御嶽山の噴火と川内原発の再稼働――映画《夢》と「自然支配」の思想
一、地震予知と火山噴火予知の難しさ
27日に長野、岐阜両県にまたがる御嶽山(3067メートル)が突然、噴火し、28日現在も山頂付近の登山道などで31人が心肺停止になっているのが発見されたとのニュースが流れています。この噴火からは火山の噴火や地震の予知などの難しさとともに、人間に恵みを与えてくれる大自然の力の脅威を改めて痛感させられました。
「東京新聞」の本日付けの社説は「地球上には約千五百の活火山がある。日本列島には、そのうち百十、約7%が集中している」が、「大学の研究者など火山専門家が常駐する観測施設があるのは桜島(鹿児島県)や有珠山(北海道)など五カ所だけ」であることを指摘し、「火山国に暮らすわれわれとしては」、「謙虚に火山を恐れ、よく備えなければならない」と記しています。
そして、原子力規制委員会が「今月、周辺に活火山群がある鹿児島県の九州電力川内原発について、新規制基準にかなうと判断した」ことに、「原発は、対応できるのか」との重大な疑問を呈しています。
二,原発の推進と19世紀の「自然支配の思想」
すでにこのHPでも引用していたように日本の近代化を主導した思想家の福沢諭吉は、西欧文明の優越性を主張したバックルの文明観に依拠しながら、『文明論之概略』において「水火を制御して蒸気を作れば、太平洋の波濤を渡る可し」とし、「智勇の向ふ所は天地に敵なく」、「山沢、河海、風雨、日月の類は、文明の奴隷と云う可きのみ」と断じていました。
このような福沢の文明観について歴史学者の神山四郎は、「これは産業革命時のイギリス人トーマス・バックルから学んだ西洋思想そのものであって、それが今日の経済大国をつくったのだが、また同時に水俣病もつくったのである」と厳しく批判しています(『比較文明と歴史哲学』)。
このような文明観が原発の推進を掲げる現政権や日本の経済界などでは受けつがれたことが、地殻変動により形成されていまもさかんな火山活動が続き地震も多発している日本列島に、原爆と同じ原理によって成り立っている原子力発電所を建設させ、福島第一原子力発電所の大事故を引き起こしたといえるでしょう。しかも、今回は運良く免れることができたものの、東京電力の不手際と優柔不断さにより関東一帯が放射能で汚染され、東京をも含む関東一帯の住民が避難しなければならない事態とも直面していたのです。
慧眼な思想家であった福沢諭吉ならば原発事故に遭遇したあとでは、その見解を変えて、「反核」「脱原発」運動の先頭に立っていたと思われます。しかし、19世紀の「自然支配」の思想を未だに信じている経済産業省や産業界は、大自然の力への敬虔な畏れの気持ちを持たないように見える首相をかつぐことで、大惨事の後も原発の再稼働や輸出の政策を強引に推し進めています。
このような経済産業省の姿勢からは、文明史家の司馬遼太郎氏が強く批判していた「参謀本部の思想」が連想させられます。「参謀本部」がミッドウェー海戦での大敗北についての情報を隠す一方で、「神州無敵」などのスローガンで「国民」を欺いたことが、沖縄での悲惨な戦闘や広島・長崎の被爆という悲劇を生み出していたのです。
三、映画《夢》における「知識人」の批判と民衆の叡智
1986年のチェルノブィリ原発事故の後で詳しくこの事故について調べた黒澤明監督は、作家のガルシア゠マルケスが対談で「核の力そのものがいけないのではなくて、(中略)核の使い方を誤った人がいけないんじゃないでしょうか」と、「核の平和利用」もありうると主張したことに対して、次のように批判していました。
「核っていうのはね、だいたい人間が制御できないんだよ。そういうものを作ること自体がね、人間が思い上がっていると思うの、ぼくは」と語り、「人間はすべてのものをコントロールできると考えているのがいけない。傲慢だ」。
この言葉にはドストエフスキーの『罪と罰』などをとおして、「知識人」の「良心」の問題を深く考察した黒澤監督の「原発」観だけでなく、自然観が明確に語られていると思います。実際、放射性廃棄物の中にはプルトニウムのように半減期が長く、安全なレベルまで放射能が減少するまでには10万年近くかかるものもあることが以前から指摘されており、目先の利益だけでなく、後の世代のことや日本の自然環境を考えるならば、そのような廃棄物を産み出す「原発」の推進は「傲慢」だといえるでしょう。
しかも、黒澤監督の発言は日本の「自然地理的な状況」を踏まえてのものでもあるとも感じます。なぜならば、黒澤監督のもとでチーフ助監督を務めた経験もある森谷司郎監督は、海底に異変が起きていることを発見し、続いて東京大地震、富士山噴火、そして列島全体が沈没するという壮大なテーマの長編小説『日本沈没』を橋本忍の脚本で1973年に映画化していたのです。
古代では「天変地異」を天が人間に伝える警告と捉えていましたが、それは民衆の「迷信」と見なすべきではなく、むしろ日頃から大地や自然と接して暮らすことから得た民衆の「叡智」と考えるべきでしょう。
原発事故が描かれている映画《夢》の第六話「赤富士」で、幼い子供たちを連れた母親に「原発そのものに危険はない。絶対ミスを犯さないから問題はない、とぬかした奴等は、ゆるせない!」と厳しく批判させていた黒澤監督は、第八話の「水車のある村」では古代の「モーゼのような髭を生やした」水車小屋の老人にこう語らせていたのです。
多くの「知識人」は、「人間を不幸せにする様なものを一生懸命発明して得意になっている。また、困った事に、大多数の人間達は、その馬鹿な発明を奇跡の様に思って有難がり、その前にぬかずく。/そしてそのために、自然が失われ、自分達も亡んで行くことに気がつかない」。
「御嶽山の噴火と映画《夢》」より改題