高橋誠一郎 公式ホームページ

04月

ドストエフスキー作品の重み――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て

 

先日、ウクライナ出身の翻訳者の日常と過去を描いたドキュメンタリー映画《ドストエフスキーと愛に生きる》を観てきました。

冒頭の夜汽車のシーンは印象的でしたが、それはスターリンの粛正によって父を失い、ナチスによるキエフ占領の際には友人のユダヤ人を虐殺された主人公の生きた暗い時代とその中で必死で生きた彼女の生き方を象徴するようなシーンだったからでしょう。

ドキュメンタリー映画なので手法は全く異なっていましたが、映像をとおして知識人の「責任」を鋭く問いかけていた黒澤監督の映画《夢》を見たあとのような重たい感銘が残りました。

ことに、長編小説『罪と罰』を『罪と贖罪』と訳したという説明からは、彼女が『罪と罰』における「良心」の用法を深く理解していると感じました。

この映画が今も上映中とのことを知った時には、現在のウクライナ情勢が影響しているのかとも考えましたが、見終わったあとでは、この映画の映像と言葉の力によるものだということが分かりました。

初めての試みとして、これから「映画・演劇評」のページに感想を記していきたいと思います。

5月2日以降も各地の映画館で上映されるようなので、映画や映画館の簡単な情報の後に、公式サイトも記しておきます。

追記:リンク先『罪と罰』と『罪と贖罪』――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(1)」

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『ドストエフスキーと愛に生きる』(2009年/スイス=ドイツ/93分/ドイツ語・ロシア語/カラー・モノクロ)

監督・脚本:ヴァディム・イェンドレイコ/出演: スヴェトラーナ・ガイヤー、アンナ・ゲッテ、ハンナ・ハーゲン、ユルゲン・クロット/製作:ミラ・フィルム

2011年山形国際ドキュメンタリー映画祭 優秀賞、市民賞の2冠を受賞

一切の妥協を許さないスヴェトラーナ・ガイヤーの織り成す深く静かな翻訳の世界と、丁寧な手仕事が繰り返される彼女の静かな日常を追う。一人の女性が歩んだ数奇な半生に寄りそう静謐な映像が、文学の力によって高められる人の営みを描き出す。

 


 

上映中:作品分数:93分

開始時間、29日、13:15、30日、13:15、19:00、1日、13:15、19:00、2日、13:15

料金:一般¥1,600 / 学生¥1,300(平日学割¥1,100)

会場:渋谷のミニシアター「渋谷アップリンク」

追記:リンク「公式サイト」 

「黒澤明と『カラマーゾフの兄弟』に関する一考察」の「傍聴記」を「主な研究」に掲載しました

  黒澤監督は一九五一年に公開した映画《白痴》の「演出前記」において、「僕は僕なりに、この主人公と作中人物を永い間愛して来た」と書き、映画《白痴》を「原作の深さ」には及ばないだろうとしながらも、「原作者に対する尊敬と映画に対する愛情を傾けて、せい一ぱい努力するつもりだ」と続けていました(Ⅲ・二八五〕。

実際、戦時中の一九四三年一月に公開された映画《愛の世界・山猫とみの話》の脚本が主に黒澤明監督の手に成るものであることが、最近明らかになりましたが、そこにはすでに長編小説『虐げられた人々』からの影響が強く見られるのです。

しかも、黒澤明のドストエフスキー作品への関心は、映画《乱》やシナリオ『黒き死の仮面』にも強く反映していました。このことを堀伸雄氏は第220回例会での発表で、『カラマーゾフの兄弟』とのテキストの比較をとおして具体的に検証しました。例会の「傍聴記」を「主な研究」に掲載しました。

ドストエーフスキイの会「第45回総会と第221回例会のご案内」を転載します

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分)

        ℡:03-3402-7854 

総会: 午後1時30分から40分程度、終わり次第に例会

議題:活動・会計報告、運営体制、活動計画、予算などについて

 

例会報告者:福井勝也 氏

 題 目:小林秀雄のドストエフスキー、ムイシュキンから「物のあはれ」へ

  *会員無料・一般参加者=会場費500円

 報告者紹介:福井勝也(ふくい かつや)

1954年東京生まれ、1978年ドストエーフスキイの会入会(現会員、運営編集委員)現在「全作品を読む会」(世話人) 、読書会「著莪」(日本近代文学、講師小森陽一氏)並びに「ベルクソン他講義」(講師前田英樹氏)に長らく参加させていただいている。著書等、『ドストエフスキーとポストモダン』(2001)『日本近代文学の<終焉>とドストエフスキー』(2008)、「日本のドストエフスキー」(『現代思想』、2010)ほか執筆。

 第221回例会報告要旨

 小林秀雄は、戦前から書き記して来た「ドストエフスキイ・ノート」のなかで最後の「『白痴』についてⅡ」が一番いいものだと評している(1963年の対談「文学と人生」)。この批評文は、1952.5月から1953.1月まで「中央公論」に連載され、第八回の末尾には「前編終わり」と付された。それから、10年以上の中断があって最終章(第9章)が書き加えられ、1964年5月に『「白痴」について』(角川書店)が単行本として発刊された。文字通り「未完」も多い小林の「ドストエフスキイ・ノート」にあって、とにかく結末が付けられて刊行されたことは注目すべき点だろう。この「ポイント」に着目し、この63年頃に「戦前から持続してきたドストエフスキイ論考が微妙に変異していた」として、ここに小林批評の「衰弱」(「クリティカル・ポイント」)を指摘したのが山城むつみ氏であった。それが氏の処女作「小林批評のクリティカル・ポイント」(1992)であって、その年の「群像」新人賞を獲得した。その山城氏が近年、大著『ドストエフスキー』(2010)の批評家として大成されてきているのは周知の通りである。

今回の当方の発表も山城氏が問題としたこの時期への関心から始めたい。しかしタイトルに「ムイシュキンから「物のあはれ」へ」と副題を付したように、話の到達点は山城氏のそれと大分違ったものになると考えている。だからと言って、余りこの問題に限局して論争的に係わるつもりはない。話の端緒と結び位で丁度良いと思っている。

昨年は小林没後30年という年回りから、関連の書物が何点か刊行された。そのなかで記憶に残った一つが、盟友河上徹太郎との対談「歴史について」(1979)であった。対談の翌年に河上が亡くなり、二人のものが、結局は「小林秀雄最後の対談」となった。昨春そのような触れ込みで再録発表された。対談は既読であったが、掲載誌「考える人」にはCDが付されていて、二人の声がまさに生き返ったように響いて新鮮に聴き返した。

ここでも二人の主題はドストエフスキーに向かってゆく。小林は、「「白痴」をやってみるとね、頭ができない、トルソになってしまうんだな。「頭」は「罪と罰」にあることが、はっきりしてしまったんだな。「白痴」はシベリアから還ってきたんだよ」と持論の感慨を吐露する。河上はそれに「そりゃ、わかっている」と即答している。この科白の裏には、どうにか「白痴ノート」に結末を付けた、この間の小林の苦渋の声が聞こえるようだ。しかし同時に、小林は「トルソ」ではあっても、中断後10年以上を費やした最後、精一杯の「ムイシュキン」像を最終章に書き記している。それは、「白痴」の物語の最後に現れた「傍観するリアリスト(エヴゲーニイ)に「事件全体に、何一つ真面目なものがない」という言葉を吐かせながら、次のようにその「ムイシュキン」像を語って「ノート」末尾へと導いてゆく直前の言葉に表現された。

作者が意識の限界点に立って直接に触れる命の感触ともいうべき、明瞭だが、どう手のつけようもない自分の体験を、ムイシュキンに負わせた事はすでに述べた。この感触は、日常的生の構造或はその保存と防衛を目的とするあらゆる日常的真理や理想の破滅を代償として現れる。それは、その堪え難く鋭い喜びと恐怖とが證している。この内的感触に、作者は「唖のように、聾のように苦しむ」のだが、その苦しみもムイシュキンに負わせた。ただ限りない問いが、「限りない憐憫の情」として人々に働きかけるようにムイシュキンを描いた。殺人者と自殺者とがムイシュキンの言わばこの魔性を一番よく語り、どうしようもなく、彼に惹かれる。彼は孤独ではない。ムイシュキンは、ラゴージンのナイフを無意識のうちに弄ぶと言ってはいけないであろう。生きる疑わしさが賭けられた、堪えられぬほど明瞭な意識のさせる動作だと言った方がよかろう。ドストエフスキイの形而上学は、肉体の外にはないのである。

今回僕が着目したのは、ここの文章全体を背景にした下線を引いた箇所だ。つまり限りない問いに駆られて、「限りない憐憫の情」の人として描かれた「ムイシュキン」像だ。ここに、小林が生涯ドストエフスキーに追求した「ネガ」としての「キリスト」像が明らかになる。しかしそれだけではない。そのことの意味は、当日に譲りたいと思うのだが、ここで少しだけ触れておきたい。その前提には、山城氏も注目した1963(S.38)年(この年、小林は作家同盟の招きでソビエトを訪れ、ヨーロッパを廻って帰国している)前後の小林の旺盛な批評活動の推移がある。その一つが、1958(S.33)年から開始されて、結局未完に終わったベルグソン論「感想」であって、それが中断されたのがこの1963年であった。そして、小林はその「中絶」から踵を返すようにロシア旅行に出かけ、ドストエフスキーの墓を訪ねる機縁を得た。その「墓詣り」の希望に率直に触れたのが「ネヴァ河」(帰国後11/30~12/5まで朝日新聞連載)であり、そのソヴェト・ロシアという国家の歴史的特殊性を日本の「万葉集」を引き合いにして語ったのが「ソヴェトの旅」(11/26、文藝春秋際講演)であった。なお、この二編は他の注目すべきエッセーとともに『考えるヒント』に収録され(執筆は1959年から64年)、『「白痴」について』の刊行同年(64)に出版されている。ここにも注目したい。そしてもう一つ重要なのは、小林はベルグソン論「感想」の連載を続けながら、途中の1960(S.35)年に「本居宣長 ― 『物のあはれ』の説について」をすでに発表していたことだ。しかし何故かこの宣長論は、小林の生前に著作リストから除外されたらしい。この辺りは、前田英樹氏の『小林秀雄』(1998)に教えられた。いずれにしても、小林秀雄が最後に語ろうとしたドストエフスキーの「ムイシュキン」像は、「物のあはれ」に転移、連続してゆく機縁としてあり得たのではないかというのが、今回僕の発表の思いである。まあ、その一端だけでも語ることができればよいのだが。(2014.4.3)

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例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

(2015.4.30、総会の回数などを訂正)

「ブログ記事・タイトル一覧」のページにⅤを掲載しました

 

「ブログ記事」タイトル一覧Ⅴとして、2014年1月14日から4月22日までのブログ記事の題名を「ブログ記事・タイトル一覧」(物件)に掲載しました。

 「ブログ記事」タイトル一覧のⅠ~Ⅳともリンクしました。

「小林秀雄の芥川龍之介観と黒澤明」を「主な研究(活動)」に掲載しました

 

先ほどアップしたブログでも少しふれましたが、当初は小林秀雄の芥川龍之論と黒澤明の映画《羅生門》との比較は大きなテーマなので、今回は省くつもりでした。

しかし、このテーマを省いてしまうと司馬遼太郎が「歌は事実をよまなければならない」(『坂の上の雲』・「子規庵」)として「写生」の重要性を訴えた子規から漱石を経て、芥川につながる日本文学の流れを踏まえている黒澤と、このような流れを軽視していると思える小林秀雄との違いが見えにくくなってしまうことに気づき、急遽、必要最小限はふれるようにしました。

そのために発行の予定が大幅に延びてしまいましたので、その一部を「主な研究」に抜粋して掲載するとともに、ドストエフスキーの初期の作品と芥川作品との関連についても少し言及しておきます。

 

「黒澤明・小林秀雄関連年表」を更新して、「年表」のページに掲載しました

 当初は省くつもりだった小林秀雄の芥川龍之論と
黒澤明の映画《羅生門》との比較を行ったために、
最終段階で予想以上に手間取ってしまいましたが、ようやく本論を脱稿しました。

 第4章では夏目漱石の『夢十夜』や『三四郎』にも言及していますので、 年表では芥川だけでなく小林秀雄の誕生の年に亡くなった正岡子規や漱石にも触れています。
 
 
 

 このことにより「写生」の重要性を訴えた子規から漱石を経て、
芥川につながる日本文学の流れを踏まえている黒澤と、
このような流れを軽視していると思える小林秀雄との違いも明確になったと思えます。

「STAP細胞」騒動と原発の再稼働問題

 

 ここのところ連日、「STAP細胞」をめぐる騒動がテレビなどで詳しく報道されています。

科学者の倫理を問うことは、「道徳」という教科の柱ともなる重要なテーマでしょう。

しかし、「STAP細胞」をめぐるこの騒動が大きくなった一因は、理研と産総研(経産省所管の産業技術総合研究所)を特定法人に指定するための法案の今国会での成立を急ぐために、処分を急いだためとも言われています。

*   *   *

 問題はこの騒動に隠れた形で、まだ、福島第一原子力発電所の事故の問題がほとんど解決されていない中、「国民の生命」や「地球環境」の問題にも関わるより大きな「道徳」的テーマと言える「原発」の再稼働が決められたことです。

しかも今回の決定は、先の参議院選挙や衆議院選挙での政府や与党の「原発をゼロに向けて段階的に削減する」という公約にも反していると思われます。 

このような国政レベルでの「国民」への約束が破られるならば、「国の道徳」は成立しないでしょう。

今朝の「東京新聞」が1面を全部割いてこの問題を取り上げていましたので、その一部を引用しておきます。

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安倍政権は「エネルギー基本計画」で原発推進路線を鮮明にした。東日本大震災から三年で、東京電力福島第一原発事故を忘れたかのような姿勢。電力会社や経済産業省という「原子力ムラ」が復活した。 (吉田通夫、城島建治)

 計画案の了承に向けた与党協議が大詰めを迎えた三月下旬。経産省資源エネルギー庁の担当課長は、再生可能エネルギー導入の数値目標の明記を求められ「できません」と拒否した。(中略)

原子力ムラの動きの背後には、経産省が影響力を強める首相官邸がある。

 安倍晋三首相の黒子役を務める首席秘書官は、経産省出身でエネルギー庁次長も務めた今井尚哉(たかや)氏。首相の経済政策の実権は、今井氏と経産省が握っている。

 昨年七月。今年四月から消費税率を8%に引き上げるか迷っていた首相は、税率を変えた場合に経済が受ける影響を試算することを決めた。指示した先は財務省でなく経産省だ。

 歴代政権の大半は「省の中の省」と呼ばれる財務省を頼ったが、安倍政権は経産省に傾斜。その姿勢が原子力ムラを勢いづかせた。

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以前、このブログでは明治以降の日本において「義勇奉公とか滅私奉公などということは国家のために死ねということ」であったことに注意を促して、「われわれの社会はよほど大きな思想を出現させて、『公』という意識を大地そのものに置きすえねばほろびるのではないか」という痛切な言葉を記していた司馬遼太郎氏の言葉を紹介しました(『甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか』、『街道をゆく』第7巻、朝日文庫)。

その時、私が強く意識していたのは満州事変以降の日本の歴史と原発事故に至る日本の歴史との類似性でした。

繰り返しになりますが、事態に改善がみられないので、ここでも再び引用しておきます。

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司馬氏が若い頃には「俺も行くから 君も行け/ 狭い日本にゃ 住み飽いた」という「馬賊の唄」が流行り、「王道楽土の建設」との美しいスローガンによって多くの若者たちが満州に渡ったが、1931年の満州事変から始まった一連の戦争では日本人だけでも300万人を超える死者を出すことになったのです。

同じように「原子力の平和利用」という美しいスローガンのもとに、推進派の学者や政治家、高級官僚がお墨付きを出して「絶対に安全である」と原子力産業の育成につとめてきた戦後の日本でも「大自然の力」を軽視していたために2011年にはチェルノブイリ原発事故にも匹敵する福島第一原子力発電所の大事故を産み出したのです。

それにもかかわらず、「積極的平和政策」という不思議なスローガンを掲げて、軍備の増強を進める安倍総理大臣をはじめとする与党の政治家や高級官僚は、「国民の生命」や「日本の大地」を守るのではなく、今も解決されていない福島第一原子力発電所の危険性から国民の眼をそらし、大企業の利益を守るために原発の再稼働や原発の輸出などに躍起になっているように見えます。

《かぐや姫の物語》考Ⅱ――「殿上人」たちの「罪と罰」(2014年1月14日)

 

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「道徳」の問題が焦眉の課題となってきた現在、テレビや新聞は「STAP細胞」で小保方氏のインタビュー記事を書くことよりも大きなエネルギーを、「国民の生命」や「地球環境」にかかわる原発の再稼働を進めている経産省の官僚一人一人へのインタビューなどを行って、検証すべきだと考えますがどうでしょうか。

 

〈スラヴのコスモロジー 「生命の水の泉」と「大地」のイデア〉を「主な研究」に掲載しました

 

2011年11月の比較文明学会のシンポジウムで「生命の水の泉」と「大地」のイデアと題した考察を発表しました。

このことについては「福島原発事故とチェルノブイリ原発事故」と題した3月12日のブログ記事でもふれて、標記の記事を「主な研究」に掲載していましたが、ブログの題名に記さないと見つけにくいことが分かりましたので、改めてこのブログでも題名を掲載することにします。