黒澤映画《生きる》では、俳優の志村喬がブランコに乗りながら歌ったことで、今も愛唱されている「ゴンドラの唄」や、劇『復活』の劇中歌として用いられて爆発的なヒット曲となった「カチューシャの唄」などで知られる劇団・藝術座が今年で結成百周年に当たります。
日本の演劇に大きな影響をおよぼした島村抱月主宰の劇団・藝術座の結成百周年を記念したイベントの記事を「新着情報」のページに掲載しました。
黒澤映画《生きる》では、俳優の志村喬がブランコに乗りながら歌ったことで、今も愛唱されている「ゴンドラの唄」や、劇『復活』の劇中歌として用いられて爆発的なヒット曲となった「カチューシャの唄」などで知られる劇団・藝術座が今年で結成百周年に当たります。
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アニメ映画《風立ちぬ》が「国内の映画ランキング」の一位の座から去ったことで、早くも話題は次の映画に移り始めているようにみえます。
しかし、アニメ映画というジャンルで、文明史家とも呼べるような雄大な視野を持った司馬遼太郎氏の志を表現していると思えるこの作品については、きちんと語り続けていかねばならないでしょう。
宮崎駿監督が「書生」として司会を務めた鼎談集『時代の風音』(朝日文庫、1997)で司馬氏は、20世紀の大きな特徴の一つとして「大量に殺戮できる兵器を、機関銃から始まって最後に核まで至るもの」を作っただけでなく、「兵器は全部、人を殺すための道具ながら、これが進歩の証(あかし)」とされてきたことを厳しく批判していました(「二十世紀とは」)。
注目したいのは、映画の終わり近くでノモンハンの草原とそこに吹く風が描かれていることです。この場面を見たときに、司馬氏の作品を評論という方法で論じてきた私は、宮崎監督が司馬氏の深く重たい思いを見事に映像化していると感じ、熱い思いがこみ上げてきました。
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司馬氏は賞賛される一方で、批判されることも多い作家でしたが、司馬作品を比較的好意的に見ている人の中にも、ことに晩年には「参謀本部」や「統帥権」の問題を鋭く分析している司馬氏が、いろいろと批判しながらノモンハンの戦車部隊をテーマにした長編小説を書かなかったことには疑問をもっている方が多いようです。
しかし、司馬氏は「書かなかった」のではなく、「書けなかった」のです。この点については誤解している方も多いと思われるので、最近〔「書かなかったこと」と「書けなかったこと」〕と題するエッセーを書きました。(同人誌『全作家』第91号)。ここではその一部を引用することで、「ノモンハンの草原に吹く風」が描かれたシーンを見たときの私の熱い思いの説明に代えたいと思います。
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「私は小説にするつもりで、ノモンハン事件のことを徹底的に調べたことがある」と記した司馬氏は、「ノモンハンは結果として七十数パーセントの死傷率」だったが、それは「現場では全員死んでるというイメージです」と作家・井上ひさし氏との対談で語るとともに、連隊長として実際に戦闘に参加した須見新一郎元大佐の証言をとおして、「敗戦の責任を、立案者の関東軍参謀が取るのではなく」、貧弱な装備で戦わされ勇敢に戦った「現場の連隊長に取らせている」と指摘し、「天幕のなかにピストルを置いて、暗に自殺せよと命じた」ことを紹介している(『国家・宗教・日本人』)。
「このばかばかしさに抵抗した」須見元大佐が退職させられたことを指摘した司馬氏は、彼のうらみはすべて「他者からみれば無限にちかい機能をもちつつ何の責任もとらされず、とりもしない」、「参謀という魔法の杖のもちぬしにむけられていた」と書いている(『この国のかたち』・第一巻)。
こうして「ノモンハン事件」を主題とした長編小説は、『坂の上の雲』での分析を踏まえて、「昭和初期」の日本の問題にも鋭く迫る大作となることが十分に予想された。しかしこの長編小説の取材のためもあり、司馬氏が元大本営参謀でシベリアでの強制労働から戻ったあとには、商事会社の副社長となり再び政財界で大きな影響力を持つようになった瀬島龍三氏と対談をしたことが、構想を破綻させることになった。
すなわち、『文藝春秋』の昭和四十九年正月号に掲載されたこの対談を読んだ須見元連隊長は、「よくもあんな卑劣なやつと対談をして。私はあなたを見損なった」とする絶縁状を送りつけ、さらに「これまでの話した内容は使ってはならない」とも付け加えていた(「司馬遼太郎とノモンハン事件」)。
この話について記した元編集者の半藤一利氏は、「かんじんの人に絶縁状を叩きつけられたことが、実は司馬さんの書く意欲を大いにそぎとった」のではないかと推測している。また、小林竜夫氏は須見元大佐がこの長編小説の主人公だったのではないかと考え、「須見のような人物を登場させることはできなく」なったことが、小説の挫折の主な理由だろうと想定している(『モラル的緊張へ――司馬遼太郎考』)。
たしかに、惚れ込んだ人物を調べつつ歴史小説を書き進めていた司馬のような作家にとって主人公を失うことは大きく、小説は「書けなくなった」と思えるのである。
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アニメ映画を見ていたときは、広い草原を見て司馬氏がたびたび言及している蒙古の草原のようだと漠然と感じていたのですが、半藤一利氏との対談で宮崎監督は次のように語っていたのです。
「少年時代の堀越二郎の夢に出て来る草原は、空想の世界の草原です。でも、終わりの草原は現実で、『あれはノモンハンのホロンバイル草原だよ』ってスタッフに言っていた」(『腰抜け愛国談義』文春ジブリ文庫)。
その記述を読んだ時には、宮崎監督が映像をとおして作家・司馬遼太郎氏の志を受け継ぎ、表現していると改めて強く思いました。
(2015年11月4日。訂正と追加)。
標記の著書の書評を「書評・図書紹介」に掲載しました。
すでに先月の出来事になってしまいましたが、9月17日に俳優座で《三人姉妹》を見ました。
小劇場での上演という事で最初はロシアの広大な空間の感覚が損なわれるのではないかと少し心配していました。
演出家・森一氏のユニークな状況設定もあり、劇が始まると次第に違和感は消えて、最後は俳優たちの息づかいも感じられる小劇場の醍醐味を満喫しました。
しかも、「ドストエーフスキイの会」ではドストエフスキー作品とチェーホフとの関係についてもたびたび取り上げられてきましたが、私も地方貴族の娘たちの生活が描かれたチェーホフの『三人姉妹』では、エパンチン家の三姉妹の孤独と苦悩をとおして貴族社会の腐敗が痛烈に批判されていた長編小説『白痴』のテーマが受け継がれていると感じていました。
今回見た劇団俳優座のこの劇からも三人姉妹の孤独と決意のテーマが強く伝わってきましたので、記憶が薄れている箇所もありますが、劇から受けた印象を「映画・演劇評」に簡単に記しておきます。
8月20日のブログでは映画《生きものの記録》に関連して、特集「映画は世界に警鐘を鳴らし続ける」と題する企画についての仙台出身の岩井俊二監督とスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーとの対談記事の紹介をしました。
昨日は黒澤明研究会からの知らせで、「報道ステーション」で放映された「黒澤明死して15年直筆ノートにあった…」というタイトルの映像がYou Tubeにアップされていることを知りました。
15分足らずの短い映像ですが、熊田雅彦制作主任と野上照代氏、さらに黒澤久雄氏や橋本忍氏などの証言と映画のシーンをとおして黒澤監督の切実な思いが見事に編集されていました。
原発の危険性を予告していた映画《夢》の「赤富士」の映像だけでなく、被爆の問題を扱った映画《生きものの記録》の映像も用いることで、「直筆ノート」に記された黒澤明監督の先見性や映画に込められた深い思想も伝わってきます。You Tubeにアップされているこの番組を、ぜひ多くの人に見て頂きたいと思っています。
先日、妹尾河童氏の原作『少年H』を元にした映画《少年H》を見てきました。
夏休みも終わった平日の午前中ということもあり、観客の人数が少なかったのが残念でしたが、この映画からも宮崎駿監督の《風立ちぬ》と同じような感動を得ました。
映画《風立ちぬ》については、戦時中の問題点を示唆するシーンにとどまっており、反戦への深い考察が伝わってこないという批判があり、おそらくそれが、戦時中の苦しい時代をきちんと描いている映画《少年H》とのヒットの差に表れていると思います。
黒澤映画《生きものの記録》と司馬遼太郎氏の長編小説『坂の上の雲』などを比較しながら感じることは、問題点の本質を描き出す作品は一部の深い理解者を産み出す一方で、多くの観客や読者を得ることが難しいことです。
私としては問題点を描き出す《少年H》のような映画と同時に、大ヒットすることで多くの観客に問題点を示唆することができる《風立ちぬ》のような二つのタイプの映画が必要だろうと考えます。
ただ、司馬作品の場合に痛感したことですが、日本の評論家には作者が伝えようとする本当の狙いを広く伝えようとすることよりも、その作品を矮小化することになっても、分かりやすく説明することで作品の売り上げに貢献しようとする傾向が強いように感じています。
《風立ちぬ》のような作品も観客の印象だけにゆだねてしまうと、安易な解説に流されてしまう危険性もあるので、《風立ちぬ》に秘められている深いメッセージを取り出して多くの観客に伝えるとともに、《少年H》のような映画のよさを多くの読者に分かりやすく説明してその意義を伝えたいと考えています。
奇しくも、宮崎駿監督と妹尾河童氏は司馬遼太郎氏を深く敬愛していました。それぞれの映画のよさを再確認する上でも、《風立ちぬ》を見た人にはぜひ《少年H》をも見て、二つの映画を比較して頂きたいと思います。
(イワン・クラムスコイ作「見知らぬ女」(1883年)。アンナ・カレーニナをイメージしたものとも言われている。図版は「ウィキペディア」より)
はじめに
前回はトルストイが長編小説『白痴』の主人公ムィシキンを「その値打ちを知っている者にとっては何千というダイヤモンドに匹敵する」ときわめて高く評価していたことを確認しました。
この評価は、『永遠の良人』論や「『未成年』の独創性について」(1933)などの初期の論考において、トルストイやバルザックの小説との比較をとおして、ドストエフスキー作品における凝縮されたともいえる独特の時間の認識や「告白体」の深い考察を行い、近代的な知識人の苦悩や自意識の問題を考察していた文芸評論家の小林秀雄の「『白痴』についてⅠ」(1934)を考察する上でも重要でしょう。
なぜならば、日本は1933年に国際連盟を脱退して孤立を深める一方で、滝川事件などが起きて知識人に対する弾圧が強められていましたが、この翌年に書かれた『白痴』論で小林秀雄は主人公の孤独や憂愁を浮き上がらせる一方で、家族や社会の問題を解体していたとも思えるからです。
ただ、小林秀雄という評論家は、広いフランス文学の知識をも踏まえてドストエフスキーを論じていたばかりではなく、戦後は本居宣長などの深い考察をも行っています。筆者にはまだそれらをも視野に入れて論じることができないので、ここではドストエフスキーの作品と素手で格闘した小林的な手法で、小林秀雄の『白痴』論を分析することにします。
1,「車中での出会い」
「『罪と罰』についてⅠ」(1934)の冒頭で小林秀雄は、「重要な事は、告白体といふ困難な道からこの広大な作品を書かうと努めたほど、ラスコオリニコフといふ人物が作者に親しい人物であつたといふ事である」と記しています。
そして、シベリアにおけるラスコーリニコフの「更生」を否定するとともに、「ドストエフスキイは遂にラスコオリニコフ的憂愁を逃れ得ただらうか」と読者に問いかけた小林は、「来るべき『白痴』はこの憂愁の一段と兇暴な純化であつた。ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」という解釈を示して『罪と罰』論を結んでいました(傍線引用者、『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、62~63頁。以下、全集第6巻からの引用に際しては旧漢字を新漢字になおすとともに、本文中の〔〕内に頁数をアラビア数字で示した)。
ただ、「『白痴』についてⅠ」でムィシキンがスイスから帰国する列車で考えていたことに言及して、「詮索するにも及ぶまい。当人が『これから人間の中に出て行く』と言つてゐるのだから、この男には過去なぞないのだらう」と断定した小林は「ムイシュキンは、汽車の中で、独り言を繰返す」とも記しています〔傍線引用者、299〕。
しかし、『これから人間の中に出て行く』という言葉は独り言ではなく、エパンチン家の令嬢たちにマリーと子供たちの逸話を説明した後で語られた言葉であり、ムィシキンは「ぼくは自分の仕事を誠実に、しっかりとやり遂げようと決めました」と続けていたのです(第1部第6章)。
つまり、スイスでの治療をほぼ終えたムィシキン公爵が混沌としている祖国に帰国する決意をしたのは、母方の親戚の莫大な遺産を相続したとの知らせに接したためであり、ドストエフスキーはムィシキンが遺産についてエパンチン将軍に告げようとしながら何度も遮られた場面を描いていました。こうして、ドストエフスキーは小説の冒頭で思いがけず莫大な遺産を相続した二人の主人公の共通性を描くとともに、その財産をロシアの困窮した人々の救済のために用いようとした若者と、その大金で愛する女性を所有しようとした若者の友情と対立をとおして、彼らの悲劇にいたるロシア社会の問題を浮き彫りにしていたのです。
しかし、冒頭の場面の重要な意味を見逃していた小林は、「『白痴』についてⅠ」第3章の冒頭で「ムイシュキンの正体といふものは読むに従つていよいよ無気味に思はれて来る」と書き、簡単な筋の紹介を行っていますが、そこにはいくつも問題と思われる解釈の個所があるので、下線をひいた形で引用しておきます。
「ムイシュキン公爵は子供の時癲癇にかゝつて以来、廿六の歳まで精神病院の患者であつたが、半ば健康を取戻してペテルブルグに帰つて来ると、捨てられた商人の妾ナスタアシャと将軍の娘アグラアヤと同時に恋愛関係に落ち、彼は二人の女に同じ様に愛を誓う」〔傍線引用者、87〕。
ここでムィシキンを病人として強調した小林は、ナスターシヤを「捨てられた商人の妾」としていますが、名門貴族の家柄の出であったナスターシヤは、両親が火災で亡くなって孤児となったあとで隣村の貴族のトーツキーに養育されたのですが、少女趣味のあった彼によって無理矢理に妾にさせられていたのです。
テキストという「事実」から目をそらして自分の主観で『白痴』を解釈することで、小林秀雄は少女にたいして性的な暴行を加えた特権階級としての貴族であるトーツキーの権力を笠に着た身勝手で理不尽な行動については何も言及しなかったばかりでなく、被害者のナスターシヤの異常性やムィシキンの病気を強調していたのです。
小林が『白痴』に描かれているこれらの人間関係を歪めた形で紹介しているのは、華族制度が存在していた当時の日本では、貴族のトーツキーの身勝手さを批判することが日本の体制批判と見なされることを恐れたためでもあるでしょう。
この意味で興味深いのは、農村に暮らす貴族の主人公のリョーヴィンと青年将校のヴロンスキーの生き方を比較することで、当時の貴族社会の負の側面を浮き彫りにしたトルストイの『アンナ・カレーニナ』でも、兄の浮気によって崩壊の危機に瀕していた兄夫婦を和解させるためにモスクワを訪れていた主人公のアンナが、母親を出迎えるためにペテルブルグから到着した列車の車内に乗りこんだ青年将校のヴロンスキーに、惚れられてしまうという物語の発端が描かれていることです。
トルストイが長編小説『白痴』を高く評価していたことを考慮するならば、主要な人物が汽車の車中で出会うというこのシーンは、『白痴』の冒頭のシーンと深い関わりがあることは十分に考えられるでしょう。実際、ナスターシヤがロゴージンの激しい情念のゆえに殺害されたのと同じように、アンナもヴロンスキーの激しい情熱に負けて家族を捨てて恋に走り、ついには近代文明の象徴ともいえる列車に飛び込んで自殺をしてしまうことになるのです。
ソ連の研究者フリードレンデルはナスターシヤとアンナだけでなく、ムィシキンとリョーヴィンの類似性にも注意を促していたビャールイの論文を紹介しながら、二つの長編小説を詳しく考察しています。Фридлендер, Г.М., Достоевский и Лев Толстой //Достоевский и миравая литература, Москва, Художественная литература, 1979.С.185-188.)。
2,「シベリヤから環った」主人公
すこし『白痴』から話が逸れましたが、しかし、『これから人間の中に出て行く』という言葉は独り言ではなくエパンチン家の令嬢たちにスイスでのマリーと子供たちの逸話を説明した後で語られた言葉を独り言と説明し、どこから戻ったかを重要視しなかった小林の記述は、多くの問題を孕んでいます。
なぜならば、スイスではなくシベリアから帰還したことになると、ムィシキンが治療を受けていたスイスの村で体験したマリーのエピソードがなくなり、判断力がつく前に妾にされていたナスターシヤの心理や行動を理解することが難しくなります。さらに、ムィシキンが西欧で見たギロチンによる死刑の場面もなくなり、『白痴』における主要なテーマの一つである「殺すなかれ」というイエスの言葉と、近代西欧文明の批判が読者の視界から抜け落ちてしまうことになるからです。
しかも、「『白痴』についてⅠ」で、「周知の事だが、作者はこの主人公を通じて、自分の二つの異常な生活経験を、熱烈に表現してゐる」として、癲癇の発作とともに死刑体験とを挙げていた小林秀雄は〔90~91〕、戦後に書いた「『白痴』についてⅡ」(1952~53)でも「この死刑の話は、執拗に、三通りの違つた形で繰返し語られ、恰も、作品の主音想(ライト・モチフ)が鳴るのを聞くやうだ」とし、「ギロチンが落ちて来る一分間前の罪人の顔を描いてはどうか」という「三番目の話は、ムイシュキンがアグラアヤの為に思ひ附いた画題の話である」と続けています〔傍点引用者、281~2〕。
しかし、よく知られているようにムィシキンが画題を提案したのはエパンチン家の三女アグラーヤにではなく、絵の才能のある次女のアデライーダに対してでした(第1部第5章)。アグラーヤたちが父親に対して批判的だったのは、それまでナスターシヤを妾としていた裕福なトーツキーから自分の娘との結婚を望まれると、エパンチン将軍が自分の出世のために長女のアレクサンドラに年齢の離れた中年男との愛のない結婚を強いたばかりでなく、莫大な持参金を付けてエパンチン将軍の秘書のガーニャにナスターシヤを払い下げようとする策謀をトーツキーとともに進めていたからだったのです。
小林秀雄が姉妹の名前を取り違えたことは、彼が三人姉妹の関係にはほとんど関心をはらっていなかったことを示しているでしょう。つまり、小林の『白痴』論では「創作ノート」や手紙などが自分の解釈に沿った形で引用されており、きちんと原作のテキストを読む努力がなされていない感が強いのです。
そして『白痴』についてⅠ」において『白痴』の結末の異常性を強調した小林秀雄は、「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と記していたのです〔傍線引用者、100~103〕。(「長編小説『白痴』における病いとその描写――小林秀雄の『白痴』論をめぐって」『世界文学』第117号、2013年参照)。
一方、ムィシキンがアデライーダに画題を提案したギロチンのテーマからは、トルストイが描いたパリの広場での公開死刑執行の記述が連想させられます。
実は、黒澤映画《白痴》における亀田(ムィシキン)が語った死刑囚の眼についての描写には、ドストエフスキー自身の死刑体験だけでなく、フランス軍に占領されたモスクワで襲われたロシア人の女性を守ろうとして捕らえられ、簡単な裁判で有罪とされて死刑場に連行されたピエール・ベズーホフの見た死刑囚たちの眼の描写が反映されているのです。
すなわち、刑場に引きだされたピエールは、最初の二人が引き立てられた際には「これから起こることを見ないために顔をそむけた」と描かれています。そして、「次の二人が引き立てられた。やはり同じような目で、この二人もみんなを見つめ、空しく、目だけで、黙ったまま、助けを求めていた」。次の若い工場労働者は兵士に「手を触れられたとたんに、怯えて跳びすさり、ピエールにしがみついた」が、「ピエールは身震いして、彼をふりほどいた」が、柱のそばに立たされた若い労働者は「ほかの者たちと同じく目隠しをされるのを待ちながら、撃たれて傷ついたけもののように、光る目で自分のまわりを見まわして」おり、一方の「ピエールはもう顔をそむけ、目を閉じる気がしなかった」と描かれているのです。
このことを思い起こすならば、黒澤映画《白痴》はトルストイの『戦争と平和』の世界観も反映しているといえるでしょう。
3,ドストエフスキーの『アンナ・カレーニナ』観
ドストエフスキーは『作家の日記』においてトルストイの『アンナ・カレーニナ』をきわめて高く評価する一方で、リョーヴィンの戦争観を厳しく批判していました。
この長編小説については、稿を改めてきちんと考察しなければならないと思いますが、ここでは露土戦争とドストエフスキーのトルストイ観という視点から少し言及しておきたいと思います。
なぜならば、トーツキーに騙されて失恋した彼の友人がコーカサスの戦線へと志願してクリミアで戦死したという『白痴』に描かれている小さなエピソードと、アンナが自殺した後にヴロンスキーが私費を投じて義勇軍を創設して戦争にむかうという記述に、二つの作品の類似性とともに作者の戦争観の違いを感じているからです。(『白痴』における『椿姫』の役割については、いずれこのホームページにも掲載したいと思いますが、差し当たっては拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』、84~88頁参照)。
ドストエフスキーは1877年の『作家の日記』で、「『アンナ・カレーニナ』は芸術作品としては、まさに時宜を得てさっと現われた完成された作品であって、現代のヨーロッパ文学中、何ひとつこれと比べることができないような作品である。第二に、これはその思想的内容から言って、何ともロシア的なものである。われわれ自身と血でつながっているものである」とこの長編小説を高く評価しています(川端香男里訳、『作家の日記』、新潮社、1980年、118-9頁)。
しかし、1876年の『作家の日記』6月号でドストエフスキーは、東ローマ帝国の皇都(ツァーリグラード)であったギリシア正教の聖地コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)が、「正教の指導者、正教の保護者かつ保存者として」のロシアのものになるだろうと記していました。
それゆえ、主人公のリョーヴィンが次のように語る箇所を引用したドストエフスキーはトルコによる大量虐殺を指摘しながら、次のような考えをそれは「復讐」ではないと厳しく批判しているのです。
「……自分の兄をもふくむ数十人の人びとが、首都からやって来た何百人かの口達者な義勇兵たちの話を根拠にして、民衆の意志と思想とを表現しているのは、新聞と、それから自分たちであると揚言する権利をもっているという考えには、彼はとうてい同意することはできなかった。しかもその思想たるや、復讐と殺人とによって表現されるものではないか。」
さらにドストエフスキーはトルストイがリョーヴィンの思いを、「向こうの、別の半球で何が起こっていようと、ぼくには何の関係があるのだ。スラヴ民族の迫害に対しては直接的な感情はないし、あるはずもない。なぜなら私は何も感じないからだ」と描いていることを強調して、「社会の教師」であるトルストイは、「何を私たちに教えようというのだろうか」と厳しく詰問しています。
たしかに、ドストエフスキーが引用した箇所からは、リョーヴィンの無力感さえ漂よってくるようで、この二つ記述を比較するとトルコの圧制下に苦しむスラヴの民衆への連帯を呼びかけたドストエフスキーの言葉の方が説得力を持っていると感じる読者もいると思います。
しかし、私はそこに激しい近代戦が行われたクリミア戦争に参戦していたトルストイと、戦争の悲惨さを体験していなかったドストエフスキーとの違いを感じ、苦渋に満ちたリョーヴィンの思いからは、後に日露戦争を批判するようになるトルストイ自身の苦悩をすら感じるのです。
強いていうならば、リョーヴィンの苦悩は司馬遼太郎の長編小説『坂の上の雲』の終章「雨の坂」で描かれているような、悲惨な近代戦が行われた日露戦争を辛うじて勝利に導いた後で、僧侶になろうとした海軍参謀・秋山真之の苦悩に通じているといえるかもしれません。
そしてそれは日露戦争のあとで、ヤースナヤ・ポリャーナにトルストイを訪ねた徳冨蘆花の思いとも重なっているでしょう。
『作家の日記』を訳した川端香男里氏は、ここで論じられている露土戦争の結果について、「イギリスの干渉にもかかわらず、一八七八年三月のサン・ステファノ条約で、セルビア、モンテネグロ、ルーマニア、ブルガリアの独立が承認された。しかもその後、ちょうど日清戦争後、日本が三国干渉で苦杯をなめたのと似た状況がロシアにも起き、一八七八年六月のベルリン会議でロシアは大幅な譲歩を強いられることになる」と説明しています。
28日に行われる日本トルストイ協会での講演では、長編小説『戦争と平和』をとおして、『坂の上の雲』や『翔ぶが如く』などの司馬作品における日本の近代化と戦争の考察に迫りたいと考えています。
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ドストエフスキーとトルストイⅠ――『虐げられた人々』とその時代
ドストエフスキーとトルストイⅡ――『死の家の記録』と『罪と罰』をめぐって
(2015年12月13日、図版とリンク先を追加)
(『欧化と国粋』刀水書房の表紙。図版はオムスクの監獄)
はじめに
前回は、雑誌『時代』や長編小説『虐げられた人々』におけるドストエフスキーのトルストイ作品への言及を考察しましたが、トルストイも1881年2月に評論家のストラーホフに出した手紙で、『虐げられた人々』を読み直して「感動した」と書いていました。
今回はグロスマンが編集したドストエフスキーの伝記や徳冨蘆花の「順禮紀行」によりながら、ストラーホフという批評家を挟んでドストエフスキーとトルストイの関係を分析することで、『死の家の記録』と『罪と罰』についてのトルストイの高い評価の意味を考察することにします(なお本稿では、題名も含めて人名の表記は、ドストエフスキーに統一します)。
1,「大改革」の時代と『死の家の記録』
ドストエフスキーが「大改革」の時代に自分が体験したシベリア流刑と監獄での生活を元に描いた長編小説『死の家の記録』では、この小説の書き手を自分と同じ政治犯ではなく、妻殺しの罪で捕らえられたゴリャンチコフと設定し、さらにプーシキンの短編集『ベールキン物語』のように、主人公の描いた記録を別の編者がまとめるという形をとっています。このことによって、ドストエフスキーは小説の「虚構性」を確保して検閲に対処するとともに、内容においては大胆に監獄の実態を明らかにすることができたのです。
「死の家」と名づけられている『死の家の記録』の第一章では、二五〇人ほどの囚人の半数以上が、ロシアではめずらしく読み書きできる能力をもっていたと書き、「その後わたしは、誰かがこうした資料をもとにして、教育が民衆を亡ぼすという結論を出した、という話を聞いた。それはまちがいである」と主人公のゴリャンチコフが断言しています。
つまり、農民を奴隷状態に長いことおいていたロシアでは、農民に様々な知識を与えることは、特権を与えられている「貴族」への批判を生むことになると考えられてきました。しかし、ドストエフスキーはこのような考えに対して、「教育が民衆の自己過信を育てることは、認めざるをえない。しかし、それはけっして欠点ではないはずである」と人間が自己の尊厳を持ち、貴族の間違いを正すためにも教育が必要であることを強調して、この監獄の考察においても「大改革」の当時持ち上がっていた教育の問題を中心的なテーマの一つとして持ち込んでいたのです。
『死の家の記録』の構成で注目したいのは、第一部の終わりに位置する第一一章「芝居」でドストエフスキーが、一八五一年一二月から翌年の一月までの降誕祭の期間に「軍事犯獄舎」に即席に作られた舞台で、貧弱な舞台装置だけで行われた芝居の上演を描いていることです。この上演にはドストエフスキー自身も演出家としてかかわっていましたが、それまでの監獄の構造や殺害者の心理に迫るような暗い描写の後で、この章は際だった明るさを持っています。たとえば、ドストエフスキーは主人公の筆をとおして『恋敵フィラートカとミローシカ』という劇の主人公を演じた元下士官のバクルーシンの演技について「フィラートカをわたしはモスクワとペテルブルクの劇場で何度か見たが、…中略…首都の俳優たちは、いずれもバクルーシンにおとっていた」と讃え、これ以外の劇でも「どの作品にも彼らの独自の解釈が盛られていた」と高く評価しています。これらの記述からは、ドストエフスキーが「民衆」に対する教育の必要性ばかりでなく、「大地」に根ざした「民衆」の知恵を学ぶことの重要性も指摘していたことが感じられるでしょう。
実際、主人公のゴリャンチコフは「民俗研究家の有志が、民衆芝居について新しいいままでよりもいっそう綿密な研究に専念することが、大いに望ましい」と記していますが、演劇研究者のアリトシューレルが指摘しているように『死の家の記録』における監獄での上演の描写は民衆芝居の記録としてもユニークな位置を占めていたのです。(拙著、『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2002年、第3章〈権力と強制の批判――『死の家の記録』と「非凡人の思想」〉参照)。
それゆえ、この長編小説はゲルツェンをはじめ多くの思想家から高く評価されましたが、トルストイもまた1880年に批評家のストラーホフへの手紙で、「数日来病気で、暇にまかせて『死の家』を読みました。我を忘れてあるところは読み返したりしましたが、近代文学の中でプーシキンを含めてこれ以上の傑作を知りません。作の調子ではなく、観点に驚いたのです。誠意にあふれており、自然であり、キリスト教的で、申し分のない教訓の書です」と書いています(グロスマン、松浦健三訳編「年譜(伝記、日記と資料)『ドストエフスキー全集』(別巻)、新潮社、1980年、483頁)。
そして、「私は昨日一日中初めて味わうような楽しい気持ちで過ごしました」と続けたトルストイは、「おついでの折りがありましたら何とぞよろしく御鳳声のほどお願い申し上げます」と書いていました。
この言葉を受けて、この手紙を数日後にドストエフスキーに渡していたストラーホフは、サンクト・ペテルブルク・スラヴ慈善協会の副会長だったドストエフスキーが翌年の1881年に亡くなると、その総会で追善会が行われた際には、『死の家の記録』を絶賛したトルストイの手紙を引用しつつ講演を行っていたのです。
2,ストラーホフの「回想」とトルストイ
トルストイはドストエフスキーの死を知るとストラーホフに、「私はこの人に会ったこともなし、格別交渉もなかったけれども、死なれてみると、不意に、私には、この人が、なんと言っても私に一番近い、大切な、必要な人であったことが判りました」と書いて深い哀悼の念を伝えていました(グロスマン、前掲訳書)。
ドストエフスキー死後の1883年にはストラーホフが書いた「ドストエフスキーの回想」も所収されたドストエフスキー全集の第一巻が発行されましたが、ドストエフスキーとトルストイとの関係を考える上で重要なのは、トルストイに宛てた手紙で自分の「回想」にふれたストラーホフが「執筆中小生は、絶えず胸に込み上げてくる憎悪の念と闘いながら、なんとか克服しようと努めました。彼は意地が悪くて、嫉妬深くて、ふしだらで、(中略)彼に一番よく似ている人物は『地下室』の主人公や『罪と罰』のスヴィドリガイロフ、それから『悪霊』のスタヴローギンです」と書き、「彼の小説は、根本的には自己釈明のかたまり」であると断定していたことです。
著作とともにこの手紙を受け取ったトルストイも「(前略)御作拝読しました。御書面にはいささか気が沈み、失望も致しました。しかしあなたの言われることはよく判ります。(中略)御作ではじめて彼の才能の底のところを知りました」と記して、ストラーホフへの共感を示し、これらの手紙は1914年に『L・N・トルストイ=N・N・ストラーホフ往復書簡集』第2巻に発表されました。
ただ、木下豊房氏は「ストラーホフの中傷」という文章で、「この十年ほどの間に公表された資料によって」、ストラーホフによる誹謗の背景がいくらか明らかになってきたことを指摘しています(『ドストエフスキー ――その対話的世界』(成文社、2002年、279~281頁)。
すなわち、「回想」を編むためにさまざまな資料を読む機会を得たストラーホフは、ドストエフスキーが1875年にアンナ夫人に宛てた手紙で、「あれはいやらしい神学生で、それ以上の者ではない。あれはすでに一度私を見すてた」と書き、さらに、「創作ノート」でも「聖人君子のふりをしていながら、内心は色好みで、脂ぎった粗野な淫蕩行為のためとあれば、誰であれ何であれ売り渡しかねない」と痛烈な批判をしていた文章を読んだ可能性があり、トルストイ宛の自分の書簡が将来公表されることも計算したストラーホフの「意趣返し」だっただろうと説明されているのです。
実際、『L・N・トルストイ=N・N・ストラーホフ往復書簡集』は、ドストエフスキーやトルストイの死後に発行されたので、批判されたドストエフスキーには釈明する機会は与えられず、彼についての暗い噂は一気にロシアの文壇で広がることになりました。
日本でもストラーホフの「回想」などに基づいて、作家ドストエフスキーと『悪霊』のスタヴローギンとの類似性を強調しながら、ドストエフスキーの文学を「父殺しの文学」とする新しい解釈を示した研究書がたいへんに売れて注目されましたが、黒澤明監督が映画《醜聞(スキャンダル)》で描いたように、いつの時代でも週刊誌などのレベルではゴシップ的な記述は好まれるのです。
しかし、望月哲男氏がその「読書ガイド」で記しているように、トルストイ自身はストラーホフの中傷の呪縛から生前中に解き放されていました。すなわち、『芸術とは何か』(英語版、1898年)でトルストイが、「『神と隣人への愛に発した宗教的芸術』の数少ない手本として」、『死の家の記録』を挙げていることを指摘した望月氏は、「たとえば笞打ち刑の残酷さや、それが囚人の精神に与える大きなトラウマを描いた部分が」、「トルストイに、大きな印象を与えたことも十分想像されます」と説明しているのです(望月哲男訳『死の家の記録』、2013年、光文社)。
トルストイの方が現代日本の「最先端」と自認するドストエフスキー研究者よりもドストエフスキー作品の理解が深かったといえるようです。
3,トルストイの『罪と罰』観
日本におけるトルストイの受容という視点から注目したいのは、日露戦争後にヤースナヤ・ポリャーナを訪れた德富蘆花にたいして『罪と罰』の高い評価を語っていたことです。このことについては、すでに『司馬遼太郎とロシア』(東洋書店、2010年)でも記しましたが、ストラーホフをも視野にいれることで、トルストイのドストエフスキー観がより明瞭になると思います。
よく知られているように、トルストイは日露戦争が勃発すると「悔い改めよ」と題する論文をイギリスの『タイムズ』に発表して、殺生を禁じている仏教国と「四海兄弟と愛を公言している」キリスト教国との戦争を厳しく批判しました。この論文は日本でも幸徳秋水と堺利彦によって翻訳され、『平民新聞』に掲載されましたが、その時には賛同しなかった徳冨蘆花は戦争の悲惨さを知って1906年にトルストイを訪れて5日間を過ごし、欧米を「腐朽せむとする皮相文明」と呼んで、力によって「野蛮」を征服しようとする英国などを厳しく批判したトルストイの発言から強い感銘を受けたのです。
私の視点から興味深いのは、自作のうちでどの作品を最も評価するかという蘆花の問いに対して、『戦争と平和』を挙げたトルストイが、そこには「愛国に過ぎたる所あり」と続けていたことです(徳冨蘆花「順禮紀行」、『明治文學学全集』第42巻、筑摩書房、昭和41年、183~186頁参照)。
トルストイが『戦争と平和』において、戦争が「人間の理性と人間のすべての本性に反する事件」と明確に規定していたことを思い起こすならば、これは意外な感じのする答えです。
しかし、大著『ロシアとヨーロッパ――スラヴ世界のゲルマン・ローマ世界にたいする文化的および政治的諸関係の概要』(1869年)を出版したロシアの思想家ダニレフスキーは、そこでトルストイの『戦争と平和』を高く評価しながら、大国フランスに勝つことによって、抑圧されていたスラヴの諸民族にも独立の気概を与えたと「祖国戦争」の意義を讃えていたのです(Данилевский,Н.Я., Россия и Европа. СПБ.,изд.Глагол и изд.С-Петербургского университета, 1995. Сс.425-426.)
さらに、ダニレフスキーは「弱肉強食」の論理を正当化する西欧列強から滅ぼされないためには、「祖国戦争」に勝利したロシア帝国を盟主とする「全スラヴ同盟」を結成して西欧列強と対抗すべきだと主張していましたが、『戦争と平和』がこのような文脈で讃美されることは、トルストイにとっては腹立たしいことだった思われます。
一方、ストラーホフは1880年に行われたプーシキン祭でのドストエフスキーの講演について、スラヴ主義者のダニレフスキーへの手紙で、「ドストエフスキーに感謝している。彼はロシア文学の名誉を救ってくれました」と記しただけでなく、「ツルゲーネフには、またまた腹がたちました」と続けていました。
ドストエフスキーは「創作ノート」に「誰であれ何であれ売り渡しかねない」とストラーホフへのいらだちを記していましたが、同じ時期にトルストイとだけではなく好戦的なスラヴ主義者のダニレフスキーとも親密な交際をしていたストラーホフには、いったいあなたの本心はどこにあるのですかと問い質したくもなります。
この意味で注目したいのは、ロシアの作家のうち誰を評価するかとの蘆花の問いに対して、トルストイが「ドストエフスキー」であると答え、さらに蘆花が『罪と罰』についての評価を問うと「甚佳甚佳(はなはだよし、はなはだよし)」とも語って、ダニレフスキーの歴史観に影響される以前のドストエフスキーの長編小説を高く評価していたことです。(ドストエフスキーとダニレフスキーとの関係については、『講座比較文明』第1巻、朝倉書店、1999年に収録された拙論「ヨーロッパ『近代』への危機意識の深化(1)――ドストエフスキーの西欧文明観」参照)。
実際、ドストエフスキーは『罪と罰』において、「弱肉強食の思想」に影響されて「高利貸しの老婆」を殺したラスコーリニコフの悲劇と苦悩を描き出すとともに、そのエピローグではシベリアの流刑地でラスコーリニコフに大地や森、泉の尊さや民衆の「英知」に気づかせて、彼の「復活」を描き出していたのです。
晩年の1906年に蘆花に語られたトルストイの『罪と罰』観が、長編小説『白痴』の主人公ムィシキンを「その値打ちを知っている者にとっては何千というダイヤモンドに匹敵する」と述べた高い評価につながっていることは確実でしょう(Достоевский,Ф.М..Полное собрание сочинений в тридцати томах,, Ленинград,Наука,Т.9.С.4 19.)。
次回はいよいよトルストイの『白痴』観に迫ってみたいと思います。
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ドストエフスキーとトルストイⅠ――『虐げられた人々』とその時代
リンク→ドストエフスキーとトルストイⅢ ――『白痴』と『アンナ・カレーニナ』をめぐって
(2015年12月13日、図版とリンク先を追加)
映画《風立ちぬ》はこれまでの集大成とも言えるようなすばらしいアニメでしたが、先日の記者会見で宮崎駿監督が引退の表明をしました。
宮崎アニメをこれから見られなくなるのは残念ですが、鼎談集『時代の風音』や対談集『半藤一利と宮崎駿の腰抜け愛国談義』に示されているように、重たいテーマをも含んでいる宮崎映画は楽しいだけではなく、複雑な歴史観や深い文明観を持っています。
今後は文学や映画との関わりをとおして宮崎監督の文明観に迫ることで、宮崎映画の現代的な意義を解き明かしていきたいと考えています。
今回は「映画・演劇評」に標記の記事を掲載しました。
第7回と第8回の国際ドストエフスキー・シンポジウムの報告に続いて、今回は「会報」に載ったオーストリアのガミングで行われた第9回の報告を「主な研究(活動)」のページに掲載しました。
このシンポジウムにおける日本と韓国の研究者の発表論文は、『第9回国際ドストエフスキー・シンポジウム日本・韓国発表論文集』(スラブ研究センター研究報告シリーズ、第59号、1995年11月)に掲載されています。