ここでは新版の「はじめに」と「目次」の後に、その本を書くきっかけとなった混迷の時期のロシアにもふれている初版の「あとがき」のリンク先も掲載する。
[はじめに ――「自己の謎」と「他者」]より
古代ギリシャのデルフォイの神殿には「汝自身を知れ」という神託が掲げられていたといいます。このことは一見、簡単なようにも見えますが、古代エジプトで旅人に難問を出して苦しめていたというスフィンクスの謎にも似て、意外と難しい要請のようです。(中略)
「自分とは何か」というこの問いがいっそう切実なものになってきたのは、恋愛の自由や、移動の自由だけではなく、職業の選択の自由も保証されて、自己の確立が求められるようになった近代に入ってからです。封建時代では農民の子供は農民であり、肉屋の子供は肉屋にというようにその職業は決まっていましたが、その一方で、個人の自由の増大は、大学や職業の選択、あるいは恋愛相手を決める際の悩みをも伴ったし、「現在の自分」と「なりたい自分」とのギャップも生み出すようにもなりました。
このような時代の潮流の中で、下士官から始めて、ついに皇帝にまで出世したナポレオン(一七六九~一八二一)は、個人の自由が増大した近代という時代を象徴しているような人物と言えるでしょう。そして、『赤と黒』の主人公ジュリヤンのように多くの若者がナポレオンへの強いあこがれを持つようになったのです。
名門サンクト・ペテルブルク大学の法学部で学んでいた『罪と罰』の主人公もまた、そのような一人と言えるでしょう。しかし、母親からの送金がとぎれたことで大学を退学せざるを得なくなった彼は、この小説に登場する時、まさに深いアイデンティティの危機に直面していたのです。
こうして、彼はクリミア戦争(一八五三~五六)に敗北して、それまでの価値が疑問になり、様々の犯罪も頻発するようになっていた混迷のロシアで「自分とは何か」を模索し、ついに人間を「非凡人」と「凡人」の二種類に分ける「非凡人の理論」をあみだし、高利貸しの老婆の殺害という「正義」の犯罪を犯すことになるのです。(中略)
ドストエフスキーは『罪と罰』のエピローグで、主人公の若者に自分だけが真理を知っていると思い込んだ人々が互いに殺し合いを始め、ついには地上に数名しか生き残らなかったという夢を見させています。この悪夢は第一次世界大戦だけでなく、お互いに自分の「正義」を主張してほとんど地球全域を巻き込み、五千万人もの死者を出した後にようやく終わりを告げた第二次世界大戦をも予言していたようにも思われます。混迷のロシアに生きたドストエフスキーの視線は現代の政治状況にも迫っていると言わねばなりません。(中略)
幸い近年ドストエフスキー研究は飛躍的に深まり、ロシアや西欧だけでなく日本でもすぐれた研究書が多く出版されています。また比較文明論や比較文学の分野でも最近の諸科学の成果を取り入れて新たな地平が開かれつつあります。それゆえ本書ではそれらの書物を紹介し、当時のロシアや西欧のすぐれた文学作品や思想書と比較しながら、『罪と罰』を丹念に読むことにより、近代西欧文明の様々な問題点を明らかにするとともに、新らしい〈知〉の形を模索したドストエフスキーの試みに迫りたいと思います。(後略)
目 次
はじめに――「自己の謎」と「他者」 3
第一章 アイデンティティの危機 ――第一の動機 21~35
試行者――ラスコーリニコフ 21
ヴェルテルとラスコーリニコフ 23
善良な犯罪者 25
犯罪者と名探偵 29
過渡期 31
なぜ「悪人」を殺しては、いけないのか 33
第二章 家族の絆と束縛 ――第二の動機 37~51
母からの手紙 37
妹――ドゥーニャ 39
名探偵デュパンとホームズ 43
酔っぱらい――マルメラードフ 45
受難者――ソーニャ 47
「自己」としての家族 50
第三章 「正義」の犯罪 ――第三の動機 53~72
高利貸しの老婆 53
完全犯罪の試み 54
呼び鈴の音 59
意図しなかった第二の殺人 62
謎としての自己 66
やせ馬が殺される夢 68
第四章 自己の鏡としての他者――立身出世主義の影 73~86
苦学生――ラズミーヒン 73
功利主義の思想――中年の弁護士ルージン 75
決められた世界 80
ナポレオンの形象 83
正反対の性格の奇妙な類似 85
第五章 非凡人の理論 ――第四の動機 87~104
予審判事――ポルフィーリイ 87
記憶にない論文――非凡人の思想 89
「自然淘汰」の法則 95
決して誤ることのない「良心」 97
自己の絶対化と他者 102
第六章 他者の喪失――近代的な〈知〉の批判 105~121
急がば回れ――ラズミーヒン 105
「でたらめ」の擁護――ルージンへの批判 106
「不死」の思想――『フランケンシュタイン』 109
論理の罠(わな)――他者の喪失 112
「大地主義」の理念 116
第七章 隠された「自己」――「変身」の試み 123~143
農奴の所有者 ―― スヴィドリガイロフ 123
生きていた老婆の夢――目撃者としての身体 125
弱肉強食の思想――「権力」への意志 129
スヴィドリガイロフとの対決――欲望の正当化 132
隠された「自己」――『ジーキル博士とハイド氏』 136
「超人」の思想とニヒリズム 139
第八章 他者の発見――新しい「知」の模索 145~162
流れ出る血の意味 145
「正教」の理念――ソーニャ 148
共存の構造 151
感情の力 155
民衆の英知 158
第九章 「鬼」としての他者――人類滅亡の悪夢 163~182
残された矛盾 163
権力への意志の実践――『わが闘争』 165
権力への服従――『自由からの逃走』 168
文明の衝突――「正義」の戦争 170
「鬼」としての他者――「自己」としての民族 173
「共ー知」としての良心 178
第十章 「他者」としての自然――生命の輝き 183~199
最後の謎――うっそうたる森林 183
「自然支配」の思想 184
「非凡人」思想と地球環境 188
「自然界の調和」の思想―― 多様性の意味 191
ラスコーリニコフの復活 196
注/参考文献/あとがき
ドストエフスキー関連年表/ナポレオン関連年表/人名索引
「あとがき」より。
⇒『「罪と罰」を読む―「正義」の犯罪と文明の危機』(刀水書房、1996年)
訂正
下記の箇所をお詫びして訂正いたします。
102頁後から2行目 市街→ 死骸 123頁1行目
第四部に入ってから→ 第三部の終わりの場面
書評と紹介
(ご執筆頂いた方々に、この場をお借りして深く御礼申し上げます。)
〔新版〕
書評 清家清氏『異文化交流』第3号、2000年
書評 岡村圭太氏『ドストエーフスキイ広場』、2001年
紹介 小林銀河氏 「日本人の宗教意識とドストエフスキー研究」 「スラブ・ユーラシア学の構築」研究報告集、第10号
紹介 「白バラ図書館」(HP)
〔旧版〕
書評 木下豊房氏『比較文明』第13号、1997年
書評 渡辺好明氏『ドストエーフスキイ広場』第6号、1996年
書評 石井忠厚氏『文明研究』第6号、1996年
紹介 『出版ニュース』1996年