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09月

「安倍談話」と「立憲政治」の危機(2)――日露戦争の賛美とヒトラーの普仏戦争礼賛

「終戦70年」の節目に当たる今年の8月に発表された「安倍談話」で、「二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます」と語り始めた安倍晋三氏は、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と終戦よりもさらに40年も前の「日露戦争」の勝利を讃えていました。

この文章を目にした時には、思わず苦笑してしまいましたが、それはここで語られた言葉が、1996年に司馬遼太郎氏が亡くなった後で勃発した、いわゆる「司馬史観」論争に際して、「戦う気概」を持っていた明治の人々が描かれている『坂の上の雲』のような歴史観が日本のこれからの歴史教育には必要だとするキャンペーンときわめて似ていたからです。

たとえば、本ブログでもたびたび言及した思想家の徳富蘇峰は、『大正の青年と帝国の前途』において「愛国心」を強調することによって「臣民」に犠牲を強いつつ軍国主義に邁進させていましたが、「大正の青年」の分析に注目した「新しい歴史教科書を作る会」理事の坂本多加雄氏は、「公的関心の喪失」という明治末期の状況が、「『英雄』観念の退潮と並行している」ことを蘇峰が指摘し得ていたとして高く評価していたのです(*1)。

そして、蘇峰を「巧みな『物語』制作者」であるとした坂本氏は、「そうした『物語』によって提示される『事実』が、今日なお、われわれに様々なことを語りかけてくる」として、蘇峰の歴史観の意義を強調したのです。

このような蘇峰の歴史観を再評価しようとする流れの中で、日露戦争をクライマックスとした『坂の上の雲』でも、「エリートも民衆も健康なナショナリズムに鼓舞されて、その知力と精力の限界まで捧げて戦い抜いた」ことが描かれているとする解釈も出てきていていました(*2)。

このような歴史の見直しの機運に乗じて、司馬遼太郎氏が亡なられた翌年の1997年には、安倍晋三氏を事務局長として「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が立ち上げられていたのです。

*   *   *

しかし、気を付けなければならないのは、かつて勝利した戦争をどのように評価するかが、その国の将来に強い影響を与えてきたことです。たとえば、ロシアの作家トルストイが、『戦争と平和』で描いた、「大国」フランスに勝利した1812年の「祖国戦争」の勝利は、その後の歴史家などによってロシア人の勇敢さを示した戦争として讃美されることも多かったのです。

第一次世界大戦での敗戦後にヒトラーも、『わが闘争』において当時の小国プロシアがフランスを破ってドイツ帝国を誕生させた普仏戦争(1870~1871)の勝利を、「全国民を感激させる事件の奇蹟によって、金色に縁どられて輝いていた」と情緒的な用語を用いて強調し、ドイツ民族の「自尊心」に訴えつつ、「新たな戦争」への覚悟を国民に求めていました。

一方、日本でもイラクへの自衛隊派遣が国会で承認されたことや二〇〇五年が日露戦争開戦百周年にあたることから、日露戦争を讃美することで戦争への参加を許容するような雰囲気を盛り上げようとして製作しようとしたのが、NHKのスペシャルドラマ《坂の上の雲》でした*3。

残念ながら、このスペシャルドラマが3年間にわたって、しかもその間に財界人岩崎弥太郎の視点から坂本龍馬を描いた《龍馬伝》を放映することで、戦争への批判を和らげたばかりでなく、武器を売って儲けることに対する国民の抵抗感や危機感を薄めることにも成功したようです。

リンク→大河ドラマ《龍馬伝》と「武器輸出三原則」の見直し

リンク→大河ドラマ《龍馬伝》の再放送とナショナリズムの危険性

こうしてNHKを自民党の「広報」的な機関とすることに成功した安倍政権が、戦後70年かけて定着した「日本国憲法」の「平和主義」だけではなく、「立憲主義」や「民主主義」をも制限できるように「改憲」しようとして失敗し、取りあえず「解釈改憲」で実施しようとして強硬に「戦争法案」を可決したのが「9.17事変」*4だったのです。

 

*1 坂本多加雄『近代日本精神史論』講談社学術文庫、1996年、129~136頁。

*2 藤岡信勝『汚辱の近現代史』徳間書店、1996年、51~69頁。

*3 石原慎太郎・八木秀次「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」『正論』、2004四年11月号、産経新聞社。

*4 この用語については、〈リメンバー、9.17 ――「忘れる文化」と記憶の力〉参照)。

リメンバー、9.17 ――「忘れる文化」と記憶の力

参院特別委員会で「自公両党」により行われたことを批判的に考察した9月19日のブログ記事では、「鴻池委員長を『人間かまくら』に囲い込み、外部から何も見えない、聞こえない情況にして、「聴取不能」(速記録)の無効採決が行われた。…中略…委員席にいた議員は、自分が起立したとき、何を採決したかを知っている者はいないはずだ」と記した有田芳生議員のツイートを紹介しました。

説明からはその構造がよく分かりましたが、テレビ映像を見ながら「民主主義」と「立憲主義」が今、葬られようとする場面を目撃しているという強い衝撃を受けていた私には、少し甘い表現だとも感じられました。それゆえ、映像を何度も繰り返して見ているうちに、それは単なる「人間かまくら」ではなく、与党議員による「立憲主義」の「円墳」のようだと感じるようになりました。

*   *   *

「強制採決」が行われた前後に伝えられたのは、支持率は10%近く下がるかも知れないが、来年になれば忘れるので、来年の選挙は別なスローガンを掲げればよいという与党議員の言葉でした。

実際、「集団的自衛権」を閣議決定して強い批判を浴びた安倍政権は、昨年末の衆院選を「アベノミクス」を前面に掲げ、「集団的自衛権」についてはほとんど沈黙を守るという選挙戦術をとることで大勝していました。

このブログでは「臭い物には蓋(ふた)」、「人の噂も75日」、さらには過去のことは「水に流す」ということわざなどがある日本では、「見たくない事実は、眼をつぶれば見えなくなる」かのごとき感覚や、「過去の出来事にこだわるのは、見苦しい」という感覚が強く残っていることを指摘しました。

政治家たちの先の発言からも感じられるのは、「忘れる」ことを格好良いとする価値観です。

しかし、いくら眼をつぶっても、事実は厳然としてそこにあり、眼をふたたび開ければ、その重たい事実と直面することになります。また、放射能は「水に流す」ことはできないのです。

*   *   *

「戦争法案」が強行採決された後でも、立憲主義と平和主義と民主主義を瀕死の状態に追い込んだ安倍政権に対する批判は衰えず、むしろ高まっています。

日本が再び悲劇を起こさないためにも、国会という場で暴力的な形で「強行採決」が行われた9.17という日を、深く記憶に刻み込むことが必要だと思います。

(2016年9月19日。最後の2行を削除して、ツイッターにも掲載)。

〈「安保関連法案の採決不存在の確認と法案審議の再開を求める申し入れ」への賛同のお願い〉を転載

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(図版は「『議場騒然、聴取不能』と記されるのみで、議事進行を促す委員長の発言も質疑打ち切り動議の提案も記されていない」「未定稿の速記録」)

 

至急!拡散・ご協力をお願いします! (締め切りは9月25日午前10時)

「安保関連法案の採決不存在の確認と法案審議の再開を求める申し入れ」への賛同のお願い

http://netsy.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-6f5b.html …

  *   *   *

「安保関連法案の採決不存在の確認と法案審議の続行を求める申し入れ」の署名が求められていることが分かりましたので、そのサイトへのリンク先を上記にアップしました。

NHKで中継された「採決」の場面を何度見直しても成立したとは思えず、また国会からあのような光景が中継されたことに呆然として「小学校のホームルームで何かを決めるための採決でそんなことをしたら、先生に厳しくしかられるでしょう」などの記載を先日の記事で書きました。

このような形での暴力的な「採決」が国会の場で認められるならば、権力者はどのような法律でも可決することができることになる危険性があります。

立憲主義、平和主義、民主主義が危機にさらされている今、「安保関連法案の採決不存在の確認と法案審議の続行を求める申し入れ」がなされることは、きわめて有意義だと思われます。

*   *   *

今朝(9月22日)の「東京新聞」には、この署名運動についての記事が載っていましたので、下にリンク先を追記しておきます。

リンク→安保法案 どさくさ採決は認めない 東大名誉教授ら賛同呼び掛け(朝刊)

なぜ今、『罪と罰』か(1)――「立憲主義」の危機と矮小化された『罪と罰』

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(『罪と罰』の表紙、ロシア版「ウィキペディア」より)

いよいよ明日からドストエフスキーの長編小説『罪と罰』を比較文学の手法で読み解く大学の講義が始まりますが、昨日、成立した「安全保障関連法」によって、私たちは戦後日本に70年間かけて定着してきた立憲主義、平和主義、民主主義が根本から覆される危険と直面しています。

日本ではドストエフスキーは後期の長編小説に焦点をあてることで、犯罪者の心理や男女間の異常な心理的葛藤を描くことに長けた作家であるというような見方が文芸評論家の小林秀雄以降、深く定着しているように見えます。

しかし、これはドストエフスキーを侮辱し、彼の作品を矮小化する解釈だと私は考えています。なぜならば、「憲法」がなく、「言論の自由」も厳しく制限されていたニコライ二世のいわゆる「暗黒の30年」に青春時代を過ごしたドストエフスキーは、「言論の自由」や「人間の尊厳」、開かれた裁判制度の大切さを文学作品を通して民衆に訴えかけようとしながら、1848年のフランス2月革命の余波を受けた緊迫した状況下で捕らえられ、偽りの死刑宣言の後でシベリアに流刑されるという厳しい体験をしていたのです。

長編小説『罪と罰』が雑誌に発表された年に生まれた哲学者のレフ・シェストフ(1866~1938)は、ドストエフスキーがシベリアに流刑されてから思想的に転向して、人道主義からも決別したという解釈を1903年に刊行した『悲劇の哲学』(原題は『ドストエフスキーとニーチェ』)で記し、この本が1934年に日本語に翻訳されると満州事変以降の厳しい思想弾圧が始まり、不安に陥っていた知識人の間でたいへん流行しました*1。

しかし、これから詳しく分析していくように、厳しい検閲を考慮して推理小説的な筋立てで「謎」を組み込むなど、随所にさまざまな工夫をこらしてはいますが、そこに流れる人道主義や正義や公平性の重要性の認識は強く保たれていると思われます。

たとえば、青年時代からプーシキンなどのロシア文学だけではなく、ゲーテやディケンズ、シェイクスピアに親しみ、流刑地で読んだ『聖書』やシベリアからの帰還後に親しんだエドガー・アラン・ポーの作品やユゴーの『レ・ミゼラブル』からの影響は『罪と罰』にも強く見られるのです(リンク→3-0-1,「ロシア文学研究」のページ構成と授業概要のシラバス参照)。

長編小説『罪と罰』は「憲法」のない帝政ロシアで書かれた作品ですが、最初にも記したように9月19日に成立した「安全保障関連法」によって、現在の日本は「憲法」が仮死状態になったような状態だと思われます*2。『罪と罰』にはその頃に起きた出来事や新聞記事も取り込まれていますので、現代の日本の状況と切り結ぶような形で授業を行えればと考えています。ただ、ドストエフスキーはこの小説で読者を引き込むようなさまざまな工夫もしていますので、比較文学的な手法でその面白さも指摘しながらこの長編小説を読んでいき、ときどき感じたことや考えたことなどをこのブログにも記すようにします。

*1 池田和彦「日本における『地下室の手記』――初期の紹介とシェストフ論争前後」R・ピース著『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』のべる出版、2006年。

*2 〈安倍政権の「民意無視」の暴挙と「民主主義の新たな胎動」〉参照。

(2015年9月23日。「長編小説『罪と罰』を読み解く(1)――なぜ今、『罪と罰』か」より改題)。

 

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(2)――「ゴジラ」の咆哮と『罪と罰』の「呼び鈴」の音

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(3)――事実(テキスト)の軽視の危険性

安倍政権の「民意無視」の暴挙と「民主主義の新たな胎動」

今回の国会審議で多数を占めた与党からは「法的安定性は関係ない」と発言した礒崎陽輔首相補佐官や、シールズを批判して利己的個人主義がここまでまん延したのは戦後教育のせいだろうが、非常に残念だ」と記した自民党の武藤貴也衆院議員の常識外れの発言が目立った程度で、最期まで灰色の二つの大きな物言わぬ集団という印象しか受けませんでした。

一方、質問などに立った野党議員は一人一人が個人として屹立し凜々しく見えました。日本の将来を真剣に憂慮して考え抜いた野党議員たちの渾身の発言は、今後も憲政史上長く語り継がれるものと思われます。それは単に私個人の印象にとどまるものではなく、多くの人が共有する思いでしょう。

*   *   *

9月15日のブログで私は「権力」を乱用する安倍晋三氏と江戸時代の藩主を比較して次のように書きました。

「江戸時代には民衆のことを考えない政治をする暴君に対しては、厳しい処罰を覚悟してでもそれを諫める家老がいましたが、現在の自民党には『独裁的な傾向』を強めている安倍首相を諫める勇気ある議員がほとんどいないということです。与党の公明党にも、安倍首相の『国会』を冒涜した発言に苦言を呈する議員がほとんどいないということも明らかになりました」。

しかし、国民からは巨額の税金を取る一方で、国民には秘密裏にTPP交渉を進め、アメリカが始めた「大義なき戦争」に、かつての「傭兵」のように自衛隊を「憲法」に違反してまでも差し出そうとしている安倍晋三氏を藩主に喩えるのは褒めすぎでしょう。

安倍晋三氏にはこのような評価は不本意でしょうが彼が行おうとしていることは、ドイツの作家シラーなどが戯曲『ウィリアム・テル』(ヴィルヘルム・テル)で描いたオーストリアから派遣された14世紀の悪代官ヘルマン・ゲスラーがスイス人に対して行った暴政に似ているのです。

東京新聞:これからどうなる安保法 (1)米要望通り法制化:政治(TOKYO Web)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2015092202000210.html …

*   *   *

15日のブログでは「『暴君』を代えるまでにはもう少し時間がかかるかもしれませんが、昨日のデモからは今回の運動が確実に政治を変えていくだろうという思いを強くしました」と続けていました。

なぜならば、その思いは単なる願望ではなく日本では明治時代に自由民権運動の高まりをとおして薩長藩閥政府を追い詰めて、明治14年(1881)には1889年には国会を開設するという約束を獲得したという歴史を持っているからです。

注目したいのは、その2年後の明治16年(1883)に、『坂の上の雲』の主人公の一人で新聞記者となる若き正岡子規が中学校の生徒の時に、「国会」と音の同じ「黒塊」をかけて、立憲制の急務を説いた「天将(まさ)ニ黒塊ヲ現ハサントス」という演説を行っていたことです。

俳人となった正岡子規は分かりやすい日本語で一人一人が自分の思いを語れるように俳句の改革を行いました。

「民主主義ってなんだ」と問いかけるSEALDs(Students Emergency Action for Liberty and Democracy–s、自由と民主主義のための学生緊急行動)がツイッターの冒頭に掲げている「作られた言葉ではなく、刷り込まれた意味でもなく、他人の声ではない私の意思を、私の言葉で、私の声で主張することにこそ、意味があると思っています」という文章からも、「憲法」と「国会」の獲得に燃えていた明治の若者たちと同じような若々しい思いと高い志が感じられるのです。

最期に、参院特別委員会での強行採決が「無効」であると強く訴えた福山哲郎議員の参議院本会議での反対討論のまとめの部分を引用しておきます。

*   *   *

残念ながらこの闘い、今は負けるかもしれない。しかし、私は試合に負けても勝負には勝ったと思います。私の政治経験の中で、国会の中と外でこんなに繋がったことはない。ずっと声を上げ続けてきたシールズや、若いお母さん、その他のみなさん。3.11でいきなり人生の不条理と向き合ってきた世代がシールズだ。彼らの感性に可能性を感じています。

どうか国民の皆さん、あきらめないで欲しい。闘いはここから再度スタートします。立憲主義と平和主義と民主主義を取り戻す戦いはここからスタートします。選挙の多数はなど一過性のものです。

お怒りの気持ちを持ち続けて頂いて、どうか戦いをもう一度始めてください。私たちもみなさんお気持ちを受け止め戦います! 国民のみなさん、諦めないでください。

私たちも安倍政権をなんとしても打倒していくために頑張ることをお誓い申し上げて、私の反対討論とさせて頂きます。

(2015年9月23日。「東京新聞」の記事へのリンク先を追加)

参院特別委員会採決のビデオ判定を(4)――福山哲郎議員の反対討論

9月19日未明に開かれた参院本会議では特別委員会での「採決」に違法性はないのかという重大な問題を残しつつも、自民・公明両党などの賛成多数により「安全保障関連法案」が可決されました。

他方、国会審議では第三次アーミテージ・ナイ・レポートの内容と詳細に比較して、今回の法案が自公両党の作成によるものではなく、指示された事項の「完全コピー」の疑いが強いことや昨年末に行われた米軍中枢との会談で河野統幕長が、「(安保法制について)来年夏までには終了する」「オスプレイの不安全性を煽るのは一部の活動家だけ」などと発言していたことも明らかになりました。

このような結果を受けて野党議員からは国会審議に先立ってアメリカ議会に成立を約束した安倍政権が保守政治家の「気概」を喪っているのではないかとの厳しい批判もありました。

それゆえ、自分たちの言動の正しさを証明するためにも、安倍政権の側からもこれらの追求に対する反論が敢然となされるものと考えていました。しかし、答えるのではなく、違法性の疑いも指摘されている「採決」により、審議を打ち切ってこそこそと退場した安倍晋三氏と閣僚たちの姿は、「みっともない」の一言に尽きると思われます。

ただ、その「公平性」が厳しく問われているNHKはこの場面もきちんと中継し、日本中に放映していたので、来年に予定されている参議院選挙や、その後の衆議院選挙まで、この映像は日本各地に広まっていき、「事実」を伝えることになるでしょう。

*   *   *

興味深いのは、「牛歩、長時間演説、泣き落とし…未明の参院、野党が連発したルール違反の数々」と題した記事で野党を厳しく批判した産経新聞が、違法性の疑いも指摘されている「採決」の裏側を明らかにしたスクープ記事も掲載していたことです。

すなわち、〈“ふくよかな”議員が外側ブロック、自民の「鴻池委員長防衛シフト」〉という表題の記事は、いわゆる「人間かまくら」の構築が*1、防衛大出身の佐藤正久筆頭理事が指南役となり、開会前の同日早朝、ひそかに集まってシミュレーションもした」ことなどを内部暴露していたのです。

この記事は「若手議員たちは室内で、それぞれの体格や運動能力に応じた配置を考え、最も早く委員長席にたどり着くルートなどをシミュレーション。それが鉄壁の守備につながったという」と書き、この成果につながったのが防衛大の伝統競技である棒倒しの訓練であったことに注意を促して記事を結んでいます。

「国民の生命」に深く関わるこの法案を審議する参議院を、防衛大の体育祭のレベルに引き下げた佐藤議員の活躍を活写したこの記事と写真は話題を呼んでツイッターなどでかなり広がっていますので、参院特別委員会採決の「違法性」を争う裁判では、重要な証拠となると思われます。

最期に参院特別委員会での強行採決が「無効」であると訴えた福山哲郎議員の参議院本会議での反対討論の一部を、ツイッターや新聞の記事なども参考に映像から文字起こしすることにします(急いだために抜けている箇所や発言通りではない箇所もあると思いますが、ご了承ください。憲法9条の意義についての発言などは、後ほど改めて記すことにします)。

*   *   *

現在も私は与党の暴力的な強行採決は断じて認めるわけにはいきません。今も国会周辺には多くの人が反対の声をあげて集まっており、全国でテレビやフェイスブックやツイッターで注視しています。SEALDsだけでなく、憲法の学者、元最高裁長官、各大学の有志の皆さん、そして一人ひとりの個人が、この法案を廃案にしたいと少しずつ一歩ずつ勇気を出して全国で動き出しています。これの数え切れない皆様の気持ちを代弁するには力不足ですが、立憲主義、平和主義、民主主義、日本の戦後七十年の歩みにことごとく背くこの法案に対して違憲と断じ、反対を表明します。

国民の皆様に心からお詫びさせて頂きます。残念ながらあと数十分もすれば、数の力におごった与党がこの法案を通過させることになるでしょう。本当に申し訳なく思います。野党は力不足でしたが、それぞれの議員がそれぞれの政党が、やれることは懸命にやらせていただいたつもりです。そこは国民に信頼して頂きたいと思います。

今の私の発言は15分に制限されました。今日もお隣の衆議院では枝野幹事長が約2時間の演説をされました。なぜ参議院では15分なのでしょうか。ここは言論の府です。我々は国民の意見を伝えるためにここに立っています。言論の府の言論が与党により数の力で封殺されています。これは昨日の暴力的な強行採決にもつながっている。昨日の採決は存在し得ない、あり得ないと私は思います。

三権分立の我が国で、立法府で審議中の法案に対してOBとはいえ司法それも最高裁長官が「違憲」と発言されることは極めて異常な事態。いいですか、少なくとも四十年以上、日本は集団的自衛権を行使できないと、歴代法制局長官と自民党の先輩、首相を含むすべての閣僚が決めてきた。あなた方は違憲なのは明白だ。あなた方は保守ではない。あなた方にあるのは単なる保身でしかない。立法事実はどこかへ消えた。米艦防護もそう、自衛隊のリスクは減ると言った安倍総理の発言ももうほとんど絵空事になっている。これまでの審議でわが国の安全保障の法体系を崩していることが明らかなのに、なぜ謙虚に修正をしたり出し直すことは考えないのですか?

一つ重要なことを申し上げます。昨日の暴力的な強行採決の場面を思い出してください。鴻池委員長が復席されました。私は野党の理事として、議事に合意していなかったので議事の整理をしたいと委員長に歩み寄った。すると委員でもない与党議員が一気に駆け寄ってきて、委員長を取り囲みました。議事録には委員会の開会の時間が書いていない。

特別委員会では地方公聴会の報告がされていない。報告がないということは、採決の前提が崩れ、重大な瑕疵(かし)があることになる。野党の採決権が剥奪されたと同時に外部の方が公述人としてこられた方の議事録が残っていない、地方公聴会はなかったものにされます。与党は採決のルールを守っていない。時間を守ることよりも参院最大の汚点です。この採決は無効であるということになります。これこそが言論封殺ではありませんか。(後略)

(2016年2月24日。副題の一部を削除)

参院特別委員会採決のビデオ判定を(3)――NHKが中継放映した「採決」の実態

参院特別委員会で「自公両党」により「民主主義」に対する冒涜と思えるような「採決(?)」が行われた後で、民主党の福山哲郎理事が憤然と「あんな暴力的な採決が可決になったら、わが国の民主主義は死ぬ」とNHKのアナウンサーの問いに答えていたのが印象的でした。

安倍晋三氏*1に気に入られた籾井氏が会長を務めているNHKでは、この採決を正当化する「解釈」が行われているようですが、そのNHKが中継した映像は別の「事実」を明確に証言しているように思われます。

現在は日付が代わって19日の土曜日になりましたが、今も国会の外では参院特別委員会採決に際しての「自公両党」の暴挙を批判し、安倍政権の退陣を求める多くの人々が抗議活動を行っています。

このブログ記事では二日間にわたり参院特別委員会採決が「無効」である可能性を指摘してきました。NHKだけでなくワイドショーなどでも野党を批判する解説者がいまもいますが、有田芳生議員はツイートで分かりにくかった映像の裏側を明らかにしていますので、「自公両党」による「採決(?)」の問題点を指摘した箇所を引用しておきます。

*   *   *

心あるメディアの方にお願いです。自民党議員が委員会の強行採決で「人間かまくら」を作り、鴻池委員長を隔離した映像や写真を報道して下さい。わたしたちは、採決時に委員長席に抗議のため駆けつけたものの「無効採決」時に野党議員はおりません。あの異様な物体は自民党議員による暴力的な素顔です。

「いけー!」という自民党委員の合図で委員長席に向かった彼らは、鴻池氏を外部から隔離するために「人間かまくら」を作り出す。私の前にいた小川敏夫議員は眼鏡を飛ばされ、打撲傷を負った。行為者は――何と自民党の議員秘書だった。

安保特で鴻池委員長を「人間かまくら」に囲い込み、外部から何も見えない、聞こえない情況にして、「聴取不能」(速記録)の無効採決が行われた。そのとき鴻池委員長の背後に構えたのは、公明党の議員だった。調べてみれば剣道6段。「むきだしの暴力」採決の一光景だ。

委員席にいた議員は、自分が起立したとき、何を採決したかを知っている者はいないはずだ。「かまくら」のなかで何が起きているかは、囲い込んだ者たちしかわからないからだ。

*   *   *

以上のような方法で「採決(?)」された法案が可決されたと強弁することはできるのでしょうか。今も実施されているかどうかは分かりませんが、小学校のホームルームで何かを決めるための採決でそんなことをしたら、先生に厳しくしかられるでしょう。

「李下に冠を正さず」と題した記事では、多くの報道関係者が安倍氏によって会食に招待されていることを記しましたが、何度も接待されている記者がこのような「事実」をきちんと報道せず安倍氏を擁護する記事や発言を繰り返すならば、「贈賄の罪」にはならなくとも、少なくとも倫理的には厳しく問われるべきでしょう。

リンク→御用メディアはもはや共犯だ!安倍独裁政権の … – リテラ

リンク→安倍親衛隊フジテレビが御用記者・田崎史郎と結託して … – リテラ

*   *   *

衆参両院での安倍氏の答弁が質問に答える真摯なものではなく、同じフレーズを繰り返す壊れたレコードのようなものであり、自席からヤジをとばして何度も注意されたことは憲政における汚点として記録されるでしょう。閣僚たちの発言も国会での答弁と呼べるような水準ではなかったことも明らかです。

さらに、「中央公聴会」や「地方公聴会」の後で、そこで発言した人々の意見が何ら審議に反映されておらず、報告もされていないことなど採決の前提が崩れていることなども指摘されています。

今回の採決にいたる手続きには違法性がなかったかを第三者の機関によって、残された議事録やNHKの映像資料の分析することによりきちんと調査し、明らかにすることが必要でしょう。

 

*1  安倍氏の肩書きを外した理由については、〈参院特別委員会採決のビデオ判定を(2)――「民主主義」の重大なルール違反〉を参照。

参院特別委員会採決のビデオ判定を(2)――「民主主義」の重大なルール違反

採決

図版は〔NHK NEWS WEB〕より

 

昨日のブログ記事では下記のような理由から、参院特別委員会採決は無効である可能性が強いと記しました。

〔不信任案が否決された直後に与党の議員が委員長席に駆け寄り、それに続いて野党議員が駆け寄り、もみ合う映像が何度も流されましたが、「締め括り審議」はどこに消えたのでしょうか。

すでに大相撲では映像によるビデオ判定が採用されています。鴻池委員長の発言は聞こえず、議事録には「精査不能」と記されているとのことですが、そのような場合には大相撲では「取り直し」となります。まして、「国民の生命」に関わる重要な法案ならば、「精査不能」の「締め括り審議」は、きちんと「やり直し」とされるべきと思われます。〕

*   *   *

印象的だったのは、参議院での「みっともない」光景に対して、何が起きたのかがわからないこのような状況下でNHKのアナウンサーが、「可決されたもようです」と何度も繰り返し*1、安倍首相がいち早く委員会の会場から去って行ったことです*2

その時はなぜ去って行くのかが分からなかったのですが、おそらく、このような委員会の流れを知っていたか、あるいは指示していたからでしょう。

その後、野党5党からは特別委の採決は無効だという申し入れを山崎正昭参院議長にしたが聞き入れられず、NHKの夜のニュース解説などでは、あの混乱の中で5回もの「採決」が行われたことになったとの説明がなされました。

しかし、「締め括り審議」などを飛ばして、委員長席を取り囲んだごく少数の自民・公明党議員のみが確認しただけの採決は、一般市民の感覚からはとうてい無効としか思えません(冒頭の図版参照)。NHKの籾井会長の意向でそのような解説をするようにとの業務命令があったかどうかは、今後、法廷などで検証されるべきでしょう

さらに、「毎日新聞」のデジタル版によれば、次のことも明らかになっています。「参院のウェブサイトで公開されている審議の録画には、鴻池氏が着席してからの約1分10秒間、「速記を中止しているので音声は放送していません」というテロップが出る。鴻池氏の入場直前に、委員長の代理を務めていた自民党の佐藤正久議員が速記の中止を命じているからだ。記録を取っていない間に採決が行われた可能性も否定できない。」

安倍晋三氏は首相の座にしばらくは留まるかも知れませんが、昨日の参議院で民主主義に対する重大なルール違反を犯し、そのことが問われていずれそう遠くない時期に失脚すると思われますので、今後、このブログでは首相の肩書きは外して記します。

*1 「毎日新聞」のデジタル版によれば、正確には次のような表現だったようです。「生中継するNHKすら『何らかの採決が行われたものとみられます』などと実況し、散会するまで『可決』を伝えられなかった」。

*2 同じく「毎日新聞」のデジタル版は、「採決前の慣例の首相らが出席する締めくくり質疑も省略された。理由を問うと鴻池氏の表情が険しくなった。『察してくれよ。本当はやりたかったですよ。野党の皆さんだって質問したかったでしょう。そういう事態だったということです』」と記しています。

(2015年9月18日。「毎日新聞」のデジタル版により、注などを追加)

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参院特別委員会採決のビデオ判定を(1)―NHKの委員会中継を見て

久しぶりにHNKが国会の中継を行っているのに気づいて、途中からでしたが、鴻池委員長にたいする不信任の理由を述べた野党議員による問題点の指摘に聞き入っていました。

これまでの歴史を踏まえた社民党の福島瑞穂議員の説得力のある発言に続いて、自衛隊の海外派兵の問題点に鋭く迫り、やはり十分な審議の必要性を明らかにした山本太郎議員が発言の短縮を求められて素直に中断したあとで、採決が求められ鴻池委員長の不信任案が否決されました。

その後の流れが映像を何度見ても分かりません。ニュースの解説によれば、その後には「締め括り審議」が予定されており、それに備えるために安倍首相や中谷防衛大臣、岸田外務大臣などが着席していたのです。野党議員の渾身の質問にたいして、首相や大臣がどのように答弁するのか固唾を呑んで私は見守っていました。

しかし、不信任案が否決された直後に与党の議員が委員長席に駆け寄り、それに続いて野党議員が駆け寄り、もみ合う映像が何度も流されましたが、「締め括り審議」はどこに消えたのでしょうか。

すでに大相撲では映像によるビデオ判定が採用されています。鴻池委員長の発言は聞こえず、議事録には「精査不能」と記されているとのことですが、そのような場合には大相撲では「取り直し」となります。まして、「国民の生命」に関わる重要な法案ならば、「精査不能」の「締め括り審議」は、きちんと「やり直し」とされるべきと思われます。

まだ、参議院本会議での議論が残っており、法案の帰趨は分かりませんが、このような方法で採決した参議院の自民・公明両党は、「良識の府」の歴史に大きな汚点を残したといわねばならず、日本は「明治憲法」が発布される以前の薩長藩閥政府が権力を専横していた時代へと逆戻りする危険性さえあると思えます。

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しかし、そのような危険性にもかかわらず、多くのひとびとが「民主主義」と「憲法」について再び、深く真剣に考え始めている現在、私はこれまでに味わったことのないような可能性も感じています。

そのことの理由についてはいずれ詳しく記したいと思いますが、ここでは参院・中央公聴会でのシールズ(自由と民主主義のための学生緊急行動)の奥田愛基さんの発言の一部を紹介することでその説明に代えることにします。

「どうか、政治家の先生たちも個人でいてください。政治家である前にたった一人の個人であって下さい。自分の信じる正しさに向かい、勇気を出して孤独に思考し、判断し、行動して下さい」、「困難な時代にこそ希望があることを信じて、私は自由で民主的な社会を望み、この安全保障関連法案に反対します」。

リンク→李下に冠を正さず――ワイドショーとコメンテーター

リンク→「国会」と「憲法」、そして「国民」の冒涜――「民主主義のルール」と安倍首相

(2015年9月18日。題名の一部を変更、リンク先を追加)

李下に冠を正さず――ワイドショーとコメンテーター

国会前のデモで強い雨に打たれながら「戦争法案」に反対の声を上げられている方々に深い敬意と連帯の挨拶をお送りします。

ここのところ体調がすぐれなかったために参加することが出来ませんでしたが、新聞記者でもあった俳人・正岡子規の「写生の精神」に光をあてて『坂の上の雲』を読み解く著書を書き終えたところでもあり、今回の国会審議や昨日の地方公聴会、さらには国会前の抗議活動がどのように報じられているかに強い関心を持って「ワイド!スクランブル」や「ひるおび」などの昼のワイドショーを次々とチャンネルをかえながら視聴していました。

それゆえ、全部の番組を見たわけではないのですが、驚かされたのは「ワイド!スクランブル」で、研究者でもあるコメンテーターの中野信子氏が野党側が抵抗する映像に、「みっともない」と激しく叱りつけて「きちんと審議すべきです」と批判していたことです。たしかに映されている画面のみから判断するとそのようにも見えるかも知れませんが、放送の公平性を重視するならば、こわれたレコードのように同じ答弁を繰り返すばかりでなく、自席から何度もヤジを飛ばして、その都度、鴻池委員長から注意されては撤回していた安倍首相の「みっともなさ」にも言及すべきだったでしょう。

その後すぐに「ひるおび」を見たのですが、そこでは与党の審議方法に強い疑問を投げ掛けた室井佑月氏に対してコメンテーターの田崎史郎氏が、安倍内閣は前回の選挙に際して今度の「安保法案」を公約として掲げていたので、その時にきちんと論じようとしなかった野党の方に問題があると懸命に安倍政権をかばっていました。

その後、ツイッターを見ていたところフリーランス編集者の鈴木耕氏が、この放送を見て「田崎氏は懸命に安倍の代弁。室井さんの話をやたら遮る。ひどいもんだ。御用記者の典型…」と記しているのに気づきました。

メディア戦略を重要視しているとされる安倍首相と報道関係者らとの会食が「歴代首相の中でも突出した頻度で」行われていることを問題にした山本太郎議員が参議院議長に提出した「質問主意書」によれば、時事通信の田崎史郎解説委員が突出した回数で会食に招かれていたことも判明しました。

ワイドショーのコメンテーターは視聴者への強い影響力をもっています。視聴者からのあらぬ疑いを招かぬためにも、コメンテーターには「李下に冠を正さず」の精神が求められるでしょう。

リンク→昨年総選挙での「争点の隠蔽」関連の記事一覧