高橋誠一郎 公式ホームページ

2013年

「長編小説『罪と罰』と映画《罪と罰》」を「映画・演劇評」に掲載しました

先に「映画・演劇評」にモスクワで見た演劇の感想を掲載しましたが、モスクワで留学中に見たイワン・プィリエフ監督の映画《白痴》(1958)と映画《カラマーゾフの兄弟》(1968)、そしてレフ・クリジャーノフ監督の映画《罪と罰》(1970)なども、原作を忠実に映画化しようとしていて好感が持てました。

《白痴》のムィシキンを演じたユーリー・ヤコヴレフが亀田役の森雅之の演技から強い影響を受けているとの評判や、この映画が第一部のみで終わってしまったのは、あまりに迫真の演技をしたので主役も精神を病んだからだという噂を聞いたのもモスクワの友人からでした。

映画《罪と罰》を撮ったレフ・クリジャーノフ監督が、1971年に日本で公開された際のパンフレットで、「ドストエフスキーの作品を映画化した過去の映画の中で最良の作品」として黒澤映画《白痴》を挙げていたことも後に知りました。

『罪と罰』も推理小説的な筋立てを持っていますが、日本でもヒットしたテレビ・ドラマ《刑事コロンボ》と同じように、初めから犯人やトリックを明かしつつ、犯人の心理や動機に迫るという構造なので、今回は長編小説『罪と罰』の粗筋の紹介もかねて映画《罪と罰》の映画評を掲載します。

『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』(刀水書房、2002年)を「著書・共著」に掲載しました

今日のブログに書いた「ドストエフスキーとトルストイⅠ――『虐げられた人々』とその時代」という記事では、トルストイの『幼年時代』などとの関連で「大改革」の時代と「大地主義」――雑誌『時代』と『虐げられた人々』について言及した拙著から引用しました。

それゆえ、クリミア戦争後の「大改革」の時代における『虐げられた人々』、『死の家の記録』、さらに『冬に記す夏の印象』などのドストエフスキーの作品とその特徴を詳しく考察した拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』(刀水書房、2002年)の、「目次」と「序章」の抜粋を「著書・共著」に掲載しました。

その際に、「欧化と国粋」という用語がまだあまり知られていないので、日本に先駆けて上からの「近代化」による「富国強兵」策が取られたロシアの問題を考察した「序章」から多めに引用することで、日露の「文明開化」の類似性を明らかにするとともに、19世紀の「文明開化」と現代の「グローバリゼーション」の類似性も分かりやすく説明しました。

ロシアと日本における「欧化と国粋」の問題については、稿を改めて考察したいと考えています。

 

 

ドストエフスキーとトルストイⅠ――『虐げられた人々』とその時代

L_N_Tolstoy_Prokudin-Gorsky

(ヤースナヤ・ポリャーナでのトルストイの写真、図版は「ウィキペディア」より)

はじめに

7月に「お知らせ」のページで、日本トルストイ協会で「『戦争と平和』で司馬作品を読み解く――『坂の上の雲』と『翔ぶが如く』を中心に」(仮題)という講演を行うことになったことをお伝えしました。

その際に、なぜドストエフスキー研究者の私がトルストイについて語るのかを明らかにすることでテーマを明確にしたいので、これまでに書いた著作も紹介しながら何回かに分けて、トルストイとドストエフスキーの関係を考察していきたいと考えていますとも記していましたが、長いことお待たせしてしまいました。

私が最初に二人の作家の関係に関心を持ったのは、長編小説『白痴』の主人公ムィシキンに対するトルストイのたいへん高い評価からでしたが、その評価には時期によって揺れはありましたが、最後までドストエフスキーへの関心を持ち続けていたのです。

たとえば、トルストイは「七歳上のドストエフスキイとは出会う機会はありませんでしたが、たがいによく理解していました」と書いた日本トルストイ協会会長の川端香男里氏は、「トルストイが家出した時に娘アレクサンドラにもって来させた本の中に『カラマーゾフの兄弟』がありました」と続けています(『100分de名著、トルストイ「戦争と平和」』。NHK出版、2013年)。

トルストイの『虐げられた人々』観や『白痴』観については次回に書きたいと思いますが、今回は『白痴』以降の長編小説をちきんと理解する上ではきわめて重要な『虐げられた人々』においてトルストイの小説がどのような役割を果たしているかを、この長編小説が掲載された雑誌『時代』の性質にも注意を払いながら考察することで二人の作家の関わりの深さを明らかにしておきたいと思います。

1、「大改革」の時代と雑誌『時代』

川端香男里氏はシベリア流刑中だったドストエフスキーが、トルストイが『同時代人』に初めてЛ.Н.のイニシャルで発表した『幼年時代』について、この小説を書いた「Л.Н.とはだれのことか」と兄ミハイルへの手紙で尋ねていることを紹介しています。

『幼年時代』の作者についてのこの質問は重要でしょう。なぜならば、憲法の発布や農奴制の改革などを求めたペトラシェフスキーの会に関与して、シベリア流刑になっていたドストエフスキーが刑期を終えて首都に帰還し、雑誌『時代』を創刊した時期は、農奴解放などが行われた「大改革」と重なっていたからです。

創刊号から連載を始めた長編小説『虐げられた人々』において、『幼年時代』や『少年時代』に言及していたドストエフスキーは、『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』などのトルストイの作品への深い関心を持ち続けていくことになるのです。

しかも、「当時のロシアの現実は貴族であろうと民衆であろうと破滅させてしまうような厳しいもの」であったことに注意を促した川端氏は、農民のための学校を開いた「トルストイが情熱を注いだ教育活動は、貴族と民衆の融合・調和を目指していました」と書いています。

「われわれはこの上なく注目に値する重大な時代に生きている」としたドストエフスキーも、ナポレオンが大軍を率いてロシアに侵入した際に民衆が示した力にも注意を喚起しながら、自分たちの使命は「われわれの土壌から採られた、国民精神の中から、そして国民的源泉から採られた形式を創り出すことである」と主張し、「欧化」でも「国粋」でもない、第三の道として「大地主義」(土壌主義)の理念を掲げました。

そのドストエフスキーが、ピョートル大帝による「文明開化」以降に生まれた「民衆」と「知識人」との間の断絶を克服するためには、農奴制の中で遅れたままの状態に取り残されている民衆に対する「教育の普及」こそが「現代の主要課題である」と強調し、兄ミハイルとともに創刊したのが雑誌『時代』(一八六一年一月号~一八六三年四月号)だったのです。

しかもこの雑誌は、『読み書きのできる者』や『農民文学』などの雑誌の発刊の情報を伝えて農民教育の必要性を強調するとともに、領地に病院や学校を作って農民生活の改善に努めていたトルストイの月刊教育雑誌『ヤースナヤ・ポリャーナ』の宣言の紹介なども行っていました。

「大改革」の時代に創刊されたこの雑誌は、ロシアや西欧のすぐれた文学作品や評論、劇評ばかりでなく、哲学論文や歴史論文、さらには政治時評や国際政治の状況を知らせる欄も有する総合雑誌でした。

ドストエフスキーはすぐれたジャーナリストでもあったのですが、日本ではこの側面が軽視されていると思われるので、この雑誌の内容を少し詳しく紹介しておきます。

国際政治の欄の担当者だった筆者ラージンはイタリアをめぐる情勢を詳しく伝えていたばかりでなく、「黒人奴隷」をめぐって対立し、一八六一年に南部が分離独立していたアメリカの情勢の紹介にも力を注いでいました。

雑誌『時代』に掲載された「合衆国における黒人たち」という論文は、四百万の黒人奴隷は今はおとなしくしているが、彼らが反乱に立ち上がる危険性もあると指摘しており、鎖につながれて死につつある黒人奴隷が祖国アフリカでの自由な生活を夢見るというロングフェローの作品も掲載されていました。

黒人奴隷の問題を正面から扱って広い反響を呼んでいたストー夫人の『アンクル・トムの小屋』はロシアで1857年に翻訳出版されていましたが、農奴問題を抱えるロシアにとってアメリカの「黒人奴隷」の「権利」の問題は重要なテーマでもあったと言えるでしょう。

この雑誌には公判の記録や法律書の書評や司法改革の進展状態についての情報など多彩な記事が掲載されていることを指摘した研究者のカールロワは、「裁判の改革の準備に関連した雑誌『時代』における法律的な問題の提起は、その大胆さとデモクラシーの点で際だっていた」と特徴づけています。実際、1863年の3月号と4月号では「外国の文献、犯罪と刑罰」と題するポポフの論文が連載され、ここで評者はこの年にフランスやイギリスで出版された最近の図書だけでなく死刑や体罰の廃止を強く求めたベッカリーアの名著『犯罪と刑罰』も取り上げて、「刑法や監獄の組織システムの改革に関する」知識を読者に伝えるとともに、ベッカリーアが主張していた身分の差による刑罰の不平等も強く訴えていました。

イギリスの小説家ギャスケルの長編小説『メアリー・バートン、マンチェスター生活物語』(1848)の翻訳が第4号から9号にかけて連載されていることにも注目したいと思います。ディケンズやカーライルによって賞讃されたこの作品の特徴についてグロスマンはこう解説しています。「三〇年代のマンチェスターの労働者の生態に取材したこの小説には、凄惨な失業や貧困や社会的迫害の絵巻き物が、事業主と工場労働者の生活の鋭い対照を見せている大工業都市を背景に繰り広げられている。ロシア文学ではこういったものはまだ何ひとつ語られていなかったのである」。

農奴制という農本主義から急速に産業社会への移行が進んでいたロシアでもこの頃、農民たちが都市へと移入する中でイギリスと同じ様な問題を抱え始めていたのです。

2、『虐げられた人々』における『幼年時代』と『少年時代』

雑誌『時代』の創刊号から7ヵ月にわたって連載されたのがドストエフスキーの長編小説『虐げられた人々』でした。

主人公のイワンが物語の冒頭でみすぼらしい老人と犬の死に立ち会うという少女ネリーをめぐる出来事とイワンを養育したイフメーネフの没落と娘ナターシャをめぐる筋が並行的に描かれて行きます。物語が進むにつれて、しだいにこれらの悲劇の原因が、ワルコフスキー公爵の犯罪的な詐欺によるものであることがはっきりしてくるのです。

すなわち、物語の冒頭で亡くなるネリーの祖父はイギリスで工場の経営者だったのですが、娘がワルコフスキー公爵にだまされて父の書類を持ち出して駆け落ちしたために全財産を失って破産に陥っていました。

一方、150人の農奴を持つ地主で、主人公のイワンを養育したイフメーネフ老人の悲劇も、隣村に900人の農奴を所有する領主としてワルコフスキー公爵が隣村に引っ越してきたことに起因しています。しばしばイフメーネフ家を訪れて懇意になったワルコフスキー公爵は、自分の領地の管理を依頼し、5年後にはその経営手腕に満足したとして新たな領地の購入とその村の管理をも任せたのです。

その意味で興味深いのは、ワルコフスキーがイワンに「私はかつて形而上学を学びましたし、博愛主義者になったこともあるし、ほとんどあなたと同じ思想を抱いていたこともある」と語っていることです。父親からあまり関心を払われずに親戚の伯爵の家に預けられていた息子のアリョーシャは、トルストイの『幼年時代』と『少年時代』を熱中して読んだとイワンに伝えていますが、この時彼は父親のうちに、自分の領地ヤースナヤ・ポリャーナに学校や病院を建設して農民の養育に励んだトルストイのような面影を見ていたように思えるからです。人の良いイフメーネフ老人がワルコフスキー公爵を信じるようになったのも、改革者のような彼の姿勢に幻惑されたためだったといえるでしょう。

しかし、自らイフメーネフ家を訪れて懇意となり自分の領地の管理も依頼していたワルコフスキー公爵は、後に自分の領地の購入に際してイフメーネフが購入代金をごまかしたという訴訟を起こし、隣村の地主たちを抱き込んでさまざまな噂を流し、有力なコネや賄賂を使って裁判を有利に運んだために、裁判に敗けて一万ルーブルの支払いを命じられたイフメーネフ老人は自分の村を手放さねばならなくなったのです。

ここまで紹介すると真面目な地主とその隣村の大地主の「詐欺師」ワルコフスキーの物語が、『白痴』におけるナスターシヤの悲劇の構図とも重なっていることが分かるでしょう。つまり、真面目に働いていた隣村の地主が火事で幼い娘たちを遺して亡くなると、トーツキーもまた孤児となったスターシヤたちを最初は引き取って養育しますが、その後では隣村の地主の最愛の娘を「妾」として所有したのです。

この意味で注目したいのは、黒澤明監督が『虐げられた人々』(原題は『虐げられ、侮辱された人々』)の少女ネリーの人物造形の内に、『白痴』のナスターシヤの原型を見ていると思われることです(「映画《赤ひげ》と映画《白痴》――黒澤明監督のドストエフスキー観」、「映画・演劇評」、8月12日参照)。

実際、この長編小説の結末では幼いながらも自尊心を持っていた少女ネリーが、自分がワルコフスキー公爵の法律上の嫡子であることを証明する手紙を母親から預かっていながらも、その手紙を父親に見せて庇護を求めることもなく亡くなるのですが、それはトーツキーから提案された多額の持参金を断ったナスターシヤの行為を理解する上でも重要だと思われます。

こうして少女ネリーの悲劇が描かれている長編小説『虐げられた人々』は、外国の小説のテーマや手法(今回のブログでは、エドガー・アラン・ポーやウージェーヌ・シューと雑誌『時代』との関わりは省きました)を大胆に採り入れることで、当時のロシアを揺るがせていた二つの大きな問題、農奴制の廃止と資本主義の導入の問題点を浮き彫りにして、混沌とした時代の雰囲気や「大改革」の時代の課題を描き出していたといえるでしょう。

(拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2002年、第2章「大改革」の時代と「大地主義」――雑誌『時代』と『虐げられた人々』参照。なお、同書からの引用に際しては、人名表記を一般的な形に改めた)。

 関連記事

ドストエフスキーとトルストイⅡ――『死の家の記録』と『罪と罰』をめぐって

ドストエフスキーとトルストイⅢ ――『白痴』と『アンナ・カレーニナ』をめぐって

(2015年12月13日、図版とリンク先を追加)

 

 

『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』(刀水書房、2000年)を「著書・共著」に掲載しました

『罪と罰』はドストエフスキーがそれまでの自分の体験や当時の状況を踏まえて書いた渾身の長編小説です。

「主な研究(活動)」の前史でも書きましたが、都立広尾高等学校に在学中はベトナム戦争の時期だったこともあり、文学作品だけでなく宗教書や哲学書を夢中になって読みふけっていましたが、このころに「他者」を殺すことで、「自分」を殺してしまったという哲学的な言葉が記されているドストエフスキーの『罪と罰』と出会った時には、主人公の「非凡人の理論」の検証をとおして、功利主義的な考えや「弱肉強食の思想」、さらには自己の「正義」のためには大量殺戮も辞さない近代文明のあり方の根本的な考察がなされていると感じました。

ことにエピローグで主人公が見る「人類滅亡の悪夢」からは、すでにクリミア戦争の頃から急速に進歩を遂げるようになった機雷など最新の科学兵器の登場とその使用を分析することで、第二次世界大戦で使用され、世界を破滅させることのできる量が産み出された原子爆弾の使用とその危険性をも予告するとともに、近代的な自然観の見直しの必要性をも示唆していたことに強い感動を覚えました。

1992年に混乱のロシアを訪れたことで、『罪と罰』の世界を実感することがてきましたが、1994年から1年間、ブリストル大学のロシア学科で「ロシアと日本の近代化の比較」をテーマとして研究留学することができましたが、その際にリチャード・ピース(Richard Peace)教授の著作、Dostoevsky’s Notes from Undergroundを読む中で、日本では情念的な形で理解されることの多い主人公の言説には、イギリスで生まれた功利主義の哲学やイギリスの歴史家バックルが主唱した西欧中心的な文明観への強い反発が秘められていたことを確認することができました。

そのことは哲学的な視点と比較文学の手法を組み合わせた形で一般教養科目のための教科書『「罪と罰」を読む――「正義」の犯罪と文明の危機』(刀水書房、1996年)を書くことにつながりました。

職業的な作家であったドストエフスキーは、自分の作品がより多くの読者に読まれるように、悪漢小説や家庭小説の手法などさまざまな趣向を取り入れつつ、さらにエドガー・アラン・ポーのような推理小説的な手法で、主人公のラスコーリニコフが犯した「高利貸しの老婆」殺しの犯罪の「謎」に迫っていますが、そればかりでなく、近代的な知識人である主人公の「非凡人の思想」の批判的な検証をもきちんと行っていたのです。

この教科書を使った授業が好評でしたので、文明論的な視点をより強く出した新版『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』(刀水書房、2000年)を発行しました。ただ、一般教養科目のための教科書として書かれたこともあり、授業での説明がないと分かりにくい点もあるので、もし改版の機会があれば、一般の読者にも読みやすく文学論としても興味深く読めるようなものにしたいとも考えています。

国際ドストエフスキー・シンポジウム(1992年)の報告を「主な研究(活動)」に掲載しました

第八回国際ドストエフスキー・シンポジウムは、ソ連邦の崩壊が起きボスニア・ヘルツェゴビナでは激しい内戦が行われていた1992年にオスロで開催されました。

このような国際情勢を反映してシンポジウムでも、ロシアにおける「ナシズム(我々主義)」とも名付けられるような全体主義の傾向を批判して激しい議論を呼んだポーランドの研究者ラザリ氏の発表などが行われましたが、ドストエフスキー作品における常用暦と教会暦の問題を詳しく分析したザハーロフ氏の説得力のある発表からは、ロシアにおけるドストエフスキー研究の新しい潮流を強く感じました。

私がモスクワ大学への長期留学の際に「初期作品の研究」をテーマに選んだ理由の一つは、ソ連ではドストエフスキー作品の宗教的な側面を研究することは難しいと考えたからだったのですが、ザハーロフ氏の指摘はシベリア流刑以前の作品の傾向を具体的に明らかにするものでした。

一方、この当時のロシアでは「エリツィン(大統領)はすごい奴だ。共産党が50年もかかって証明できなかったことを、あっという間に証明した」というアネクドート(小話)が流行っていましたが、ソ連の崩壊後にロシアが直面したのは宗教や言論の自由の獲得だけでなく、経済の予想もしなかったような混乱だったのです。つまり、先の小話の「答え」は、エリツィンはアメリカのような資本主義の脅威を体験させてくれたというものですが、実際に、あるときにスーパーから品物がまったく消え失せ、次に現れた時にはそのほとんどが外国製品だったことには驚かされました。

このときの混乱がペレストロイカを主導していたゴルバチョフの頃にはあった普遍性への志向から、民族的な思考への回帰にも深く関わっているのではないかと私は感じています。

このようなロシアの状況をドストエフスキーの『鰐』の分析をとおして詳しく考察したのが、1971年に出版された主著『ドストエフスキイ:主要作品の検討』(Dostoyevsky: An Examination of the Major Novels)で、世界中のドストエフスキー研究者に強い影響を与えたピース氏の発表でした。このシンポジウムからもさまざまな研究者の方との出会いや発表をとおして多くの知的刺激を受けることができましたが、ピース教授との出会いはブリストル大学への研究留学へとつながることになりました。

『はだしのゲン』の問題と「国際的な視野」の必要性

最近、松江市の教育委員会が漫画の『はだしのゲン』の閲覧制限を「小中学校に要請していた問題」が話題になっていましたが、ようやく「手続き不備」との理由で「要請撤回を決めた」との記事が、今日の『東京新聞』に載っていました。原爆による被爆を体験した日本から反核の必要性を伝えるためには、悲惨な事実をも見つめねばならないので、当然の措置だと思えますが、「閲覧の問題をめぐる今後の取り扱いは各学校に一任する」とのことなので、実質的には問題の先送りといえるでしょう。実はこのブログでも「原爆の危険性と原発の輸出」というタイトルで書いた8月6日のブログで、政府の対応の問題を指摘した後で、NHKで放送された番組の内容に言及していたので、再度、引用しておきます。

    *   *   *

「8月1日(木)には『はだしのゲン』など原爆の悲惨さを伝える作品が各国語で翻訳されていることを伝えるNHKの番組くらし☆解説 「原爆の悲惨さを世界に伝える」が(広瀬公巳解説委員)が放送されましたので付記しておきます。

ただ、よい番組だったと感じましたが、原爆の悲惨さを世界に伝えるためには、まず日本の政治家がこれらの本の内容をきちんと理解することは当然として、学校教育の教材としても取り入れることで「日本人」の子供たちに事実を知らせることが重要だろうと考えています。」

*   *   *

この問題が起きたときには、やはりこの漫画で描かれている事実も隠すべきだという批判がでてきたかと感じました。なぜならば、福島原発事故の場合にも、原爆の問題と同じように「事実」を隠し続けることで、問題をあいまいにできると考える政治家が少なくないように見えるからです。

日本でようやく大きく取り上げられた「汚染水」の問題が、海外ではすでに大きく報じられていたことを最近知りました。このブログを読んでいる方の中にも知らない方がいると思われますので8月23日付けの「日刊ゲンダイ」(ネット版)の記事を紹介しておきます。

*    *   *

「実は、汚染水問題は、むしろ国際的な関心の方が高いくらいだ。日本国内で大きく報道されるようになったのは、ここ数日のことだが、海外では早くから詳細に報道されていた。
例えば、英BBC放送は先月23日、ロイヤルベビー誕生ニュースの次に、汚染水が地下を抜けて海に流出している可能性を東電が初めて認めた問題を詳しく伝えた。ロイヤルベビーに浮かれていたのは日本のテレビの方だったのだ。(中略)
このところ、英インディペンデント紙やガーディアン紙、米ウォールストリート・ジャーナル紙、シカゴ・トリビューン紙なども『事故は収束できるのか?』と、相次いで懸念を表明している。(中略)3年後には耐用期限を迎えるタンクをどうするのか、方策は見つかっていない。つまり、日本の国土も海も汚染され続けるということだ。そんな場所でオリンピックなんて、国際世論が敬遠するのも当然だろう。(後略)」。

(「福島原発汚染水ダダ漏れで五輪招致絶望」『「日刊ゲンダイ』ネット版)。

ここまで引用してから新しい記事を見つけました。これは26日の『毎日新聞』の政治コラムからの引用とのことですが、重要な発言なので紹介しておきます。 「小泉元首相は、インタビューに〈原発ゼロしかない〉〈今ゼロという方針を打ち出さないと将来ゼロにするのは難しい〉〈総理が決断すりゃできる〉と『脱原発』の持論を全面展開。〈『原発を失ったら経済成長できない』と経済界は言うけど、そんなことないね。昔も『満州は日本の生命線』と言ったけど、満州を失ったって日本は発展したじゃないか〉と、原発推進派をバッサリ切り捨てているのだ」。

 (「小泉純一郎『脱原発宣言』に安倍首相真っ青」『「日刊ゲンダイ』ネット版、827日)。

*    *   *

先日掲載した1989年に行われた国際ドストエフスキー・シンポジウムの報告では、チェルノブイリ原発事故にふれた発表もあったことも記しましたが、今後の世界のさまざまな学会などで研究発表する日本の研究者は、フクシマについても厳しく問われることになるでしょう。

宮崎駿氏と半藤一利氏は、「平和」や「護憲」の必要性を互いに確認したその対談を謙遜して「腰抜け愛国談義」と名付けていますが、「愛国」の気概を持つ政治家の方たちは、日本の国土と青少年の将来を守るために、一刻も早く日本が直面している危機を直視して行動すべきでしょう。

『若き日本と世界ーー支倉使節から榎本移民団まで』(東海大学出版会、1998年)を「著書・共著」に掲載しました

昨日、掲載した「ドストエフスキー関連年表」には、1792年に第1回ロシア使節としてラクスマンが漂流民の大黒屋光太夫を伴って来日したことや、光太夫の貴重な異文化体験を記録した蘭学者・桂川甫周の『北嵯聞略』を元に、作家の井上靖氏が長編小説『おろしや国酔夢譚』を書いたことや、その長編小説を元に日ソ合作の映画《おろしや国酔夢譚》が撮られたことも記しました。

江戸時代に行われたこのような日露の交流や大黒屋光太夫によってもたらされた情報は、吉田松陰の師・佐久間象山に日本でもピョートル大帝の改革をモデルに海軍建設の必要性を説かせるほどの影響を与えました。しかし、ペリー提督がアメリカ艦隊を率いて浦賀に来航した翌月には、ロシアのプチャーチン提督がやはり艦隊を率いつつも、シーボルトの助言により、浦賀ではなく長崎に来航していたことはあまりしられていません。

本書において私は、ドストエフスキーと同時代の作家でプチャーチン提督の秘書官として来日したゴンチャローフの眼をとおして、幕末の日本だけでなく上海や沖縄がどのように描かれていたかにも注目しながら、日本の「開国」とほとんど同じ時期に勃発していたクリミア戦争の問題も考察しました。

支倉常長の使節団の考察から始まる本書には、ロシアからの二回目の使節団に同行したラングスドルフの著作の紹介や、日露関係にも深く関わっていたシーボルトの研究、さらには高杉晋作の見た上海租界の状況など、幕末期だけをとっても興味深い論文が多く収められています。

「トップページ」に「ページ構成」と「ブログのタイトル一覧」の項目を追加しました。

「ページ」の種類が増えてきたので、トップページにも「ページ構成」の簡単な説明を載せました。

また、「ブログ」には他のページのタイトルも掲載して目次の役割も与えていますが、タイトルの数が増えたので「ページ構成」の後に、「タイトル一覧」の項目を追加しました。

「風と大地と」というブログの題名の由来については、「アニメ映画『風立ちぬ』と鼎談集『時代の風音』」(7月20日)と〔「大地主義」と地球環境〕(8月1日) を参照してください。

「ロシア文学関連年表」のページを開設し、ドストエフスキー関連の年表を掲載しました

標記のページをようやく作成しました。

ドストエフスキー自身は1821年うまれなのですが、父親との関係が重要なので父ミハイルが生まれた1789年から初めて、日露関係を知る上でも重要なロシアからの使節団の来日とその時に帰還した漂流民を主人公とした井上靖氏の長編小説とその映画化にもふれています(日本での出来事は青い字で表記しました)。

「大国」フランスと戦争も予想される中で軍医の養成が急務となっていたロシア帝国の要望に応えて、司祭となる道を捨てて医者として「祖国戦争」に参戦した父ミハイルの生き方を考察することは、その後のロシアの歩みを知る上だけでなく、『罪と罰』という長編小説を理解する上でも重要なので「祖国戦争」についてもその後の世界史の流れにもふれながら記しました。

幕末から明治初期の日本の歴史も、長編小説『白痴』が書かれた時代と深く関わっているので詳しく書きました。1870年以降の年表についてはいずれ加筆したいと考えています。

ただ、打ち込んだのとは異なった形でパソコンの画面上には表示されていますが、パソコンの機種によっても表示が異なっているようですので、もうしばらく様子を見てから、段落の変更などを行うようにします。

「モスクワの演劇――ドストエフスキー劇を中心に」を「映画・演劇評」に掲載しました

ドストエフスキーは長編小説『未成年』において、主人公のアルカージイにグリボエードフの劇『知恵の悲しみ』を見たときの感激を語らせていますが、それは若きドストエフスキー自身の感想とも重なるでしょう。

このことは『死の家の記録』についてもいえるでしょう。ドストエフスキーはそこで降誕祭の時期に民衆出の囚人たちが演じた劇について記していますが、この記述は民衆芝居の最初の記録の一つでもありました(拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2002年参照)。

いずれ詳しく分析したいと思いますが、評論家の小林秀雄が『死人の家の記録』と見なしたこの作品には、民衆の持つエネルギーがきちんと描かれていたのです。

HPの標記のページの記事でも少しふれましたが、台詞がきわめて重要な働きを担っているだけでなく、音楽や舞台構造も重要な役割の一端を果たしている総合芸術としての演劇は、作家ドストエフスキーの創作方法にも深く関わっていると思えます。