下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。
場 所:千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分)
℡:03-3402-7854
総会: 午後1時30分から40分程度、終わり次第に例会
議題:活動・会計報告、運営体制、活動計画、予算などについて
例会報告者:福井勝也 氏
題 目:小林秀雄のドストエフスキー、ムイシュキンから「物のあはれ」へ
*会員無料・一般参加者=会場費500円
報告者紹介:福井勝也(ふくい かつや)
1954年東京生まれ、1978年ドストエーフスキイの会入会(現会員、運営編集委員)現在「全作品を読む会」(世話人) 、読書会「著莪」(日本近代文学、講師小森陽一氏)並びに「ベルクソン他講義」(講師前田英樹氏)に長らく参加させていただいている。著書等、『ドストエフスキーとポストモダン』(2001)『日本近代文学の<終焉>とドストエフスキー』(2008)、「日本のドストエフスキー」(『現代思想』、2010)ほか執筆。
第221回例会報告要旨
小林秀雄は、戦前から書き記して来た「ドストエフスキイ・ノート」のなかで最後の「『白痴』についてⅡ」が一番いいものだと評している(1963年の対談「文学と人生」)。この批評文は、1952.5月から1953.1月まで「中央公論」に連載され、第八回の末尾には「前編終わり」と付された。それから、10年以上の中断があって最終章(第9章)が書き加えられ、1964年5月に『「白痴」について』(角川書店)が単行本として発刊された。文字通り「未完」も多い小林の「ドストエフスキイ・ノート」にあって、とにかく結末が付けられて刊行されたことは注目すべき点だろう。この「ポイント」に着目し、この63年頃に「戦前から持続してきたドストエフスキイ論考が微妙に変異していた」として、ここに小林批評の「衰弱」(「クリティカル・ポイント」)を指摘したのが山城むつみ氏であった。それが氏の処女作「小林批評のクリティカル・ポイント」(1992)であって、その年の「群像」新人賞を獲得した。その山城氏が近年、大著『ドストエフスキー』(2010)の批評家として大成されてきているのは周知の通りである。
今回の当方の発表も山城氏が問題としたこの時期への関心から始めたい。しかしタイトルに「ムイシュキンから「物のあはれ」へ」と副題を付したように、話の到達点は山城氏のそれと大分違ったものになると考えている。だからと言って、余りこの問題に限局して論争的に係わるつもりはない。話の端緒と結び位で丁度良いと思っている。
昨年は小林没後30年という年回りから、関連の書物が何点か刊行された。そのなかで記憶に残った一つが、盟友河上徹太郎との対談「歴史について」(1979)であった。対談の翌年に河上が亡くなり、二人のものが、結局は「小林秀雄最後の対談」となった。昨春そのような触れ込みで再録発表された。対談は既読であったが、掲載誌「考える人」にはCDが付されていて、二人の声がまさに生き返ったように響いて新鮮に聴き返した。
ここでも二人の主題はドストエフスキーに向かってゆく。小林は、「「白痴」をやってみるとね、頭ができない、トルソになってしまうんだな。「頭」は「罪と罰」にあることが、はっきりしてしまったんだな。「白痴」はシベリアから還ってきたんだよ」と持論の感慨を吐露する。河上はそれに「そりゃ、わかっている」と即答している。この科白の裏には、どうにか「白痴ノート」に結末を付けた、この間の小林の苦渋の声が聞こえるようだ。しかし同時に、小林は「トルソ」ではあっても、中断後10年以上を費やした最後、精一杯の「ムイシュキン」像を最終章に書き記している。それは、「白痴」の物語の最後に現れた「傍観するリアリスト(エヴゲーニイ)に「事件全体に、何一つ真面目なものがない」という言葉を吐かせながら、次のようにその「ムイシュキン」像を語って「ノート」末尾へと導いてゆく直前の言葉に表現された。
作者が意識の限界点に立って直接に触れる命の感触ともいうべき、明瞭だが、どう手のつけようもない自分の体験を、ムイシュキンに負わせた事はすでに述べた。この感触は、日常的生の構造或はその保存と防衛を目的とするあらゆる日常的真理や理想の破滅を代償として現れる。それは、その堪え難く鋭い喜びと恐怖とが證している。この内的感触に、作者は「唖のように、聾のように苦しむ」のだが、その苦しみもムイシュキンに負わせた。ただ限りない問いが、「限りない憐憫の情」として人々に働きかけるようにムイシュキンを描いた。殺人者と自殺者とがムイシュキンの言わばこの魔性を一番よく語り、どうしようもなく、彼に惹かれる。彼は孤独ではない。ムイシュキンは、ラゴージンのナイフを無意識のうちに弄ぶと言ってはいけないであろう。生きる疑わしさが賭けられた、堪えられぬほど明瞭な意識のさせる動作だと言った方がよかろう。ドストエフスキイの形而上学は、肉体の外にはないのである。
今回僕が着目したのは、ここの文章全体を背景にした下線を引いた箇所だ。つまり限りない問いに駆られて、「限りない憐憫の情」の人として描かれた「ムイシュキン」像だ。ここに、小林が生涯ドストエフスキーに追求した「ネガ」としての「キリスト」像が明らかになる。しかしそれだけではない。そのことの意味は、当日に譲りたいと思うのだが、ここで少しだけ触れておきたい。その前提には、山城氏も注目した1963(S.38)年(この年、小林は作家同盟の招きでソビエトを訪れ、ヨーロッパを廻って帰国している)前後の小林の旺盛な批評活動の推移がある。その一つが、1958(S.33)年から開始されて、結局未完に終わったベルグソン論「感想」であって、それが中断されたのがこの1963年であった。そして、小林はその「中絶」から踵を返すようにロシア旅行に出かけ、ドストエフスキーの墓を訪ねる機縁を得た。その「墓詣り」の希望に率直に触れたのが「ネヴァ河」(帰国後11/30~12/5まで朝日新聞連載)であり、そのソヴェト・ロシアという国家の歴史的特殊性を日本の「万葉集」を引き合いにして語ったのが「ソヴェトの旅」(11/26、文藝春秋際講演)であった。なお、この二編は他の注目すべきエッセーとともに『考えるヒント』に収録され(執筆は1959年から64年)、『「白痴」について』の刊行同年(64)に出版されている。ここにも注目したい。そしてもう一つ重要なのは、小林はベルグソン論「感想」の連載を続けながら、途中の1960(S.35)年に「本居宣長 ― 『物のあはれ』の説について」をすでに発表していたことだ。しかし何故かこの宣長論は、小林の生前に著作リストから除外されたらしい。この辺りは、前田英樹氏の『小林秀雄』(1998)に教えられた。いずれにしても、小林秀雄が最後に語ろうとしたドストエフスキーの「ムイシュキン」像は、「物のあはれ」に転移、連続してゆく機縁としてあり得たのではないかというのが、今回僕の発表の思いである。まあ、その一端だけでも語ることができればよいのだが。(2014.4.3)
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例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。
(2015.4.30、総会の回数などを訂正)