私は1994年4月から1年間、1876年創設という古い伝統を持つイギリス・ブリストル大学で、ロシアと日本の近代化の比較をテーマとして研究する機会を与えられました。そのことが私のドストエフスキー研究に大きな意味を持っていることはすでに書きました。
このときのイギリスでの滞在はロシア文学の研究だけでなく、植民地の問題やアヘン戦争などイギリスの近代化の問題の考察の面でも大きな意味がありましたが、それ以外にも自然保護を行うナショナルトラスト運動やイギリスにおける公共放送の役割の認識も深めることができました。
たとえば、BBCやITNといったテレビ局のニュースの解説者にアフリカ系の黒い肌の人がいたりして、民族問題に対する姿勢を感じたりもしました。これは過去に植民地を持っていたイギリスや民族問題をつねに抱えているアメリカなどでは常識なのでしょうが、新鮮な驚きでした。
また、公共放送としても、NHKと比較すると報道も国際情勢を広い視点からなるべく客観的に伝えようとしていることにも強い共感を覚え、戦前や戦中の日本における報道のあり方が自国中心主義であったことを鋭く批判していた作家の司馬遼太郎氏の言葉を改めて思い出してもいました。
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すでに多くの新聞が報じていますが、NHKの籾井(もみい)勝人会長は25日の会見で、日本の戦時中の行動や植民地支配に対する反省が感じられないような発言を繰り返し、その後「就任の記者会見という場で私的な考えを発言したのは間違いだった。私の不徳の致すところです。不適当だったと思う」と反省の弁を述べたとのことです。
しかし、公共放送のトップが私的な見解とはいえ、会見でこのような発言をすることは、報道機関のトップとしての資質に欠けると言わねばならないでしょう。
ここでは「報道」根幹に関わる「特定秘密保護法」についての発言を大きく取り上げた「東京新聞」の本日付の社説の一部を引用しておきます。
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籾井氏は、NHKが従うべき放送法第一条の「目的」に掲げられた「不偏不党」の意味を取り違えてはいないか。例えば、昨年暮れの臨時国会で与党が強行可決した特定秘密保護法である。
籾井氏は就任会見で「一応(国会を)通っちゃったんで、言ってもしょうがない。政府が必要だと言うのだから、様子を見るしかない。昔のようになるとは考えにくい」と述べた。
同法は、防衛・外交など特段の秘匿が必要とされる「特定秘密」を漏らした公務員らを厳罰に処す内容だが、法律の乱用や人権侵害の可能性が懸念されている。
にもかかわらず「昔の(治安維持法の)ようになるとは考えにくい」と言い張るのは、一方的な見解の押し付けにほかならない。
秘密保護法を推進した安倍晋三首相側への明らかなすり寄りで、もはや不偏不党とはいえない。
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原発事故の大きさを隠蔽していると思えるような報道からは政権との癒着が疑われるような感じを強く受けていましたが、今回の会見からはNHKが自立した公共放送の資格を放棄した観すらあります。
最近はNHKのニュース番組や報道番組をあまり見なくなっているので、詳しい状況を分析することはできませんが、本日付けの「沖縄タイムス」には新会長の発言に関連して次のような社説が載っていました。
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24日夜に放送されたNHKスペシャル「返還合意から18年 いま“普天間”を問う」は、政府の広報番組のような内容だった。
小野寺五典防衛大臣の言い分をえんえんと流すだけ。名護市長選の意味を問い直すこともなく、辺野古移設反対の民意を丁寧に伝えることもなかった。
NHKの内部で何が起きているのか。受信料を徴収している以上、説明責任を果たすことが不可欠である。
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このブログでも書いたように司馬氏の原作を元にしたスペシャルドラマ《坂の上の雲》が、「むしろ旗」を掲げて「尊王攘夷」を叫んでいた幕末の人々を美しく描き出した大河ドラマ《龍馬伝》を挟んで放映されたことは、イデオロギーの危険性を指摘していた司馬氏の意向に反していたばかりでなく、日本のナショナリズムを煽ることになり、選挙結果にも大きく影響したと考えています(ブログ記事〈改竄(ざん)された長編小説『坂の上の雲』――大河ドラマ《坂の上の雲》と「特定秘密保護法」〉参照)。
そればかりではなく、近隣の国々のナショナリズムをも煽り建てることになり、東アジアの緊張を高める結果になったと思えます。
「国家」の名の下に「国民」に「沈黙」と「犠牲」を強いて「亡国への坂」をころがった「昭和初期の日本」の問題点を鋭く指摘した司馬氏の考察は、ブログ記事「司馬作品から学んだことⅨ――「情報の隠蔽」と「愛国心」の強調の危険性」で紹介していましたが、現在の日本はその時と非常に似てきていると思えますので、再掲しておきます。
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ロシア帝国の高級官僚たちとの類似を意識しながら司馬は、日露戦争のあとで「教育機関と試験制度による人間が、あらゆる分野を占めた」が、「官僚であれ軍人であれ」、「それぞれのヒエラルキーの上層を占めるべく約束されていた」彼らは、「かつて培われたものから切り離されたひとびとで」あり、「わが身ひとつの出世ということが軸になっていた」とした。
そして、「かれらは、自分たちが愛国者だと思っていた。さらには、愛国というものは、国家を他国に対し、狡猾に立ちまわらせるものだと信じていた」とし、「とくに軍人がそうだった」とした後で司馬は、「それを支持したり、煽動したりする言論人の場合も、そうだった」と続けたのである(「あとがき」『ロシアについて』、文春文庫)。
このような考察を踏まえて司馬はこう記すのである。「国家は、国家間のなかでたがいに無害でなければならない。また、ただのひとびとに対しても、有害であってはならない。すくなくとも国々がそのただ一つの目的にむかう以外、国家に未来はない。ひとびとはいつまでも国家神話に対してばかでいるはずがないのである」。
さらに晩年の『風塵抄』で司馬は、「昭和の不幸は、政党・議会の堕落腐敗からはじまったといっていい」と書き、「健全財政の守り手たちはつぎつぎに右翼テロによって狙撃された。昭和五年には浜口雄幸首相、同七年には犬養毅首相、同十一年には大蔵大臣高橋是清が殺された」と記し、「あとは、軍閥という虚喝集団が支配する世になり、日本は亡国への坂をころがる」と結んだ(『風塵抄』Ⅱ、中公文庫)。