一,小林秀雄の『夜明け前』評
前回の小文で記したように、長編小説『夜明け前』を正面から論じた相馬正一氏の『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』(人文書館)からは、いろいろと教えられることが多くありました。
たとえば、「長年藤村の告白文学に馴染んできた批評家の多くは『夜明け前』をもその延長線上で捉え、父・島崎正樹をモデルにした〈私小説〉だ」と評価してきたことを紹介した相馬氏は、批評家の篠田一士が「もし世界文学というべきものが近い将来構成されるとすれば、『夜明け前』は当然、たとえば、『戦争と平和』の隣りに並ぶことになるだろう」と述べ、作家の野間宏もこの作品を「近代を超えて現代に通じるものを内に大きくかかえこんでいる」、「近代日本文学のもっとも重要な作品の一つ」と絶賛していたことにもふれています。
ここでは昭和11年に『文学界』5月号に掲載された合評会で、この作品の脚色をした村山知義の「人間が充分に描けていない」という批判に対して、小林秀雄が「人間が描けていないという様な議論もあったが、これは作者が意識して人物の性格とかを強調しなかったところからくる印象ではあるまいか」と弁護していたことも記されています。この前年の1月から『文学界』に『ドストエフスキイの生活』(~37年3月号)を連載し始めていた小林秀雄のこのような評価は客観的で『夜明け前』の意義をすでに見抜いていたことはさすがだと感じました。
ただ、相馬氏の少し踏み込みが足りないと感じたのは、この後で出席者の多くが『夜明け前』を特定のイデオロギーで意味づけようとしていたのに対して小林秀雄が、「『夜明け前』のイデオロギイという言葉自体が妙にひびくほど、この小説は詩的である。この小説に思想を見るというよりも、僕は寧ろ気質を見ると言いたい」と語って、「気質」を強調していたことが批判抜きで紹介されていたことです。
なぜならば、相馬氏は〈結、「夜明け前」と現代〉の章で、この長編小説と時代との関わりについてこう記していたからです。
「藤村が『夜明け前』第二部を発表した昭和七年から十年までは、日本が中国東北部に傀儡(かいらい)政権の〈満州国〉を造り上げて戦争へと突き進んだ時期であり、皇国史観と治安維持法を武器にして自由主義者や進歩的な学者への弾圧を強化した時期である」。
そして相馬氏は、「藤村にとっては、まさに戦前の恐怖政治を見据えての執筆だったのである」と続けていました。
長編小説『夜明け前』の合評会はこのような時期の直後の昭和11年に行われていたのですが、上海事変が勃発した1932(昭和7)年6月に雑誌『改造』に書いた評論「現代文学の不安」で、文芸評論家の小林秀雄は「この絶望した詩人たちの最も傷ましい典型は芥川龍之介であつた。多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書き、芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していました〔『小林秀雄全集』第1巻〕。
こうして芥川文学の意義を低める一方で、小林はドストエフスキーについては「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記し、「『憑かれた人々』は私達を取り巻いてゐる。少くとも群小性格破産者の行列は、作家の頭から出て往来を歩いてゐる。こゝに小説典型を発見するのが今日新作家の一つの義務である」と高らかに宣言していました。
執筆中の拙著『絶望との対峙――「坂の上の雲」の時代と「罪と罰」の受容』(仮題)で詳しく考察することにしますが――なお、ここで用いている「『坂の上の雲』の時代」とは、夏目漱石と正岡子規が生まれた1867年から日露戦争の終結までの時期を指しています――、私は絶望して自殺した北村透谷と同じように芥川龍之介もドストエフスキー文学の深い理解者だったと考えています。
それゆえ、芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定することは、比較文明的な広い視野と文明論的な深い考察を併せ持つドストエフスキー文学をも矮小化する事にもつながっていると思えるのです。
二、小林秀雄の芥川龍之介論と徳富蘇峰の北村透谷観
一九四一年に書いた「歴史と文学」という題名の評論の第二章で小林秀雄は、「先日、スタンレイ・ウォッシュバアンといふ人が乃木将軍に就いて書いた本を読みました。大正十三年に翻訳された極く古ぼけた本です。僕は偶然の事から、知人に薦められて読んだのですが、非常に面白かつた」と、徳富蘇峰による訳書推薦の序文とともに目黒真澄の訳で出版された『乃木大将と日本人』という邦題の伝記を高く評価していました。
問題はその直後に小林が日露戦争時の乃木大将をモデルにした芥川の『将軍』にも言及して、「これも、やはり大正十年頃発表され、当時なかなか評判を呼んだ作で、僕は、学生時代に読んで、大変面白かつた記憶があります。今度、序でにそれを読み返してみたのだが、何んの興味も起こらなかつた。どうして、こんなものが出来上つて了つたのか、又どうして二十年前の自分には、かういふものが面白く思はれたのか、僕は、そんな事を、あれこれと考へました」と続け、「作者の意に反して乃木将軍のポンチ絵の様なものが出来上る」と解釈していたことです(下線引用者))。
このことについてはすでに(〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉(『全作家』第90号、2013年)で書きましたが、実はそのときに思い浮かべていたのが、明治期の『文学界』(1893年1月~1898年1月)の第2号に発表した「人生に相渉るとは何の謂ぞ」で、頼山陽を高く評価した山路愛山の史論を厳しく批判したことから徳富蘇峰の民友社からの激しい反論にあい、生活苦や論戦にも疲れて次第に追い詰められ日清戦争の直前に自殺した北村透谷と徳富蘇峰の関係のことでした。
徳富蘇峰はなぜが自殺に追い詰められたかを分析するのではなく、北村透谷や戦争中の1895年にピストル自殺した正岡子規より四歳年下の従兄弟・藤野古伯のことを念頭に、「文学界に不健全の空気充満せんとする……吾人は断然此種不健全の空気を文学界より排擠(せい)せんと欲す」と『国民新聞』で断じていたのです。
一方、先に見た昭和11年の『文学界』5月号に掲載された合評会で小林秀雄は言葉を継いで長編小説『破戒』なども視野に入れつつ、『夜明け前』をこう絶賛していました。
「作者が長い文学的生涯の果に自分のうちに発見した日本人という絶対的な気質がこの小説を生かしているのである。個性とか性格とかいう近代小説家が戦って来た、又藤村自身も戦って来たもののもっと奥に、作者が発見し、確信した日本人の血というものが、この小説を支配している。この小説の静かな味わいはそこから生れているのである」。
ここで小林秀雄が『夜明け前』を高く評価していることは確かです。しかし、藤村が敬愛した北村透谷と徳富蘇峰との関係をも視野に入れるならば、「日本人の血」が強調されているのを読んだ藤村は、喜多村瑞見(モデルは栗本鋤雲)の「東西文明を見据えた公平な史観」などによりながら激動の時代を描いた自作が矮小化されているとの強い不満を感じたのではないでしょうか。
おわりに――島崎藤村から坂口安吾へ
こうして、多くの知的刺激を受けた相馬氏の『国家と個人――島崎藤村「夜明け前」と現代』における小林秀雄の評価には、物足りなさと強い違和感を覚えていたのですが、その二ヶ月後に刊行された『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』(人文書館、2006年11月)を読んだ時に、その印象は一変しました。
太宰治の研究で知られる相馬氏は、太宰治の志賀直哉批判を踏まえた上で、太宰の盟友でもあった坂口安吾の厳しい小林秀雄批判にも言及していたのです。
この本については、稿を変えて紹介することにします。