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11月

百田尚樹氏の『殉愛』と安倍首相の「殉国」の思想

作家でNHK経営委員でもある百田尚樹氏の名前を私が最初に意識したのは、衆議院議員だった土井たか子氏が2014年9月20日に死去したとの報道がなされた後で、氏がツイッターで故人の土井氏を「売国奴」と罵ったことが報じられた際でした。

今回、NHKの経営委員紹介のページを調べると、2013年の11月に経営委員に就任した際には、「公共放送として、視聴者のために素晴らしい番組を提供できる環境とシステムを作ることにベストを尽くしたいと思っています」との抱負を述べていたことが分かりました。

「衆議院」の議長も勤めた故人をNHKの「放送倫理基本綱領」にも反すると思われる用語でいう一方的に罵る人物が、どのようにしてNHKの経営委員に選ばれたのでしょうか。その後、共著を発行したワックという出版社から出版された雑誌『WiLL』に書かれた次のような記事の裁判の判決が見つかりました(「ウィキペディア」)。

〈雑誌『WiLL』(2006年5月号)に「社民党(旧社会党)元党首の土井たか子を「本名『李高順』、半島出身とされる」と記述し、慰謝料1000万円と謝罪広告の請求訴訟を起こされる。2008年11月13日、神戸地裁尼崎支部は「明らかな虚偽」として『WiLL』に200万円の賠償を命じた。この判決は最高裁で確定している。〉

『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』を発行したのが、雑誌『WiLL』を発行しているワックであることにも注目するならば、NHKの経営委員に選ばれた百田氏がこのような発言をしたのは共著者である安倍首相の権力を背景に、最高裁での判定に意趣返しをしたようにも見えてきます。

さらに、衆議院議長をも勤めた土井たか子氏の「死」が大きく報道された際に、ツイッターでこのような発信をしたのは、その「死」をも利用して自分の存在を政権や有権者に誇示しようとしていたのではないかという「いかがわしさ」も感じます。

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先のブログ記事〈 政府与党の「報道への圧力」とNHK問題〉では書き忘れていましたが、安倍政権が復活してから、NHKのニュース番組で取り上げられる回数が増えたばかりでなく、安倍首相の顔がクローズアップされるなど、番組の「公平性」に問題があると思われるような状況が生まれています。

一方、著名人「やしきたかじん」氏と昨年、再婚した妻との「純愛」とその「死」を看取るまでの「美談」を描いた百田尚樹氏のノンフィクション『殉愛』(幻冬舎)が出版される際には、その著作を民放の各局が大々的に取り上げるという事態が起きました。

NHK経営委員の百田氏の著作の宣伝方法には、「首相」という肩書きを用いて自分の見解を反映させるという安倍首相と同じ手法が用いられているように感じます。

*   *

一般の広告だけでなく民放の番組でも「美談」が大々的に報じられたことで、百万部は確実に超えると思われたノンフィクション『殉愛』は、思わぬ所から破綻をきたします。

すでに報道されているように、記載された「事実」とは異なる多くの証拠の写真がウェブ上に流れているだけでなく、屋鋪氏の実の娘にも裁判に訴えられたことで、その「事実性」に疑問が突きつけられたのです。

この記事を書くために著書を買い求めて読んでいますが、読み始めてすぐに感じたのは、どっかで読んだことがあるというデジャブ感です。むろん、様々な記事が出ていますのでそのためもあるのですが、一番の大きな理由は自分が宣伝したい「人物」の「正しさ」を強調するために、それに反対する人物やグループを徹底的にけなし追い詰めるという『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック)で用いられていた手法にあると思われます。

『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック)では「売国」などという「憎悪表現」と思われる用語が、民主党という政党や私たちがほとんど接する機会のない政治家に対して投げかけられていました。それゆえ、テーマと範囲が広すぎてわかりにくかったのですが、「家族」の物語を描いたこのノンフィクション『殉愛』(幻冬舎)では、登場人物も多くないためにその構図が分かりやすいのです。

*   *

様々なサイトで紹介されているので具体的な内容には踏み込みませんが、改めて感じたのは百田という人物は、分かりやすく「美しい物語」を創作し、それを宣伝する能力には長けているようだが、「人の「死」や「命」の尊厳をきちんと感じることが出来ない、自分の立身出世のみに関心がある作家だろうということです。

それと全く同じことが「身内」と「お友達」のみを重視する共著者の安倍首相にも当てはまるのではないでしょうか。

安倍氏には過去の「歴史」を美しい物語に創り変え、それを宣伝する能力には長けていても、夫や子供を失った「国民」の苦しさや哀しみ、そして現在の状況に耐えている民衆の痛みをきちんと感じることが出来ない政治家だろうということです。

今度の総選挙では、「国民」が「臣民」とさせられて、「羊」のように戦場へと送られた戦前の歴史を「取り戻させない」ためにも、重要な一票を投じたいと考えています。

追記:「百田尚樹氏の「ノンフィクション」観と安倍政治のフィクション性」という記事を書くなかで百田氏の『殉愛』という題名には、「国家」のためには「国民の生命や財産」を犠牲にしてもかまわないとして「戦前」を美化する安倍晋三氏の思想へのおもねりがあると強く感じました。

それゆえ、〈百田尚樹氏の『殉愛』と安倍首相の「愛国」の手法〉を、〈百田尚樹氏の『殉愛』と安倍首相の「殉国」の思想〉に改題します。

リンク→憲法96条の改正と「臣民」への転落――『坂の上の雲』と『戦争と平和』

リンク→百田尚樹氏の「ノンフィクション」観と安倍政治のフィクション性

(2016年3月9日。〈百田尚樹氏の『殉愛』と安倍首相の「愛国」の手法〉より改題し、青い字の箇所とリンク先を追加) 

『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』における「憎悪表現」

宮崎駿監督の映画《風立ちぬ》論をこのブログに書いた後で、映画通の方から百田尚樹氏の原作による映画《永遠の0(ゼロ)》との比較をしてはどうかと勧められていました。

しかし、ウェブ上には原作の『永遠の0(ゼロ)』が浅田次郎氏の『壬生義士伝』と坂井三郎氏の『大空のサムライ』のパクリとか、コピペの箇所も多いとの指摘が少なくなかったので、映画を見ないままに今日に至っていました。

ノーベル賞候補とまで騒がれたSTAP細胞の論文におけるコピペ問題はまだ記憶に新しいのですが、人文系の分野でもコピペの問題は指摘されており、引用文献と参考文献とは重みが異なるので、引用したならばその箇所をきちんと明記すべきでしょう。

そのようなこともあり、いくつかの話題となった事柄以外は百田尚樹という作家についてはほとんど知らなかったのですが、前回のブログ記事「政府与党の報道への圧力とNHK問題」に関連して調べたところ、安倍首相との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック株式会社、2013年)があることが分かりました。

これまでこの著書に気づかなかったのは迂闊(うかつ)だったと思いますが、安倍氏が総理に再就任した翌年の12月27日に出版された本書からは、今回の総選挙の手法の問題点も浮かび上がってきます。

*   *

ようやく読み終わった段階ですが、次のような目次からは新たに総理として選ばれることになる安倍氏の政治的な抱負と放送作家・百田氏の著作の宣伝とが非常に上手に組み合わされていることが感じられます。

第1章 取り戻すべき日本とは何か

第2章 『永遠の0(ゼロ)』の時代、

『海賊とよばれた男』の時代

第3章 「安倍晋三 再登板待望論」に初めて答える

第4章 安倍総理大臣で、再び日本は立ち上がる

  • さらば! 売国民主党政権
  • 百田尚樹 特別書き下ろし「安倍晋三論」

第5章 安倍総理大臣、熱き想いを語る ──日本をもう一歩前に

勇ましい文章が並んでいますが、政治の素人である私が目次を見て驚愕したのは、百田氏が書いた「第4章 安倍総理大臣で、再び日本は立ち上がる」には、「さらば! 売国民主党政権」という記述があることです。

それまで政権を担っていた政党に対して「売国」という、誹謗・中傷の域に達した形容詞を付けることは許されないと思われるのですが、安倍総理も当然、見て校正も行っていると思われるこの共著では、そのような過激な項目があるだけでなく、対話のなかでもしばしばそれに類した言葉が百田氏から発せられているのです。

本の内容紹介によれば、「小説を通して多くの読者に『日本の素晴らしさ』『日本人の美しさ』を伝えてきた百田尚樹。百田作品から国の命運を思い続けた安倍総理。月刊誌『WiLL』に掲載されたふたりの対談や日本再生論を書籍化」とあります。 このような二人の深い関係やその後の経過から判断すると、国際的にも大きな問題となった日本におけるヘイトスピーチ(「憎悪表現」「憎悪宣伝」「差別的表現」「差別表現」などと訳される)の発端の一因が総理と放送作家がタッグを組んで出版したこの著に記された「憎悪宣伝」にあるのではないかとさえ思われてきます。

*   *

実は、自分の思想とは対立する考えの持ち主やそのグループを「売国奴」などの用語で非難して、追い落とし自分たちが権力を握ろうとする傾向は、「尊皇攘夷思想」が強かった幕末の日本でも目立っていました。

それゆえ、 『竜馬がゆく』において幕末の「攘夷運動」を詳しく描いた司馬氏は、その頃の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となったと指摘し、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と痛烈に批判して、現代にも受け継がれている「神国思想」の危険性を指摘していたのです( 『竜馬がゆく』第2巻、「勝海舟」)。リンク→『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』(人文書館、2009年)

問題は鉄道などの運転手が事故を起こせば厳しく罰せられるにもかかわらず、「国策」として行われた「戦争」を指導した軍人や政治家、高級官僚がその罪をほとんど問われず、その被害の重みを「国民」が一方的に背負わされることになったことです。

同じことは東京電力・福島第一原子力発電所の大事故の際にも起きました。東京電力の幹部社員だけでなく、推進した議員と官僚、さらにはそれを大々的に広告した会社などの責任は問われることはなく、「絶対安全」だという言葉を信じていた多くの住民が今も「原発事故の避難民」として苦しい生活を余儀なくされているのです。

*   *

安倍首相と百田尚樹氏の共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』を読んで気づいたことの一つは、「愛国心」や「モラル」の必要性が強く唱えられる一方で、戦争を起こした者や原発事故を引き起こした者たちの責任には全く言及されていないことです。

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この共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』には安倍政権の問題点が集約されているように思われますので、これからも分析していきたいと思います。

ここで確認しておきたいのは、この書で安倍氏が賞賛している『永遠の0(ゼロ)』におけるコピペの問題に関連して、「方々で言ってることやけど、『永遠の0』は、浅田次郎先生の名作『壬生義士伝』のオマージュである」との2012年6月29日付けの百田氏の弁明がウェブ上のツイッターに載っていることです。

しかし、日本ペンクラブ会長でもある浅田次郎氏は、「特定秘密保護法案」や「集団的自衛権」などの決定の方法について、「これら民主的な手順をまったく踏まない首相の政治手法は非常識であり、私たちはとうてい認めることはできない」と厳しく批判しているのです(日本ペンクラブ・ホームページ)。 『永遠の0(ゼロ)』という小説が安倍氏の政治手法を厳しく批判している浅田氏の著作の「オマージュ」という説明は、苦し紛れの言い訳のようにしか聞こえてきません。

*   *

この問題の根は深いので、次回は〈百田尚樹氏の『殉愛』と安倍晋三氏の「愛国」の手法〉という題で、ノンフィクションとフィクションの問題をとおして安倍首相の政治手法の問題を考え、最後に映画《永遠のゼロ》の原作を厳しく批判した宮崎駿監督の言葉をとおして、イデオロギー(正義の大系)を厳しく批判した司馬遼太郎氏の言葉の重みを再考察したいと思います。

(2019年1月5日、加筆、2024/05/06、加筆)

政府与党の「報道への圧力」とNHK問題

先のブログ記事をまだ書き終わらないときに、「自民党が衆院解散の前日、選挙期間中の報道の公平性を確保し、出演者やテーマなど内容にも配慮するよう求める文書を、在京テレビ各局に渡していたこと」を報じる記事が今朝の「東京新聞」朝刊だけでなく、「日刊ゲンダイ」のデジタル版にも載っていたことが分かりました。

この問題について「東京新聞」は、「報道の自由への不当な介入や圧力といえる対応だ。『公平』と繰り返す文書の内容からは、安倍政権が報道機関による批判報道におびえていることがうかがえる」との立教大の服部孝章教授(メディア法)のコメントを掲載するとともに、夕刊には菅義偉官房長官が28日の記者会見で「政党の立場からすれば、不公平なことがされないよう行動することも重要ではないか」と文書に理解を示したことが記されています。

一方、「日刊ゲンダイ」のデジタル版は「選挙報道に露骨な注文…安倍自民党がテレビ局に“圧力文書”」との見出しで、この文書の〈文中には「公平中立」「公平」が13回も繰り返されている〉ことを指摘して、「要するに自民党に不利な放送をするなという恫喝だ」と指摘し、「まさに言論の封殺だ」と続けた後で、政治評論家・森田実氏の次のようなコメントを紹介しています。

「自民党がこんな要望書を出したのは初めてでしょう。萩生田氏は党副幹事長のほかに総裁特別補佐を務める政権の中心メンバー。その幹部が自民党には『自由』も『民主主義』も存在しないことを宣言した。実に恥ずべき行為です。」

「公平性」を求めるならば自民党は、会長の籾井勝人氏を始め百田尚樹・経営委員など明らかに「公平」を欠くと思われる問題発言を繰り返している方々を安倍首相の「お仲間」として優遇しているNHKの問題を解決してから、民間に対する「報道の公平」を求める声明を出すべきだったでしょう。

リンク→「特定秘密保護法案」と明治八年の「新聞紙条例」(讒謗律)

「政府与党の選挙干渉とNHK問題」より改題

 

「寝ていろ」的な手法と「違憲状態」判決

今回の総選挙は、原発事故の問題だけでなく、「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」などの国会で十分な議論が尽されるべき重要な法案を、閣議で決定したことの是非がまず問われるべきにもかかわらず、「消費税の延長」の是非という聞こえのよい名目で行われます。

しかも、「国民」に十分な考える余裕を与えないままで行われる今回の「姑息」な選挙の方法は、2000年6月の総選挙に際して「まだ決めていないという人が40%いる。こういう人たちが寝てしまってくれれば、それでいいんだが」(「NIKKEI NET」)と語った森元首相の発言を思い起こさせます。

「寝てしまってくれれば」という森元首相の発言にはまだ、首相の個人的な「希望」というニュアンスがありましたが、今回の安倍首相とそのブレーンの手法からは、「命令」的なニュアンスが強く感じられます。

「一票の格差」が最大2・43倍だった衆議院選挙に対しては最高裁が2012年に「違憲状態」との判決を出していましたが、昨日の「東京新聞」は、「昨年七月の参院選を最高裁は『違憲状態』と断じた。一票の格差が最大四・七七倍もあったからだ。司法は選挙制度の抜本是正を促しており、怠慢な国会の姿勢こそ、厳しく問われるべきである」との社説を掲載しています。

「違憲状態」のままで、「争点」を隠して行われる今回の総選挙に際しては、眼(まなこ)をしっかりと開けて強圧的な「安倍政権」の問題点を見極めねばならないと思います。

リンク→ 総選挙と「争点」の隠蔽

 

アベノミクス(経済至上主義)の問題点(1)――株価と年金

経済学の専門家でない私が消費税の問題を論じても説得力は少ないだろうとの思いは強いのですが、この問題は「国民」の生活や生命にも重大な影響を及ぼすと思えますので、今回は年金の問題に絞って、次回は司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』にも言及しながら武器の輸出入の問題を扱うことで、私が経済至上主義と捉えているアベノミクスの問題点を考察してみたいと思います。

*   *   *

株価の操作と年金問題

今回の衆議院の解散に際して、安倍首相は「消費税の10%に上げることを17年4月まで先送りにする」ことの是非を問うために総選挙を行うと説明したと伝えられています。

しかし、2014年4月に消費税が5%から8%に増税される際には「社会福祉財源の充実と安定化」が謳われ、具体的には消費税の増税分は「年金・医療・介護・少子化対策などの社会福祉」にあてると説明されていました。

問題は、最近になって株価が値下がりを始めると、「株価に敏感な安倍政権は成長戦略に本腰を入れ、6月13日には安倍首相自らが経済財政諮問会議で法人税を『数年内に20%台に引き下げる』と明言」しただけでなく、さらに、127兆円規模の公的年金を運用する世界最大級の機関投資家である年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が、年金の運用額を引き上げるという改革案を打ち出したことです。

この「改革」については、「GPIF改革が年金を破壊? 巨額損失の危険も 株価対策に年金を利用という愚策」という題名の『Business Journal』7月2日の記事で松井克明氏が、「週刊ダイヤモンド」(ダイヤモンド社/6月21日号)の『寄稿 GPIF改革四つの誤り 政治介入で運用は崩壊する』という記事では前GPIF運用委員の小幡績慶應義塾大学ビジネススクール准教授が、「GPIF改革は株価操作の道具ではない。年金の長期運用を改善するための100年の計の改革であり、それ以上でもそれ以下でもなく、これは年金運用への政治介入であり、長期的に運用環境を破壊し、大きな損失をもたらす」と警鐘を鳴らし、さらに、臼杵政治名古屋市立大学教授が「経済政策のために公的年金が自国株式への投資を拡大した例も耳にしたことがない」、「経済活性化を目的とした日本株投資の増額は(略)欧米の年金基金の常識でもある『加入者の利益のための運用』に合致するのか疑問である」と、「日経ヴェリタス」(日本経済新聞社/6月15日~21日号)に批判的な記事を載せていることを紹介して、こう結んでいます。「普段は株式投資に前のめり論調の日経や「ダイヤモンド」ですらも疑問を投げかけているのが、現在の政府主導のGPIF改革なのだ」。

昔から「素人は相場には手を出すな」という格言がありますが、株の素人の私から見ると現政権全体が「相場師」化しているような感じさえ受け、「消費税の増税」の是非を問うという説明は単なる口実のように見えます。

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リンク先

アベノミクス(経済至上主義)の問題点(2)――原発の推進と兵器の輸出入

「欲しがりません勝つまでは」と「景気回復、この道しかない。」

「アベノミクス」とルージンの経済理論(ルージンは『罪と罰』に出て来る利己的な悪徳弁護士)

(12月3日。以前の題名「アベノミクス(経済至上主義)と消費税の増税」より改題。2016年6月22日、リンク先を追加)

「電子文藝館に寄稿した論考」のリンク先を掲載

 

「日本ペンクラブ電子文藝館」に寄稿した論考のリンク先が見つけにくいとのご指摘がありましたので、下記に示します。

なお、「主な研究活動」タイトル一覧のⅠとⅡにも常時、掲載するようにしました。

 

リンク先→「主な研究(活動)」タイトル一覧

「主な研究(活動)」タイトル一覧Ⅱ   

 

 司馬遼太郎の教育観  ――『ひとびとの跫音』における大正時代の考察2006/12/12

 戦争と文学――自己と他者の認識に向けて(2005/11/04)

司馬遼太郎の夏目漱石観  ――比較の重要性の認識をめぐって(2004/03/10)

映画《七人の侍》と映画《もののけ姫》

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(東宝製作・配給、1954年、図版は「ウィキペディア」より)、(《もののけ姫》、図版は「Facebook」より)。

 

2014年10月24日のブログ記事で、『七人の侍』誕生60周年を記念し、黒澤明監督の作品全30本を上映する「黒澤明映画祭」が、大阪・九条のシネ・ヌーヴォで8週間にわたって開催されるとの情報を掲載しました。リンク→「シネ・ヌーヴォ」で「黒澤明映画祭」が開催

その後、11月に宮崎駿監督がアメリカ・アカデミー賞の第87回名誉賞を受賞したとの朗報が入ってきました。これは1989年に黒澤明監督が第62回の名誉賞を日本人として初めて受賞したのに続く快挙です。

実は、黒澤明研究会でも『七人の侍』誕生60周年を記念した特集を組むとのことでしたので、「《七人の侍》と《もののけ姫》」と題した論文を投稿するつもりで半分ほど書き上げていました。

しかし、今年は映画《ゴジラ》の60周年でもあるため、原爆や原発の問題を扱った映画《夢》との深い関連を明らかにするために、急遽「映画《ゴジラ》から映画《夢》へ」という論文の執筆に切り替えました。

そのため「《七人の侍》と《もののけ姫》」について詳しい考察はいずれ機会を見て発表することにし、ここではかつて映画《もののけ姫》について書いた短い記事と、前著 『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、2011年)の一部を抜粋して紹介することで、宮崎駿監督が黒澤明監督から受け継いだこととその意味を簡単に考えて見ることにします。

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映画《もののけ姫》の現代的な意義については、地球環境の問題との関連で次のような短い記事を1997年に書きました。

「(前略)文明理論の授業で未来に対するイメージを質問したところ、多くの学生から悲観的な答えが帰って来て驚いたことがある。しかし、一二月に温暖化を防ぐ国際会議が京都で持たれるが、消費文明の結果として、一世紀後には海面の水位が九五センチも上がる危険性が指摘され、洪水の多発など様々な被害が発生し始めている。(中略) こうして、現代の若者たちを取り巻く環境は、きわめて厳しい。大和政権に追われたエミシ族のアシタカや人間に棄てられ山犬に育てられた少女サンの怒りや悲しみを、彼らは実感できるのだ。

『もののけ姫』には答えはない。だが、難問を真正面から提示し、圧倒的な自然の美しさや他者との出会いを描くことで、観客に「生きろ」と伝え得ている。」

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映画《七人の侍》が高く評価される一方で、映画《白痴》は日本ではあまり高い評価を受けていません。そのことについて長い間考えていた私は、日本においては強い影響力を持っている文芸評論家・小林秀雄が、「『白痴』についてⅡ」の第九章で、「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだろう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである」と断定していたことが大きいだろうと考えるようになりました。

しかも、「大地主義」を「穏健だが何等独創的なものもない思想であり、確固たる理論も持たぬ哲学であつた」とした小林は、「彼らの教義の明瞭な表象といふより寧ろ新雑誌の商標だつた」と続けていたのです。

しかし、拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2002年)に記したように、クリミア戦争の敗戦後にシベリアから首都に帰還して雑誌『時代』を創刊したドストエフスキーが、「貴族と民衆との和解」の必要性を強調して、「農奴の解放」や「言論の自由」、「農民への教育」などを訴えたのが「大地主義」だったのです。

「大地主義」との関連に注意を払うならば、長編小説『白痴』は貴族の横暴さや傲慢さを認識した名門貴族の主人公ムィシキンが遺産を得たことで、自分の非力さを知りつつも「貴族と民衆との和解」をなんとか行おうとし、激しい情熱を持ちつつもそのエネルギーを使う方向性を見いだせなかったロシアの商人ロゴージンに新しい可能性を示そうとしつつも、複雑な人間関係やレーベジェフの企みなどによって果たせず、ついに再び正気を失ってしまうという悲劇を描いているといえるでしょう。

このことに注目する時、黒澤映画《白痴》が舞台を敗戦直後の日本を舞台に主人公も復員兵とし、さらには長編小説の流れとは異なるシーンを描きつつも、クリミア戦争敗戦後の混乱した時代を舞台したドストエフスキーの長編小説『白痴』の本質を見事に映像化していたと思われます。

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「大地主義」に対する深い理解は1954年に公開された映画《七人の侍》(脚本・黒澤明、橋本忍、小國英雄)にも現れており、三船敏郎が演じた強いエネルギーを持つ農民出身の若者・菊千代はロゴージン的な役割を担っているといえるでしょう。

なぜならば、依頼者の百姓たちが落ち武者狩りをしていたことを知った浪人の勘兵衛たちは怒って去ろうとしたときに菊千代は、百姓たちに落ち武者狩りをさせたのは戦いや略奪を繰り返してきた侍だと叫んで、百姓たちの気持ちを代弁していたからです。

映画《七人の侍》は戦いに勝ったあとで、百姓たちが行っていた田植えの場面を大写しにしながら、勘兵衛に「いや……勝ったのは……あの百姓たちだ……俺たちではない」と語らせ、さらに「侍はな……この風のように、この大地の上を吹き捲って通り過ぎるだけだ……土は……何時までも残る……あの百姓たちも土と一緒に何時までも生きる!」と続けさせているのです。

宮崎駿監督は黒澤明監督との対談の後で、《七人の侍》が「日本の映画界に一つの基準線を作った」ことを認めて、「その時の経済情勢や政治情勢や人々の気持ちや、そういうもののなかで、まさにあの時代が生んだ作品でもある」と続けた後で、「今、自分たちが時代劇を作るとしたら、それを超えなきゃいけないんです」と結んでいました(黒澤明・宮崎駿『何が映画か 「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』徳間書店、1993年)。

この言葉はきついようにも見えますが、両者が同じように映画の創作に関わっていることを考えるならば、黒澤映画を踏まえつつ新しい作品を造り出すことこそが、黒澤明監督への深い敬意を現すことになるといえるでしょう。実際、宮崎監督は1997年にアニメ映画《もののけ姫》を公開することになるのです。

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残念ながら、現代の日本はまだ宮崎監督が映画《もののけ姫》で描いたような厳しい状況から抜け出ていません。しかし、現状を直視することによってのみ解決策は生まれると思います。

宮崎監督の最後の長編アニメ映画《風ちぬ》について記したブログには、今も多くの閲覧者の方が訪れられていますが、宮崎駿監督がアメリカ・アカデミー賞の名誉賞を受賞されたこの機会に、《もののけ姫》の源流の一つとなっている《七人の侍》だけでなく、多くの黒澤映画を鑑賞して頂きたいと願っています。

追記:映画《七人の侍》(1954年)にはドストエフスキーの作品からだけではなく、『戦争と平和』からの影響も見られ、一方、黒澤監督を敬愛したタルコフスキー監督の映画(映画《アンドレイ・ルブリョフ》には、《七人の侍》からの影響が見られます。

(2016年1月10日。誤記を訂正し、追記とポスターの図版を追加)

安倍政権と「報道」の問題

以前のブログにも記しましたが、執筆中の拙著『司馬遼太郎の視線(まなざし)――子規と「坂の上の雲」と』(仮題、人文書館)では新聞記者でもあった作家・司馬遼太郎氏が俳人・正岡子規の成長をどのように描き、子規の視線(まなざし)をとおして日露戦争をどのように分析しているかを考察しています。

子規との関連で新聞『日本』の性格についても調べているのですが、その中で強く感じるのは明治六年に設立された「内務省」や明治八年に制定されて厳しく言論を規制した「新聞紙条例」や「讒謗律(ざんぼうりつ)」によって言論が規制され、何度も発行停止などの厳しい処分を受けながら、言論人としての節を曲げずに、経済的に追い詰められながらも新聞を発行し続けた社主・陸羯南などの明治人の気概です。

いつ倒産するかも分からない新聞社に入社した正岡子規も給与が安いことを卑下することなく、むしろそのような新聞の記者であることを「誇り」として働いていたのです。

司馬氏は『坂の上の雲』の「あとがき」で、ニコライ二世の戴冠式に招かれて「ロシア宮廷の荘厳さ」に感激した山県有朋が日本の権力を握ったことが、昭和初期の「別国」につながったことも示唆していました。それは明治の人々が当時の「独裁政権」に抗してようやく勝ち取った「憲法」がないがしろにされることで、「国民」の状態が「憲法」のないロシア帝国の「臣民」に近づいたということだと思えます。

新聞記者だった司馬氏が長編小説『坂の上の雲』を書いた大きな理由は、冷厳な事実をきちんと調べて伝える「新聞報道」の重要性を示すためだったと私は考えています。

昨年の参議院選挙の頃にもそのようなことを強く思ってHPを立ち上げていたので、汚染水の流出と司馬氏の「報道」観について記したブログ記事を再掲し、その後で『日刊ゲンダイ』のデジタル版に掲載された〈朝日「吉田調書」誤報騒動のウラで東電が隠してきた“事実” 〉という記事を紹介することにします。

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 汚染水の流出と司馬氏の「報道」観(2013年7月28日 )

日本には「人の噂も75日」ということわざがあるが、最近になって発覚した事態からは、同じことが再び繰り返されているという感じを受ける。

参議院選挙後の22日になって放射能汚染水の流出が発表されたが、報道によれば「東電社長は3日前に把握」していたことが明らかになり、さらに27日には福島第一原発2号機のタービン建屋地下から延びるトレンチに、事故発生当時とほぼ同じ1リットル当たり計23億5000万ベクレルという高濃度の放射性セシウムが見つかったとの発表がなされた。

汚染水の流出の後では、この事実の隠蔽に関わった社長を含む責任者の処分が発表されたが、問題の根ははるかに深いだろう。

たとえば、参議院選挙を私は、「日本の国土を放射能から防ぐという気概があるか否か」が問われる重大な選挙だと考えていた。しかしほとんどのマスコミはこの問題に触れることを避けて、「衆議院と参議院のねじれ解消」が最大の争点との与党寄りの見方を繰り返して報道していた。

「臭い物には蓋(ふた)」ということわざもある日本では、「見たくない事実は、眼をつぶれば見えなくなる」かのごとき感覚が強く残っているが、事実は厳然としてそこにあり、眼をふたたび開ければ、その重たい事実と直面することになる。

このことを「文明論」的な視点から指摘していたのが、歴史小説家の司馬遼太郎氏であった。再び引用しておきたい(「樹木と人」『十六の話』)。

チェルノブイリでおきた原子炉事故の後で司馬氏は、「この事件は大気というものは地球を漂流していて、人類は一つである、一つの大気を共有している。さらにいえばその生命は他の生物と同様、もろいものだという思想を全世界に広く与えたと思います」と語っていた(傍線引用者)。

さらに司馬氏は、「平凡なことですが、人間というのはショックが与えられなければ、自分の思想が変わらないようにできているものです」と冷静に続けていた。

きれいな水に恵まれている日本には、過去のことは「水に流す」という価値観も昔からあり、この考えは日本の風土には適応しているようにも見える。

だが、広島と長崎に原爆が投下された後では、この日本的な価値観は変えねばならなかったと思える。なぜならば、放射能は「水に流す」ことはできないからだ。

チェルノブイリの原子力発電所は「石棺」に閉じ込めることによってなんとか収束したが、福島第一原子力発電所の事故は未だに収束とはほど遠い段階にあり、「海流というものは地球を漂流して」いる。

日本人が眼をつぶっていても、いずれ事実は明らかになる。(後略)

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 朝日「吉田調書」誤報騒動のウラで東電が隠してきた“事実” (日刊ゲンダイ)

「東電はまだまだ重要な事実を隠している」──あの未曽有の事故から3年8カ月。原発事故情報公開弁護団が1枚のファクスから新たな疑惑を発掘した。福島第1原発の2号機が危機的状況に陥っていた3月15日の朝、東電本店が姑息な隠蔽工作を行っていた疑いが浮き彫りとなった。

問題のファクスは、当日午前7時25分に福島第1原発の吉田昌郎所長が原子力安全・保安院に送信したものだ。現在も原子力規制委のホームページに公開されている。ファクスにはこう記されている。

〈6時~6時10分頃に大きな衝撃音がしました。準備ができ次第、念のため『対策本部』を福島第2へ移すこととし、避難いたします〉

今まで重要視されることのなかったファクスだが、きのうの会見で弁護団が突きつけた「新事実」は傾聴に値する。メンバーの海渡雄一氏はこう言った。

「『対策本部』自体を福島第2へ移すことは、第1に人員が残っていたとしても、彼らは対策の主力ではなくなる。まぎれもなく『撤退』だと考えられます」

■まぎれもなく「撤退」

となると、朝日新聞が「誤報」と認めた「吉田調書報道」に新たな解釈が生じる。朝日の第三者機関「報道と人権委員会(PRC)」は、当該記事が「撤退」と断定的に報じたことを問題視。今月12日に「『撤退』という言葉が意味する行動はなかった。第1原発には吉田所長ら69人が残っており、対策本部の機能は健在だった」とする見解をまとめ、「重大な誤りがあり、記事取り消しは妥当」と断じたが、いささか早計すぎたのではないか。

まず結論ありきで、「PRCは『撤退はなかった』と言い切るだけの根拠を調べ抜いたのか。重大な疑念が生じる」(海渡氏)と非難されても仕方ない。 問題にすべきは東電の隠蔽体質の方だ。当日午前8時30分に行われた本店の記者会見では、作業員650人の移動先を「第1原発の安全な場所」と発表。第2原発に移動した事実には一切触れなかった。

「吉田所長のファクスは『異常事態連絡様式』という公式な報告書で、本店が内容を把握していないわけがありません。『撤退』した事実の隠蔽を疑わざるを得ません」(海渡氏)

同じくメンバーで弁護士の小川隆太郎氏はこう話した。

「政府はまだ当日、現場にいた作業員ら771人分の調書を開示していない。今後、明らかにしていくべきです」

福島原発事故の真相はまだ闇に包まれたままだ。

         (2014年11月19日/『日刊ゲンダイ』/デジタル版)

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リンク先→

真実を語ったのは誰か――「日本ペンクラブ脱原発の集い」に参加して

原発事故の隠蔽と東京都知事選

復活した「時事公論」と「特定秘密保護法」

グラースノスチ(情報公開)とチェルノブイリ原発事故

 

総選挙と「争点」の隠蔽

年末が近づく中、衆議院が解散されて12月14日に総選挙が行われることになりましたが、昨日の「東京新聞」朝刊の第2面には、「秘密法・集団的自衛権」は、「争点にならず」とした菅官房長官の会見の短い記事が掲載されていました。

「菅義偉官房長官は19日の記者会見で、集団的自衛権の行使容認に踏み切った7月の閣議決定や、12月10日に施行される特定秘密保護法の是非は次期衆院選の争点にはならないとの認識を示した。/ 集団的自衛権行使に関し「自民党は既に憲法改正を国政選挙の公約にしており(信を問う)必要はない。限定容認は現行憲法の解釈の範囲だ」と強調した。秘密保護法についても「いちいち信を問うべきではない」と指摘した。/ 同時に「何で信を問うのかは政権が決める。安倍晋三首相はアベノミクスが国民にとって最も大事な問題だと判断した」と述べた。

この発言からは「汚染水」の問題が深刻な問題となっていたにもかかわらず、その事実が隠されたままで行われた昨年7月の参議院議員選挙のことが思い起こさせられます

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安倍首相は国際社会にむけて「汚染水」の問題は「アンダーコントロール」であると宣言することで国民にも安全性を訴えていましたが、今朝の「東京新聞」には以前から指摘されていた「汚染水の凍結止水」という方法が無理だということが判明し、東京電力が新たな方法を模索し始めたという記事が載っています。

この汚染水の問題だけでなく、十分な国民的議論もなく安倍政権が強引な手法で進めている「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」と「憲法」と教育の問題、さらには公約を破って交渉が進められているTPPの問題などは、いずれも「国民の生命や財産」や国際情勢、さらには地球環境にかかわる重要な問題です。

私は原発事故の重大さを「隠蔽」したままで原発の推進などを行っている安倍政権と、「国民」には重要な情報を知らせずに戦争の拡大に踏み切った第二次世界大戦時の参謀本部との類似性を感じており、このままでは経済の破綻や大事故が起きた後で、国民がようやく事実を知ることになる危険性が大きいと思っています。

原稿などに追われているこの時期にブログ記事を書くのはつらいのですが、なにも発言しないことは文学者として責任を欠くことになりますので、これまでのブログ記事も引用しながら、何回かに分けて以下の問題について私見を記すことにします。

安倍政権と「報道」の問題/アベノミクス(経済至上主義)と汚染水の問題/「特定秘密保護法」と原発事故の「隠蔽」/「集団的自衛権」と「カミカゼ」の問題/「憲法」と教育の重要性(仮題)

   11月22日、〈安倍政権の政策と「争点」の隠蔽〉より改題

ドストエーフスキイの会「第224回例会」のご案内

ドストエーフスキイの会「第224回例会のご案内」を「ニュースレター」(No.125)より転載します。

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第224回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

                                    

 日 時20141129日(土)午後2時~5

 場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分)

       ℡:03-3402-7854

 報告者:木下豊房 氏

題目:小林秀雄とその同時代人のドストエフスキー観

*会員無料・一般参加者=会場費500円

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報告者紹介:木下豊房(きのした とよふさ

1969年、ドストエーフスキイの会の発足にあたり「発足の言葉」を起草。新谷敬三郎、米川哲夫氏らと会を起ちあげる。その後現在まで会の運営に関わる。2002年まで千葉大学教養部・文学部で30年間、ロシア語・ロシア文学を教える。2012年3月まで日本大学芸術学部で非常勤講師。ドストエフスキーの人間学、創作方法、日本におけるドストエフスキー受容の歴史を研究テーマとし、著書に『近代日本文学とドストエフスキー』、『ドストエフスキー・その対話的世界』(成文社)その他。ネット「管理人T.Kinoshita」のサイトで「ネット論集」(日本語論文・ロシア語論文)を公開中。

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小林秀雄とその同時代人のドストエフスキー観

木下豊房

去年、高橋誠一郎氏「テキストからの逃走―小林秀雄の「『白痴』についてⅠ」(214回例会)、今年、福井勝也氏「小林秀雄のドストエフスキー、ムイシキンから「物のあはれ」へ」(221回例会)と、小林秀雄をめぐる、論争性を内に秘めた報告がなされ、去る7月には高橋氏の『黒澤明と小林秀雄―「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』が上梓された。

私はこの両者の説にふれることで、自分が抱えている問題意識に火がつくのを感じた。とりわけ、高橋氏の小林批判は鮮烈で、私はそのレトリックとカリスマ性ゆえに敬遠してきた小林のドストエフスキー論の実体を解明したくなった。

「ムイシキンはスイスから還つたのではない。シベリヤから還つたのである」という表現に集約される小林の解釈に、高橋氏は多方面からの批判を加えていて、傾聴すべき点が多い。と同時に、昨年ですでに没後30年になる文学者を歴史的存在(歴史的制約を受けた存在)としてではなく、現在の時局論に引きつけ過ぎて論じているきらいがあり、また深読みと思われるところもあって、そのあたりには疑問を感じた。そこで私は、小林秀雄を歴史的存在として見て、彼の論の形成に影響した状況を踏まえて検証を試みようと思った。

俗に、小林の「ドストエフスキイの生活」はE.H.カーの剽窃であるとの噂はいまだに燻っているようであるが、その実情はどうなのか? ほとんど同年を生きた唐木順三、そしてやや後輩の森有正のドストエフスキー論、そして彼らをはじめ同時代の文学者に広く読まれたアンドレ・ジードの論、そして小林や唐木や森の論が日本で形成される時期には、おそらく未知の存在であったミハイル・バフチンの論、これらを対比して見た時に、共通する論点が多くあることに気づかされた。

それはドストエフスキーのリアリズムの性格と人間についての見方である。バルザックに代表され、ロシアではトゥルゲーネフやトルストイに見られる客観的写実主義ともいうべきリアリズムとは一線を画すドストエフスキーの内観的リアリズムともいうべきものである。そして、人間の心理の客観的分析を旨とするフロイド的精神分析に対する異口同音の批判であつた。

19世紀ロシア文学史上、ドストエフスキーにおいて人間の見方に新しい転換が起きた。徹底的に客体化されて描かれたゴーゴリの人物が、『貧しき人々』において、主観性を持った主体的人物として蘇った。いわば死者の復活である。

デカルト的理性を基盤とする19世紀の客観主義的リアリズムによって描かれる人物像はドストエフスキーの内観的リアリズムから見れば、十分に生を享受しているとは言えないだろう。ドストエフスキーの芸術思想によれば、「人間にはA=Aの同一性の等式を適用できない」 人間の本当の生は「人間の自分自身とのこの不一致の地点で営まれる」(バフチン)ドストエフスキーにとって、「人間は先ず何をおいても精神的な存在であり、精神は先ず何を置いても、現に在るものを受け納れまいとする或る邪悪な傾向性だ」(小林)

このように客体化を拒む精神、自意識というものは、他者を客体としてではなく、もう一つの主体として認知する「われ-汝」の二人称的関係を希求する(バフチン、唐木順三)

しかしこの関係はきわめて不安定で、時空間の因果の網に拘束されない現時制の瞬間においてしか成立しない。それは過去化され、時空間で相対化された時、客体化を免れえない運命にある。この問題は作者の主人公に対する態度とともに、作中の人物間の関係にかかわる作品の主題としても現象するのが特徴である。

これをムイシキン像についていうならば、小説の前半では、登場人物達を読者に開示する二人称的、語り手的な機能を担わされ、読者はムイシキンとの出会いを通じて、人物関係図を知らされる。後半に至って、ナスターシャへのプロポーズの事件以降、彼は他の人物達との距離を失い、事件の渦中に巻き込まれて、客体化され、いわばトラブルメーカーに頽落していく。最終段階の創作ノートには「キリスト教的な愛―公爵」という記述があるのをおそらく知りながら、観念の意匠に敏感な小林は、人々に不安を与える無能なムイシキン、しかし作者が愛さないではおれない存在としてのムイシキンの現実を強調した。 ここに小林は作者の憐憫の眼差しを見ている。

最後にこの「憐憫」=「あわれ」の眼差が、小林の隣接する著作「本居宣長」の「あはれ」の概念とどう関係していくのか、福井氏の問題提起を受けて考えてみたい。

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例会の「傍聴記」や「事務局便り」など会の活動については、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。