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2017年

「森友学園」問題と「教育勅語」の危険性――『夜明け前』論にむけて(4) 

「森友学園」をめぐっては次々と新たな疑惑が発覚している。

その一つが2月22日の国会質疑で以前から塚本幼稚園を知っていたかとの質問に、「聞いたことはありますけれど、その程度でございます」と答弁していた稲田防衛相の「教育勅語」観と「森友学園」との関係である。

「教育勅語」をめぐる問題は急に持ち上がったことではなく、内村鑑三の「不敬事件」以降、日本の近代化や宗教政策とも複雑に絡み合いながら常に存在しており、それを明治から昭和初期にかけて深く分析したのが作家の島崎藤村だったと私は考えている。

それゆえ、ここではもう少し現代の日本の政治と「教育勅語」の問題をもう少し考察しておきたい。

*   *   *

弁護士出身の稲田朋美防衛相と「森友学園」の問題がクローズアップされたのは、「保守の会」会長の松山昭彦氏が15年3月のFacebookに「塚本幼稚園の籠池園長とは今後も連絡を取り合うことにしました。ちなみに国会議員になる前の稲田朋美先生は塚本幼稚園の顧問弁護士だったそうです。驚きました」と書き込んだ投稿が見つかったことによる。

これには出典も明記されていたので、私も3月4日付けの記事で稲田氏が「顧問弁護士を努めていたことが判明した」と記した(稲田朋美・防衛相と作家・百田尚樹氏の憲法観――「森友学園」問題をとおして)

しかし、その後松山氏自身が2年前の書き込みの間違いを認めて削除した上、新たに「顧問弁護士だったのは稲田先生の旦那さんの方でした。この場を借りて訂正いたします」との書き込みをしていた。

この件については、「リテラ」(3月7日号)が「稲田と夫は同じ弁護士事務所で、政治的にも一心同体の関係。もし、稲田の夫が森友学園の顧問弁護士なら、稲田と森友学園もそれなりの関係にあったと考えるべきだろう」と書いていたが→lite-ra.com/2017/03/post-2970.html … @litera_web、菅野完氏の3月13日のインタビューと平成17年の文書によって、夫の稲田龍示氏だけでなく稲田朋美防衛相も森友学園の訴訟代理人を務めていたことが明らかなった。

しかも、この論考の第二回では2月23日の衆院予算委員会で民進党の辻元清美議員から質問された稲田氏が、「教育勅語の中の親孝行とかは良い面だ。文科省が言う、丸覚えさせることに問題があるということはどうなのかと思う。どういう教育をするかは教育機関の自由だ」と答弁していたことも紹介した。

今回の「リテラ」の記事からは、それがすでに2006年7月2日付紙面で「教育勅語 幼稚園で暗唱 大阪の2園 戸惑う保護者も 園長『愛国心はぐくむ』」と題した「東京新聞」の次のような記事への反論の延長戦上にあったことが分かった。

〈園側は「幼児期から愛国心、公共心、道徳心をはぐくむためにも教育勅語の精神が必要と確信している」と説明〉、さらに籠池理事長も「戦争にいざなった負の側面を際立たせ、正しい側面から目をそむけさせることには疑問を感じる」などと発言したことも記した同記事には、取材を受けた文部科学省幼児教育課が、「教育勅語を教えるのは適当ではない。教育要領でも園児に勅語を暗唱させることは想定していない」とコメントしたことも記載されていたが、これを厳しく批判していたのが当の稲田氏だったのである。

「リテラ」は稲田防衛相が自らほこらしげに「WiLL」(ワック)2006年10月号の新人議員座談会でこう語っていた箇所を引用している。

〈そこで文科省の方に、「教育勅語のどこがいけないのか」と聞きました。すると、「教育勅語が適当ではないのではなくて、幼稚園児に丸覚えさせる教育方法自体が適当ではないという主旨だった」と逃げたのです。/ しかし新聞の読者は、文科省が教育勅語の内容自体に反対していると理解します。今、国会で教育基本法を改正し、占領政策で失われてきた日本の道徳や価値観を取り戻そうとしている時期に、このような誤ったメッセージが国民に伝えられることは非常に問題だと思います」。

さらに「リテラ」は前述の座談会で、麻生太郎財務相が「教育勅語の内容はよいが、最後の一行がよくない」「『以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ』と言ったような部分が良くない」と指摘したことを新人の稲田議員が「教育勅語は、天皇陛下が象徴するところの日本という国、民族全体のために命をかけるということだから、(略)教育勅語の精神は取り戻すべきなのではないかなと思ってるんです」と批判していたことも紹介している。

一番の問題はこの箇所だろう。なぜならば、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と記された箇所こそは、『教育勅語』を「国体教育主義を経典化した」ものと高く評価した言論人・徳富蘇峰が『大正の青年と帝国の前途』で、「君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神」の養成と応用に「国民教育の要」があると主張する根拠となった一節だと思えるからである。

戦時中の1942年12月には内閣情報局の指導のもとに設立された大日本言論報国会の会長となって言論統制にあたることになる蘇峰は同書において、集団のためには自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを讃えて、「我が旅順の攻撃も、蟻群の此の振舞に対しては、顔色なきが如し」と記して、作家の司馬遼太郎が『坂の上の雲』で「自殺戦術」によって兵士が「虫のように殺されてしまう」と厳しく批判した「突撃」の精神を讃えていた。

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 こうして、すでに2006年には「森友学園」の問題が指摘されており、公的な秘書が5人もついていたにもかかわらず、安倍昭恵首相夫人が2014年12月に続いて2015年9月にも「森友学園」で講演し、その教育方法を称賛して名誉校長を2017年2月24日まで引き受けていたことはきわめて問題だと思われる。

「森友学園」をめぐっては、さまざまな問題が次々と発覚するために報道もそれに追われてしまうという傾向も見られるが、徳富蘇峰の解釈に現れているように「徹底した人命軽視の思想」も秘めている「教育勅語」の重要性を強調する稲田防衛相と彼女を防衛相に任命した安倍首相の責任問題も焦点の一つであることはたしかだろう

(2017年3月13日、加筆しリンク先を追加)

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「森友学園」問題と「教育勅語」の危険性――『夜明け前』論にむけて(2)

 「森友学園」問題と「教育勅語」の危険性――『夜明け前』論にむけて(3) 

「森友学園」問題と「教育勅語」の危険性――『夜明け前』論にむけて(5) 

 

「森友学園」問題と「教育勅語」の危険性――『夜明け前』論にむけて(3) 

『夜明け前』1『夜明け前』2『夜明け前』3『夜明け前』4

(岩波文庫版『夜明け前』、図版は紀伊國屋書店より)

島崎藤村は青山半蔵を主人公とした『夜明け前』第1部の第9章から第11章で1864年の「天狗党の乱」を詳しく描いていた。

それゆえ、昭和11年5月の『文学界』座談会で「作者が長い文学的生涯の果に自分のうちに発見した日本人という絶対的な気質がこの小説を生かしているのである」と「気質」を協調した文芸評論家の小林秀雄は、「座談会後記」でも「最も印象に残ったところは、武田耕雲斎一党が和田峠で戦って越前で処刑されるまで、あそこの筆力にはたゞ感服の他はなかった」と高く評価した。(引用は『国家と個人 島崎藤村『夜明け前』と現代』より)。

たしかに、この乱に巻き込まれた馬篭宿の庄屋であり、なおかつ「平田篤胤(あつたね)没後の門人」でもあった青山半蔵の視点から描かれている「天狗党の乱」の顛末を描いた「文章の力」はきわめて強い。

しかし、司馬遼太郎は江戸後期の国学者平田篤胤(1776~1843)とその思想について「神道という無言のものに思想的な体系」を与えることにより、「国学を一挙に宗教に傾斜させた」と記している(『この国のかたち』第5巻)。

小林は『夜明け前』について「個性とか性格とかいう近代小説家が戦って来た、又藤村自身も戦って来たもののもっと奥に、作者が発見し、確信した日本人の血というものが、この小説を支配している」と語っているが、それは主人公に引き寄せたすぎた解釈であると思える。

なぜならば、島崎藤村はこの長編小説で義兄・半蔵の純粋さには共感しながらも危惧の念も感じていた寿平次に、「平田派の学問は偏(かた)より過ぎるような気がしてしかたがない」と語らせ(第3章第3節)、「半蔵さん、攘夷なんていうことは、君の話によく出る『漢(から)ごころ』ですよ」と批判させてイデオロギー的な側面を指摘していた(太字は引用者、第5章第4節)。

実際、「尊王の意思の表示」のために、「等持院に安置してある足利尊氏以下、二将軍の木像の首を抜き取って」、「三条河原に晒(さら)しものにした」平田派の先輩をかくまった際には半蔵も、「実行を思う心は、そこまで突き詰めて行ったか」と考えさせられることになる(第6章第5節)。

しかも「同時代に満足しないということにかけては、寿平次とても半蔵に劣らなかった」が、「しかし人間の信仰と風俗習慣とに密接な関係のある葬祭のことを寺院から取り戻(もど)して、それを白紙に改めよとなると、寿平次は腕を組んでしまう」と描いた藤村は、「神葬祭」について、「これは水戸の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)に一歩を進めたもので、言わば一種の宗教改革である。古代復帰を夢みる国学者仲間がこれほどの熱情を抱(いだ)いて来たことすら、彼には実に不思議でならなかった」と記し、「復古というようなことが、はたして今の時世に行なわれるものかどうかも疑問だ。どうも平田派のお仲間のする事には、何か矛盾がある」という寿平次の独り言も記していたのである」(太字は引用者、第6章第2節)。

「古代復帰を夢みる国学者仲間」と「廃仏毀釈」運動の関係について記したこの記述は、その後の歴史の流れや青山半蔵のモデルである島崎藤村の父親の悲劇をも示唆しているように思える。すなわち、『翔ぶが如く』で司馬が書いているように、「維新というのは一面において強烈な復古的性格をもっていたが、ひとつには幕末に平田国学系の志士が小さいながらも倒幕の勢力をなし、それが維新政府に入って神祇官を構成したということもあったであろう。かれらは仏教をも外来宗教であるとし、鳥羽伏見ノ戦いが終わって二カ月後に、政府命令として廃仏毀釈を推進した」(文春文庫、第6巻・「鹿児島へ」)。

しかし、倒幕に成功したことで半蔵たちの夢が叶ったかに見えた「明治維新」の後で、村びとたちの暮らしは徳川時代よりもいっそう悪化した。それゆえ、半蔵たちは疲弊した宿村を救うために、伐採を禁じられてきた「停止木(ちょうじぼく)の解禁」を訴えて、『旧来ノ弊習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基ヅクベシ』という「五箇条の御誓文」の一節を引用した請願書を差し出したが、それは取り上げられず「戸長」(かつての庄屋のような役職)をも免職になったのである。

(2017年3月12日、一箇所訂正)

無責任な政治家と終末時計の時刻

終末時計(図版は「ウィキペディア」より)

(縦軸には残りの時刻が横軸には年号が示されており、クリックすると画像が鮮明になります)

豊洲市場問題で責任を問われている石原慎太郎元都知事(現「日本会議」代表委員)は今日の記者会見で責任逃れに終始していたが、国会議員に当選した翌年の国会では、「非核三原則」を「核時代の防衛に対する無知の所産」のせいだと批判していた((拙著『ゴジラの哀しみ』4頁)。

さらに、八木秀次・現「日本教育再生機構」理事長との『正論』(産経新聞社)2004年11月号での対談では、「いっそ北朝鮮からテポドンミサイルが飛来して日本列島のどこかに落ちればいい。そうすれば日本人は否応もなく覚醒するでしょう」と語っていた(同上、170頁)。

一方、現実からの逃避とも思えるこのような政治家の無責任な発言や安倍現首相などの無作為などから地球規模の危機は進み、朝日新聞は今年1月27日のデジタル版に次のような記事を掲載していた。

「米国の科学者らが毎年公表している地球滅亡までの残り時間を示す「終末時計」が2年ぶりに30秒進められ、残り2分半になった。核兵器増強を主張するトランプ米大統領の就任や北朝鮮の核実験、地球温暖化などを重く見た。米国と旧ソ連が対立した冷戦時代以来の深刻さという。」

そして今日の「東京新聞」は文化欄に「終末時計が30秒進む 恐怖の時代に刻々と…」の見出しで、次のように結ばれる池内了・総合研究大学大学院名誉教授の記事を掲載している。

「世界が不安定化して一触即発の状況になりつつあるという警告で、軍国主義化する日本も例外ではない。終末時計を見て、今私たち人類が陥っている愚かしさをじっくり考えてみる必要がありそうである。」

国民の安全と経済の活性化のために脱原発を

(はじめに 1、「原爆の申し子」としてのゴジラ 2,水爆「ブラボー」の実験と「第五福竜丸」事件 3,水爆大怪獣「ゴジラ」 4,核戦争の恐怖と映画《生きものの記録》 5,チェルノブイリ原発事故と「第三次世界大戦」 6,福島第一原子力発電所事故と映画《夢》 7,黒澤明と作家ガルシア・マルケスとの対談)

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(↑ 画像をクリックで拡大できます ↑)

【映画《ゴジラ》から《シン・ゴジラ》にいたる水爆怪獣「ゴジラ」の変貌をたどるとともに、『永遠の0(ゼロ)』の構造や登場人物の言動を詳しく分析することによって、神話的な歴史観で原発を推進して核戦争にも対処しようとしている「日本会議」の危険性を明らかにし、黒澤明監督と宮崎駿監督の映画に描かれた自然観に注目することにより、核の時代の危機を克服する道を探る】。

稲田朋美・元防衛相と作家・百田尚樹氏の憲法観――「森友学園」問題をとおして(改訂版)

はじめに

新聞やテレビのニュースなどをとおして、「森友学園」問題の本質とその根の深さが徐々に明らかになってきている。

菅野完氏の『日本会議の研究』では「『生命の実相』を掲げて講演する稲田朋美・自民党政調会長(当時)」と園児たちに「愛国行進曲を唱和させる塚本幼稚園」との深い関係についてもふれられていた(221~232頁)。

さらに今日(3月4日)は、「復古」的な価値観を語る稲田朋美・防衛相が国会で、虚偽答弁の疑いのある発言をしていたことも判明したので、以下にそれに関する記事と考察を追記する。

*   *

昨年に12月に安倍首相とともにハワイの真珠湾を訪問して戦没者慰霊式典に出席していた稲田朋美防衛相は、帰国すると靖国神社に参拝して「神武天皇の偉業に立ち戻り」、「未来志向に立って」参拝したと語った。

その時は弁護士でもある稲田氏が明治の薩長政権が掲げた「王政復古」の理念の流れに沿う「神武天皇の偉業」に立ち戻ることと「未来志向」との論理的な矛盾を無視していることに驚かされた。

今度は森友学園理事長に感謝状を授与していた稲田防衛相が、2月22日の国会質疑で民進党の大西健介議員の前から塚本幼稚園を知っていたかとの質問に、「聞いたことはありますけれど、その程度でございます」と答弁していたにもかかわらず、15年3月に「保守の会」会長の松山昭彦氏がFacebookに書いた記述によっていたが顧問弁護士を努めていたことが判明した。

この後、松山氏は「顧問弁護士だったのは稲田先生の旦那さんの方でした」と訂正したが、菅野完氏の3月12日のインタビューと平成17年の文書によって、夫の稲田龍示氏だけでなく稲田朋美防衛相も森友学園の訴訟代理人を務めていたことが明らかなった。

さらに、「教育勅語」を暗唱させるだけでなく、「愛国行進曲」を唱和させていた塚本幼稚園には「思想教育」の懸念や「児童虐待」の疑惑もあった。その塚本幼稚園の3人もの教員が文部科学大臣優秀教員に認定されていたことも明らかになった。

安倍内閣ではほとんどの大臣が「日本会議国会議員懇談会」や「神道政治連盟国会議員懇談会」に所属しているが、「アッキード事件」とも呼ばれる今度の事態からは、彼らが重視しているのは「国民の意見」ではなく、「日本会議」の意向と「お友達の利権」であることが感じられる。

文部科学大臣の松野博一・衆議院議員もこれら二つの「国会議員懇談会」だけでなく、安倍首相を会長とする〈創生「日本」〉に所属している(『日本会議の全貌』花伝社、資料21頁)。

安倍首相夫妻と「日本会議大阪運営委員」である「森友学園」の籠池泰典・園長との関わりだけでなく、虚偽答弁と思われる稲田防衛相の発言や、どのような基準で文部科学大臣優秀教員に選ばれたのかをも追究する必要があるだろう。

*   *   *

稲田朋美・自民党政調会長(当時)の発言が忠実に記録されている菅野完氏のホームページhttps://hbol.jp/129132  @hboljpからは、安倍元総理(当時)との深い繫がりだけでなく、共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック株式会社、2013年)を出版していた『カエルの楽園』の作者・百田尚樹の憲法観との強い類似性も感じられる。

すなわち、「第六回東京靖国一日見真会」で稲田朋美・自民党政調会長(当時)」は、自分と主張がほとんど同じ聴衆に向かってこう語っていた。

「だいたい弁護士とか裁判所とか検察官とか特に、弁護士会ってとても左翼的な集団なんですね。なぜかというと憲法教、まぁ憲法が正しい、今の憲法が正しいと信じている憲法教という新興宗教(会場爆笑)がはびこっているんですねぇ。」(太字は菅野)

第90回帝国議会の審議を経て1946年11月3日に公布された「日本国憲法憲法」を守ろうとすることを「憲法教」と嘲笑するだけでなく、「新興宗教」とも名付けていることに驚かされるが、『カエルの楽園』の著者も2013年10月7日付のツイートでこう記していた。

「もし他国が日本に攻めてきたら、9条教の信者を前線に送り出す。そして他国の軍隊の前に立ち、『こっちには9条があるぞ!立ち去れ!』と叫んでもらう。もし、9条の威力が本物なら、そこで戦争は終わる。世界は奇跡を目の当たりにして、人類の歴史は変わる。」(太字は高橋)

広島と長崎に投下された原爆の悲劇が象徴的に物語っているように、科学技術の進歩に伴って兵器の威力も増大し、大規模な世界戦争が起きれば地球の破滅も予想されるようになっていた。そのような中で戦争を起こさないように努力することは、もはや単なる理想ではなく、現実的な要請だったと思える。

それゆえ、このような暴言を吐くことは現在ある戦争の危機から眼を背けるだけでなく、第90回帝国議会の審議にかかわったすべての政治家をも侮辱することにもなると思える。

*   *

以下に、関連記事へのリンク先を記す。

ヒトラーの思想と安倍政権――稲田朋美氏の戦争観をめぐって

安倍首相の年頭所感「日本を、世界の真ん中で輝かせる」と「安倍晋三記念小学校」問題――「日本会議」の危険性

菅野完著『日本会議の研究』と百田尚樹著『殉愛』と『永遠の0(ゼロ)』

「日本会議」の歴史観と『生命の實相』神道篇「古事記講義」

 オーウェルの『1984年』で『カエルの楽園』を読み解く――「特定秘密保護法」と監視社会の危険性

 (2017年3月4日、3月8日・14日加筆、2023年10月25日、改訂

「森友学園」問題と「教育勅語」の危険性――『夜明け前』論にむけて(2)

ISBN4-903174-07-7_xl岩波新書<br> 国家神道と日本人

(図版は人文書館と紀伊國屋書店より)

「森友学園」問題と「教育勅語」の危険性――『夜明け前』論にむけて(2)

朝廷から「攘夷を進めるようにとの密勅が水戸藩に降った」のは、会沢正志斎が『新論』を書き上げてからすでに40年以上を経た時だった。そのため、「老成していた正志斎は、穏健現実派の立場から返納を主張した」(小島毅『増補靖国史観』ちくま学芸文庫、67頁)。

しかし、若い武田耕雲斎らが返納を拒絶して一八六四年に挙兵したのが、「天狗党の乱」と呼ばれることになる騒動であった。島崎藤村は「平田篤胤(あつたね)没後の門人」となった青山半蔵(自分の父・島崎正樹がモデル)を主人公とした『夜明け前』で池田屋の事件や「蛤御門の変」、さらには長州藩と「四国艦隊」との戦いなどについて簡単にふれたあとで、馬篭の宿など中山道を激しく動揺させたこの乱について詳しく記している。

長い間あこがれていた「王政復古」が達成されたあとで、かえって村民の暮らしが苦しくなったのを見て激しく苦悩した半蔵が菩提寺に放火をしかけて捕らえられ、狂人として座敷牢で亡くなるところで『夜明け前』は終わる。

研究者の相馬正一氏は、「藤村が『夜明け前』の構想を練っていた昭和2年から、これを発表しはじめた昭和4年までの日本の政情は、藤村の父正樹の生きた明治維新初期の政情と酷似している点が多い」ことに注意を促していたが、宗教学者の島薗進氏は「今の状態は、昭和10年の国体明徴運動に向かう時代の流れと似通っているように思います」とさえ語っている( http://iwj.co.jp/wj/open/archives/364520 … )。

実際、『夜明け前』の第二部が発表されたのは昭和7年であったが、その3年後にはそれまで国家公認の憲法学説であった天皇機関説が「『国体に反する』と右翼や軍部の攻撃を受け」、「東大教授の美濃部達吉は公職を追われ、著書は発禁」となっていた。安倍政権も憲法学者の樋口陽一氏や小林節氏などの指摘を無視して「安全保障関連法案」を強行採決していたのである。

*   *   *

2月28日の「こちら特報部」では、文部科学省幼児教育課や同省私学行政課の回答が歯切れが悪く及び腰であることも指摘していたが、注目したいのはその回答が森友学園理事長への感謝状の問題点を認識して、「取り消しを検討」との報道された稲田防衛相が語っていた次のような言葉ときわめて似ていることである。

「教育勅語の中の親孝行とかは良い面だ。文科省が言う、丸覚えさせることに問題があるということはどうなのかと思う。どういう教育をするかは教育機関の自由だ」。

しかし、「国体」概念の成立経過などを考慮するならば、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」と記されているだけでなく、臣民の忠孝を「国体ノ精華」とした「教育勅語」の文言には、「尊王攘夷」の思想が色濃く反映されていると思われる

「こちら特報部」の記事は「教育勅語(教育二関スル勅語)」の「学校への配布や礼拝、奉読が進むにつれ、「御真影」(天皇、皇后両陛下の写真)とともに「奉安殿」と呼ばれる立体物に保管されるなど神聖化され、軍国主義教育の要となった」ことも紹介している。

それゆえ、憲法学者の小林節氏が指摘しているように、「教育勅語の最後は『国に危機が迫ったら、国のために力を尽くし皇室の運命を支えなさい』と結ばれている。違憲のはずの教育勅語を教育の中心に据えようとする学校が、認可の手続きに乗っていること自体が問題だ」と思える。

奉安殿(図版は「ウィキペディア」より)

「教育基本法」に明らかに反した教育を行っていると思われるこの「幼稚園」からは3人もの教員が文部科学大臣優秀教員に認定されていたことも明らかになった。

【国有地払い下げ】問題だけでなく、「教育勅語」を暗唱させているような幼稚園の教員のどこが評価されて、文部科学大臣優秀教員に選ばれたのかも明らかにする必要があるだろう。

安倍首相の年頭所感「日本を、世界の真ん中で輝かせる」と「安倍晋三記念小学校」問題――「日本会議」の危険性

(2017年3月2日、青い字の部分を追加し、その前後を変更)

「森友学園」問題と「教育勅語」の危険性――『夜明け前』論にむけて(1)

安倍首相夫人の挨拶(写真はネット情報より)

「東京新聞」の「こちら特報部」は、2月21日の記事でHPに掲載された安倍夫人の挨拶や、手紙、寄付の払い込み取扱書などの写真を掲載するとともに、「幼稚園では『教育勅語』 差別問題も」「保護者『軍国』じみている」などの見出しで「森友学園」への【国有地払い下げ】問題を特集していました。

2月26日の朝刊でも、「『親学』こそ源流」との見出しで、「親学推進議員連盟」の初代会長を務めた安倍首相により、「戦時家庭教育指導要綱」と似ている「家庭教育支援法案」が党内の了承手続きを終えたことの危険性が「森友学園」問題との関連で指摘されていました。

そして、今日(2月28日)の「こちら特報部」(25面)では、「否定された軍国主義の要」である『教育勅語』を教育の中心に据えようとする「森友学園」の問題を特集し、安倍首相夫人が2015年5月の講演で、「教育方針は大変主人も素晴らしいと思っている」と褒め称えていたことなどを紹介するととともに、憲法学者・小林節氏の「公教育では『違憲』認可論外」との見解を紹介していました。

「森友学園」問題と「教育勅語」の問題を分析したこの記事は、戦前の日本における教育現場を分かり易く視覚的に再現したような「森友学園」問題の根幹に迫っていると思えます。

*   *   *

この記事は「森友学園」が計画する小学校では、「教育勅語素読・解釈による日本人精神の育成」を目的としているが、このような教育方針は戦前の価値観の復活をめざす「日本会議」の方針とまったく重なっていると言えよう。

なぜならば、島薗進氏が指摘しているように、「教育勅語」では「父母への孝行、夫婦の和、博愛、義勇奉公など十二の項目が列挙されて」おり、「儒教の徳目に対応するような、ある程度の普遍性をもつ道徳規範」も記されているが、「始まりと終わりの部分で天皇と臣民の間の紐帯、その神的な由来、また臣民の側の神聖な義務について」述べられているという構造を持っているからである(『国家神道と日本人』岩波新書)。

教育勅語

(図版は「ウィキペディア」より、クリックで拡大できます)

「教育勅語」では、臣民の忠孝が「国体の精華」とたたえられているが、「国体」という概念は、「神武創業ノ始」からあるものではなく、「会沢正志斎が『新論』の第一部に「国体」という篇名をつけ、日本の政体のあるべき姿」を論じたことに由来していた(小島毅『増補靖国史観』ちくま学芸文庫、38頁)。

靖国史観(図版は紀伊國屋書店より)

しかも、『新論』が刊行された翌年の一八五七年に朝廷から「攘夷を進めるようにとの密勅が水戸藩に降った」ことから、「国体」という概念は幕末の「尊王攘夷」のイデオロギーとの強い結びつきも持つようになり、「神の意を奉じる天皇の軍隊」が行う戦争は、「聖戦」と位置づけられるようになったのである(同書、65~67頁)。

『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』の紹介を『出版ニュース』2月下旬号より転載

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『出版ニュース』2月下旬号に拙著の紹介が掲載されましたので、HP用に改行したうえで転載します。

*   *   *

初代の『ゴジラ』(1954年)は冷戦下の核をめぐる〈文明論的な課題を直視した映画〉であった。

本書は『ゴジラ』を起点に、黒澤明、宮崎駿、司馬遼太郎を論じ、小説・映画がヒットした『永遠の0』に込められた戦争観、歴史観の問題を掘り下げる。

第一部は『ゴジラ』から『シン・ゴジラ』に至る国産のSF怪獣映画に流れる思想を検証。

第二部は、『永遠の0』の構造をナショナリズムの危うさと報復の連鎖として位置付ける。

第三部は黒澤の『夢』『七人の侍』、宮崎の『風の谷のナウシカ』『風立ちぬ』に通底する理念を引き引き出す。

作品・作家論から戦後精神の行方をトータルに捉えた批評集。

*   *   *

(『出版ニュース』 2017年2月下旬号「ブックガイド」より)

→ http://www.snews.net/news/1702c.html

〈司馬遼太郎の「神国思想」の批判と憲法観〉の項目に〈坂本竜馬の「船中八策」と独裁政体の批判〉を追加

ISBN978-4-903174-23-5_xl(←画像をクリックで拡大できます)

靖国神社には坂本龍馬が「英霊」として祀られているだけでなく、戦争の歴史や武器・兵器を展示している「遊就館」にも大きく龍馬の写真が展示されています。

そのために「神国思想」の危険性の鋭い分析をした小島毅氏も、「龍馬がここまでのし上がってきたのは、司馬遼太郎の小説のおかげであろう」と書き、さらに「これは別段『靖国史観』とわざわざ言うまでもなく、司馬遼太郎のような明治維新礼賛派の歴史小説家が好んで描く図式」であると断言して、長編小説『竜馬がゆく』の歴史観も「靖国史観」の亜流であるかのような記述をしています(『増補 靖国史観』ちくま学芸文庫、103~109頁)。

それゆえ、そのような誤解を解くために坂本竜馬の「船中八策」と独裁政体の批判〉と題した下記の短い引用を〈司馬遼太郎の「神国思想」の批判と憲法観〉の項目に追加しました。

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3,坂本竜馬の「船中八策」と独裁政体の批判

坂本竜馬が「船中八策」で記した「上下議政局を設け、議員を置きて、万機を参賛(さんたん)せしめ、万機よろしく公議に決すべき事」という「第二策」を、「新日本を民主政体(デモクラシー)にすることを断乎として規定したものといっていい」と位置づけるとともに、「他の討幕への奔走家たちに、革命後の明確な新日本像があったとはおもえない」と書いた司馬は、「余談ながら維新政府はなお革命直後の独裁政体のままつづき、明治二十三年になってようやく貴族院、衆議院より成る帝国議会が開院されている」と続けていた。

司馬遼太郎の「神国思想」批判と憲法観

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《ただ、竜馬はこのような広い視野を偶然に得たわけではなかった。すなわち、高知の蘭学塾でのオランダ憲法との出会いに注意を促しながら司馬は、「勝を知ったあと、外国の憲法というものにひどく興味をもった」竜馬が、「上院下院の議会制度」に魅了されて「これ以外にはない」と思ったと説明している。

つまり、「流血革命主義」によって徳川幕府を打倒しても、それに代わって「薩長連立幕府」ができたのでは、「なんのために多年、諸国諸藩の士が流血してきた」のかがわからなくなってしまうと考えた竜馬は、それに代わる仕組みとして、武力ではなく討論と民衆の支持によって代議士が選ばれる議会制度を打ち立てようとしていたのである。》

『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』、人文書館、2009年、325頁)。

 

オーウェルの『1984年』で『カエルの楽園』を読み解く――「特定秘密保護法」と監視社会の危険性

はじめに

「安全保障関連法案」を閣議で決定した頃から安倍首相の独裁的な手法が目立ってきたが、最近はことにその傾向が強まっているので、ジョージ・オーウェルの『1984年』で『カエルの王国』を読み解くことにより、安倍政権の中核をなしている「日本会議」のイデオロギーの危険性に注意を向ける下記の書評を書いた。

一方、札幌学院大学教授の川原茂雄氏は以下のようなツイートで『1984年』の「ニュースピーク」と安倍政権の用語の類似性を次の図版で具体的に示している。

ニュースピーク(← 画像をクリックで拡大できます)

「戦争は平和である」「自由は隷従である」「無知は力である」これはジョージ・オーウェルが『1984年』で描いた独裁国家の「ニュースピーク」です。いまこの本がアメリカでベストセラーになっているそうですが、すでに日本では、このような「ニュースピーク」は現実になっています。(川原茂雄@skawahara1217

この言葉は安倍政権の危険性を分かり易く説明していると思えるが、このような現実を見えにくくしているのがノンフィクションと謳った『殉愛』や安倍首相との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』の著書がある百田尚樹氏の作品だと私は考えている。

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反戦小説と謳いつつ、戦前の価値観を賛美していた『永遠の0(ゼロ)』の作者による『カエルの王国』については、気にはなりつつもそのままになっていた。

しかし「全国民必読。圧巻の最新長編」と帯で謳われ、「20万部突破!!」という大きな文字とともに、「これほどの手応えは『永遠の0』、『海賊とよばれた男』以来、これは私の最高傑作だ」という著者の言葉が記されているのを見て、やはり『永遠の0(ゼロ)』論を書いた以上は読む責任があるだろうと考えるにいたった。

読み始めてみると、洞穴に住んで「年中、他のカエルの悪口やら、滅茶苦茶なでたらめを言いまくっている」ハンドレッドという名前のカエルの言動などが面白おかしく描かれており、三章からなるこの小説を一気に読み終えてしまった。

『カエルの楽園』はノンフィクションと謳われた『殉愛』よりもはるかに深く、安倍政権の閣僚や「日本会議」の論客たちから強く支持されている作者の思想の本質を示しているように見える。

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まず、「リテラ」(2017年1月26日)に掲載された宮島みつや氏の記述を引用することによって、『カエルの楽園』の粗筋を見ておこう。

物語は国を追われた2匹のアマガエルが、「ナパージュ」という国にたどりつくところから始まる。このナパージュに住むのはツチガエル。このツチガエルたちは「一.カエルを信じろ。二.カエルと争うな。三.争うための力を持つな」という「三戒」を守り、何を謝っているのかわからないまま、「謝りソング」というものを歌っていつも謝っている。

一方、ナパージュの崖の下には「気持ちの悪い沼」があり、そこには「あらゆるカエルを飲みこむ巨大で凶悪な」ウシガエルが住んでいて、ナパージュの土地を自分たちの土地だと言い張り、侵略しようと虎視眈々と狙っているのだが、ナパージュのカエルたちは「三戒」のおかげで平和が守られていると信じている。

聡明で真実を語る存在として、安倍首相と思しきプロメテウスなるカエルや、百田自身のことらしいハンドレッドなるカエルが登場して、「三戒」破棄を主張する。

ところが、長老のデイブレイク(どう考えても朝日新聞のことだろう)に影響を受けたツチガエルたちは、これを拒否。その結果、ウシガエル(中国人)によるツチガエル(日本人)の大殺戮がおき、あっという間に国中をウシガエルに占拠され、ナパージュ(日本)は滅亡してしまう。オシマイ。

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このように簡単に粗筋を紹介した宮島氏は、「なんのひねりもないのでもうおわかりだと思うがナパージュは日本、ツチガエルは日本人。でもって、三戒は憲法9条、謝りソングは自虐史観で、凶悪なウシガエルは中国」であると指摘している。

そして、「三戒」の重要性を説く長老のデイブレイクは、「どう考えても朝日新聞のことだろう」とし、ようするに『カエルの楽園』は、「日本の過去の戦争を肯定し、憲法9条改正を扇動する極右プロパガンダ小説なのである」と結んでいる。

ただ、問題は〈G・オーウェル以来の寓話的「警世の書」〉と謳われているこの小説を買って読む読者が日本には、20万人以上もいるという現実である。

一方、米紙ニューヨーク・タイムズによると、「批判的なメディアなどを敵視するトランプ政権の発足した」20日以降の、G・オーウェル著『1984年』の「売り上げは9500%増に。出版社は既に7万5千部を増刷したが、追加発注も検討している」という事態が起き、日本でもかなり売れているとのことである。

(書影はアマゾンより) → https://t.co/v823uBPxCI

このような現象には『1984年』に描かれていたような監視社会が、技術力の進歩によって可能になったことへの危機感が如実に現れていると思われる。

すなわち、ソ連社会を風刺的に描いたとも評されてきたこの小説は、一時は「反共主義のバイブル」とも見なされたが、オーウェル自身が語っていたようにここで彼が批判しているのはソ連型の社会だけでなく、「新言語を強制し、歴史を改ざんし国民の論理的な思考を封じる」全体主義的な国家なのである。

しかも、この小説では三つの超大国――オセアニア、ユーラシア、イースタニア――が互いに争いつつ世界を支配しているが、舞台となっている超大国オセアニアの主流となっている哲学は「イングソック」で、ソ連型の国家が支配するユーラシアでは「ネオ・ボリシェヴィズム」であり、イースタニアでは「死の崇拝」あるいは、「個性の滅却」と訳すことができる哲学が主流となっている。

解説者ピンチョンの説明によれば、イースタニアとは戦前の日本型の国家をモデルとしていたのである(ジョージ・オーウェル、高橋和久訳『1984年』早川書房)。

学徒出陣

出陣学徒壮行会(1943年10月21日、出典は「ウィキペディア」)

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(2)――「海ゆかば」の精神と主人公

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(5)――『方丈記』の再発見と「死の美学」の克服

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前著『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』(のべる出版企画、2016年)では、言論人・徳富蘇峰や作家・司馬遼太郎の歴史観に注目しながら、『永遠の0(ゼロ)』の構造や登場人物たちの発言を文学論的な手法で詳しく分析することにより、大ヒットしたこの小説が戦前の価値観への回帰を目指す「日本会議」のプロパガンダ小説ともいえるような性質を持っていることを明らかにした。

それゆえ、ここではオーウェルの『1984年』の批判精神を活かして、『カエルの楽園』を「イソップの言葉」で書かれた小説として読み解いてみることにする。

すると、「カエルを信じろ。二.カエルと争うな。三.争うための力を持つな」という「カエルの楽園」の「三戒」は、占領という実態を隠した「王道楽土」、「五族協和」、「八紘一宇」の三つのスローガンを暗示しているように思える。

つまり、ナバージュとはそれらの理想的なスローガンを掲げて建国された満州国であり、ツチガエルは夢を抱いて満州国に渡りながら、戦争末期には棄てられた移住民たちを指していたのである。

何を根拠にしているのかわからないまま、ツチガエルたちがいつも歌わされていた「勝利のソング」は、「無敵皇軍」を主張した軍歌と読むことができるだろう。

さらに、ウシガエルとされたのは二束三文で先祖伝来の土地を手放すことを強要されて「怨念」を抱いたその土地の人々であり、「聡明で真実を語る」プロメテウスやハンドレッドなるカエルは、治安維持法によって殺された『蟹工船』の小林多喜二や、「創価教育学会」の牧口常三郎などとなるだろう。

一方、長老のデイブレイクは大正の若者に「白蟻の勇気」をもつことを強要した思想家・徳富蘇峰に置き換えることができると思える。第一次世界大戦中の1916年に発行された『大正の青年と帝国の前途』において「忠君愛国の精神」の重要性を説き、「白蟻」のように勇敢に死ぬことを求めていた『国民新聞』の徳富蘇峰は、大日本言論報国会の会長として軍部の言論統制にも協力し、沖縄戦や広島・長崎の悲劇のあともあくまで戦争の続行を求めていた。

こうして、作者が揶揄していると思われる単語の代わりに別な単語を挿入するだけで、「死の崇拝」あるいは「個性の滅却」と訳される哲学が主流となっていたイースタニアと、満州国の建設に関わった岸信介元総理や「徹底した人命軽視の思想」で戦争を遂行していた戦前の旧日本軍の思想がきわめて似ていることがわかる。

しかも、『1984年』で繰り返して示されるオセアニアの三つのスローガン、「戦争は平和なり」、「自由は隷従なり」、「無知は力なり」は、ナチス・ドイツの哲学をもじったものであるが、最初の「戦争は平和なり」というスローガンは、「特定秘密保護法」を強行採決した安倍政権が掲げる「積極的平和主義」に対する痛烈な批判となり得ているように思える。

つまり、「イソップの言葉」で書かれた小説として読み直すとき『カエルの楽園』は、「現人神」と「祭政一致」という「国体」を守るためにすべての国民が生命を投げ出して戦うことが求められていた戦前の「白蟻の楽園」の実態を鋭く暴くとともに、「安倍政権」が行おうとしている「改憲」の危険性を見事に示していると言えるだろう。

『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』における「憎悪表現」

菅野完著『日本会議の研究』と百田尚樹著『殉愛』と『永遠の0(ゼロ)』

(2017年2月11日、副題を追加。2月13日、4月5日、6月3日加筆、2019年6月21日、ツイートとリンク先を追加、2024/05/09、ツイートを追加)。

トップページの〈目次〉の項目を「国民の安全と経済の活性化のために脱原発を」と改題

2月3日には福島第一原子力発電所第二号機を調べたところ、内部の空間放射線量が数十秒の被ばくで人が死亡するレベルの530シーベルトに上るばかりでなく、 足場に大穴があり、作業がささらに難しくなったことが報道されました。

しかし、9日には新たに射線量が毎時650シーベルトと推定されたと発表され、足場の問題だけでなく、あまりにも射線量が多すぎるためにロボットでさえも、しばらくすると作業ができなくなることも判明しました。

今、テレビは東京都の豊洲問題を大々的に報じていますが、はるかに重大なのは福島第一原子力発電所事故の問題だと思われます。

それゆえ、トップページの目次の「黒澤明監督と本多猪四郎監督の核エネルギー観」を副題とし、上記の表記に改題します。