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12月

小林秀雄と「一億玉砕」の思想

前回のブログ記事で書いたように。本来は国民の「生命を守り」、豊かな生活を保障するためにある「国家」が、自分たちの責任を放棄して「国民」に「一億玉砕」を命じるのはきわめて異常であると思います。

かつて、そのことを考えていた私は「戦争について」というエッセーで「銃をとらねばならぬ時が来たら、喜んで国の為に死ぬであらう。僕にはこれ以上の覚悟が考へられないし、又必要だとも思はない」と書いていた文芸評論家の小林秀雄が、戦前の発言について問い質されると「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない」と語っていた文章に出会ってたいへん驚きました。

『永遠の0(ゼロ)』という小説を私が詳しく分析しようと思ったきっかけの一つは小林秀雄の歴史認識の問題でしたので、ここでは林房雄との対談の一節を引用しておきます。

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1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、「英雄とはなんだらう」という同人の林房雄の問いに「ナポレオンさ」と答えた小林秀雄は、ヒトラーも「小英雄」と呼んで、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語っていました。

戦争に対して不安を抱いた林が「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけると小林は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていました。

この小林の言葉を聴いた林は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」との覚悟を示していたのです。(太字は引用者、「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁((不二出版、復刻版、2008~2011年)。

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「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」という林房雄の無責任な発言には唖然とさせられましたが、戦後は軍人の一部がA級戦犯として処刑される一方で、戦争を煽っていたこれらの文学者の責任はあまり問われることはなく、小林秀雄の文章は深く学ぶべきものとして、大学の入試問題でもたびたび取り上げられていたのです。

しかも、評論家の河上徹太郎と1979年に行った「歴史について」と題された対談で、「歴史の魂はエモーショナルにしか掴めない」と説明した小林は、「歴史の『おそろしさ』を知り抜いた上での発言と解していいのだな」と河上から確認されると、「それは合理的な道ではない。端的に、美的な道だと言っていいのだ」と断言していました。

『罪と罰』を論じて「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と解釈していた小林秀雄が、果たして「歴史の『おそろしさ』を知り抜いた」と言えるでしょうか。「同じ過ちを犯さないため」に「歴史を学ぶ」ことを軽視して、小林秀雄のように「情念」を強調する一方で歴史的な「事実」を軽視すると、日本人は同じ過ちを繰り返して「皆んな一緒に滅びて」しまう危険性があるのではないでしょうか。

リンク→『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社、2014)

小林秀雄の著書の題名には「考えるヒント」という読者を魅了するようなすぐれた題名の本もありますが、しかし、彼の方法は「考える」ことを断念して「白蟻」のような勇敢さを持つように大正の若者たちに説いた徳富蘇峰の方法に近いのです。

地殻変動によって国土が形成され、地震や火山の活動が再び活発になっている今、19世紀の「自然支配」の思想を未だに信じている経済産業省や産業界は、大自然の力への敬虔な畏れの気持ちを持たないように見える安倍首相を担いで原発の推進に邁進しています。

原発や戦争の危険性には目をつぶって「景気回復、この道しかない。」と国民に呼びかける安倍政権のポスターからは、「欲しがりません勝つまでは」と呼びかけながら、戦況が絶望的になると自分たちの責任には触れずに「一億玉砕」と呼びかけた戦前の政治家と同じような体質と危険性が漂ってくるように思えます。

リンク→「一億総活躍」という標語と「一億一心総動員」 

(2016年2月17日。リンク先を追加)

隠された「一億玉砕」の思想――――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(4)

長くなりそうなので一端中断すると先ほど書きましたが、宮部久蔵が語った「命が大切」という言葉はきわめて重要なので、この稿では安倍政権の問題点と絡めてもう少し続けます。

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「臆病者」と題された『永遠の0(ゼロ)』の第2章では、「命が大切というのは、自然な感情だと思いますが?」と反論していた慶子が、「それは女の感情だ」と長谷川から言われると沈黙してしまうように百田氏は描いていました。

本来ならば、慶子の祖父・宮部久蔵が抱いていた「命が大切」という思想は、日本国民の生命や「地球環境」にも関わるような重要な思想で、単に「女の感情」で切り捨てられるべきものではないのです。

ここで注目したいのは、「祖父」の宮部を「臆病者」と批判した長谷川が「あの戦争が侵略戦争だったか、自衛のための戦争だったかは、わしたち兵士にとっては関係ない」と語っていたことです。

百田氏は長谷川に「もちろん戦争は悪だ。最大の悪だろう」と語らせつつも、一国家だけでなく世界全体の運命に関わる戦争の問題を、一兵士の視点から「情念的に」語らせるという手法を取ることで、重大な論理のすり替えを密かに行っているのです。

『大正の青年と帝国の前途』で若者たちに「白蟻」の勇気をまねるようにと説いた徳富蘇峰の思想によって教育され、命じられるままに行動するような訓練を受けていたこの世代の若者たちにとっては、「考えること」は禁じられたも同然だったのであり、兵士が「命が大切」と主張することは「分を超えている」ことでした。

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第3回の終わりに記したように、「五族協和」「八紘一宇」などの「美しい神話」で戦争の勝利が語られていた「昭和国家」では、多くの若者がそれを信じて戦ったのですが、敗色が濃厚になると日本では一転して「一億玉砕」というスローガンさえ現れます。

すなわち、「ウィキペディア」によれば、戦局が絶望的となった1944年(昭和19年)6月24日、大本営は戦争指導日誌に「もはや希望ある戦争政策は遂行し得ない。残るは一億玉砕による敵の戦意放棄を待つのみ」との記載をし、1945年4月の戦艦大和の沖縄出撃では、軍内の最後通告に「一億玉砕ニサキガケテ立派ニ死ンデモライタシ」との表現が使用されたとのことです。

それゆえ、『永遠の0(ゼロ)』で描かれているように、広島と長崎に原爆が投下されたあとも戦争が続けられ、それまで生き残っていた主人公の宮部久蔵も特攻で亡くなりました。

%e7%89%b9%e6%94%bb%e3%81%af%e7%be%8e%e3%81%97%e3%81%8f%e3%81%aa%e3%81%84元特攻隊員 「勇ましさ陶酔は簡単」

→「上官は出撃せず、上官に目をかけられている人間は指名されなかった。強者が弱者を矢面に立たせることを実感した」( 琉球新報 2014.8.16)

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本来は、国民の「生命を守り」、豊かな生活を保障するためにある「国家」が、自分たちの責任を放棄して「国民」に「一億玉砕」を命じるのはきわめて異常であり、戦争を行った自分たちの責任を隠蔽するものであると感じます。

それゆえ、「命が大切」という思想を持っていたこの小説の主人公である宮部久蔵がもし生き残っていたら、彼は目先の利益につられて原発の再稼働に着手しようとしている安倍政権を厳しく批判して、「反核」「脱原発」運動の先頭に立っていたと思われます。

『永遠の0(ゼロ)』では主人公・宮部久蔵の死はそのような現政権の批判とは結びつかず、むしろ戦前の「道徳」の正しさが強調されているのです。そのような価値の逆転がなぜ起きたのかについては、次の機会に改めて考察したいと思います。

(2016年11月22日、図版を追加)

 

沈黙する女性・慶子――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(3)

 

語り手である「ぼく」の姉・慶子が、「オレオレ詐欺」のヒール(悪役)を演じる新聞記者・高山の助手ではないかという仮説は奇抜すぎるように見えるかもしれません。

このようなイメージを持ったのは、「臆病者」と題された第2章で、取材のために訪れた元海軍少尉・長谷川梅男から「祖父」の宮部久蔵を激しく批判された際に姉の慶子が、きちんとした反論をほとんどできずに、打ちのめされて帰ってくる箇所に強い違和感を抱いたためです。

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胡散臭さは取材に行く前の姉弟の会話からも臭っていました。「ところで、戦争のことについて、ちょっとは勉強したの?」という「ぼく」の質問にたいして、慶子は「そんな暇ないわよ」と答えているのです。

その程度の知識しかなくてプロジェクトに参加しようとしている慶子の責任感のなさにはあきれますが、慶子をスタッフとして採用した高山の責任はより重いでしょう。

慶子の無責任さは取材の場ですぐに明らかになります。

戦闘機搭乗員としてラバウル航空隊で一緒だった長谷川は、開口一番に久蔵のことを「奴は海軍航空隊一の臆病者だった」と決めつけ、さらに「奴はいつも逃げ回っていた。勝つことよりも己の命が助かることが奴の一番の望みだった」と語ります。

それに対して、「命が大切というのは、自然な感情だと思いますが?」と慶子が言うと長谷川は「それは女の感情だ」といい、「それはね、お嬢さん。平和な時代の考え方だよ」と続け、「みんながそういう考え方であれば、戦争なんか起きないと思います」という慶子の反論に対しては、小学生に諭すように次のように断言しているのです。

「人類の歴史は戦争の歴史だ。もちろん戦争は悪だ。最大の悪だろう…中略…だが誰も戦争をなくせない。今ここで戦争が必要悪であるかどうかをあんたと議論しても無意味だ。…中略…あの戦争が侵略戦争だったか、自衛のための戦争だったかは、わしたち兵士にとっては関係ない。」

*   *

長谷川から「こんなわしの話が聞きたいか」と聞かれて黙ってしまった姉に変わって「ぼく」が「お願いします」といって、取材が始められます。

問題は、この取材の後で百田氏が慶子に「本当言うと、おじいさんには少しがっかりしたわ…中略…私は反戦思想の持ち主だから、おじいさんには勇敢な兵士であってほしくないけど、それとは別にがっかりしたわ」と語らせていることです(太字は引用者)。

百田氏は「ぼく」に、「正直に言うと、姉はジャーナリストには向いていないと思っていた。気は強いが、気を遣い過ぎる性格だから」とあらかじめ断らせていました。しかし、フリーライターとはいえ30歳という年齢を考えれば、戦争や当時の状況についてのかなりの知識をもっていて当然のはずなのですが、弟に「戦争のことについて、勉強する暇はなかった」と告げていた慶子は、戦争も知らずにどのようにして「反戦思想の持ち主」になったのでしょうか。

この小説の最大の山場の一つである第9章「カミカゼアタック」では、プロジェクトの企画者である新聞記者の高山が、「一部上場企業の社長まで務めた」元海軍中尉の武田貴則からその平和思想を批判され、「帰ってくれたまえ」と言われてすごすごと退散する場面が描かれています。

普通ならば、このような状況に不自然さを感じると思いますが、多くの読者がそこにあまり違和感を覚えないのは、自分の「反戦思想」を「それは女の感情だ」と決めつけられても、姉の慶子がきちんとした反論をほとんどできなかったと描かれている第2章「臆病者」が、第9章の展開の伏線となっているからだと思われます。

この作品に私が「オレ、オレ詐欺」の手法を感じるのは、百田氏がこの後で「ぼくの心にも祖父が臆病者だったという台詞(せりふ)はずっしりと残っていた…中略…なぜならば、ぼく自身がいつも逃げていたからだ。ぼくには祖父の血が流れていたのだ」と続けているからです。

こうして、「祖父」の疑惑に関心を持った孫の「ぼく」の苦悩に共感した読者は、最後まで「物語」から抜け出すことができなくなるという構造をこの小説は持っているのです。

*   *

『永遠の0(ゼロ)』については、まだいろいろと考えるべきことがありますが、明後日の日曜が投票日なので今回はここまででいったん中断することにし、最後に稿をかえて選挙の争点にも関わる「命が大切というのは、自然な感情だと思います」という慶子の言葉の意味を考察することにします。

 

「ぼく」とは誰か〈改訂版〉――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(2)

このシリーズの(1)では、「戦争体験者の証言を集めた本」を出版することになった新聞社の記者高山と、そのプロジェクトのスタッフに選ばれた「ぼく」の姉・慶子が、戦争についての深い知識を有していなければならないにもかかわらず、批判に対してきちんと反論ができなかったように描かれていることにまず注目しました。

次に、「物語の流れ」を分析して最初は誠実そうに見える新聞記者の高山という人物が、実は「オレオレ詐欺」のヒール(悪役)を演じる人物であり、慶子がその助手をしているのではないかという仮説を示しました。

*   *

では、この小説で語り手をつとめている「「ぼく」とは誰でしょうか。

「スターウォーズのテーマで目が覚めた。携帯電話呼び出し音だ」という印象的な文章で始まる第1章では、30歳を過ぎてから弁護士となった「努力の人」である祖父の大石賢一郎にあこがれて弁護士を志していた「ぼく」が、司法試験に4年連続して不合格だったために、「自信もやる気も失せてしまい」仕事にも就かずぶらぶらと時間をつぶしていたことが記されています。

「亡霊」と題されたこの章では、「本当のおじいさんがどんな人だったのか、とても興味があるわ。だってこれは自分のルーツなのよ」と姉の慶子からアシスタントを頼まれたことで、実の祖父には「特別な感情」はなく、「突然、亡霊が現れたようなもの」と感じつつもこの企画に参加することになり、「最後」と題された第11章では「母に読ませるための祖父の物語」をまとめていると描かれているのです。

最初にブログに記した際にはこの小説における「書き手」の「ぼく」である宮部久蔵の孫・健太郎を作者の分身として解釈していましたたが、拙著『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』の第二部では、最初の内は「臆病者」と非難された実の祖父の汚名を晴らそうとした健太郎が、取材を続ける中で次第に取り込まれて後半では積極的に作者の思想を広めるようになる若者として解釈しました。

 普段は「売国奴」などの激しい「憎悪表現」を好んで用いる百田氏は、ここでは気の弱い若者を誘惑するような形で小説の構造を構築することにより、自分が宣伝したい「人物」の「正しさ」を強調するために、それとは反対の見方をする新聞記者・高山を徹底的にけなし追い詰めるというという手法により、読者をも第2次世界大戦へと引きずり込んだ「危険な歴史認識」へと誘っているのです。

そのように読み直したことにより、この小説の思想的な背景を、「新しい歴史教科書をつくる会」の「自由主義史観」や「日本会議」の神話的な歴史認識がなしていることをも明らかにしえたのではないかと考えています。

*   *

『永遠の0(ゼロ)』は、ノンフィクションを謳った『殉愛』とは異なり、初めから小説として発表されているから問題はないと思う読者もいるかもしれません。

しかし、宮崎駿氏は『永遠の0(ゼロ)』を「神話の捏造」と批判しましたが、第二次世界大戦に際しては「鬼畜米英」といった「憎悪表現」だけでなく、「神州不滅」や「五族(日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人)協和」「八紘一宇(道義的に天下を一つの家のようにする)」などの「美しい神話」が語られて多くの若者がそれを信じたのです。

『永遠の0(ゼロ)』で蘇峰との関連で言及されている日露戦争の際にも、ポーランドやフィンランドを併合していた帝国ロシアと植民地を持たない日本との戦争は、「野蛮と文明の戦い」という「美しい物語」が作られていました。

しかし、夏目漱石は日露戦争後に書いた長編小説『三四郎』で、三四郎の向かいに坐った老人に「一体戦争は何のためにするものだか解らない。後で景気でも好くなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんな馬鹿気たものはない」と嘆かせていました。

*   *

第2次世界大戦で敗色が濃厚になると日本では「一億玉砕」というスローガンさえ現れましたが、広島と長崎に原爆が投下されたあとも世界では核兵器の開発がすすみました。

地球が何度も破滅してしまうほど大量の核兵器を人類が所有した後で、戦争がどのような事態を招くかについては、政治家や軍人だけでなく一般の民衆も真剣に考えねばならない時期に来ていると思われます。

(2016年11月22日。青い字の箇所を改訂し、題名に〈改訂版〉を追加)

 

「ブログ記事・タイトル一覧」のページにⅥとⅦを掲載

 

ブログの記事が増えましたので、「ブログ記事」タイトル一覧Ⅵ(2014年7月1日 ~12月3日)とタイトル一覧Ⅶ(2014年12月3日~)を、「ブログ記事・タイトル一覧」(物件)に掲載しました。

リンク→「ブログ記事」タイトル一覧Ⅶ(2014年12月3日 ~)

〈子や孫を 白蟻とさせるな わが世代〉

%e7%99%bd%e8%9f%bb(イエシロアリ、図版は「ウィキペディア」より)

昨日、若者に向けたスローガン風のメッセージをアップしました。

一方、「特定秘密保護法」が正規式に施行される以前の11月末に「法律事務所員などを名乗る複数の男から『あなたは国家秘密を漏らした。法律違反で警察に拘束される。金を出せば何事もなかったようにする』などと電話で脅された女性が、2500万円をだまし取られたという事件が発生していました(「東京新聞」、11月23日)。

私もすでに年金をもらう年齢になりましたが、同世代の中には成人に達した孫がいる人もいます。それゆえ、子や孫たちの世代を戦前のような悲惨な目に遭わせないためにも、〈「オレ、オレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』〉のシリーズをもう少し続けることで、被害者の数が増えないようにしたいと思います。

少し大げさに言えば、それが司馬遼太郎氏の作品から比較文明学的な視野の重要性を学んだ研究者としての私の責務だと考えています。

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第一次世界大戦中の1916年に発行された『大正の青年と帝国の前途』で若者たちに「白蟻」の勇気をまねるように諭した徳富蘇峰は、敗色が濃厚となった1945年には「尊皇攘夷」を主張した「神風連の乱」を高く評価していしました。

このことを思い起こすならば、平成の若者を子や孫に持つ世代は、戦前の価値観や旧日本軍の「徹底した人命軽視の思想」を受け継いでおり、十分な議論もなく「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」を閣議決定した安倍政権にNOを突きつけねばならないでしょう。

(2017年1月7日、図版と蘇峰の文章を追加)

〈若者よ 白蟻とならぬ 意思示せ〉

%e7%99%bd%e8%9f%bb (イエシロアリ、図版は「ウィキペディア」より)

『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』に収められた安倍首相との対談で百田尚樹氏は、映画も近く封切られるので『永遠の0(ゼロ)』は「四百万部近くいくのではないかと言われています」と語っていました(64頁)。

興味深いのは、小説『永遠の0(ゼロ)』の主要登場人物の武田が賛美している思想家の徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』の発行部数は当時としては異例の約100万部にのぼっていたことです。権力者に媚びてその意向を反映するような著書は大ヒットすることがこの二つの書の売れ行きからも分かります。

問題なのは徳富蘇峰がここで、白蟻の穴の前に硫化銅塊を置いても、蟻が「先頭から順次に其中に飛び込み」、その死骸で硫化銅塊を埋め尽し、こうして「後隊の蟻は、先隊の死骸を乗り越え、静々と其の目的を遂げたり」として、集団のためには自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを讃えて、「我が旅順の攻撃も、蟻群の此の振舞に対しては、顔色なきが如し」と記していたことです(『大正の青年と帝国の前途』筑摩書房、一九七八年、三二〇頁)。

このことを思い起こすならば、「人間」としての尊厳を奪い「白蟻」とするような政権に対して、平成の若者はきちんとNOを突きつけねばならないでしょう。

(2017年1月7日、図版と蘇峰の文章を追加)

『永遠の0(ゼロ)』と「尊皇攘夷思想」

百田尚樹氏は小説『永遠の0(ゼロ)』の第9章で元特攻隊員だった武田に、新聞記者の髙山を「報国だとか忠孝だとかいう言葉にだまされるな」と怒鳴りつけさせ、「私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だと思っている」と決めつけさせて次のように語らせていました。

「日露戦争が終わって、ポーツマス講和会議が開かれたが、講和条件をめぐって、多くの新聞社が怒りを表明した。こんな条件が呑めるかと、紙面を使って論陣を張った。国民の多くは新聞社に煽られ、全国各地で反政府暴動が起こった…中略…反戦を主張したのは德富蘇峰の国民新聞くらいだった。その国民新聞もまた焼き討ちされた。」(太字引用者)

しかし、すでに記したようにそれは「大嘘」で、『蘇峰自伝』によれば蘇峰は、「予の行動は、今詳しく語るわけには行かぬ」としながらも、戦時中には戦争を遂行していた桂内閣の後援をして「全国の新聞、雑誌に対し」、内閣の政策の正しさを宣伝することに努めていたのです。

リンク→宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠の0(ゼロ)』(2)

それゆえ、戦争の状況を「国民」に正しく知らせないまま、戦争を煽っていた『国民新聞』は、政府の「御用新聞」とみなされて焼き討ちされていたのです。

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第一次世界大戦中の1916年(大正5年)に発行された『大正の青年と帝国の前途』の発行部数は当時としては異例の約100万部にのぼったのですが、そこで蘇峰は白蟻の穴の前に危険な硫化銅塊を置いても「先頭から順次に」その中に飛び込み、「後隊の蟻は、先隊の死骸を乗り越え、静々と其の目的を遂げたり」として、自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを褒め称えていたのです。

徳富蘇峰は、父の師で伯父にもあたる新政府の高官・横井小楠が明治2年に「専ら洋風を模擬し、神州の国体」を汚したとして暗殺され、そのような国粋主義に対する反発もあり、神風連の乱が起きた明治9年には熊本でのキリスト教への誓いに最年少で参加していました。

しかし、敗色が濃厚になった「大東亜戦争」の末期の一九四五年に最も激しく「神風」の精神を讃えたのが同じ蘇峰だったのです。

すなわち、『近世日本国民史』の「西南の役(二)――神風連の事変史」で蘇峰は、「神祇を尊崇し、国体を維持し」、「我が神聖固有の道を信じ、被髪・脱刀等の醜態、決して致しまじく」との誓約の下に団結して立ちあがった「神風連の一挙」を、「日本が欧米化に対する一大抗議であった」とし、「大東亜聖戦の開始以来、わが国民は再び尊皇攘夷の真意義を玩味するを得た」とし、「この意味から見れば、彼らは頑冥・固陋でなく、むしろ先見の明ありしといわねばならぬ」と高く評価したのです(太字引用者)。

リンク→『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』(東海教育研究所、2005年)

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「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(1)

日本では「孫」と名乗る人物からの電話でありもしない事実を伝えられると「祖父や祖母」の世代が簡単に信じてしまうという「オレオレ詐欺」が今も多発しています。

そのことを不思議に思っていた私は、語り手の「ぼく」とその姉が「自分のルーツ」を求めて主人公・宮部久蔵についての取材を重ねるうちに、「臆病者」とされた祖父の美しい家族愛や「カミカゼ」特攻隊員たちの実像を知ることになる『永遠の0(ゼロ)』を読み終えた後では、この小説の構造が「オレ、オレ詐欺」の構造ときわめて似ているという印象を受けました。

なぜならば、「オレオレ詐欺」も初期には一人が「孫」になりすまして、どうしても今、金がほしいという理由を語っていたのですが、その後、大規模な劇場型のものが現れ、何人もの人間が「孫」や「被害者」、「警察官」などの役を演じ分けて壮大な「物語」を作り上げ、相手を信じ込ませるようになってきているからです。

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(振り込め詐欺 撲滅キャンペーン  巣鴨信用金庫。図版は「ウィキペディア」より)

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小説の発端は前回の記事「宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠の0(ゼロ)』(2)」でも記したように、語り手の「ぼく」が「戦争体験者の証言を集めた本」を出版する新聞社のプロジェクトのスタッフに採用された「姉」を手伝うことになるところから始まります。

こうして、特攻隊員として死んだ実の祖父のことを知る「当時の戦友たち」をたずねて話を聞く中で、新聞記者・高山の影響もあり特攻隊員のことを「狂信的な愛国者」と思っていた「姉」の考えが次第に変わり、恵まれた境遇にいる新聞記者の高山ではなく、祖父・大石賢一郎の事務所でアルバイトをしながら司法試験を目指していた藤木秀一との真の愛に目覚めるたようになっていく過程が描かれているのです。

小説の構造を詳しく分析するたけの時間的な余裕がありませんので、ここでは講談社文庫によって『永遠の0(ゼロ)』の構成をまず示しておきます。

「プロローグ/ 第1章 亡霊       11頁/ 第2章 臆病者           27頁/ 第3章 真珠湾           55頁/ 第4章 ラバウル         122頁/ 第5章 ガダルカナル     194頁/ 第6章 ヌード写真       256頁/ 第7章 狂気             299頁/ 第8章 桜花(おうか)  376頁/ 第9章 カミカゼアタック  415頁/ 第10章 阿修羅          452頁/ 第11章 最後            503頁/ 第12章 流星            531頁/ エピローグ」

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この小説の第9章「カミカゼアタック」ではプロジェクトの企画者である新聞記者の高山が、「一部上場企業の社長まで務めた」元海軍中尉の武田貴則からその平和思想を批判され、「帰ってくれたまえ」と言われてすごすごと退散する場面が描かれています。

ただ、新聞記者の高山隆司との対決で、武田貴則の方に分があるように見えるのは、それまでの小説の流れで最初は誠実そうに見えていた新聞記者・高山の軽薄さに対する読者の反発が生まれるような構造になっているためだと思われます。

たとえば、第7章「狂気」で百田氏は戦時中に小学校の同級生の女性と結婚した特攻兵の谷川に、戦場で命を賭けて戦っていた自分たちと、日本国内で暮らしていた住民を比較して、次のような激しい怒りの言葉を吐かせています。

すなわち、「戦争が終わって村に帰ると、村の人々のわしを見る目が変わっていた。」と語った谷川は、「昨日まで『鬼畜米英』と言っていた連中は一転して『アメリカ万歳』と言っていた。村の英雄だったわしは村の疫病神になっていたのだ。」と続けていたのです。

ここには現実認識の間違いや論理のすり替えがあり、「一億玉砕」が叫ばれた日本の国内でも、学生や主婦に竹槍の訓練が行われ、大空襲に襲われながら生活し、また「鬼畜米英」というような「憎悪表現」を好んで用いていたのは、戦争を煽っていた人たちで一般の国民はそのような表現に違和感を覚えながら、処罰を恐れて黙って従っていたと思われます。

映画《少年H》でも描かれていたように、戦後になると一転して「アメリカ万歳」と言い始めたのも庶民ではなく、「時流」を見るのに敏感な政治家たちだったのです。

しかし、百田氏は谷川に「戦後の民主主義と繁栄は、日本人から『道徳』を奪った――と思う。/ 今、街には、自分さえよければいいという人間たちが溢れている。六十年前はそうではなかった」と語らせているのです。

宮崎監督の「神話の捏造」という批判に対して、百田氏は「私は徹底して戦争を、特攻を否定している」と反論していましたが、三百万以上の自国民を死に至らしめただけでなく、韓国を併合し、満州を植民地化してアメリカ、イギリス、オランダ、中国などと戦争することになる当時の「道徳」を百田氏は賛美していたのです。

*   *

ゆっくりと分析すると面白いのですが、最大の山場である第9章に至るまでには、この小説には様々な伏線が引かれており、「海軍一の臆病者」、「何よりも命を惜しむ男だった」と非難された祖父が、「家族への深い愛」と奇跡的な操縦術を持つ勇敢なパイロットであったことが関係者への取材をとおして次第に明らかになるという「家族の物語」的な構造を持っています。

しかし、その一方で新聞記者の高山には、戦争への批判を封じた「新聞紙条例」や「讒謗律」など一連の法律に言及して反論する機会は与えられていません。

「ぼく」の姉の慶子もフリーライターとはいえ30歳という年齢を考えれば、戦争や当時の状況についてのかなりの知識をもっているはずなのですが、かつての「特攻隊員」たちの言葉から衝撃を受け、「表情を曇らせ」涙を流すだけで、自分が引き受けた仕事を投げ出して弟に任せるようになったと描かれているのです。

それらの箇所を読んだ後では、最初は誠実そうに見えるが次第にその軽薄さが明らかになる新聞記者の高山という人物は、実は「オレオレ詐欺」のヒール(悪役)を演じる人物であり、姉の慶子もその助手をしているように思われました。

なぜならば、新聞記者の高山の「カミカゼ」観を批判するための根拠として百田氏が第9章で武田貴則に徳富蘇峰の歴史観に言及させていたからです。

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以前に書いたブログ記事では自分が宣伝したい「人物」の「正しさ」を強調するために、それに反対する人物やグループを徹底的にけなし追い詰めるという『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック)で用いられていた手法が、今回のノンフィクション『殉愛』の手法と似ていることを指摘しました。

リンク→百田尚樹氏の『殉愛』と安倍首相の「愛国」の手法

主人公の「美談」が描かれているとされたノンフィクション『殉愛』(幻冬舎)については、記述とは異なる多くの写真がウェブ上に流れ、また屋鋪氏の実の娘にも裁判で訴えられたことで、その「事実性」に疑問が生じ、返金を求める多くの書き込みがされています。

偽りの物語で多くの読者や観客の涙を誘った『永遠の0(ゼロ)』は、400万部以上も売れたとされていますが、その最大の宣伝者である安倍氏に対しても返金を求めるべきでしょう。その前にまずは総選挙で意思を表示したいものです。

*   *

「忠君愛国」の思想の重要性を唱えるようになった蘇峰は、『大正の青年と帝国の前途』において自分の生命をも顧みない「白蟻」の勇敢さをたたえていたことについてはブログでもすでに記しました。

しかし、その記述だけではわかりにくいと思われますので、次回はもう少し深く『永遠の0(ゼロ)』と蘇峰の「尊皇攘夷思想」との関わりを分析することにします。

(2016年11月18日、図版を追加)

 

「集団的自衛権」と『永遠の0(ゼロ)』

「集団的自衛権」を閣議決定した安倍首相は、百田氏との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック株式会社、2013年)に収められた対談で、映画《永遠の0(ゼロ)》について次のように語っていました。

百田氏:映画が公開されて大ヒットしたら、どうせまた中国や韓国が『右翼映画』だとかなんとか言ってイチャモンつけてくると思います。

安倍首相:本をきちんと読めば、そのような印象を受けることはないと思いますね。

*   *

しかし、映画《永遠の0(ゼロ)》について「ウィキペディア」で調べたところ、中国や韓国だけでなくアメリカからも厳しい批判が出ていたことが分かりました。

〈アメリカ海軍の関連団体アメリカ海軍協会(英語版)は、2014年4月14日付の記事「Through Japanese Eyes: World War II in Japanese Cinema(日本人の目に映る『映画の中の第二次世界大戦』)」の中で本作の好評を危険視し、最近の日本の戦争映画について「戦争の起因を説明せず、日本を侵略者ではなく被害者として描写する」「修正主義であり、戦争犯罪によって処刑される日本のリーダーを、キリストのような殉教者だと主張している」と批判した。〉

*   *

百田氏の原作に基づくこの映画がこのように厳しい糾弾を受けるようになることは、「9.11同時多発テロ」に対するブッシュ政権の反応を考えれば、たやすく予想できたはずなのです。

これについても、拙著よりその箇所を引用しておきます。

「同時多発テロ」が発生した時も、アメリカの幾つかの報道機関では「自爆テロ」の問題を、日本軍による真珠湾の奇襲攻撃や「神風特攻隊」と重ねて論じ、日米開戦日前日の一二月六日にはラムズフェルド国防長官が「明日は二〇〇〇人以上の米国人が殺された急襲記念日だ」と発言し、「対テロ戦を行う上で、あの教訓を思い出すのは正しい」と強調した。

このような政府首脳の発言もあり、新聞も「タリバーンは旧日本軍と同じ狂信集団。核兵器の使用を我慢しなければならない理由は何もない」などという論評を相次いで載せ、「世論調査会社が調べると、五四パーセントが『対テロ戦争に核兵器は有効』と答えた」のである*26。

リンク→『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、2002年)

4877039090

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繰り返すことになりますが、安倍政権は「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」の危険性を隠したままで選挙に踏み切りました。

近隣諸国だけでなくアメリカとの関係も悪化させる可能性が高い危険な書物『永遠の0(ゼロ)』を絶賛している安倍首相が率いる政権には選挙でNOと言わねばなりません。