要求した」と書いていましたが、それは「日本会議」を基盤とした「安倍政権」にも当てはまるでしょう。

「安倍政権」と「日本会議」の思想の危険性については、拙著『ゴジラの哀しみ』の第二部ナショナリズムの台頭と「報復の連鎖」  ――『永遠の0(ゼロ)』の構造と隠された「日本会議」の思想〉で考察しましたが、私のホームページのトップページでも〈司馬遼太郎の「神国思想」批判と憲法観〉のページを独立させました。

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また、「神国思想」の影響下にあった政治家や軍部は、太平洋戦争での敗戦が明らかになっても、元寇の際に「神風」が吹いたような奇跡が起きて敵国は負けると信じていたように、安倍政権の危険性は、福島第一原子力発電所の事故が、ガダルカナル島の玉砕のような事態であったにもかかわらず、「大本営」の発表と同じように事故を軽微にみせることで、原発の稼働を押し進めています。

1280px-Castle_Bravo_Blast(←画像をクリックで拡大できます)

(「キャッスル作戦・ブラボー(ビキニ環礁)」の写真)

それゆえ、トップページには〈黒澤明監督と本多猪四郎監督の核エネルギー観〉のページも独立させて、映画をとおして核エネルギーの危険性を強く訴えていた初代の映画《ゴジラ》の本多猪四郎監督と映画《夢》の黒澤明監督の核エネルギー観をまとめました。

(2017年1月23日、改訂)

 

菅野完著『日本会議の研究』と百田尚樹著『殉愛』と『永遠の0(ゼロ)』

菅野完氏の『日本会議の研究』に対して東京地裁が1月6日、販売の差し止めを認める決定をした。

[菅野 完]の日本会議の研究 (SPA!BOOKS新書)(← 書影はアマゾンより)

このことについてジャーナリストの渡辺輝人氏は1月6日のツイッターでこう批判した。

「この1カ所で本まるごと出版差し止めって、単なる言論弾圧だね。政権の意向に沿った判決を出さないと最高裁からにらまれて人事で報復受けるから、ようは東京地裁の関述之という裁判長が、自分が出世したくてしょうがなかった、ってことだろう。司法はホントどうしようもなく劣化してる。」

その指摘は沖縄や原発をめぐる裁判にもかかわるので、リツイートでこう記した。

〈同感です。安倍政権の宣伝相のような役割を果たしている作家・百田尚樹の『殉愛』裁判と比較すると対応の差は歴然とします。裁判官は公正な裁判をするために「その良心に従い独立してその職権を行い、日本国憲法及び法律にのみ拘束される」と日本の「憲法」に定められているのですが…。〉

一方、この決定を受けて早速、アマゾンのカスターレビューには「事実に基づかない悪書」などの投稿が相次いだが、この判決は安倍政権と「日本会議」との癒着に関心のある読者層の強い関心を呼び起こしたようで、菅野完氏はツイッターで「起きたら、拙著、Amazon本総合1位になってた。」と記し、さらに1月11日には下記のようにツイートしている。

【謹告】拙著『日本会議の研究』、この度、平成29年1月6日付東京地裁の仮処分決定により削除を命じられた三十数文字を墨塗りしたバージョン、出来決定!!!墨塗りのkindle版も好評発売中!ぜひご注文ください!!!

追記:東京地裁(中山孝雄裁判長)は3月31日に「真実でないと断じるには疑念が残る」と判断、出版元の扶桑社による異議を認め、一転して出版を認める決定をした。

*   *      *

一方、拙著『ゴジラの哀しみ』では、「『永遠の0(ゼロ)』の構造がノンフィクションと謳われた『殉愛』の構造ときわめて似ていること」を指摘した。

すなわち、『殉愛』の裁判では取材が主人公の妻とその周辺の人物からしか行われず、主人公を批判する側の取材はほとんどなされていなかったことが裁判で判明したが、『永遠の0(ゼロ)』の手法も登場人物を主人公の側と敵に峻別し、敵を徹底的に罵ることで主人公を格好良く見せるという」手法を用いているのである(117頁)。

それゆえ、『永遠の0(ゼロ)』の構造を解き明かすことは「日本会議」や安倍政権の歴史認識の問題点を浮かび上がらせることになると拙著で書いていた。

今回の裁判所の判決の余波は私のブログ記事にも及んでいて「菅野完著『日本会議の研究』(扶桑社新書)を読む」(2016年6月17日)の閲覧者が増えていた。それゆえ、ここでは加筆した上で題名も改めて再掲する。

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*   *   *

菅野完著『日本会議の研究』を読む

安倍首相とともに「日本会議国会議員懇談会」の特別顧問を務める麻生太郎副総理は、2013年7月に行われたシンポジウムで「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね」と発言していました。

一方、参院選に向けて「改憲」を明言していた安倍首相は、状況が思わしくないと見て取ると「改憲」を全面に出すことを止めたので、日本国民はまたもや「美しい言葉」で飾った安倍政権の術中にはまるかと心配していましたが、こうした中、「日本会議」と連動しつつ「改憲」に向けた準備を進めてきた安倍政権の問題点に鋭く迫る著作が陸続として発行されています。

そのような著作の先鞭をつけた菅野完氏の著書『日本会議の研究』(扶桑社新書)の意義はきわめて大きいと思われますので、今回はこの書の簡単な紹介を行ったツイッターの記事を中心に、それに関連した出来事の感想を記しておきます。

*   *   *

政治学が専門ではないので全体的な評価はできないが、菅野完氏の『日本会議の研究』は以前から気になっていた「日本会議」の実態に鋭く迫っていると思える。圧巻なのは、「日本会議」の本体は70年代初頭の右翼学生運動から発した団体であり、その中核を担うのが右翼学生運動の闘士たちであったことを明らかにした第4章「草の根」とそれに続く第5章「一群の人々」であろう。緻密な資料の収集と丁寧な取材からはノンフィクションといえる好著だと感じた。

これらの章の意義についてはすでに多くの紹介が成されているのでここでは省くが、筆者の着眼点のよさを感じたのは、2006年の自由民主党の総裁選で、「戦後レジームからの脱却」などを掲げて総裁に選出された安倍氏が翌年の参議院選で大敗北を喫した後の第168回国会で所信表明演説を行ってからわずか2日後の9月12日に退陣を表明するという「前代未聞の大失態」を演じて退陣し、政治生命が「完全に絶たれたように思われた」安倍晋三氏と保守論壇誌との関係にまず注意を促していることである。

すなわち、「体調問題からとはいえ、代表演説直後の辞任という前代未聞の大失態を演じた安倍晋三の政治生命は、完全に絶たれたように思われた。事実、当時の世論調査でも7割に上る有権者が『安倍の突然の辞任は無責任だ』と答えている。」

幕末の長州藩のことを調査するためにたまたま萩市を訪れており、そこで昼食を取っていた際に、蕎麦屋で流されていたテレビのニュース速報でそのことを知った私もやはり「三代目のお坊ちゃんだ」と感じ、復権することはまずないだろうと思った。

しかし、著者が指摘しているように保守論壇誌には「極めて早い時間から、安倍晋三の再登板を熱望するかのような記事が並ぶようになる」のである。

さらに著者は安倍氏がカムバックした際に、首相を支える内閣総理大臣補佐官となった衛藤晟一氏が「改憲」ではなく「反憲法」を唱えた「日本青年協議会」の組織候補であることも指摘していた。

そして、自民党若手の勉強会の呼びかけ人の木原稔・衆議院議員や参加者の活動にも言及して、この会が「日本会議」などの「代弁機関」という側面があることも指摘し、「日本会議国会議員懇談会」に所属する閣僚が8割を超えることに注目して、第三次安倍内閣が実質的には「日本会議のお仲間内閣」であることを明らかにしているのである。

そのことから思い起こしたのが、そのメンバーであり「日本会議国会議員懇談会」や「神道政治連盟国会議員懇談会」に所属するとともに、元衆院平和安全法制特別委員会のメンバーでもあった武藤貴也議員が、自分のオフィシャルブログに「日本国憲法によって破壊された日本人的価値観」という題の記事を載せていたことである。

そこで〈憲法の「国民主権・基本的人権の尊重・平和主義」こそが〉、〈日本精神を破壊する〉〈思想だと考えている〉と書いた武藤議員は、〈第二次世界大戦時に国を守る為に日本国民は命を捧げたのである。しかし、戦後憲法によってもたらされたこの「基本的人権の尊重」という思想によって「滅私奉公」の概念は破壊されてしまった〉と続けていた。

さらに、新聞やテレビのニュースなどをとおして、「森友学園」問題の本質とその根の深さが徐々に明らかになってきているが、『日本会議の研究』では「『生命の実相』を掲げて講演する稲田朋美・自民党政調会長(当時)」と園児たちに「愛国行進曲を唱和させる塚本幼稚園」との深い関係についてもふれられていた(221~232頁)。

稲田朋美・防衛相と作家・百田尚樹氏の憲法観――「森友学園」問題をとおして(増補版)

他にも注目したいくつも言及したい点はあるが、司馬遼太郎氏の死後に勃発したいわゆる「司馬史観」論争の際の「新しい歴史教科書をつくる会」の主張やその翌年に立ち上げられた安倍晋三氏が事務局長を務めた「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の運動方法に以前から関心を持っていた私が、強い関心を持って読んだのは「新しい歴史教科書をつくる会」と「日本会議」とのつながりにふれた箇所であった(32頁、145頁など)。

菅野氏は「剽窃と欺瞞の多いこの人物について言及することは筆が汚れるので、あまり言及したくはない」と百田尚樹氏について記している。そのことには同感だが、安倍首相との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック)で「売国」などという「憎悪表現」を用いて当時の民主党を激しく貶した著者は、この書で『永遠の0(ゼロ)』が映画も近く封切られるので「それまでには四百万部近くいくのではないかと言われています」と豪語していた。

この小説の構造をきちんと批判的に分析することは、「日本会議」や「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の歴史認識の問題を考察するうえでも有効だと思われる。

たとえば、『永遠の0(ゼロ)』の第9章には、「私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だと思っている」と決めつける武田という人物も描かれているが、このような見方は「文化芸術懇話会」で「本当に沖縄の2つの新聞社は絶対につぶさなあかん」と語った作家の百田尚樹氏の見解ともほぼ一致するだろう。

*   *   *

日本会議の正体(図版はアマゾンより)

ただ本書が「日本会議」の中核を70年代初頭の右翼学生運動の闘士たちが担っていることを明らかにすることに焦点を絞って書かれているために、カスタマーレビューのように「読んだ結果判ったのは、日本会議というのはそれほど大きな力を持たない任意の団体で」あるという感想も生んでいると思える。

しかし、青木理氏が『日本会議の正体』(平凡社新書)でインタビューなどをとおして明らかにしているように、「神社本庁」などに所蔵する巨大な宗教法人が「日本会議」を支援しており、現在も多くの初詣客で賑わう神社に「改憲」を求める署名簿などが置かれるなど政治的な活動が行われている。

さらに、「日本会議」の田久保忠衛・会長が〈「もんじゅ」の活用こと日本の道です〉」という危険な意見広告を載せた公益財団法人・国家基本問題研究所の副理事長を兼ねているように、「日本会議」は「もんじゅ」などの活用を図ろうとする原発ムラや武器を輸出し戦争をすることで利益を挙げようとする軍需産業などにも支えられている強力な団体と言わねばならないだろう。

*   *   *

時間が無いので最後に本書の構成を紹介することで今回は終えるが、いずれにせよ、日本が「専制」か「民主主義」かの岐路に立たされていると思われる現在、本書が70年代初頭の右翼学生運動と「日本会議」との関わりを明らかにした意義はきわめて大きい。

第1章 日本会議とは何か/  第2章 歴史/ 第3章 憲法/  第4章 草の根/  第5章 「一群の人々」/ 第6章 淵源

(2017年1月14日、加筆、書影を追加。1月24日、加筆し題名を変更。3月14日、書影とリンク先を追加。4月4日、青い字の箇所を追加)

 

総選挙に向けて――戦前の「神国思想」を受け継ぐ安倍政権を退場させる年に

【「(幕末の神国思想は――引用者註)明治になってからもなお脈々と生きつづけて熊本で神風連(じんぷうれん)の騒ぎをおこし、国定国史教科書の史観となり、昭和右翼や陸軍正規将校の精神的支柱となり、おびたたしい盲信者」を生んだ(司馬遼太郎、『竜馬がゆく』】

ISBN978-4-903174-23-5_xl(←画像をクリックで拡大できます)

「総選挙を終えて」と題した2014年の記事では、〈一昨年の参議院選挙と同じように、国会での十分な審議もなく「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」を閣議決定する一方で、原発の危険な状況は隠して〉行われたことに注意を促して、「若者よ、『竜馬がゆく』を読もう」と呼びかける記事を書きました。

なぜならば、その時の選挙で指摘された点の一つは若者の選挙離れでしたが、司馬氏は『竜馬がゆく』で最初は他の郷士と同じように「尊皇攘夷」というイデオロギーを唱えて外国人へのテロをも考えた土佐の郷士・坂本龍馬が、勝海舟との出会いで国際的な広い視野と、アメリカの南北戦争では近代兵器の発達によって莫大な人的被害を出していたなどの知識を得て、武力で幕府を打倒する可能性だけでなく、選挙による政権の交代の可能性も模索するような思想家へと成長していくことを壮大な構想で描いていたのです。

しかも長編小説『竜馬がゆく』おいて、幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となったことを指摘した作家の司馬遼太郎は「日本会議」が正当化している「大東亜戦争」についても、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と厳しく批判していたのです(『竜馬がゆく』文春文庫より)。

竜馬に「おれは薩長の番頭ではない。同時に土佐藩の走狗(そうく)でもない。おれは、この六十余州のなかでただ一人の日本人と思っている」と語らせた時、司馬は坂本竜馬という若者に託して神道によって「政教一致」の国家を建設するのではなく、民主的な理念によって統一国家としての日本を建設するという理念を記していたといえるでしょう。

実際、竜馬が打ち出した「船中八策」には、「明治維新の綱領が、ほとんどそっくりこの坂本の綱領中に含まれている」とした司馬遼太郎は、その用語が明治元年の『御誓文』にそのままこだましているだけでなく、ことに「上下議政局を設け、議員を置きて、万機を参賛(さんさん)せしめ、万機よろしく公議に決すべき事」という第二策は、「新日本を民主政体(デモクラシー)にすることを断乎として規定したものといっていい」と高く位置づけていたのです(Ⅶ・「船中八策」)。

『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』人文書館、2009年)

【吉田松陰から高杉晋作を経て、「権力政治家」山県有朋に至るまでを描いた『世に棲む日日』を視野に入れつつ、「天誅」やテロが横行していた幕末に、「オランダ憲法」を知って武力革命ではなく平和的な手段で政権を変えようとした若者の生涯を描いた『竜馬がゆく』を読み解く】

*   *   *

一方、日本国憲法の施行70周年にあたる今年を「節目の年」と指摘した安倍首相は、「新しい時代にふさわしい憲法」に向けた議論を深めようと「新しい」という形容詞を用いて呼びかけつつ、神道による「祭政一致」を目指す「国民会議」の意向に従って「改憲」を行う姿勢を一層明確に示しました。

しかし、作家・百田尚樹との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』もある安倍首相を支え、「日本国憲法」を批判している「日本会議」の思想は、旧日本軍の「徹底した人命軽視の思想」と密接に結びついています。

たとえば、映画化もされた小説『永遠の0(ゼロ)』は、一見、特攻を批判しているように見えますが、その主要登場人物の武田が賛美している思想家の徳富蘇峰は、『大正の青年と帝国の前途』で「日本魂とは何ぞや、一言にして云へば、忠君愛国の精神也。君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神也」と書いた徳富蘇峰は、「大正の青年」たちに自立ではなく、「白蟻」のように死ぬ勇気を求めていました。

〈若者よ 白蟻とならぬ 意思示せ〉

〈子や孫を 白蟻とさせるな わが世代〉

つまり、蘇峰の思想は軍部の「徹底した人命軽視の思想」の先駆けをなしており、そのような思想が多くの餓死者を出して「餓島」と呼ばれるようになったガダルカナル島での戦いなど、6割にものぼる日本兵が「餓死」や「戦病死」することになった「大東亜戦争」を生んだと言っても過言ではないと思います。

このことに注目するならば、登場人物に徳富蘇峰が「反戦を主張した」と主張させることによって、彼の「神国思想」を美化している『永遠の0(ゼロ)』は、日本の未来を担う青少年にとってきわめて危険な書物だといえるでしょう。

*   *   *

それゆえ、前回は若者に『竜馬がゆく』を読もうと呼びかけたのですが、今回はかつての愛読者だった私たちの世代も含めて、偏狭なナショナリズムに支配されずに普遍的な価値観を目指す「投票権」のあるすべての人々に呼びかけることにしました。

なぜならば、司馬遼太郎は「私は戦後日本が好きである。ひょっとすると、これを守らねばならぬというなら死んでも(というとイデオロギーめくが)いいと思っているほどに好きである」(『歴史の中の日本』中公文庫)と書いていたからです。

このことを想起するならば、司馬作品の愛読者は戦前の「五族協和」というスローガンに似た「積極的平和主義」などという用語によって、古い「祭政一致」の軍事国家に移行しようとしている危険な安倍政権を退場させる年にしましょう。

安倍首相の年頭所感「日本を、世界の真ん中で輝かせる」と「森友学園」問題

「首相年頭所感を読み解く」と題した東京新聞の1月6日の「こちら特報部」は、「日本を、世界の真ん中で輝かせる」という文言に注意を促して、「まず国内に目を向けて」と批判する文章を掲載していました。

ただ、安倍首相がすでにヘイト的な発言を繰り返す作家との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック株式会社、2013年)を出版していたことを考えるならば、この言葉は安倍首相の思想と深く結びついていると思えます。

*   *

たとえば、下記のツイッターは、国定教科書「日本ヨイ国 強イ国 世界ニカガヤク エライ国」の表現が、「世界の真ん中で輝く日本を」と語った安倍首相の思考方法と「完全に一致」と指摘していました。  →https://twitter.com/Mightyjack1/status/816284529535000576

この指摘を受けて次のように記しました。

〈「日本ヨイ国、 キヨイ国、 世界ニ 一ツノ神ノ国」という文章も「神の国」発言をした森喜朗元首相だけでなく、「日本会議」の影響下にある安倍政権の思想と完全に一致していると思えます。〉

〈日本が「世界の真ん中」という認識も、本居宣長から「日本が『漢国(カラクニ)』などとは比較できないすぐれた国」であると教えられて、「もっともすぐれた国は天地生成のときから位置が違う」ことを示す図を『古事記伝』の附録に描いた服部中庸の世界認識に似ています〉。

そして、日本を礼賛した文章が続いている国定教科書の右頁の文章からも稲田防衛相が精読している『生命の實相』の記述――「夫唱婦和は日本が第一」、「無限創造は日本が第一」、「一瞬に久遠を生きる金剛不壊の生活は日本が第一」、「無限包容の生活も日本が第一」「七德具足の至美至妙世界は日本が第一」などが浮かんでくることを指摘しました。

*   *

一方、共同通信は1月1日の記事で「安倍晋三首相は1日、昭恵夫人や実弟の岸信夫外務副大臣らと共に作家百田尚樹氏のベストセラー小説が原作の映画「海賊とよばれた男」を東京・六本木の映画館で観賞した」ことを報じていました。

安倍首相と夫人との考えの違いが報道されることが多かったので、安倍夫人は「家庭内野党」を自称しているものの、実態は「家庭内離婚」に近いのではないかと考えていたので、この時は二人が一緒に映画「海賊とよばれた男」を見たとのこの記事には違和感がありました。

しかし、2月17日に「東京新聞」の「こちら特報部」は、【国有地払い下げ】問題を特集して、「幼稚園では『教育勅語』 差別問題も」「保護者『軍国』じみている」などの見出しとともに、HPに掲載された安倍夫人の挨拶や、手紙、寄付の払い込み取扱書などの写真を掲載していました。 https://twitter.com/jdroku/status/832742847749042176

「教育勅語」を教えることで有名な塚本幼稚園を訪れた安倍首相夫人が、この幼稚園の方針を讃えたばかりでなく、「安倍晋三記念小学校」の名誉校長にも就任していたことをロイターなどのマスコミも取り上げ始めています。

このことであきらかになったのは、「家庭内野党」を自称していた安倍夫人が、戦前的な価値観の復活を目指す「日本会議」の「国会議員懇談会」特別顧問を務める安倍首相の熱心な支援者だったことです。 以下に、そのことを示す写真の掲載されたツイッターのリンク先を示し、その後で関連記事へのリンク先を示しておきます。

https://twitter.com/Reuters/status/806953007245979648

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『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』における「憎悪表現」

菅野完著『日本会議の研究』と百田尚樹著『殉愛』と『永遠の0(ゼロ)』

百田尚樹氏の『殉愛』と安倍首相の「殉国」の思想

「アベノミクス」と原発事故の「隠蔽」

百田尚樹氏の『殉愛』裁判と安倍首相の手法

「日本会議」の歴史観と『生命の實相』神道篇「古事記講義」

(2017年2月21日、改稿し題名を変更。2019年1月9日、改訂し改題)

 

安倍首相の「改憲」方針と〈忍び寄る「国家神道」の足音〉

【「私は戦後日本が好きである。ひょっとすると、これを守らねばならぬというなら死んでも(というとイデオロギーめくが)いいと思っているほどに好きである」(司馬遼太郎「歴史を動かすもの」1970年、『歴史の中の日本』中公文庫)。】

Enforcement_of_new_Constitution_stamp(←画像をクリックで拡大できます)

(日本国憲法施行記念切手、図版は「ウィキペディア」より

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日本国憲法施行70周年をむかえて(2017年1月)

昨年末に安倍首相とともに訪れた真珠湾で平和のメッセージを発していた稲田防衛相は帰国して靖国神社を参拝した後では「神武天皇の偉業に立ち戻り」、「未来志向に立って」参拝したと語っていました。

そして、安倍首相も伊勢神宮への参拝の後で、「国民の皆さまとともに、新しい国づくりを本格的に始動してまいります」と発言しましたが、沖縄や福島第一原子力発電所などの惨状を軽視している彼らが重視しているのは「国民の意見」ではなく、戦前の価値観への回帰を目指している「日本会議」や「神社本庁」の意向であるのは明白であると思えます。

*   *   *

昨年年1月に〈忍び寄る「国家神道」の足音〉を特集した「東京新聞」朝刊は「こちら特報部」でこう記していました。

「安倍首相は二十二日の施政方針演説で、改憲への意欲をあらためて示した。夏の参院選も当然、意識していたはずだ。そうした首相の改憲モードに呼応するように今年、初詣でにぎわう神社の多くに改憲の署名用紙が置かれていた。包括する神社本庁は、いわば「安倍応援団」の中核だ。戦前、神社が担った国家神道は敗戦により解体された。しかし、ここに来て復活を期す空気が強まっている。…中略…神道が再び国家と結びつけば、戦前のように政治の道具として、国民を戦争に動員するスローガンとして使われるだろう。」

宗教学者の島薗進氏もツィッターで、【疑わしい20条改正案 政教分離の意義再認識を】という題の「中外日報」(宗教・文化の新聞)の12/18社説を紹介して、「祭政一致」を掲げた明治維新が、「立憲政治と良心の自由を掘り崩した」ことを指摘していました。

リンク→http://www.chugainippoh.co.jp/editorial/2015/1218.html …

*   *   *

しかし、昨年に続いて今年も憲法改正署名簿が、多くの人々が初詣に訪れる各地の神社に置かれているようですので、〈安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動(4)〉と題した昨年の記事に「改憲署名簿」の写真を追加してアップしました。 また、副題も内容により近いものにしましたので、以下に、関連する記事のリンク先を再掲します。

Lelelenokeee (破壊された石仏。川崎市麻生区黒川。写真は「ウィキペディア」より)

関連記事一覧

安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動(1)――岩倉具視の賛美と日本の華族制度

安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動(2)――長編小説『竜馬がゆく』における「神国思想」の批判

安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動(3)――長編小説『夜明け前』と「復古神道」の仏教観

安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動(4)――「神道政治連盟」と公明党との不思議な関係

安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動(5)――美しいスローガンと現実との乖離  

(2019年5月3日改訂と改題、2023/02/07、ツイートを追加)

 

夏目漱石と正岡子規の生誕150周年をむかえて

謹賀新年

夏目漱石の歿後100周年は、政治的には厳しい出来事が続いた1年でしたが、夏目漱石と正岡子規の生誕150周年にあたる今年は、なんとか若者が未来に希望の持てる年になることを念願しています。

isbn978-4-903174-33-4_xl(←画像をクリックで拡大できます)

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015年)

 

 前著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』では、木曽路を旅して「白雲や青葉若葉の三十里」という句を詠み、東京帝国大学を中退して新聞『日本』の記者となった正岡子規の眼差しをとおして『坂の上の雲』を読み解き、帝政ロシアと「明治国家」との教育制度や言論政策の類似性に注目することで、「比較」や「写生」という方法の重要性を明らかにしました。

注目したいのは、幕末の尊皇攘夷運動に強い影響を与えた頼山陽を高く評価した山路愛山の史論「頼襄(のぼる)を論ず」(明治二十六年一月)の問題点を「人生に相渉るとは何の謂ぞ」(『文学界』第2号)で指摘した北村透谷の厳しい批判が、司馬遼太郎の徳富蘇峰批判にも通じていることです。

この問題は現在の安倍政権の歴史認識にもつながるので、北村透谷と山路愛山や徳富蘇峰との間で繰り広げられた「史観論争」をも視野に入れて、正岡子規や夏目漱石、そして島崎藤村の文学観をとおして安倍政権の宗教政策や教育政策の問題点を明らかにする『絶望との対峙――明治のグローバリズムと『罪と罰』の受容』(仮題、人文書館)を5月の連休が終わる頃までには書き上げたいと考えています。

本年もよろしくお願いします。

追記:拙著の執筆が遅れていますが焦らずに、文学作品の分析をとおして「古代復帰」を目指した明治維新以降の日本の近代化の問題点を明らかにする著作にしたいと考えています。

お詫びと訂正:拙著の構想を当初は司馬遼太郎との係わりを中心に組み立てていました。しかし、政治状況などの激変に対応するために、日本におけるドストエフスキーの受容を中心に考察することに変更しました。

新著については新しい構想が固まり次第、お知らせ致します。

                 (2017年12月31日)

shonihon

(図版は正岡子規編集・執筆『小日本』〈全2巻、大空社、1994年〉、大空社のHPより)

 

拙著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』の書評・紹介

(ご執筆頂いた方々に、この場をお借りして深く御礼申し上げます。)

‘17.03.31   書評『比較文学』第59巻(松井貴子氏)

‘17.03.13   書評『ユーラシア研究』第55号(木村敦夫氏)

新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」(人文書館)のブックレビュー

‘16.11.15   書評 『比較文明』No.32(小倉紀蔵氏)

 新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)のブックレビュー

‘16.07.10 書評 『世界文学』No.123(大木昭男氏)

 →『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)のブックレビュー

‘16.02.16 紹介 『読書会通信』154号(長瀬隆氏)

「高橋誠一郎著『新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015)を推挙する」

 

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リンク→安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動(3)――長編小説『夜明け前』と「復古神道」の仏教観

(2017年1月4日、2月14日、5月18日、リンク先と青い字の箇所を追加)