福島第一原子力発電所での事故後に明らかになった事実の「隠蔽」や用語の言い換えの問題がはらんでいる危険性については、「劇《石棺》から映画《夢》へ」の第3節「映画《夢》と福島第一原子力発電所の事故」で考察した(「映画・演劇評」、7月6日)。
日本には「人の噂も75日」ということわざがあるが、最近になって発覚した事態からは、同じことが再び繰り返されているという感じを受ける。
参議院選挙後の22日になって放射能汚染水の流出が発表されが、報道によれば「東電社長は3日前に把握」していたことが明らかになり、さらに27日には福島第一原発2号機のタービン建屋地下から延びるトレンチに、事故発生当時とほぼ同じ1リットル当たり計23億5000万ベクレルという高濃度の放射性セシウムが見つかったとの発表がなされた。
汚染水の流出の後では、この事実の隠蔽に関わった社長を含む責任者の処分も処分が発表されたが、問題の根ははるかに深いだろう。
たとえば、参議院選挙を私は、「日本の国土を放射能から防ぐという気概があるか否か」が問われる重大な選挙だと考えていた。しかしほとんどのマスコミはこの問題に触れることを避けて、「衆議院と参議院のねじれ解消」が最大の争点との与党寄りの見方を繰り返して報道していた。
「臭い物には蓋(ふた)」ということわざもある日本では、「見たくない事実は、眼をつぶれば見えなくなる」かのごとき感覚が強く残っているが、事実は厳然としてそこにあり、眼をふたたび開ければ、その重たい事実と直面することになる。
このことを「文明論」的な視点から指摘していたのが、歴史小説家の司馬遼太郎氏であった。再び引用しておきたい(「樹木と人」『十六の話』)。
チェルノブイリでおきた原子炉事故の後で司馬氏は、「この事件は大気というものは地球を漂流していて、人類は一つである、一つの大気を共有している。さらにいえばその生命は他の生物と同様、もろいものだという思想を全世界に広く与えたと思います」と語っていた(傍線引用者)。
さらに司馬氏は、「平凡なことですが、人間というのはショックが与えられなければ、自分の思想が変わらないようにできているものです」と冷静に続けていた。
きれいな水に恵まれている日本には、過去のことは「水に流す」という価値観も昔からあり、この考えは日本の風土には適応しているようにも見える。
だが、広島と長崎に原爆が投下された後では、この日本的な価値観は変えねばならなかったと思える。なぜならば、放射能は「水に流す」ことはできないからだ。
チェルノブイリの原子力発電所は「石棺」に閉じ込めることによってなんとか収束したが、福島第一原子力発電所の事故は未だに収束とはほど遠い段階にあり、「海流というものは地球を漂流して」いる。
日本人が眼をつぶっていても、いずれ事実は明らかになる。
司馬氏の生前中は多くのマスコミが氏の考えを絶賛していたが、残念ながら、企業の重役や政治家が好んで引用する歴史小説を書く作家との印象の方が強く定着し始めているように見える。
しかし、先の記述からも明らかなように、司馬氏が歴史小説で描いたのは勇ましいスローガンに踊らされることなく、自分の目で事実を見て判断する「気概」を持った坂本竜馬や正岡子規などの主人公だった。
新聞記者だった司馬氏が長編小説『坂の上の雲』を書いたのは、冷厳な事実をきちんと観察して伝える「新聞報道」の重要性を示すためだったと私は考えている。