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02月

「なぜ今、『罪と罰』か」関連記事一覧を「主な研究」に再掲

ドストエフスキー関係の記事が見つけにくくなりましたので、何回か連載した記事は、「主な研究」に再掲することにしました。

まず、「なぜ今、『罪と罰』か」(1~9)を、「主な研究」の「タイトル一覧Ⅱ」に再掲します。

リンク→「なぜ今、『罪と罰』か」、関連記事一覧

「一億総活躍」という標語と「一億一心総動員」 

2014年12月に行われた総選挙の際には、「アベノミクス」を前面に出した「景気回復、この道しかない。」というスローガンが、「国民」の目を戦争の実態から逸らし、今の困窮生活が一時的であるかのような幻想を振りまいた、「欲しがりません勝つまでは」という戦時中のスローガンと似ていることを指摘していました。

リンク→「欲しがりません勝つまでは」と「景気回復、この道しかない。」

高市総務相の「電波停止」発言に接した後では、戦前の内務大臣と同じような高市氏の言論感覚を問う記事を書きました。

リンク→武藤貴也議員と高市早苗総務相の「美しいスロ-ガン」――戦前のスローガンとの類似性

第3次安倍改造内閣では「一億総活躍社会」が目玉政策として掲げられ、その担当大臣まで任命されましたが、2月12日の「東京新聞」(夕刊)には〈「一億総活躍」への違和感〉と題された池内了氏の記事が掲載されていました。

「その言葉を聞くとなんだか気持ちが悪くなり、そっぽを向きたいという気になってしまう」と記した池内氏は、「大日本帝国がアジア太平洋戦争前および戦争中に、夥(おびただ)しい数の国策スローガン」を作ったが、そこでは「『一億』という言葉が頻繁に使われた」ことを指摘しています。

つまり、「一億日本 心の動員」などと心の持ち方が強調されていた標語は、物資が欠乏してくると「進め一億火の玉だ」、「一億一心総動員」などのスローガンとなり、戦況が厳しくなると「一億が胸に靖国 背に御国」から、「撃滅へ 一億怒濤(どとう)の体当たり」などと特攻隊のような標語となっていたのです。

このような標語の流れを詳しく分析した池内氏は、戦後は一転して「一億総懺悔(ざんげ)」と戦争責任がうやむやにされたことを指摘して、「標語に潜む意図」をきちんと読み解く必要性を説いています。

「日本新聞博物館」には、戦前の言論統制によって、新聞がきちんと事実を報道できなくなったことが、悲惨な戦争につながったことが時代的な流れを追って展示していました。

リンク→新聞『日本』の報道姿勢と安倍政権の言論感覚

安倍晋三氏が好んで用いる「積極的平和主義」からは、「日中戦争」や「太平洋戦争」の際に唱えられた「王道楽土」や「八紘一宇(はっこういちう)」などの戦前の「美しいスローガン」が連想されます。

1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、戦争に対して不安を抱いた林房雄から「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけられた小林秀雄は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていました。

この小林の言葉を聴いた林は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」との覚悟を示していたのです(太字は引用者、「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁。不二出版、復刻版、2008~2011年)。

「一億一心総動員」という戦時中の物資が欠乏してきた時代に用いられた標語によく似た「一億総活躍」という標語が、安倍内閣で用いられたということは今の時代の危険性をよく物語っているように思えます。

(2016年2月17日。青い字で書いた箇所とリンク先を追加)

リンク→小林秀雄と「一億玉砕」の思想

「安倍政権の無責任体制」関連の記事一覧

先ほどの「安倍政権の違法性」と題した記事では、〈多くの「憲法」違反と思われる国会運営を行っている安倍内閣と閣僚たちの違法性については、テレビなどできちんと報道されるべきなのですが、戦前の内務大臣を思わせるような「総務大臣」の報道統制についての発言で萎縮しているようにも見えます〉と記しました。

それゆえ、新聞『日本』の報道姿勢と比較しながら、安倍政権の言論感覚を論じた昨年6月27日と先ほどの記事を追加して更新します。

「犬の遠吠え」見たいな記事であまり影響力はありませんが、日記のようなつもりで忘れてはならないことを少しずつでも記すことにします。

ここでは「安倍政権の無責任体質」に関する記事の題名を「体制」にかえたうえで、これまでに書いた記事一覧を掲載します。

 

安倍政権の無責任体制・関連の記事一覧

安倍政権の違法性――集団的自衛権行使を認めた閣議決定と内閣法制局

宮崎議員の辞職と丸川環境相の発言撤回――無責任体制の復活(9)

安倍政権閣僚の「口利き」疑惑と「長州閥」の疑獄事件――司馬氏の長編小説『歳月』と『翔ぶが如く』

安倍首相の「嘘」と「事実」の報道――無責任体制の復活(8)

アベノミクスと武藤貴也議員の詐欺疑惑――無責任体制の復活(7)

原子力規制委・田中委員長の発言と安倍政権――無責任体制の復活(6)

「新国立」の責任者は誰か(2)――「無責任体制」の復活(5)

デマと中傷を広めたのは誰か――「無責任体制」の復活(4)

原発事故の「責任者」は誰か――「無責任体制」の復活(3)

TPP交渉と安倍内閣――「無責任体制」の復活(2)

「戦前の無責任体制」の復活と小林秀雄氏の『罪と罰』の解釈

大義」を放棄した安倍内閣(2)――「公約」の軽視

「大義」を放棄した安倍内閣

 新聞『日本』の報道姿勢と安倍政権の言論感覚

(2016年2月24日。文面を一部変更し、リンク先を追加)。

宮崎議員の辞職と丸川環境相の発言撤回――無責任体質の復活(9)

妻の出産を機に育児休暇を取得する考えを表明して話題となっていた自民党の宮崎謙介衆院議員が12日に、記者会見で女性タレントとの不倫を認め、「自らの主張と軽率な行動のつじつまが合わないことを深く反省」して議員辞職願を提出したとの記事が今日の「東京新聞」に載りました。

一方、東京電力福島第一原発事故後に国が除染の長期目標を年間被ばく線量一ミリシーベルト以下に定めたことに「何の根拠もない」と発言していた丸川珠代環境相も12日に記者会見して発言を撤回して被災者に謝罪したものの、引責辞任は否定したとのことです。

宗教学者の島薗進氏は今日のツイッターで、真宗大谷派が2月1日に「関西電力高浜原子力発電所の再稼働に関する声明―原子力発電に依存しない社会を願って」を発表し、「他のいのちを顧みないものは、自らのいのちも見失います。そして、それは未来のいのちをも脅かすことになるのです。私たちは、原子力発電に依存し続けようとする人間の愚かさや核利用をめぐる無責任なあり方を、あらためて直視しなければなりません」と記していることを伝えています。

環境大臣の任務が国民の生命や安全を守ることであることに留意するならば、丸川珠代環境相の発言責任や安倍首相の任命責任は、議員辞職願を提出した宮崎議員よりもはるかに大きいと思えます。

安倍政権の支持団体であり日本の自然を大切に考えている筈の「神社本庁」は、このような事態をどのように把握しているのでしょうか。

武藤貴也議員と高市早苗総務相の「美しいスロ-ガン」――戦前のスローガンとの類似性

昨日は、〈高市総務相の「電波停止」発言と内務省の負の伝統〉という記事で高市議員の発言の危険性を指摘しました。

しかし、テレビなどでは戦前の日本を思わせる厳しい「言論統制」につながるこの発言の危険性がきちんと取り上げられていないようです。

これゆえ、ここではジャーナリズムではもうすでに過去の人となったようですが、一時、「時の人」となった武藤貴也議員の「憲法」観との比較を「美しいスローガン」をとおして行ってみます。

*   *   *

元・衆院平和安全法制特別委員会のメンバーであった武藤貴也議員は、自身のオフィシャルブログに、「私には、守りたい美しい日本がある。先人たちが、こんなに素晴らしい国を残してくれたのだから」という「美しいスロ-ガン」を掲げていました。

その武藤議員がどのような価値を「美しい」と感じているかは、2012年7月23日に「日本国憲法によって破壊された日本人的価値観」という題で書かれた文章により明らかでしょう。

「最近考えることがある。日本社会の様々な問題の根本原因は何なのかということを」と切り出した後藤氏は、「憲法の『国民主権・基本的人権の尊重・平和主義』こそが、「日本精神を破壊するものであり、大きな問題を孕んだ思想だと考えている」とし、「滅私奉公」の重要性を次のように説いている。

〈「基本的人権」は、戦前は制限されて当たり前だと考えられていた。…中略…国家や地域を守るためには基本的人権は、例え「生存権」であっても制限されるものだというのがいわば「常識」であった。もちろんその根底には「滅私奉公」と いう「日本精神」があったことは言うまでも無い。だからこそ第二次世界大戦時に国を守る為に日本国民は命を捧げたのである。しかし、戦後憲法によってもたらされたこの「基本的人権の尊重」という思想によって「滅私奉公」の概念は破壊されてしまった。〉  

*   *   *

戦前や戦中の日本における「公」の問題も深く考察していた司馬遼太郎氏は、「海浜も海洋も、大地と同様、当然ながら正しい意味での公のものであらねばならない」が、「明治後publicという解釈は、国民教育の上で、国権という意味にすりかえられてきた。義勇奉公とか滅私奉公などということは国家のために死ねということ」であったと指摘していました(『甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか』、『街道をゆく』第7巻、朝日文庫)。

事実、元・衆院平和安全法制特別委員会のメンバーであった武藤貴也議員が高く評価した作家の百田尚樹氏は、小説『永遠の0(ゼロ)』において徳富蘇峰の『国民新聞』を「反戦新聞」のように描いていましたが、徳冨蘇峰は『大正の青年と帝国の前途』において、自分の生命をもかえりみない「白蟻」の勇敢さを褒め称えて、「若者」に「白蟻」のような存在になることを求めていたのです。

それゆえ司馬氏は「われわれの社会はよほど大きな思想を出現させて、『公』という意識を大地そのものに置きすえねばほろびるのではないか」という痛切な言葉を記していたのです。

原発事故の後もその危険性を直視せずに、目先の利益にとらわれて原発や武器の輸出という「軍拡政策」に走るとともに、「アベノミクス」という「ギャンブル的な経済政策」を行ってきた安倍政権によって、日本は重大な危機に陥っていると思われます。

*   *   *

一方、強圧的な「電波停止」発言を行った高市総務大臣の「公式サイト」にも「美しく、強く、成長する国、日本を」という、「王道楽土」や「八紘一宇(はっこういちう)」などの戦前のスローガンと似た「美しいスローガン」が掲げられていました。

しかし、高市議員の「電波停止」発言が「放送法」に違反している可能性があるばかりでなく、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」と規定されている憲法にも反する発言との指摘がすでになされています。

さらに問題は、現在の「日本国憲法」を守ろうとする発言を多く放送する放送局には「電波停止」もありうるとした高市議員の発言が、シールズの主張を「彼ら彼女らの主張は『戦争に行きたくない』という自己中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまでまん延したのは戦後教育のせいだろうが、非常に残念だ」と批判していた武藤議員の発言とも通じているように見えることです。

これらの発言には戦前の日本の著しい「美化」がありましたが、そのような「日本」に「復帰」させないためにも、安倍政権の閣僚や「総務大臣」を勤めている高市議員がどのような「憲法」観を持っているかを、報道機関や民主主義団体ばかりでなく仏教界やキリスト界、そして日本の自然や大地だけでなく地球環境をも大切に思う神道の人々は、よりきびしく追求すべきだと思えます。

(2016年2月12日。副題と青い字の箇所を追加)

関連記事一覧

高市総務相の「電波停止」発言と内務省の負の伝統

「内務省の負の伝統」関連の記事一覧

武藤貴也議員の発言と『永遠の0(ゼロ)』の歴史認識・「道徳」観

武藤貴也議員の核武装論と安倍首相の核認識――「広島原爆の日」の前夜に

安倍首相の「核兵器のない世界」の強調と安倍チルドレンの核武装論

麻生財務相の箝口令と「秘められた核武装論者」の人数

百田直樹氏の小説『永遠の0(ゼロ)』関連の記事一覧

「内務省の負の伝統」関連の記事一覧

先ほど、〈高市総務相の「電波停止」発言と内務省の負の伝統という記事をアップしました。

以下に、司馬遼太郎氏の作品をとおして考察した「内務省の負の伝統」関連の記事のリンク先を示しておきます。

 

関連記事一覧

「特定秘密保護法案」と明治八年の「新聞紙条例」(讒謗律)

司馬遼太郎の「治安維持法」観

司馬作品から学んだことⅠ――新聞紙条例と現代

改竄(ざん)された長編小説『坂の上の雲』――大河ドラマ《坂の上の雲》と「特定秘密保護法」

「特定秘密保護法案」の強行採決と日本の孤立化

司馬作品から学んだことⅡ――新聞紙条例(讒謗律)と内務省

司馬作品から学んだことⅢ――明治6年の内務省と戦後の官僚機構

司馬作品から学んだことⅣ――内務官僚と正岡子規の退寮問題  

司馬作品から学んだことⅤ――「正義の体系(イデオロギー)」の危険性

司馬作品から学んだことⅥ――「幕藩官僚の体質」が復活した原因

司馬作品から学んだことⅦ――高杉晋作の決断と独立の気概

司馬作品から学んだことⅧ――坂本龍馬の「大勇」

「特定秘密保護法」と自由民権運動――『坂の上の雲』と新聞記者・正岡子規

司馬作品から学んだことⅨ――「情報の隠蔽」と「愛国心」の強調の危険性

近著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)について 

高市総務相の「電波停止」発言と内務省の負の伝統

昨日は安倍首相が国会答弁で「改憲」を繰り返した問題を取り上げましたが、「東京新聞」は今日(2月10日)の朝刊で、Q&Aの形で高市総務相が高市早苗総務相が八日に続き九日も衆院予算委員会で、テレビ局などが放送法の違反を繰り返した場合、電波法に基づき電波停止を命じる可能性に言及した」ことを報道していました。

*   *   *

A 心配なのは報道を萎縮させる動きだ。自民党は昨年四月、報道番組でやらせが指摘されたNHKと、コメンテーターが官邸批判したテレビ朝日のそれぞれの幹部から事情を聴取した。昨年十一月には、放送倫理・番組向上機構(BPO)が自民党によるNHK幹部の聴取を「圧力」と批判した。その後、看板キャスターらの降板決定が相次ぎ、報道のあり方を危ぶむ声もある。

Q やっぱり心配だね。

A 民主党の細野豪志政調会長は九日の記者会見で「放送法四条を振りかざして、メディアの萎縮をもたらすと非常に危惧する」と述べた。報道圧力と受け取られる政権側の発言は国会で議論になりそうだ。

*   *   *

この高市発言を読んで思い出したのは、昨年の夏に問題となった作家の百田尚樹氏の発言のことでした。

すなわち、安倍首相との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』があり、さらには元NHK経営委員を務めた作家の百田直樹氏が、自民党若手議員の勉強会「文化芸術懇話会」で「沖縄の二つの新聞はつぶさないといけない」などと自分が発言したことに関して、昨年、8月8日に東京都内で記者会見を行って「一民間人がどこで何を言おうと言論弾圧でも何でもない」と述べていたのです。

この発言に関して当初は百田氏を擁護していた安倍首相が3日の「衆院特別委員会」で「心からおわび」との発言をしたのに続き、菅官房長官も翁長知事との4日夜の会談で、沖縄をめぐる発言について「ご迷惑を掛けて申し訳ない」と陳謝していました。

リンク→元NHK経営委員・百田尚樹氏の新聞観

しかし、安倍政権は陳謝する一方で陳謝させられたことに対する仕返しのように今度は閣僚が、上から目線で「放送や報道の萎縮につながる」発言を公然と始めたように思われます。

安倍政権の強圧的な姿勢については、〈安倍政権による「言論弾圧」の予兆〉(2014年12月13日)でも論じましたが、かつての内務省の流れを強く受け継いでいる総務省の大臣である今回の高市発言からは、ドイツ帝国にならって「内務省」の権限を強化し、「新聞紙条例」などで言論を厳しく弾圧した明治時代の「薩長藩閥政府」との類似性と危険性を強く感じます。

リンク→新聞記者・正岡子規関連の記事一覧

樋口一葉における『罪と罰』の受容(3)――「われから」をめぐって

今回は樋口一葉の最後の小説「われから」*(1896年5月)の主人公で「『赤鬼』と呼ばれる高利貸」となった与四郎の娘・お町と、『罪と罰』で描かれる高利貸しの老婆の義理の妹・リザヴェータとの簡単な比較をしてみたいと思います。

研究者の菅聡子氏は、ダイヤモンドに眼がくらんで自分を捨てたお宮に対する復讐として高利貸しとなった間貫一の話を描いた尾崎紅葉の『金色夜叉』(1897~1902)を紹介し、岩井克人氏の『ヴェニスの商人の資本論』(筑摩書房)にも言及したあとで次のように記しています。

「高利貸は、人々の憎悪の対象であった。…中略…義理や人情といった〈情〉の論理にのっとっている共同体の内部の人々にとって、法律を見方につけ(もちろんそれを悪用してもいるのだが)、冷酷に取り立てを行う高利貸は、まさに共同体の外部の存在なのである」。

小説「われから」の筋で注目したいのは、下級官吏だった与四郎が、「赤鬼」と呼ばれる高利貸となったのは、貧しさに不満を持った美貌の妻・お美尾が、娘のお町を残して従三位という高い身分の軍人の元に出奔していたからであることを描いていたことです。

*   *   *

『罪と罰』ではラスコーリニコフとの次のような会話をとおして、高利貸の老婆の貪欲さが生々しく描かれています。

すなわち、ラスコーリニコフが父親の形見の時計を質に出して「ルーブリで四枚は貸してくださいよ」と頼み込んだときにも老婆は、「一ルーブリ半で利子は天引き、それでよろしければ」とつっけんどんに答えます(太字は引用者)。

突っ返されたラスコーリニコフは「腹だちまぎれに、そのまま出ていこう」としかけますが、怒りを圧し殺してかろうじて思い留まります。すると老婆は冷たく続けるのでした。

「月にルーブリあたり利子が十カペイカとして、一ルーブリ半だから十五カペイカ、一月分先に引かしてもらいますよ。それから、このまえの二ルーブリのほうも、同じ率で二十カペイカ。すると全部で三十五カペイカだから、あの時計であんたがいま受け取る分は、一ルーブリ十五カペイカの勘定になるね。さ、どうぞ」(第1部第1章)。

「天引き」というのは利子分を先に引いてしまうというやり方なのですが、ラスコーリニコフが後に入った安料理屋にたまたま居合わせた大学生は、高利貸の老婆アリョーナについて「たった一日でも期限をおくらしたが最後、さっさと質物を流してしまうとか、質草の値打の四分の一しか貸さず、利息は月に五分、いや、七分も取る」とも話し相手の若い将校に伝えていました(第1部第6章)。

1861年の農奴解放後に「農民が窮乏化したために、高利貸業が特にあくどい形態をとった」ようですが、この当時のロシアの平均的な「利息は二分ないし三分」だったことを考えれば、法外な利子であったといえるでしょう。

*   *   *

お町の父・与四郎が高利貸しになったのは、自分を捨てた妻への激しい恨みからでしたが、シェークスピアの『ヴェニスの商人』でも高利貸しのシャイロックがかねてから恨んでいた商人のアントニオに意趣返しをしようとして命を担保として金を貸したと描かれています。

船が期限までに戻らなかったために危機に陥った商人のアントニオは裁判官の大岡裁判のような見事な裁きによって救われるのですが、結末については直接、作品を読んでもらうことにして、ここではシャイロックの「金貸し」という職業が自ら望んで得たものではないことに注目したいと思います。

すなわち、イスラム教徒からの国土の奪還を目指したスペインのレコンキスタ(再征服運動)の余波で、スペインから追放されたユダヤ人には職業選択の自由がなく、生活するためにやむをえずに就いた職業だったのです。

『罪と罰』では「高利貸しの老婆」の非道さのみが描かれているようにも感じますが、しかしドストエフスキーは学生の言葉を伝える前に、さりげなく地の文で老婆が「十四等官未亡人」であるとの説明も記していました。

この説明だけでは日本の読者には分かりにくいと思いますが、ドストエフスキーが若い頃から敬愛し、第一作『貧しき人々』で詳しく言及もしていたプーシキンは短編「駅長」で、「そもそも駅長とは何者だろうか? 一四等官の官等をもつ紛れもない受難者で、この官位のおかげでわずかに殴打を免れているに過ぎず、それとても常に免れるものとは限っていないのである」と書いていました。

そのことに留意するならば、帝政ロシアの官等制度で最下級の官等であった一四等官の未亡人にとっては、「金貸し」という職業が生活のためには不可欠であったことも想像がつきます。

*   *   *

ラスコーリニコフが安料理屋であったその学生は老婆が義理の妹を「すっかり奴隷あつかいにしている」だけでなく、「ついこの間も、かっとなってリザヴェータの指に噛みついた」とも述べて、「ぼくは、あの糞婆さんなら、たとえ殺して金をとっても、いっさい良心の呵責を感じないね」語っていました(太字は引用者)。

この言葉を聞いたラスコーリニコフは、自分の他にも同じような考えを持つ者がいることを知って、密かにあたためていた「非凡人の理論」への確信を深めるとともに、老婆を殺害することはいじめられている義理の妹・リザヴェータを救うことにもなると考えたのです。

しかし、リザヴェータの不在となる時間をねらって老婆の殺害を企んだ筈だったラスコーリニコフが戻ってきた妹をも殺してしまったことを描いたドストエフスキーは、その後でリザヴェータがラスコーリニコフのシャツを繕ってくれていたことや、彼女がソーニャと十字架と聖像との交換をしていたこと、さらにはラスコーリニコフがシベリアで読むことになる『聖書』が、もともとは彼女がソーニャに与えていたものであることなどを明かしています。

ラスコーリニコフがリザヴェータを殺したあとで、彼女とのさまざまなつながりが『罪と罰』で描かれていることは重要でしょう。 尾崎紅葉の『金色夜叉』よりも一年前に「高利貸し」の問題を描いていた一葉も、お町の悲劇が「赤鬼」と呼ばれた高利貸の娘であったために起きたことも示唆していたのです。

*「われから」とは主に海藻の間にすむ甲殻類で、名前は乾くと体が割れることによる。和歌では多く「破殻 (われから) 」と掛け詞で「自分自身が原因で」という意味で用いられた(「デジタル大辞泉」)。

 

リンク→正岡子規の小説観――長編小説『春』と樋口一葉の「たけくらべ」

リンク→樋口一葉における『罪と罰』の受容(1)――「にごりえ」をめぐって

リンク→樋口一葉における『罪と罰』の受容(2)――「十三夜」をめぐって

「核の時代」と「日本国憲法」の重要性

リンク→文明論(地球環境・戦争・憲法)

ブログ記事を〈「核の時代」と「日本国憲法」の重要性〉と改題し、「文明論(地球環境・戦争・憲法)」のページとリンクします。

関連記事一覧

「核の時代」と「改憲」の危険性

フィクションから事実へ――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(1)

「ワイマール憲法」から「日本の平和憲法」へ――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(2)

「終末時計」の時刻と「自衛隊」の役割――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(3)

「改憲」の危険性と司馬遼太郎氏の「憲法」観

「憲法記念日」と「子供の日」に寄せて――「積極的平和主義」と「五族協和」というスローガン

憲法96条の改正と「臣民」への転落ーー『坂の上の雲』と『戦争と平和』

安倍首相の国家観――岩倉具視と明治憲法

「集団的自衛権の閣議決定」と「憲法」の失効

(2016年3月9日。改題し、リンク先を追加)

「核の時代」と「改憲」の危険性

昨年9月に政府と自民・公明の与党は、日本国憲法の立憲主義をくつがえして、戦後の日本が培ってきた平和主義を破壊する戦争法(安保関連法)案を強行採決しました。

この強行採決が「無効」であったとの見解を法律家だけでなく多くの野党議員や「安全保障関連法に反対する学者の会」や学生組織・シールズ、そしてさまざまの市民団体が示してきました。

それにもかかわらず、「大義なきイラク戦争」を主導したラムズフェルド元国防長官とアーミテージ元国務副長官に「旭日大綬章」を贈るなど好戦的な姿勢をアメリカに示した安倍晋三首相は、その一方で現憲法を「占領時代につくられた憲法で、時代にそぐわない」と断罪し、衆議院予算委員会の審議においては連日のように「改憲」を明言しています。

しかし、広島・長崎の悲劇を踏まえて1947年5月3日に施行され、「第五福竜丸」の悲劇を経て深化した「日本国憲法」は、1962年のキューバ危機に現れたような「人類滅亡の危機」を救うすぐれた理念を明文化したものであり、世界の憲法の模範となるような性質のものと思われるのです。

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(「キャッスル作戦・ブラボー(ビキニ環礁)」の写真。図版は「ウィキペディア」より)

(製作: Toho Company Ltd. (東宝株式会社) © 1954。図版は露語版「ウィキペディア」より)

*   *   *

原爆や原発の危険性に眼をつぶって安保関連法案を強行採決した安倍氏の歴史観が、日本とその隣国を悲劇に巻き込んだ東条英機内閣の閣僚を務めながらも、その問題を深く反省しないままに首相として復権した祖父・岸信介氏に近い危険なものであることについては、このブログでもたびたび言及してきました。

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(作成:Toho Company, © 1955、図版は「ウィキペディア」より)

戦争法によって、これまでの政策を一変して武器や原発を売ることができるようにした安倍政権の政策は、世界を破滅寸前まで追い込んだ19世紀の「富国強兵」政策ときわめて似ているのです。

日本の報道機関や経済界は、このような危険性に気づきつつも目先の利益を優先して、「東京オリンピック」が終わるまでは安倍政権に権力を委ねることを選んでいるように見えます。

しかし、麻生副総理が「ドイツのワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうか」と述べた発言は内外に強い波紋を呼びましたが、ヒトラーがユダヤ人や第一次世界大戦の戦勝国への憎しみを煽りつつ戦争への具体的な準備を進めたのは、1936年のベルリン・オリンピックの時だったのです。

フクシマの被災地の現実を隠すようにして行われる「東京オリンピック」には強い疑問もありますが、せめて「平和なオリンピック」とするためには好戦的な本音を隠しつつ、「神社本庁」などの力を借りて「改憲」を目論む安倍政権を早期退陣に追い込むことが必要でしょう。

このHPでは「文学・映画・演劇」を中心的なテーマとして、あまり政治的なテーマは扱いたくはなかったのですが、安倍政権による「改憲」の危険性が差し迫ってきましたので、国民の生命を戦争や原発事故から守るために、「文明(地球環境・戦争・憲法)」(「書評・図書紹介」より変更)のページを設けて、原水爆や原発など原子力エネルギーの問題や戦争や憲法を決定する政治の問題を考察するようにしました。

また、〈「核の時代」と「日本国憲法」の重要性〉のペーともリンクしました。

リンク→「文明論(地球環境・戦争・憲法)」

リンク→〈「核の時代」と「日本国憲法の重要性〉

(2016年2月17日。図版を追加。3月9日、リンク先を追加)