高橋誠一郎 公式ホームページ

2016年

「権力欲」と「服従欲」の考察――フロムの『自由からの逃走』を読む

1,「権威主義的な価値観」への盲従の危険性と「非凡人の理論」

自らがナチズムの迫害にあった社会心理学者のエーリッヒ・フロム(1900~1980)は、『自由からの逃走』(日高六郎訳、東京創元社、1985)において、ヒトラーの考えと社会ダーウィニズムとの係わりに注目して、ヒトラーが「自然の法則」の名のもとに「権力欲を合理化しよう」とつとめていたことを指摘していました。さらにフロムは、「種族保存の本能」に「人間社会形成の第一原因」を見るヒトラーの考えは、「弱肉強食の戦い」と経済的な「適者生存」の考え方を導いたと述べています*14。

注目したいのはフロムが、人間の歴史が個人の自由の拡大の歴史であることを確認しながら、それとともに、あまりに個人の自由が大きくなった時、獲得した自由が重みにもなり、人が自らそれを放棄することもあることを指摘しえていることです。

たしかに、近代以降、それまで土地や職業に縛られていた人間は、職業の選択の自由、移動の自由、さらには恋愛の自由など様々な個人の自由を拡大してきました。しかし、自由が大きくなればなるほど、どの道を選ぶかの選択の際の苦悩や不安は深まります。こうして、フロムは自らの道を選ぶことが難しい危機的な状況になればなるほど、人間は自らの自由の重みに耐えられずに、それをより強大な他の人物に譲り、彼に道を選んでもらうことで不安から逃れようとする傾向があることを明らかにしたのです。

この際にフロムはサディズムとマゾヒズムという心理学の概念を用いながら、人間の「服従と支配」のメカニズムに迫り得ています。すなわち、彼によれば、「権力欲」は単独のものではなく、他方で権威者に盲目的に従いたいとする「服従欲」に支えられており、自分では行うことが難しい時、人間は権力を持つ支配者に服従することによって、自分の望みや欲望をかなえようともするのです*15。

フロムは「神経症や権威主義やサディズム・マゾヒズムは人間性が開花されないときに起こるとし、これを倫理的な破綻だとした」(ウィキペディア)としていますが、彼の説明は第一次世界大戦の後で経済的・精神的危機を迎えたドイツにおいて、なぜ独裁的な政治形態が現れたかを解明していると言えるでしょう。

フロムは自分の分析をより分かり説明するために、ドストエフスキーの最後の大作『カラマーゾフの兄弟』から引用していますが*16、私たちにとって興味深いのは、このような問題がすでに『罪と罰』においても扱われていることです。

すなわち、ラスコーリニコフは「凡人」について「本性から言って保守的で、行儀正しい人たちで、服従を旨として生き、また服従するのが好きな人たちです。ぼくに言わせれば、彼らは服従するのが義務で」ある(三・五)と規定するのです。別な箇所でラスコーリニコフは「どうするって? 打ちこわすべきものを、一思いに打ちこわす、それだけの話さ。…中略…自由と権力、いやなによりも権力だ!」と語った後で、「ふるえおののくいっさいのやからと、この蟻塚(ありづか)の全体を支配することだ!」(四・四)と続けています。

この「おののく」という特徴的な言葉は、彼がナポレオンのことを想起しながら、路上に大砲を並べて「罪なき者も罪ある者も片端から射ち殺し」「言訳ひとつ言おう」しなかった者の処置こそ正しいと感じた時にも、「服従せよ、おののくやからよ、望むなかれ、それらはおまえらのわざではない」(三・六)と用いられていました。

創作ノートにはラスコーリニコフには「人間どもに対する深い侮蔑感があった」(一四〇)と書かれています。ドストエフスキーは自分の「権力志向」だけではなく、大衆の「服従志向」にも言及させることでラスコーリニコフのいらだちを見事に表現しえているのです。

こうして、ラスコーリニコフの「非凡人」の理念は、劣悪な状況におかれながらも、社会を改革しようとはせず、ただ耐えているだけの民衆に対するいらだちや不信とも密接に結びついていたのです。(中略)

しかも、ドストエフスキーは予審判事のポルフィーリイに「もしあなたがもっとほかの理論を考え出したら、それこそ百億倍も見苦しいことをしでかしたかもしれませんよ」とラスコーリニコフを批判させていました。

実際、世界を「生存闘争」の場ととらえるならば、かつての「イデオロギー」的な連帯から、「同種の文明国家」の連帯へと変わったと言っても、自らが「鬼」として滅ぼされないために、「圧倒的な力」を持つ文明に対抗して、他の文明も国力を挙げて軍備の拡大や「抑止力」としての核兵器の開発へと進まざるを得なくなるでしょう。

現在も「国益」や「抑止力」の名目で未臨界実験をも含む核実験や核兵器の保持が続けられていますが、多くの学者が指摘しているように、核兵器の使用は「核の冬」など地球環境の悪化による諸文明だけでなく、地球文明そのものの破滅をも意味するでしょう。

そのことをドストエフスキーは、ラスコーリニコフがシベリアの流刑地で見る「人類滅亡の悪夢」をとおして明らかにしていました。夢の中で彼は「知力と意志を授けられた」「旋毛虫」におかされ自分だけが真理を知っていると思いこんだ人々が互いに自分の真理を主張して「憎悪にかられて」、互いに殺し合いを始め、ついには地球上に数名の者しか残らなかったという光景を見るのです。

2,スピノザの「感情論」と『罪と罰』における感情の考察

興味深いのは、ドストエフスキーがこの「人類滅亡の悪夢」を描いた後でソーニャと再会したラスコーリニコフの「復活」を描いていたことです。

つまり、「だれが生きるべきで、だれが生きるべきじゃないか」などと裁くことが人間にできるのかとラスコーリニコフを鋭く問い質していたソーニャの考えには、論理化はされていないにせよ、存在や生命の尊厳に対する直感的な理解があると言えるでしょう。(中略)

貧しさのために大学を退学しなければならなくなり、「自尊心」を傷つけられた中で自分の専門的な知識で組み上げたラスコーリニコフの「論理」の矛盾を、ラズミーヒンが指摘しつつも彼に直接的な影響力を持てなかったのに対し、ソーニャの言葉は彼の感情に訴えかける力をもっていたのです。

この意味で注目したいのは、エーリッヒ・フロムが無意識的力に注目した思想家として、マルクスとフロイトの名を挙げながら、「西欧の思考的伝統の中で」、彼らに先立って「無意識についての明白な概念を持っていた最初の思想家は、スピノザであった」と書いていることです*7。

実際、スピノザは感情の分析をとおして「人間は、常に必然的に受動感情に屈従」するとし、「感情の力は、感情以外の人間の活動、あるいは、能力を凌駕することができる。それほどに感情は頑強に人間に粘着している」という事実を指摘しえています*8。

このような認識は自分が感情や他人の意見に左右されずに、主体的かつ理性的に行動していると考えていた人々にとっては苦痛でしょう。しかし、スピノザが指摘しているように、多くの場合「人々が自由であると確信している根拠は、彼らは自分たちの行為を意識しているがその行為を決定する原因については無知である」という理由に基づいているのです*9。

『未成年』の登場人物は、ある感情のとりこになった人間を正常に戻すには「その感情そのものを変えねばならないが、それには同程度に強烈な別な感情を代りに注入する以外に手はない」(六四)と語っています*10。この言葉は「感情は、それと反対の、しかもその感情よりももっと強力な感情によらなければ抑えることも除去することもできない」というスピノザの定理を強く思い起こさせます*11。

実際、ドストエフスキーが出版していた雑誌『時代』にはストラーホフの訳による「神に関するスピノザの学説」という論文が掲載されており、ドストエフスキーがスピノザの考えをある程度知っていたことは充分に考えられるのです*12。

つまり、評論家のシェストフは、ドストエフスキーが『地下室の手記』(一八六四)で「かつて、自分が拝跪していたものを…中略…泥の中に踏みつけてしまった」と記し、この作家をスピノザなどの哲学とは対立し、ニーチェとともに「理性と良心」を否定する「悲劇の哲学」の創造者と規定していましたが、ドストエフスキーにはスピノザ的な哲学にたいする深い理解があったと思えるのです。

私たちはスピノザの感情論を高く評価したフロムの考察をとおして『罪と罰』を読み解くことで、現代日本の問題点にも迫り得るでしょう。

*     *   *

エーリッヒ・フロム著、日高六郎訳『自由からの逃走』(東京創元社、1951)

序文

第一章  自由――心理学的問題か?

第二章 個人の解放と自由の多義性

第三章 宗教改革時代の自由

1、中世的背景とルネッサンス

2、宗教改革の時代

第四章 近代人における自由の二面性

第五章 逃避のメカニズム

1、権威主義

2、破壊性

3、機械的画一性

第六章 ナチズムの心理

第七章 自由とデモクラシー

1、個性の幻影

2、自由と自発性

付録 性格と社会過程

(拙著『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』(刀水書房、初版1996年、新版2000年)、第8章「他者の発見――新しい知の模索」および、第9章「鬼」としての他者」より。

註の記述は省いたが、*7については、フロム著、阪本健二・志貴孝男訳『疑惑と行動』、東京創元社、1985年、167頁。*8については、スピノザ『エティカ』(『世界の名著』第二五巻)工藤喜作・斎藤博訳、中央公論社、1969年、273頁を参照)。

(2016年7月28日。「『罪と罰』とフロムの『自由からの逃走』』」を大幅に改訂して再掲)

19世紀の「自然支配の思想」と安倍政権の原発増設計画

今日(7月23日)の「東京新聞」(デジタル版)は、政府方針達成のために「原発の新増設必要」と電事連会長が語ったとする次のようなの記事と載せています。

「電気事業連合会の勝野哲会長(中部電力社長)は22日、共同通信のインタビューに応じ、2030年度の電源構成に占める原発比率を20~22%とする政府方針を達成するため「発電所の新増設や建て替えが必要だ」と語り、建設計画の前進に向け原発に対する信頼の回復に努めると強調した。」

しかし、地震や火山活動が活発化している日本で原発の増設を目標とする安倍政権とそれに追従して当面の利益を確保しようとする財界の方向性はきわめて危険でしょう。

日本の自然の上に成立した「伝統的な神道」は、今こそ、このような19世紀的な自然観を厳しく批判して、安倍政権や「日本会議」と決別すべきでしょう。

さらに、真の仏教徒も「国民」の生命を軽視して利権を重視する原子炉に、仏教の「文殊」と「普賢」の両菩薩の名前から「もんじゅ」や「ふげん」などと命名している自民党や安倍政権とは決別すべきでしょう。

なぜならば、日本の近代化を主導した思想家の福沢諭吉は、『文明論之概略』において「水火を制御して蒸気を作れば、太平洋の波濤を渡る可し」とし、「智勇の向ふ所は天地に敵なく」、「山沢、河海、風雨、日月の類は、文明の奴隷と云う可きのみ」と断じていたからです。

比較文明学者の神山四郎は、「これは産業革命時のイギリス人トーマス・バックルから学んだ西洋思想そのものであって、それが今日の経済大国をつくったのだが、また同時に水俣病もつくったのである」と厳しく批判していましたが、現在は次のように言い直さねばならないでしょう。

「バックルや福沢諭吉のような近代文明観が今日の経済大国をつくったのだが、また同時に1979年にアメリカ・スリーマイル島原発事故を、1986年と2011年にはチェルノブイリと福島でレベル7の原発事故をつくったのである」と。

年表、核兵器・原発事故と終末時計

山崎雅弘著『日本会議 戦前回帰への情念』(集英社新書)を読む

日本会議戦前回帰への情念 集英社新書(書影は「紀伊國屋書店のウェブ」より)

戦前の『国体の本義』などの分析をとおして「日本会議」と安倍政権の本質に肉薄した好著である。膨大な資料をもとに「日本会議」の「思想の原点」に迫るとともに、二〇一二年に発表された自民党の「日本国憲法改正草案」の内容や文言が、むしろ戦前の『国体の本義』を連想させるものであることを明らかにしている。

さらに、NHKの大河ドラマ《花燃ゆ》では「桂小五郎(木戸孝允)が果たした重要な役割」が、吉田松陰の妹・文が再婚した相手の小田村伊之助が行ったことになっているとの視聴者からの批判を紹介した著者は、安倍首相の地元ともゆかりの深い小田村四郎・日本会議副会長に注目することで、人間的なドラマをも描き出すことに成功している。

ここでは、第一章と第三章、および第五章を考察することで本書の内容を簡単に紹介しておきたい。

第一章「安倍政権と日本会議とのつながり」では、第一次安倍政権時代から安倍首相が「日本会議」に忠実だったことや、安倍首相の返り咲きが「日本会議」の「運動の大きな成果」だと総会で報告されていたことが紹介されている。第二節「重なり合う『日本会議』と『神道政治連盟』の議員たち」では、この二つの組織が「美しい伝統の国柄を明日の日本へ」、「新しい時代にふさわしい新憲法を」、「日本の感性をはぐくむ教育の創造を」などの主要な三つの項目で両者の目標が一致しているばかりでなく、それ以外の活動方針にも対立するような点がないことが指摘されている。

「日本会議の「肉体」――人脈と組織の系譜」と題された第二章に続く、第三章「日本会議の『精神』――戦前・戦中を手本とする価値観」では、安倍首相が盛んに用いた「日本を取り戻す」というキャッチフレーズが、一九九七年に行われた「日本会議」の設立大会において小田村四郎・副会長が語った「かつての輝かしい日本に戻して参りたい」という言葉に由来することを明らかにしている。

さらに、日本会議の思想の原点を物語る書物」として『国体の本義』と『臣民の道』を挙げ、『国体の本義』の解説叢書の一冊として一九三九年に出版された『我が国体と神道』の冒頭では、「国体とは国がら」であると記され、「この皇国の本質を発揚すべく支持し奉っているものは、日本国民の信念」であり、「この国民的努力に励む心がすなわち、日本魂であり、日本精神である」と強調されていたことを指摘している。 さらに、アメリカとの全面戦争をも視野に入れた時期に出版された『臣民の道』では、「皇国の臣民は、国体の本義に徹することが第一の要件」であり、「実践すべき道は」、「抽象的な人道や観念的な規範ではなく…中略…皇国の道である」と続いていたことにも注意を促している。

これらを紹介して、戦前の「国体思想」「これは、当時の日本軍が、なぜ特攻や玉砕のような『非人道的』な戦法をくり返し行うことができたのか」についてのヒントを与えているように見えると続けていた山崎氏は、日本会議の活動方針が「戦前・戦中の思想と価値判断を継承」していると記している。

ついでながら、『風土・國民性と文學』と題された『国体の本義』解説叢書の一冊でも「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっていることは」、「日本の国体の精華であって、万国に類例が無いのである」とされ、「神道」を諸宗教の頂点においた「国体」の意義が強調されていた。 しかし、「暗黒の三〇年」と呼ばれる時代にもロシア皇帝ニコライ一世は、「自由・平等・友愛」の理念に対抗するために「ロシアにだけ属する原理を見いだすことが必要」と考えて、「正教・専制・国民性」の「三位一体」による愛国的な教育を行うことを命じるロシア版の「教育勅語」を発していた。このような時代に青春を過ごしたドストエフスキーは言論の自由を求める執筆活動を行っていたが、それすらも厳しく弾圧されるなど専制政治が続き格差が広がったために、ロシアはついに革命に至っていたのである。「教育勅語」が渙発された後の日本は、教育・宗教システムの面ではロシア帝国の政策にきわめて似ていたといえるだろう。

第四章「安倍政権が目指す方向性」では、安倍首相と日本会議の方向性を、「教育改革」、「家族観」、「歴史認識」、そして「靖国神社」の問題に絞って具体的に考察している。

そして、第五章「日本会議はなぜ『日本国憲法』を憎むのか――改憲への情念」では、それまでの考察を踏まえた上で、「特定秘密保護法案」や「安全保障法案」などの重要法案を短期間の審議で次々と強行採決した安倍政権が「国民」に突きつけた「改憲」の問題の本質にも迫っている。

注目したいのは、「はじめに」でも言及されていた小田村四郎・日本会議副会長の憲法観をとおして、「憲法改正運動の最前線に躍り出た」日本会議の憲法観が伝えられていることである。二〇〇五年六月号の『正論』に、小田村氏は「日本を蝕(むしば)む『憲法三原則』国民主権、平和主義、基本的人権の尊重という虚妄をいつまで後生大事にしているのか」というタイトルの記事を寄稿していた。

つまり、安倍首相を会長とする創生「日本」東京研修会で長勢甚遠・元法務大臣が、「国民主権、基本的人権、平和主義、これをなくさなければ本当の自主憲法ではないんですよ」と語っている動画が最近話題となったが、これは小田村副会長の言葉のほとんど繰り返しにすぎなかったのである。

さらに、「自民党改善案では、日本国憲法にはまったく存在していない『第九章 緊急事態』という項目を、新たに創設して追加して」いることを指摘した著者は、「もし自民党の改憲案が正式な憲法となれば、時の政権は、自らを批判して退陣を求める反政府デモを鎮圧するために、この条文を使う可能性」があると書いている。

つまり、憲法学者の小林節氏は安倍政権の政治の手法によって日本では、「法治国家の原則が失われており、専制政治の状態に近づいている。そういう状態に、我々は立っている」と『「憲法改正」の真実』(集英社新書)に書いているが、自民党の改憲案が採用されれば、首相がロシア皇帝と同じような独裁政治を行う権力を手にすることになると思える。

注目したいのは、「日本会議」の論客が「大東亜戦争」が「自存自衛の戦争であって侵略ではない」と主張していることに注意を促した著者が、「もし『大東亜戦争』が『侵略ではなく自衛戦争』であるなら、自民党の憲法改正案が実現した時、理論的には、日本は再び『大東亜戦争』と同じことを『自衛権の発動』という名目で行うことが可能になります」と指摘していることである。

敗戦七〇周年にあたる二〇一五年の「安倍談話」では日英の軍事同盟の締結(一九〇二)によって勝利した日露戦争の意義が強調されたが、日本はそれから四〇年足らずの一九四一年には、米英を「鬼畜」と罵りながら太平洋戦争に突入していた。 「報復の権利」を主張したアメリカのブッシュ元大統領が、イラク戦争を「正義の戦争」としていたことを考慮するならば、「日本会議」や安倍政権の方針に沿って教育された日本の若者たちは、早晩、「報復の権利」を主張してアメリカとの戦争にさえ踏み切る危険性があるといえるだろう。

*   *

緻密なインタビューによって、「強力なロビー団体」であり豊富な資金力を持つ神社などに支えられている「日本会議」の実態に迫った好著『日本会議の正体』(平凡社新書)の冒頭でジャーナリストの青木理氏は、イギリスの『エコノミスト』や『ガーディアン』、アメリカの『CNNテレビ』、オーストラリアの『ABCテレビ』、フランスの『ル・モンド』など多くの外国のメディアが「日本会議」について、「国粋主義的かつ歴史修正的な目標を掲げている」などと「かなり詳細な分析記事」を載せているのにたいして、日本の報道機関がほとんど沈黙を守っていたことを指摘していた。

「立憲主義」が存亡の危機に立たされた現在、ようやく「日本会議」についての充実した本が相次いで出版されるようになった。さまざまな戦史と紛争史を研究してきた山崎雅弘氏による本書も、『我が国体と神道』など過去の文献も読み込んだ歴史的な深みと世界史的な視野を持ち、分かりやすく説得力のある著作となっている。  

(2018年8月17日、改訂。書影を追加)

「日本会議」の憲法観と日本と帝政ロシアの「教育勅語」

最近になって、安倍政権にも強い影響力を持つ「日本会議」の実態に迫る書籍が次々と発行されたことにより、「日本会議」の憲法観が明らかになってきました。

たとえば、山崎氏雅弘は『日本会議 戦前回帰への情念』において、NHKの大河ドラマ《花燃ゆ》では吉田松陰の妹・文が再婚した相手の小田村伊之助がクローズアップされていたが、この人物こそは小田村四郎・日本会議副会長の曽祖父であることを指摘しています

その小田村氏は「日本を蝕(むしば)む『憲法三原則』国民主権、平和主義、基本的人権の尊重という虚妄をいつまで後生大事にしているのか」というタイトルの記事を寄稿していました。

つまり、安倍首相を会長とする創生「日本」東京研修会で長勢甚遠・元法務大臣が、「国民主権、基本的人権、平和主義、これをなくさなければ本当の自主憲法ではないんですよ」と語っている動画が最近話題となりましたが、これは小田村副会長の言葉のほとんど繰り返しにすぎなかったのです。

ここでは拙著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)から、日本と帝政ロシアの「教育勅語」の類似性について記した箇所を引用しておきます。

*   *   *

「明治憲法」の発布によって日本では「国民」の自立が約束されたかにみえたのですが、その日の朝に起きた文部大臣有礼への襲撃によって暗転します。その日のことを漱石は、長編小説『三四郎』で自分と同世代の広田先生にこう語らせています*11。

「憲法発布は明治二十二年だったね。その時森文部大臣が殺された。君は覚えていまい。幾年(いくつ)かな君は。そう、それじゃ、まだ赤ん坊の時分だ。僕は高等学校の生徒であった。大臣の葬式に参列すると云って、大勢鉄砲を担(かつ)いで出た。墓地へ行くのだと思ったら、そうではない。体操の教師が竹橋内(たけばしうち)へ引っ張って行って、路傍(みちばた)へ整列さした。我々は其処へ立ったなり、大臣の柩(ひつぎ)を送ることになった。」

この出来事はその後の日本の歴史を理解するうえでも、きわめて重要だろうと考えています。なぜならば、森文部大臣が殺された後で山県有朋が内務大臣の時の部下であった芳川顕正を起用して作成を急がせたことで、憲法発布の翌年には「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」と明記された「教育勅語」が渙発されることになったからです。

文明史家としての司馬氏の鋭さは、『「昭和」という国家』において「教育勅語」は難しかったと記すとともに、その理由を文章が「日本語というよりも漢文」であり、「難しいというより、外国語なのです」とその模倣性を的確に指摘していることです*12。

実際、明六社にも参加した教育家の西村茂樹が書いた「修身書勅撰に関する記録」によれば、ここでは清朝の皇帝が「聖諭廣訓を作りて全國に施行せし例に倣ひ」、我が国でも「勅撰を以て普通教育に用ひる修身の課業書を作らしめ」るべきだと記されていました*13

しかも、「祖国戦争」の後で憲法などの制定を求めて一八二五年に蜂起したデカブリストの乱を厳しく処罰したニコライ一世は、ロシアの若者にも影響力をもち始めていた「自由・平等・友愛」の理念に対抗するために「ロシアにだけ属する原理を見いだすことが必要」と考えて、「愛国主義的な」教育をおこなうことを求める「通達」を文部大臣に出させていましたが、「教育勅語」がこのロシアの「通達」をも意識して作成されていた可能性があるのです。

たとえば、西村が編んだ「修身書勅撰に関する記録」は、「西洋の諸國が昔より耶蘇〔ルビ・キリスト〕教を以て國民の道徳を維持し来れるは、世人の皆知る所なり」とし、ことにロシアでは、形式的にはともかく実質的には皇帝が「宗教の大教主」をも兼ねているとし、「國民の其の皇帝に信服すること甚深く、世界無雙の大國も今日猶〔なお〕君主獨裁を以て其政治を行へるは、皇帝が政治と宗教との大權を一身に聚めたるより出たるもの亦多し」と書いています*14。

そして西村は、我が国でも「皇室を以て道徳の源となし、普通教育中に於て、其徳育に關することは 皇室自ら是を管理」すべきであると説いていたのです。

しかも、ロシア思想史の研究者の高野雅之氏は、「正教・専制・国民性」の「三位一体」を強調した「ウヴァーロフの通達」を「ロシア版『教育勅語』」と呼んでいますが、司馬氏が中学に入学した翌年の一九三七年には文部省から『國體の本義』が発行されました。

注目したいのは、「國體の本義解説叢書」の一冊として教学局から出版された『我が風土・國民性と文學』と題する小冊子では、「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっていることは」、「日本の国体の精華であって、万国に類例が無いのである」と強調されていたことです*15。

この「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっている」という文言は、「正教・専制・国民性」の「三位一体」による「愛国主義的な」教育を求めたウヴァーロフの通告を強く連想させます。「教育勅語」が渙発された後の日本は、教育システムの面ではロシア帝国の政策に近づいていたといえるでしょう。

(拙著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年、105~108頁より)

(2016年7月21日。青い字の箇所を追記)

 

映画《ゴジラ》六〇周年と終戦記念日(四)、「終末時計」の時刻と『ゴジラの哀しみ』の構想

いよいよ選挙の日が近づいてきましたが、いまだに新聞などの分析では「改憲」勢力が議席の三分の二を占める可能性が高いことが指摘されています。

できれば、選挙前に出版したかったのですが、全体の流れを紹介する序章をなんとか書き上げましたので、今回はその(四)を掲載します。より多くの人に安倍政権の反憲法的な危険性の一端が伝わり、一人でも多くの方が投票することを願っています。

*   *   *

第四節 「終末時計」の時刻と『ゴジラの哀しみ』の構想

憲法学者の樋口陽一氏は、安倍政権の政治の手法によって日本では、「法治国家の原則が失われており、専制政治の状態に近づいている。そういう状態に、我々は立っている」と書いている(『「憲法改正」の真実』)。

実際、八割を超える閣僚が「日本会議国会議員懇談会」に所属しているだけでなく、自分の気に入らない質問に対してはきちんと答えない安倍首相の国会答弁や、問答無用という感のある「特定秘密保護法」や「戦争法」の強行採決などを見ていると同じような危惧の念を強く持つ。さらに問題は、年金の問題など国民に公表すべき重要な情報であっても、ことに政権に不利な情報は徹底的に隠蔽することである。

それは大地震や火山の噴火が続くにも関わらず、川内原発などの稼働を止めない安倍政権の非科学的な自然観についてもいえる。安倍政権の閣僚たちは中世と同じように日本が「国造り神話」によって出来たと考えているのかもしれないが、地球の地殻変動で形成された日本が地震大国であり、火山の国でもあることを忘れてはならない。安倍政権は「四海に囲まれた自然豊かな風土を持つ日本」を強調しているが、その豊かな自然を放射能で汚染し、日本人の生命を危険にさらす原発政策を進めているのが安倍政権である。

たとえば、その意向を受けたNHKの籾井会長は、地震後の原発報道は「住民の不安をいたずらにかき立てないよう、公式発表をベースに伝えてほしい」という指示を出していた。このような対応は核汚染の危険性の公表は国民を恐怖に陥れるとして報道規制をした政府の対応も描き出していた映画《ゴジラ》のことを思い起こさせる。

終戦直前の八月に広島と長崎にウラン型原子爆弾「リトルボーイ」とプルトニウム型原爆「ファットマン」が相次いで投下されてから二年後の一九四七年にアメリカの科学誌『原子力科学者会報』は、原爆争など人類が生み出した技術によって世界が滅亡する時間を午前〇時になぞらえた「世界終末時計」の時刻が終末の七分前になったと発表した。さらに湯川秀樹博士ら著名な科学者は「第五福竜丸」の後の一九五五年に「ラッセル・アインシュタイン宣言」を発表して核の時代における戦争が地球を破滅に導く危険性を指摘したが、映画《ゴジラ》の公開はそれに先だっていたのである。

それゆえ、『ゴジラの哀しみ』の「第一部 映画《ゴジラ》から黒澤映画《夢》へ」では、本多監督と黒澤監督との交友にも注意を払いながら、「ゴジラ」の変貌の問題を「第五福竜丸」事件の後で撮影された映画《ゴジラ》からチェルノブイリ原発事故に衝撃を受けて製作された映画《夢》までの流れをとおして考察することにしたい。

すなわち、第一章「ゴジラの咆哮と悲劇の発生」では、映画《ゴジラ》と《ジョーズ》とを比較することでこの二つの映画では悲劇の発端が、重大な情報の隠蔽であることに注意を促す。

第二章「映画《モスラ》(一九六一)から《風の谷のナウシカ》(一九八四)へ」では、社会的・文化的な背景をも詳しく考察することで映画《モスラ》や《モスラ対ゴジラ》が、黒澤映画《用心棒》や《風の谷のナウシカ》とも深い関わりがあることを示した『モスラの精神史』を分析する。

第三章「映画《惑星ソラリス》から一九八四年版の映画《ゴジラ》へ」では、時間的には少し遡ることになるが、黒澤監督が映画《デルス・ウザーラ》の撮影中にソ連のタルコフスキー監督の映画《惑星ソラリス》(一九七三)を見ていたことに注目することにより、黒澤が語ったソ連の若者の核戦争観が、一九八四年版の映画《ゴジラ》の筋に強い影響を与えている可能性を指摘する。さらに、映画《日本沈没》(一九七三)における日本海トラフの指摘に注目することにより、一九八四年版の映画《ゴジラ》が地震大国であり火山国でもある日本の自然環境をきちんとふまえて映画化されていることを指摘する。

第四章「「ゴジラ」の理念の変質と映画《夢》」では、序章でも簡単に見た「ゴジラシリーズ」での「ゴジラ」の変貌を追うとともに、チェルノブイリ原発事故が起きた年に亡くなったタルコフスキーの《サクリファイス》にも注意を払うことで、福島第一原子力発電所を予言したとも言われる本多監督が演出補佐として参加していた映画《夢》の「赤富士」のシーンの意味に迫る。

昨年の一月二二日に『原子力科学者会報』は、「終末時計」が冷戦期の一九四九年と同じく「残り3分」になったと発表した。

冷戦が終わり、二一世紀に入った現代においても、世界終末時計が米ソの二つの大国が激しく対立していた一九四九年と同じ「残り3分」になったことに衝撃を受けた。軍事的な超大国となったアメリカを初めとして多くの国が、武力によって「テロ」などが制圧できると信じているようだが、歴史をふりかえるならばそれは妄想にすぎないだろう。一方、岸信介首相と同じように未だに原子力エネルギーの危険性を認識していないだけでなく、「歴史修正主義」的な傾向を強く持つ安倍政権は、原発だけでなく武器輸出などの軍拡政策をとることにより、目先の経済的利益を追求し始めているのである。

第二部「小説『永遠の0(ゼロ)』(二〇〇六)の構造と「オレオレ詐欺」の手法」では、安倍首相との共著もある百田尚樹氏が二〇〇六年に出版した『永遠の0(ゼロ)』(太田出版)を歴史的な事実をふまえて文学論的な手法で分析することにより、そこに秘められているイデオロギーの危険性を明らかにする。

すなわち、第一章「孫が書き記す祖父の世代の美しい物語」では、もう一人の主人公ともいえるほど影響力が大きい存在ながらあまり焦点が当てられないもう一人の「祖父」の役割などに注意を払うとともに、物語の骨格を定めている「取材という手法」と百田氏がノンフィクションと称する『殉愛』との類似性を指摘する。

第二章「地上での視線を欠いた『空』の戦いの物語」では、たしかにガダルカナル島での兵士の悲惨な状態や将軍たちの批判は為されてはいものの、それは伝聞の形で語られており、生の声で語られる体験としての迫力や説得力には欠けることを、国内の状況を具体的に描いた映画《少年H》や劇《闇に咲く花》との比較をとおして明らかにする。

第三章「高山という新聞記者――新聞の役割と『司馬史観』論争」では、小説のクライマックスともいえる高山と元一部上場企業の社長だった武田との対決やその前後の登場人物の言葉をとおして、この小説が一九九六年の司馬遼太郎の死後に起きたいわゆる「司馬史観」論争に際して科学的な歴史観を「自虐史観」と呼んだ「つくる会」のイデオロギーを強く受け継いでいることを、一九九七年に公演された井上ひさし氏の劇《紙屋町さくらホテル》と比較することで明らかにする。

第四章「神話の捏造――英雄の創出と『ゼロ』の神話化」では、プロローグでは「悪魔のようなゼロ」と描かれていた「特攻」が、英雄の創出と零戦の神話化によって、エピローグでは正反対の価値観になっていることを具体的に示す。

私がはじめて宮崎駿監督の作品を意識したのは、《風の谷のナウシカ》で「火の七日間」と「巨神兵」による「最終戦争」と科学文明の終焉が描かれているのを見たときであった。そこでは『罪と罰』のエピローグで描かれている「人類滅亡の悪夢」が見事に映像化されていると感じるとともに、映画《ゴジラ》の最も重要なテーマを受け継いでいると感じた。それゆえ、安倍政権が一九世紀的な「積極的平和主義」を掲げて、戦争のできる国を目指して「改憲」を掲げる中、宮崎駿監督の強い信頼を得ている庵野秀明監督が、どのような《シン・ゴジラ》を製作するのかを強い期待と不安を持って見守っている。

全体の終章にあたる「映画《風の谷のナウシカ》から映画《風立ちぬ》へ」では、「神話の捏造」という言葉で『永遠の0(ゼロ)』を厳しく非難していた宮崎駿監督のアニメ映画《風の谷のナウシカ》から映画《風立ちぬ》までを分析することにより、専制政治と核戦争の岐路に立たされていると思える現在の日本の状況を明らかにする。

そして、最後に核エネルギーの悲惨さを知っている日本の「自衛隊」には、ブッシュ政権の「大義なき戦争」によって始まった二一世紀の混乱を収束させるためには憲法九条の理念に沿って戦争には参加せず、大地震の際の救助活動など平和的な目的に限って活動するとともに、核の廃絶を世界に訴えるという文明的な課題があることを示したい。

(2016年11月2日、改訂してタイトルを改題)

杉里直人氏の「 『カラマーゾフの兄弟』における「実践的な愛」と「空想の愛」――子供を媒介にして」を聞いて

第233回例会「傍聴記」

長年、『カラマーゾフの兄弟』に取り組んできた芦川進一氏の報告に続いて、今回の報告は6年間かけて『カラマーゾフの兄弟』の翻訳を終えたばかりの杉里氏による報告であった。芦川氏の考察は日本ではあまり重視されてこなかった『聖書』における表現との比較を通して『冬に記す夏の印象』や『罪と罰』などの作品を詳しく読み解いたことを踏まえた重層的なものであった。杉里氏の考察も1992年に発表された「語り手の消滅 -『分身』について」や「「書物性」と「演技」――『地下室の手記』について」(『交錯する言語』掲載)など初期や中期の作品の詳しい考察を踏まえてなされており説得力があった。ここでは当日に渡されたレジュメの流れに沿って感想を交えながらその内容を簡単に紹介する。

最初にアリョーシャが編んだ「ゾシマ長老言行録」に記されたゾシマ長老の「幼子を辱しめる者は嘆かわしい」という言葉には「子供の主題」が明確に提示されており、ドストエフスキー自身の声が響いていることが指摘された。次に主人公たちが「偶然の家族」の「子供」として描かれていることが、「腹の中で自殺するのも辞さない」と語ったスメルジャコフと養父グリゴーリイとの関係だけでなく、カラマーゾフの兄弟それぞれが「辱しめられた子供」であることが、あだ名や父称などの問題をとおして具体的に分析された。

さらに、子供が大好きだというイワンが「反逆」の章で「罪のない子供の苦しみ」に言及しながら、「不条理な涙は何によっても贖われることがない以上」、「神への讃歌《ホサナ》に自分は唱和しない」という決意を語るのは有名だが、それと対置する形で、父親殺しの容疑者として徹夜の取調を受けた後で眠り込んだドミートリーが火事で焼けだされた村落で泣く赤ん坊の夢を見て、「もう二度と童(ジチョー)が泣かずにすむように……中略…あらんかぎりのカラマーゾフ的蛮勇を発揮してどんなことでもやりたい」と思ったことが彼の新生への転回点となり、「徒刑地の鉱山の地底で神を讃えて悲しみに満ちた《讃歌(ギムン)》を歌うと宣言する」ことが描かれているとの指摘は新鮮であった。

そしてこのようなドミートリーの「人はみな、万人の行ったすべてのことに責任がある」という贖罪意識や認識が、イワンとを遠ざけるだけはなく、

ゾシマ長老、彼の夭折した兄マルケルへと近づけるという指摘は『カラマーゾフの兄弟』という長編小説の骨格にも深く関わっていると思える。また、ドミートリーにどこまでも寄り添おうとするグルーシェンカが、みずからも「虐げられた子供」の一人でありながら「一個のタマネギを恵む」女であることや、「苦しむ人へ寄り添う」人であり、「運命を決する人」としてのアリョーシャ像からは『白痴』のムィシキンが連想させられて私には深く納得できるものであった。ただ、会場からはコーリャやイリューシャなどとの関係についての質問も出たが、質疑応答も活発になされて時間が足りないほどであったので、機会があれば次は三世代の少年たちとの関係にも言及した報告をお願いできればと思う。

バルザックの作品とドストエフスキーの翻訳との比較をした「ドストエフスキーの文学的出発──『ウジェニー・グランデ』の翻訳について」(1987年)で研究者としての第一歩を踏み出した杉里氏は、2011年にはバフチンの大著『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』(水声社)の翻訳を出版している。今回の報告からもドストエフスキーの言葉や文体の特徴に注意深く接しながら、地道な翻訳作業を続けてきた杉里氏の誠実な研究姿勢が強く感じられた。杉里訳『カラマーゾフの兄弟』の出版が今から待たれる。

ドストエーフスキイの会、第234回例会(合評会)のご案内

「第234回例会のご案内」を「ニュースレター」(No.135)より転載します。

*   *   *

第234回例会のご案内

今回は『広場』 25号の合評会となりますが、論評者の報告時間を10分程度とし、エッセイの論評も数分に制限して自由討議の時間を多くとりました。記載されている以外のエッセイや書評などに関しても、会場からのご発言は自由です。多くの皆様のご参加をお待ちしています。

日 時 2016年7月30日(土)午後2時~5時

 場 所神宮前穏田区民会館 第2会議室(2F)今回は会場が変更になりました。ご注意ください!

       ℡:03-3407-1807 (ドストエーフスキイの会」のHPの「事務局」だよりの案内をご覧ください)

 

掲載主要論文とエッセイの論評者

泊野論文:『カラマーゾフの兄弟』の対話表現方法が持つ意味について――国松夏紀氏

樋口論文:『死の家の記録』のカーニバル的な人々 ――木下豊房氏

冷牟田論文:『永遠の夫』と「地下室」      ――近藤靖宏氏

長瀬論文:ドストエフスキーとアインシュタイン  ――福井勝也氏

 エッセイなど:前田彰一、井桁貞義、大木昭男、西野常夫、岡田多恵子――フリートーク

司会:高橋誠一郎氏

 

*会員無料・一般参加者-500円

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木下豊房氏の「国際ドストエフスキー・シンポジュウム(スペイン・グラナダ)参加報告」と「会計報告」は、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

前回例会の「傍聴記」は、次のブログでアップします。

 

映画《ゴジラ》六〇周年と終戦記念日(三)、「オバマ大統領の広島訪問と安倍首相の原爆観・歴史観」を掲載 

三、オバマ大統領の広島訪問と安倍首相の原爆観・歴史観

オバマ大統領の広島訪問は、被爆者の方々との真摯な対話もあり、核廃絶に向けた一歩前進ではあったと思える。その一方で「菅直人が原子炉への海水注入をやめさせたというデマ」を安倍首相が「自身のメルマガに書き」込んでいた安倍首相とその周辺は、「トリチウム汚染水を除染しないまま薄めて海に流してしまうという」経産省の提案を同じ五月二七日に発表し、さらには大統領と同行の写真を選挙活動の広告として使っている。

この一連の流れを見ながら思い出したのは、二〇一三年の終戦記念日に安倍首相の式辞を聞いたあとで強い危機感を抱き、ブログ記事を書いた時のことであった。記念式典で安倍首相は「私たちは、歴史に対して謙虚に向き合い、学ぶべき教訓を深く胸に刻みつつ、希望に満ちた、国の未来を切りひらいてまいります。世界の恒久平和に、あたうる限り貢献し、万人が心豊かに暮らせる世を実現するよう、全力を尽くしてまいります」と語った。しかし、そこではこれまで「歴代首相が表明してきたアジア諸国への加害責任の反省について」はふれられておらず、「不戦の誓い」や脱原発の文言もなかった*22。

一方、二〇一三年八月六日の「原爆の日」に広島市長は原爆を「絶対悪」と規定し、九日の平和宣言で長崎市長は、四月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議の準備委員会で、核兵器の非人道性を訴える八〇カ国の共同声明に日本政府が賛同しなかったことを「世界の期待」を裏切り、「核兵器の使用を状況によっては認める姿勢で、原点に反する」と厳しく批判していた。

つまり、安倍首相はこれらの痛切な願いを無視していたのである。それゆえ、初代のゴジラと同じ一九五四年生まれであるにもかかわらず安倍首相は、広島と長崎、「第五福竜丸」の三度の被爆や、「世界が破滅する」危機と直面していたキューバ危機、さらにはいまだに収束せずに汚染水など多くの問題を抱えている二〇一一年の福島第一原子力発電所の大事故のことをきちんと考えたことがあるのだろうかという強い危惧の念を抱いた。

事実、政府が「武器輸出三原則」の見直しを検討しているとの報道がなされたのは、二〇一四年二月一一日のことであったが、「特定秘密保護法」を強行採決して報道機関などに圧力をかけて、言論の自由を制限し、翌年には「戦争法」の疑いのある「安全保障関連法案」も強行採決した安倍政権は、「アベノミクス」という経済政策とともに「積極的平和主義」を掲げて、原発の輸出だけでなく武器の輸出にも積極的に乗り出したのである。

しかも、岸信介元首相は「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」との国会答弁をしていたが、このような方針も受け継いだ安倍首相も二〇〇二年二月に早稲田大学で行った講演会における質疑応答では、「小型であれば原子爆弾の保有や使用も問題ない」と発言して物議を醸していた*23。そして、ついに内閣法制局長官に抜擢された横畠裕介氏は二〇一六年三月一八日の参議院予算委員会で核兵器の使用についても「憲法上、禁止されているとは考えていない」という見解したのである。

最初にふれたように映画《ゴジラ》が封切られたのは「第五福竜丸」事件が起き無線長が亡くなった一九五四年のことであり、この映画が大ヒットした背景には、度重なる原水爆の悲劇を踏まえて核兵器の時代に武力によって問題を解決しようとすることへの強い批判や、軍拡につながりかねない強力な兵器を創造することを拒んだ科学者の芹沢への共感があったと思える。

安倍政権による一連の決定は、水爆実験により安住の地を奪われた「ゴジラ」に仮託して、「核のない世界」を願った日本国民の悲願をないがしろにし、再び世界を「軍拡の時代」へと引き戻すものであると言わねばならないだろう。

ただ、ゴジラが誕生したこの年の七月一日には警察の補完組織だった保安隊と警備隊を改組した自衛隊も誕生していた。予告編では「水爆が生んだ現代の恐怖」などの文字だけでなく、「挑む陸・海・空の精鋭」、という文字も「画面いっぱいに」広がって広告効果を上げていた*24。これら後半の文字は初代の映画《ゴジラ》やその後のゴジラの変貌を考えるうえできわめて重要だと思える。

なぜならば、映画《ゴジラ》が公開されたのは日本国憲法が公布されたのと同じ一一月三日のことであったが、創刊三一年を記念した二〇〇四年の『正論』一一月号に掲載された鼎談で、衆議院議員の安倍晋三氏は「新しい歴史教科書をつくる会」(以下、「つくる会」と略す)第三代会長の高崎経済大学助教授・八木秀次氏(肩書きは当時)やジャーナリストの櫻井よしこ氏とともに「改憲」への意気込みを語ってもいたからである*25。

この号では石原慎太郎・八木秀次両氏による「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」という対談も行われており、ここで日露戦争の勝利を「白人支配のパラダイムを最初に痛撃した」と評価した石原氏は、「大東亜戦争」の正しさを教えられるような歴史教育の必要性を強調していた*26。

このような「憲法」の軽視と日露戦争の賛美の流れは、『坂の上の雲』では「健康なナショナリズムに鼓舞されて、その知力と精力の限界まで捧げて戦い抜いた」と描かれているとする一方で、科学的な歴史観を「自虐史観」と決めつけ、「司馬の小説と史論を組み合わせると」新しい歴史観をうち立てることができるとした藤岡信勝氏の論調を受け継いでいると思える*27。この論考が発表された翌年の一九九七年一月には「つくる会」が発足し、七月にはそれに連動して安倍晋三氏を事務局長とした「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が立ち上げられているのである。

しかし、作家の司馬遼太郎は『坂の上の雲』執筆中の一九七〇年に「タダの人間のためのこの社会が、変な酩酊者によってゆるぎそうな危険な季節にそろそろきている」ことに注意を促し*28、書き終えた後では「政治家も高級軍人もマスコミも国民も、神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」と書いていた*29。

安倍政権の成り立ちと「日本会議」との関わりに注意を促した菅野完氏の著作に続いて『日本会議とは何か』(合同出版)、『日本会議の全貌』(花伝社)などが相次いで発行されたことで、反立憲主義的な「日本会議」と育鵬社との関わりが明らかになってきている。そのことに留意するならば「変な酩酊者」という用語で「歴史修正主義者」を批判した作家・司馬遼太郎の歴史観は、「事実」を軽視して自分のイデオロギーを正当化しようとする「つくる会」や「日本会議」の歴史認識とはむしろ正反対のものといわねばならない。

安倍首相が尊敬する岸元首相とも面識のあった憲法学者の小林節氏によれば、「彼らの共通の思いは、明治維新以降、日本がもっとも素晴らしかった時期は」、「普通の感覚で言えば、この時代こそがファシズム期」である、「国家が一丸となった、終戦までの一〇年ほどのあいだだった」のである*30。

政治学者の中島岳志氏との対談で「全体主義は昭和に突然生まれたわけではなく、明治初期に構想された祭政教一致の国家を実現していく結果としてあらわれたもの」で、「明治維新の国家デザインの延長上に生まれた」ことに注意を促した宗教学者の島薗進氏も、「戦前に起きた『立憲主義の死』」と「安倍政権が引き起こした『立憲主義の危機』」の関連を考察する必要性を提起し、「宗教ナショナリズム」の危険性を指摘している*31。

実際、安倍首相は今年の「施政方針演説で、改憲への意欲をあらためて示した」が、それは「神道政治連盟」の主張と重なっており、神社本庁が包括する初詣でにぎわう神社の多くには、改憲の署名用紙が置かれていた*32。

この意味で注目したいのは、映画《風立ちぬ》を製作した宮崎駿監督が、孫が記す祖父の世代の戦争の記録の形で著した百田尚樹氏の映画《永遠の0(ゼロ)》を「神話の捏造をまだ続けようとしている」と厳しく批判していたことである*33。宮崎監督が前節で見た映画《モスラ》の脚本家の一人でもあった作家の堀田善衛と司馬遼太郎との鼎談を行っていたことを考えるならばこの批判は重要だろう*34。

『日本会議の研究』を著した菅野完氏は、作者の百田尚樹氏について「剽窃と欺瞞の多いこの人物について言及することは筆が汚れるので、あまり言及したくはない」と記している*35。そのことには同感だが、多くの読者が安倍首相との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』もある百田氏の小説『永遠の0(ゼロ)』に感動してしまったのは、「事実」を直視することを忌避して、東条英機内閣の頃のように美しいが空疎なスローガンを掲げている安倍政権や「日本会議」の歴史認識にも遠因があると思われる。

最近は「テキスト」を「主観的に読む」ことが勧められ、「テキスト」という「事実」をきちんと読み解くことが下手になっていると思われるので、宮崎監督のアニメ映画や批判を視野に入れながら文学論的な手法でこの小説や映画をきちんと分析することが必要だろう。

 

*22 高橋誠一郎 ブログ記事「終戦記念日と『ゴジラ』の哀しみ」、二〇一三年八月一五日

*23 『サンデー毎日』(二〇〇二年六月二日号、参照。

*24 小野俊太郎『ゴジラの精神史』彩流社、二〇一四年、一一九頁。

*25 安倍晋三・八木秀次・櫻井よしこ「今こそ”呪縛”憲法と歴史”漂流”からの決別を」『正論』二〇〇四年一一月号、産経新聞社、八二~九五頁。

*26 石原慎太郎・八木秀次「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」『正論』、前掲号、五八頁。

*27 藤岡信勝『汚辱の近現代史』徳間書店、一九九六年、五一~六九頁。

*28 司馬遼太郎「歴史を動かすもの」『歴史の中の日本』中央公論社、一九七四年、一一四~一一五頁。

*29 司馬遼太郎「『坂の上の雲』を書き終えて」『司馬遼太郎全集』第六八巻、評論随筆集、文藝春秋、二〇〇〇年、四九頁。

*30 樋口陽一・小林節著『「憲法改正」の真実』集英社新書、二〇一六年、三二頁。

*31 島薗進・中島岳志著『愛国と信仰の構造』集英社新書、二〇一六年、一三二頁、二三七頁。

*32 「東京新聞」朝刊、特集〈忍び寄る「国家神道」の足音〉、二〇一六年一月二三日。

*33宮崎駿、雑誌『CUT』(ロッキング・オン/9月号)。引用はエンジョウトオル〈宮崎駿が百田尚樹『永遠の0』を「嘘八百」「神話捏造」と酷評〉『リテラ』二〇一四年六月二〇日より。

*34 堀田善衛・司馬遼太郎・宮崎駿『時代の風音』朝日文庫、二〇一三年参照。

*35 菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書、二〇一六年、一一七頁。

(2016年7月1日、加筆。2016年11月2日、タイトルを改題)

映画《ゴジラ》六〇周年と終戦記念日(二)、「季節外れの問題作」《生きものの記録》とアニメ映画《風の谷のナウシカ》を掲載

二、「季節外れの問題作」《生きものの記録》とアニメ映画《風の谷のナウシカ》

本多監督の盟友・黒澤監督は映画《ゴジラ》をすぐれた百本の映画の一つとして挙げていたが、「ゴジラ」の本場である日本でも、「ゴジラ」の哀しみや怒りは急速に忘れ去られたように思える。

「およそ将来の世界戦争においてはかならず核兵器が使用されるであろう」と指摘し、「あらゆる紛争問題の解決のための平和な手段をみいだすよう勧告する」という「ラッセル・アインシュタイン宣言」が発せられたのは、「第五福竜丸」事件の翌年七月のことであった。

この事件から強い衝撃を受けて「世界で唯一の原爆の洗礼を受けた日本として、どこの国よりも早く、率先してこういう映画を作る」べきだと考えた黒澤明監督も、映画《ゴジラ》から一年後に映画《生きものの記録》(脚本・黒澤明、橋本忍、小國英雄)を公開した*11。

この映画では、映画《ゴジラ》で古生物学の山根博士の役を見事に演じていた志村喬が、度重なる水爆実験や「核戦争」などの危険性を心配して家族とともにブラジルへ移民しようとする主人公の老人の気持ちを理解する重要な知識人の役を演じている。

一方、息子たちの強い反対にあい、裁判で準禁治産の宣告を受けたことで、精神的にも追い詰められたこの老人は工場が燃えれば息子たちもあきらめるだろうと考えて放火する。しかし、従業員たちの深い苦悩を見て自分たちだけで逃げようとしたことの非を主人公が悟る場面も描かれている。ことに、精神病院に収容された主人公が夕日を見て核戦争で燃え上がった地球とみなし、「とうとう地球が燃えてしまった!!」と叫ぶシーンは圧巻である。ドストエフスキーの研究者である私には、そこでは『罪と罰』のエピローグで描かれている「人類滅亡の悪夢」が見事に映像化されていると思えた*12。

映画《生きものの記録》が英語では《I Live In Fearと訳され、ロシア語でも«Я живу в страхе» (私は恐怖の中で生きている)と訳されていることもあり、いまだにこの主人公の老人・喜一は「恐怖」から逃げだそうとしたと誤解されることが多い。しかし、むしろ彼は「あんなものにムザムザ殺されてたまるか、と思うとるからこそ、この様に慌てとるのです」と語り、「ところが、臆病者は、慄え上がって、ただただ眼をつぶっとる」と批判していたのである。その意味でこの老人・喜一は自然の豊かさや厳しさを本能的に深く知っていた映画《デルス・ウザーラ》の主人公の先行者的な人物であったといえるだろう。

しかし、映画《七人の侍》の翌年に公開され、三船敏郎が見事な老け役を演じていたこの映画は営業的には大失敗に終わった。映画《ゴジラ》からわずか一年の遅れで公開された黒澤映画の失敗の原因についてはいろいろと指摘されているが、その遠因には一九五三年にアメリカ大統領のアイゼンハワーが、「原子力の平和利用」を国連で表明するとともに、被爆国の日本にたいして原子力発電所の建設を促す動きを強め、それに呼応して翌年の一九五四年一月一日から読売新聞による「ついに太陽をとらえた」とする原発推進の三〇回にわたる連載が始められていたことを挙げることができるだろう。この結果、一九五四年三月三日には、「国会に初めて原子炉予算として二億円あまり」を計上するという議案が提出され、数日後には成立していたのである。

広告研究家の本間龍氏は『原発プロパガンダ』 において、一九七〇年から福島第一原子力発電所の大事故が起きる二〇一一年までの大手電力会社の広告宣伝は二兆四千億円にも及び、政府広報予算も含めればさらに数倍にも膨れあがることや、二〇一三年からは安倍政権の意向に従って原発広告が復活し、ことに原発推進派だった読売新聞が「再び記事の中でも積極的に原発再稼働を唱え」始めていることを指摘している*13。同じようなことが「第五福竜丸」事件が起きた一九五四年から翌年までの間にもすでに起きていたのである。

「原子力基本法」を成立させた日本政府は、「原子力の平和利用」を謳いながら、経済面を重視して原子力発電の育成を「国策」として進めるようになり、原子力発電の危険性を指摘する科学者を徐々に要職から追放しはじめることになる。こうして、日本が地震大国という地勢的な条件や原爆の悲惨さから目をそらして原子力大国への道を歩み出し始めた翌一九五五年の『文學界』の七月号に掲載されたのが石原慎太郎氏の小説『太陽の季節』だった。「既成道徳に対する反抗」を描いたこの小説が同じ年に第一回『文學界』新人賞を受賞するとこの作品は一躍、脚光を浴びることとなり、「太陽族」という流行語も生まれた*14。

さらに、一九五五年に「原子力潜水艦ノーチラス号」を製造した会社の社長を「原子力平和利用使節団」として招聘した読売新聞社の正力松太郎社主は、映画《生きものの記録》が公開されたのと同じ一一月からは「原子力平和利用大博覧会」を全国の各地で開催し、「原子力発電」を「国策」とするための社運を賭けた大々的なキャンペーンを行った*15。

それは福島第一原子力発電所の大事故の前に広告会社の電通などによって行われた「原子力の安全神話」を広める広告の先駆けのようなものであったといえよう。このような大々的な宣伝により日本における「核エネルギー」にたいする見方はがらりと変わり、この映画が封切りされた頃には原子力エネルギーが「第二の太陽」ともてはやされるようになり、映画《生きものの記録》は「季節外れの問題作」と見なされて興行的には大失敗に終わったのである。

このような事態に際して、一九四八年の対談で太陽熱も原子力で生まれており、原子力エネルギーは「そうひどいことでもない」と湯川秀樹博士が主張したのに対して、「高度に発達する技術」の危険性を指摘して「目的を定めるのはぼくらの精神だ。精神とは要するに道義心だ。それ以外にぼくらが発明した技術に対抗する力がない」と反論して、「原子力エネルギー」の危険性を正しく指摘していた文芸評論家の小林秀雄が、原発の推進が「国策」となると沈黙してしまったことも大きいと思われる*16。

一方、「ゴジラ映画三十年の変遷」を分析した浅井和康氏が一九七四年に公開された映画《ゴジラ対メカゴジラ》に言及して、ついには「贋者の」ゴジラが登場したと記していた*17。ましこ・ひでのり氏も一九八九年に公開された映画《ゴジラvsビオランテ》を考察して「〈憲法前文や9条の理念が邪魔で戦争が満足にできない〉といった好戦派のホンネがSFの形で露呈しているといえるのではないか」と書き、ここでは「先端技術をスマートに駆使して敵を撃破する“格好いい”自衛隊」が描かれていることを指摘している*18。

さらに、永田喜嗣氏は初期のゴジラ・シリーズでは、「文民統制」の原則が貫かれていたのに対し、《ゴジラvsビオランテ》では「ゴジラ映画初の自衛隊が人間を撃つ描写や、外国人を徹底的に悪人にし」、一九九一年に公開された《ゴジラvsキングギドラ》では、「日本企業が核ミサイル付き原潜を持つ」という設定がなされており、ゴジラ映画の右傾化であると批判した*19。

このことに言及した芹沢亀吉氏は、「ゴジラファンの間で原点回帰の傑作と評価されている」、二〇〇一年に公開された映画《ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃》を詳細に分析して、主人公の父親が終盤で「特殊潜航艇さつま」に乗って、海中にいるゴジラの口の中に突入する場面を、特攻をかっこよく見せる映画《永遠の0》の先駆けなのだと書き、「映画自体が大ヒットしたことで後続の東宝映画が特攻を肯定的に描く事を許容する前例になってしまった」と続けている*20。

これらの指摘はなぜ本多監督が、一九七五年に公開された映画《メカゴジラの逆襲》を最後に「ゴジラ・シリーズ」から去ったかということだけでなく、なぜ宮崎駿監督が「神話の捏造」という言葉で映画《永遠の0(ゼロ)》を厳しく批判したかをも説明していると思える。

最後に注意を払っておきたいのは、一九六一年に公開された映画《モスラ》(製作:田中友幸、監督:本多猪四郎、特技監督:円谷英二)のモスラの形象に注目した小野俊太郎氏が、「幼虫モスラと王蟲(オーム)の形状の類似」などを指摘していることである*21。

しかも、一九八四年に公開された宮崎駿監督のアニメ映画《風の谷のナウシカ》が映画《モスラ》の理念を継承していることにも言及し、両者を繋ぐ働きを黒澤映画《生きものの記録》が担っていることを指摘している。本多監督が日米合作企画映画として製作したこの映画《モスラ》は一九六一年七月三〇日に公開されたが、この映画の脚本が中村真一郎、福永武彦、堀田善衛という著名な作家三人の原作『発光妖精とモスラ』(『週刊朝日』)を元にして関沢新一が脚本を書いていた。日東新聞記者である主人公の福田善一郎という名前は、これらの三人の作家の名前を組み合わせて出来ているが、ここにはシナリオを重視してたびたび共同で書いていた黒澤明と同じような姿勢が強く見られるだろう。

 

*11 西村雄一郎『黒澤明と早坂文雄――風のように侍は――』筑摩書房、二〇〇五年、七七七頁。

*12 高橋誠一郎『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、二〇一四年、一三二頁。

*13 本間龍『原発プロパガンダ』 岩波新書、

*14 高橋誠一郎、前掲書、一三五頁。

*15 有馬哲夫『原発・正力・CIA――機密文書で読む昭和裏面史』新潮新書、二〇〇八年参照。

*16 高橋誠一郎、前掲書『黒澤明と小林秀雄』、一〇八~一〇九頁。

*17 浅井和康「ゴジラ映画三十年の変遷」、『モスラ対ゴジラ』講談社X文庫、一九八四年、二三九頁。

*18 ましこ・ひでのり『ゴジラ論ノート』三元社、二〇一五年、一〇八頁。

*19 永田喜嗣「ゴジラ ウルトラマン 怪獣平和学入門 ~怪獣映画にみる戦争~」、市民社会フォーラム第171回学習会、二〇一六年一月二三日、ライブ配信

*20 芹沢亀吉、ツイートまとめ「『ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃(GMK)』は本当に原点回帰映画なのかを検証してみた」二〇一六年六月二五日。

*21 小野俊太郎『モスラの精神史』講談社現代文庫、二〇〇七年、二四八~二五一頁。

(2016年11月2日、タイトルを改題)

 

映画《ゴジラ》六〇周年と終戦記念日、(一)モスクワで観たゴジラとアメリカのゴジラ観を掲載

一、モスクワで観たゴジラとアメリカのゴジラ観

水爆大怪獣と名付けられた初代の「ゴジラ」がスクリーンに現れたのは、「第五福竜丸」事件が起き無線長の方が亡くなられた一九五四年のことであったが、予告編では「伊福部昭の曲ではなくて、ムソルグスキーの「展覧会の絵」の不気味な曲」にあわせて、様々なシーンとともに「人類最後の日来る!」「水爆が生んだ現代の恐怖」などの文字が画面いっぱいに示されていた*1。

実際、オリバー・ストーンはその著書で原爆の研究者たちが「議論を重ねるうち、原子爆弾の爆発によって海水中の水素や大気中の窒素に火がつき、地球全体が火の玉に変わるかもしれないことに突如として気づいた」ので計画が一時中断された時期があったが、その確率が極めて低いことが分かって研究が再開され、広島や長崎に原爆が投下されることになったことを記している*2。

しかし、原爆の千倍もの破壊力を持つ水爆「ブラボー」の実験がビキニ沖の環礁で行われた時には、その威力が予測の三倍を超えたために、制限区域とされた地域をはるかに超える範囲が「死の灰」に覆われたのである。

それゆえ、三度も被曝した日本ではこの問題に対する関心がきわめて高く、水爆という重たいテーマを扱いながら「なるかゴジラ征服」という文字も示されていた刺激的な予告の効果や、その結末では日本を破壊し尽くしかねないゴジラに対してオキシジェン・デストロイヤーを使用することに同意した科学者の芹沢が、自分が発明した危険な兵器が悪用されないようにと自らもゴジラとともに滅ぶことを選んで亡くなるシーンを描いていたこともあり、この映画は「観客動員数九百六十九万人」に達する大ヒットとなった*3。

ゴジラが誕生してから六〇年を経て「ゴジラ」の還暦に当たる二〇一四年も、アメリカ映画の《Godzilla ゴジラ》も公開されるなどしたために、この年にはNHKのBSやテレビ東京で「ゴジラシリーズ」が放映されるなどゴジラの話題で盛り上がった。

単行本だけでなく雑誌でもゴジラ関連の特集が多く組まれており、『初代ゴジラ研究読本』(洋泉社MOOK)では、映画《ゴジラ》の脚本だけでなく、科学者の芹沢を演じた俳優の平田昭彦と本多監督との一九八一年の対談も掲載されていた。注目したいのは、その対談で黒澤監督が語ったソ連の若者たちが抱いている「核戦争への恐怖」を本多監督が伝えていたことである。

その対談を読みながら、かつてモスクワに留学していた時に映画《ゴジラ》を見たのは、かなり大きな映画観だったにもかかわらず満席で観客が真剣に見入っていたこと思い出した。映画《生きものの記録》で度重なる水爆実験や核戦争の恐怖を描いていた黒澤監督は、ソ連での生活が映画《デルス・ウザーラ》の撮影中とその前後の短い期間だったにもかかわらず、ソ連の若者たちの不安を正確に認識していたといえよう。この言葉からは黒澤が広島の被曝についても語られている映画《惑星ソラリス》を撮ったタルコフスキーとも、核戦争の危機について語り合っていたのではないかと感じた。

映画《夢》などの作品でも黒澤を補佐することになる本多監督も黒澤明研究会の例会で映画《ゴジラ》と原爆との関連についてこう明確に語っていた。「『ゴジラ』は原爆の申し子である。原爆・水爆は決して許せない人類の敵であり、そんなものを人間が作り出した、その事への反省です。なぜ、原爆に僕がこだわるかと言うと、終戦後、捕虜となり翌年の三月帰還して広島を通った。もう原爆が落ちたということは知っていた。そのときに車窓から、チラッとしか見えなかった広島には、今後七二年間、草一本も生えないと報道されているわけでしょ、その思いが僕に『ゴジラ』を引き受けさせたと言っても過言ではありません」*4。

さらに本多監督は、核兵器の開発に関わるような科学者を批判して、「ただ、水爆みたいなものを考えた人間というのは、いい気になって自分たちの勝手をやっていたら、自分たちの力で自分たちが完全に滅びる、自分たちだけじゃなくて、地球上のすべてのものを殺してしまうかもしれないほど人間というのは危険だ」とも語っていた*5。

ここには本多監督の鋭い原爆観だけでなく、戦争観も見られるが、それは二・二六事件を引き起こした陸軍第一師団第一連隊五中退に所属したために、一九三六年に徴兵で満州に派兵されたのをはじめとして、三度も懲罰的な徴兵をされていたのである。インパクトのあるゴジラの姿だけでなく、民衆が逃げ惑う迫力のあるシーンは、本多監督の苦しい実体験が反映されているだろう*6。実際、このような形で徴兵されたのは反乱軍の兵士のみならず、東条英機首相の方針に反対した丸山眞男などの学者や松前重義などの高級官僚も懲罰的な徴兵の対象とされていたのである。

本多夫人は夫と黒澤監督が「ドキュメンタリータッチの作品で有名な山本嘉次郎監督の門下生」で、互いにをクロさん、イノさんと呼び合う中であったことを紹介しながら二人の復員兵を主人公とした黒澤映画《野良犬》では、本多監督が「ファースト助監督」として迎えられ、「B班の撮影やロケ撮影を担当し」、「刑事役の三船さんがピストルを捜して東京の盛り場を歩き回る九分間、七十カットを撮り、戦後の荒廃した風俗の実像を生々しく描き出し」たと語っている*7。

さらに夫人は、映画《夢》についても言及して、「このなかで四つ目の ”トンネル”と題した十五分の物語は、クロさんには失礼かもしれませんが、間違いなくイノさん演出だったと思いますよ。戦争から帰って一年に数回、イノさんはうなされて大声で叫んで飛び起きる悪夢を見るのです」と証言している*8。

一方、アメリカにおける「ゴジラ」の受容については、『怪獣王ゴジラ』(GODZILLA KING OF MONSTERS!)と題した編集版が一九五六年にリリースされてから人気を得たことが指摘されている*9。

しかし、テリー・モース監督のもとで追加撮影と再編集がされたこの映画について、映画《ゴジラ》で主役を演じた宝田明氏は、「当時の時代背景に配慮した」ためか、「政治的な意味合い、反米、反核のメッセージ」は丸ごとカットされて」いたとし、「反核や反戦のテーマをこめた初代『ゴジラ』は米国にとって都合が悪く、大幅にカットしなければアチラで上映できなかった」と語っている*10。

実際、ましこ・ひでのり氏はアメリカでは「大衆にとって、ソ連との核戦争の不安も所詮は対岸の火事であり、ゴジラは核兵器で退治される怪物とするボードゲームのキャラクターにされた」と書き、次のようにこの映画を分析している。

すなわち、「初代ゴジラを『編集した』アメリカ版『怪獣王ゴジラ』では、水爆実験とゴジラとの関連性を否定し、ゴジラから被曝した被災者の存在を隠蔽、ゴジラが復活する可能性にふれた原作の被災者の最終場面のセリフをカットし、アメリカ版用にでっちあげた主人公に『脅威は去った』と断言させるなど、およそ『編集』の域をこえた破壊だった」のである。

小野氏が「オリジナルである日本版の『ゴジラ』を普通のアメリカの観客が観ることができたのはずっとあとで、二〇〇四年に数館で上映されたのみである」と書いていることに注目するならば、アメリカの観客はようやく二〇〇四年になって「水爆実験」によって生まれた「ゴジラ」の哀しみを知ったといえるだろう。

 

*1 小野俊太郎『ゴジラの精神史』彩流社、二〇一四年、一一九頁。

*2 オリバー・ストーン、ピーター・カズニック、鍛原多恵子他訳『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史1 二つの世界大戦と原爆投下』早川書房、二〇一三年、二九一~二九三頁。

*3ウィリアム・M・ツツイ『ゴジラとアメリカの半世紀』中央公論新社、二〇〇五年、四三頁。

*4 堀伸雄「世田谷文学館・友の会」講座資料「『核』を直視した四人の映画人たち――黒澤明、本多猪四郎、新藤兼人、黒木和雄」より引用。

*5 本多猪四郎『「ゴジラ」とわが映画人生』ワニブックス、二〇一〇年、八七頁。

*6 切通理作『本多猪四郎 無冠の巨匠』洋泉社、二一四年、一八六~二一三頁。

*7 本多きみ『ゴジラのトランク 夫・本多猪四郎の愛情、黒澤明の友情』、宝島社、二〇一二年、九九頁。

*8 同上、一七七頁。

*8 小野俊太郎『ゴジラの精神史』、彩流社、二〇一四年、一四六頁。

*9 宝田明、「反戦がテーマのゴジラを国会で上映したい」『日刊ゲンダイ』二〇一五年六月三〇日。

*10 ましこ・ひでのり『ゴジラ論ノート 怪獣論の知識社会学』三元社、二〇一五年、六三頁。

(2016年11月2日、タイトルを改題)。