高橋誠一郎 公式ホームページ

2014年

「子供の日」に寄せて――司馬遼太郎と「二十一世紀に生きる君たちへ」

5月4日にはブログの記事で「憲法」の重要性について次のように記しました。

「昨日は憲法の意味を国民に説くべき「憲法記念日」でしたが、幕末の志士・坂本龍馬などの活躍で勝ち取った「憲法」の意味が急速に薄れてきているように思われます。

他民族への憎しみを煽りたて、「憲法」を否定して戦争をできる国にしようとしたナチス・ドイツの政策がどのような事態を招いたかをきちんと認識するためにも1935年に公開されたスタンバーグ監督の映画《罪と罰》は重要でしょう。」

今日は「子供の日」ですので、司馬氏の歴史観と 「二十一世紀に生きる君たちへ」の意味を確認しておきます。

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司馬遼太郎氏との対談で作家の海音寺潮五郎氏は、孔子が「戦場の勇気」を「小勇」と呼び、それに対して「平常の勇」を「大勇」という言葉で表現していることを紹介しています。そして海音寺氏は日本には命令に従って戦う戦場では己の命をも省みずに勇敢に戦う「小勇」の人は多いが、日常生活では自分の意志に基づいて行動できる「大勇の人」はまことに少ないと語っていました(『対談集 日本歴史を点検する』、講談社文庫、1974年)。

司馬氏が長編小説『竜馬がゆく』で描いた坂本竜馬は、そのような「大勇」を持って行動した「日本人」として描かれているのです。

たとえば、勝海舟から国際情勢を詳しく聞いていた竜馬は、「砲煙のなかで歴史を回転させるべきだ」という中岡慎太郎の方法に対しては強い危惧を、「いまのままの情勢を放置しておけば、日本にもフランスの革命戦争か、アメリカの南北戦争のごときものがおこる。惨禍は百姓町人におよび、婦女小児の死体が路に累積することになろう」と想像したと書いています(五・「船中八策」)。

そのような事態を日本でも起こさないようにと苦慮していた竜馬が思いついたのが「船中八策」であり、司馬氏はその策を聞いて憤慨した亀山社中の若者・中島作太郎(信行)との対話をとおして「時勢の孤児になる」ことを選んだ竜馬の「大勇」を次のように描いています。

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「坂本さん、あなたは孤児になる」という指摘に対して、「覚悟の前さ」と竜馬に答えさせていた司馬は、別れ際に「時勢の孤児になる」と批判したのは言いすぎだったと詫びた中島作太郎に対して、「言いすぎどころか、男子の本懐だろう」と竜馬に夜風のなかで言わせたのである。

そして、「時流はいま、薩長の側に奔(はし)りはじめている。それに乗って大事をなすのも快かもしれないが、その流れをすて、風雲のなかに孤立して正義を唱えることのほうが、よほどの勇気が要る。」と説明した司馬は、竜馬に「おれは薩長人の番頭ではない。同時に土佐藩の走狗でもない。おれは、この六十余州のなかでただ一人の日本人だと思っている。おれの立場はそれだけだ」と語らせていた(下線引用者、五・「船中八策」)。

司馬が竜馬に語らせたこの言葉には、生まれながらに「日本人である」のではなく、「藩」のような狭い「私」を越えた広い「公」の意識を持った者が、「日本人になる」のだという重く深い信念が表れていると思える。子供たちのために書いた「二十一世紀に生きる君たちへ」という文章を再び引用すれば、「自己を確立」するとともに、「他人の痛みを感じる」ような「やさしさ」を、「訓練して」、「身につけ」た者を司馬は、「日本人」と呼んでいるのである。

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国境を接した国々との軋轢が深まっている現在、子供や孫の世代を再び他国への戦場へと送り出す間違いと悲劇を繰り返さないためにも、時代小説などで戦争を描き続けていた司馬氏の「二十一世紀に生きる君たちへ」という文章は重要でしょう。 

(5月6日改訂)

「スタンバーグ監督の映画《罪と罰》と黒澤映画《夢》」を「映画・演劇評」に掲載しました

 

文芸評論家の小林秀雄は、功利主義を主張するルージンとの対決などを省いた形で考察した1934年の「『罪と罰』についてⅠ」で、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注――ラスコーリニコフ)には現れぬ」とし、エピローグは「半分は読者の為に書かれた」と解釈していました〔六・四五、五三〕。

そして、1936年に発表した「『罪と罰』を見る」と題した映画評で小林は、スタンバーグ監督の映画《罪と罰》などを厳しく批判していたのです。

私は、スタンバーグ監督の映画を高く評価していた黒澤明が同じ年に、P・C・L映画撮影所(東宝の前身)に助監督として入社したことに注意を払うことで、黒澤映画《夢》が長編小説『罪と罰』と同じような「夢」の構造をしているのは偶然ではなく、スタンバーグ監督の映画《罪と罰》の理解などをふまえて、エピローグや「良心」などについての小林秀雄の解釈を映像という手段で批判的に考察していた可能性が強いことを示唆しました(リンク先→「小林秀雄の映画《罪と罰》評と黒澤明」)。

 

昨日は憲法の意味を国民に説くべき「憲法記念日」でしたが、幕末の志士・坂本龍馬などの活躍で勝ち取った「憲法」の意味が急速に薄れてきているように思われます。

「憲法」を否定して戦争をできる国にしようとしたナチス・ドイツがどのような事態を招いたかをきちんと認識するためにも1935年に公開されたスタンバーグ監督の映画《罪と罰》は重要でしょう。

この映画についてはあまり知られていないようなので、小林秀雄の映画評を簡単に紹介した後で、この映画の内容と現代的な意義を「映画・演劇評」で考察しました(リンク先→「スタンバーグ監督の映画《罪と罰》と黒澤映画《夢》」

 

 

「映画・演劇評」のページに「《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て」の1と2を掲載しました

 4月29日に「映画・演劇評」のページに「『罪と罰』と『罪と贖罪』――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(1)」を掲載しました。

それに関連して記したブログ記事「ドストエフスキー作品の重み――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て」で黒澤映画にも少し触れていました。 

 それゆえ、今日の「映画・演劇評」に書いた「イェンドレイコ監督と黒澤映画――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(2)」では、《ドストエフスキーと愛に生きる》のシーンと黒澤映画《八月の狂詩曲(ラプソディー)》や《デルス・ウザーラ》から受けた印象についての感想を書きました。

拙著『黒澤明と小林秀雄』、予約注文の受付開始のお知らせ

 

予約注文の受付開始のお知らせ

ようやく、拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)を脱稿しました。

 四六判上製、304頁、2500円(本体価格)で、7月に出版される予定です。
 
 この度は成文社のご厚意で、 6月末日までに予約注文をされた方には、2割引きで販売して頂くことになりました。

ご購入をご希望の方は、所属の学会・研究会名を、 所属されていない場合は本HPでご覧になったことをご記入の上、 直接、成文社のメールアドレス(info@seibunsha.net)へお申し込みください。
 
 なお、最新の目次は「著書・共著」のリンク先「近刊『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社) 」に掲載しました。

 

ドストエフスキー作品の重み――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て

 

先日、ウクライナ出身の翻訳者の日常と過去を描いたドキュメンタリー映画《ドストエフスキーと愛に生きる》を観てきました。

冒頭の夜汽車のシーンは印象的でしたが、それはスターリンの粛正によって父を失い、ナチスによるキエフ占領の際には友人のユダヤ人を虐殺された主人公の生きた暗い時代とその中で必死で生きた彼女の生き方を象徴するようなシーンだったからでしょう。

ドキュメンタリー映画なので手法は全く異なっていましたが、映像をとおして知識人の「責任」を鋭く問いかけていた黒澤監督の映画《夢》を見たあとのような重たい感銘が残りました。

ことに、長編小説『罪と罰』を『罪と贖罪』と訳したという説明からは、彼女が『罪と罰』における「良心」の用法を深く理解していると感じました。

この映画が今も上映中とのことを知った時には、現在のウクライナ情勢が影響しているのかとも考えましたが、見終わったあとでは、この映画の映像と言葉の力によるものだということが分かりました。

初めての試みとして、これから「映画・演劇評」のページに感想を記していきたいと思います。

5月2日以降も各地の映画館で上映されるようなので、映画や映画館の簡単な情報の後に、公式サイトも記しておきます。

追記:リンク先『罪と罰』と『罪と贖罪』――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(1)」

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『ドストエフスキーと愛に生きる』(2009年/スイス=ドイツ/93分/ドイツ語・ロシア語/カラー・モノクロ)

監督・脚本:ヴァディム・イェンドレイコ/出演: スヴェトラーナ・ガイヤー、アンナ・ゲッテ、ハンナ・ハーゲン、ユルゲン・クロット/製作:ミラ・フィルム

2011年山形国際ドキュメンタリー映画祭 優秀賞、市民賞の2冠を受賞

一切の妥協を許さないスヴェトラーナ・ガイヤーの織り成す深く静かな翻訳の世界と、丁寧な手仕事が繰り返される彼女の静かな日常を追う。一人の女性が歩んだ数奇な半生に寄りそう静謐な映像が、文学の力によって高められる人の営みを描き出す。

 


 

上映中:作品分数:93分

開始時間、29日、13:15、30日、13:15、19:00、1日、13:15、19:00、2日、13:15

料金:一般¥1,600 / 学生¥1,300(平日学割¥1,100)

会場:渋谷のミニシアター「渋谷アップリンク」

追記:リンク「公式サイト」 

「黒澤明と『カラマーゾフの兄弟』に関する一考察」の「傍聴記」を「主な研究」に掲載しました

  黒澤監督は一九五一年に公開した映画《白痴》の「演出前記」において、「僕は僕なりに、この主人公と作中人物を永い間愛して来た」と書き、映画《白痴》を「原作の深さ」には及ばないだろうとしながらも、「原作者に対する尊敬と映画に対する愛情を傾けて、せい一ぱい努力するつもりだ」と続けていました(Ⅲ・二八五〕。

実際、戦時中の一九四三年一月に公開された映画《愛の世界・山猫とみの話》の脚本が主に黒澤明監督の手に成るものであることが、最近明らかになりましたが、そこにはすでに長編小説『虐げられた人々』からの影響が強く見られるのです。

しかも、黒澤明のドストエフスキー作品への関心は、映画《乱》やシナリオ『黒き死の仮面』にも強く反映していました。このことを堀伸雄氏は第220回例会での発表で、『カラマーゾフの兄弟』とのテキストの比較をとおして具体的に検証しました。例会の「傍聴記」を「主な研究」に掲載しました。

ドストエーフスキイの会「第45回総会と第221回例会のご案内」を転載します

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分)

        ℡:03-3402-7854 

総会: 午後1時30分から40分程度、終わり次第に例会

議題:活動・会計報告、運営体制、活動計画、予算などについて

 

例会報告者:福井勝也 氏

 題 目:小林秀雄のドストエフスキー、ムイシュキンから「物のあはれ」へ

  *会員無料・一般参加者=会場費500円

 報告者紹介:福井勝也(ふくい かつや)

1954年東京生まれ、1978年ドストエーフスキイの会入会(現会員、運営編集委員)現在「全作品を読む会」(世話人) 、読書会「著莪」(日本近代文学、講師小森陽一氏)並びに「ベルクソン他講義」(講師前田英樹氏)に長らく参加させていただいている。著書等、『ドストエフスキーとポストモダン』(2001)『日本近代文学の<終焉>とドストエフスキー』(2008)、「日本のドストエフスキー」(『現代思想』、2010)ほか執筆。

 第221回例会報告要旨

 小林秀雄は、戦前から書き記して来た「ドストエフスキイ・ノート」のなかで最後の「『白痴』についてⅡ」が一番いいものだと評している(1963年の対談「文学と人生」)。この批評文は、1952.5月から1953.1月まで「中央公論」に連載され、第八回の末尾には「前編終わり」と付された。それから、10年以上の中断があって最終章(第9章)が書き加えられ、1964年5月に『「白痴」について』(角川書店)が単行本として発刊された。文字通り「未完」も多い小林の「ドストエフスキイ・ノート」にあって、とにかく結末が付けられて刊行されたことは注目すべき点だろう。この「ポイント」に着目し、この63年頃に「戦前から持続してきたドストエフスキイ論考が微妙に変異していた」として、ここに小林批評の「衰弱」(「クリティカル・ポイント」)を指摘したのが山城むつみ氏であった。それが氏の処女作「小林批評のクリティカル・ポイント」(1992)であって、その年の「群像」新人賞を獲得した。その山城氏が近年、大著『ドストエフスキー』(2010)の批評家として大成されてきているのは周知の通りである。

今回の当方の発表も山城氏が問題としたこの時期への関心から始めたい。しかしタイトルに「ムイシュキンから「物のあはれ」へ」と副題を付したように、話の到達点は山城氏のそれと大分違ったものになると考えている。だからと言って、余りこの問題に限局して論争的に係わるつもりはない。話の端緒と結び位で丁度良いと思っている。

昨年は小林没後30年という年回りから、関連の書物が何点か刊行された。そのなかで記憶に残った一つが、盟友河上徹太郎との対談「歴史について」(1979)であった。対談の翌年に河上が亡くなり、二人のものが、結局は「小林秀雄最後の対談」となった。昨春そのような触れ込みで再録発表された。対談は既読であったが、掲載誌「考える人」にはCDが付されていて、二人の声がまさに生き返ったように響いて新鮮に聴き返した。

ここでも二人の主題はドストエフスキーに向かってゆく。小林は、「「白痴」をやってみるとね、頭ができない、トルソになってしまうんだな。「頭」は「罪と罰」にあることが、はっきりしてしまったんだな。「白痴」はシベリアから還ってきたんだよ」と持論の感慨を吐露する。河上はそれに「そりゃ、わかっている」と即答している。この科白の裏には、どうにか「白痴ノート」に結末を付けた、この間の小林の苦渋の声が聞こえるようだ。しかし同時に、小林は「トルソ」ではあっても、中断後10年以上を費やした最後、精一杯の「ムイシュキン」像を最終章に書き記している。それは、「白痴」の物語の最後に現れた「傍観するリアリスト(エヴゲーニイ)に「事件全体に、何一つ真面目なものがない」という言葉を吐かせながら、次のようにその「ムイシュキン」像を語って「ノート」末尾へと導いてゆく直前の言葉に表現された。

作者が意識の限界点に立って直接に触れる命の感触ともいうべき、明瞭だが、どう手のつけようもない自分の体験を、ムイシュキンに負わせた事はすでに述べた。この感触は、日常的生の構造或はその保存と防衛を目的とするあらゆる日常的真理や理想の破滅を代償として現れる。それは、その堪え難く鋭い喜びと恐怖とが證している。この内的感触に、作者は「唖のように、聾のように苦しむ」のだが、その苦しみもムイシュキンに負わせた。ただ限りない問いが、「限りない憐憫の情」として人々に働きかけるようにムイシュキンを描いた。殺人者と自殺者とがムイシュキンの言わばこの魔性を一番よく語り、どうしようもなく、彼に惹かれる。彼は孤独ではない。ムイシュキンは、ラゴージンのナイフを無意識のうちに弄ぶと言ってはいけないであろう。生きる疑わしさが賭けられた、堪えられぬほど明瞭な意識のさせる動作だと言った方がよかろう。ドストエフスキイの形而上学は、肉体の外にはないのである。

今回僕が着目したのは、ここの文章全体を背景にした下線を引いた箇所だ。つまり限りない問いに駆られて、「限りない憐憫の情」の人として描かれた「ムイシュキン」像だ。ここに、小林が生涯ドストエフスキーに追求した「ネガ」としての「キリスト」像が明らかになる。しかしそれだけではない。そのことの意味は、当日に譲りたいと思うのだが、ここで少しだけ触れておきたい。その前提には、山城氏も注目した1963(S.38)年(この年、小林は作家同盟の招きでソビエトを訪れ、ヨーロッパを廻って帰国している)前後の小林の旺盛な批評活動の推移がある。その一つが、1958(S.33)年から開始されて、結局未完に終わったベルグソン論「感想」であって、それが中断されたのがこの1963年であった。そして、小林はその「中絶」から踵を返すようにロシア旅行に出かけ、ドストエフスキーの墓を訪ねる機縁を得た。その「墓詣り」の希望に率直に触れたのが「ネヴァ河」(帰国後11/30~12/5まで朝日新聞連載)であり、そのソヴェト・ロシアという国家の歴史的特殊性を日本の「万葉集」を引き合いにして語ったのが「ソヴェトの旅」(11/26、文藝春秋際講演)であった。なお、この二編は他の注目すべきエッセーとともに『考えるヒント』に収録され(執筆は1959年から64年)、『「白痴」について』の刊行同年(64)に出版されている。ここにも注目したい。そしてもう一つ重要なのは、小林はベルグソン論「感想」の連載を続けながら、途中の1960(S.35)年に「本居宣長 ― 『物のあはれ』の説について」をすでに発表していたことだ。しかし何故かこの宣長論は、小林の生前に著作リストから除外されたらしい。この辺りは、前田英樹氏の『小林秀雄』(1998)に教えられた。いずれにしても、小林秀雄が最後に語ろうとしたドストエフスキーの「ムイシュキン」像は、「物のあはれ」に転移、連続してゆく機縁としてあり得たのではないかというのが、今回僕の発表の思いである。まあ、その一端だけでも語ることができればよいのだが。(2014.4.3)

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例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

(2015.4.30、総会の回数などを訂正)

「ブログ記事・タイトル一覧」のページにⅤを掲載しました

 

「ブログ記事」タイトル一覧Ⅴとして、2014年1月14日から4月22日までのブログ記事の題名を「ブログ記事・タイトル一覧」(物件)に掲載しました。

 「ブログ記事」タイトル一覧のⅠ~Ⅳともリンクしました。

「小林秀雄の芥川龍之介観と黒澤明」を「主な研究(活動)」に掲載しました

 

先ほどアップしたブログでも少しふれましたが、当初は小林秀雄の芥川龍之論と黒澤明の映画《羅生門》との比較は大きなテーマなので、今回は省くつもりでした。

しかし、このテーマを省いてしまうと司馬遼太郎が「歌は事実をよまなければならない」(『坂の上の雲』・「子規庵」)として「写生」の重要性を訴えた子規から漱石を経て、芥川につながる日本文学の流れを踏まえている黒澤と、このような流れを軽視していると思える小林秀雄との違いが見えにくくなってしまうことに気づき、急遽、必要最小限はふれるようにしました。

そのために発行の予定が大幅に延びてしまいましたので、その一部を「主な研究」に抜粋して掲載するとともに、ドストエフスキーの初期の作品と芥川作品との関連についても少し言及しておきます。

 

「黒澤明・小林秀雄関連年表」を更新して、「年表」のページに掲載しました

 当初は省くつもりだった小林秀雄の芥川龍之論と
黒澤明の映画《羅生門》との比較を行ったために、
最終段階で予想以上に手間取ってしまいましたが、ようやく本論を脱稿しました。

 第4章では夏目漱石の『夢十夜』や『三四郎』にも言及していますので、 年表では芥川だけでなく小林秀雄の誕生の年に亡くなった正岡子規や漱石にも触れています。
 
 
 

 このことにより「写生」の重要性を訴えた子規から漱石を経て、
芥川につながる日本文学の流れを踏まえている黒澤と、
このような流れを軽視していると思える小林秀雄との違いも明確になったと思えます。