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08月

『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』(刀水書房、2000年)を「著書・共著」に掲載しました

『罪と罰』はドストエフスキーがそれまでの自分の体験や当時の状況を踏まえて書いた渾身の長編小説です。

「主な研究(活動)」の前史でも書きましたが、都立広尾高等学校に在学中はベトナム戦争の時期だったこともあり、文学作品だけでなく宗教書や哲学書を夢中になって読みふけっていましたが、このころに「他者」を殺すことで、「自分」を殺してしまったという哲学的な言葉が記されているドストエフスキーの『罪と罰』と出会った時には、主人公の「非凡人の理論」の検証をとおして、功利主義的な考えや「弱肉強食の思想」、さらには自己の「正義」のためには大量殺戮も辞さない近代文明のあり方の根本的な考察がなされていると感じました。

ことにエピローグで主人公が見る「人類滅亡の悪夢」からは、すでにクリミア戦争の頃から急速に進歩を遂げるようになった機雷など最新の科学兵器の登場とその使用を分析することで、第二次世界大戦で使用され、世界を破滅させることのできる量が産み出された原子爆弾の使用とその危険性をも予告するとともに、近代的な自然観の見直しの必要性をも示唆していたことに強い感動を覚えました。

1992年に混乱のロシアを訪れたことで、『罪と罰』の世界を実感することがてきましたが、1994年から1年間、ブリストル大学のロシア学科で「ロシアと日本の近代化の比較」をテーマとして研究留学することができましたが、その際にリチャード・ピース(Richard Peace)教授の著作、Dostoevsky’s Notes from Undergroundを読む中で、日本では情念的な形で理解されることの多い主人公の言説には、イギリスで生まれた功利主義の哲学やイギリスの歴史家バックルが主唱した西欧中心的な文明観への強い反発が秘められていたことを確認することができました。

そのことは哲学的な視点と比較文学の手法を組み合わせた形で一般教養科目のための教科書『「罪と罰」を読む――「正義」の犯罪と文明の危機』(刀水書房、1996年)を書くことにつながりました。

職業的な作家であったドストエフスキーは、自分の作品がより多くの読者に読まれるように、悪漢小説や家庭小説の手法などさまざまな趣向を取り入れつつ、さらにエドガー・アラン・ポーのような推理小説的な手法で、主人公のラスコーリニコフが犯した「高利貸しの老婆」殺しの犯罪の「謎」に迫っていますが、そればかりでなく、近代的な知識人である主人公の「非凡人の思想」の批判的な検証をもきちんと行っていたのです。

この教科書を使った授業が好評でしたので、文明論的な視点をより強く出した新版『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』(刀水書房、2000年)を発行しました。ただ、一般教養科目のための教科書として書かれたこともあり、授業での説明がないと分かりにくい点もあるので、もし改版の機会があれば、一般の読者にも読みやすく文学論としても興味深く読めるようなものにしたいとも考えています。

国際ドストエフスキー・シンポジウム(1992年)の報告を「主な研究(活動)」に掲載しました

第八回国際ドストエフスキー・シンポジウムは、ソ連邦の崩壊が起きボスニア・ヘルツェゴビナでは激しい内戦が行われていた1992年にオスロで開催されました。

このような国際情勢を反映してシンポジウムでも、ロシアにおける「ナシズム(我々主義)」とも名付けられるような全体主義の傾向を批判して激しい議論を呼んだポーランドの研究者ラザリ氏の発表などが行われましたが、ドストエフスキー作品における常用暦と教会暦の問題を詳しく分析したザハーロフ氏の説得力のある発表からは、ロシアにおけるドストエフスキー研究の新しい潮流を強く感じました。

私がモスクワ大学への長期留学の際に「初期作品の研究」をテーマに選んだ理由の一つは、ソ連ではドストエフスキー作品の宗教的な側面を研究することは難しいと考えたからだったのですが、ザハーロフ氏の指摘はシベリア流刑以前の作品の傾向を具体的に明らかにするものでした。

一方、この当時のロシアでは「エリツィン(大統領)はすごい奴だ。共産党が50年もかかって証明できなかったことを、あっという間に証明した」というアネクドート(小話)が流行っていましたが、ソ連の崩壊後にロシアが直面したのは宗教や言論の自由の獲得だけでなく、経済の予想もしなかったような混乱だったのです。つまり、先の小話の「答え」は、エリツィンはアメリカのような資本主義の脅威を体験させてくれたというものですが、実際に、あるときにスーパーから品物がまったく消え失せ、次に現れた時にはそのほとんどが外国製品だったことには驚かされました。

このときの混乱がペレストロイカを主導していたゴルバチョフの頃にはあった普遍性への志向から、民族的な思考への回帰にも深く関わっているのではないかと私は感じています。

このようなロシアの状況をドストエフスキーの『鰐』の分析をとおして詳しく考察したのが、1971年に出版された主著『ドストエフスキイ:主要作品の検討』(Dostoyevsky: An Examination of the Major Novels)で、世界中のドストエフスキー研究者に強い影響を与えたピース氏の発表でした。このシンポジウムからもさまざまな研究者の方との出会いや発表をとおして多くの知的刺激を受けることができましたが、ピース教授との出会いはブリストル大学への研究留学へとつながることになりました。

『はだしのゲン』の問題と「国際的な視野」の必要性

最近、松江市の教育委員会が漫画の『はだしのゲン』の閲覧制限を「小中学校に要請していた問題」が話題になっていましたが、ようやく「手続き不備」との理由で「要請撤回を決めた」との記事が、今日の『東京新聞』に載っていました。原爆による被爆を体験した日本から反核の必要性を伝えるためには、悲惨な事実をも見つめねばならないので、当然の措置だと思えますが、「閲覧の問題をめぐる今後の取り扱いは各学校に一任する」とのことなので、実質的には問題の先送りといえるでしょう。実はこのブログでも「原爆の危険性と原発の輸出」というタイトルで書いた8月6日のブログで、政府の対応の問題を指摘した後で、NHKで放送された番組の内容に言及していたので、再度、引用しておきます。

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「8月1日(木)には『はだしのゲン』など原爆の悲惨さを伝える作品が各国語で翻訳されていることを伝えるNHKの番組くらし☆解説 「原爆の悲惨さを世界に伝える」が(広瀬公巳解説委員)が放送されましたので付記しておきます。

ただ、よい番組だったと感じましたが、原爆の悲惨さを世界に伝えるためには、まず日本の政治家がこれらの本の内容をきちんと理解することは当然として、学校教育の教材としても取り入れることで「日本人」の子供たちに事実を知らせることが重要だろうと考えています。」

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この問題が起きたときには、やはりこの漫画で描かれている事実も隠すべきだという批判がでてきたかと感じました。なぜならば、福島原発事故の場合にも、原爆の問題と同じように「事実」を隠し続けることで、問題をあいまいにできると考える政治家が少なくないように見えるからです。

日本でようやく大きく取り上げられた「汚染水」の問題が、海外ではすでに大きく報じられていたことを最近知りました。このブログを読んでいる方の中にも知らない方がいると思われますので8月23日付けの「日刊ゲンダイ」(ネット版)の記事を紹介しておきます。

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「実は、汚染水問題は、むしろ国際的な関心の方が高いくらいだ。日本国内で大きく報道されるようになったのは、ここ数日のことだが、海外では早くから詳細に報道されていた。
例えば、英BBC放送は先月23日、ロイヤルベビー誕生ニュースの次に、汚染水が地下を抜けて海に流出している可能性を東電が初めて認めた問題を詳しく伝えた。ロイヤルベビーに浮かれていたのは日本のテレビの方だったのだ。(中略)
このところ、英インディペンデント紙やガーディアン紙、米ウォールストリート・ジャーナル紙、シカゴ・トリビューン紙なども『事故は収束できるのか?』と、相次いで懸念を表明している。(中略)3年後には耐用期限を迎えるタンクをどうするのか、方策は見つかっていない。つまり、日本の国土も海も汚染され続けるということだ。そんな場所でオリンピックなんて、国際世論が敬遠するのも当然だろう。(後略)」。

(「福島原発汚染水ダダ漏れで五輪招致絶望」『「日刊ゲンダイ』ネット版)。

ここまで引用してから新しい記事を見つけました。これは26日の『毎日新聞』の政治コラムからの引用とのことですが、重要な発言なので紹介しておきます。 「小泉元首相は、インタビューに〈原発ゼロしかない〉〈今ゼロという方針を打ち出さないと将来ゼロにするのは難しい〉〈総理が決断すりゃできる〉と『脱原発』の持論を全面展開。〈『原発を失ったら経済成長できない』と経済界は言うけど、そんなことないね。昔も『満州は日本の生命線』と言ったけど、満州を失ったって日本は発展したじゃないか〉と、原発推進派をバッサリ切り捨てているのだ」。

 (「小泉純一郎『脱原発宣言』に安倍首相真っ青」『「日刊ゲンダイ』ネット版、827日)。

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先日掲載した1989年に行われた国際ドストエフスキー・シンポジウムの報告では、チェルノブイリ原発事故にふれた発表もあったことも記しましたが、今後の世界のさまざまな学会などで研究発表する日本の研究者は、フクシマについても厳しく問われることになるでしょう。

宮崎駿氏と半藤一利氏は、「平和」や「護憲」の必要性を互いに確認したその対談を謙遜して「腰抜け愛国談義」と名付けていますが、「愛国」の気概を持つ政治家の方たちは、日本の国土と青少年の将来を守るために、一刻も早く日本が直面している危機を直視して行動すべきでしょう。

『若き日本と世界ーー支倉使節から榎本移民団まで』(東海大学出版会、1998年)を「著書・共著」に掲載しました

昨日、掲載した「ドストエフスキー関連年表」には、1792年に第1回ロシア使節としてラクスマンが漂流民の大黒屋光太夫を伴って来日したことや、光太夫の貴重な異文化体験を記録した蘭学者・桂川甫周の『北嵯聞略』を元に、作家の井上靖氏が長編小説『おろしや国酔夢譚』を書いたことや、その長編小説を元に日ソ合作の映画《おろしや国酔夢譚》が撮られたことも記しました。

江戸時代に行われたこのような日露の交流や大黒屋光太夫によってもたらされた情報は、吉田松陰の師・佐久間象山に日本でもピョートル大帝の改革をモデルに海軍建設の必要性を説かせるほどの影響を与えました。しかし、ペリー提督がアメリカ艦隊を率いて浦賀に来航した翌月には、ロシアのプチャーチン提督がやはり艦隊を率いつつも、シーボルトの助言により、浦賀ではなく長崎に来航していたことはあまりしられていません。

本書において私は、ドストエフスキーと同時代の作家でプチャーチン提督の秘書官として来日したゴンチャローフの眼をとおして、幕末の日本だけでなく上海や沖縄がどのように描かれていたかにも注目しながら、日本の「開国」とほとんど同じ時期に勃発していたクリミア戦争の問題も考察しました。

支倉常長の使節団の考察から始まる本書には、ロシアからの二回目の使節団に同行したラングスドルフの著作の紹介や、日露関係にも深く関わっていたシーボルトの研究、さらには高杉晋作の見た上海租界の状況など、幕末期だけをとっても興味深い論文が多く収められています。

「トップページ」に「ページ構成」と「ブログのタイトル一覧」の項目を追加しました。

「ページ」の種類が増えてきたので、トップページにも「ページ構成」の簡単な説明を載せました。

また、「ブログ」には他のページのタイトルも掲載して目次の役割も与えていますが、タイトルの数が増えたので「ページ構成」の後に、「タイトル一覧」の項目を追加しました。

「風と大地と」というブログの題名の由来については、「アニメ映画『風立ちぬ』と鼎談集『時代の風音』」(7月20日)と〔「大地主義」と地球環境〕(8月1日) を参照してください。

「ロシア文学関連年表」のページを開設し、ドストエフスキー関連の年表を掲載しました

標記のページをようやく作成しました。

ドストエフスキー自身は1821年うまれなのですが、父親との関係が重要なので父ミハイルが生まれた1789年から初めて、日露関係を知る上でも重要なロシアからの使節団の来日とその時に帰還した漂流民を主人公とした井上靖氏の長編小説とその映画化にもふれています(日本での出来事は青い字で表記しました)。

「大国」フランスと戦争も予想される中で軍医の養成が急務となっていたロシア帝国の要望に応えて、司祭となる道を捨てて医者として「祖国戦争」に参戦した父ミハイルの生き方を考察することは、その後のロシアの歩みを知る上だけでなく、『罪と罰』という長編小説を理解する上でも重要なので「祖国戦争」についてもその後の世界史の流れにもふれながら記しました。

幕末から明治初期の日本の歴史も、長編小説『白痴』が書かれた時代と深く関わっているので詳しく書きました。1870年以降の年表についてはいずれ加筆したいと考えています。

ただ、打ち込んだのとは異なった形でパソコンの画面上には表示されていますが、パソコンの機種によっても表示が異なっているようですので、もうしばらく様子を見てから、段落の変更などを行うようにします。

「モスクワの演劇――ドストエフスキー劇を中心に」を「映画・演劇評」に掲載しました

ドストエフスキーは長編小説『未成年』において、主人公のアルカージイにグリボエードフの劇『知恵の悲しみ』を見たときの感激を語らせていますが、それは若きドストエフスキー自身の感想とも重なるでしょう。

このことは『死の家の記録』についてもいえるでしょう。ドストエフスキーはそこで降誕祭の時期に民衆出の囚人たちが演じた劇について記していますが、この記述は民衆芝居の最初の記録の一つでもありました(拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2002年参照)。

いずれ詳しく分析したいと思いますが、評論家の小林秀雄が『死人の家の記録』と見なしたこの作品には、民衆の持つエネルギーがきちんと描かれていたのです。

HPの標記のページの記事でも少しふれましたが、台詞がきわめて重要な働きを担っているだけでなく、音楽や舞台構造も重要な役割の一端を果たしている総合芸術としての演劇は、作家ドストエフスキーの創作方法にも深く関わっていると思えます。

国際ドストエフスキー・シンポジウム(1989年)の報告を「主な研究(活動)」に掲載しました

標記の国際ドストエフスキー・シンポジウムで、私は「『罪と罰』における〈良心〉の用法」についての考察を発表しました。

出発前には哲学的な内容の発表がどのように受け止められるかを危惧していたのですが、ヘルマン・ヘッセの深いドストエフスキー理解にも現れているように、ロシアやヨーロッパではドストエフスキー作品の哲学的な考察も進んでおり、私の発表も思いがけず高い評価を受けて下記の論文集に掲載されました。

Такахаси С. Проблема совести в романе “Преступление и наказание”//Достоевский: Материалы и исследования.Л., Наука,1990. Т.10.С.56-62.

今回、思いがけず国際ドストエフスキー学会(IDS)の情報連絡として日本側の代表コージネーターに選出されたとのご連絡を頂いた際にはしばらく躊躇しましたが、学会の様々な方々から学恩を受けてきましたのでお引き受けすることにしました。

国際学会では激論が交わされることもありますが日本のドストエフスキー研究の水準は高いので、グラナダでのシンポジウムには若手の研究者の方々にもぜひ参加して頂きたいと願っています(IDSの新しい情報については、「ドストエーフスキイの会」の「ニュースレター」やホームページの「事務局便り」をご参照ください)。

今回のモスクワでのシンポジウムではザハーロフ氏が新会長に選出されたとのことでした。近いうちにザハーロフ氏の発表にもふれている、激動の1992年に開催されたシンポジウムの報告を掲載する予定です。

 

「緊急事態宣言を」――福島第一原子力発電所の危機的な状況

7月12日付けのブログで私は、最近は「原発事故」や「憲法」さらに「TPP」に関しては、公共放送のNHKをはじめ大手のマスコミなどでは、報道規制が敷かれているのかと思われるほどに情報が少ないのが心配ですと記しました。

しかし、福島第一原子力発電所の汚染水の問題が危機的ともいえる状況を迎えている現在も、多くの報道機関は近隣諸国との軋轢については大々的に伝える一方で、日本の国土や外洋を汚し、日本国民の生命をも脅かしているこの問題については、あまり伝えていないように見えます。

繰り返しになりますが、このような事態は文明史家の司馬遼太郎氏が、長編小説『坂の上の雲』第7巻の「退却」の章で、次のように新聞報道のあり方を厳しく批判していたことを思い起こさせます。

「日本においては新聞は必ずしも叡智(えいち)と良心を代表しない。むしろ流行を代表するものであり、新聞は満州における戦勝を野放図に報道しつづけて国民を煽(あお)っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり、日本が無敵であるという悲惨な錯覚をいだくようになった」。

「国策」として進める政策が破綻しても、政治家や官僚、マスコミは、責任を取ることはほとんどないのですが、「国を愛する気概があるならば」、今回の事態に対してはきちんと責任をとるべきでしょう。

このような中で私が注目しているのは、デモクラTVが「本会議」と称する討論番組だけでなく、それ以外の番組でもなるべく多くの時間を割いて報道していることです。

東京新聞も今日の朝刊の一面で「瀬戸際の汚染水処理」との大見出しで、上空から取った福島第一原子力発電所の写真を大きく取り上げ、「別のタンクも漏れか」との大見出しでタンクの図も示し、24面と25面の「こちら情報部」でも、事故後の状況を詳しく説明して「緊急事態宣言を」と求めています。

私自身は原子炉の専門家ではないので、詳しくはこれらの情報で確認することをお勧めします。

リチャード・ピース 著、池田和彦訳、高橋誠一郎編『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』(のべる出版企画、2006年)を、「著書・共著」に掲載しました

標記の著書や著者のピース氏については、「研究(活動)」のページに「『地下室の手記』の現代性――後書きにかえて」と題した文章でふれていましたが、今回、「著書・共著」のページに「日本の読者の皆様へ」という著者からのメッセージの抜粋と、「目次」を掲載しました。

最初はこの著書を紹介した後で、ピース・ブリストル大学教授との面識を得るきっかけとなった1989年のリュブリャーナでの国際ドストエフスキー・シンポジウムの報告を、「研究(活動)」のページに載せる予定でした。

しかし、汚染水の状況が本当に危険な事態となっているようなので国際学会の報告記事は次回に回すことにしますが、ここでは日本ではあまり重視されていないドストエフスキー作品の哲学的な面に注意を促したピース氏が、『地下室の手記』の主人公を単なる「逆説家」ではなく、近代西欧思想の「功利主義」や19世紀の「グローバリゼーション」のきわめて鋭い批判者であったと記していることを指摘しておきます。

つまり、『地下室の手記』という作品は福島第一原子力発電所の事故も収束し得ない状態で、危険な原発を外国にも輸出しようとしている安倍政権の近代西欧的な思考法とオプチミズムの危険性をも暴露しているといえるでしょう。