1,「権威主義的な価値観」への盲従の危険性と「非凡人の理論」
自らがナチズムの迫害にあった社会心理学者のエーリッヒ・フロム(1900~1980)は、『自由からの逃走』(日高六郎訳、東京創元社、1985)において、ヒトラーの考えと社会ダーウィニズムとの係わりに注目して、ヒトラーが「自然の法則」の名のもとに「権力欲を合理化しよう」とつとめていたことを指摘していました。さらにフロムは、「種族保存の本能」に「人間社会形成の第一原因」を見るヒトラーの考えは、「弱肉強食の戦い」と経済的な「適者生存」の考え方を導いたと述べています*14。
注目したいのはフロムが、人間の歴史が個人の自由の拡大の歴史であることを確認しながら、それとともに、あまりに個人の自由が大きくなった時、獲得した自由が重みにもなり、人が自らそれを放棄することもあることを指摘しえていることです。
たしかに、近代以降、それまで土地や職業に縛られていた人間は、職業の選択の自由、移動の自由、さらには恋愛の自由など様々な個人の自由を拡大してきました。しかし、自由が大きくなればなるほど、どの道を選ぶかの選択の際の苦悩や不安は深まります。こうして、フロムは自らの道を選ぶことが難しい危機的な状況になればなるほど、人間は自らの自由の重みに耐えられずに、それをより強大な他の人物に譲り、彼に道を選んでもらうことで不安から逃れようとする傾向があることを明らかにしたのです。
この際にフロムはサディズムとマゾヒズムという心理学の概念を用いながら、人間の「服従と支配」のメカニズムに迫り得ています。すなわち、彼によれば、「権力欲」は単独のものではなく、他方で権威者に盲目的に従いたいとする「服従欲」に支えられており、自分では行うことが難しい時、人間は権力を持つ支配者に服従することによって、自分の望みや欲望をかなえようともするのです*15。
フロムは「神経症や権威主義やサディズム・マゾヒズムは人間性が開花されないときに起こるとし、これを倫理的な破綻だとした」(ウィキペディア)としていますが、彼の説明は第一次世界大戦の後で経済的・精神的危機を迎えたドイツにおいて、なぜ独裁的な政治形態が現れたかを解明していると言えるでしょう。
フロムは自分の分析をより分かり説明するために、ドストエフスキーの最後の大作『カラマーゾフの兄弟』から引用していますが*16、私たちにとって興味深いのは、このような問題がすでに『罪と罰』においても扱われていることです。
すなわち、ラスコーリニコフは「凡人」について「本性から言って保守的で、行儀正しい人たちで、服従を旨として生き、また服従するのが好きな人たちです。ぼくに言わせれば、彼らは服従するのが義務で」ある(三・五)と規定するのです。別な箇所でラスコーリニコフは「どうするって? 打ちこわすべきものを、一思いに打ちこわす、それだけの話さ。…中略…自由と権力、いやなによりも権力だ!」と語った後で、「ふるえおののくいっさいのやからと、この蟻塚(ありづか)の全体を支配することだ!」(四・四)と続けています。
この「おののく」という特徴的な言葉は、彼がナポレオンのことを想起しながら、路上に大砲を並べて「罪なき者も罪ある者も片端から射ち殺し」「言訳ひとつ言おう」しなかった者の処置こそ正しいと感じた時にも、「服従せよ、おののくやからよ、望むなかれ、それらはおまえらのわざではない」(三・六)と用いられていました。
創作ノートにはラスコーリニコフには「人間どもに対する深い侮蔑感があった」(一四〇)と書かれています。ドストエフスキーは自分の「権力志向」だけではなく、大衆の「服従志向」にも言及させることでラスコーリニコフのいらだちを見事に表現しえているのです。
こうして、ラスコーリニコフの「非凡人」の理念は、劣悪な状況におかれながらも、社会を改革しようとはせず、ただ耐えているだけの民衆に対するいらだちや不信とも密接に結びついていたのです。(中略)
しかも、ドストエフスキーは予審判事のポルフィーリイに「もしあなたがもっとほかの理論を考え出したら、それこそ百億倍も見苦しいことをしでかしたかもしれませんよ」とラスコーリニコフを批判させていました。
実際、世界を「生存闘争」の場ととらえるならば、かつての「イデオロギー」的な連帯から、「同種の文明国家」の連帯へと変わったと言っても、自らが「鬼」として滅ぼされないために、「圧倒的な力」を持つ文明に対抗して、他の文明も国力を挙げて軍備の拡大や「抑止力」としての核兵器の開発へと進まざるを得なくなるでしょう。
現在も「国益」や「抑止力」の名目で未臨界実験をも含む核実験や核兵器の保持が続けられていますが、多くの学者が指摘しているように、核兵器の使用は「核の冬」など地球環境の悪化による諸文明だけでなく、地球文明そのものの破滅をも意味するでしょう。
そのことをドストエフスキーは、ラスコーリニコフがシベリアの流刑地で見る「人類滅亡の悪夢」をとおして明らかにしていました。夢の中で彼は「知力と意志を授けられた」「旋毛虫」におかされ自分だけが真理を知っていると思いこんだ人々が互いに自分の真理を主張して「憎悪にかられて」、互いに殺し合いを始め、ついには地球上に数名の者しか残らなかったという光景を見るのです。
2,スピノザの「感情論」と『罪と罰』における感情の考察
興味深いのは、ドストエフスキーがこの「人類滅亡の悪夢」を描いた後でソーニャと再会したラスコーリニコフの「復活」を描いていたことです。
つまり、「だれが生きるべきで、だれが生きるべきじゃないか」などと裁くことが人間にできるのかとラスコーリニコフを鋭く問い質していたソーニャの考えには、論理化はされていないにせよ、存在や生命の尊厳に対する直感的な理解があると言えるでしょう。(中略)
貧しさのために大学を退学しなければならなくなり、「自尊心」を傷つけられた中で自分の専門的な知識で組み上げたラスコーリニコフの「論理」の矛盾を、ラズミーヒンが指摘しつつも彼に直接的な影響力を持てなかったのに対し、ソーニャの言葉は彼の感情に訴えかける力をもっていたのです。
この意味で注目したいのは、エーリッヒ・フロムが無意識的力に注目した思想家として、マルクスとフロイトの名を挙げながら、「西欧の思考的伝統の中で」、彼らに先立って「無意識についての明白な概念を持っていた最初の思想家は、スピノザであった」と書いていることです*7。
実際、スピノザは感情の分析をとおして「人間は、常に必然的に受動感情に屈従」するとし、「感情の力は、感情以外の人間の活動、あるいは、能力を凌駕することができる。それほどに感情は頑強に人間に粘着している」という事実を指摘しえています*8。
このような認識は自分が感情や他人の意見に左右されずに、主体的かつ理性的に行動していると考えていた人々にとっては苦痛でしょう。しかし、スピノザが指摘しているように、多くの場合「人々が自由であると確信している根拠は、彼らは自分たちの行為を意識しているがその行為を決定する原因については無知である」という理由に基づいているのです*9。
『未成年』の登場人物は、ある感情のとりこになった人間を正常に戻すには「その感情そのものを変えねばならないが、それには同程度に強烈な別な感情を代りに注入する以外に手はない」(六四)と語っています*10。この言葉は「感情は、それと反対の、しかもその感情よりももっと強力な感情によらなければ抑えることも除去することもできない」というスピノザの定理を強く思い起こさせます*11。
実際、ドストエフスキーが出版していた雑誌『時代』にはストラーホフの訳による「神に関するスピノザの学説」という論文が掲載されており、ドストエフスキーがスピノザの考えをある程度知っていたことは充分に考えられるのです*12。
つまり、評論家のシェストフは、ドストエフスキーが『地下室の手記』(一八六四)で「かつて、自分が拝跪していたものを…中略…泥の中に踏みつけてしまった」と記し、この作家をスピノザなどの哲学とは対立し、ニーチェとともに「理性と良心」を否定する「悲劇の哲学」の創造者と規定していましたが、ドストエフスキーにはスピノザ的な哲学にたいする深い理解があったと思えるのです。
私たちはスピノザの感情論を高く評価したフロムの考察をとおして『罪と罰』を読み解くことで、現代日本の問題点にも迫り得るでしょう。
* * *
エーリッヒ・フロム著、日高六郎訳『自由からの逃走』(東京創元社、1951)
序文
第一章 自由――心理学的問題か?
第二章 個人の解放と自由の多義性
第三章 宗教改革時代の自由
1、中世的背景とルネッサンス
2、宗教改革の時代
第四章 近代人における自由の二面性
第五章 逃避のメカニズム
1、権威主義
2、破壊性
3、機械的画一性
第六章 ナチズムの心理
第七章 自由とデモクラシー
1、個性の幻影
2、自由と自発性
付録 性格と社会過程
(拙著『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』(刀水書房、初版1996年、新版2000年)、第8章「他者の発見――新しい知の模索」および、第9章「鬼」としての他者」より。
註の記述は省いたが、*7については、フロム著、阪本健二・志貴孝男訳『疑惑と行動』、東京創元社、1985年、167頁。*8については、スピノザ『エティカ』(『世界の名著』第二五巻)工藤喜作・斎藤博訳、中央公論社、1969年、273頁を参照)。
(2016年7月28日。「『罪と罰』とフロムの『自由からの逃走』』」を大幅に改訂して再掲)