高橋誠一郎 公式ホームページ

10月

「トップページ」の構成を再変更しました

ホームページの項目数が増えて、全体像が見えにくくなってきましたので、「トップページ」の構成を下記のように変更しました。

地のページには、これまでと同じようにこのHP開設の趣旨、管理人のプロフィールを掲載します。

「投稿記事」のページでは、 最初にHPの(ページ構成)とこれから発行される著書や講演会などの(お知らせ)と「新着情報」、および「主な研究(活動」と「映画・演劇評」のタイトル一覧を新しい順で掲載し、その後に「著書・共著」(主題別)、および「書評・図書紹介」(掲載順)と、「年表」のタイトル一覧、およびこれまでの(お知らせ)を掲載します。

「投稿記事」のページでは、緑色の太字で表示してある記述をクリックすると該当の項目に飛べます。

 (なお、本HPでは実名を原則としますので、コメントなどは現在掲載していません。)

ドストエーフスキイの会、第218回例会(11月23日)のレジュメを「新着情報」に掲載しました

11月23日に行われる第218回例会では、著名なチェーホフ研究者・翻訳者の中本信幸氏(神奈川大学名誉教授)の発表が行われます。

ドストエーフスキイの会の「ニュースレター」 No.119に掲載された報告者紹介とレジュメを「新着情報」に再掲しました。

例会の時間と場所、および前回例会の「傍聴記」や「事務局便り」など詳しくは、ドストエーフスキイの会のHPhttp://www.ne.jp/asahi/dost/jdsでご確認ください。

司馬遼太郎の洞察力――『罪と罰』と 『竜馬がゆく』の現代性

先のブログ記事で坂本龍馬を主人公とした『竜馬がゆく』を読んだ時には、司馬遼太郎という作家が若い頃にはおそらく、坂本龍馬と同じ時代を生きていたドストエフスキーの文学を耽読していたのだろうという推測を記しました。

その理由は『罪と罰』と 『竜馬がゆく』における「正義の殺人」の分析が、その後の歴史状況をも見事に捉えていることです。

クリミア戦争後の思想的な混乱の時代に「非凡人の理論」を編み出して、自分には「悪人」を殺すことで世直しをすることが許されていると考えた『罪と罰』の主人公の行動と苦悩を描き出したドストエフスキーは、予審判事のポルフィーリイに「もしあなたがもっとほかの理論を考え出したら、それこそ百億倍も見苦しいことをしでかしたかもしれませんよ」と批判させていました。

八五〇万人以上の死者を出した第一次世界大戦後に、ヘルマン・ヘッセはドストエフスキーの創作を「ここ数年来ヨーロッパを内からも外からも呑み込んでいる解体と混沌を、これに先んじて映し出した予言的なものであると感じる」と記していました(拙著 『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー、刀水書房、六頁)。

実際、敗戦後の屈辱感に覆われていた中で、「大国」フランスを破った普仏戦争の栄光を強調することでドイツ人の民族意識を煽ったナチス政権下のドイツでは「非凡人の理論」は「非凡民族の理論」となって、ユダヤ人の虐殺を正当化することになったのです。

*   *   *

古代中国の歴史家・司馬遷が著した『史記』を愛読していた司馬氏を特徴付けるのは、情念に流されることなく冷静に歴史を見つめる広く深い「視線(まなざし)」でしょう。

太平洋戦争後の敗戦から間もない時期に司馬氏が 『竜馬がゆく』で取り上げたのは、「黒船」による武力を背景にした「開国」要求が、日本中の「志士」たちに激しい怒りを呼び起こし、「攘夷」という形で「自分の正義」を武力で訴えようとした幕末という時代でした。そのような混乱の時代には日本でも、中国の危機の時代に生まれた「尊皇攘夷」というイデオロギーに影響された武市半平太は、深い教養を持ち、人格的にも高潔であったにもかかわらず、自分の理想を実現するために「天誅」という名前の暗殺を行う「暗殺団」さえ持つようになったのです。

司馬遼太郎氏は坂本龍馬を主人公とした『竜馬がゆく』において、武市半平太と同じような危機感を持っていた龍馬が、勝海舟との出会いで国際的な広い視野を得て、比較文明論ともいえる新しい視点から行動するようになることを雄大な構想で描き出しました。咸臨丸でアメリカを訪れていた勝海舟から、アメリカの南北戦争でも、近代兵器の発達によって莫大な人的被害を出していたことを知った龍馬は、「正義の戦争」の問題点も深く認識して、自衛の必要性だけでなく戦争を防ぐための外交的な努力の必要性も唱える思想家へと成長していくのです。

しかも、『竜馬がゆく』において幕末の「攘夷運動」を詳しく描いた司馬は、その頃の「神国思想」が、「国定国史教科書の史観」となったと歴史の連続性を指摘し、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と痛烈に批判しているのです( 『竜馬がゆく』第2巻、「勝海舟」)。

注目したいのは、司馬氏が『坂の上の雲』を書くのと同時に幕末の長州藩に焦点を当てて『世に棲む日日』を描き、そこで戦前に徳富蘇峰によって描かれた吉田松陰とはまったく異なる、佐久間象山の元で学び国際的な視野を獲得していく若々しい松陰を描き出していることです。しかも、師の吉田松陰と高杉晋作や弟子筋の桂小五郎との精神的な深いつながりにも注意を喚起していた司馬氏は、「革命の第三世代」にあたる山県狂介(有朋)を、「革命集団に偶然まぎれこんだ権威と秩序の賛美者」と位置づけていることです(『世に棲む日日』、第3巻、「ともし火」)。

このことはなぜ司馬氏が『坂の上の雲』を書き終えたあとで『翔ぶが如く』を書き続けることで、明治八年の『新聞紙条例』(讒謗律)が発布されて、「およそ政府を批判する言論は、この条例の中の教唆扇動によってからめとられるか、あるいは国家顛覆論、成法誹毀(ひき)ということでひっかかるか、どちらかの目に遭った」時代から西南戦争に至る時代の問題点を浮き彫りにしようとしたかが分かるでしょう(第5巻「明治八年・東京」)。

現在の日本でもきちんと議論もされないままに、閣議で「特定秘密保護法案」が決定されましたが、この法案の問題点は徹底的に議論されるべきだと思います。

*   *   *

『坂の上の雲』において、日本が最終的に近代化のモデルとして選ぶことになるプロシアの「参謀本部」の問題を描くことになる司馬氏の視野の広さは、『竜馬がゆく』で新興国プロシアに言及し、『世に棲む日日』においてはアヘン戦争(1840~42)を、日本の近代化のきっかけになった戦争ときちんと位置づけていることでしょう。

拙著『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと(人文書館、2009年)では、 『竜馬がゆく』と『世に棲む日日』だけでなく、この時期を扱った『花神』などの多くの作品にも言及したために、385頁という事典なみの厚い本となりました。

司馬氏の歴史観の全体像に近づくために事項索引を作成しました。(下線部をクリックすると「著書・共著」の当該のページに飛びます)。

「坂本龍馬関連年表」を「ロシア文学関連年表」に掲載しました

 

年表Ⅰの「ドストエフスキー関連年表(1789~1881)」に続いて、「Ⅱ、坂本龍馬関連年表(1809~1869)」を「ロシア文学関連年表」に掲載しました。

*   *   *

ドストエフスキーの研究者である私が司馬遼太郎氏の研究もしている理由については、市民講座などでもたびたび質問されますが、坂本龍馬(1835~67)は、ドストエフスキー(1821~81)よりも、10年以上も遅くに生まれながらも『罪と罰』が発行された翌年に暗殺されれて亡くなっています。

その龍馬を主人公とした『竜馬がゆく』を読んだ時には、司馬遼太郎という作家が若い頃にはおそらく、坂本龍馬と同じ時代を生きていたドストエフスキーの文学を耽読していたのだろうと感じました。その理由については、稿を改めて記すことにします。

(「ロシア文学関連年表」というページは、近いうちに「年表一覧」という題名に変更する予定です)。

 

「ブログ記事・タイトル一覧」のページを設置しました

 

HPの項目数が増えて全体像が見えにくくなったために、「ブログ記事・タイトル一覧」のページを設置し、新しい記事から順番にタイトルを表示しました。

「タイトル一覧Ⅰ」が7月7日から8月17日まで、「タイトル一覧Ⅱ」は8月17日から10月28日までです。

 タイトルの下線部をクリックすると、リンク先の「ブログ」の当該の記事に飛びます。

 

これに伴い「トップページ」の構成を改訂中ですので、完成までもうしばらくお待ちください。

「藝術座創立百周年記念イベント」の第一部「藝術座の唄をめぐって」を見て

10月26日に「藝術座創立百周年記念イベント」の第一部「藝術座の唄をめぐって」を見てきました。

台風の影響もあり、客席はがらがらではないかと心配しましたが、ほぼ満席に近iい状態でした。

松井須磨子の役を演じたこともある女優の栗原小巻氏は、女優という職業を確立した須磨子の生涯の簡単な紹介の後で、ほぼ同時期を生きた与謝野晶子の詩「君死にたまふことなかれ」を朗読しました。

日露戦争に従軍した弟の身を案じて謳った晶子のこの詩は、当時大変な共感を呼んだだけでなく厳しい批判も浴びましたが、栗原氏によるこの詩の名朗読は、日露戦争の終了後から間もない時期に上演されたトルストイの長編小説『復活』の舞台化と劇中歌の「カチューシャの唄」が、なにゆえにたいへんな反響を呼んだかを示唆していました。

その後で行われた邦楽研究家の関川勝夫氏によるSPレコード原盤と蓄音機による松井須磨子の歌声などの鑑賞は、芸術座が創立された当時の時代へと観客を誘いました。

休憩時間の後に行われた講演で永嶺重敏氏は、苦境にあった劇団経営を好転させるため、抱月が当時人気が高かったトルストイの長編小説『復活』を演目にしたばかりでなく、切り札として初めて劇中歌を導入したことを分かり易く語りました。

そして、劇中歌として謳われた「カチューシャの唄」が、若者たちに愛唱されて、日本中に広まり爆発的な人気を呼んだとの説明からは、芸術座の劇と同じように劇中歌が有効に用いられている井上ひさし氏の劇ともつながっていることが感じられました。

黒澤映画《生きる》でも用いられたことで、今も愛唱されている「ゴンドラの唄」とツルゲーネフの『その前夜』との関連について語った相沢直樹氏の講演については、「映画・演劇評」で詳しく触れたいと思いますが、飯島香織氏(声楽家)による「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」などの歌唱と組み合わされたことにより、多面的な形で「藝術座の唄」の特徴が浮かび上がり、「カチューシャの唄」などをく300人ほどの観客と出演者の合唱で第一部が終わりました。

11月2日に行われる第二部「藝術座が遺したもの」でも、講演やシンポジウムの他に、「人形の家」「復活」の朗読が組まれているとのことなので今から楽しみにしています。

〔劇中歌「ゴンドラの唄」が結ぶもの――劇《その前夜》と映画《白痴》〕を「映画・演劇評」に掲載しました]より改題。

 

「ブルガリアのオストロフスキー劇」を「主な研究(活動)」に掲載しました

標記の論文は、『バルカン・小アジア研究』(第16号、1990年)に寄稿したものです。

この稿ではブルガリアの社会情勢やオストロフスキー劇の内容についても触れながら、ブルガリア演劇の確立にオストロフスキー劇がどのように関わったのかを明らかにしようとしました。チェーホフ劇の上演に先立って紹介されたオストロフスキー劇の受容の問題は、クリミア戦争や露土戦争などにおけるブルガリアとロシアとの関わりや複雑なバルカン半島の情勢を知る上でも興味深い内容を含んでいます。

再掲に際してはトルコからの独立をめざすブルガリアからの留学生インサーロフを主人公の一人としたツルゲーネフの『その前夜』やドストエフスキー兄弟の雑誌『時代』との関わりについても言及するとともに、オストローフスキイをオストロフスキーにするなど人名表記を変更し、少しわかりにくかった注の記述も改めました。

書式がまだ整っていない箇所もありますが、時間的な余裕がないためにそのままにし、ドストエフスキーの「大地主義」の問題を掘り下げるためにとりあえずアップすることにしました。(右の記述をクリックするとリンク先に飛びます。 ブルガリアのオストロフスキー劇

 

 

 

「日本におけるオストロフスキー劇とドストエフスキー劇の上演」を「映画・演劇評」に掲載しました

今回は劇評ではありませんが、日本におけるオストロフスキー劇の上演の記録などを「映画・演劇評」に掲載しました。

資料の作成に際しては、早稲田大学演劇博物館のお世話になりました。日本の演劇に関してはほとんど素人なので調べもれや誤記もあると思われるので、ご指摘頂ければ幸いです。

古い論文になりますが、今回の記事に関連して「ブルガリアにおけるオストロフスキー劇」を近いうちに掲載したいと考えています。

 

ドストエフスキー生誕記念国際会議(1996年)の報告を「主な研究(活動)」に掲載しました

ドストエフスキーの生誕175周年を記念して1996年にモスクワとペテルブルクで国際会議が行われました。その報告を「ドストエーフスキイ生誕記念国際会議」と題して「国際交流ニューズレター」に書いていましたので、「主な研究(活動)」(右記をクリック。 ドストエフスキー生誕記念国際会議(1996年)に参加して)に掲載しました。

私自身は「ドストエフスキーとオストロフスキー」という題で発表し、その後『論集・ドストエフスキーと現代――研究のプリズム』(木下豊房・安藤厚編、多賀出版、2001年)に、「『白痴』におけるムイシュキンとロゴージンの形象――オストローフスキイの作品とのかかわりをめぐって」を寄稿しました。

チェーホフの戯曲を問題を考える上でも重要なオストロフスキー劇については現在の日本ではあまり知られていないようなので、これからは少しずつ書いたものをアップしていく予定です。

 

グラースノスチ(情報公開)とチェルノブイリ原発事故(1988年)

Chernobylreactor_1(←画像をクリックで拡大できます)

(4号炉の石棺、2006年。Carl Montgomery – Flickr)

ドストエフスキーの生誕175周年を記念して1996年にモスクワとペテルブルクで行われた国際会議の報告記事を探していたところ、1988年に研究例会で行った帰国報告の原稿を見つけました。

そこにはペレストロイカの状況だけではなく、ソ連の崩壊に至る一因としてのチェルノブイリ原発事故や2001年9月11日の米国同時多発テロ事件とも深く関わるアフガン戦争の問題についてもふれられていました。

福島第一原子力発電所事故による汚染水の流出が明らかになっている一方で、原子炉がどのような状態になっているのかも分からない中で、首相が「全体として制御されている」と断言している日本では、果たしてきちんと「情報公開」がなされているのかが不安になりますので、「グラースノスチとチェルノブイリ原発事故」という題名で報告の一部を再掲しておきます。

*   *   *

今年は学生の引率として一ケ月半程ソ連に滞在し、現在進められているペレストロイカとグラースノスチ(情報公開)をかいま見たので、私のテーマとも関連し、東欧の諸国とも係わりがあると思われる民族問題を中心に現象的な側面から簡単な報告をしておきたい。

現象面で殊に目についたのは、モスクワの雰囲気が変ってきたということだ。たとえば赤の広場近くのゴーリキイ通りにインツーリストというホテルがあるが、その前には何軒ものペプシコーラの店が軒をつらね、客たちはパラソルの下のベンチでいこいながら談笑しているという西欧の国で見られるような光景がそこでも見られ、又それは単にこのホテルの前だけではなく、モスクワのあちこちの広場でこうした場面を見ることができた。そしてそれは最近協同組合形式の喫茶店やレストランがモスクワのあちこちに出来始めていることと相まって殊に外国人の旅行者には以前よりもはるかに住みやすくなったという印象を生みだしていた。

このような傾向はブレジネフの時代の停滞を打ち破り、経済を活性化させようとする試みであり、さらにはこれまでほとんどなかったサービスという概念(ソヴィエトに行くと驚かされるのは、買い物客ではなく店の売子が王様であることだ)を打ちたてるための働きをしていると言えるだろう。

そしてこのような経済の面での変革は文学や演劇の面とも深く連動している。というよりも文学の方がこのような変化を先取りし、個性と創造性の尊重を用意したと言った方がよいかもしれない。たとえばノーベル賞を受賞しながら長い間国内では発行されなかったパステルナークの長編小説、激しい革命の時期に愛と革命の間を揺れ動いた誠実な一知識人の生涯を描いた『ドクトル・ジバゴ』が雑誌に掲載されたのに続き、ザミャーチンの『われら』が掲載された。これは個性を全く奪われ、どんな個人的な会話も記録されるという未来の全体主義国家を舞台にした小説で、作者自身は「この小説は人類をおびやかしている二重の危険――機械の異常に発達した力と国家の異常に発達した力――に対する警告である」と語っているが訳者の川端香男里氏が説明しているように「アンチ・ユートピアというジャンルは、ソヴィエトにおいては社会主義に反する禁断のジャンルとされ」、この小説は「反ソ宣伝のもっとも悪質な代表的作品として、ソ連においては今日までいまだ陽の目を見ていな」かった。

今年の5月25日の「文学新聞」にはこの小説についての評がのり、そこで評者はこの小説がすべてのヨーロッパの言語で訳され出版されて多くの研究書を生む一方、ソ連では図書館の特別倉庫の金庫の中に完璧に閉じ込められていたことに注意をうながしながら「ついに長い間待たれていた芸術的に完成した作品で、ザミャーチンの最もすぐれた長編小説である『われら』の番が来た」としてこの小説が雑誌「ズナーミャー」誌上で二回にわたり五十万部出版されたことを紹介している。そしてこの小説『われら』が1922年に、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』に先立って書かれオーウェルにも多くの影響を与えていることを確認しつつ、同時にこの小説と『カラマーゾフの兄弟』における人間の自由について論じた「大審問官」とのテーマの類似性を示して、ザミャーチンがドストエフスキーから影響を受けていることを指摘している。

ところでこのような個人的な面での個性や自由の見直しは、当然の事ながら民族意識の昂揚をもたらし民族自立を求める運動とも結びつくことになり、それは極端な場合にはアルメニア共和国とアゼルバイジャン共和国のように各民族間、共和国間の激しい対立や暴動をすら引き起すに至る。

このような共和国間の対立は、たとえばこれも多民族国家であるユーゴスラヴィアの場合には新聞にもたびたび報道されていたように顕著だが、それは一面言論の自由とも結びついていて、これまでソ連ではこのような問題が表面に出て来なかったのは様々な民族間の対立や矛盾が強引に押えつけられてきた結果にすぎなく、グラースノスチ(情報公開)の元ではこれまでたまってきた矛盾や問題点が次々と表面にでてこざるを得ないといえる。

*   *   *

そのような例の一つが、ソ連軍がようやく撤退を始めたアフガンの問題である。これは主権国へ他の国が軍隊を派遣するということですでに法律的にも道義的にも問題なのだが、かりにそれを除外したとしても、ソ連にとってアフガン問題は単に対外問題としては片づけることの出来ない重要な内政上の民族問題として浮かび上ってくる。

というのも、始めソ連はアフガンに近隣の共和国から、アフガンに近い民族の兵士を送り、社会主義の正義によってアフガンの人々を説得させようとしたが、兵士達の内にはかえってイスラムの正義によって説得されてしまう者がでてきたからだ。

それにはいろいろな理由が考えられるが、その一つとしてソ連に住むイスラム教の人々には心の奥底に自分達は抑圧されているという意識があるように思える。というのもモスクワ市の紋章を元にしたバッチに関してロシア人の友人が興味深い事を語ってくれたからだ。

私達がモスクワに言って驚かされる事の一つにロシア人のバッチ好きがあり、土産物を売る店にはどこにも様々の大量のバッチがおいてあり、たとえばモスクワ大学のキオスクには二、三種類のモスクワ大のバッチを含めて、十数種類かのバッチが置かれ、その中に昔のモスクワ市の紋章を描いたバッチもある。それは、聖人ゲオルギーが竜あるいは蛇を殺しているという有名なイコン(宗教画)を元にしてデザインされたものなのだが、このバッチが販売され出た時に大変な論議が起きたというのである。それはイスラム教徒からの批判で、聖ゲオルギーに擬せられているのは正教徒のロシア人であり、蛇に擬せられているのはイスラム教徒であるというのだ。これは一見馬鹿らしいこじつけのようにも感じられるが、十字軍や露土戦争など政治的背景に目を向けるならばこういった不満もある程度理解できる。

*   *   *

私達が今回訪れたリトアニアの首都ヴィリニュスでもそれ程激しい形ではないにせよ、民族意識の高まりは認められた。たとえば土曜日の見学でバスに乗っていた所、路上を旗をたなびかせた自家用車や後に旗をつんだバスなどが海の方向へと何台も何台も通り過ぎるのに気が付いたし、又ある場所では多くの生徒たちが道端に立って旗を振りながら、何かを叫んでいた。

同行のガイドに彼らは何をしているかと尋ねると、彼女はまず、この旗がリトアニア共和国の形式的な国旗ではなく、最近掲げることが許可されたソ連邦に加わる以前のリトアニアの旗であることに注意をうながし、さらにこれらの車はその旗を持ってバルト海へと向い、そこでバルト海の汚染に対する抗議運動をするのだと説明し、この日はリトアニア共和国の国民ばかりでなく、バルト三国の他の二国エストニア、ラトヴィアやポーランド、デンマーク等の国民さらにはレニングラードの市民等が一斉に手をつなぐのだとつけ加えた。

彼女の話で注目したいのは環境問題の件だが、この面では既にバイカル湖の汚染問題をめぐってシベリアの作家達が盛んに発言していたが、リトアニアで興味深かったのは、原子力発電所の問題だった。これまでソ連は公式的にはチェルノブィリの事故の後でも原発を廃止するという方向はとっていなかったように思う。ところが、ヴィリニュスで聞いた所によるとリトアニアには二基の原発が稼働中であり、さらに二基が建設される予定だったのが、一基は既に作らない事が決定し、残る一基についても、今議論が進められている最中だとのことであり、その理由として、リトアニアのエネルギー源としては二基だけで、充分であり、他の共和国に送るために危険を犯して原発をこれ以上作る必要はないというものだった。

ここにも民族の問題がからんできているが、その底を流れているのはエコロジー的な態度であり、自然と人間との関係の見直しであり、さらには自分の住む地域のことにかんしては上からの指示に単に従うだけではなく、自分達自身で考え、行動していかねばならないという草の根民主主義的な考えの芽ばえとその拡がりであると言えるだろう。

(東海大学「バルカン・小アジア研究会」で報告。公開、2014年11月22日。2016年10月30日、図版およびリンク先を追加)。

劇《石棺》から映画《夢》へ

正岡子規の時代と現代(3)――「特定秘密保護法」とソ連の「報道の自由度」