高橋誠一郎 公式ホームページ

2014年

映画《ゴジラ》考――「ゴジラ」の怒りと「核戦争」の恐怖

 「第五福竜丸」事件が起きた年に映画《ゴジラ》(原作:香山滋。脚本:村田武雄・本多猪四郎)が製作されてから、今年が60周年に当たります。アメリカで製作された《Godzilla ゴジラ》がヒットしていることもあり、NHKのBSで7月8日にデジタルリマスター版《ゴジラ》の第一作が放映されました。

 久しぶりにこの映像を見直すと、志村喬の演じた古代生物学者の山根博士などの言葉をとおして、水爆の危険性と核エネルギーの問題点が鋭く指摘されていたことに気づかされます。

 昨年の「終戦記念日」にはブログ記事の〈終戦記念日と「ゴジラ」の哀しみ〉で、原爆が投下された後の広島を見た体験について語った本多猪四郎監督の言葉を紹介しながら、映画《ゴジラ》が核の危険性を鋭く指摘していたことを紹介しました。

 最近、『初代ゴジラ研究読本』(洋泉社MOOK、2014年)に《ゴジラ》の脚本が掲載されましたので、今日と「広島原爆の日」の明後日の2回にわたって「映画・演劇評」のページで、黒澤映画《生きものの記録》も視野に入れながら映画《ゴジラ》を考えてみたいと思います。

 第一回の今回は〈「ゴジラ」の怒りと放射能の隠蔽〉と題して、スピルバーグ監督の映画《ジョーズ》(1975年)にも言及しながら、「情報」の隠蔽の問題がこれらの作品でどのように描かれているかを考察し、第二回には〈「ゴジラ」の恐怖と「核戦争」の恐怖〉と題して、タルコフスキーの映画《サクリファイス》にも言及しながら、冷戦下の軍備拡大の恐怖とソ連から観た映画《ゴジラ》の問題を考察することにします。

リンク→映画《ゴジラ》考Ⅰ――映画《ジョーズ》と「事実」の隠蔽

リンク→映画《ゴジラ》考Ⅱ――「大自然」の怒りと「核戦争」の恐怖

リンク→映画《ゴジラ》考Ⅲ――映画《モスラ》と「反核」の理念

リンク→映画《ゴジラ》考Ⅳ――「ゴジラシリーズ」と《ゴジラ》の「理念」の変質

リンク→映画《ゴジラ》考Ⅴ――ハリウッド版・映画《Godzilla ゴジラ》と「安保関連法」の成立

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 リンク→『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』(のべる出版企画)の目次

(2015年10月30日、リンク先を追加。2016年1月2日、リンク先と書影を追加)

『黒澤明と小林秀雄』の「人名・作品名索引」を「著書・共著」に掲載

 

 『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)の「人名・作品名索引」を作成しました。  

これまでも『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』の事項索引などを作成して、その本の「著書・共著」のページに掲載してきました。

ただ、そのページ内ではかえって見つけにくいので、「著書・共著」に索引として独立させました。

リンク先→黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(人名・作品名索引)

 

 

〈「放射能の除染の難しさ」と「現実を直視する勇気」〉を「主な研究」に掲載

 

 原発事故の後も福島県に残ってこどもたちの健康を守るための「放射能測定」などの地道なボランティア活動を行っている吉野裕之氏を招いての研究会が、7月11日に日本ペンクラブの「子どもの本委員会」と「環境委員会」との共催で開催されました。

 掲載が遅れてだいぶ以前のことになってしまいましたが、今回の研究会からも多くのことを学びましたので、「主な研究」にその時の報告とその後の経過を踏まえて私の感想を記しておきます。

「トップページ」の構成を改正

 

昨日、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』が刊行されましたので、「お知らせ」と「著書・共著」の記述を改めました。

また、「トップページ」に掲載されているタイトル数が増えて見にくくなったので、各ページの「タイトル一覧」へのリンクを分かりやすくするとともに、トップページの構成を大幅に変更しました。

「集団的自衛権の閣議決定」と「憲法」の失効

 

「集団的自衛権の閣議決定」と「憲法」の喪失

 

昨年の10月25日に「特定秘密保護法案」を閣議決定し、その後、強行採決していた安倍内閣は、昨日、「集団的自衛権」を閣議で決定しました。

「集団的自衛権」の重大な問題点についてはすでに新聞などでも詳しく報道されていますが、「同時多発テロ」を理由にアメリカのブッシュ大統領が主導して行ったアフガンやイラクとの戦争には「大義」がなかったことが明白になっており、それが中東情勢やアフガンなどの混乱と直結しているのです。  

 安倍政権は中国などの脅威を強調して国民の不安を煽ることで、「国民の生命」を守るためには「集団的自衛権」が必要なことを強調しています。しかし、今回の法案は福島第一原子力発電所の大事故をまだ解決し得ていない日本が、国際的なテロに巻き込まれる危険性を増やし、「国民の生命」をより脅かすものだといえるでしょう。                     

「国民の生命」だけでなく、近隣諸国の安全にも関わる「集団的自衛権」の問題が、国会での十分な議論や国民への説明もほとんとないままに閣議で決定された2014(平成26)年7月1日を「昭和憲法」が実質的には失効した日として、記憶せねばならないでしょう。

*   *   *   

昨年の11月13日に私は、〈「特定秘密保護法案」と明治八年の「新聞紙条例」(讒謗律)〉というブログ記事で次のように書きました。

「征韓論」に沸騰した時期から西南戦争までを描いた長編小説『翔ぶが如く』で司馬遼太郎氏は、「この時期、歴史はあたかも坂の上から巨岩をころがしたようにはげしく動こうとしている」と描いていました(『翔ぶが如く』、第3巻「分裂」)。

世界を震撼させた福島第一原子力発電所の大事故から「特定秘密保護法案」の提出に至る流れを見ていると、現在の日本もまさにこのような状態にあるのではないかと感じます。

*     *   *

 「文明史家」とも呼べるような広い視野を有していた作家の司馬遼太郎氏は、日本が無謀な戦争へと突入することになる歴史的な経緯を、『坂の上の雲』や『翔ぶが如く』などの長編小説で描いていました。

 しかも司馬氏は、『竜馬がゆく』において幕末の「攘夷運動」を詳しく描き、その頃の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となったと歴史の連続性を指摘し、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と痛烈に批判していました(第2巻・「勝海舟」)。

「明治憲法」を有していた日本がなぜ、昭和初期の「別国」となったかについて司馬氏が明治を扱った長編小説で参謀本部や内務省の危険性に注意を促していたことに留意するならば、幕末の動乱を描きつつ司馬氏の視線が昭和初期の日本だけでなく、平成の日本にも向けられていたことは確かでしょう。

*    *   *

昨日、「あとがきに代えて――小林秀雄と私」をブログにアップし、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』が私の手からは離れました。   

これからは積年の課題である『司馬遼太郎の視線(まなざし)』(仮題)に本格的に取り組むことで、「新聞記者としての正岡子規と漱石との友情」に注意を払いながら「憲法」の問題を分析することにより、「憲法」を持たなかったロシア帝国の滅亡を予告した秋山好古の言葉が終章で描かれている『坂の上の雲』の現代的な意義を解き明かすことにします。

   (7月4日、題名を〈「参謀本部の暴走」と「集団的自衛権の閣議決定」〉から変更し、記事を加筆)

 

「あとがきに代えて──小林秀雄と私」を「主な研究」に掲載

 

『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』の「あとがきに代えて」では、小林秀雄のバルザック観にも言及しながら、小林秀雄のドストエフスキー論と私の研究史との関わりを簡単に振り返りました。       

 「あとがきに代えて」を謝辞の部分を省略した形で、「主な研究」に掲載しました。                  

   リンク先→ あとがきに代えて──小林秀雄と私

 

 

 

ドストエーフスキイの会「第222回例会のご案内」を転載

知らせが遅くなりましたが、「第222回例会のご案内」を「ニュースレター」(No.123)より転載します。

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第222回例会のご案内 

下記の要領で例会を開催いたします。今回は『広場』23号の合評会となります。

皆様のご参加をお待ちしています。

                    

日 時: 2014年7月19日(土)午後2時~5時

場 所:千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車徒歩7分)

       ℡:03―3402―7854 

 

掲載主要論文の論評者

原口論文:『白痴』におけるキリスト教思想――――――福井勝也 

高橋論文:「シベリヤから還った」ムイシキン――――木下豊房

大木論文:ドストエーフスキイとワレンチン・ラスプーチン―――――-近藤靖宏

清水論文:ドストエフスキーとグノーシス ――――――北岡 淳

エッセイ:――――熊谷のぶよし

司会:高橋誠一郎

 

*会員無料・一般参加者=会場費500円

*   *   *

 

例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

 

『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』の写真を掲載

 

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『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』の表紙と帯が完成しましたので、拙著の写真をトップページの「お知らせ」と「主な研究(活動)」、および「著書・共著」のページにも掲載しました。                  

これに伴い以前に掲載していた目次も訂正し、「著書・共著」のページを更新しました。リンク先→近刊『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)

 

「あとがきに代えて」でも記しましたが、「テキスト」という「事実」を自分の主観によって解釈し、大衆受けのする「物語」を「創作」するという小林の方法は、厳しい現実を直視しないで威勢のよい発言をしていた鼎談「英雄を語る」などにおける歴史認識にも通じていると思えます。このような方法の問題がきちんと認識されなければ、国民の生命を軽視した戦争や原発事故の悲劇が再び繰り返されることになるでしょう。

注 1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、「英雄とはなんだらう」という同人の林房雄の問いに「ナポレオンさ」と答えた小林秀雄は、ヒトラーも「小英雄」と呼んで、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語っていた。

戦争に対して不安を抱いた林が「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけると小林は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていたのである。この小林の言葉を聴いた林は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」との覚悟を示していた。(「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁((不二出版、復刻版、2008~2011年)。

                                                                        

 
黒澤監督のドストエフスキー観をとおして、小林秀雄のドストエフスキー観や「原子力エネルギー」観の問題点を明らかにしようとした拙著が、現政権の危険な原発政策を変えるために、いささかでも貢献できれば幸いです。加筆・2014年6月29日)
*   *

「主な研究」に掲載した〈黒澤映画《夢》と消えた「対談記事」の謎〉を更新して再掲

 

 拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』がようやく校了となりました。

 本書もだいぶ時間をかけて書いていたのですが、  全体を書き終えた後で読むと論理的なつながりが弱い箇所があることに気づきました。    

 ことに、小林秀雄がムィシキンの批判者として重要視していたラドームスキーについてはあまり知られていないようなので、プーシキンの主人公と同じ名前のエヴゲーニーという名前を持つラドームスキーの役割を詳しく分析しました。このことにより、 映画《白痴》から映画《赤ひげ》への流れと、黒澤明のドストエフスキー理解の深まりがいっそう明確になったのではないかと考えています。

 それゆえ、「はじめに――黒澤映画《夢》と消えた「対談記事」の謎」においても黒澤明と小林秀雄の「対談」に至るまでとその後の流れを厳格に時間軸に沿って記すとともに、 「原子力エネルギー」だけでなく「大地主義」についても記すことで、 両者の見解の違いを明瞭にしました。

リンク先 →黒澤映画《夢》と消えた「対談記事」の謎

 

「Ⅳ、黒澤明・小林秀雄関連年表」を更新

 【スタンバーグ監督の映画《罪と罰》】などを追加した前回に続いて、「年表」のページにある標記の「Ⅳ、黒澤明・小林秀雄関連年表(1902~1998)」に新たな項目を追加し、誤記を訂正しました。

なお、前回の更新では【チャップリン監督の《独裁者》】を追加していましたが、それは黒澤映画《夢》がこの映画からも強い影響を受けていると思われるからです。

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 今回の主な追加事項は、1935年に公開された山本嘉次郎監督の映画《坊つちゃん》と1936年に公開された映画《吾輩は猫である》で、これらはまだ見ていないのですが、文芸作品の映画化という視点からも重要だと思えます。 

黒澤明と小林秀雄の芥川龍之介観を比較した際には、映画《羅生門》にも言及していたのでこの映画がグランプリ言及した1951年9月のヴェネツィア国際映画祭においてグランプリを受賞したことも記しました。

また、石原慎太郎の『太陽の季節』がヒットした時期は、原発推進の流れが加速した時期に重なっていました。このこととの関連で1975年に小林秀雄が、都知事選で後に原発推進だけでなく、核武装も唱えることになる石原慎太郎の推薦人となったことを記し、1995年12月には高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウムの漏洩による火災事故があったことも記載しました。