映画《風立ちぬ》を論じた下記の記事が抜けていましたので、「映画・演劇評」Ⅱに追加します。
映画《風立ちぬ》論Ⅴ――漱石の『草枕』と映画《風立ちぬ》(1)
映画《風立ちぬ》論Ⅵ――漱石の『草枕』と映画《風立ちぬ》(2)
なお、映画《風立ちぬ》と『永遠の0(ゼロ)』を比較した下記の3本の記事は、いずれ 「文明論(地球環境・戦争・憲法)」の3-2,「昭和初期の別国」に、掲載する予定です。
宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠のO(ゼロ)』(1)
映画《風立ちぬ》を論じた下記の記事が抜けていましたので、「映画・演劇評」Ⅱに追加します。
映画《風立ちぬ》論Ⅴ――漱石の『草枕』と映画《風立ちぬ》(1)
映画《風立ちぬ》論Ⅵ――漱石の『草枕』と映画《風立ちぬ》(2)
なお、映画《風立ちぬ》と『永遠の0(ゼロ)』を比較した下記の3本の記事は、いずれ 「文明論(地球環境・戦争・憲法)」の3-2,「昭和初期の別国」に、掲載する予定です。
宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠のO(ゼロ)』(1)
第231回例会「傍聴記」
今回は2015年にチェーホフ記念モスクワ芸術座で上演されていた四時間半にわたるボゴモロフ監督の長大な劇『カラマーゾフ』を3回見た田中氏の発表で、配布された資料には「ゾシマの死を伝えるニュース番組」の場面や、舞台の上部だけでなく両脇の壁に設置された「左の眼」と「右の眼」に映った映像を示す小さなスクリ-ンの写真もあり、臨場感のある報告となった。
発表では役者の顔をクローズアップしたり、複数の視線を提供するなど映像技術を利用した舞台が詳しく紹介され、アリョーシャを演じたのが白髪の女優であり、スメルジャコフとゾシマを同一の俳優が演じるなど配役の特徴だけでなく、母親が悲しみを訴える場面でロックバンドの音楽が流れたり、グルーシェンカがカリンカを踊るなどの音楽を取り入れた場面が多いとの指摘もなされた。
さらに、俳優名のリストの一番下に「悪魔 ある」と記される一方で、アリョーシャと少年達との交流や大審問官の話、ゾシマの伝記などが省略されていたことに対しては、日本における『カラマーゾフの兄弟』の受容と比較して興味深いとの感想や「『悪魔』的にドストエフスキーを読む」ことの面白さを強調する意見が出された一方で、果たしてこれがドストエフスキー劇と呼べるのだろうかといった率直な疑問も出された。実は、私も監督の意図がなかなかつかめずに、この劇も大衆受けするようにセンセーショナルに作られているのかもしれないと戸惑いながら聞いていた。
しかし、千葉大学で行われた国際研究集会で「ドストエフスキイの終末論――地獄の克服」(『ドストエーフスキイ広場』第10号参照)という題の講演をした研究者サラスキナが記したこの劇への肯定的なコメントや、配付資料ではあまり詳しく記されていなかった劇の筋が、参加者の質問に対する答えから明らかになるにつれて印象が変わった。
すなわち、監督のボゴモロフが自分の劇の題名からロシア語でも「同胞愛(ブラーツトヴォ)」という単語の語源となっている「兄弟(ブラーチヤ)」という単語を削除して『カラマーゾフ』と名付けていることに注意を促したサラスキナはコメントで、この題名は「『同胞愛』が存在するためには、『兄弟』が必要だというドストエフスキーの言葉に合致している」と記していた。
実際、この劇では最後にアリョーシャがリーザと心中するだけではなく、イヴァンも死にドミートリイも死刑になって、スメルジャコフのみが生き残り、ゾシマ二世ともいうべき役割を果たしていたのである。つまり、登場人物や基本的な筋は原作に拠りながらも、監督は後半の筋を大きく変えることで重たい問題提起をしていたと思える。
会場からはモスクワ芸術座だけでなくタガンカ劇場でも演出した鈴木忠志監督についての指摘もあったが、「宗教と政治との癒着」を批判する劇も上演していたボゴモロフ監督が、プーシキンの『ボリス・ゴドゥノフ』も上演していたことを知って、ロシアの演劇界で一世を風靡したタガンカ劇場のリュビーモフ監督も権力者の「良心の呵責」を描いたこの劇を上演していたことを思い出した。ことに劇『巨匠とマルガリータ』(ブルガーコフ作)でリュビーモフは、悪魔の口をとおして、今あなた方は物質的には多少豊かになったかもしれないが、精神的にはどうかという鋭い問いを発していたのである。
懇親会では劇『カラマーゾフ』には、ドストエフスキーを深く敬愛し、オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』の演出も行っていたタルコフスキー監督の映画《惑星ソラリス》を示唆するような場面があることもわかり、会話が盛り上がった。実際に見ていないので断定はできないが、「卑俗的なものが付加され、聖なるものが排除されている」この劇も、タガンカ劇場などの前衛的なロシア演劇や映画の伝統を踏まえつつ、原作のテーマをしっかりと受け継いでいる可能性があると思われる。タガンカ劇場の熱気が思い出されるような知的刺激に富んだ報告であった。
ドストエーフスキイの会「第232回例会のご案内」を「ニュースレター」(No.133)より転載します。
* * *
第232回例会のご案内
下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。
日 時:2016年3月19日(土)午後2時~5時
場 所:場 所:千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分)
℡:03-3402-7854
報告者:芦川進一 氏
題 目:「悪魔が明かすモスクワのイワン」
―「ロシヤの小僧っ子」が辿った「神と不死」探究の足跡―
*会員無料・一般参加者=会場費500円
報告者紹介:芦川進一(あしかわ しんいち)
1947年、静岡県生まれ。東外大(仏語)、東大大学院(人文科学研究科・比較文学比較文化)。津田塾大学講師を経て現在河合塾英語科講師・河合文化教育研究所研究員。研究テーマはドストエフスキイにおけるキリスト教思想。翻訳(共訳)『イエス・キリスト』(小学館、1979)。著書『隕(お)ちた「苦(にが)艾(よもぎ)」の星』(1997)、『「罪と罰」における復活』(2007)、『カラマーゾフの兄弟論』(2016)[以上三冊は河合文化教育研究所]、『ゴルゴタへの道』(新教出版社、2011)。河合文化教育研究所のHPに「ドストエフスキイ研究会便り」を掲載中
〔http://bunkyoken.kawai-juku.ac.jp/reserch/dosuto.html〕
* * *
第232回例会報告要旨
「悪魔が明かすモスクワのイワン」
―「ロシヤの小僧っ子」が辿った「神と不死」探究の足跡―
芦川進一
『カラマーゾフの兄弟』第五篇第3章、故郷家畜追込町の居酒屋「みやこ」で、イワンは弟アリョーシャにこう語ります。
「俺もお前と同じロシアの小僧っ子だ。[中略]そういう連中が、飲み屋でわずかな時間を捉えて何を論じると思う?他でもない、神はあるかとか、不死は存在するかとかいう世界的な問題なのだ」
次兄イワンをどのように捉えたらよいのか。この問題は私にとって長い間大きな課題であり続けてきました。このたび書き上げた本で、私はこの青年の原点はやはりこの言葉にあると考え、彼の思想と行動の一切を「ロシヤの小僧っ子」による「神と不死」探究の旅、一貫したイエス像探求の過程として捉えようと試みました(『カラマーゾフの兄弟論―砕かれし魂の記録―』)。イワンばかりかカラマーゾフの兄弟四人が向かう方向とは、突き詰めれば神存在の問題に他ならず、これは作者ドストエフスキイ自身の人生を貫く究極の問題であり、私自身改めてこの方向での思索を深める必要を痛感させられました。
ところでイワンの思想と行動を捉える大きな手掛かりは、「肯定(プロ)と否定(コントラ)」と題された第五篇のアリョーシャとの対決にあり、そこで弟から「反逆」と呼ばれる思想であることは明らかです。しかしこれに加えて作者は、イワンという人物を知るもう一つ大きな手掛かりを提供してくれています。第十一篇第9・10章に描かれた悪魔との対決です。作品の終り近く、裁判を明日に控えての悪魔の登場。これはスメルジャコフによって父親殺しの罪を決定的に自覚させられ、裁きの場での自白を決意したイワンの心に生じた猛烈な反動、「揺れ戻し」と言うべきもので、この時イワンの心は、悪魔との問答という形で、もう一度「大審問官」や「地質学的変動」の思想を生み出した頃の自分、モスクワ時代の自分に立ち帰ろうとしているのだと考えられます。つまりイワンは、神の否定に続き「キリストの愛」をも否定し、自分自身を「一切が許されている」神とするに至った頃の自分、力に満ち溢れたモスクワでの自分を呼び戻そうとしているのです。
錯綜し、飛躍と韜晦に満ちた捉え難い悪魔の言表。しかしそこに散りばめられた情報を丁寧に拾い集めてゆくと、イワンがモスクワで辿った思索の足跡を時系列的な線上に再構成することが可能となります。その結果、悪魔が明かすモスクワでのイワンと、アリョーシャと対決する家畜追込町でのイワンとが、ちょうど表裏一体の合わせ鏡のようになって、その思想の全体像が立体的に浮かび上がり、イワン造型に当たる作者ドストエフスキイの構想も相当明瞭になってくるように思われます。
周知の如くイワンとは「自己矛盾的存在」(西田幾多郎)と呼ばれるように、その思想も行動も「肯定と否定」の間に激しく分裂し、この上なく捉え難い存在です。しかし以上のような方法論で(悪魔とアリョーシャの導きによって!)アプローチする時、その矛盾・分裂の奥からは「神と不死」の熱烈な探究者イワンの瑞々しい姿が現れ出て、この存在がいわば弁証法的なドラマ性を持った生成途上にある「ロシヤの小僧っ子」であることが明らかとなります。ここから見る時、イワンとその「前衛的肉弾」スメルジャコフとの関係、他の兄弟たちとの関係、またゾシマ長老や父フョードルやリーザとの関係にも新たな光が当たり、『カラマーゾフの兄弟』へのより大きな視野も開けて来るでしょう。
例会では何よりもまず、このモスクワにおけるイワンの思想形成のドラマを具体的に提示するように努めたいと思います。そこから新たに開かれるカラマーゾフの世界への展望を検討し、時間が許せば、更にドストエフスキイ文学の根幹をなすユダ的人間論とキリスト論の問題にまで言及できればと思っています。
* * *
「事務局便り」は、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。
前回例会の「傍聴記」は、「ブログ」のページに掲載します。
先ほど、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と啖呵を切って居直っていた日本の代表的な知識人・小林秀雄の「道義心」の問題を論じた記事をアップしました。
この問題は再稼働を許可した安倍政権の閣僚やことに「原子力規制委員会」に深く関わりますので、「原子力規制委員会」関連記事一覧を掲載します。
「原子力規制委員会」関連記事一覧
「僕は無智だから反省なぞしない」――フクシマ後の原発再稼働と知識人・小林秀雄
原子力規制委・田中委員長の発言と安倍政権――無責任体質の復活(6)
今日(2月27日)の「東京新聞」朝刊は、原発事故に関する二つの記事を一面のトップで伝えています。最初の記事は「高浜4号機 不安の再稼働 冷却水漏れ直後、予定通り」という大見出しと、「問われる責任 福島事故 生きない教訓」という見出しとともに掲載された下記の記事です。
* * *
〈関西電力は二十六日、高浜原発4号機(福井県高浜町)を再稼働させた。福島第一原発事故後の原子力規制委員会の新規制基準下では、九州電力川内(せんだい)原発1、2号機(鹿児島県)、高浜原発3号機に続き二カ所四基目。4号機では二十日、原子炉補助建屋でボルトの緩みが原因で放射性物質を含む一次冷却水漏れが起きたが、関電は同様の弁を点検するなど対策を済ませたとして、当初予定通りの日程で再稼働させた。〉
もう一つは「東電元会長ら3人 29日に強制起訴」という見出しの次のような記事です。
〈東京電力福島第一原発事故で、東京第五検察審査会から二度、起訴すべきとの議決を受けた東電の勝俣恒久元会長(75)ら旧経営陣三人について、検察官役の指定弁護士が二十六日に会見し、三人を二十九日に業務上過失致死傷罪で、在宅のまま強制起訴することを明らかにした。〉
* * *
これらの記事を読みながら思い出したのは、敗戦後の1946年に戦前の発言について問い質されて、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない」と語り、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と啖呵を切って居直っていた日本の代表的な知識人・小林秀雄のことです(下線は引用者)。
なぜならば、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と長編小説『罪と罰』を解釈した文芸評論家の小林秀雄の著作が、自民党の教育政策により教科書や試験問題でも採り上げられることにより「利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」という道徳観が広まったことで、自分の発言に責任を持たなくともよいと考える政治家や社長が増えたと思えるからです。
しかも、1948年の8月に行われた物理学者・湯川秀樹博士との対談「人間の進歩について」で、「私、ちょうど原子爆弾が落っこったとき、島木健作君がわるくて、臨終の時、その話を聞いた。非常なショックを受けました」と切り出した小林秀雄は、「人間も遂に神を恐れぬことをやり出した……。ほんとうにぼくはそういう感情をもった」と語り、「原子力エネルギー」の危険性を指摘してこう続けていたのです。
「目的を定めるのはぼくらの精神だ。精神とは要するに道義心だ。それ以外にぼくらが発明した技術に対抗する力がない」。
当時としてはきわめて先見の明のある発言だと思われますが、問題は「僕は無智だから反省なぞしない」と啖呵を切ることで戦争犯罪の問題を「黙過」していた小林が、原発の推進が「国策」となると今度は「原子力エネルギー」の危険性をも「黙過」するようになっていたことです。
それゆえ、代表的な知識人である小林が「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した」と発言していた文章を読み直したときには、「僕は政治的には無責任な一国民として事変に処した」と発言しているのと同じだと感じたのですが、小林秀雄の「道義心」の問題は「国民の生命」に関わる「原子力規制委員会」とも深く関わっています。それゆえ、再稼働を許可した「原子力規制委員会」関連記事一覧も次のブログで掲載します。
なお、自分の言葉がスメルジャコフに「父親殺し」を「使嗾」していたことに気づいたイワンが、深い「良心の呵責」に襲われ意識混濁や幻覚を伴う譫妄症にかかったと描かれている『カラマーゾフの兄弟』については、→「アインシュタインのドストエフスキー観と『カラマーゾフの兄弟』」を参照してください。
追記:大岡昇平と埴谷雄高との対談「二つの同時代史」を読んだところ、この有名な台詞がその場で語られたものではなく、あとで付け足された文章であることを知った。その箇所を引用しておく。
大岡 小林秀雄で思い出したけれども「近代文学」が小林を呼んでやった座談会のときのあとで物議を醸した台詞があるだろう。自分は黙って事件(ママ)に処した、利口なやつはたんと後悔すればいい、というやつ。
埴谷 ああ、それは、小林さんは座談会のときは言ってなくて、あとで書いたものなんだよ。だいたい小林さんは座談会の原稿は全部書き直して、はじめの言葉は一つもないくらいだよ。
大岡 しかし、小林の「黙って事件に処した」はあまりあてにならないな。黙って事件に処してはいないよ、あいつ(笑い)。 (……)座談会では日米けんかしたらむろん勝つさ、なんていっている。
(『大岡昇平全集』別巻、筑摩書房、211~212頁、2019年5月7日、加筆、リンク先を追加)
「原発再稼働問題」関連記事一覧
原子力規制委・田中委員長の発言と安倍政権――無責任体質の復活(6)
御嶽山の噴火と川内原発の再稼働――映画《夢》と「自然支配」の思想
真実を語ったのは誰か――「日本ペンクラブ脱原発の集い」に参加して
(図版は正岡子規編集・執筆『小日本』〈全2巻、大空社、1994年〉、大空社のHPより)
「新聞記者・正岡子規」関連記事一覧
自著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』の紹介文を転載
『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)の目次を「著書・共著」に掲載
近著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)について
講座 「新聞記者・正岡子規と夏目漱石――『坂の上の雲』をとおして」
「特定秘密保護法」と自由民権運動――『坂の上の雲』と新聞記者・正岡子規
年表6、正岡子規・夏目漱石関連簡易年表(1857~1910)
項目が増えてきて見つけにくくなりましたので、「映画・演劇評」のタイトル一覧を年代順からテーマ別に変更し、ブログに連載した記事のタイトルも掲載することにしました。
タイトル一覧Ⅰ.には1,黒澤映画 2,黒澤映画と深い関係のある映画を、タイトル一覧Ⅱ.のⅠには、1,ゴジラ 2,宮崎駿映画 3,その他を、 Ⅱには演劇関係を掲載します。
項目が増えてきて見つけにくくなりましたので、「主な研究(活動)」のタイトル一覧を年代順からテーマ別に変更し、ブログに連載した記事のタイトルも掲載することにしました。
タイトル一覧のⅠ.にはドストエフスキー、ロシア文学、小林秀雄関係の研究を、Ⅱ.には司馬遼太郎、近代日本文学関係の研究を掲載します。
今回は小林秀雄の良心観を『ヒロシマわが罪と罰』との関係を中心に考察した関連記事をタイトル一覧Ⅰ.に追加しました。
Ⅱ、日露の近代化とグローバリゼーション
2-1、ピョートル大帝の改革と「富国強兵」政策
2-2、ロシア貴族の特権化と農民の没落
2-3,明治維新と「文明開化」
2-4,日本の近代化の光と影
2-5,グローバリゼーションと「文明の衝突」
Ⅲ、「核の時代」と日本国憲法
3-1、憲法
3-2、教育制度
3-3,法律と報道
Ⅳ、政治
4-1,「公地公民」という用語
4-2,明治維新と薩長藩閥政府
4-3,「昭和初期の別国」
4-4、安倍政権
(2016年3月17日。改訂)
2月18日の「東京新聞」は「こちら特報部」の記事で、安倍政権が行っている「『公私混同』の公金投入」の問題として、「年金積立金の株運用拡大」、「原発交付金再稼働を重視」、さらに「辺野古周辺に直接補助金」投入していることなどを指摘していました。
このブログでも「安倍政権の経済感覚」を問題視する記事を書いていましたが、アベノミクスの問題点を指摘した一連の記事を〈「アベノミクス」の詐欺性〉としてアップします。
〈「アベノミクス」の詐欺性〉関連記事一覧
「アベノミクス」の詐欺性(4)――TPP秘密交渉担当・甘利明経済再生相の辞任1月29日
「アベノミクス」の詐欺性(3)――公的年金運用の「ハイリスク」の隠蔽1月21日
「アベノミクス」の詐欺性(2)――TPP秘密交渉と「公約」の破棄1月20日
「アベノミクス」の詐欺性(1)――「トリクルダウン」理論の破綻1月19日
安倍政権の経済感覚――三代目の「ボンボン」に金庫を任せて大丈夫か
アベノミクス(経済至上主義)の問題点(2)――原発の推進と兵器の輸出入
アベノミクスと武藤貴也議員の詐欺疑惑――無責任体質の復活(7)
「アベノミクス」とルージンの経済理論(*ルージンは『罪と罰』に登場する利己的な中年の弁護士)