「主な研究」のページのタイトルが増えたので「主な研究(活動)」タイトル一覧を作成しました。
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ここのところ連日、「STAP細胞」をめぐる騒動がテレビなどで詳しく報道されています。
科学者の倫理を問うことは、「道徳」という教科の柱ともなる重要なテーマでしょう。
しかし、「STAP細胞」をめぐるこの騒動が大きくなった一因は、理研と産総研(経産省所管の産業技術総合研究所)を特定法人に指定するための法案の今国会での成立を急ぐために、処分を急いだためとも言われています。
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問題はこの騒動に隠れた形で、まだ、福島第一原子力発電所の事故の問題がほとんど解決されていない中、「国民の生命」や「地球環境」の問題にも関わるより大きな「道徳」的テーマと言える「原発」の再稼働が決められたことです。
しかも今回の決定は、先の参議院選挙や衆議院選挙での政府や与党の「原発をゼロに向けて段階的に削減する」という公約にも反していると思われます。
このような国政レベルでの「国民」への約束が破られるならば、「国の道徳」は成立しないでしょう。
今朝の「東京新聞」が1面を全部割いてこの問題を取り上げていましたので、その一部を引用しておきます。
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安倍政権は「エネルギー基本計画」で原発推進路線を鮮明にした。東日本大震災から三年で、東京電力福島第一原発事故を忘れたかのような姿勢。電力会社や経済産業省という「原子力ムラ」が復活した。 (吉田通夫、城島建治)
計画案の了承に向けた与党協議が大詰めを迎えた三月下旬。経産省資源エネルギー庁の担当課長は、再生可能エネルギー導入の数値目標の明記を求められ「できません」と拒否した。(中略)
原子力ムラの動きの背後には、経産省が影響力を強める首相官邸がある。
安倍晋三首相の黒子役を務める首席秘書官は、経産省出身でエネルギー庁次長も務めた今井尚哉(たかや)氏。首相の経済政策の実権は、今井氏と経産省が握っている。
昨年七月。今年四月から消費税率を8%に引き上げるか迷っていた首相は、税率を変えた場合に経済が受ける影響を試算することを決めた。指示した先は財務省でなく経産省だ。
歴代政権の大半は「省の中の省」と呼ばれる財務省を頼ったが、安倍政権は経産省に傾斜。その姿勢が原子力ムラを勢いづかせた。
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以前、このブログでは明治以降の日本において「義勇奉公とか滅私奉公などということは国家のために死ねということ」であったことに注意を促して、「われわれの社会はよほど大きな思想を出現させて、『公』という意識を大地そのものに置きすえねばほろびるのではないか」という痛切な言葉を記していた司馬遼太郎氏の言葉を紹介しました(『甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか』、『街道をゆく』第7巻、朝日文庫)。
その時、私が強く意識していたのは満州事変以降の日本の歴史と原発事故に至る日本の歴史との類似性でした。
繰り返しになりますが、事態に改善がみられないので、ここでも再び引用しておきます。
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司馬氏が若い頃には「俺も行くから 君も行け/ 狭い日本にゃ 住み飽いた」という「馬賊の唄」が流行り、「王道楽土の建設」との美しいスローガンによって多くの若者たちが満州に渡ったが、1931年の満州事変から始まった一連の戦争では日本人だけでも300万人を超える死者を出すことになったのです。
同じように「原子力の平和利用」という美しいスローガンのもとに、推進派の学者や政治家、高級官僚がお墨付きを出して「絶対に安全である」と原子力産業の育成につとめてきた戦後の日本でも「大自然の力」を軽視していたために2011年にはチェルノブイリ原発事故にも匹敵する福島第一原子力発電所の大事故を産み出したのです。
それにもかかわらず、「積極的平和政策」という不思議なスローガンを掲げて、軍備の増強を進める安倍総理大臣をはじめとする与党の政治家や高級官僚は、「国民の生命」や「日本の大地」を守るのではなく、今も解決されていない福島第一原子力発電所の危険性から国民の眼をそらし、大企業の利益を守るために原発の再稼働や原発の輸出などに躍起になっているように見えます。
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「道徳」の問題が焦眉の課題となってきた現在、テレビや新聞は「STAP細胞」で小保方氏のインタビュー記事を書くことよりも大きなエネルギーを、「国民の生命」や「地球環境」にかかわる原発の再稼働を進めている経産省の官僚一人一人へのインタビューなどを行って、検証すべきだと考えますがどうでしょうか。
2011年11月の比較文明学会のシンポジウムで〈「生命の水の泉」と「大地」のイデア〉と題した考察を発表しました。
このことについては「福島原発事故とチェルノブイリ原発事故」と題した3月12日のブログ記事でもふれて、標記の記事を「主な研究」に掲載していましたが、ブログの題名に記さないと見つけにくいことが分かりましたので、改めてこのブログでも題名を掲載することにします。
第4章に手間取って拙著の刊行が遅れておりますが、牛歩のような歩みでも少しずつは進んでいますので、ここではお詫び代わりに、標記のテーマについての短い記事を掲載しておきます。
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1936年に書いた映画評でチャーリー・チャップリンの後援で監督としてデビューし、米国映画最古のギャング映画と言われる『暗黒街』(1927)などを公開していたスタンバーグ監督の映画《罪と罰》を、小林秀雄が厳しく批判していたことを第3節「長編小説『罪と罰』と映画《罪と罰》」で紹介していました(スタンバーグ監督についてはウィキペディア参照)。
ただ、この映画の詳細は分からなかったのですが、黒澤自身が『蝦蟇の油――自伝のようなもの』(岩波文庫)で、1929年までに観た「映画の歴史に残る作品」として、1925年のデビュー作《救ひを求むる人々》(1925)や《暗黒街》(1927)、さらに《非常線》(1928)と《女の一生》(1929)の4本のスタンバーグ作品を挙げていたことがわかりました。
残念ながら、『蝦蟇の油――自伝のようなもの』では1935年に公開された映画《罪と罰》については触れられていませんが、ドストエフスキーを敬愛していたに黒澤監督が1936年にP・C・L映画撮影所(東宝の前身)に助監督として入社したことを考えるならば、非常に強い関心を持ってこの映画を観ていたことは確実だと思われます。
その意味でもこの映画について論じながら「評論」と「映画」の違いを強調した小林秀雄の映画《罪と罰》評は、黒澤明の『罪と罰』観を考察するうえでも非常に重要だと思うようになりました。
このような考えを第4章だけでなく、「はじめに」も反映させましたので、とりあえず「はじめに」黒澤映画《夢》と消えた「対談記事」の謎の改訂版をこれまでの原稿と差し替えて「主な研究」に掲載します。
東京電力・福島第一原子力発電所で大事故が発生してから3年が経ちましたが状況はいっこうに改善されていないばかりか、汚染水などの問題は悪化しているように見えます。
私たちが経験もしたことのない「天災」の関東大震災についてのニュースは、昨日、大きく取り上げられていましたが、「人災」であった福島第一原子力発電所の事故については、NHKをはじめ民放でもあまり大きくは取り上げられていないように感じました。
こうした中、「東京新聞」は「原発関連死1000人超す 避難長期化、続く被害」と題した署名記事を3月10日の一面に掲載していましたので、その一部を引用して転載します。
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東京電力福島第一原発事故に伴う避難で体調が悪化し死亡した事例などを、本紙が独自に「原発関連死」と定義し、福島県内の市町村に該当者数を取材したところ、少なくとも千四十八人に上ることが分かった。昨年三月の調査では七百八十九人で、この一年間で二百五十九人増えた。事故から三年がたっても被害は拡大し続けている。
福島県の避難者数は約十三万五千人。このうち、二万八千人が仮設住宅で暮らしている。医療・福祉関係者の多くは、関連死防止に住環境の整備を指摘する。県は原発避難者向けに復興公営住宅四千八百九十戸の整備を進めているが、入居が始まるのは今秋から。一次計画分の三千七百戸への入居が完了するのは二〇一六年春になる見通しだ。
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先日、WOWOW放送の『故郷よ』を観た映画ファンの友人から、次のようなメールをもらいました。
「チェルノブイリの原発事故によって翻弄される人々を扱った作品でした。チェルノブイリのロシア語の意味がヨハネ黙示録に書かれている「ニガヨモギ」とは初めて知りました。作品中の字幕では、「忘却の草花」だと出てきます。10年後の福島はどうなっているのだろう。そんなことを考えさせる作品でした。」
福島第一原子力発電所事故が、1986年に起きたチェルノブイリ原発事故に匹敵するレベル7の大事故であることは知られていますが、「苦よもぎ」と原発事故の件はあまり知られていないようです。
世界のコスモロジーを比較した2011年11月の比較文明学会のシンポジウムで、私は〈「生命の水の泉」と「大地」のイデア〉と題した考察を発表しました。そこでは長編小説『白痴』にも言及しながら、「ニガヨモギ」と原発事故との関連にも言及していましたので、その時の原稿を「主な研究」のページに掲載します。
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黒澤明監督は「第五福竜丸」事件をきっかけに撮った映画《生きものの記録》で、主人公の老人に「臆病者は、慄え上がって、ただただ眼をつぶっとる」と語らせていました。
日本は自然を大切にすると国と言われて来ましたが、日本の大地が汚され国民の生命が脅かされている状況に対しても、多くの国民はいまだに「眼をつぶって」黙っているようにみえます。
私たちはきちんと原発事故を直視して、脱原発の声を上げるべきでしょう。
お知らせが遅くなりましたが、「第220回例会のご案内」と「報告要旨」を「ニュースレター」(No.121)より転載します。
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下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。
日 時:2014年3月22日(土)午後2時~5時
場 所:千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分)
℡:03-3402-7854
報告者:堀 伸雄 氏
題 目: 黒澤明と「カラマーゾフの兄弟」に関する一考察
*会員無料・一般参加者=会場費500円
報告者紹介:堀 伸雄(ほり のぶお)
1942年(昭和17)生まれ。日本ビクター㈱定年後、新興企業で上場準備、監査を担当。現在はフリー。「黒澤明研究会」会員。世田谷文学館「友の会」運営に参加。同「友の会」の講座で「黒澤映画と『核』」(2012)、「核を直視した四人の映画人たち」(2013)を担当。論文「試論・黒澤明の戦争観」「『野良犬』における悪」(黒澤明研究会会誌)など。資料・記録集「黒澤明 夢のあしあと」(黒澤明研究会編・共同通信社・1999年)の編纂に参加。
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第220回例会報告要旨
“創造は記憶である。”黒澤明が生前、随所で口にしていた言葉である。創造は、単なる瞬時の閃きや直感からではなく、倦まず弛まず蓄積してきた芸術的渉猟による記憶から生まれるとの信念を抱いていた。黒澤は、その記憶の引き出しから溢れ出るイマジネーションをシナリオとして書きなぐる。黒澤明の記憶の大きな分野を占めていたのが、ドストエフスキー、トルストイ、バルザック、シェイクスピアである。特に、こだわったのが『白痴』であり、苦闘の末に映像化した(1951公開)。国内での一般的な評価は、惨憺たるものがあったが、旧ソ連のグリゴーリー・M・コージンジェフ監督は、黒澤版『白痴』をもって、「古典を映画に再現した奇蹟である」と絶賛した。
然るに、黒澤明は、ドストエフスキーの最高傑作かつ生涯最後の作品となった『カラマーゾフの兄弟』については、『白痴』をはじめ、『罪と罰』、『虐げられた人々』、『死の家の記録』等の作品に比べ、なぜかあまり語っていない。例えば、「キネマ旬報」1977年4月上旬号の映画評論家・清水千代太との対談「黒澤明に訊く」や、1981年にNHK教育テレビで放映された「黒澤明のマイブック」、1993年の大島渚監督との対談「わが映画人生」等の中で、『白痴』やドストエフスキーに対する思いを、かなり詳述しているにもかかわらず、『カラマーゾフの兄弟』については、特に言及はしていない。2007年4月から京都の龍谷大学と黒澤プロダクションの共同監修により、インターネットに公開されている「黒澤デジタルアーカイブ」に掲載された膨大な黒澤の直筆ノート等を確認しても見当たらない。
その中にあって、『カラマーゾフの兄弟』について注目したい数少ない発言がある。1975年8月に「サンデー毎日」に掲載された小説家・森敦(1912~1989)との対談と、1993年発行のインタビュー集「黒澤明・宮崎駿・北野武~日本の三人の演出家」(ロッキング・オン)での発言である。前者では、「いま、ドストエフスキーのもので何かやるとすれば、『カラマーゾフの兄弟』ね。(中略)ドストエフスキーが書けなかったところを書いてみたいという気持ちはありますね」、後者では、「アリョーシャっていう神学校に行っている天使みたいな弟がいるでしょ?それもドストエフスキーのノートによるとそのアリョーシャは最後に妻(ママ)の暗殺を企てるんですよね。で、ラディカルな革命家になっていくんですよね。そういう予定だったみたいだけど、それはびっくりですよ。あの天使みたいな存在がね」と語っているのである。何れも、ドストエフスキーが生前に構想を抱いていたと思われる『カラマーゾフの兄弟』の「続編」に着目した発言である。黒澤明は、一体、どんなことを考えていたのだろうか。
アリョーシャが教会から俗界に出て、魂の遍歴を辿り変貌していくという最も神秘的な部分に黒澤明がこだわりを抱き続けていたという事実は、特に、黒澤の後期から晩年にかけて、新たな創作への萌芽や作風の変容を予感させ、さらには黒澤自身の人間観・宗教観を考えるうえでも、看過できないように思われる。
今回の報告では、そのような視点から、身勝手な深読みではないかとの批判を覚悟のうえで、特に『乱』(1985公開)とシナリオ『黒き死の仮面』(未映画化・1977)を仮説的に考察し、併せ、一黒澤映画ファンとして、黒澤明の生涯と黒澤作品から感じ取れるドストエフスキーの精神を語らせていただくこととする。
― 参考文献:『全集黒澤明』(岩波書店1987~2002)所収のシナリオ(第3巻「白痴」「生きる」・第4巻「生きものの記録」・第6巻「乱」・最終巻「夢」「黒き死の仮面」)、『蝦蟇の油~自伝のようなもの』(黒澤明・岩波書店・1984)、『黒澤明 夢のあしあと』(黒澤明研究会・共同通信社・1999)
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例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。
昨日は「第五福竜丸」事件から60年に当たる日でしたが、今朝の「東京新聞」も「秘密で終わらせない ビキニ水爆実験60年 解明挑む元教師」との見出しで、元高校教師枝村三郎氏の著作を紹介して「事件は今も未解明な部分が残る」ことを伝えるとともに、この事件と昨年成立した特定秘密保護法との関連にも言及した署名記事を載せています。
「特定秘密保護法」の問題は、福島第一原子力発電所の事故がきちんと収束もしていないなか、なぜ政府がきちんとした議論もないままに「特定秘密保護法」の強行採決をしたのかという問題にも深く関わっていますので、今回はこの記事を抜粋した形で引用しておきます。
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三十年にわたる聞き取り調査で他の船の被ばくを突き止めた、太平洋核実験被災支援センター(高知県)事務局長の山下正寿さん(69)は「第五福竜丸乗組員が他船と連帯できないよう孤立させた」と憤る。
山下さんは最近、国立衛生試験所(現医薬品食品衛生研究所)が、五港での検査が終わった五四年末以降も東京・築地に入荷するマグロなどの肝臓を調べていたことを、試験所の年報で見つけた。五八年十月にも事件当時に近い放射線量を検出した分析結果が出ていた。だが、この報告を基に国が対処した記録はない。
事件当時、広島と長崎に続く核の被害に日本の反核世論は盛り上がったが、「原子力は戦争ではなく平和のために利用するべきだ」とする日米両政府は、ビキニ被ばくの全容を明らかにしようとはしなかった。
外務省は九一年に米国との外交文書を公開したが、文書の機密指定が続いていれば「ビキニ事件は永遠の秘密として闇に葬られていた」と枝村さんは指摘する。
特定秘密保護法の成立で、安全保障上の秘密が拡大解釈されかねない。東京電力福島第一原発事故の全体像をはじめ、解き明かすべき事柄がますます闇の中に埋もれていくのではないか。枝村さんは「民主主義や基本的人権の否定につながる」と危ぶんでいる。
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新聞記者・正岡子規を主人公の一人とした長編小説『坂の上の雲』で司馬遼太郎氏が最も強調していたのは、「事実の隠蔽」が国家を存亡の危機に追いやることでした。
昨日のブログ記事では「第五福竜丸」事件と黒澤映画《生きものの記録》との関わりに触れましたが、福島第一原子力発電所の大事故がなぜ起きたかという「謎」はきちんと解明されねばならないでしょう。
(「第五福竜丸」、図版は「ウィキペディア」より)。
60年前の今日、3月1日にアメリカ軍による水爆「ブラボー」の実験が行われました。
この水爆が原爆の1000倍もの破壊力を持ったために、制限区域とされた地域をはるかに超える範囲が「死の灰」に覆われて、160キロ離れた海域で漁をしていた日本の漁船「第五福竜丸」の船員が被爆し、無線長の方が亡くなられました。
この事件から強い衝撃を受けた黒澤明監督は「世界で唯一の原爆の洗礼を受けた日本として、どこの国よりも早く、率先してこういう映画を作る」べきだと考えて映画《生きものの記録》(脚本・黒澤明、橋本忍、小國英雄)を制作したのです。
(東宝製作・配給、1955年、「ウィキペディア」)。
残念ながら、事件から1年後に公開されたこの映画は「季節外れの問題作」とみなされて、興行的には大失敗に終わりました。
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失敗した理由はいくつか考えられますが、その大きな原因の一つとして「人の噂も75日」ということわざや、「臭い物には蓋(ふた)」ということわざもある日本には、「見たくない事実は、眼をつぶれば見えなくなる」かのごとき感覚が強く残っていることがあるからだと思えます。(7月28日のブログ記事「汚染水の流出と司馬氏の「報道」観」参照)。
しかし、事実は厳然としてそこにあり、眼をふたたび開ければ、その重たい事実と直面することになります。
「第五福竜丸」の事件もすでに多くの日本人は忘れているように見えますが、「東京新聞」はここ数日きちんと報道を続けています。
「放射能で汚染された魚を水揚げした日本の漁船は延べ約千隻に達し、マグロ漁の一大基地である三崎港(神奈川県)の漁船も魚の廃棄などの損害を受けた」ことを伝えている2月27日夕刊の記事の一部をを引用しておきます。
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「放射能は怖いと思った。風に乗り、落ちた灰も海流に乗っていくんだから」
「第11福生丸」の船長だった今津敏治さん(84)=神奈川県三浦市=が当時を振り返る。
実験があったその日、今津さんらはビキニから数千キロ離れたフィジー周辺で操業中だった。焼津港(静岡県)に帰った第五福竜丸の被ばくが十六日に報道された後、船主からの無線で実験を知る。帰路はビキニに近づかないよう遠回りし、船体をせっけんで洗って四月に帰港した。
上陸すると、検査官が船員や魚に測定器を当てた。汚染はないと思っていたが、船体やカジキ、サメから国の廃棄基準を超える放射能が検出され、驚いた。約百六十トンの魚のうち十~二十トンが廃棄され、魚の価格低迷にも苦しんだ。「漁師にとって、魚は生活の資源なのに」。米国への憤りが収まらなかった。
「灰かぶりは来るな」。「第13丸高丸」の甲板員だった鈴木若雄さん(82)=三浦市=は五四年春、静岡県の漁港で飲食店の女性から入店を拒まれた。操業していたのはビキニの数千キロ東のミッドウェー島付近。方向が違うと説明したが、いわれのない偏見に「一番こたえた。こんなところまでうわさが来ているのかと」。
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きれいな水に恵まれている日本には、過去のことは「水に流す」という価値観が昔からあり、この考えは日本の風土には適応しているようにも見えます。
だが、広島と長崎に原爆が投下された後では、この日本的な価値観は変えねばならないでしょう。なぜならば、放射能は「水に流す」ことはできないからです。
黒澤映画《生きものの記録》は「事実」を直視する勇気の大切さを映像をとおして訴えています。
(2015年4月7日、改訂。2016年12月22日、図版を追加)
「黒澤明・小林秀雄関連年表」(ドストエフスキー論を中心に)を更新して「年表」のページに掲載しました。
昨年の12月に掲載した年表では、『罪と罰』の「非凡人の理論」の理解とも関わる小林秀雄の1940年の『我が闘争』の書評(1940)や、「英雄を語る」と題して行われた鼎談などには触れていませんでした。
近日中にそれらも含めた年表を作成する予定ですと記していましたが、拙著の執筆に時間がかかり、ようやくそれらも追加することができました。
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この間に、年表など多くの点で依拠させて頂いていた『大系 黒澤明』の編者の浜野保樹氏の訃報が届きました。
黒澤明研究の上で大きな仕事をされた方を失ったという喪失感にも襲われます。心からの哀悼の意を表します。
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文芸評論家の小林秀雄は非常に大きな存在で、仕事は日仏の文学や思想、さらに絵画論や音楽論など多岐に及んでいますが、年表ではドストエフスキー論を中心に拙著の内容と関わる事柄に絞って記載しました。
ただ、例外的に芥川龍之介論にも言及しているのは、小林秀雄の歴史認識のもっとも厳しい批判者の一人と思われる司馬遼太郎氏の小林秀雄観に関わるからです。
この問題も大きなテーマですので、いずれ稿を改めてこのブログでも書くようにしたいと考えています。
近刊『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』を、現在、鋭意執筆中です。
すでにこのHPで何度も書いてきたように、文芸評論家・小林秀雄と黒澤明監督の『白痴』観は正反対といってもよいほどに異なっていますが、興味深いのは、「第五福竜丸」事件を契機に撮られた映画《生きものの記録》が公開された翌年の一九五六年一二月に、その二人が対談を行っていたことです。
残念ながら、このときの対談はなぜか掲載されませんでしたが、本書では消えた「対談記事」の謎に注目しながら、二人のドストエフスキー観の比較を行っています。
この作業をとおして、黒澤明監督の集大成ともいえる映画《夢》の構造が長編小説『罪と罰』における「夢」の構造ときわめて似ているのは、ドストエフスキー作品の解釈をめぐるほぼ半生にわたる小林秀雄との「静かなる決闘」が反映されていることを明らかにしたいと考えています。