標記のように、司馬遼太郎関係の著作三冊にもリンクの機能を取り入れて、図版と書評を追加しました
書評や紹介をご執筆頂いた方々に、この場をお借りして深く御礼申し上げます。
下線部をクリックすると、「著書・共著」のページの当該の著作の目次と引用にリンクします。
これにより現在の「著書・共著」一覧が完成しましたので、10月13日付けの下記の「ブログ記事」を削除します。
「記事のリンクとカテゴリーの表示のためにブログにも著書一覧を掲載しました」
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これに伴い、トップページの(講演のお知らせ)の項目を「ブログ記事」タイトル一覧に変更し、(ページ構成)の記述も改訂しました。
追記:トップページの各項目のタイトル一覧も順次、更新しますが、今回は「主な研究(活動)」のタイトルを追加しました(11月9日)。
昨日、日本トルストイ協会での講演のレジュメを掲載しましたが、懇親会の席ではドストエフスキーの日本における受容についてのご質問がありましたので、「欧化と国粋のサイクル」という比較文明学会的な視点から、この問題を考察した標記の論考を「主な研究(活動)」に掲載しました。
この論文ではトルストイには言及していませんが、第3節で日露戦争の後で書かれた夏目漱石の長編小説『三四郎』における夏目漱石の考察に触れつつ、「日露戦争」と「祖国戦争」との類似性を指摘したことが、トルストイの『戦争と平和』と比較しながら『坂の上の雲』を分析した拙著 『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』(東海教育研究所、2005年)につながることになりました。
また、この論考では『罪と罰』の受容に絞ったために、それ以前のドストエフスキーの作品には言及していませんが、クリミア戦争敗北後の価値が混乱して西欧的な価値を主張する西欧派とロシア固有の価値を主張するスラヴ派の間で激しい議論が交わされていた時期に、ドストエフスキーは「大地主義」を唱えて、改革のゆるやかな前進の可能性を探っていました。
この試みは「欧化と国粋のサイクルの克服」という視点からはきわめて重要な試みでしたが、左右の思想の激しい対立の間で両派から批判され、検閲により発行停止にあったこともあり挫折してしまいました。そればかりでなく、その後もニーチェの哲学からの強い影響を受けて、ドストエフスキーは『地下室の手記』でそれまでの理想を捨てたとして、それ以前に書かれた作品を軽視したシェストフの解釈がロシアで広く受け入れられることになったのです。
そして、日本が国際連盟から脱退して国際社会からは孤立するようになっていた日本でも、「シェストフ的な不安」が広く受け入れられ、シェストフの解釈から強い影響を受けた文芸評論家の小林秀雄も、「大地主義」の時代に書かれた『虐げられた人々』や『死の家の記録』などの長編小説を軽視していました。
拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』(刀水書房、2002年)では、これらの長編小説や旅行記『冬に記す夏の印象』などの意義を詳しく考察しましたが、この著書を書いていた当時にも、日本が再び「国粋」のサイクルに入っているという強い危機感を抱いていましたが、その後の流れはますます加速しているようです。
ロシアや日本のように伝統が重んじられる国の大きな問題点は、司馬遼太郎氏が指摘していたように、特殊性が強調される一方で普遍性が軽視されて、冷静な議論がなされないためにブレーキがきかなくなって、情念に流され、革命や戦争のような破局にまで突き進んでしまう危険性が強いのです。
そのような危険性を回避するためにも、クリミア戦争敗戦後の混乱の時期にドストエフスキーが描いたこれらの作品はもう一度、真剣に読み直される必要があるでしょう。
2013年9月28日に昭和女子大学で、「トルストイで司馬作品を読み解く――『坂の上の雲』と『翔ぶが如く』を中心に」という題名の講演を行いました。
故藤沼貴前会長や川端香男里現会長はじめ著名な研究者を擁し、多くのすぐれた研究を積み重ねてこられたこの会で講演する機会を与えられたことを光栄に思っています。
最初は「『戦争と平和』で司馬作品を読み解く」という題名で発表しようと考えていました。しかし、大逆事件の前年に森鴎外は小説『青年』で、夏目漱石をモデルとした登場人物に、日本ではトルストイさえも「小さく」されていると語らせていましたが、それはドストエフスキーについてもあてはまると思えます。
『戦争と平和』のエピローグで「祖国戦争」の勝利のあとでたどるロシアの厳しい歴史を示唆したトルストイは、「日露戦争」の最中には敢然と戦争の惨禍を指摘していました。
一方、現在の日本ではきちんとした議論もないままに、「特定秘密保護法案」さえもが採択されそうな状況となり、福島第一原子力発電所の事故の状況さえも「国家的な秘密」とされたり、兵士が不足しているアメリカ政府の要請によって日本の若者が戦場へと送られる危険性が強くなってきています。
それゆえ講演ではまず、トルストイのドストエフスキー観をとおして日本の近代化のモデルとなったロシアの近代化の問題点を指摘し、その後で『戦争と平和』を強く意識しながら『坂の上の雲』を書いた司馬遼太郎の『翔ぶが如く』における「教育」と「軍隊」の制度や「内務省」と「法律」の問題の考察を明らかにすることで、トルストイの現代的な意義に迫ろうとしました。
ただ、長編小説『翔ぶが如く』はあまり有名な作品ではないので、司馬文学の愛読者以外の方にとっては少し難しい講演になってしまったと反省しており、論文化する際には、やはり『戦争と平和』と『坂の上の雲』の比較になるべく焦点を絞って書くようにしたいと考えています。
司会の労を執られた木村敦夫氏や事務局長の三浦雅正己氏はじめ、関係者の方々にこの場をお借りして感謝の意を表します。
日本比較文学会で口頭発表した論文のレジュメ注*6では、黒澤明監督と小林秀雄のドストエフスキー観との相違については、「小林秀雄のドストエフスキー観と映画《白痴》」というテーマで稿を改めて書く予定であると記していました。
小林秀雄の『白痴』論については、翌年の3月23日に行われた「ドストエーフスキイの会」の第214回例会で「テキストからの逃走――小林秀雄の「『白痴』について1」を中心に」という題名で考察しました。
報告要旨はすでに「ドストエーフスキイの会」の「ニュースレター」と「ネット」(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)に掲載されていますが、このホームページの「主な研究(活動)」のページでも再掲することにします。
発表に際しては「テキストからの逃走」という刺激的な題名を付けましたが、その一番大きな理由は「ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」とテキストとは全く違う解釈をしていたことによります。
発表後の質疑応答では、「『白痴』について1」だけでなく、戦後に書かれた「『白痴』についてⅡ」も視野に入れるとより分かり易かったとのご指摘もありました。そえゆえ、現在は小林秀雄の『白痴』論を中心に『罪と罰』論をも視野に入れつつ改稿中で、『ドストエーフスキイ広場』第23号に掲載される予定です。
日本比較文学会・東京支部第50回大会が日本大学文理学部で行われたのは、今から1年以上も前の2012年10月20日のことでしたが、そこで私は「黒澤明監督のドストエフスキー理解 ――黒澤映画《夢》における長編小説『罪と罰』のテーマ」と題する口頭発表を行いました。
発表を申し込んだ当初は、副題のように映画《夢》と『罪と罰』の構造の比較のみを行うつもりでした。しかし準備を進めるなかで、現在もドストエフスキー論の「大家」とみなされている文芸評論家の小林秀雄氏の『罪と罰』論との対比をした方が、黒澤明監督の映画《夢》の特徴が明らかになるだろうと考えるようになりました。
発表に際しては、司会者の沼野恭子氏からは適切なコメントを頂きました。また、大会の準備に当たられた関係者の方々にもたいへん遅くなりましたが、この場を借りて感謝の意を表します。
発表の際の目次は以下のとおりです。
* * *
はじめに――黒澤明と小林秀雄のドストエフスキー観
a、黒澤明監督の『白痴』観と映画《白痴》の結末
b、長編小説『白痴』の結末と小林秀雄の解釈
c、黒澤明のドストエフスキー観と映画《夢》
Ⅰ、『罪と罰』における夢の構造と映画《夢》
a、映画《夢》の構造と『罪と罰』
b、小林秀雄の『罪と罰』解釈と夢の重視
c、「やせ馬が殺される夢」とその後の二つの夢の関連性
d、映画《夢》の構造と土壌の描写
e、ペテルブルグの「壮麗な眺望」とシベリアの「鬱蒼たる森」の謎
Ⅱ、『罪と罰』の「死んだ老婆が笑う夢」と第四話「トンネル」
a、復員兵の悲鳴と「戦死した部下」たちの亡霊
b、「死んだ老婆が笑う夢」と幽霊の話
c、戦争の考察と「殺すこと」の問題
d、「トンネル」における「国策」としての戦争の批判
e、小林秀雄の戦争体験と『罪と罰』のエピローグ解釈
Ⅲ、『罪と罰』の「人類滅亡の悪夢」と第七話「鬼哭」
a、シベリアの流刑地における「人類滅亡の悪夢」とキューバ危機
b、小林秀雄と湯川秀樹の対談と原爆の批判
c、第六話「赤富士」の予言性と「人類滅亡の悪夢」
d、『罪と罰』の現代性と第七話「鬼哭」
おわりに ラスコーリニコフの「復活」と第八話「水車のある風景」
「黒澤映画《夢》における長編小説『罪と罰』のテーマ」より改題(11月6日)
先日、『黒澤明と小林秀雄――長編小説『罪と罰』で映画《夢》を解読する』という題名の著作を、来年の3月に発行する予定である旨を(お知らせ)の欄に記しました。
世界中を震撼させた福島第一原子力発電所の事故についての報道が、日本では次第に少なくなってきている状況は、「第五福竜丸」事件が起きた後の事態ときわめて似ているように私は感じています。
なぜ日本ではこの事件を契機に撮られた映画《生きものの記録》や原発事故を予言していた映画《夢》の評価が低いのかを明らかにするためにも、時間的にはかなりきついのですが、この著作をなんとか「第五福竜丸」事件が起きた3月には発行したいと願っています。
それゆえ、これからは学会での口頭発表や黒澤明研究会の『会誌』に発表した論文の概要を、「主な研究」や「映画・演劇評」のページに掲載していきたいと思いますが、最初にその構想が生まれるきっかけとなった都築政昭氏の『黒澤明の遺言「夢」』を簡単に紹介しておきたいと思います。
ホームページの項目数が増えて、全体像が見えにくくなってきましたので、「トップページ」の構成を下記のように変更しました。
地のページには、これまでと同じようにこのHP開設の趣旨、管理人のプロフィールを掲載します。
「投稿記事」のページでは、 最初にHPの(ページ構成)とこれから発行される著書や講演会などの(お知らせ)と「新着情報」、および「主な研究(活動」と「映画・演劇評」のタイトル一覧を新しい順で掲載し、その後に「著書・共著」(主題別)、および「書評・図書紹介」(掲載順)と、「年表」のタイトル一覧、およびこれまでの(お知らせ)を掲載します。
「投稿記事」のページでは、緑色の太字で表示してある記述をクリックすると該当の項目に飛べます。
(なお、本HPでは実名を原則としますので、コメントなどは現在掲載していません。)
11月23日に行われる第218回例会では、著名なチェーホフ研究者・翻訳者の中本信幸氏(神奈川大学名誉教授)の発表が行われます。
ドストエーフスキイの会の「ニュースレター」 No.119に掲載された報告者紹介とレジュメを「新着情報」に再掲しました。
例会の時間と場所、および前回例会の「傍聴記」や「事務局便り」など詳しくは、ドストエーフスキイの会のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。
先のブログ記事で坂本龍馬を主人公とした『竜馬がゆく』を読んだ時には、司馬遼太郎という作家が若い頃にはおそらく、坂本龍馬と同じ時代を生きていたドストエフスキーの文学を耽読していたのだろうという推測を記しました。
その理由は『罪と罰』と 『竜馬がゆく』における「正義の殺人」の分析が、その後の歴史状況をも見事に捉えていることです。
クリミア戦争後の思想的な混乱の時代に「非凡人の理論」を編み出して、自分には「悪人」を殺すことで世直しをすることが許されていると考えた『罪と罰』の主人公の行動と苦悩を描き出したドストエフスキーは、予審判事のポルフィーリイに「もしあなたがもっとほかの理論を考え出したら、それこそ百億倍も見苦しいことをしでかしたかもしれませんよ」と批判させていました。
八五〇万人以上の死者を出した第一次世界大戦後に、ヘルマン・ヘッセはドストエフスキーの創作を「ここ数年来ヨーロッパを内からも外からも呑み込んでいる解体と混沌を、これに先んじて映し出した予言的なものであると感じる」と記していました(拙著 『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』、刀水書房、六頁)。
実際、敗戦後の屈辱感に覆われていた中で、「大国」フランスを破った普仏戦争の栄光を強調することでドイツ人の民族意識を煽ったナチス政権下のドイツでは「非凡人の理論」は「非凡民族の理論」となって、ユダヤ人の虐殺を正当化することになったのです。
* * *
古代中国の歴史家・司馬遷が著した『史記』を愛読していた司馬氏を特徴付けるのは、情念に流されることなく冷静に歴史を見つめる広く深い「視線(まなざし)」でしょう。
太平洋戦争後の敗戦から間もない時期に司馬氏が 『竜馬がゆく』で取り上げたのは、「黒船」による武力を背景にした「開国」要求が、日本中の「志士」たちに激しい怒りを呼び起こし、「攘夷」という形で「自分の正義」を武力で訴えようとした幕末という時代でした。そのような混乱の時代には日本でも、中国の危機の時代に生まれた「尊皇攘夷」というイデオロギーに影響された武市半平太は、深い教養を持ち、人格的にも高潔であったにもかかわらず、自分の理想を実現するために「天誅」という名前の暗殺を行う「暗殺団」さえ持つようになったのです。
司馬遼太郎氏は坂本龍馬を主人公とした『竜馬がゆく』において、武市半平太と同じような危機感を持っていた龍馬が、勝海舟との出会いで国際的な広い視野を得て、比較文明論ともいえる新しい視点から行動するようになることを雄大な構想で描き出しました。咸臨丸でアメリカを訪れていた勝海舟から、アメリカの南北戦争でも、近代兵器の発達によって莫大な人的被害を出していたことを知った龍馬は、「正義の戦争」の問題点も深く認識して、自衛の必要性だけでなく戦争を防ぐための外交的な努力の必要性も唱える思想家へと成長していくのです。
しかも、『竜馬がゆく』において幕末の「攘夷運動」を詳しく描いた司馬は、その頃の「神国思想」が、「国定国史教科書の史観」となったと歴史の連続性を指摘し、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と痛烈に批判しているのです( 『竜馬がゆく』第2巻、「勝海舟」)。
注目したいのは、司馬氏が『坂の上の雲』を書くのと同時に幕末の長州藩に焦点を当てて『世に棲む日日』を描き、そこで戦前に徳富蘇峰によって描かれた吉田松陰とはまったく異なる、佐久間象山の元で学び国際的な視野を獲得していく若々しい松陰を描き出していることです。しかも、師の吉田松陰と高杉晋作や弟子筋の桂小五郎との精神的な深いつながりにも注意を喚起していた司馬氏は、「革命の第三世代」にあたる山県狂介(有朋)を、「革命集団に偶然まぎれこんだ権威と秩序の賛美者」と位置づけていることです(『世に棲む日日』、第3巻、「ともし火」)。
このことはなぜ司馬氏が『坂の上の雲』を書き終えたあとで『翔ぶが如く』を書き続けることで、明治八年の『新聞紙条例』(讒謗律)が発布されて、「およそ政府を批判する言論は、この条例の中の教唆扇動によってからめとられるか、あるいは国家顛覆論、成法誹毀(ひき)ということでひっかかるか、どちらかの目に遭った」時代から西南戦争に至る時代の問題点を浮き彫りにしようとしたかが分かるでしょう(第5巻「明治八年・東京」)。
現在の日本でもきちんと議論もされないままに、閣議で「特定秘密保護法案」が決定されましたが、この法案の問題点は徹底的に議論されるべきだと思います。
* * *
『坂の上の雲』において、日本が最終的に近代化のモデルとして選ぶことになるプロシアの「参謀本部」の問題を描くことになる司馬氏の視野の広さは、『竜馬がゆく』で新興国プロシアに言及し、『世に棲む日日』においてはアヘン戦争(1840~42)を、日本の近代化のきっかけになった戦争ときちんと位置づけていることでしょう。
拙著『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』(人文書館、2009年)では、 『竜馬がゆく』と『世に棲む日日』だけでなく、この時期を扱った『花神』などの多くの作品にも言及したために、385頁という事典なみの厚い本となりました。
司馬氏の歴史観の全体像に近づくために事項索引を作成しました。(下線部をクリックすると「著書・共著」の当該のページに飛びます)。