高橋誠一郎 公式ホームページ

12月

「集団的自衛権」と「カミカゼ」

前回、指摘した「特定秘密保護法」と同じように「集団的自衛権」もきわめて重大な問題を含んでいます。私は防衛の専門家でもないのですが、「カミカゼ」という視点から、日本本土が攻撃される危険性を指摘しておきたいと思います。

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私が「カミカゼ」という言葉を衝撃を持って受け止めたのは、研究のためにイギリスに1年間、滞在していたときに起きた「チェチェン紛争」の際でした。

その際にも日本からはほとんど取材陣は派遣されていなかったようですが、イギリスの放送局は、現在は「テロリスト」と呼ばれている「チェチェンの独立派」への密着取材を行っており、指導者の一人から「我々は絶対に降伏しない。いざとなればモスクワへの『カミカゼ』攻撃を行ってでも、独立を達成する」と語っていたのです。

チェチェンや中東での戦争については日本ではあまり報道されないこともあり、日本とは関係の薄い遠い国の出来事のように捉えられているようです。

しかし、2014年7月1日に安倍政権は憲法解釈を変更し、以下の場合には集団的自衛権を行使できるという閣議決定をしました。

「日本に対する武力攻撃、又は日本と密接な関係にある国に対して武力攻撃がなされ、かつ、それによって「日本国民」に明白な危険」がある場合は「必要最小限度の実力行使に留まる」集団的自衛権行使ができる。

文面だけを読むと「自衛隊」とはあまり関係がないようにも読めますが、かつてブッシュ大統領が「報復の権利」を主張して行ったイラクやアフガンの情勢は、アメリカ軍だけでは制圧できないほどに混沌としてきています。

世界有数の軍事力を保持するようになった「自衛隊」への支援要請が早晩来るのは確実と思われ、その際に安倍政権はその要請を断ることができないでしょう。

ここで注目したいのは、アフガンへの攻撃にブッシュ政権が踏み切ろうとしていた際にアメリカの新聞が、アフガンの歴史にも言及しながら、その危険性を指摘したことです。拙著よりその箇所を引用しておきます。

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ニューヨーク・タイムズ紙の記者フランク・リッチもアメリカでの同時多発テロへの「報復」をうたった「今回の戦争には、反対しない」としながらも、「(アメリカ)国民の多数は、米国が冷戦中にアフガニスタンでイスラム過激派をソ連と戦わせていたことも、そしてその後にソ連が退却すると、アフガニスタンを見捨てたことも、理解していない」と指摘している*29。

つまり、アメリカ政府は「テロ」の「野蛮さ」を強調する一方で、なぜテロリストが生まれたのかを国民に説明しないまま「新しい戦争」へと突き進んだのである。

リンク→『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、2002年)

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トルコを含むイスラム圏で日本人が高い尊敬を受けている理由の一つは、日本が勝利の可能性が少ないにもかかわらず、日露戦争や太平洋戦争でロシアやアメリカなどの「大国」と戦っていたからです。

そしてことに、イスラムの過激派が深い尊敬の念を抱いているのは、戦いが圧倒的に不利になると日本軍が「カミカゼ」攻撃を行って戦争を続ける意思を示してていたからなのです。

その日本の「自衛隊」がアメリカ軍の「護衛」という形であっても参戦した場合、彼らの激しい憎しみが、自分たちがモデルとしていた「カミカゼ」を行っていた日本にも向けられる可能性は高いと思われます。

つまり、十分な審議もなく閣議で決定された「集団的自衛権」は、「日本国民」の生命を守るどころか、「明白な危険」を生み出す可能性がある危険な法律なのです。

リンク→「集団的自衛権」と『永遠の0(ゼロ)』

今回の総選挙では「アベノミクス」が争点だと明言したことで、閣議決定された「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」の問題には、言及されていません。

それゆえ、総選挙後もこれらの問題に対する「国民」の審判を受けたと安倍政権は主張することはできないでしょう。

しかし、そのことも「争点」になっていることも忘れてはならないでしょう。「特定秘密保護法」と同じように、安倍政権はこれらの法律の危険性が国民に知られる前に総選挙を行おうとしている可能性さえあるからです。

「特定秘密保護法」と「オレオレ詐欺」

「国際情勢の複雑化に伴い我が国及び国民の安全の確保に係る情報の重要性が増大するとともに、高度情報通信ネットワーク社会の発展に伴いその漏えいの危険性が懸念される」ことを理由に、閣議決定で決められた「特定秘密保護法」が12月10日から施行されることになります。

「共同通信」が行ったアンケートの結果では、「特定秘密の件数は政府全体で四十六万件前後」と膨大な数字になるばかりでなく、「適性評価や内部通報の窓口はどの部署が担当するか」などの点も「不透明さが際立つ」ことが明らかになりました。

このアンケート結果を受けて「東京新聞」は、12月6日の紙面で「政府の意のままに秘密の範囲が広がり、国民に必要な情報が永久に秘密にされ、市民や記者に厳罰が科される可能性がある」という「三つの懸念」を指摘しています。

このことは日本ペンクラブなど日本のさまざまな団体だけでなく、「国連人権理事会」が「内部告発者やジャーナリストを脅かす」との懸念を表明し、元NSC高官のハンペリン氏もこの法案を「国際基準」を逸脱しており、「過剰指定 政府管理も困難」との指摘をしたにもかかわらず、十分な審議もなく閣議決定で公布されたこの法律の性質を物語っていると思えます。

以前のブログ記事で書いたように「テロ」の対策を目的とうたったこの法案は、諸外国の法律と比較すると国内の権力者や官僚が決定した情報の問題を「隠蔽」する性質が強く、「官僚の、官僚による、官僚と権力者のための法案」とでも名付けるべきものだろうと私は考えています。

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(秘密裏に交渉されるTPPに対する自民党のポスター。図版はネット上に出回っている写真より)。

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一方、すでに11月末に「法律事務所員などを名乗る複数の男から『あなたは国家秘密を漏らした。法律違反で警察に拘束される。金を出せば何事もなかったようにする』などと電話で脅された女性が、2500万円をだまし取られたという事件が発生していました(「東京新聞」、11月23日)。

「特定秘密保護法」が施行される前に起きたこの事件は、法律が正式に施行された後では、戦前の日本のように厳しい言論統制で「国民」が萎縮し、言論の自由などを奪われて、次第に「臣民」に近い状態になる危険性が高いことを示唆しているでしょう。

 

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安倍首相が共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック)で絶賛した百田尚樹氏の小説『永遠の0(ゼロ)』では、徳富蘇峰の歴史観が正当化されており、この小説には若者たちに死をも恐れぬ「白蟻」のような勇敢さを求める戦前の「道徳」が秘められていると思われます。

(2016年11月18日、図版を追加)

宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠の0(ゼロ)』(3)

 

《風立ちぬ》と同じ年の12月に公開予定の映画《永遠の0(ゼロ)》を雑誌『CUT』(ロッキング・オン/9月号)の誌上で「今、零戦の映画企画があるらしいですけど、それは嘘八百を書いた架空戦記を基にして、零戦の物語をつくろうとしてるんです。神話の捏造をまだ続けようとしている」と厳しく批判した宮崎監督は、さらに次のように続けていました。

「戦後アメリカの議会で、零戦が話題に出たっていうことが漏れきこえてきて、コンプレックスの塊だった連中の一部が、『零戦はすごかったんだ』って話をしはじめたんです。そして、いろんな人間が戦記ものを書くようになるんですけど、これはほとんどが嘘の塊です」。

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この批判に対して百田氏は、「宮崎さんは私の原作も読んでませんし、映画も見てませんからね」と反論したとのことですが、宮崎監督は原作にきちんと目を通していたと思われます。

なぜならば、『永遠の0(ゼロ)』の冒頭は「あれはたしか終戦直前だった。正確な日付は覚えていない。しかしあのゼロだけは忘れない。悪魔のようなゼロだった」という強いインパクトを持つ文章で始まるからです。

続いてアメリカ人パイロットの零戦やそのパイロットについてのきわめて否定的な感想が描かれています。

「スウサイドボンバーなんて狂気の沙汰だ。そんなものは例外中の例外だと思いたい。しかし日本人は次から次へとカミカゼ攻撃で突っ込んでくる。俺たちの戦っている相手は人間でなはないと思った。」

「やがて恐怖も薄らいだ。次にやってきた感情は怒りだった。神をも恐れぬ行為に対する怒りだった。…中略…最初の恐怖が過ぎると、ゲームになった。」

しかし、そのような否定的な評価は一人のゼロファイターの「奇跡的な操縦術」を見た後で一転することを暗示する次のような文章でプロローグは終わります。

「八月になると、戦争はまもなく終わるだろうと多くの兵士が噂していた。

あの悪魔のようなゼロを見たのはそんな時だった。」

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「第3章 真珠湾」では豪州のパイロットに次のような印象を語らせています。

「ゼロファイターは本当に恐ろしかった。信じられないほど素早く、」「俺たちは戦うたびに劣等感を抱くようになったんだ。ゼロとは空戦をしてはならないという命令がくだったんだよ」。

「俺たちは日本の新型戦闘機が『ゼロ』というコードネームが付けられていることを知った。何と気味悪いネーミングだと思ったよ。『ゼロ』なんて何もないという意味じゃないか。しかもその戦闘機は信じられないムーブで俺たちをマジックにかける。これが東洋の神秘かと思ったよ」。

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こうして、プロローグにおける「スウサイドボンバーなんて狂気の沙汰だ」という「カミカゼ」攻撃に対する評価は、エピローグでは「奇跡的な」操縦で「迎撃戦闘機と対空砲火をくぐり抜け」て、突撃した宮部に対するアメリカの艦長の賞賛へと変化することになります。

百田氏も「零戦の弱点は防御が弱いところです」と登場人物に語らせていますが、宮崎監督は映画《風立ちぬ》で戦闘機「零戦」の設計者・堀越二郎と本庄季郎という2人の設計士の対話をとおして、圧倒的な西欧列強との経済力などの差から「攻撃こそは最大の防御である」とされて、設計段階から乗組員の生命があまり重視されなかったことの問題を浮き上がらせていました。

それは日本思想の問題の核心にも迫っていたといえるでしょう。

『永遠の0(ゼロ)』を「神話の捏造」とした宮崎監督の批判はきわめて重いと思われます。

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映画《風立ちぬ》関係の記事

《風立ちぬ》論Ⅳ――ノモンハンの「風」と司馬遼太郎の志

《風立ちぬ》論Ⅲ――『魔の山』とヒトラーの影 

 《風立ちぬ》Ⅱ――大地の激震と「轟々と」吹く風 

アニメ映画《紅の豚》から《風立ちぬ》へ――アニメ映画《雪の女王》の手法 

〈若者よ スマホを置いて 選挙に行こう〉

急な選挙となったために、日本では「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」の危険性はまだ理解されず、多くの国民はこれらの法律が「公務員」や「自衛隊員」のみに関わると誤解していると思われます。

しかし、昨日の「東京新聞」では、「内閣情報調査室」が、「海外経験者は、『秘密漏らす』」との懸念を示していたことが報道されています(第26面)。

「特定秘密保護法」が10日に施行されたあとでは海外への留学や外国からの観光客と話すことにも恐怖を感じるような時代に近づくと思われ、安倍政権が「特定秘密保護法」の施行前に総選挙を急いで行うのもそのためではないかと感じています。

映画《少年H》では、クリスチャンであった両親につれられて教会に通っていた肇少年が、日本を離れたアメリカ人の女性からエンパイアーステートビルの絵はがきをもらったことで、次第に「非国民」視されるようになる過程が描かれていました。

リンク→映画《少年H》と司馬遼太郎の憲法観

400万部も売れたと言われる小説『永遠の0(ゼロ)』では、他国の人々と否応なく関わらざるを得ない陸上での戦闘とはことなり、「神風特攻隊員」の空中での「戦闘」や「家族の物語」に焦点が絞られているために、「外国」との関わりや当時の厳しい言論統制の問題は巧妙に避けています。

しかし、「特定秘密保護法」に続いて「集団的自衛権」が施行されたあとの日本は、これまでの日本とは全く異なり戦前のような雰囲気に支配される危険性がきわめて高いと思われます。常に上司や政治家の眼を気にするようになったと思われるNHKのアナウンサーがそのことを示唆しているでしょう。

第二次世界大戦では若者だけでなく中年の人々も招集されました。

今のかりそめの繁栄に惑わされることなく、1年後の日本を思い浮かべて、安倍政権に「NOといえる」毅然とした投票を!

〈白票と 棄権は危険な 白旗だ〉

毎回、選挙前には抗議の意を込めて「白票」をという呼びかけや、自分の選びたい候補がいないなら「棄権」しようと呼びかける動きがあるようです。

しかし、投票率が低いと選挙がやり直しになる制度を持つ国ならば有効かもしれませんが、日本では「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」を閣議で決めた政権への白紙委任状になります。

学徒動員で戦車兵となった作家の司馬遼太郎氏は、自衛隊の海外への派遣には強く反対して、「私は戦後日本が好きである。ひょっとすると、これを守らねばならぬというなら死んでも(というとイデオロギーめくが)いいと思っているほどに好きである」と記していました(『歴史の中の日本』)。

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亡くなられた元俳優の菅原文太氏に続いて俳優の宝田明氏が、3日夕方に放送されたNHKの「ゆうどき」で、幼少時代に旧満州でソ連侵攻を体験し、命からがら引き揚げてきた悲惨な過去を振り返りつつ、「人間の起こす最も大きな罪は戦争」「戦争を起こしてはいけないというメッセージを発信し続けたい」と戦争反対を主張したとの記事が7日付けの「日刊ゲンダイ」に載っています。

リンク→「間違った選択すれば戦争」…宝田明氏の発言にNHK大慌て /日刊ゲンダイ‎ – 19 時間前/故・菅原文太氏に続き、芸能界の大物がまた「反安倍」の狼煙を上げた――と話題になっている/

映画《ゴジラ》(監督:本多猪四郎、1954年)で重要な役を演じていた宝田明氏は、噛み締めるように「無辜の民が無残に殺されることがあってはいけない。間違った選択をしないよう、国民は選挙を通じて、そうでない方向の人を選ぶ(べき)……」と訴えたとのことです。

 

 

司馬遼太郎氏の遺言――「二十一世紀に生きる君たちへ」

最近、司馬氏が孫の世代の子供たちのために書いた「二十一世紀に生きる君たちへ」というエッセーを読み返したところ、その文章が「子供たち」だけではなく、現在の状況も予期したかのように、これから戦場へと駆り出される可能性のある若い世代や中年、さらには私たち老年の世代にも向けられた遺言のように思えてきました。

なぜならば、そこで「自己を確立」することの必要性を記した司馬氏は、「自己といっても、自己中心におちいってはならない」と記し、「自国」だけでなく「他国」の歴史や文化をも理解できることの重要性を強調してこう記していたのです。

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助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、いたわりという感情である。

他人の痛みを感じることと言ってもいい。

やさしさと言いかえてもいい。

「いたわり」

「他人の痛みを感じること」

「やさしさ」

みな似たような言葉である。

この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。

根といっても本能ではない。だから、私たちは訓練してそれを身につけねばならないのである。

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(「二十一世紀に生きる君たちへ」『十六の話』中公文庫、初出は『小学国語』六年下、大阪書籍株式会社、1989年5月)。

 

 

 

『坂の上の雲』の改竄から『永遠の0(ゼロ)』へ

ヘイトスピーチとも思われるような過激な発言を繰り返している作家の百田尚樹氏がなぜ、NHKの経営委員として留まっていられるのかを不思議に思っていました。

しかし、『永遠の0(ゼロ)』の山場が日露戦争時の新聞報道をめぐる議論であったことを知って、その理由が分かったと思いました。

リンク→宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠の0(ゼロ)』(2)

学徒動員で満州の戦車部隊に配属され22歳で敗戦を迎えて、どうして「こんなバカなことをする国」になってしまったんだろうと真剣に悩み、『坂の上の雲』で戦争の問題を深く考察した作家の司馬遼太郎氏は、この作品を「なるべく映画とかテレビとか、そういう視覚的なものに翻訳されたくない作品」であると語り、その理由を「うかつに翻訳すると、ミリタリズムを鼓吹しているように誤解されたりする恐れがありますからね」と説明していました(司馬遼太郎『「昭和」という国家』、NHK出版、一九九八年、三四頁)。

リンク→改竄(ざん)された長編小説『坂の上の雲』――大河ドラマ《坂の上の雲》と「特定秘密保護法」

一方、自作の『永遠の0(ゼロ)』について、百田氏は昨年8月16日のツィッターで「でもたしかに考えてみれば、特攻隊員を賛美したかもしれない、彼らの物語を美談にしたかもしれない。しかし賛美して悪いか!美談にして悪いか!日本のために命を捨てて戦った人たちを賛美できない人にはなりたくない。これは戦争を肯定することでは決してない。」とつぶやき、自分の小説が映像化されて視覚的な映像に多くの若者が影響されることをむしろ願っています。

しかし、彼の「つぶやき」は論理のすり替えであり、「戦争」という特殊な状況下で、自分の生命をも犠牲にして特攻に踏み切った「カミカゼ特攻隊員」の勇気を否定する人は少ないでしょう。ただ、司馬氏が戦車兵として選ばれたときには死を覚悟したと書いていましたが、多くの日本兵は「特攻兵」と同じような状況に立たされていたのです。

百田氏は「特攻隊員たちを賛美することは戦争を肯定することだと、ドヤ顔で述べる人がいるのに呆れる。逃れられぬ死を前にして、家族と祖国そして見送る者たちを思いながら、笑顔で死んでいった男たちを賛美することが悪なのか。戦争否定のためには、彼らをバカとののしれと言うのか。そんなことできるか!」とつぶやいていますが、ここでも論点が強引にすり替えられており、「罵り言葉」を用いているのは本人なのです。

問われるべきは、敗戦がほぼ必至であったにもかかわらず、戦争を続けさせた政治家や戦争を煽った文学者の責任なのです。そのことに気づきつつも論点を巧妙にすり替えていることで、政治家や文学者の責任を読者から「隠蔽」している百田氏の言動は「詐欺師」的だといわねばならないでしょう。

そのような作家がNHKの経営委員として留まっている中で行われる今回の総選挙は、異常であると私は感じています。

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追記:ツィッターのような短い文章は「情念」を伝えるには適していますが、「論理」を伝えるには短すぎるのでこれまでは避けてきました。しかし、選挙も近づいてきまし、あまり時間もありませんので、これからは短い文章も載せることにします。

 

「アベノミクス」とルージンの経済理論

ルージンとは誰のことか分からない方が多いと思いますが、ルージンとはドストエフスキーの長編小説『罪と罰』に出て来る利己的な中年の弁護士のことです。

日本の「ブラック企業」について論じた以前の記事で、ロシアの近代化が「農奴制」を生んだことを説明した頃にも、「アベノミクス」という経済政策がルージンの説く経済理論と、うり二つではないかという印象を持っていたのですが、経済学者ではないので詳しい考察は避けていました。

リンク→「ブラック企業」と「農奴制」――ロシアの近代化と日本の現在

しかし、デモクラTVの「山田厚史のホントの経済」という番組で「新語・流行語大賞」の候補にもノミネートされた「トリクルダウン」という用語の説明を聞いて、私の印象がそう的外れではないという思いを強くしました。

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「ウィキペディア」によれば、「トリクルダウン(trickle-down)」理論とは、「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が滴り落ちる(トリクルダウン)する」という経済理論で、「新自由主義の代表的な主張の一つであり」、アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンが「この学説を忠実に実行した」レーガノミクスを行ったとのことです。

興味深いのは、『罪と罰』の重要人物の一人である中年の弁護士ルージンが主人公・ラスコーリニコフに上着の例を出しながら、これまでの倫理を「今日まで私は、『汝の隣人を愛せよ』と言われて、そのとおり愛してきました。だが、その結果はどうだったでしょう? …中略…その結果は、自分の上着を半分に引きさいて隣人と分けあい、ふたりがふたりとも半分裸になってしまった」と批判していたことです。

そしてルージンは「経済学の真理」という観点から、このような倫理に代わるものとして、「安定した個人的事業が、つまり、いわば完全な上着ですな、それが社会に多くなれば多くなるほど、その社会は強固な基礎をもつことになり、社会の全体の事業もうまくいくとね。つまり、もっぱらおのれひとりのために利益を得ながら、私はほかでもないそのことによって、万人のためにも利益を得、隣人にだって破れた上着より多少はましなものをやれるようになるわけですよ」と自分の経済理論を説明していたのです(二・五)。

ルージンは「新自由主義」の用語を用いれば「富める者」である自分の富を増やすことで、貧乏人にもその富の一部が「したたる」ようになると、「アベノミクス」に先んじて語っていたとも思えるのです。

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「トリクルダウン理論」については、「実証性の観点からは、富裕層をさらに富ませれば貧困層の経済状況が改善することを裏付ける有力な研究は存在しないとされている」ことだけでなく、レーガノミクスでは「経済規模時は拡大したが、貿易赤字と財政赤字の増大という『双子の赤字』を抱えることになった」ことも指摘されています。

その理由をシャンパングラス・ツリーの図を用いながら、分かり易く説明していたのが山田厚史氏でした。私が理解できた範囲に限られますが、氏の説明によれば結婚式などで用いられるシャンパングラス・ツリーでは、一番上のグラスに注がれてあふれ出たシャンパンは、次々と下の段のグラスに「滴り落ち」ます。

しかし、経済においてはアメリカに巨万の富を有する者や企業が多く存在するように、頂点に置かれてシャンパンを注がれるグラス(大企業)自体は、大量のシャンパン(金)を注がれてますます巨大化するものの、それらを内部留保金として溜め込んでしまうのです。それゆえ、下に置かれたシャンパングラス(中小企業)は、ほとんどシャンパン(金)が「滴り落ち」てこないので、ますます貧困していくことになるのです。

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「トリクルダウン理論」の危険性に気付けば、日本よりも150年も前に行われたピョートル大帝の「文明開化」によって、「富国強兵」には成功していたロシア帝国でなぜ農民の「農奴化」が進んだかも明らかになるでしょう(商業と農業との違いはありますが…)。 再び『罪と罰』に話を戻すと、ドストエフスキーがペテルブルクに法律事務所を開こうとしているかなりの財産を持つ45歳の悪徳弁護士ルージンにこのような経済理論を語らせた後で、ラスコーリニコフにそのような考えを「最後まで押しつめていくと、人を切り殺してもいいということになりますよ」(二・五)と厳しく批判させていたのは、きわめて先見の明がある記述だったと思えます。

しかし、文芸評論家の小林秀雄は意外なことに重要な登場人物であるルージンについては、『罪と罰』論でほとんど言及していないのです。そのことはマルクスにも言及したことで骨のある評論家とも見なされてきた小林秀雄が『白痴』論で「自己中心的な」貴族のトーツキーに言及することを避けていたことにも通じるでしょう。 しかしそれはすでに別のテーマですので、ここでは「アベノミクス」という経済政策の危険性をもう一度示唆して終わることにします。

リンク→「主な研究活動」に「『地下室の手記』の現代性――後書きに代えて」を掲載

「欲しがりません勝つまでは」と「景気回復、この道しかない。」

総選挙が公示され、 一斉に各党のポスターが張り出されました。

「景気回復、この道しかない。」

という文字と安倍首相の横顔が印刷された自民党のポスターは、

「アベノミクス」を前面に出すことで、分かりやすくもありインパクトがありました。

しかし、至る所に掲示されるようになったこのポスターを見ているうちに、

「国民」の目を戦争の実態から逸らし、

今の困窮生活が一時的であるかのような幻想を振りまいた、

「欲しがりません勝つまでは」という

戦時中のスローガンと似ていることに気づきました。

このことに注目するならば、

今回の総選挙で本当の「争点」とすべきは、

「戦前の日本を取り戻そう」としている安倍政権を選ぶか否かだと思われます。

安倍政権が目先の利権を全面に出したにもかかわらず、沖縄知事選では翁長知事が当選しました。

私たち、いわゆる「本土の人間」も、目先の利益を前面に出した安倍政権の「スローガン」に惑わされずに、

自分たちの国の大地や河川、子孫たちの「生命」を守る選択をして、「日本人」の誇りを示したいものです。

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ついでながら、「与党」として安倍政権の進める政策を実質的に支援している「公明党」にもロシア史の研究者の視点から一言。

かつての自民党には「現実」を重視しつつ、戦争の惨禍をも踏まえて「理想」を語る政治家も多くいました。

しかし、ブログ記事「宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠の0(ゼロ)』(2)」で確認したように、現在の安倍政権は「歴史認識」の問題を最重要視する「イデオロギー政党」化していると思われます。

1917年10月のロシア革命では、人事と要職を握ったボリシェヴィキによってメンシェヴィキや農業に基盤を置いた社会革命党左派は徐々に排除されましたが、「昭和初期」の日本でも共産党や民主主義者だけでなく、当時の創価学会も排除の対象とされていました。

現在の安倍政権が選挙に勝って圧倒的な権力を獲得したあとでは、百田氏のように公然と「歴史的な事実」をねじ曲げてでも権力者に媚びようとする者が優遇され、それを批判する者は遠ざけられ排除されるようになると思われます。

なぜならば、権力がある人物に集中すると、その権力者に気に入られるためにより過激な発言をしたり、それを行動に移すようになる者が出てくるからです。

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繰り返すことになりますが、「司馬史観」論争の頃からの流れを考慮するならば、「戦前の日本を取り戻そう」としている安倍政権を選ぶか否かに、総選挙の「争点」を転換しなければならないでしょう。

司馬氏が 『竜馬がゆく』で描いたように、「憂国」の念から脱藩した幕末の志士・坂本龍馬は、幕臣だった師の勝海舟などの理解も得て、それまで憎しみあっていた薩摩と長州の同盟を成立させることで、アメリカとの交渉を秘密裏に行おうとした大老・井伊直弼が権力を握る徳川幕府を打倒したばかりでなく、「憲法」の樹立に向けた方向性をも示していました。

リンク→『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』(人文書館、2009年)

私たちもそろそろ全野党だけでなく、「公明党」や安倍政権の危険性を認識している自民党員をも取り込んだ形で、「戦前の日本を取り戻そう」としている安倍政権に対抗できるような全国民的な同盟を結ぶという長期的な展望を持つべき時期にきていると思えます。

宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠の0(ゼロ)』(2)

前回の記事では『ビジネスジャーナル』の記事によりながら、「今、零戦の映画企画があるらしいですけど、それは嘘八百を書いた架空戦記を基にして、零戦の物語をつくろうとしてるんです。神話の捏造をまだ続けようとしている」と宮崎監督が厳しく批判したことや、百田氏が「全方位からの集中砲火」を浴びているようだと語ったことを紹介し、それはこの小説の「いかさま性と危険性」に多くの読者が気づき始めたからだろうという判断を記しました。

全部で12の章とプロローグとエピローグから成るこの小説については、小説の構成の意味など考えるべきことがいろいろありますが、今回はクライマックスの一つでも「歴史認識」をめぐる激しい口論のシーンを考察することで、『永遠の0(ゼロ)』の問題点を明らかにしたいと思います。

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小説の発端は語り手の「ぼく」が、「戦争体験者の証言を集めた本」を出版する新聞社のプロジェクトのスタッフに採用された「姉」を手伝うことになるところから始まります。

こうして、特攻隊員として死んだ実の祖父のことを知る「当時の戦友たち」をたずねて話を聞く中で、新聞記者・高山の影響もあり特攻隊員のことを「狂信的な愛国者」と思っていた「姉」の考えが次第に変わっていく様子が描かれているのです。

その最大の山場が新聞記者の高山隆司と「一部上場企業の社長まで務めた」元海軍中尉の武田貴則との対決が描かれている第9章です。

そこで、かつて政治部記者だった高山にわざと「特攻隊員は一種のテロリストだった」という単純で偏った「カミカゼ」観を語らせた百田氏は、その言葉に激昂した武田が「馬鹿者! あの遺書が特攻隊員の本心だと思うのか」、「報国だとか忠孝だとかいう言葉にだまされるな」と怒鳴りつけさせ、「私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だと思っている」と決めつけた武田の次のような言葉を描いています。

「日露戦争が終わって、ポーツマス講和会議が開かれたが、講和条件をめぐって、多くの新聞社が怒りを表明した。こんな条件が呑めるかと、紙面を使って論陣を張った。国民の多くは新聞社に煽られ、全国各地で反政府暴動が起こった…中略…反戦を主張したのは德富蘇峰の国民新聞くらいだった。その国民新聞もまた焼き討ちされた。」

*   *   *

作家の司馬氏も「勇気あるジャーナリズム」が、「日露戦争の実態を語っていれば」、「自分についての認識、相手についての認識」ができたのだが、それがなされなかったために、日本各地で日本政府の弱腰を責めたてる「国民大会が次々に開かれ」、放火にまで走ることになったと記して、ナショナリズムを煽り立てる報道の問題を指摘していました(『「昭和」という国家』NHK出版、1998年)。

しかし、『蘇峰自伝』の「戦時中の言論統一と予」と題した節で德富蘇峰は、「予の行動は、今詳しく語るわけには行かぬ」としながらも、戦時中には戦争を遂行していた桂内閣の後援をして「全国の新聞、雑誌に対し」、内閣の政策の正しさを宣伝することに努めていたと書いていました。

自分の弟で作家の蘆花から「そうなら国民に事情を知らせて諒解させれば、あんな騒ぎはなしにすんだでしょうに」と問い質されると、蘇峰は「お前、そこが策戦(ママ)だよ。あのくらい騒がせておいて、平気な顔で談判するのも立派な方法じゃないか」と答えていたのです(徳富蘇峰『蘇峰自伝』中央公論社、1935年。および、ビン・シン『評伝 徳富蘇峰――近代日本の光と影』、杉原志啓訳、岩波書店、1994年参照)。

つまり、思想家・德富蘇峰の『国民新聞』が「焼き討ち」されたのは、彼が「反戦を主張した」からではなく、戦争の厳しい状況を知りつつもそれを隠していたからなのです。

司馬氏が『この国のかたち』の第一巻において、戦争の実態を「当時の新聞がもし知っていて煽ったとすれば、以後の歴史に対する大きな犯罪だったといっていい」と記していたことに留意するならば、司馬氏の鋭い批判は、蘇峰と彼の『国民新聞』に向けられていたとも想像されるのです。

さらに「カミカゼ」の問題とも深く関わると思われるのは、第一次世界大戦の最中の1916(大正5)年に書いた『大正の青年と帝国の前途』で德富蘇峰が、明治と大正の青年を比較しながら、「此の新時代の主人公たる青年の、日本帝国に対する責任は奈何」と問いかけ、「世界的大戦争」にも対処できるような「新しい歴史観」の必要性を強調していたことです(筑摩書房、1978年)。

リンク→  司馬遼太郎の教育観  ――『ひとびとの跫音』における大正時代の考察

司馬氏は日露戦争以降の日本で強まった「自殺戦術とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学」を長編小説『坂の上の雲』で厳しく批判していましたが、「忠君愛国」の思想の重要性を唱えるようになった蘇峰は、『大正の青年と帝国の前途』において白蟻の穴の前に危険な硫化銅塊を置いても、白蟻が「先頭から順次に其中に飛び込み」、その死骸でそれを埋め尽し、こうして「後隊の蟻は、先隊の死骸を乗り越え、静々と其の目的を遂げたり」として、集団のためには自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを大正の青年も持つべきだと記していたのです。

リンク→ 『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』(東海教育研究所、2005年)

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作家の司馬遼太郎氏が亡くなられた後で起きた1996年の「司馬史観」論争の翌年には、安倍晋三氏を事務局長とする「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が立ち上げられ、戦後の歴史教育を見直す動きが始まっていました。

これらのことを考慮するならば、安倍首相との対談で「百人が読んだら百人とも、高山のモデルは朝日新聞の記者だとわかります」と語って、朝日新聞の名前を挙げて非難したとき(『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』、66頁)、百田氏は厳しい言論統制下で記事を書いていた新聞記者よりも重大な責任を負うべき戦前の思想家や政治家など指導者たちの責任を「隠蔽」しているように見えます。

『永遠の0(ゼロ)』では語り手の姉が「来年の終戦六十周年の新聞社のプロジェクトのスタッフに入れたのよ」と語っていましたが、私自身は日露戦争勝利百周年となる2005年からは日本が軍国主義へと後戻りする流れが強くなるのではないかという怖れと、NHKの大河ドラマでは長編小説『坂の上の雲』の内容が改竄されて放映される危険性を感じて司馬作品の考察を集中的に行っていました。

しかし、太平洋戦争における「特攻隊員」を語り手の祖父としたこの小説に日露戦争のテーマが巧みに隠されていることには気付かず、いままで見過ごしてしまいました。

百田氏は先に挙げた共著の対談で、「安倍総理も先ほどおしゃっていたように、この本を読んだことによって、若い人が日本の歴史にもう一度興味を持って触れてくれることが一番嬉しいですね」と語っていました(67頁)。

司馬氏を敬愛していた宮崎監督が「神話の捏造」と百田氏の『永遠の0(ゼロ)』(単行本、太田出版、2006年。文庫本、講談社、2009年)を厳しく批判したのは、大正の青年たちに「白蟻」の勇敢さをまねるように教えた德富蘇峰の歴史認識を重要視する安倍首相が強引に進める「教育改革」の危険性を深く認識したためだと思えます。

今回は急で「大義のない」総選挙となりましたが、「親」や「祖父・祖母」の世代である私たちは、安倍政権の「教育政策」が「子供たち」や「孫たち」の世代にどのような影響を及ぼすかを真剣に考えるべき時期に来ていると思われます。

リンク→《風立ちぬ》と映画《少年H》――「《少年H》と司馬遼太郎の憲法観」

(続く)

 映画《風立ちぬ》関連の記事へのリンクは、「宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠のO(ゼロ)』」のシリーズが完結した後で、一括して掲示します。