高橋誠一郎 公式ホームページ

2013年

国際ドストエフスキー・シンポジウム(1989年)の報告を「主な研究(活動)」に掲載しました

標記の国際ドストエフスキー・シンポジウムで、私は「『罪と罰』における〈良心〉の用法」についての考察を発表しました。

出発前には哲学的な内容の発表がどのように受け止められるかを危惧していたのですが、ヘルマン・ヘッセの深いドストエフスキー理解にも現れているように、ロシアやヨーロッパではドストエフスキー作品の哲学的な考察も進んでおり、私の発表も思いがけず高い評価を受けて下記の論文集に掲載されました。

Такахаси С. Проблема совести в романе “Преступление и наказание”//Достоевский: Материалы и исследования.Л., Наука,1990. Т.10.С.56-62.

今回、思いがけず国際ドストエフスキー学会(IDS)の情報連絡として日本側の代表コージネーターに選出されたとのご連絡を頂いた際にはしばらく躊躇しましたが、学会の様々な方々から学恩を受けてきましたのでお引き受けすることにしました。

国際学会では激論が交わされることもありますが日本のドストエフスキー研究の水準は高いので、グラナダでのシンポジウムには若手の研究者の方々にもぜひ参加して頂きたいと願っています(IDSの新しい情報については、「ドストエーフスキイの会」の「ニュースレター」やホームページの「事務局便り」をご参照ください)。

今回のモスクワでのシンポジウムではザハーロフ氏が新会長に選出されたとのことでした。近いうちにザハーロフ氏の発表にもふれている、激動の1992年に開催されたシンポジウムの報告を掲載する予定です。

 

「緊急事態宣言を」――福島第一原子力発電所の危機的な状況

7月12日付けのブログで私は、最近は「原発事故」や「憲法」さらに「TPP」に関しては、公共放送のNHKをはじめ大手のマスコミなどでは、報道規制が敷かれているのかと思われるほどに情報が少ないのが心配ですと記しました。

しかし、福島第一原子力発電所の汚染水の問題が危機的ともいえる状況を迎えている現在も、多くの報道機関は近隣諸国との軋轢については大々的に伝える一方で、日本の国土や外洋を汚し、日本国民の生命をも脅かしているこの問題については、あまり伝えていないように見えます。

繰り返しになりますが、このような事態は文明史家の司馬遼太郎氏が、長編小説『坂の上の雲』第7巻の「退却」の章で、次のように新聞報道のあり方を厳しく批判していたことを思い起こさせます。

「日本においては新聞は必ずしも叡智(えいち)と良心を代表しない。むしろ流行を代表するものであり、新聞は満州における戦勝を野放図に報道しつづけて国民を煽(あお)っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり、日本が無敵であるという悲惨な錯覚をいだくようになった」。

「国策」として進める政策が破綻しても、政治家や官僚、マスコミは、責任を取ることはほとんどないのですが、「国を愛する気概があるならば」、今回の事態に対してはきちんと責任をとるべきでしょう。

このような中で私が注目しているのは、デモクラTVが「本会議」と称する討論番組だけでなく、それ以外の番組でもなるべく多くの時間を割いて報道していることです。

東京新聞も今日の朝刊の一面で「瀬戸際の汚染水処理」との大見出しで、上空から取った福島第一原子力発電所の写真を大きく取り上げ、「別のタンクも漏れか」との大見出しでタンクの図も示し、24面と25面の「こちら情報部」でも、事故後の状況を詳しく説明して「緊急事態宣言を」と求めています。

私自身は原子炉の専門家ではないので、詳しくはこれらの情報で確認することをお勧めします。

リチャード・ピース 著、池田和彦訳、高橋誠一郎編『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』(のべる出版企画、2006年)を、「著書・共著」に掲載しました

標記の著書や著者のピース氏については、「研究(活動)」のページに「『地下室の手記』の現代性――後書きにかえて」と題した文章でふれていましたが、今回、「著書・共著」のページに「日本の読者の皆様へ」という著者からのメッセージの抜粋と、「目次」を掲載しました。

最初はこの著書を紹介した後で、ピース・ブリストル大学教授との面識を得るきっかけとなった1989年のリュブリャーナでの国際ドストエフスキー・シンポジウムの報告を、「研究(活動)」のページに載せる予定でした。

しかし、汚染水の状況が本当に危険な事態となっているようなので国際学会の報告記事は次回に回すことにしますが、ここでは日本ではあまり重視されていないドストエフスキー作品の哲学的な面に注意を促したピース氏が、『地下室の手記』の主人公を単なる「逆説家」ではなく、近代西欧思想の「功利主義」や19世紀の「グローバリゼーション」のきわめて鋭い批判者であったと記していることを指摘しておきます。

つまり、『地下室の手記』という作品は福島第一原子力発電所の事故も収束し得ない状態で、危険な原発を外国にも輸出しようとしている安倍政権の近代西欧的な思考法とオプチミズムの危険性をも暴露しているといえるでしょう。

 

ヴィスコンティの映画《白夜》評を「映画・演劇評」に掲載しました

昨夜書いたブログ記事では、ラジオから聞こえてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説から受けた衝撃と対比しながら、クリミア戦争の前夜に書かれたドストエフスキーの『白夜』の美しい文章に何度も言及していた掘田善衛氏の『若き日の詩人たちの肖像』にふれました。

それゆえ、今回はヴィスコンティの映画《白夜》評を「映画・演劇評」に掲載しました。2002年に書いたものなので今から10年以上も前の記事になります。

しかし、現在の日本では近隣諸国に対する威勢のよい言葉が国会で語られ、さらに副総理がナチスのやり方を賞賛するような発言をし、改憲を目指すことを公言している総理が終戦記念日に「不戦の誓い」を省くなどの言動が見られる一方で、市街地でもヘイトスペイーチを繰り返さす行進が堂々と行われるれるなど軍靴の響きは日ごとに高まっています。

このような流れの危険性を冷静に判断するためにも、ドストエフスキーの小説『白夜』や映画《白夜》は、もう一度見直されるべき作品といえるでしょう。

 

『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)を「著書・共著」に掲載しました

8月19日に書いた「《風立ちぬ》論Ⅲ――『魔の山』とヒトラーの影」では、作家の掘田善衛氏が長編小説『若き日の詩人たちの肖像』でラジオから聞こえてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説から受けた衝撃と比較しながら、クリミア戦争の前夜に書かれたドストエフスキーの『白夜』の美しい文章に何度も言及していたことにもふれました。

この自伝小説の最後の章で、主人公に芥川龍之介の遺書に記された「唯自然はかういふ僕にはいつもより美しい」という文章を思い浮かばせた掘田善衛氏は、その後で自分に死をもたらす「臨時召集令状」についての感想を記しています。このことに留意するならば、堀田氏は『白夜』という作品が日本の文学青年たちの未来をも暗示していると読んでいたようにも思えます。

実際、叙情的に見える内容を持つ小説『白夜』は、堀辰雄氏の『風立ちぬ』と同じような美しさとともに、戦争に向かう時代に対するしぶとさをも持っているのです。

拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』では、ドストエフスキーの青春時代とその作品に焦点を当てることによって、「大国」フランスとの「祖国戦争」に勝利したロシアが、なぜ「暗黒の30年」とも呼ばれるような時代と遭遇することになったのかを考察しました。

「著書・共著」のページには、ドストエフスキーの父とナポレオンとの関わりや父ミハイルと作家となる息子ドストエフスキーとの葛藤についてもふれた「はじめに」の抜粋とともに、詳しい「目次」も掲載しました。

 

「新着情報」のページを開設し、朗読劇「山頭火物語」の公演日程を掲載しました

テレビドラマ《木枯らし紋次郎》で一世を風靡した俳優の中村敦夫氏は、現在も日本ペンクラブの理事、環境委員会委員長として活躍しています。

今日も「福島第1原発の地上タンク周辺で汚染水の水たまりが見つかった問題で、東京電力は20日、タンクからの漏えいを認めた上で、漏えい量が約300トンに上るとの見解を示した。漏えいした汚染水から、ストロンチウム90(法定基準は1リットル当たり30ベクレル)などベータ線を出す放射性物質が1リットル当たり8千万ベクレルと極めて高濃度で検出された。漏れた量は過去最大」との信じがたいようなニュースが報道されています(『東京新聞』ネット版)。

政府や多くのマスコミが原発事故の重大さを直視することを恐れて眼を背けていると思われる現在、「脱原発」の必要性を掲げる日本ペンクラブ・環境委員会の活動は、「国民」の生命や地球環境を守るためにもきわめて重要でしょう。

「新着情報」の最初のページに、中村敦夫氏の朗読劇《山頭火物語》の公演日程を掲載しました。

特集「映画は世界に警鐘を鳴らし続ける」と映画《生きものの記録》、を「映画・演劇評」に掲載しました

7月の下旬に「科学者(知識人)の傲慢と民衆の英知――映画《生きものの記録》と長編小説『死の家の記録』」という論文を書き上げました。

この論文の内容については雑誌が発行されてから具体的に記するようにしたいと思いますが、ほぼ書き終えた頃にインターネットの検索で仙台出身の岩井俊二監督とスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーとの対談記事を見つけました。

「大地の激動と『轟々と』吹く風」と題した《風立ちぬ》論Ⅱには、この対談から影響を受けていると思われる箇所がありますので、今回の「映画・演劇評」では「映画は世界に警鐘を鳴らし続ける」という日本映画専門チャンネルの特集についての対談記事より、《生きものの記録》について語られている箇所を中心に紹介します(テキスト・構成・撮影:CINRA編集部、2011/12/30)。

「 黒澤明監督の《生きものの記録》と宮崎駿監督の《風立ちぬ》」より改題(8月22日)

「《風立ちぬ》論Ⅲ――『魔の山』とヒトラーの影」を「映画・演劇評」に掲載しました

ブログの「アニメ映画『風立ちぬ』と鼎談集『時代の風音』」にも記しましたが、作家・堀辰雄(1904~53)の小説『風立ちぬ』と同じ題名を持つ、宮崎駿監督の久しぶりのアニメ映画の主人公の一人が、戦闘機「零戦」の設計者・堀越二郎であることを知ったときに、このアニメ映画が政治的に利用されて「戦うことの気概」が賛美されて、「憲法」改正の必要性と結びつけられて論じられることを危惧しました。

しかし、その心配は《風立ちぬ》を見た後では一掃されました。なぜならば、この映画では堀越二郎と本庄季郎という2人の設計士の友情をとおして、「富国強兵」政策のもとに耐乏生活を強いられた「国民」の生活もきちんと描かれていたからです。

さらに『魔の山』に言及することで《風立ちぬ》は、当時の日本帝国とドイツ帝国との類似性を浮かび上がらせることにも成功していたと思えます。

私自身は作家トーマス・マンについて詳しく研究したことはないのですが、重要なテーマなので、今回は《風立ちぬ》論を「『魔の山』とヒトラーの影」と題して、「映画・演劇評」に掲載しました。

『司馬遼太郎と時代小説――「風の武士」「梟の城」「国盗り物語」「功名が辻」を読み解く』 (のべる出版企画、2006年)を「著書・共著」に掲載しました

今日の「映画・演劇評」に書いた「《風立ちぬ》Ⅱ」という記事で、大地震に関連して司馬遼太郎氏の『功名が辻』に言及しました。

それゆえ、『功名が辻』や『風の武士』など司馬氏の時代小説を論じた『司馬遼太郎と時代小説――「風の武士」「梟の城」「国盗り物語」「功名が辻」を読み解く』 (のべる出版企画、2006年)の、「目次」と「あとがき」の抜粋を「著書・共著」に掲載しました。

これらの作品をじっくりと読み解くことでその面白さだけでなく、いわゆる「司馬氏観」の生成とその視野の広さをも実感することができるでしょう。

「《風立ちぬ》Ⅱ――大地の激震と「轟々と」吹く風」を、「映画・演劇評」に掲載しました

 宮崎駿監督は作家の司馬遼太郎氏を深く敬愛していましたが、二人の間には多くの点で歴史観や文明観に多くの共通点があることをブログ「アニメ映画『風立ちぬ』と鼎談集『時代の風音』」に記しました。

 また 『竜馬がゆく』には1854年12月23日に発生した東海地震に遭遇した竜馬の心理と行動が詳しく描かれていることをブログ「『竜馬がゆく』と「震度5強」の余震」で明らかにしました。

 今回はこのような二人の自然観に注目することによって、《風立ちぬ》における大地の激動の描写や「轟々と」吹く風の描写と、東日本大震災以降の日本との関わりを考えてみたいと思います。